九章「人の脂が指でぬぐえないように」
九章「人の脂が指でぬぐえないように」
何枚かの手紙をやりとりした後で、とてもゆとりのあった燻の文面がちかちかと点滅した。切迫しているわけではないが、動揺していないとは言えない、注意力散漫な文章が続いた。
清流はそれで幾分か余裕を取り戻したところがあって、そういう意味では呼吸が取れていた。
手紙を寮長にたしなめられたとか。実際にそういう文章が付記されることもあったが、「私が外国語でものを書くのが気に入らないの」と、言い訳がしてあったから納得して、それから安心した。
燻は大人らしく「とてもモテているわ」とか「最近しょっちゅう告白されるの」なんて文章は手紙には差し添えなかった。でも、そういうにおいがしないでもなかったし、そうにおわせないように注意している文章構成が、受け手としては満足だった。「そもそも、あなたはどうなの?」なんて自分の品位を下げることを燻はしない。実際のところは清流にはわからなかったが、いずれにせよ清流は、ごく個人的な時間を取り戻しつつあった。
夏の暑い日に、清流はずいぶんスマートな友達ができた。
地元の高校からこれも地元の西条大学に入って、自宅から大学に通っている建築科の同期。一緒に建築計画をまっさらなところから作って、それを教授に持っていったのだ。
鍵倉駿は、太い黒縁のメガネをかけて、背は中くらい、夏なのに長袖のシャツを着て、その袖をまくる。
「弟がいるんだ」
「鍵倉くんの弟だから、とっても頭がいい」
「それを一言で全部否定することはできない」
「そういう風に言ったから」
「都原くんも、話してみるとすごい楽しい」
「朝永さんのことが気になった?」
駿が数秒考えたのは、清流が確か燻のことを「燻」と名前で呼んでいたことを記憶していたから。
「そうだね。最初はいじめられているのかと思ったよ」
「その見方は、間違いではないよ」
「朝永さんは、女子にもあんまり友達いなかったみたいだし、かなりいっぱしの大学生だったね。でも…………美人だったから羨ましかったよ」
清流は唾液で喉を潤して、きれいな声を出して笑った。
「あれだけ歯切れよくて、サバサバしていたら、たぶん向こうで苦労しないよ」
「朝永さんのこと、好きじゃなかったの?」
「さあ。でも僕みたいな田舎者は、きっとすぐ飽きられてしまうよ」
駿はそれを強く否定するように何回か首を横に振った。
「同じ大学にいるんだから、優劣はないよ」
「鍵倉くんのそのマウンテンバイク、かっこいいよね」
清流は適当なところで話の筋を変えた。
「都原くんも買ったらいいよ。歩いてるでしょ」
「うん。そうだね。たまに疲れたら環状線を使うけど」
「もしかして」
「ううっ」
「自転車乗れないんだ」
「そうなのです」
マウンテンバイクを降りて、駿は清流の歩くスピードに合わせる。
駿の持ち物はとてもシンプルで、小さなリュックサックにまとめられている。駿と帰る時は駿の家の近くのレストランに入っておしゃべりをしながら夕食を食べることが多かった。
燻と食べ歩いた青南のビルディングとは違う、古都のそこで育った人しかわからない、こぢんまりとした店が多く、そこで駿は昔からの顔なじみで、店に入るとまず名前を呼ばれた。
「おう、鍵倉の」
「マスターこんにちは」
「友達か?」
「都原くんです」
「こんばんは」
清流は頭を下げる。
「ここのハンバーグが、僕は大好きなんだ」
メガネを取ると駿はおしぼりを目元にあてる。建築に携わる人は目を使う。いくら言葉にできても、形にならなければ意味がない。
大学周りの立地について、駿から一日に一つ二つ新情報をもらう。
意寂の喫茶店も、もちろん駿は知っていた。
話す時に動く駿の指先は長く、第二間接の節がきれいにしわを寄せていた。会話の間に浮かんだイメージは、リュックサックの中に格納された小さなスケッチブックに描き起こされた。使うのは赤のボールペンで、それも驚くほどペン先が細かった。
二人でスケッチブックを挟んで線を足していく。それが清流はとても楽しかった。
ハンバーグのプレートには、クリームコロッケがついていて、ハンバーグもコロッケも、脳の中枢に働きかけて、清流の食欲をこの上なく刺激した。
「昔から。小さい頃から来ているから、いつもそうなんだ」
「いいね」
「そうなんだ」
胃が膨れて、温かさに頭がぼんやりしてくる。
外に出るととっくに日が暮れて、足元に肌色の明かりがともっていた。車がたまにシャーっと横を抜けて行く。
足元に明かりがあるのが当たり前と思っていたが、この前燻と行った城街では、当然のように街灯は上にある。
「建築計画はまた話して詰めよう。店での議論も参考に僕の方でたたき台を作っておく。都原くんも資材の調達とか、運搬の方法とかを想像しておいて」
「わかった。それじゃあ」
「はいはーい」
駿はゆっくりとマウンテンバイクにまたがると、音も立てずに駆けていった。
***
駿には、固定的な恋人がいるわけじゃないけれど、多くの女の子と仲良くしているみたいだった。
駿の品のいい物腰が、その優しさとあいまって、人を引き寄せる。
勉強ができるのは彼にしてみれば当たり前で、大学の課題もてきぱきと片づけている印象だった。
清流は、燻や駿のような「優等生」が、本当に優等生になるために自らに課している努力に気づくことはなかった。自分のやっている勉強が、物量で彼らにどれだけ遅れを取っているか、気づかなかった。
清流は大学の勉強に、少しずつ置いていかれていたが、幸い駿という極めて勤勉な同級生のおかげで(勉強を教えてもらうということはなかったが)自分の立ち位置を理解することができた。清流は峡谷で手慰み程度にやっていた勉強を、徐々に社会の仕組みの中に組み込まれた、システマティックな努力にゆっくりと移行させた。
活動としての建築が評価されたのはもちろんのこと、物理的な計算から、建築に関する法規制までを、清流はどんどん吸収していった。
面白いことに、城街では燻があれだけ声高に叫んでいた大学の序列も、駿のような学生がいることから類推して、大した違いにはならないように思えた。自分が今いる団体の位置ではなくて、団体の中の自分の位置に気を配るようにさえなった。
駿には西条大学に所属することになった高校の同級生が多くいた。その同級生との交流を、駿は大切にしているみたいだった。
それとともに駿が何人かの留学生と外国語で交流する姿を、清流は何回か目にした。清流の耳からしても、駿の発音は流麗だった。駿は中国語と韓国語を話し、英語は不慣れなのだと言っていた。
そういう友達を持つと、どこか気おくれする。でも、駿は清流に対して居丈高にふるまったりはしなかった。
駿の高校は、地域では有数のハイパーエリートだということを知ったのは、ずいぶん経ってからのことだった。
駿は城街の「城神」に行くことだってできた。それは、駿に話しかける同級生の言葉から推測できた。西条大学にいることより、その高校を出たということで、駿には十分すぎるほどの箔がついていた。
高校の活動で仲が良かったのか、駿を訪ねる後輩は男女問わず何人かいた。面倒見のいい駿は、彼らを連れて食事に出かける。そこで彼らは駿の地元への知識に感服する。彼らは駿をより信頼するようになる。親しみが増し、恋心さえ抱くかもしれない。でも、駿が本当の意味でその後輩に気をかけているかといったら、そうではないというのが、清流の目を通した駿の態度だった。親しみと優しさが、駿にあるというのは間違いのないことだった。でも、駿の心には隠し部屋があって、それは誰にも開かれていなかった。コミュニケーションが間違って深化してしまわないように、駿は注意深く言葉を選んでいた。
酒を飲んでいる時にも、駿は何もにおわせたりしなかった。でもそのことが、駿の心中に何かあるのだと、明確に語っていた。
「鍵倉くんはどうして中国語を話せるの?」
「少し中国に興味があったから」
「韓国語も? 興味があったから?」
「うん」
そう言った後、駿はアンニュイに笑った。自分で自分をくすぐるような、意味のない可笑しさは、内実がそれと全く違っていると、暗に示していた。
***
大学の課題で設計した東屋の図面が、いろいろなところで評価されて、清流は駿とともに、西条大学のキャンパスに付属する実験林に休憩所を作ることになった。
二階分の高さでワンフロア作る。二階相当の部分には、ガラス窓で採光する。壁には木の柱を通し、額で縁取ったような小さな窓から外を見れるようにする。太陽の光がさんさんと入ってくる。お手洗いをつけて、実際の使用に利便性を足す。
中二階には備え付けのデスクと椅子を用意する。その下のスペースに簡易ベッドを設ける。敷板は木にしたが、ニスは塗らなかった。
外の敷地には砂利を敷いて簡素な石庭にした。張り出すように休憩所の一辺には縁側を作り、屋根を張り出させてリラックスできる空間を作る。
一つの住居のような休憩所の一階には、柱を真ん中に通した大きな机を用意した。小さな本棚を壁にかけて、古本屋で精選した大型本や文庫で埋める。それが一番楽しい時間だった。
大学の事務とやりとりして、施設の管理を依頼する。
工学部の工房と実験林を行き来する二年生の一年は、最後の竣工式で農学部の学生一同から花束をもらったことで終わりになった。
大きな拍手。その休憩所が、どんどん使われて、大学生の憩いの場になっていく。それが嬉しかった。
駿と交わした固い握手も、その時の笑顔も、清流は忘れないだろうと思った。自分が笑っているのがわかった。それは、清流が想像していた大学生活と、いい意味でかけ離れていた。
工学部で重機を扱える生徒に助けられもした。
暑い夏は、熱中症で倒れそうになったこともあったし、冬は雪で足を滑らせて手首をねんざしたこともあった。
三年生になる前の最後のテスト期間では、学生が実験林の休憩所に図らずも大勢押し寄せて、もう何軒か、同じような保養施設を作ることを大学も計画した。
それが二年生の工学部土木建築科の学年行事になった。
大鏡がしつらえられて音響に優れたスタジオのような施設や、畳と襖だけでできた禅を行う施設まで、実験林の自然を感じる、学生の新しいアクティビティの場になった。
建築のプロから見ると粗削りなそれらの建築も、インテリアが替えられたり足されたりすることで、どんどん「しっくり」くるものになった。
特に清流と駿が作った休憩所を好んで使ったのは文学部の文芸科のグループだった。狭い寮・狭い下宿で独り書くよりも、何人かで合宿して、文字数を競い合う方がいいらしく、一階の大机で改稿を行い、活動の時間をとても有機的なものに変えた。
清流が時折休憩所に訪れると、よくその文芸科の学生に会った。御菓子と飲み物を差し入れすると、「都原さんもここで図面を描かれては?」と誘われる。
中二階の半個室となっている机を借りて清流も勉強する。自分の勉強する姿が、堂に入ってきたと自分で笑うのは、駿の存在があってこそだと感謝する。
気づいたら天井の隅にスピーカーがついていて、壁にポスターが貼られていた。ポスターはなかなか洒落ていて、黄色や赤で美麗な書体が踊っていた。
「都原くん」
文芸科の紅野妃梅が、改稿作業の休憩時間に、清流も休憩に誘った。
大テーブルに集まって持ち寄ったお菓子を開けていく。
話しぶりを聞いていたら、つわものが揃っているという感じがした。文芸科というと、線の細い寡黙な男子やメガネをかけて髪を結った女子が陰陰滅滅と字句解釈でなじりあう集まりだとばかり思っていたが、実際は明るくて、議論に花が咲いていた。
でも中二階から視線を落とした時、文芸科の面々ががりがりと机に向かって文字を書いていたのは、想像通りだった。
清流の作った容れ物は、中で化学反応が起きて、また新しい別の作品を生み出す。
適当にはけていく文芸科の学生たち、最後まで残った妃梅と清流は一緒に帰った。それは自然なことだったし、お互い望んでいたことでもあった。
清流は自分の建築が受け入れられているのが嬉しかったし、何かにつけて気にしてくれている妃梅に惹かれている部分も多かった。
実験林の中を大学のキャンパスまで歩く。
「燻ちゃんと仲が良かった」
「そうだね」
「留学に行ってショックだった?」
「きっと、もう戻ってもこないよ」
「はは。そうかもね」
妃梅は年齢にしては珍しいボブカットで、たたずまいは凛として、「職業倫理」を体現しているようだった。
もう二十一歳だと聞くと、清流は自分の歳を改めて数えた。
「もう、一回ハンコが押されているんだね」
「どういうこと?」
「燻ちゃんは、いい女だった?」
「…………わからない。でも、最初からここにいたくなかったみたいだし」
「みたいだし?」
「きっと周りを侮蔑することで自分が一番傷ついていた。だから、よかったんだよ」
「都原くんは?」
「正しいか正しくないかはわからないけど、燻は一つの枠組みであり、そしてそれはもう捨てられた枠組みなんだ」
「燻。名前で呼ぶの? タバコ吸ってるの、可愛かったよね」
「紅野さんは……」
妃梅は、つんと清流の頬を突いた。
「清流くんって呼んでいい? 私は、妃梅だよ」
わがままで高潔な燻の存在が一つの背景に後退し、妃梅の大人っぽい花の香りが浮き上がってきた。
妃梅の前では、過度に自分を貶めなくて済んだ。妃梅と話す時は、自信を持って自分のことを口にすることができた。その方がずっと常識的だし、気負いする必要がなかった。
妃梅は、武人の家に生まれたと言った。
前回の戦争で、日本は多くの兵士を失ったが、その作戦指揮をしていたのが、妃梅の祖父や父だった。
「祖父は亡くなったけど、父は健在だし、今でも雄弁。世論の向きは悪いから隠れるなんてこともせずに、楽しそうに人生を暮らしている。楽しそうに。私だって剣道やっていたのよ。正直かなり強い」
「政治家じゃなくて、軍人」
「そう。日本で軍人は政治に関われないから。シビリアンコントロールって知っている?」
清流はうなずいた。
「でも私は、軍事力や武力を使うのは、本当に訓練すると簡単なことなんだって、みんなに知ってほしいの。素人でも慣れれば容易に人を殺せる。多分清流くんは私を殺せないけど、私は、場合によっては簡単に清流くんを屠ることができる。怖くない?」
「想像できない。妃梅が僕を殺す?」
「殺すのに意思なんていらない。ただ淡々と引き金を引くだけでいいの。私は、撃ったり刺したりした相手を二秒後には忘れることができる」
「訓練によってそれが可能になる」
「そう。道徳が適用される条件は、暴力が抑制されている場合だけだから」
清流はしばらく考えた。それから妃梅を見た。
妃梅の腕に巻かれた腕時計は、男性物で無骨だった。小指にしている指輪は簡素なプラチナ製で、質感が指の色と指輪の境界をはっきりさせていた。
「清流くん、あなたの話を聞かせて?」
***
「そういえば、僕はあんまり人に自分のことを話さない。最近までそれが、自分の中に自分にまつわる話題がないからだって思ってた。でもそんなことなくて、確かに特別な事情みたいなものは、僕にはないのだけど、僕が一人の人として、困っては考えて、解決したことは、そんなに少なくないって、最近理解した。例えば、僕の集落では教育機関がないから、いろんな人から勉学のヒントのようなものを聞いて、自分流で組み立てることが多い。でも、僕の集落のそういう習俗習慣は、単に学校という制度が嫌いだから成立しているわけじゃないことを知った。科学とか哲学というものを、自分事として考える必要が、僕の集落の集団には必要だったんだと思う。学校は、人を全体の中の一ピースとして、単一の尺度で優秀かそうでないかを測る、歴史的な学校制度の欠陥を、もちろん現実的な理由もありながら、遠回りして避けようとしたんだと思う。僕は、僕の集落がすごく個人的な人で成り立っていると思うし、一人で生きる生き方を備えている人たちばかりだと、安心して語ることができる。でも僕の集落の少なからぬ人が、古都や城街に行って学ぶのは、どこかで、世界の良い側面に貢献しなくちゃいけないと思うからなんだろうね」
「何かに困ったりする?」
「僕には複雑なことは考えられない」
「そんなことないよ」
「それか、そもそも、僕の考えていることはもうすでに問題じゃなくて、口惜しいけど誰かが解決していることなのかもしれない」
「そんなことないよ」
妃梅はくすくす笑った。「だってあなたの問題なんでしょ? あなた以外誰も解決できないよ」
「うん」
「家族の話も聞いていい?」
***
「お父さんは、戦争で死んだ。とても頭のいい人だったって。でも孤独の色もずっと濃かった。お母さんは、いくつかの詩を僕に暗記させただけで、別に何も言わなかった。でも、とても安心した。なぜかっていうのは今ならわかる。お母さんはお父さんのことが好きで、その愛情のかけらとしての僕を、この上なく慈しんでいた」
「素敵ね」
「うん」
「友達はいなかったの?」
「歳の近い女の子が一人、よく本を貸し借りしていた」
「ふーん、そうなんだ」
「自分でもびっくりすることだけど、限られた人としか交流していなかったのに、燻や鍵倉くんや妃梅と、僕は臆さず付き合えている」
「不思議に思うの?」
「うん」
「私は、清流くんが、本質的に人が好きだからだと思うよ」
清流は、言葉を探すために黙した。
「お父さんが死んだ戦争を、恨んだ?」
「いいや」
「どうして?」
「親なんて、いてもいなくても変わらないよ」
「ンッ」
「どうしたの?」
「いや、舌を噛んだだけ…………。親、そうね。変わらないかもね」
春の暖かい風が妃梅のスプリングコートの中に吹き込んできた。
抱きしめるように渦巻く風に、妃梅は踊るようにステップを踏んだ。
大学の構内に戻ってきて、後ろでは林が揺られて葉がこすれ音を出していた。
夜になっても下がらない気温が作用して、目が潤んだ。息を吸うと緑の香りがした。体がぽかぽかと温かく、うっすらと汗がにじむ。
振り返る妃梅の笑顔に、ドキドキする。広い大学のキャンパスで、何人もの恋人同士の学生たちとすれ違う。燻と妃梅は何が違うのだろう。
楼閣が遠くで光に朱を濃く。
魅惑的な模様、朝に見ると茶けたカフェオレ色の蛾も、足元のライトを移り移り。
「汗、かいちゃった」
スプリングコートを脱いだ下は、真っ白いTシャツだった。腰のところでジーンズが留めてある。シャツの生地はどこまでも上質で、体に合わせて小さな畝ができていた。腰が細いのは見てわかる。その細い体がさっき「人を殺す」話をしていたことが、清流には信じられなかった。
コートがふさいでいた妃梅の体の香りが、清流の鼻腔をくすぐった。
清流は自動販売機で牛乳を買い、妃梅はペットボトルの水を求めた。
口にペットボトルの口を傾けて水を入れる。喉を鳴らして水を飲む。細い首とそれを囲む筋肉の筋が、光にあてられて斜めに影を作っていた。
イラストレーターがいつも題材にするような、若者と自動販売機の画は、この場合に限ってはどちらかというとヨーロピアン・ファッションの雑誌の写真の方が似つかわしい。清流は努めて妃梅を見ないようにしていたし、妃梅は水を飲みながら、前を向き、視線だけ清流によこしていた。
妃梅はその時初めて清流の背が思ったより高いことに気がついた。
清流が大学に入った当初の、何とも言い難い自信のなさはどこかに隠れて、柔らかかった頬はこわばってどこか紳士風。黒目が大きく目を見開かないと眼は墨色の黒に塗りつぶされていた。その黒の水晶が光を照り返し、遠くを見つめているのに、妃梅は言い知れぬ魅力を感じる。将校の軍服が似合いそうだと、妃梅は言葉にはしなかった。
二人は帰る時間というものを完全に見失っていたし、行くべき場所が、時間とともにどんどん消えていくのを、実感していた。
妃梅は酒を飲んで醜態をさらしたくなかったし、それは、清流も同じだった。
清流は、妃梅が一人暮らししているのか、それとも今も立派な邸宅の中にいるのか知らなかった。妃梅も、清流が寮監のいる大学寮に住んでいるものとばかり思っていたし、誘われてもきっとその時はうまく断るだろう。それに、清流が自分のことを誘うだろうなんて、妃梅は自分の女を高く見積もってはいなかった。
いくつかの言葉が交わされたが、それはどれもあまり意味のあるものではなかった。清流は時計を持っていなかった。だから妃梅がその腕時計で時間を確かめるのをじっと待っていた。妃梅は自分の無意識が腕時計に行く度に、体を止め、巻き戻した。
だから結局清流が聞いた。
「ところで、今何時です?」
「うーんと、大体十時かな」
妃梅は二時間もサバを読んだが、冗談として笑えるようにしたつもりでもあった。「もう帰る?」
「そうですね」
「じゃあ私も帰る」
自動販売機の缶入れにペットボトルをつっこむと、妃梅は三歩後ろに下がって、清流の全体を目に収めた。自動販売機の照明が、清流の半分を明るく照らし、半分を暗黒の中に沈めていた。
「たくさんの音楽がさ」
「え?」
「たくさんの音楽が、世界にはあふれているけど、私まだ本当の音楽を聴いたことがないの」
「足音」
「足音?」
「あとは、渡る時に軋む橋梁」
「なるほど」
「夜に通りを走る車のタイヤの摩擦音」
「そういうものか」
「本のページをめくる音」
「それは…………芸術じゃないじゃん」
清流は、妃梅がキッとくれたまなざしに、自分の顔を映した。
「音楽は、人が作ったものだから」
妃梅は一度腕時計を確認すると、背を向けて肩越しに手を振った。
それがいかにも年上らしくて、清流はその背中に釘付けになった。




