第9話 風の大陸の中心へ
世界樹は、空を支えているのではない。
そう語る者は多い。
空とは支えられるものではなく、風と光と夜によって満たされる器であり、いかなる樹の枝もその全てを抱え込むことなどできない。雲は流れ、鳥は渡り、星は沈み、月は満ち欠ける。世界は常に動き続けており、一本の樹がそれを止めているという考えは、学者たちに言わせれば、古い時代の詩人が残した美しい誇張にすぎなかった。
それでも、風の大陸に住む人々は、幼い頃から同じ言葉を聞いて育つ。
世界樹の根が大地を結び、世界樹の枝が空を受け、世界樹の葉が風を生む。
雨が降れば、世界樹の涙。
豊作なら、世界樹の恵み。
子が生まれれば、世界樹の祝福。
人が死ねば、その魂は風となり、世界樹の枝へ帰る。
王国の神官たちは、それを祈りとして語る。詩人たちは、それを歌として残す。農夫たちは、それを畑の土に触れながら信じ、騎士たちは遠征先でその名を口にし、旅人たちは道の果てに見える巨大な影を目印に進む。
世界樹は神ではない、と王都の魔導学者は言う。
世界樹は神そのものだ、と古い神殿の司祭は答える。
世界樹は地脈循環を安定させる超巨大生命体であり、信仰的な神格化と自然魔導現象を混同すべきではない、と研究院の者たちは机を叩く。
世界樹が枯れれば我々も終わるのだから、呼び名など枝葉の問題だ、と畑の老人は鼻で笑う。
その全てを遠くから聞き流すように、世界樹は今日も風の大陸中央に立っていた。
幹は山脈のように太く、樹皮は古い城壁と大地の岩盤を重ねたような質感を持ち、節のひとつひとつが小さな谷ほどの陰影を作る。根は大地を走り、時には丘となり、時には川の流れを変え、時には村や街の境界そのものになる。遥か高みに広がる枝は雲海を割り、朝日を受けると銀緑色に輝きながら夕暮れには紫と金の境目へ溶けていく。
その葉が風に揺れると、遠く離れた土地にも気配が届くという。
とおるにとってそれは、三年前まで完全に他人事だった。
世界樹。
響きだけなら知っていた。ゲームにもラノベにも、世界樹というものはだいたい出てくる。神聖な場所だったり、ラスダン手前の重要拠点だったり、素材採取の名所だったり、根元に古代文明が眠っていたり、てっぺんに行くと空の島へ行けたりする便利な概念である。ファンタジー界における大御所建造物、と言ってもいい。
ところが実物が遠くの地平に見えたとき、とおるの感想は非常に素朴だった。
「……でかすぎる」
馬車の窓から顔を出した彼は、朝靄の向こうに浮かぶ巨大な影を見つめ、語彙をほぼ全て失っていた。
村を出てから五日目の朝である。
クルム村の第一陣避難を見届け、ラグメル近郊の仮住居区へ村人たちが無事に入ったのを確認し、家畜の搬入、荷物の登録、ポルカという名の山羊が共同厩舎の杭をさっそく噛もうとしてマルク副官に真顔で注意されるという小事件まで片づけたのち、とおるは王樹十二華騎士団第九華隊〈白華〉の臨時協力員という、本人の人生設計に一度も登場したことのない肩書きを背負って、王都へ向かうことになった。
臨時協力員。
言葉だけなら、どこか事務的である。
書類棚の中に収まっていそうな響きであり、机と椅子と羽ペンが似合う。とおるとしても、臨時協力員というからには、資料整理、簡単な荷物運び、必要に応じて壁を出す程度の、比較的穏当な業務を想定したかった。
現実は、王国最高戦力の騎士団長に同行し、星の塔の機密を知り、王都で報告を行い、場合によっては王宮や魔導院や研究機関から尋問まがいの質問を受ける可能性がある立場である。
名前が軽いだけで、中身は全然軽くなかった。
お弁当箱に山が入っているようなものだった。
「世界樹を初めて見た者は、皆そう言う」
馬車の向かい側で、リディアが静かに言った。
彼女は今日も白銀の甲冑を着ている。ただし長旅用に外套を羽織っており、王都へ近づく街道沿いの湿った風がその裾を小さく揺らしていた。金髪は後ろでまとめられ、腰には白禍月。姿勢は相変わらずまっすぐで、馬車の揺れ程度では視線ひとつ乱れない。
とおるは木の座席に腰を沈めながら、少しだけ羨ましく思った。
彼の体幹は馬車の揺れに対してかなり素直だった。右へ揺れれば右へ、左へ揺れれば左へ、時々荷物袋へ肩をぶつけ、たまに窓枠へ額を打ちそうになる。異世界に来て三年、森の中も歩いたし魔物とも戦ったしレベルも上がったはずなのに、馬車旅における一般人感がまったく抜けない。
「いや、でかいとは聞いてましたけど、あれは木というより地形ですよね。樹木というカテゴリーに収めていいんですか」
「世界樹を分類しようとして、王都の学者が過去に三度ほど派閥を割った」
「分類だけで派閥が割れるんですか」
「神聖樹説、超巨大生命体説、地脈固定柱説、神代遺物説、世界そのものの外部器官説、単純に大きな樹説。互いに譲らなかったらしい」
「最後の説だけ雑では?」
「提唱者は農学者だった。実際に葉と果実と根を調べたうえで、樹は樹だ、と結論づけた」
「強い」
リディアは窓の外へ視線を向けた。
「どの説も一部は正しく、一部は足りないのだろう。王国にとっては、世界樹が大陸の地脈を安定させ、王都周辺の魔力循環を支えているという事実が重要だ」
「つまり、あの樹が王国の心臓みたいなものですか」
「心臓であり、城壁であり、神殿であり、歴史そのものだ」
「表現が急に壮大」
「実際にそういうものだ」
とおるはもう一度、窓の外を見た。
街道は、風の大陸中央へ向かってなだらかに続いている。道幅はクルム村周辺の獣道とは比べものにならないほど広く、石畳の両脇には低い防風壁が並び、一定間隔で立つ魔力灯の柱には王国の紋章が刻まれていた。朝の光を受けた畑は黄金色に揺れ、遠くの丘には白い羊の群れが点のように散り、川沿いには水車と小さな集落が見える。
クルム村の周辺が、木と土と畑と魔物の気配でできた生活圏だったとするなら、王都へ近づくこの道は、王国という巨大な仕組みが大地の上に線を引き、整え、守り、流通させていることを示す通路だった。
荷馬車が多い。
商人の列。
巡礼者。
騎士団の補給車。
貴族の紋章をつけた小型馬車。
街道脇で朝食の粥を売る露店。
道を横切る水路には石造りの橋がかかり、その欄干には世界樹の葉を模した彫刻がある。
とおるは、王都へ近づいている実感を、少しずつ身体で理解していた。
人が多い。
情報が多い。
生活の速度が、村より速い。
ぼっち陰キャ偏差値七十としては、すでにやや酸素が薄い。
「顔が死にかけている」
リディアが言った。
「人の密度に負けています」
「まだ王都ではない」
「怖い予告やめてください」
「王都に入れば、今の十倍は人がいる」
「十倍」
「大通りでは、百倍かもしれん」
「俺、王都で生きていけますか」
「慣れろ」
「リディアさん、いつも解決方法が訓練寄りですね」
「訓練で解決する問題は多い」
「人混みは訓練で解決しますか」
「する」
「断言された」
同じ馬車に乗っていたエルネが、荷物の隙間から顔を出した。
割れた測定杖の代わりに、彼女は新しく支給された予備の測定器を膝に抱えている。大きな眼鏡の奥の瞳は、世界樹を前にした研究者らしい輝きで満ちていた。
「王都の人混みは、最初は大変ですよ。風の流れも魔力の流れも、田舎とは全然違いますから。世界樹の根が地下を走っているので、場所によっては地面から上がる魔力圧が強くて、慣れていない人は頭がぼんやりしたり、逆に妙に元気になったりします」
「妙に元気になるのも困りますね」
「夜通し踊りたくなる人もいるそうです」
「王都、危険都市では?」
「それは世界樹祭の時期ですね」
「祭りで済ませていいんですか」
エルネは楽しそうに笑った。
「世界樹祭はすごいですよ。王都中に灯りがともって、枝から降る光の粒を浴びながら、三日三晩、歌と踊りと市が続きます。もっとも、白華隊はその間ずっと警備で大忙しですけど」
「リディアさんも踊るんですか」
とおるは何気なく聞いた。
リディアの視線が、すっと彼へ向いた。
「なぜそうなる」
「祭りと聞いたので」
「騎士団長は警備に当たる」
「一回くらい踊ったことは」
「ない」
「ないんですか」
「ない」
「人生、騎士に振りすぎでは?」
「お前は壁に振りすぎだ」
「それは否定できない」
エルネが小さく噴き出した。
リディアは少しだけ目を細め、エルネは慌てて測定器へ視線を落とした。とおるは、この馬車内でも序列というものが厳然と存在するのだと理解した。世界樹の根より分かりやすい上下関係である。
王都へ向かう道中、とおるは何度も世界樹を見た。
馬車が丘を越えるたび、世界樹は少しずつ姿を変える。
遠くからは天を貫く影だったものが、近づくにつれ、幹の起伏や枝の広がり、根のうねりを見せ始める。幹の表面には、長い年月の中で生まれた裂け目や隆起があり、その一部には神殿や見張り台、魔力観測所が組み込まれているらしい。巨大すぎる樹皮のくぼみに、街区のようなものが作られているのを見たとき、とおるはしばらく黙った。
木の穴に住むリスではない。
人間が、世界樹の樹皮のくぼみに施設を建てている。
規模感が壊れている。
根もまた、想像を超えていた。
王都近郊の平原には、地面から盛り上がる巨大な根がいくつも走っている。低いものでも家の屋根ほどの高さがあり、大きなものは丘そのものに見える。根の表面には苔や草が生え、小さな祠が建てられ、巡礼者たちが手を合わせている。場所によっては、根をくり抜いたような形で門が設けられ、街道がその下を通っていた。
世界樹の根門。
リディアはそう説明した。
古くは自然にできた隙間を旅人が通り、やがて王国が石材で補強し、魔術師が保全術式を施し、現在では王都へ至る正式な関門の一つとして扱われているという。
根門をくぐる前、一行は検問で止められた。
白華隊の紋章があるため手続きは早い。リディアが騎士団長として書簡を示すと、門衛たちは即座に姿勢を正し、敬礼した。とおるはその横で、できるだけ存在感を薄くしていた。前世の学校で鍛えた「先生に当てられない姿勢」が、異世界の王国関門でも役に立つか試していたのである。
門衛の一人が、とおるを見た。
「こちらの方は?」
来た。
当てられた。
とおるの脳内で小さな敗北音が鳴る。
リディアが答えた。
「白華隊の臨時協力員だ。星の塔封鎖任務に関わる」
「臨時協力員」
門衛は、とおるを改めて見た。
その視線には、疑問が含まれている。騎士団の臨時協力員にしては、鎧も着ていない。剣士らしい体格でもない。魔導師のローブでもない。どちらかといえば、村の書庫で本を抱えていそうな青年である。
門衛の困惑は正しい。
とおる自身も、自分を見たら同じ顔をする自信があった。
「壁山とおるです」
彼は控えめに頭を下げた。
「よろしくお願いします」
門衛は丁寧にうなずき、リディアへ視線を戻した。
「通行を許可します。王都本門まで、風路は開いております」
「ご苦労」
リディアが短く答える。
馬車が動き出し、巨大な根門の下へ進む。
根の内側は、影の洞窟のようだった。
頭上を世界樹の根が覆い、その表面には自然の木目とも魔力回路ともつかない光の筋が走っている。石造りの補強壁には古い巡礼歌の一節が刻まれ、風が通るたび、文字の溝から微かな音が鳴った。馬車の車輪が石畳を踏む音と、根の奥を流れる低い魔力の響きが重なり、まるで大地そのものの心音を聞いているような気分になる。
とおるは無意識に息を止めていた。
根門を抜けた先で、視界が一気に開ける。
王都が見えた。
その街は、世界樹の根元に広がっていた。
城壁は二重、三重に巡らされ、外郭には商人や職人の街区、中郭には貴族邸や騎士団施設、内郭には王城と神殿群がある。白い石を基調とした建物は世界樹の影を受けて薄い緑に染まり、屋根は青灰色、塔の尖端には金の飾りが光っている。街を囲む水路は世界樹の根を避けながら曲がり、いくつもの橋が光る帯のように架かっていた。
王城は、世界樹の巨大な根に抱かれるように建っている。
城の背後には、幹そのものが聳え立つ。人間の王が作った城と、神話以前から存在する樹。石と葉、剣と風、王権と信仰。それらが互いに寄りかかりながら、ひとつの景色を形作っていた。
とおるは、言葉を探した。
巨大。
荘厳。
神秘的。
全部足りない。
前世で見た高層ビルも、テレビで見た歴史的建造物も、ゲームの背景で眺めたファンタジー王都も、頭の中で比較対象として次々に出てきては、世界樹の根元に置かれた小石のように小さくなっていった。
「……これが王都」
「王都アルヴェリオン」
リディアが言った。
「風の大陸中央、世界樹の根に守られた王国の首都だ」
「名前まで強い」
「また妙な感想を」
「だって、クルム村から来た身としては、情報量が多すぎるんですよ。村は畑、家、井戸、森、たまに魔物、くらいの構成だったのに、急に世界樹、三重城壁、王城、神殿群、騎士団本部、たぶん貴族、たぶん政治、たぶん面倒な人間関係ですよ」
「最後が本音か」
「かなり」
エルネが笑った。
「王都は面倒ですよ。人も多いですし、部署も多いですし、偉い人も多いですし、同じ質問を別々の場所で何度も聞かれます」
「俺、もう帰りたいです」
「まだ入っていませんよ」
「入る前に帰りたい場所ってありますよね」
「分かります」
「エルネさんは分かってくれる」
「私も王宮魔導院の審査会は毎回帰りたくなります」
「審査会」
「研究費を出すかどうか、偉い人たちが難しい顔をして聞いてくる会です」
「前世にも似たような地獄がありました」
「どの世界にもあるんですね」
リディアが短く言った。
「お前たちは王都を地獄扱いするな」
「リディアさんにとっては本拠地ですもんね」
「そうだ」
「俺にとっては完全にアウェーです」
「白華隊の詰所へ入れば、当面は私の管理下だ」
「その言い方、安心と不安が同時に来ます」
「不満か」
「ノクスさんの管理下よりは、千倍安心です」
「なら問題ない」
「比較対象が最悪だと、だいたいのものが良く見える法則ですね」
馬車は王都外郭へ向けて進む。
近づくほど、街の音が大きくなっていった。
車輪の音。
人々の声。
鐘の響き。
商人の呼び込み。
遠くで奏でられる笛。
水路を行く小舟の櫂が水を叩く音。
上空を横切る翼馬の羽ばたき。
魔力灯の整備をしている職人たちの掛け声。
それらすべてが重なり、王都という巨大な生き物の呼吸になっている。
とおるは窓の縁を握った。
人混みは苦手だ。
政治も苦手だ。
偉い人も苦手だ。
自分の正体を問い詰められるのも苦手だ。
訓練場もたぶん苦手だ。
苦手なものだらけである。
それでも、この王都へ来た。
クルム村を守るため。
星の塔の秘密を知るため。
自分の〈壁〉が何なのかを知るため。
そして、ノクスに勝手に実験体として扱われないため。
最後の理由が非常に現実的で、本人としては一番切実だった。
外郭門に着くと、さらに多くの門衛が並んでいた。巨大な門は白い石と世界樹の根材を組み合わせて作られ、扉の表面には風と葉と剣を描いた紋章が刻まれている。門の上には巡回騎士が立ち、左右の塔には大型の魔力砲らしき装置が据えられていた。
とおるはそれを見上げる。
「あの大砲みたいなの、飾りではないですよね」
「魔力投射砲だ」
リディアが答える。
「王都防衛用ですか」
「大型魔獣や飛行兵器に備えている」
「飛行兵器」
「センターブルーが魔導飛空艇の開発を進めているという情報がある」
「国際情勢が門の上に載っている」
「王都とはそういう場所だ」
門をくぐると、外郭市街が広がった。
そこは、とおるが今まで見たどの街よりも活気に満ちていた。
石畳の大通りには色とりどりの天幕が並び、果物、布、金属細工、香辛料、魔力石、紙束、楽器、薬草、焼き菓子、見たことのない貝殻、用途不明の小さな人形まで売られている。店先では職人が銅鍋を叩き、露店の少年が焼き串を掲げ、巡礼者たちが世界樹の葉を模した護符を買い、騎士見習いらしき若者たちが真新しい剣帯を自慢し合っていた。
建物は三階、四階建てが多く、上階からは洗濯物が風に揺れている。窓辺には花鉢が置かれ、壁には水路から引いた小さな管が走り、ところどころに魔力灯が吊るされていた。路地の奥では猫に似た尾の長い獣が魚を狙い、子どもたちがそれを追いかけている。
クルム村にはない密度だった。
生活が重なり、匂いが重なり、声が重なり、時間が重なる。
とおるは、その圧に少し怯えた。
同時に、胸の奥が少しだけ高鳴るのも感じた。
新しい街。
新しい情報。
新しい本。
新しい料理。
新しい魔術理論。
そして、おそらく新しい面倒事。
面倒事の比率が高そうな点を除けば、未知の場所は嫌いではない。ひとりで静かに見て回れるなら、むしろ好きだった。問題は、現在の彼が白華隊の馬車に乗せられ、王国機密を背負い、騎士団長の管理下にあり、世界の外側から来た疑惑を抱えていることだった。
観光客ではない。
参考人寄りの臨時協力員である。
とおるは、肩を落とした。
「どうした」
リディアが問う。
「街はすごいなと思いました」
「そうか」
「その上で、俺の立場はだいぶ楽しくないなと思いました」
「正直だな」
「正直に言うくらいしか、心の逃げ場がないので」
「逃げ場は必要か」
「必要です」
「なら、白華隊の詰所に部屋を用意する。王宮に呼ばれるまでは、そこを拠点にしろ」
「個室ですか」
「希望するなら」
「希望します。心の壁を維持するために」
「分かった」
「意外とすんなり」
「お前が常に人前にいると、無駄に消耗しそうだからな」
「理解されている」
「管理対象の状態把握は重要だ」
「やっぱり管理対象なんですね」
馬車は外郭市街から中郭へ向かう坂道を上がった。
街の雰囲気が少しずつ変わっていく。市場の喧騒は遠ざかり、石造りの大きな建物が増え、街路樹が整えられ、兵舎や官庁らしき施設が並ぶ。通りを歩く人々の服も上質になり、馬車の数も増えた。世界樹の根はこのあたりでは地面の下へ潜っているものの、時折石畳を押し上げるように緩やかな隆起を作り、その上には小さな祠や灯籠が置かれている。
さらに進むと、騎士団区画が見えた。
白い石壁に囲まれた広い敷地。訓練場。武器庫。宿舎。厩舎。魔導通信塔。各隊の紋章を掲げた建物。旗が風に鳴り、訓練中の騎士たちの掛け声が響いている。
十二の花を冠する王樹十二華騎士団。
その一角に、第九華隊〈白華〉の詰所があった。
白を基調とした質実な建物で、入口には白い花弁を盾の形に組み合わせた紋章が掲げられている。華やかすぎず、飾り立てすぎず、清潔で、硬く、静かな威圧感がある。いかにもリディアの隊らしい、ととおるは思った。
馬車が止まる。
リディアが先に降りると、詰所前にいた騎士たちが一斉に敬礼した。
「隊長、お帰りなさいませ」
「留守中の報告は後で聞く。まずは客室を一つ用意しろ。臨時協力員を置く」
騎士たちの視線が、とおるへ集まる。
とおるは馬車から降りかけた姿勢で固まった。
片足が地面、片足が馬車、荷物袋が肩、顔には「今すぐ空気になりたい」と書いてある。
白華隊の騎士たちは、困惑した。
無理もない。
隊長が連れ帰った臨時協力員が、登場時点で馬車の段差に負けかけているのである。
とおるは小さく会釈した。
「壁山とおるです。しばらくお世話になります」
沈黙が、ほんの一瞬落ちる。
その中で、一人の若い女性騎士が目を丸くした。
「壁山……?」
別の騎士が小声で言う。
「まさか、隊長と決闘したという」
「おい、声が大きい」
「壁の術式の」
「噂は本当だったのか」
「隊長が村で」
リディアの魔力が、静かに白く揺れた。
騎士たちは一瞬で口を閉じた。
とおるも口を閉じた。
世界樹の根元、王都アルヴェリオン、第九華隊〈白華〉詰所前。
旅の始まりにふさわしい荘厳な景色の中で、最初に訪れた危機は、王国機密でもセンターブルーでも七大罪人でもなく、隊長が壁に埋まった件がどこまで噂になっているのか問題だった。
リディアは、ゆっくりと騎士たちを見回した。
「何か聞きたいことがある者はいるか」
誰も答えなかった。
非常に良い判断だった。
とおるは、心の中で白華隊の皆さんに拍手した。空気を読める集団である。前世の学校でも、このレベルで空気を読めるクラスなら、ぼっち生活はもう少し楽だったかもしれない。
「壁山とおるは、星の塔封鎖任務に関わった協力者だ。王都滞在中、白華隊の管理下に置く。余計な詮索、不要な接触、無断の尋問、噂の流布を禁じる」
「はっ!」
騎士たちが一斉に返事をする。
とおるは少し安心した。
直後、リディアがこちらを見た。
「お前も、余計なことを言うな」
「俺側にも口止め」
「当然だ」
「はい」
こうして、とおるの王都生活は始まった。
世界樹の影の下。
王国の中心。
白華隊の詰所。
政治と神話と古代遺構と国際情勢が複雑に絡み合う、風の大陸最大の都市。
彼はそこへ、村の干し芋と書き写したノートと、世界の外側から来たという秘密と、妙に危険な〈壁〉のスキルを抱えて足を踏み入れた。
部屋へ案内される途中、とおるは窓の外に見える世界樹をもう一度見上げた。
巨大な幹は、王都のどこからでも見える。
その存在感は、街の中心にあるというより、街全体がその影の中に生きていることを示していた。人々は笑い、働き、祈り、争い、恋をし、商売をし、剣を振り、書類を書き、噂をし、王命に従い、時に逆らい、すべて世界樹の葉音の下で日々を送っている。
クルム村とは違う。
まるで違う。
とおるは、その違いに圧倒されながらも、小さく息を吸った。
「とりあえず、個室があるだけでかなり助かるな……」
壮大な王都への第一歩としては、非常に地味な感想だった。
それでも、とおるにとっては大切だった。
世界の運命も、王国の機密も、星の塔の謎も、きっとこれから否応なく押し寄せてくる。
その前に、まずは扉を閉められる部屋がほしい。
壁山とおるという人間は、どれほど世界が広がっても、結局のところ壁の内側で一息つく時間を必要とする男なのである。




