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十章「ああ私、言葉には興味なかったんだ」

十章「ああ私、言葉には興味なかったんだ」


 イギリスの田園風景は、私、朝永燻にとっては忌むべきものなのかもしれない。イギリスには昔、貴族がいて、広大な荘園を治めていた。貴族の建物を今でも使っているのが、びっくりするほどイギリスらしいけど。まあいいわ。


 ダイニングホールでは古き良きスタイルの会食が行われていて、私は、女子としてはあるまじきスピードで食事を終え、テラスに出て一服している。


 こちらに顔を向けて、「気が合うわね」と自信過剰な笑みを浮かべてくる、忌々しくも私より二十センチくらい背の高い金髪の女に、私は一瞥もくれなかった。


「やあ、最近は黒髪も珍しくないけど、どこから来たの?」


 男の子が一人、ずけずけものを言っているけど、英語の文法からすると、


「綺麗な黒髪ですね。ご出身は?」の方が訳としては正しいのかもしれない。知らんけど。


「東アジア」


「それはわかるんだよ。中国か韓国か日本か。どれだっつーの」


「それ間違えると結構印象悪いわよ」


「オーケーオーケー。わかった。レディ、どちらからいらっしゃったんですか?」


「秘密。ほら、後ろにお相手がいるわよ」


「後ろ?」


 女の子が、声をかけてきた男子を引きずって、フェードアウトさせた。私は、そういう男の子を大切にしないから、運がないのかもしれない。リップサービスじゃないけど、少しくらい優しくしてあげたほうが、株も上がる?


「タバコ吸われるんですね。朝永さん」


「知らなかった?」


「知っていました。『なんなんだあいつ。今時タバコで差異化かよ』と男子が口をそろえて言っているものですから」


「ちょっと、男子の口を借りて悪口を言うのはやめて」


「失礼、つい。正直が過ぎました」


「クララ、弱い者いじめはやめて」


「朝永さん。いじめられっ子というのは、高潔なものです。悔しいですが、誰もあなたにはなれません」


 クララは、そう言うと安いタバコに火をつけた。


「こういうのなんて言うか知っている?」


「こういうの?」


「都会っ子たちはね、小さい頃学校でこういうアクティビティをするの。林間学校」


「輪姦学校? さすがにそこまでは」


 と言いつつクララも笑みが堪えられなかったみたいだ。


「自然を楽しみましょうって」


「自然に姦淫し(愉しみ)ましょう?」


「クララ、あなたね。悪意を込めるのもいい加減にしなさい」


「失礼失礼、処女のくせに×××な朝永さんには、これくらいじゃないと太刀打ちできないなんて、思ったりして」


 私は、タバコの煙を深く吸って、煙を遠くまで吐き出した。手摺で火を消して、裏庭にポイと吸い殻を捨てた。


 クララは私に哲学の勉強会の予定を伝えるためだけに私を探していたみたいだった。さっさと本題に入らないところが、やっぱり好感が持てる。私は、こういうの楽しくないわけではない。


 貴族の建物から出て、私は哲学科のある講義棟の、研究室に足を運んだ。


 最後に来たのが私だったみたいで、数人の同学が話しているところを、扉を開けて邪魔をしてしまったみたいだった。


「朝永さん。時間通りです」


「では、問題ありませんね」


「時間通りというのは、とても問題ではないかと思います」


「それは失礼しました。タバコを吸っていたので」


 教授は顔をしかめて、口元をひきつらせた。


「美人なのに」


 ぼそっと同学がこぼした。


「ありがとう」


 それでは、と教授はテクストを開いた。


 私は、いくつかのコメントをするほかは、特別なことは何もしなかった。議論は局所的に白熱していたし、私はその白熱した議論を聴きながら、別のことを考えていた。


 同学がちらちらと私のことを見る。


 私は、これみよがしに、ではないけれど、用意がいいでしょと言いたげに、水筒から温かい紅茶を出して飲んだ。


 教授はあぜんとしていたけれど、「すみません。薬の副作用で、喉が渇くもので」と言ってやった。薬の副作用? 何のかは知らん。


 建物の中で数時間が経つ間に、しとしとと秋雨が降り始めた。


 短い庇の下で、扉を背にしてタバコを吸っていたら、傘を立てかけてくれた。エアという女の子。中流階級出身だと、自分で自己紹介してくれた。私の浅薄なイギリスにおける命名法の知識だと、エアは男性のもののような気がする。でも、もしかしたら「悠希(ちゃん/くん)」のように、どちらでも使う名前なのかもしれない。


「燻さんは、とても気品があっていいですね」


「そんなことありません」


 私は女にもモテるらしい。


「ロンドンが懐かしいと思いませんか?」


 にこにこしているからわからなかったけれど、そういう口ぶりは「共産党員的」だった。資本主義によって打ち立てられた快適さの中に生きながら、自分を取り巻く環境を否定する。それは親を弾劾する子供さながらだった。権威にたてつくことは、権威そのものの堅牢さが必須項目だ。エアのその天真爛漫な目が、何に基づいているのか、私ははっきりさせたいと思ったが、不愉快にもうまい英単語が思いつかなかった。


「スタイリッシュな生活が好み?」


「街が好き」


「城街もいいところよ」


「城街?」


「キャッスル・シティ」


「さぞやお金がかかっていることでしょうね。日本の人は、知的には大したことがないのに、すさまじい文明を打ち立てる」


「文明なんてそんな大それたものじゃないわ。高々千メートルのビルを建てただけで、満足しているわけじゃないの。そうね。偉大な人が作ったイギリスとは違って、歴史に名を残さないことが、日本人の美徳なのよ」


 私はまたライターでタバコに火をつけた。別にイライラしているわけじゃない。少しリラックスしたいと思うから、タバコの本数が増える。…………それは、イライラしているということ? 確かに私は今、フィルターを噛みつぶさないように神経を使っている。


 この大学は、とても優秀な人材が集まっているけれど、どこか鷹揚なところがあって、私は、そこが気に入っている。


「みんな燻さんのことが気になるみたい。おしゃれだから」


「普通よ。普通」


「赤いコートで現れたかと思えば、マニキュアを指に綺麗に塗ったり」


「よく見ているわ」


「そうでもない。でもエディンバラの愚鈍な男子には、燻さんが美しいことはわかっても、燻さんが美しい理由を正確に述べることなんてできやしない」


 愚鈍という言葉は、随分低く響いた。


「エア、あなた、女騎士さながら、一生操を立てて生きるつもり?」


「そんな難しいことできないよ」


 エアは心底可笑しかったのか、声を出して笑った。


 その時、私はエアのことをよく知らなかったから、後から知って意外だった。エアは彼氏という立ち位置の人が何人もいたし、密通する恋愛を好んでいた。その垢ぬけた、優等生面からは想像できないほど多くの修羅場をくぐっていたらしい。ちょっとファンシーな格好で、エアは印象操作をしていたのかもしれない。


 マッキントッシュのレインコートを着た男子学生が、エアと私を一瞥した。エアは、自分のことを私より美人だと思っているみたいだが、私も自分のことをエアより美人だと思っていた。


 エアはその男子学生に手を振った。向こうは会釈して、微笑んだ。私は、自分で言うのもなんだけれど、男子には冷たいので、ぷいと、そっぽをむいてやることすらしなかった。


 だからつまり、人というのは美醜ではなくて、愛嬌なのだろう。「女というのはとどのつまり愛嬌なのだ」とは、私は恐ろしくて言葉には出せない。エアがモテるわけだ。


 このイギリスのド田舎で、毒にも薬にもならない文学や哲学を学んでも、私にとってはたぶん、自慢のタネの一つくらいしかならない。


 イギリスの風情や道徳を、ひけらかすように話したり書いたりして、世界の辺境における知識人を気取る。まあ、それも悪くないわね。


 こき下ろすだけこき下ろしたいけど、私の小さい頃の記憶は、意外なことにイギリスに対する好印象で埋め尽くされている。それは私の、英語に対する親しみから醸成されたものだ。


 だから、イギリス特有の哲学的な議論は、どれも私の知っている英語と違って、息が詰まるものだった。文学は、それなりに読めたけれど、日本で受けた均質な教育の影響で、私の中では深まることがなかった。私は、イギリスの音楽は嫌いだった。


 教授とのチュートリアルでは、いつも最後には褒められた。正確にテクストを読むことは、なかなか難しかったけれど、私は最後にいつも自分なりの結論を提示することにしていた。それらのモチーフは、全て城街の風景だった。


 教授はおおむね城街の生活について理解してくれたし、私は一つ一つ細かい情景を言葉にすることで、思い出を地固めし、記憶に焼き付けた。


 その時ごとに、清流のことを思い出した。


 どうして彼が特別だったのか、それは今でもよくわからない。


 田舎者だったけど一人前だった。


 人が一人生きると想像する時に、真っ先に彼のことを想像した。


 エディンバラにいる時に小論文を書いた。言葉に関するそのエッセイは、「存在に対する言葉の影響」というタイトルで、イギリスの言語哲学の伝統を少しばかり汲み取った試論だった。


 私は、記憶が言葉だということには、常に反対する立場を取っていた。それと同時に、語彙がその人の為人だということにも、強く反対していた。でも、タイトルはそれとは逆に、議論がしやすいように工夫した。


 たとえ言葉が人間の八割九割を占めていたとしても、残りの一割が、実際の人間を語るのだと書いた。でも私には、その一割が「なんなのか」はっきりしなかった。だから、結局そのエッセイは、悔しいことに私の持論とは異なる結論で締めくくられてしまった。


 学部生の書くエッセイなんて、大したことないと思うでしょう。私も、そう思う。


 強迫的に、言葉が嫌いになった。英語を話したくなくなった。本も読みたくない。人と話したくない。


 難解な表現で語られるものがことごとくわからなくなった。


 コンテクストが崩壊して、表面的な言葉だけが私の手元に残った。


 私のコミュニケーション・スタイルは変わらなかったけれど、他の人の発言を理解することへの能力値の割り振りは、著しく低下した。単に耳が遠くなったとか、そういうことではない。念のため。


***


 だましだまし大学に通って、帰国する段取りをつけてから一度、ロンドンにいる父母の元に身を寄せた。


 それまで気を張っていたからか、そこでしばらく臥せっていた。何の楽しみも感じられない。私は夏目漱石か?


「留学どやった?」


 父は私に聞いた。


「私の知に対する懐疑は、著しく高まったわ。それも、デカルト的な懐疑ではなくて、反知性主義的な、単純化の道を歩んでいるみたい」


「今いる地点に満足していないなら、それでいいやんか」


「そうともいう」


 私は自分の今の立ち位置が心底気に入っていた。何かのシステムから別のシステムに移行する時の、むずむずする心身の感覚。それは開放と閉鎖の系統をスイッチするのではなく、移ろいゆく人間関係の親しさと疎ましさの漠然としたグラデーション。私は、一時期流行ったスペクトラムという概念を、かなり懐疑的に見ている(理解できない)ので、今の自分をうまく説明する概念を持たないのだけれど、それも私個人としては好ましかった。


 こういうのは、「危険」なのだろうか。私という女が一人、知を失ったところで、世界はその形を変えることはない。御同学をこっそり裏切ったことに、私はほくそ笑んだ。多くのものを与えられて、それを世界に還元しないなんて、私は大した女だと思う。


 でもだからといって凡庸な男の夜の慰みものになるのは、我慢ならなかった。私は何がしたいのだろう。


「しばらく、ロンドンにいたらどうや?」


 父は私に聞いた。「友達にも挨拶したらいいやろがい」


「エディンバラでは格好がつかない」


「そんなことない。生きているだけで、その個体は生態系のニッチを、必然的に埋めてるんやから」


「でも、いいニッチと悪いニッチがある」


「良し悪しは、また時間と場所で変わるからな」


「それはそう」


「つまり、人生に勝ち続けようなんて、そうは問屋が卸さへんってわけや」


「お父さんの関西弁、うっざ」


 私は、関西弁が嫌いだ。品がよくて、親しみやすく、泣きたい時に笑かしてくる。


 私が、小さい頃に過ごしたロンドンのマンションの自室には、まだその時私が読んでいた本が書架に刺さっていた。


 生意気にも古典が並んでいて、確かに私はそれぞれの本のあらすじをなんとなく覚えていた。


 私が幸せだと思うのは、その本たちの文面を覚えているのではなく、物語そのものを頭の中に入れられたことだった。記憶力のいい同級生は、そらんじて、それを記号として理解していた。私は、小さい頃はそれがすごく羨ましかった。自らの記憶の中に言葉を書き込める人は、それだけ知的に優れているのだと、「勘違い」している時もあった。


 でもそれは、アウトプットにおいては、結局些細な違いにしかならなかった。だから、インプットにおける極めて大きい(と思われる)能力の違いは、本当は大したことないのだと思った。おおよそ降りかかってくる課題を片付けるだけで、人は成長するのだ。私が学びの大転換だと考えていることも、他者と比べるとやはり微差でしかないのだ。


***


「君の話し方は、どこか気取っていて、僕はそれが好きだ」


「ありがと」


 私は、私のことを異国情緒の代表的なアイコンとしてとらえる人と話す。極めて単純なコミュニケーションが交わされることが想像されるし、実際極めて単純だ。私が自分の思う通りに話すだけで、相手は喜んでくれる。イギリス人の男にとってイギリス人の女を口説くのは、結構骨が折れるのだ。


「すごくきれいな英語だ。君がそういう風に話すのが、少し不思議だよ」


「小さい頃のあなたに倣ったのよ」


 私は、そう言うとワイングラスを傾けた。


「僕たちは友達」


「ええ、友達。どうしたの?」


 私は「それが何か?」とは言わない。無垢を装うというよりは、私の英語が、単にストレートなだけ。


「いやさ、僕たちは知り合ってもう何年にもなる。君が日本に帰った時は、そりゃ僕だって動揺したさ。でも…………」


 私はこの気のいいイギリス人と、「ずっと」話していていたかった。


「でも?」


「でも僕にできることは何もない」


「そうね」


 軽々しく私を「君」と呼ばないでほしかったけれど、それは言わなかった。一人、誰でも「君」と呼ぶバーテンダーを知っていたから、なおさら嫌だったが、それでも我慢した。


 私は、たとえ架空通貨が高騰する時の裏付けのない評価でもいいから、私の価値を高めてくれる人と、選択的に会って話をしたがった。内在的な価値の肯定を求めていたわけではない。内在しているものなんて、所詮は外界との相互作用のカクテルにすぎないのだから、外見上の価値のつり上げだって、別に怒られやしないだろう。


「私の発音が好きということは、私の思想には興味がないということよね?」


「そういう風に男を試すものではないよ」


「私が、あなたの英語の発音が好きだと言ったら、あなたはどう思う?」


「悪かったよ」


「私が日本人だから」


「悪かったって」


 私は、つまみの乾燥イチジクを口に入れて、臼歯ですりつぶす。


「まあいいわ。私、所詮現象なのよ。誰も、私の内面を気にすることはない」


「そんなことはない」


「私の内面って、何?」


「それは…………君にしかわから、ない、と思う」


 私は、そのイギリス人の男に、何の落胆も感じなかった。無意味な質問だったから、その場限りの答えでも、男を非難するに当たらない。そしてその答えは、論理的ですらあった。だから私は不満を述べることはしなかった。くっとワインを飲んだ。


 一泊空港のホテルで泊まった。西条大学で四年生を迎えることを、私は悦ばしく感じていた。


 両替機で日本円に替えて、五十ポンドだけ財布に残した。


 飛行機ではぐっすり寝ていた。


 清流が大学を去ったことを、私は日本に着いてから始めて知った。


 その時私は、自分が言葉を求めているのではなくて、言葉で表される関係を、言葉で表される喜びを、知りたかったんだということに気がついた。


 私は、傷ついたのだろうか。

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