第13節 彩乃の危機
B組の教室に着くと、掃除はすでに終わったらしく、もぬけの殻になっていた。さっき来たときは後ろに下げられていた机も、今は本来の位置に整然と並んでいる。
――おかしいな。ここまで来る途中で彩乃とすれ違わなかった。校門までのルートはひとつしかないのに。
もう帰ったのか? せめて席が分かれば荷物で判断できるんだが。
教壇に上がってみても座席表は見当たらない。代わりに、見覚えのある手提げ袋が目に入った。それが掛けられている席(夏希の席)に腰を下ろす。
体育のときのダメージもまだ残っているし、少し待ってみるか。
机の中を覗くと、教科書とノートが溢れんばかりに詰め込まれていた。筆記用具まで残っている。
あいつ、家で勉強する気ゼロだな。
イタズラ心がむくむくと湧いた。雪崩がおきないよう慎重にノートを一冊抜き取る。前に教科書を貸したとき落書きだらけにされたからな。これは復讐のチャンスだ。
ページをめくると、最初の数ページだけ授業の記録があるが、あとはバスケのフォーメーションや下手くそなネコの落書きばかり。さすが赤点の女王といったところだ。
シャーペンを取り出し、真っ白なページに入魂のイラストを描き残す。
ふふふ。あいつがこれを見たときの顔が目に浮かぶぜ。
さて、と。残念だが彩乃はもう帰っているようだ。送ったLINEも未読のままだし。
帰るか。ノートを元に戻し、ゆっくり椅子から立ち上がる。
そこで気がついた。教室にゴミ箱がない。
ゴミ捨てに行ったのか? でも、時間かかりすぎだろ。
なんとなく気になり、校舎裏のゴミ捨て場へ向かった。
ゴミ捨て場は職員室から離れた場所にある。証拠隠滅に便利なせいか、タバコを吸いに来る生徒もいるらしい。たまに教師も巡回しているが、今は人気がなくひっそりとしていた。
そこに残されていたのは「2-B」とマジックで書かれた空のゴミ箱だけ。やはり彩乃はここに来たんだ。だが、彼女は途中で放り出すような子じゃない。どこへ行った?
辺りを探していると、どこからか男女の言い争う声が聞こえてきた。
彩乃か?
声のする方へ急ぐ。
――果たして、それは彩乃だった。彼女は軽薄そうな男に壁ドンで迫られていた。
センター分けの男の顔には見覚えがある。いつ見ても違う女の子を連れて歩いてる、たしかD組のやつだ。真田だったか? 去年は隣のクラスだった。
「だから、何度も言っているように、あなたとはお付き合いできません。わたしは佐藤くんとお付き合いしているんです」
「お情けで付き合ってるんだろ? 大丈夫。あんなやつ、俺がこいつで黙らせてやるからさ」
真田は拳を突き出し、ドヤ顔を決める。
「それは新聞部の人たちが勝手に書いたことです。本当はわたしのほうからお願いして、お付き合いしてもらっているんですから」
「またまた、冗談きついって」
彩乃の真剣な言葉も、軽く笑い飛ばされた。どうやら方便だと思われたらしい。
「俺と付き合ったほうが絶対楽しいって! な? 騙されたと思って――」
やつは馴れ馴れしく彩乃の肩に手をかける。
「だいたい、彩乃ちゃんがあんなつまんねーやつと付き合うなんてもったいないって!」
その言葉を耳にした瞬間、彩乃は眉を吊り上げ、怒りを露わにした。
「あんなやつなんて言わないで! 佐藤くんは、あなたなんかよりずっと素敵な人です! わたしなんかにはもったいないくらいなんだから!」
その剣幕に、真田は一瞬ひるむ。彩乃はすかさず肩に置かれた手を払い、彼を振り切って歩き出す。
「おい、コラ。待てよ!」
プライドを傷つけられたようで、豹変した声色でやつは叫び、彩乃の腕を掴んだ。彼女の顔が苦痛で歪む。
「放してください!」
その光景に、俺の頭は怒りで真っ白になった。拳を固く握りしめ、全力で駆けだす。
次の瞬間、彩乃がやつの腕を巻き取り、体をひるがえす。真田の体はふわりと浮き上がり、鋭く回転して背中から地面に叩きつけられた。
何が起こったのかわからず、やつは目を白黒させる。
だがすぐに投げ飛ばされたと理解し、怒りで顔を真っ赤にして再び飛びかかる。
結果は同じだ。彩乃は伸ばされた手を身を引いて躱し、腕を掴むと勢いを利用して反対側へ投げ飛ばす。ドン、と地面が鳴った。
「……ふざけやがってっ!」
真田は腰をさすりながら立ち上がる。
そして、ようやく俺の存在に気づいた。彩乃と俺を交互に睨みつける。
だがそれ以上、向かってはこなかった。やつは捨て台詞を吐くと、反対方向へ逃げ去った。
「大丈夫だった?」
俺が駆け寄って声をかけると、彩乃はビクッと体を震わせ、引きつった顔で振り向いた。どうやら俺に気づいてなかったらしい。
「ご、ごめん、驚かせるつもりは」
「ううん。大丈夫だよ」
彼女は穏やかな笑顔を取り戻すと、乱れた着衣を正す。
「それにしても、すごかったね。何か武道でもやっているの?」
「そ、そんな大層なものじゃないよ。中学のとき、授業で合気道をやっていただけだから。授業以外で人を投げたのはさっきのが初めて」
「へぇ~。そんな授業があったんだ。めずらしいね」
「うん、女の子も自分の身は守れるべきだって、創立者の鶴の一声でできたんだって」
私立だろうな。そんな学校聞いたことないし。
しかし、俺ってば、なんの役にも立ってない。彼女がピンチだったってのに。情けねー。
ガックリと肩を落とす俺を見て、「どうしたの?」と彩乃が首を傾げる。
「俺、全然役に立てなかったなって」
思わず本音が漏れた。
「ううん、そんなことない!」
彩乃は声をあげる。
「だって。今、拓也くんがそばにいてくれて、本当に心強いもの。もし一人だったら仕返しされちゃうんじゃないかって、すごく怖かったはずだから!」
彼女は俺の手を取る。その手はかすかに震えていた。
バカか俺は。あんな目にあって怖くないわけないじゃないか。
「任せて。またさっきのやつが来ても、俺が追い払うから!」
「うん。頼りにしています」
そう微笑む彼女のまなざしは、俺への信頼で満ちていた。
か、可愛い……。顔が上気する。もう、なんかメチャクチャ照れ照れだ。
「でも、どうしてここにいるってわかったの?」
「夏希から聞いたんだ。たぶんここじゃないかってね。今回ばかりは感謝しないと」
「そっか、なっちゃんが……」
彩乃は物憂げな表情を浮かべた。
「どうかした?」
「ううん。なんでも――」
そう言いかけて口をつぐんだ。逡巡し、意を決したように口を開く。
「ねえ、拓也くん。お昼休みのなっちゃんとの賭けのことなんだけれど……。やっぱり、取りやめにはできないのかな?」
なんだ、そんなことを気に病んでいたのか。真面目な彼女らしい。
「別に気にしなくても大丈夫だよ。賭けに勝ってもあいつに何もさせるつもりはないから。あんな賭けなんて気にせずあいつのことを応援してやって」
「え?」
彩乃は片眉が上がる。
「あいつ、超が付くほどの負けず嫌いだからさ。あんなバカバカしい賭けでも、モチベーションの足しになるかなって思って乗っただけだから」
「そうだったんだ」
彩乃は心底ほっとしたように吐息をついた。
「わたしって、ホントにダメだなあ。冗談の区別もつかないんだから。拓也くんがなっちゃんにひどいことさせるわけないのに――」
彩乃はコツンと自分の頭を叩く。
「拓也くんなりの激励だったんだね」
い、言えねえ。本当は、夏希への罰ゲームをすでに100個はリストアップしているなんて。




