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十一章「きおくのきおく」

十一章「きおくのきおく」


 城街に鍵倉駿とともに立てた小さな「ホテル」兼「喫茶店」。


 ホテルの名前は「玲凛れいりん


 喫茶店の名前は「類雨るいう


 類雨の一角に大きな机を広げて、建築の図面引きに使っている。


 類雨も玲凛も、住宅街にある、特にアクセスがいい場所ではないのだが、そんなに高くない宿泊料に加えて、類雨に関しては、近くの高校生や大学生が、勉強に訪れて一日利用の使用料を払ってくれるおかげで、清流と駿は、仕事をしつつ生活を送れている。


 清流は玲凛のほど近いところに、小さな部屋を借りていた。


 狭い部屋だったが、仕事場の類雨が広いから、自室に何も置かなくて済む。食事も、学生たちが類雨のキッチンを借りて料理するものをつまませてもらって、自炊する必要はほとんどなかった。


 いつも友達と一緒に仕事をする。楽しい。大学時代の友達が会いに来る時も、清流は喜んで玲凛の部屋を貸した。


 とは言いつつ借金の額もまあまあなのだが、自分が思った通りに建築して、仲間とともに空間を創造するのは、とても楽しいことだった。


 飯森不宇嘉いいもりふうかは、生粋の城街育ちで、第二高等学校という、かなり名の知れた公立高校の生徒だった。


 第二高等学校は、玲凛と類雨がある「幼儀おさなぎ」という場所に位置している。生徒たちは「幼っ子」とか「幼馴染」というように呼ばれているが、不宇嘉はどちらかというと「幼っ子」の方がしっくりくると、清流に言っていた。


 第二高等学校は広い城街の西のはずれに位置していて、並外れた進学校なのに、どこか間の抜けたところがあった。


 不宇嘉はいつも何人かの友達を連れて類雨に入る。


「こんにゃー」


 不宇嘉はモデルのように手足が長い。毎回こういう風に挨拶して、予約してある席に着く。


「こんにゃー」「こんにゃー」


 誰にも関心がないと言われても驚かないくらいポーカーフェイスな渡風三凪とかぜみなぎと、「別に美容院でセットなんかしなくても髪がきれいなのは当たり前ですよ、高校生なので」と言いたげな古橋神子ふるはしかみこ


 三人の幼っ子は口頭試問前の二週間とエッセイの締め切り間際三日間に、午後から夜にかけて、集中的にテクストの分析を行い、エッセイと口頭試問に備える。


 三人は別に第二高等学校の面子の中では特段優秀というわけではない。高等学校の座学の日は、学校が終わるとすぐに三人で連れ立って幼儀を出て、電車で少し時間がかかる新府まで行く。


 だからむしろ、類雨でカリカリとエッセイを手書きしている方が、珍しいというもの。


 他の高等学校でどうなのかはわからないが、幼っ子たちは口頭試問でボロボロにされてもすぐに立ち直る。仲間がいるからだった。テストで百点を取ることなんて、幼っ子にしてみれば御茶の子さいさい。だから第二高等学校では、試験はエッセイと口頭試問によって行われる。だから…………学科に関しては第一高等学校に著しく遅れを取っているとも言われる。


 幼儀の大学は「系附」と呼ばれている。幼っ子たちは城神大学には流れず、そのまま地元の系附に通うことが多い。だから、ほとんどの場合、第一と第二の頂上決戦は、大学を離れた実社会の場に持ち越しとなる。


 清流は、不宇嘉の名前を、会員カードの記載事項を見て知った。お互い自己紹介をしたことはないし、清流の名前を不宇嘉が知っていると、考えたことはなかった。


 でも、例えば行きつけのファッションブランドの店員を認識しているのと同じレベルで、不宇嘉は清流のことを知ってはいた。


 背が高い不宇嘉は、清流とほとんど目線の高さが一緒で、目を合わせる度にそのことにびっくりするのが、どこか女性差別的発想な気がして、清流は少し申し訳なかった。


 三凪と神子の分も、併せて会計するために、トレーに置かれる数枚の紙幣。


「ありがとね」


 清流は、低くくぐもった声で、お釣りを渡した。


「図面描いてますね」


「そうだね。仕事だから」


「ここも、お兄さんが図面を描いたんですか?」


「友達と一緒に考えたんだ」


 それが幾分か気取っていたのかもしれない。不宇嘉は、恥ずかしそうに笑った。年上の男性が思いの外子供っぽいところに、不宇嘉はむずむずする。


「その制服、すごくカジュアルだけど、昔からそうなのかな?」


 不宇嘉は心底驚いたという風に、一瞬目を見開いて(というのも、第二高校の制服は人気で、それに一度は袖を通したいと思う学生は多かったから)、清流がどこから来たのだろうと不宇嘉はいぶかしんだ。


「昔から? …………わからにゃい」


 にゃい? 一瞬時間が止まった。


「高校が近いの?」


「すぐそこです」


 後ろにいた三凪と神子もうなずいた。それには微塵もナンバースクールの名前を誇るところがなくて、無知な清流を傷つけなかった。系附の大学生をターゲットにしようとしていたのに、類雨に居つくのは幼っ子。類雨の一日利用プランはそんなに安くはない。幼っ子たちはお小遣いをたくさんもらっているらしい。


「でも類雨、いい店ですね。流行ってるけど、もっと流行ったら、行けなくなっちゃうかな?」


「予約してくれれば大丈夫」


「ありがとう。友達も、喜んでいるから」


 にかっと笑って、手を振った。年齢は七歳も離れているのに、歳の差を感じさせない不宇嘉のふるまいに、清流は懐かしいものを感じた。


***


 幼儀には広場が三か所にある。単純に「幼儀の広場①②③」と呼ばれている。いつもいくつかの屋台やキッチンカーが出ていて、屋根のある東屋がいくつもあって、住人は時間のある時、音楽を聴きながら(例えば)ケバブを食べるのが粋な生き方だと思っていた。


 広場は公園ではなく、東屋は公民館ではない。それは空間であり建築だった。


 清流と駿は、「幼儀の広場③」の中に小さなギャラリーを作る仕事を請け負って、今、それに取り掛かっているところだった。


 半地下にするのが、一つの方策だった。ガラスを四方にはめる。入る日差しを狭い庇で遮り、脊柱のように真ん中に太い柱を立てて、半分だけ盛り上がった屋上に、小さな段差や階段を作って、幾何的に遊びを挿入する。


 清流と駿は玲凛と類雨を代わる代わる切り盛りして、「幼儀の広場③」の工事に臨んだ。


 竪穴式住居に着想を得たそのギャラリーは「きざはし」という名前がつけられた。屋上に上がる階段が象徴的なデザインだったからだ。


 ギャラリーの屋上は一種の遊具だった。テニスコートくらいある平面に起伏があって、子供がそこを秘密基地みたいにしていた。ちょっとした壁で区画されている場所があるのも、子供心をくすぐる。


 ギャラリーができて初めての展覧会は、書道に関連するものだった。


 気になって見に来た清流は、そこで不宇嘉の作品を目にした。


 あの飄々として、なおかつ生真面目な不宇嘉が、こんな技を持っているなんて、嫉妬してしまいたくなる。


「上手いですよねえ」


「ええ、本当に。惚れ惚れしてしまうというか、悔しいというか」


「わかります。都原さんは、図面を描かれるんですから、字もお綺麗なのでは?」


 清流は、第二高等学校の教師だという男性に話しかけられた。


「まさか。ミミズののたくったような…………ええ、ええ。下手なものです」


「飯森不宇嘉は、普通の高校生です。でも、化けるのも、普通の高校生です」


「よくうちの喫茶店に来ます」


「幼っ子三人で」


「ええ、そうです」


「渡風と神子も、一筋縄ではいきません」


「みたいですね」


 類雨に帰ると、やはり第二高等学校の三人が、コーヒーを飲みながら議論を交わしていた。神子が手元のメモに素早く議論の要点を書きだしていく。


 一つのテクストを吟味に吟味を重ねて読解する。発展的な議論もツリーで保存する。参考文献もできる限り集める。そして関連する言説を整理し、そこに新しいアイデアを(もしあれば)付け足していく。


 金平糖を十二粒。それにクッキーをつけて、サービスする。


「広場③のギャラリーに、君の書が飾られていた」


「うん。私、字が上手」


「そうだね。すごいと思うよ」


「よく生きることが、私のテーマだから。たしなめるものはたしなんでおきたい。でもにゃあ、私は別に字を習わない」


「そういうものかね」


「金平糖ありがとうございます」


 神子がカリッと金平糖を噛んだ。


 類雨が一階に入るビルの前を、車が何台か連なって通り過ぎていった。車が引き連れてきた雨が、だんだん強くなっていって、日が落ちる頃には、誰も外に出たいなんて思わなかった。


 神子が親に車を出してくれるように電話した。


 仕事の関係で、しばらく時間がかかるということだったので、清流はキッチンを使ってシチューとトマトソースのパスタを作り始めた。


「ああ、ああ、ああ、ああ。すごい雨だ」


 そう言って駿が出先から帰ってきた。


「何かご飯ある?」


「シチューとパスタ。いつもの幼っ子が雨で迎えを待っているんだ。それまでの時間繋ぎ」


「おけ。ちょっとシャワー浴びて来るよ」


 店の表のガラス張りの窓に、雨が吹きつけていた。


 ガラスに付着した雨粒が、ちょうど点灯した街路灯の明かりをゆがめていた。遠近感が崩れるくらい闇は濃く、逆に類雨の中は温かく、黒を背景にしたガラスは、もう一つ類雨の空間を映し出していた。


 不宇嘉は、それと知られないように、ガラスに映る清流を見ていた。でも、清流も同じようにガラスに映る不宇嘉を見ていたから、ちょうどガラスの表面で、二人の視線が交わされた。


 不宇嘉はくすっと笑って視線を外した。見つめていた時間はそんなに長くはなかったが、目を外して、またそれから清流の方に目をやると、清流もまた同じタイミングで、視線をよこしていた。


 からんと、宿泊客が玲凛のベルを鳴らした。清流ははっとおもてを上げると、新しいタオルを引き出しから出すと、宿泊客を迎えた。


***


「お会計は四五〇〇円です」


「ご飯代は含まれていますか?」


「いいや。よく来てもらってるし、僕と鍵倉の食事でもあるから、賄いを食べたようなものだよ。気にしないで」


「じゃあ、五千円。お釣りはいらないです」


「ありがとう。じゃあ、また来てね」


 幼っ子たちはそれぞれペコリと会釈して、神子の親の車に乗った。もう雨足は衰えていて、ちらちらと玲凛のベルが鳴り、宿泊客が遅れて乗りつけてくる。今日は駿が夜勤の日で、清流は簡単に皿を洗い、図面引きのテーブルを片づけると、帰宅する時間だった。


「鍵倉くん。それじゃあ、また明日」


 駿は何も言わず、でも極上の笑顔で清流を見送った。


 静かな住宅街に、雨がしとしとと幕を張る。足元の水が、曲がり角で出くわす人が誰かを伝えてくれている気がした。清流が少し速度を落として、角を曲がる前で止まった。


 でも、その角からは誰も出てこなかった。


 角を曲がると遠くに背の高い女性の後ろ姿があった。傘を差しているけれど、それが不宇嘉であることは間違えようがなかった。


 清流は、雨が止んでほしいと人生で初めて思った。確かめたかったし、なぜ想像していた位置に不宇嘉がいなかったのか知りたくもあった。


 傾けた傘が閉じられて、それだけではなく、不宇嘉は後ろを振り向いた。長い髪が背中を斜めに横切るのを、清流はくっきりと目に焼きつけた。


 不宇嘉は手を振った。もう随分遅い時間だ。


「やあ」


 清流は四歩歩みを進めた後、声をかけた。


「どうして? 帰ったんじゃなかったの?」


 不宇嘉は唐様の傘の水を切ってまとめた。風が通り、空気は清く澄み渡っていた。


 とても大きな月が、雲間から顔をのぞかせた。月は青く縁どられ、印刻された模様が銀色にきらめいていた。月が光の帯を下ろした。


 不宇嘉は制服を着ていた。襟元の金具が金色に光っていた。持ち物は傘だけだった。月と同じ色の肌が、うっとりするほどの肌理を誇っていた。まつげは遠くから見ても長い様子がわかる。


「姉のことですか?」


 その声は、はっきりとは判別できなかったが、確かに「違う」声だった。女性の印象は化粧の一筆で変わる。清流は揺らがされた。


「姉…………?」


「いいです。姉は太陽で、妹は月なんです。今日は月の日だから、少し浮かれてしまって」


 言葉の静謐さとは異なって、脂の乗った唇が、ゆったりとカーブを描いていた。


 そこでは「同じ」人なのか「違う」人なのかは問題にはならなかった。一人の女の子が雨上がりの夜道を歩いていて、知り合いだと思って声をかけただけ。それだけでも、清流は前のめりになってしまう。


 名前を聞くこともできなかったし、うまくラベルをつけることもできなかった。


 コツコツとヒールを叩く音がして、後ろから来た女性が横を通り過ぎた。清流に一瞥もくれず、ヒールの音は遠ざかっていった。


「ふふっ。あはあ」


 イヤリング。そんな装飾をつけていたかどうか、清流は思い出せなかった。


 二重人格。統合失調症。境界性人格障害。どの病名も説明にはなりそうだった。でも、「本当に」姉妹であることを否定する材料は常識しかなかった。なんとも頼りない。特異な状況は新しい理解の枠組みを求めている。


「私に興味がある?」


「たぶん」


「どうして? 私が高校生だから?」


「高校生というものがどういうものか、僕にはわからない。でも、すごく楽しそうにしているから」


「姉が?」


「そう」


「あは、アはあ。そっか。高校生がどういうものか、知りたいんだ」


「それとはちょっとだけ違う。君は何だ?」


「人」


 清流は絶句してしまった。こんな特別な人がいるのか。不宇嘉の振り撒く外界への影響力は、その現象としての平静よりずっと「神的」ですらあった。


 覗き込まれて串刺しにされた清流は、一歩も動くことができなかった。


 過ぎ去った雨が暖かい風を運んできた。耳のイヤリングがチリチリと音を立てた。


 清流は、その時一瞬でも、都会に生きる人を軽蔑したことを悔やんだ。何の苦労もなく、何の葛藤もなく、のうのうと都市の機構の中に生かされている。そう思っていたことを強く恥じ入った。でも「今」そう感じるのには、悪態をつきたくもあった。


 制服に身を包んだ「妹」は、触れがたいほど「人間的」だった。肉体があり言葉を介して情報を伝える。でもその服の下で、生の肉が詰め込まれていることを、清流は到底信じられなかった。生物としての人間とは違う。人としての人間が、果たしてこういうものだったのか…………。


 姉妹という説明を受け入れられはしなかった。でも、言われてみればいつもの不宇嘉ではないような気もする。それは夜に月下に立つ女性が、特別美しいからかもしれない。そして「妹」は、燻や妃梅のように、清流の隣にいるのではなく、実際には近い距離を裏切って、絶対に手が届かない場所にいることがわかる。決して彼女の心に到達することなく、いわば現象として、徹頭徹尾立ち現れていたのだ。


 答えを探すのがばかばかしい。そう思って顔を上げたら、そこに不宇嘉の痕跡一つとして残っていなかった。


***


 次の日の夕方、また幼っ子たちはわいわいと席をにぎわした。不宇嘉がいたはずの場所には、見覚えのない女の子が場所を取っていた。三凪と神子もいなかった。


 首をかしげて、不宇嘉の存在を確かめようと、清流は幼儀の広場③に足を運んだ。もうそのギャラリーには、高校生の書道の筆跡はなく、代わりに近くの高校と大学の美術部の活動が展示されていた。


 その時から、記憶一枚一枚の不宇嘉の映像が消えていった。どうして書道の展覧会に来たのかも、記憶することを記憶することも許されていないみたいに、理由を考えるとぽかんとしてしまう。


 名前が消え、顔が消え、存在が消えた。そしてその場所に新しい幼っ子が取って替わった。

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