第22節 帰り道
日が暮れてきた頃、彩乃のお母さんが帰ってきた。
そろそろお暇しようと腰を上げたが、「ぜひ晩ご飯も食べていってください」と強く引き止められ、断りきれずにすっかりご馳走になってしまった。食事はどこの料亭ですか! ってなくらいに美味かった。
夕食後、今度こそお暇を告げてお屋敷を出ると、外はもう真っ暗になっていた。
このあたりは一軒家ばかりだからだろう、うちの近所と比べてずっと暗い。
「ごめんね、拓也くん。こんな時間まで引き止めちゃって」
「いや、こっちこそ遅くまでありがとう。楽しかったよ」
「また遊びに来てくださいね! さとーさん!」
「うん。また一緒にゲームしようね。それじゃあ、お邪魔しました」
彩乃のお母さんに向かって頭を下げる。
「またいらっしゃってくださいね。今度いらっしゃるときは主人もいると思いますので」
「はい、また伺います」
仕事が長引いたらしく、結局彩乃のお父さんは帰ってこなかった。まあ、それについてはちょっとホッとしているが。
もう一度軽く頭を下げ、小早川家の人々に見送られながら家路についた。
最初の角を曲がったところで、おもむろにズボンからスマホを取り出すとメッセージの着信を示すアイコンが表示されていた。母さんか? そういや晩飯いらないって連絡するの忘れていた。
「拓也くん、待って――」
メッセージを確認しようとしたとき、背後から彩乃の声が聞こえた。
足を止め、ゆっくり振り返ると小走りで追いかけてくる。
なんか忘れ物でもしたか? スマホはひとまずジャケットのポケットに突っ込み、同時に反対側のポケットを探る。……財布はあるな。
彩乃はすぐそばまでやってくると、胸に手を当てて、少し息を整える。
「俺、なにか忘れ物でもした?」頃合いを見て尋ねると、彼女は首を振った。
「ううん、そうじゃないの。駅まで一緒に行きたいと思って」
「え? いいよ。もう暗いしさ」
「でも、少し一緒に歩きたいから……。ダメかな?」
「……じゃあ、途中までなら」
「うん」
彩乃は微笑んで、俺の隣に並んだ。
とても静かな夜だった。
通りには俺たちのほかに姿はなく、聞こえるのは時折、前方からスーッと吹き抜けていく風の音だけ。
だが、俺の心はいっぱいいっぱいで、風を涼しく感じる余裕などない。
ダメだ。二人きりだと、やっぱりメチャクチャ意識してしまう!
どうにもキスしようとしたときの彩乃の顔がちらついて、言葉が出てこない。
あの後ずっと紗南ちゃんと一緒で、すっかりうやむやになってしまった感じだけれど、彩乃はいったいどう思っているんだろうか?
彼女もまた一言も発せず、うつむき加減で歩いている。
道が暗いこともあり、表情はうかがえない。それでも気になって、彩乃のほうを何度もチラチラと見やると、不意に視線がぶつかった。どぎまぎして二人とも視線をそらす。
「あのさ……」「あのね……」今度はセリフがかぶる。
「何?」
「ううん。拓也くんから」
そう言われても、特に考えがあったわけではなかったので、口ごもってしまった。
いろんなセリフが頭の中をぐるぐる回るが、伝えたい言葉がなかなか見つからない。
言葉か。そんなものいらないんじゃないか? ここは言葉じゃなく、態度で示すべきだって気がする。幸い人通りはなく、しかもこの暗さだ。街灯の真下でもない限り、誰かが通りがかってもよくは見えないはず……。
脳内では「好機ですぞ!」と軍師たちが声援を送っていた。
よし……。
俺は腹を決めると、小さく息を吸って吐いた。気づかぬうちに固く握りしめていた拳をひらき、夜目にも白く見える彩乃のすらっとした指に手を伸ばす。
「あ……」
手を握ると、彩乃は小さく声をあげ、恥ずかしそうにうつむいた。でも、しっかりと握り返してくる。
彼女の手は温かく、とっても柔らかい。緊張しているのか、ちょっと汗ばんでいるようだった。
今の俺にはこれが精一杯――。
俺たちは互いに一言も発しないまま、ただ歩き続けた。
やがて、遠くにネオンの光が見えてきた。会話のない帰り道は、長かったような短かったような、ちょっと不思議な感覚だった。
「このあたりまででいいよ。ごめん、ずいぶん遠くまでついて来てもらっちゃって」
俺の言葉に彩乃は顔を上げ、周囲を見回した。ずっと足元ばかり見ていたので、今どのあたりを歩いているのか分かっていないらしい。
「あ、あの。もう少しだけ、一緒に……」
「いや、これ以上ついてきてもらったら、逆に俺が送り返したくなるからさ」
小さく首を振って答えると、「そう……だね」と、彩乃は名残惜しそうに手を放した。
「うん。じゃあ、また明日、学校でね」
彼女はにこやかに微笑む。
「ああ、また」
俺は手を振って大きな歩幅で歩き出す。
彩乃は姿が見えなくなるまでその場にとどまり、つないでいたその手を、バイバイと小さく振り続けていた――。
電車のドア越しに流れる景色をぼんやり眺めながら、今日の出来事を思い返す。
なんだか一日で彩乃との距離がぐっと縮まった気がする。心のどこかで「俺なんかが」と引け目を感じていたけれど、今はもうどうでもいい。複雑に考える必要なんてない。俺は彼女がたまらなく好きだってこと。
手のひらを広げ、彩乃の手の感触を確かめるみたいに見つめる。柔らかかったな……。窓ににやけた自分の顔が映っているのに気づき、反射的にポケットに手を突っ込む。スマホに触れて、LINEのことを思い出した。
メッセージは何通も来ていた。
案の定、母さんから。晩ごはんどうするの、返事は、帰る時間教えて――の連投。
あちゃー、これは帰ったら確実に文句を言われるパターンだ。
苦笑いしながらスクロールしていると、新着がポンと表示された。彩乃のアイコン。
『今日はありがとう。まだ電車の中ですか?』
「まだ電車。こっちこそご馳走になって――」と打っていると、続いてのメッセージ。
『紗南も母さんも、拓也くんのことをすごく素敵な人だって言っています』
「まだ電車。こっちこそご馳走になってありがとう。今日一日とても楽しかった」――送信。
既読がつくやいなや、すぐに次。
『紗南がまた一緒に遊びたいってせがんで困っています(笑)』
「また遊ぼうって伝えて」
『うん。伝えます。わたしも、いつもとは違ういろんな拓也くんの表情が見られて嬉しかったです。これからも、いろんな面を知りたいな』
「俺もだよ。今日はレアな表情が見られて楽しかった」
『まだまだ、お互い知らないことがいっぱいだものね。わたしのことも、もっと知ってくれたらって思います』
やべー、にやけが止まらん。
『あ、父さんがちょうど今帰ってきました。拓也くんに会えなかったことをすごく残念がっています。次に来てくれたときこそ男同士で語り合いたいって』
「次はぜひ」と返しつつ、窓に映る俺の顔は一瞬で真顔になっていた。
こ、こわい。
『お父さんが拓也くんのことを教えてほしいって。またあとでLINEするね』
「うん、またあとで」――送信。
送信した瞬間に既読がついて、彩乃のLINEはいったん止まる。
ふう、と息を吐き、途中までしか見てなかった残りのLINEも確認していく。
夏希の名前が目に入った。
あいつも送ってきていたのか。どんな言い訳だよ、とタップする。
そこにあったのは、たった三文字。
『ごめん』
それだけだった――。




