第8話 辺境の村人、王国行きを拒否したい
星の塔の地下深部から戻った一行は、夕暮れに染まるクルム村の入り口へ辿り着いた時点で、全員がそれぞれ異なる種類の疲労を背負っていた。
リディアは騎士団長としての責任と王国機密とノクスへの怒りを背負い、マルクは副官として隊長の機嫌と報告書の未来を背負い、エルネは割れた測定器と測定不能という研究者にとって甘美かつ不吉な言葉を背負い、セレナは書ききれないほど膨らんだ記録と、どこまでを王国機密として黒塗りにすべきかという神官記録官特有の苦悩を背負っていた。
そして壁山とおるは、世界の外側から来た者、星の運命の境界、神々を殺した悪魔の骸、人間は侵略者の子孫かもしれない問題、センターブルー、七大罪人、さらに帰ったら元の世界について説明しなければならないという、どう考えても村の便利な壁係に背負わせるには荷重制限を超えている情報一式を背負っていた。
重い。
あまりにも重い。
物理的な荷物なら〈壁〉で支えられるかもしれない。壊れた屋根も、崩れかけた橋も、角猪の突進も、工夫次第で受け止められる。けれど「あなたは星の運命の境界に立つ存在かもしれません」という概念は、壁で支えようがなかった。
概念は荷車に載らない。
とおるはそれを学んだ。
村に戻ったその日の夜、リディアは当然のようにとおるを呼び出した。
場所は村長宅の奥にある小さな応接室。木の机と古い椅子、壁に掛けられた干し草飾り、暖炉の上の陶器人形、窓の外から聞こえる虫の声。いかにも辺境の村らしい穏やかな部屋であり、本来なら茶を飲みながら今年の芋の出来について話すような場所である。
そこで話された内容は、まったく穏やかではなかった。
「壁山とおる」
「はい」
「お前は、自分がこの世界の出身ではないと言ったな」
「できれば、そこは『遠いところから来た』くらいで処理したい気持ちがあります」
「処理できない」
「ですよね」
とおるは諦めた。
彼は、できる限り順番に話した。
自分が元いた世界には魔力がなかったこと。国の名前は日本であること。人々は剣ではなく法律とスマホと空気読みを恐れて暮らしていたこと。空を飛ぶ船は伝説ではなく乗り物として存在し、遠くの人間と瞬時に会話できる箱のようなものがあり、インターネットという巨大な情報網によって人類は知識と娯楽と無限の時間浪費を手に入れていたこと。
そして、ある日アパートへ届いた謎のゲームソフトを起動したら、この世界へ来ていたこと。
説明しながら、とおるは何度も自分で自分の話を疑った。
客観的に聞くと怪しすぎる。
謎のゲームソフト。
起動。
異世界転送。
これを真顔で語って信用しろというほうが無理である。前世の自分なら、ネット掲示板に「釣り乙」と書いていたかもしれない。
リディアは途中で何度か眉をひそめ、何度か質問し、何度か「スマホとは何だ」「電気とは魔力ではないのか」「学校で剣を教えないのか」「恋人がいなかった話は今必要か」と確認した。
最後の質問に対して、とおるは深く傷ついた。
必要だったかどうかはともかく、人生背景として出てしまったのである。
話を聞き終えたリディアは、しばらく黙っていた。
「……荒唐無稽だ」
「自分でもそう思います」
「それでも、星の塔の扉がお前を世界の外側から来た者と呼んだ。完全に否定はできん」
「俺としては否定してもらえたほうが楽なんですけど」
「楽かどうかで現実は変わらない」
「現実が厳しい」
「お前の故郷も、ずいぶん奇妙な場所らしいな」
「この世界から見ると、たぶんかなり」
「魔力のない世界で、よく生きていたものだ」
「魔力がない分、別のもので殴り合っていました。学歴とか、収入とか、フォロワー数とか」
「何だそれは」
「説明すると別の地獄が開きます」
その夜の会話は、そこで終わらなかった。
リディアは、とおるの話を記録へ残す範囲を慎重に選び、王国への報告に含めるかどうかを検討すると言った。セレナを呼ばなかったのは、記録官としての職務が強すぎて、聞いた話を全部文書化しかねなかったからである。とおるは心の底から感謝した。
ノクスに聞かせなかったことについては、もっと感謝した。
翌朝。
クルム村は、普段とは明らかに違う空気の中にあった。
朝の煙はいつも通り家々の煙突から上がっている。鶏も鳴いた。子どもたちも起きた。マーサ婆さんは朝から芋を蒸しており、とおるを見つけるなり「顔色が悪いから食べな」と芋を渡そうとしてきた。
表面だけを見れば、いつもの村である。
その足元に古代都市が伸びており、森の奥には星の塔があり、地下深部では星骸巨躯が眠りから覚めかけ、青の大陸の軍事帝国センターブルーが手を伸ばしているかもしれない。
日常とは、地面の下に何があっても朝食を必要とする。
とおるはその事実に、妙な安心と恐ろしさを同時に覚えた。
昼前、村の広場に全住民が集められた。
リディアは白華隊の騎士たちを整列させ、村長の隣に立ち、王国命令として正式にクルム村一帯の封鎖準備を開始すると告げた。
言葉は簡潔だった。
理由も前回よりは説明された。
星の塔周辺で異常な魔力反応が観測されていること。村の地下へ古代遺構の一部が伸びている可能性が高いこと。外部勢力が遺跡へ干渉している疑いがあること。住民の安全確保と遺跡への不用意な接触制限のため、村人たちは近隣都市へ一時移住する必要があること。
一時移住。
その言葉は、村人たちにとって慰めにも、刃にもなった。
「一時って、いつまでだい!」
最初に声を上げたのは、畑を三代守ってきたという老人だった。
「春蒔きはどうなる! 今年の豆は、土を整えるのに三年かけたんだぞ!」
「家畜は連れていけるのか!」
「先祖の墓は置いていけって言うのか!」
「街なんぞで暮らせるわけがない!」
「ここを離れるくらいなら、死んだほうがましだ!」
最後の言葉が出た瞬間、広場の空気が痛いほど張り詰めた。
とおるの胸も、ぎゅっと縮んだ。
その気持ちは分かる。
村の人々にとって、家は建物だけではない。畑は土地だけではない。井戸も、墓も、柵も、曲がった道も、毎年同じ場所へ咲く花も、子どもの頃に転んだ石も、すべてが生活の一部だった。
移住先を用意します。
補償します。
護送します。
王国が責任を持ちます。
そのどれも嘘ではないとしても、三十年、四十年、あるいは一生を過ごした土地から離れる痛みを消せるわけではない。
リディアは村人たちの声を正面から受け止めた。
逃げなかった。
苛立ちも見せなかった。
彼女は、白銀の甲冑をまとったまま、一歩前へ出た。
「これは王国命令だ」
声は強かった。
広場のざわめきが一段下がる。
「個人の意見で覆るものではない。私はここへ、村人を苦しめるために来たのではない。お前たちの命を守るため、星の塔への接触を制限し、周辺区域を管理下に置くために来た」
「命を守るって言うなら、ここにいさせてくれ!」
若い男が叫ぶ。
リディアは視線を向けた。
「危険が目に見える形で来てからでは遅い。魔物の群れ、魔力汚染、遺跡の暴走、外部勢力の侵入。そのいずれかが起きた時、王国騎士団でも全員を守りきれるとは限らない」
「脅しか!」
「事実だ」
リディアは迷わなかった。
「希望を持たせるための嘘は言わない。ここに留まれば、命の保証はできない」
とおるは、彼女の横顔を見た。
厳しい言い方だった。
村人からすれば冷たく聞こえるかもしれない。リディアは優しい言葉で包むのが上手な人間ではない。むしろ、言葉の角を丸める前に剣で真っ直ぐ切り出すタイプである。
それでも、彼女は逃げていなかった。
嫌われる役割を、自分で背負っていた。
村長が震える声で尋ねた。
「騎士団長殿。移住先について、詳しくお聞かせ願えますか」
リディアはうなずき、マルクに合図した。
副官マルクが前へ出て、羊皮紙を広げる。
近隣都市ラグメルの外縁区に、クルム村住民用の仮住居区が用意されること。世帯ごとに住居が割り当てられ、家畜を持つ家には郊外の共同厩舎が提供されること。畑を失う期間の補償として、王国から一定量の穀物と銀貨が支給されること。高齢者と子どもは優先的に護送馬車へ乗せられること。墓地については王国神官が保全結界を張り、封鎖期間中の管理を引き受けること。
さらに、封鎖が解除された場合には帰還権が保証され、家屋や畑の権利は王国記録院に登録されることも説明された。
かなり手厚い内容だった。
少なくとも、とおるの前世で突然立ち退きを命じられるよりは、制度として整っている気がする。もちろん、それで感情が納得するわけではない。
「帰れる保証はあるのかい」
老婆が聞いた。
リディアは少しだけ言葉を選んだ。
「封鎖が解除されれば、必ず帰還の権利は認める」
「いつ解除されるんだい」
「今は断言できない」
「それじゃあ、帰れないのと同じじゃないか」
その言葉に、リディアは返せなかった。
嘘を言えば楽になる。
すぐ戻れると言えば、その場は収まるかもしれない。
リディアはそうしなかった。
とおるは、広場の空気がまた重くなるのを感じた。
ここで誰かが何かを言わないと、村人たちの不満は怒りへ変わる。怒りが王国騎士団へ向けば、強制措置という最悪の道が近づく。とおるは自分が前へ出るべきか迷った。迷いに迷い、胃が会議を開き、心臓が反対意見を述べ、脳が「今出ないと後悔する」と議決したところで、彼は足を踏み出した。
「みんな」
声は、やはり少し小さかった。
村の少年が気づいて、「とおる兄ちゃん」と言ったことで、視線が集まる。
視線。
大量の視線。
前世から苦手だったもの。
とおるは内心で「うわ、人前、無理、帰りたい」と思いながら、なんとか言葉を続けた。
「俺も、ここを離れたくありません。家もあるし、畑の柵も直したばかりだし、村長の家の屋根も今年はまだ雨漏りしてないし、マーサ婆さんの芋を街で食べられるのかも不安です」
「芋は持っていけるよ!」
マーサ婆さんが叫んだ。
「ありがとうございます。心の支えです」
少しだけ笑いが起きた。
とおるは息を吸う。
「でも、星の塔の地下は本当に危ないです。俺たちは見ました。王国が隠していた理由も、全部ではないけど、少しだけ分かりました。村の地下に何があるのか、まだはっきりしていません。外から変な連中が来ている可能性もあります」
「変な連中って、騎士団よりかい?」
誰かが言った。
騎士たちが微妙な顔をする。
とおるはリディアを見ないようにした。
「方向性が違う変さです」
また少し笑いが漏れる。
「だから、一度離れるのは、負けじゃないと思います。逃げるんじゃなくて、戻るために離れる。村を捨てるんじゃなくて、村を残すために、今は人の命を先に動かす。俺は、そうしたほうがいいと思っています」
村人たちは黙った。
全員が納得したわけではない。
そんな簡単な話ではない。
それでも、とおるの言葉は少しだけ届いた。少なくとも、騎士団の命令としてではなく、三年一緒に暮らした村の仲間の言葉として。
村長が深く息を吐いた。
「……分かった。わしらも、話し合おう。反対の者もおる。泣く者もおる。怒る者もおる。けれど、命あっての村じゃ」
その言葉をきっかけに、封鎖と移住に向けた具体的な話し合いが始まった。
家財の整理。
家畜の輸送。
畑の管理。
墓地の結界。
移住先での仕事。
子どもたちの教育。
高齢者の薬。
村で飼われている妙に人懐っこい山羊の扱い。
最後の一点で、なぜか議論が長引いた。山羊の名はポルカ。村の子どもたちに人気で、畑の境界杭をかじる悪癖があり、とおるの服の裾も過去に二度食べようとした。ラグメルの共同厩舎で受け入れ可能かどうか、マルクが真面目に記録しているのを見て、とおるは王国騎士団の仕事範囲の広さに感動した。
夕方までかかって、話はひとまずまとまった。
反対は消えていない。
不満も残っている。
それでも、強制退去という最悪の形は避けられた。村長と代表者たちは王国側と移住手続きへ協力し、三日以内に第一陣を出すことが決まった。
広場の人々が解散し始める頃、とおるは疲れきって木箱に腰を下ろした。
精神が、古代遺跡より疲れた。
遺跡の巨大な死骸も怖かった。フード男も怖かった。ノクスもかなり怖かった。けれど、村人たちの生活を動かす話は、別種の重さがあった。
人の暮らしは、魔物より重い。
とおるはその事実を噛みしめていた。
そこへ、リディアが歩いてきた。
「壁山とおる」
「はい」
「話がある」
「嫌な予感しかしません」
「お前は王国に来い」
とおるは、疲れた顔のまま固まった。
しばらくして、ゆっくりと聞き返す。
「……はい?」
「王国に来いと言った」
「いやいやいやいや、なんでそんな話になるんですか。今、村の移住で精神が鍋底みたいに焦げついているところに、急に王国行きの招待状を投げ込まないでください」
「招待ではない。要請だ」
「要請という名の連行では?」
「言葉を選べ」
「選んだ結果、かなり柔らかくしました」
リディアは腕を組んだ。
「遺跡から戻った夜、お前は自分の世界について話した。魔力のない世界。星の外側という概念。空を飛ぶ船。遠くの者と瞬時に言葉を交わす道具。謎の遊戯盤による転移」
「遊戯盤って言うと、妙に神話っぽいですね。実際は怪しいゲームソフトです」
「どちらでもいい。お前の話が本当なら、こんな所でのうのうと暮らしている場合ではない」
「のうのうとは暮らしていません。村の水路を直したり、魔物を狩ったり、山羊に服を食われかけたり、地味に忙しい生活です」
「星の塔の扉は、お前に反応した」
「たまたまです」
「フードの男も、お前を名指しした」
「人違いです」
「世界の外側から来た者と呼ばれた」
「翻訳ミスの可能性が」
「お前は私に勝った」
「それはノーカンでしょ!」
とおるは立ち上がった。
全力の抗議である。
「あれは事故です! 不可抗力です! リディアさんも本気じゃなかったし、俺もそんなつもりじゃなかったし、結果としてかなり珍妙な状態になりましたけど、決闘の勝利を王国行きの根拠にされるのはおかしいです!」
リディアの眉が動いた。
「珍妙な状態とは何だ」
「ええと、非常に説明が難しい状態です」
「具体的に言え」
「言ったら俺が危ないので黙ります」
「賢明だ」
とおるは胸を撫で下ろした。
命の危機を回避した。レベルは上がらない。精神経験値はかなり入った気がする。
リディアは一歩近づく。
「大体、私に勝っておいて、そのまま逃げおおせると思ったのか?」
「ほら、半ば脅しじゃないですか!」
「半ばではない」
「全部だった!」
「冗談だ」
「リディアさんの冗談、剣の鞘に入っていないんですよ。抜き身で来るんですよ」
「お前は大げさだ」
「昨日から王国機密と古代の神と国際情勢を浴びている一般村民としては、かなり冷静なほうです」
「一般村民は星の塔の扉を開けない」
「痛いところを的確に」
リディアは声を少し落とした。
「聞け、壁山。お前が私の提案を断ったとしても、王国はお前を放っておかない」
とおるは口を閉じた。
「星の塔に干渉できる。世界の外側から来た可能性がある。境界系の固有スキルを持つ。青の大陸が遺跡へ手を伸ばしている状況で、そんな人間が辺境の村にいると分かれば、王国上層部は必ず動く」
「……でしょうね」
「私の部隊の一員として同行すれば、王国のお前に対する扱いはいくらか緩和できる。白華の管理下にある協力者として報告する。少なくとも、いきなり拘束され、尋問され、研究院へ送られる可能性は下げられる」
「研究院」
とおるの脳裏に、ノクスの笑顔が浮かんだ。
片眼鏡。
興味深い魔力。
髪の毛一本。
呼気の採取。
足跡の型。
とおるは両腕を抱いた。
「嫌な単語ですね」
「それとも、あの道徳のかけらもない外道に実験体としておもちゃにされたいのか?」
リディアは真顔で言った。
とおるは首をぶんぶん振った。
「それだけは絶対に嫌です」
「なら来い」
「選択肢が、リディアさんの部隊に同行するか、ノクスさんにおもちゃにされるか、の二択なのはおかしくないですか」
「現実的な二択だ」
「現実が悪質」
「世の中は甘くない」
「甘くないにも限度があります。せめて三択目に、村で芋を食べながら平和に暮らす、を入れてください」
「却下だ」
「リディアさん、俺の理想ルートに厳しい」
リディアは少しだけ視線を外した。
広場の向こうでは、村人たちが家財の確認を始めていた。泣きながら祖母の荷物を運ぶ少女。牛の移送を巡って言い合う兄弟。墓地の方をじっと見ている老人。王国の騎士に質問を続ける村長。
「お前は、この村を守りたいのだろう」
リディアの声は静かだった。
「はい」
「なら、村に残ることだけが守る方法ではない。星の塔、王国、センターブルー、七大罪人。これらが動く以上、村だけを見ていても守れない。王都で情報を得る必要がある。お前自身のことも調べる必要がある」
「調べるって、ノクスさん式ではなく?」
「私が監督する」
「それなら少し安心です」
「少しだけか」
「リディアさんも俺を訓練場に連れて行こうとしてますし」
「あれは必要だ」
「必要なんですか」
「お前のスキルは危険だ。制御を学べ。二度と妙な場所に壁を出すな」
「またそこに戻る」
「一生言う」
「一生」
「比喩だ」
「リディアさんの比喩は怖い」
とおるは空を見上げた。
夕方の空は赤く、村の屋根を柔らかく照らしている。三年前、この世界に来たばかりの頃、この村に助けられた。最初は居場所がなく、何をしていいかも分からず、ただ生き延びるだけで精一杯だった。そこから少しずつ、畑を手伝い、魔物を追い払い、書庫に通い、村人に名前を覚えられ、ようやくここで生きていけると思えた。
そこを離れる。
自分から。
村を守るために。
いかにも物語らしい展開である。
とおるは物語を読むのは好きだった。
主人公が旅立つ場面も、仲間と別れる場面も、世界の真実を知る場面も、画面や紙面の向こう側なら大好物だった。
自分がやると、胃が痛い。
「……分かりました」
とおるは言った。
「王国に行きます。ただし、条件があります」
「言ってみろ」
「村人たちの避難が終わるまでは、封鎖業務に関わらせてください。移住先の手続きも、できる範囲で手伝います。みんなが落ち着くまでは、いきなり連れて行かないでほしいです」
「認める」
「あと、ノクスさんと二人きりにしないでください」
「当然だ」
「髪の毛も採らせないでください」
「当然だ」
「呼気も」
「当然だ」
「足跡の型も」
「そこまで気にするのか」
「さっき実例として出ました」
「禁じておく」
「それから、王都に行っても、できれば普通の部屋と普通の食事と普通の睡眠を」
「囚人扱いはさせない」
「なら、最後にもう一つ」
「何だ」
「訓練場は、優しめでお願いします」
「それは認めない」
「交渉失敗!」
リディアはわずかに口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
とおるは、たぶん笑ったな、と思った。最近、彼女の表情変化の最小単位を見分けられるようになってきた自分が少し怖い。人間関係の壁に、知らないうちに小窓ができている。
「壁山とおる」
「はい」
「白華隊の臨時協力員として、封鎖および護送任務に参加しろ。その後、王都へ同行する」
「肩書きが急にできましたね」
「不満か」
「いえ。村の便利な壁係より、少しだけ公式っぽいです」
「便利な壁係も分かりやすい」
「公式文書に書かないでください」
「書かん」
その日の夜、とおるは村の自宅へ戻り、荷物を整理した。
と言っても、大したものはない。
着替え、短剣、薬草布、書庫で書き写したノート、村の子どもたちにもらった不格好な木彫りの鳥、ギルド証、そしてマーサ婆さんがまた押しつけてきた干し芋の袋。
袋は重かった。
愛情の重量である。
外では、村人たちが家財をまとめる音がしていた。泣き声も、怒鳴り声も、笑い声も、山羊の鳴き声も聞こえる。ポルカは今日も元気らしい。移住先で共同厩舎の杭を食べないことを祈るばかりだった。
とおるは机の上に置いたノートを開く。
そこには、この三年で書き溜めた魔力とスキルに関する自分なりの考察がびっしり並んでいる。
〈壁〉。
境界。
対象と空間。
遮断。
防御。
制限。
そして、開閉。
今まで彼は、壁とは閉ざすものだと思っていた。
人との距離を置く。
敵の攻撃を防ぐ。
危険を遮る。
自分と世界の間に、安心できる境目を作る。
けれど、星の塔の扉は開いた。
彼が触れた壁は、閉ざすためだけのものではなかった。
境界に立つということは、こちら側を守るだけではなく、向こう側へ進むことも意味するのかもしれない。
とおるはノートを閉じた。
「重いなあ……」
誰にともなく呟く。
返事はない。
代わりに、窓の外から少年の声が聞こえた。
「とおる兄ちゃーん! 王都行くって本当ー?」
情報が早い。
村社会の伝達速度は、インターネットに匹敵する場合がある。
とおるは窓を開けた。
「本当だけど、まだ準備中!」
「騎士のお姉ちゃんと一緒に?」
「そう!」
「壁の人と?」
「その言い方はやめなさい!」
遠くで、リディアの気配が動いたような気がした。
気のせいであってほしい。
とおるは慌てて窓を閉めた。
こうして、辺境の村で平和にレベルアップしていただけの陰キャ青年、壁山とおるは、王国聖騎士団第九華隊〈白華〉の臨時協力員として、村の封鎖業務に関わりながら、王都へ向かう準備を始めることになった。
本人の希望は、最後まで村で芋を食べることだった。
希望は通らなかった。
異世界は、今日もわりと厳しい。




