八章「建築科」
八章「建築科」
「私、小さい頃よく風邪を引いたの。母は氷枕だけ私の頭の下に敷いて、会社に出かけた。私は、氷枕で結露した水が、氷枕を巻くタオルを濡らして、感触が気持ち悪かったのをよく覚えてる」
燻は、大学から少し離れた純文系喫茶店で、そこにふさわしい話題を提示した。清流はそのふさわしさについて、その理由を考えた。
それは生活に即したとても具体的な話題で、語る燻の個性を表していて、更に話されることを期待する、共感の予感がした。
「子供にとって、風邪は別に怖くない。私はそう思った。ぼーっとしたまま寝たら、熱が引いて風邪にかかる前よりも元気になったような気がするの」
燻は、一本目のタバコの火を灰皿でつぶして消した。
「学校に行かなくて済むから、嬉しくなかったわけじゃない。家の居心地はよかったし、母が冷蔵庫にその日の食事を用意してくれて、飲み物も飲みやすいものを何個も置いていてくれたから」
燻は二本目のタバコに火をつけた。
「前も言ったかも知れないけど、私はエリートにはなれなかった」
「ここでは、楽にやっているみたいだけど」
清流の言葉に燻はうなずいた。
二月の雪がひとしきり降った翌日の朝。凍結した路面で何度も滑って、転ばぬ先の足もまた、地面をつかみ損ねる。そうこうして大学で待ち合わせ、燻の気に入っている喫茶店に来たのだ。
どうして燻がエリートになれなかった話をしたのか、清流にはわからなかった。つながりが不明瞭で、でも、どこかで連関しているのだろう。
ホットココアのマグカップを女の子らしく両手で飲むのではなく、片手で斜を見ながらすするのが、かっこいいと清流は思った。
だが飲んでいるのはコーヒーではなくココアなのだ。それも、ちょっとした可笑しさがあった。
「エリートという人を定義するのは難しいけどさ、僕は、『下』を見ない人だと思っているんだ。そこに彼ら彼女らの弱さがある」
「弱さ?」
「自分が強いことは、彼らにしてみれば何の特別性もないんだ」
「そういうこともあるかもしれないわね」
「想像力が欠如しているんだ。それがエリートだよ」
「なんだか、青春小説の主人公みたいな話し方をするのね。『それがエリートだよ』? 頭悪いの?」
「ごめん」
燻はひとしきり笑った後、軽くけほっと咳をした。
「燻は、自分がエリートじゃないことを、悔やんだりするの?」
「悔やむことなんてできないよ。だって、私はエリートに必要なだけの教養がないし、それを身につけようとすることもなく、二流に甘んじているんだから。でもそれもアリ。だって、私は…………ここにしかいない二流と付き合うことができるんだもん」
「燻は、強い言葉を使って心中を隠す」
「タバコを吸ってるのだってそうよ。余白は大事」
そう言ってから燻が吸うタバコは、先端を炎で赤くした。深い草木の香りが漂ってきた。
タバコを吸い終わると、燻はフォークでドレッシングのかかったサラダをつついた。ソーセージを味わい、それからまたココアに口をつける。
ココアにトッピングされていた甘いクリーム、燻はそれをスプーンでそれだけ丁寧に掬いとって堪能した。
「私、またイギリスに行くかもしれない」
燻は大学に行く途中の道で、清流に言った。
清流より少し先を歩いて、まだ寒い空気にさらす燻のうなじを見て、何かもの欲しくなったけれど、清流はそれを打ち消した。
「そうなんだ」
「教授が、留学すればいいって。家族もいる。安心だろうって」
「イギリスに行って何をするの?」
「わからない」
「まあいいわ。手紙書くから。返事書いてよね」
燻がどうしてそんな選択をするのか、清流にはわからなかった。燻も清流もお互いが惹かれ合っていた。そんなことは明らかだった。だがそれでも、燻は清流から距離を取り、今より未来、現実より理想を追求するのだ。
「もう帰ってこないの?」
「もう帰らない」
「そうなんだ。燻とは、これでお別れか」
「少し嬉しそうね」
「僕は、燻に何もできなかったから」
「バカね。そんなこと気にしてもしょうがないじゃない。でも、そういう風に言うなら、私も気兼ねしない。私との間柄に障害を見出すことが、期待されていたのだったら。よかったわね」
清流は首を振った。誠実に、真剣味を含ませて、否定した。
二人は一緒に講義を受けて、お昼ご飯を学食で食べ、級友と談笑し、自習室で隣に座って勉強した。
春になると、燻は旅立った。燻には住所を伝え、手紙が滞りなく届くようにした。
清流にとって燻は、途方もなく力を持った存在だった。だから、自分が彼女にできることは多くないと思ったし、実際多くなかった。燻が自分のどこを評価してくれたのか、清流にはわからなかった。燻のことを評価するなんて立場になかったことも、清流は不満だった。それは、自分に不満だったということだった。
燻を抱くだけの資格があるとも思えなかったし、実際にそういうことを想像しなかったわけじゃないけれど、その何もかもが記念日を設定する時に重要になる「思い出」というありきたりな言葉に終始して、迎合している気がした。そういう普通が、清流は嫌いだった。
「どうすればよかったんだろう?」
清流は、舞山羊神社の湖泊に聞いた。
「どうでしょう。その人のことを、忘れたいと思うのなら、思い出を作るのもいいんじゃないですか?」
「忘れるために思い出を作る?」
湖泊は茶を飲みながらうなずいた。
「可能性が記憶を強固にすることは、サイエンスの世界でも常識とされていますから」
舞山羊神社は、地面から立ちのぼる空気で、温かく、ところどころに花が咲いていた。
庇の下で、風がそよぐ四月を堪能する。
「ちょっと失礼するよ」
装束をまとった大人が、後ろを行き来する。清流はぺこりとお辞儀をするけれど、湖泊はそれを特に気にしてはいないようだった。湖泊は特別な立ち位置にいるのかもしれない。清流はそう推測した。
奉樹の神域は森がこんもりと茂っていて、まるで球状のコロニーのようだった。外の空気を排して、清浄な風を内側に留め置く。太陽の光は枝葉に遮られて散り散りになっていて、それが逆に清流に明るいと感じさせた。
「こういう日は、引きこもって映画でも観たいな」
湖泊がそう合図したから、清流は帰ることにした。
「そういえば、僕の美しい姉君が、今船で日本の表側に戻ってきたと、手紙がありました」
湖泊は、写真が同封されている手紙を机の引き出しから引っ張ってきた。
どこかの城の城門で手を広げて写り込んでいる写真や、船から撮ったとみられる海の、あくまでも絵になると言いたげな、広さをたたえた写真だった。
「海というと茫漠とした恐怖がつきまといますけれど、姉はそういう風景を目にしなかった。だから、かなり楽観的なんですよね」
***
ひと月経つと、清流の元に一通の手紙が届いた。燻からだった。
「やあ、こんばんは。久しぶりに父親と母親の顔を見て、不思議なことに彼らが、とても成長していることを実感した。私以上に。というか私は、あまり変わらないんだろう。清流は、私がいなくて寂しくない? ロンドンで家族と会った後は、さっそくエディンバラに向かった。そこが、私が学生生活を送る都市。いたるところに中世の産物があって、大学の施設が壮麗な外観を備えているというのは…………特別な意識を持ってしまう。いくら頑張ってそういう気持ちを抑制しようとしても、ね。私はここで、いくつかの哲学的なテクストと文学的なテクストを読むことになる。日常的には不自由のない私の英語も、もっと洗練されて、思弁的なものに仕立て上げられる。私がそれを望もうと望むまいと、日本を離れることを決意したのだから。あなたの部屋にレコードを再生する機器があるかは知らないけど、同封したレコードはどこかで聴いてみて。それでは。
エディンバラより 愛をこめて 朝永燻」
***
レコードは封の中に収められていたが、残念ながらぱっきりと割れていた。
新学期の始まりとともに、清流は工学部土木建築科に身を置くことになった。燻への返事は、しばらく書かなかった。忙しかったというのもあるし、どういう風に書けばいいのかわからなかったというのもある。
遠くに行った燻のことを考える日も、ないわけじゃないけれど、簡単な思考は全てを塗りつぶしてしまう。
好きとか嫌いとか、そんな表象的な言葉で表現できるはずがないのに、燻のことを好きだったのだろうか、とか、会っていた頃は疎ましくさえあった燻の態度や振る舞いを、嫌悪感を持っていたんじゃないかって、忘れるために強調してみたりした。
意識は燻と一緒にいた時より強く清流を縛った。でも清流には、これがどういう体験なのかを理解するための枠組みがなかった。
写真でも送ってきてくれたなら、そこから愛情を膨らませることだってできたのに。でも、写真があったならきっと油断してしまう。けれどその緊張感が、清流はたまらなく嫌だった。
***
「今日、花街の舞妓さんが大学に遊びに来ていたよ。おしろいで顔はわからないけど、小さくて、清らかで…………かわいかったよ。何を書けばいいだろう。わからないから、スケッチを一枚挟んでおく。最近古都の建築を探訪しているんだ。建築科に入ったから。それじゃあ。
古都から 都原清流」
***
しとしとと降る梅雨の雨をレインコートで受け止めながら、古都の建築写真を撮って、それをスケッチする日々が続いた。
そうこうしている内に、自分でも何かものを作りたくなった。
大学の工房で、最初はちょっとした木工細工を。工学部の学生に開放されたスペースは一つの大きな工場のようで、天井が高く、車を中に引き入れることもできる。実際に学生は軽トラを借りて、作品を移動させているみたいだった。
隣接された空間には芸術科の学生がいて、工学部の学生と芸術科の学生は、頻繁に交流していた。
清流は、最初は自分が燻のように言語を操れたらいいと思っていた。燻との交流はしかし、清流の非言語的な経験を言語化させる手がかりを一つとしてもたらさなかった(と、清流は感じていた)。
コンクリートとよく磨かれたガラス、大学の建物にしては背が低い、その工房は、二年生になった自分には似つかわしい。
学生がそこでまとまりとなって空気を共有することは、まるで感冒のように伝播性があって、そこで一人でいるだけなのに、清流は周囲から多くのものを吸収した。
大学の課題で模型を作る時も、清流はそこでやった。たまに芸術科の友達についていって、アトリエを見せてもらう。
壁が絵の具の飛び散った痕で自然に装飾されていた。油絵具のどろりとしたにおいで部屋が満たされている。換気のために窓が開けられていた。芸術科のアトリエは四階建て。各階高さ三メートルはある、縦にも横にも広い空間だった。
芸術科は女の子が多く、女子が少ない工学部とは対照的だった。清流はタバコを吸っている女子学生がいると、顔をしげしげと見てしまう。微笑まれると、戸惑いの笑みが清流の顔に浮かび上がる。
人の仲良さそうな話し声が聞こえる。清流の心に影が差す。自分の心音が平時でも聞こえるようになった。動悸がする。平静を保てない。居ても立っても居られなくて、工房の外に出る。雨は、コートのフードでしのいだ。
見知らぬ方向へ歩いていった。
体の末端が冷え切っていた。そして外の建物の何もかもが「遠い」のだ。
清流には想像できなかった。白壁の向こうに誰が住んでいて、どんなことをしているのか。走る車の中にいる運転手は、一体どこに行こうとしているのか。そして、その体の冷たさが、誰かの(願わくは燻の)温かさを欲望していることを、清流は理解していなかった。倫理観が清流の思考を制限していた。誰とも話したくなかった。
自動販売機で牛乳を買う。
橋をいくつも渡り、雨滴が川面で波紋に変わるのを、ずっと眺めていた。
一つとして同じ波はないのだと、物理学の教授が言っていた。「一つとして同じ人生がないように」。
視界の端に楼閣が見えた。不格好な写真を撮る。白壁が前面にせり出して、そこににょきっと生えるように、楼閣が高くそびえたっていた。
とぼとぼと歩いて環状線に乗った。
環状線は空いていた。
清流は何周も何周も環状線を乗り続けた。列車内では読書する。不思議と文字が体に染みる。
それから清流は体調を崩した。
雨に当たって冷えたのか、風邪を引いた。
何も考えず深く眠り込んだ。
熱が出て、ぼうっとする頭の中から、燻が消えるのを待った。




