第10話 白華の詰所と、隊長信仰の深すぎる人々
王樹十二華騎士団という名は、世界樹から生まれた。
もちろん、騎士団が本当に世界樹の枝からぽこぽこ実のように生まれたわけではない。そうであれば王国の人事局はだいぶ楽になっただろうし、騎士学校の入学試験も「今年は実りが良いですね」で済んだかもしれない。現実には、剣を握り、魔力を鍛え、試験に落ち、再挑戦し、教官に怒鳴られ、泥にまみれ、ようやく選ばれた者たちが騎士となる。
それでも、王国において「王樹」の名は特別だった。
世界樹は、風の大陸の中心に立つ。
その根は地脈を押さえ、その枝は空の流れを整え、その葉は魔力を清め、その影は王都を守る。王国がまだ小さな城塞都市にすぎなかった時代、世界樹の根元に集った十二の守護団が、各地の魔物災害や戦乱から民を守ったという伝承がある。
彼らは、それぞれ世界樹の根に咲く十二の花を紋章に掲げた。
赤く燃える花は戦場の矛となり、青く揺れる花は海と水路を守り、黒く沈む花は禁忌の知を探り、白く清らかな花は民を守る盾となった。
その十二の守護団が王国の成立とともに統合され、やがて王樹十二華騎士団と呼ばれるようになった。
騎士団の理念は、ひとことで言えば「王国を守る」である。
言葉にすれば単純だ。
門番でも言える。村の自警団でも言える。酒場で三杯目の麦酒を飲んだ農夫でも、胸を張れば言えるかもしれない。
王樹十二華騎士団における「守る」は、もう少し重い。
王を守る。
民を守る。
地脈を守る。
世界樹を守る。
歴史を守る。
まだ名も知らぬ災厄が眠る場所を見張り、誰にも称賛されないまま古い封印を維持し、国境の向こうから来る刃を受け、時には王国そのものの過ちを背負い、民の前に立つ。
その中で、第九華隊〈白華〉は、古くから「汚れなき盾」と呼ばれてきた。
白華の紋章は、白い花弁を重ねて作られた盾である。
花でありながら盾。
柔らかさと硬さ。
清らかさと苛烈さ。
その矜持は、弱き者の前に立つこと。
避難民の護送、魔物災害時の防衛線構築、聖属性を用いた呪染地帯の浄化、王都内の重要施設警備、戦時における後衛民間区画の防衛。白華隊は華々しく敵陣へ切り込む隊ではなく、背後にいる者たちへ刃を届かせないための隊だった。
ゆえに、白華隊の詰所もまた、隊の性質をそのまま形にしたような場所だった。
華美ではない。
無骨でもない。
白い石材で建てられた三階建ての本棟を中心に、訓練場、宿舎、資料室、礼拝室、武器庫、医務室、馬房、補給倉庫、魔導通信室が中庭を囲むように配置されている。敷地を囲う壁は高すぎず、外部を威圧する要塞というより、守るべきものを内側へ収めるための囲いに近い。門の上には白華の紋章が掲げられ、朝日を受けるたび、花弁の縁が淡く光る。
本棟の正面玄関へ入ると、広い受付広間がある。
床は磨かれた白石で、壁には歴代隊長の肖像画が並び、奥の大階段は左右に分かれて二階へ伸びている。天井から吊るされた魔力灯は、昼でも柔らかな光を放ち、空気には金属油、革、紙、乾いた花、そしてどこか神殿めいた清潔な香りが混ざっていた。
壁山とおるは、その詰所二階の客室で目を覚ました。
目を覚ました瞬間、天井が高すぎて少し腹が立った。
天井が高い。
壁が白い。
窓が大きい。
寝台が広い。
布団が柔らかい。
枕がふかふかしている。
机には花瓶まで置かれ、朝の光を受けた白い花が、まるで「あなた、昨日まで辺境の村にいたそうですね。こちら王都標準のおもてなしです」と言わんばかりに上品な顔をしていた。
とおるは寝台の上で頭を抱えた。
「昨日まで長閑な辺境の田舎で、村の水路とか山羊の脱走とかを相手にしていたはずなのに、なんでこんな貴賓室みたいなところで寝泊まりしてるんだろう……」
自分の声が広い部屋に寂しく響いた。
クルム村の自宅は、もっと狭かった。
天井には梁が見え、雨の日には屋根を叩く音が近く、寝台の横には書き写した文献と道具箱が雑に積まれ、窓を開ければ鶏の声と畑の匂いが入ってきた。安心できる小ささだった。自分の手が届く範囲に生活が収まっている感覚があった。
この客室は、手が届かない。
広すぎる。
清潔すぎる。
布団が自分より偉そうだった。
彼は寝台から降り、恐る恐る床へ足をつけた。靴下越しにも石床の冷たさが伝わる。部屋の隅には洗面台があり、魔力で温められた水が陶器の鉢へ細く流れている。壁には呼び鈴の紐があり、引けば使用人か騎士が来るらしい。
とおるは紐から一歩離れた。
用もないのに誰かを呼びつける文化に、彼の心はまだ対応していなかった。
顔を洗い、服を整え、荷物袋からクルム村の干し芋を一枚取り出そうとして、彼は手を止めた。
朝食が用意されていると言われている。
白華隊の食堂。
つまり、知らない騎士たちがいる場所。
つまり、社交イベントである。
とおるの身体は、干し芋を手に取ったまま静止した。
このまま部屋で食べれば安全である。
誰にも会わない。
誰にも見られない。
誰にも「あなたが隊長を壁に」と聞かれない。
平和だ。
理想的だ。
その時、扉が叩かれた。
「壁山さん、起きていますか?」
エルネの声だった。
とおるは干し芋を袋へ戻した。
逃げ場は消えた。
「起きています」
「朝食に行きましょう。初日なので案内しますね」
「はい。今、心の準備をしています」
「必要なら待ちますよ」
「待たれると余計に申し訳なくなるので、すぐ行きます」
扉を開けると、エルネが測定器入りの肩掛け鞄を持って立っていた。研究者らしく、朝からすでに目が覚めきっている。いや、彼女の場合、眠っている時間も頭の一部は測定値のことを考えていそうだった。
「よく眠れました?」
「寝台が柔らかすぎて、自分の社会的立場との落差で何度か目が覚めました」
「繊細ですねえ」
「陰キャの睡眠は環境変化に弱いんです」
「なるほど。記録しておきます」
「しなくていいです」
廊下へ出ると、朝の詰所はすでに動き出していた。
甲冑を整える騎士。
書類を抱えて走る事務官。
剣帯を締めながらパンをかじる若い隊員。
礼拝室へ向かう神官。
中庭からは木剣がぶつかる乾いた音と、教官らしき人物の厳しい声が聞こえる。
白華隊の朝は早い。
クルム村の朝も早かった。畑仕事のある村は、日が昇れば自然に動き出す。ところが白華隊の朝には、農作業とは違う緊張感があった。全員が何らかの役割を持ち、時間に沿って動き、訓練と任務と警備が重なり合っている。
とおるは廊下の端を歩いた。
端は落ち着く。
王都の詰所でも、辺境の集会所でも、学校の教室でも、端は人類に残された避難地帯である。
「真ん中を歩いても大丈夫ですよ」
エルネが言う。
「大丈夫かどうかではなく、魂の配置の問題です」
「壁際が好きなんですね」
「はい」
「やっぱり壁山さんですね」
「名前に引っ張られている気がします」
食堂は一階の中庭側にあった。
広い。
長机が何列も並び、隊員たちが朝食を取っている。焼きたての黒麦パン、卵、塩漬け肉、豆のスープ、薄く切った果物、温かい茶。騎士団の食事と聞いて質素な軍隊飯を想像していたとおるは、意外なほど整った内容に目を丸くした。
「白華隊は防衛任務が多いので、食事管理もしっかりしています」
エルネが説明する。
「戦場で倒れる前に、食堂で倒れない身体を作る。前隊長の方針だったそうです」
「いい方針ですね」
「隊長もそこはかなり厳しいですよ。任務前に食べない隊員は怒られます」
「リディアさん、食事にも厳しいんですか」
「睡眠、食事、訓練、報告書、装備管理、全部厳しいです」
「逃げ場がない」
席へ向かう途中、食堂内の視線がとおるへ集まり始めた。
一人が見る。
二人が気づく。
三人目が小声で何かを言う。
四人目が振り返る。
空気が広がる。
噂というものは、王都でも村でも変わらない。違いがあるとすれば、村の噂は山羊と井戸端を経由し、王都の噂は事務官と訓練場と魔導通信塔を経由する点くらいである。伝達速度はどちらも恐ろしい。
「あれが……」
「星の塔の……」
「隊長が連れてきた……」
「壁の……」
「例の……」
とおるは無言で席へ着いた。
椅子がほしい。
壁がほしい。
できれば、周囲三百六十度を覆う精神的な壁がほしい。
物理的に出すと問題になるので出さない。
朝食の盆を受け取ると、正面に座っていた青年騎士が、緊張した顔で話しかけてきた。
「あ、あの、壁山殿」
「はい」
「お噂は、かねがね」
「噂の種類によっては、今すぐ忘れてください」
青年騎士は露骨に視線を泳がせた。
「そ、その、隊長と決闘されたとか」
「しました」
「勝ったとか」
「形式上は」
「隊長が、その、壁に」
「食事中に適さない話題です」
「申し訳ありません!」
青年騎士は勢いよく頭を下げた。
食堂の端で誰かがむせた。
とおるはスープを一口飲む。
温かい。
美味しい。
胃にやさしい。
それに対して周囲の空気は胃に厳しい。
「壁山さん、もう話題の中心ですね」
エルネが楽しそうに言う。
「中心にいたくないです。中心は陽キャの居住区です」
「白華隊で隊長に勝った人なんて、そうそういませんから」
「勝ったという単語が独り歩きしているんですよね」
「しかも、隊長を壁に封じたという部分が非常に独創的です」
「独創性を評価しないでください」
そこへ、盆を持った女性騎士が近づいてきた。
年は二十代半ば。赤茶色の髪を短くまとめ、快活そうな目をしている。甲冑ではなく訓練着姿で、腰には木剣。歩き方からして、かなり強そうだった。
「君が壁山とおるか」
「はい」
「私は第九華隊四席、クラリッサ・ロウ。隊長から、臨時協力員の世話をしろと言われている。困ったことがあれば言え。白華の流儀に慣れない者は、最初の三日でだいたい食堂と訓練場と書類窓口のどれかに迷い込む」
「書類窓口にも迷い込むんですか」
「一度入ると、何かしら書かされる」
「怖い」
クラリッサは豪快に笑い、とおるの隣へ座った。
「噂の件で絡まれたら、私に言え。隊長が直接禁じている以上、白華の隊員が無礼を働くことはないはずだ」
「ありがとうございます」
「まあ、 curiosity は止められん」
「急に異国語っぽい発音」
「王都学士院の友人に教わった。意味は好奇心だ」
「好奇心」
「全員、君に興味津々だ」
「それを止めてほしいんですが」
「難しいな」
クラリッサはパンを豪快に割った。
「隊長は人気があるからな」
その一言をきっかけに、食堂の空気が少し変わった。
とおるは、ちらりと周囲を見た。
リディア・アルヴェイン。
第九華隊〈白華〉隊長。
二十歳にして王樹十二華騎士団の隊長格。
聖属性と水属性を操る天才剣士。
白禍月の使い手。
顔が良い。
スタイルも良い。
頭脳明晰。
剣は最強クラス。
誇り高く、真面目で、民を守る意志も強い。
このスペックを並べると、人気が出ないほうがおかしい。
とおるは納得した。
むしろ、あの人が王都で人気ないです、と言われたほうが世界のバランスを疑う。
「人気って、どれくらいですか」
とおるが尋ねると、クラリッサはにやりと笑った。
「白華隊内には隊長を尊敬する者が多い」
「それは当然そうでしょうね」
「尊敬しすぎて、隊長の訓練時の言葉をまとめた語録を作った者がいる」
「語録」
「『食事を抜くな、剣が鈍る』『言い訳は術式に含まれない』『守ると言ったなら倒れる場所を選べ』などが人気だ」
「言葉が強い」
「さらに、魔導印画による隊長の演武記録冊子もある」
「写真集では?」
「正式名称は、白華隊長演武記録保存冊子だ」
「写真集では?」
「非公式にはそう呼ばれている」
とおるは額を押さえた。
リディアの写真集。
正確には魔導印画冊子。
王都の文明は、思ったより前世に近いところで妙な発展をしている。
「持っている人がいるんですか」
クラリッサは周囲を見た。
数人の騎士が露骨に目を逸らした。
「いるな」
「いるんですね」
「中には保存用、閲覧用、布教用で三冊持つ者もいる」
「完全にファン活動じゃないですか」
「他隊にもあるぞ。第一華隊の隊長は貴族令嬢人気が高いし、第四華隊の隊長は吟遊詩人に歌われすぎて本人が困っている。第六華隊長ノクスにも、少数ながら熱狂的支持者がいる」
「ノクスさんにも?」
「研究者界隈では、ああいう危険人物を好む者がいる」
「世界は広い」
「そして白華隊長は、強さ、美貌、清廉さ、若さ、厳格さ、全部揃っている。王都の騎士志望者や貴族子女の間では、かなり有名だ」
とおるは納得した。
顔良し、スタイル良し、頭脳明晰、最強クラスの剣士。
そんな存在が現実にいたら、人気が出るに決まっている。
前世なら、特集記事が組まれ、動画が切り抜かれ、ファンアートが増え、本人の知らないところで二次創作まで生まれていたかもしれない。異世界でも人間のやることはあまり変わらない。
そのリディアを。
自分は。
壁に。
とおるは静かにスープを飲んだ。
罪の味がした。
「だから、君の噂は広がりやすかった」
クラリッサが言う。
「『辺境の村で謎の壁使いが隊長を破った』というだけでも大事件だ。そこに『隊長が壁に封じられた』『隊長が壁へ吸い込まれた』『隊長が異空間へ半分消えた』『隊長が壁の精霊と契約した』『隊長が壁の向こうで三分間説教していた』など、根も葉もない噂が追加された」
「最後だけ少しありそうで嫌ですね」
「実際はどうだったんだ」
クラリッサの目が好奇心で輝く。
とおるはスプーンを置いた。
「隊長から口止めされています」
「そうか。なら聞かない」
「助かります」
「命は惜しいからな」
「理由が正直」
その時、食堂の入口で小さなざわめきが起きた。
とおるが顔を上げると、一人の少女が立っていた。
年は十五歳ほど。
背はまだ高くないものの、立ち姿は驚くほど整っている。白を基調にした訓練用の軽装鎧をまとい、肩口で切りそろえた銀灰色の髪が、朝の光を受けて淡く輝いていた。瞳は薄い菫色。顔立ちは幼さを残しているのに、眉の角度と口元の結び方だけは、まるで誰かの厳格さを必死に真似ているように硬い。
腰には細身の片手剣。
柄には白華の紋章。
その鞘は彼女の身長に対して少し長く見えたものの、本人の纏う気配は剣に振り回される新人のものではなかった。
少女は食堂をまっすぐ横切り、とおるの席の前で止まった。
周囲の騎士たちが、少し緊張した顔になる。
クラリッサが小さくため息をついた。
「来たか」
「知り合いですか」
「白華隊見習い騎士、ミレイユ・アスター。十五歳。次期三席候補と呼ばれている天才だ」
「十五歳で候補」
「剣術の才能だけなら、私より上かもしれん」
「すごいですね」
「性格に少し難がある」
「その紹介、だいたい不穏です」
ミレイユと呼ばれた少女は、とおるを鋭く見下ろした。
見下ろすと言っても身長差の関係で、実際には少し見上げ気味である。にもかかわらず、態度は完全に上からだった。
「貴様が壁山とおるか」
声は凛としている。
言葉遣いは、妙にリディアに似ている。
似ているというより、かなり影響を受けている。
「はい。壁山とおるです」
「立て」
「朝食中です」
「立てと言っている」
「パンをまだ半分しか」
「立て」
とおるはクラリッサを見た。
クラリッサは肩をすくめた。
エルネは興味深そうに見ている。助ける気配は薄い。研究者は新しい現象を見るとまず観察する。とおるはまたひとつ学んだ。
「ええと、何かご用でしょうか」
ミレイユの眉がぴくりと動いた。
「貴様が隊長に勝ったという噂を聞いた」
「噂です」
「事実ではないのか」
「形式上は事実ですが、実質的には事故と奇跡と油断と不可抗力と状況の暴走が鍋で煮込まれたようなものです」
「意味が分からん」
「俺も説明しながらそう思いました」
ミレイユは一歩近づいた。
「隊長が、貴様のような男に敗れるはずがない」
食堂が静かになる。
その声には、怒りだけではないものがあった。
憧れ。
尊敬。
信仰に近いほどの敬慕。
リディアという存在を目標にして、背中を追い、言葉遣いまで真似し、剣を振り続けてきた少女にとって、「隊長が辺境の青年に敗れた」という噂は、どうしても受け入れ難いものだったのだろう。
とおるは少し困った。
気持ちは分かる。
自分でも、昨日の自分がリディアに勝ったとは思っていない。
正しくは、リディアが本気を出しておらず、自分の〈壁〉が妙な形で境界へ干渉し、結果としてとんでもなく気まずい勝敗判定が成立した。説明しても信じてもらえなさそうな真実である。
「ミレイユさん」
「呼び捨てでよい。貴様に敬称をつけられる筋合いはない」
「初対面で圧が強い」
「私は貴様を認めていない」
「認められたいというより、できれば平和に朝食を終えたいです」
「立て」
「話が戻った」
ミレイユは剣の柄に手を置いた。
「私と立ち合え」
「嫌です」
とおるは即答した。
食堂の一部から、小さく笑いが漏れた。
ミレイユの目が見開かれる。
「嫌、だと?」
「はい。俺は今、王都に来たばかりで、人混みと世界樹と白華隊の食堂と隊長写真集の存在で精神的にかなり疲れています。さらに十五歳の天才剣士と立ち合う元気はありません」
「写真集?」
ミレイユの耳がわずかに赤くなる。
クラリッサが吹き出しそうになった。
「お前も持っているのか?」
「持っていない!」
ミレイユが叫ぶ。
叫び方が少し速かった。
とおるは察した。
持っている。
おそらく保存用までは行かずとも、一冊はある。
もしかすると、隊長語録も持っている。
「とにかく!」
ミレイユは強引に話題を戻した。
「隊長は白華の誇りだ。王国の剣だ。汚れなき盾そのものだ。その隊長が、辺境の村人に敗れたなどという話を、私は受け入れない」
「俺も正直、受け入れきれていません」
「ならば立ち合え。貴様の実力を見れば、噂がどの程度のものか分かる」
「俺の実力を見ると、たぶん余計に混乱しますよ」
「逃げるのか」
「逃げたいです」
「卑怯者」
「心に刺さる単語」
ミレイユは、とおるの腕を掴んだ。
小柄な少女とは思えない力だった。魔力で身体強化しているのか、鍛え方が違うのか、とおるの身体はあっさり椅子から引き剥がされる。
「ちょ、ちょっと待ってください。パンが」
「立ち合いが先だ」
「朝食は大事だって隊長が言ってませんでした?」
ミレイユが止まった。
効いた。
リディア語録、効く。
とおるは希望を見た。
「隊長が、食事を抜くな、剣が鈍る、と言っていたのでは?」
ミレイユはわずかに動揺した。
「そ、それはそうだ」
「なら朝食を」
「持っていけ」
「持ち運び式」
彼女はとおるの盆からパンをひとつ掴み、彼の手に押しつけた。
「食べながら来い」
「騎士団の合理性が強引」
クラリッサが立ち上がろうとした。
「ミレイユ、隊長の許可なく勝手に立ち合いを」
「訓練場での確認だ。問題ない」
「問題あるだろう」
「私は確かめる必要がある」
「その性格が難ありと言われる所以だぞ」
「知っている」
「自覚ありで突き進むな」
ミレイユはとおるの腕を引いたまま、食堂の出口へ向かう。
周囲の騎士たちが興味津々で立ち上がり始めた。
とおるは助けを求めるようにエルネを見た。
エルネは測定器を手にしていた。
「せっかくなので、壁山さんのスキル反応を王都の地脈環境で測ってみますね」
「助ける気がない!」
クラリッサは苦笑しながら後を追う。
「一応、私も行く。大怪我はさせん」
「大怪我の可能性がある時点で怖いです」
「訓練場だからな」
「訓練場って、もう少し安全な響きであってほしかった」
白華隊の詰所の中庭を抜けると、訓練場が広がっていた。
白い砂を敷いた広い円形の場で、周囲には低い観覧段と武器架が並び、奥には魔力障壁用の石柱が等間隔で立っている。朝の訓練をしていた隊員たちは、ミレイユがとおるを引っ張ってくるのを見るなり、何事かと集まってきた。
噂の中心。
隊長を壁に封じた男。
次期三席候補の天才少女。
この組み合わせは、娯楽に飢えた騎士たちにとって十分すぎる見世物だった。
とおるは周囲の視線を浴びながら、心の中で呻いた。
昨日まで辺境の村でのんびり暮らしていたはずなのに。
今朝は貴賓室みたいな部屋で目覚め。
食堂では隊長写真集の存在を知り。
朝食途中で十五歳の天才剣士に腕を掴まれ。
現在、王都の騎士団詰所の訓練場へ連行されている。
人生の展開速度が、完全に馬車の制限速度を超えている。
ミレイユは訓練場の中央で手を離した。
とおるはパンを持ったまま立っている。
絵面が弱い。
相手は白華の天才剣士。
こちらは朝食のパンを握る臨時協力員。
「食べていいですか」
とおるが尋ねると、ミレイユは一瞬だけ眉を寄せた。
「……早くしろ」
「ありがとうございます」
とおるはパンを一口食べた。
騎士たちの視線が刺さる。
人生で一番注目された食事だった。
ミレイユは木剣を一本取り、もう一本をとおるへ投げた。
とおるは受け取れず、木剣は足元に落ちた。
訓練場の空気が、少しだけ不安になる。
「拾え」
「はい」
とおるは木剣を拾った。
重い。
いや、実際にはそこまで重くない。問題は、彼の心が重いのである。
「俺、剣はそこまで得意じゃないんですが」
「壁を使えばいい」
「使っていいんですか」
「当然だ。貴様の実力を見ると言った」
「壁を使うと、たまに妙なことになるので」
「言い訳は術式に含まれない」
「隊長語録!」
ミレイユは木剣を構える。
構えた瞬間、空気が変わった。
幼さが消える。
彼女の身体から細い魔力が立ち上り、白い炎のように揺れた。リディアの聖魔力ほど澄みきってはいない。水属性の柔らかさもない。それでも、若い才能特有の鋭い熱がある。刃先へ向かって一直線に伸びる、迷いの少ない白い火。
とおるは、パンを飲み込み損ねそうになった。
強い。
十五歳。
次期三席候補。
紹介された言葉の意味が、ようやく身体で分かった。
ミレイユ・アスターは、リディアへの憧れをただ真似事で終わらせている少女ではなかった。喋り方はだいぶ影響されすぎている。態度もかなり面倒くさい。隊長写真集を持っていそうな気配もある。
それでも、剣を構えた姿は本物だった。
「私は、リディア隊長の敗北を認めない」
ミレイユは言った。
「貴様が本当に隊長を止めたというなら、その壁を見せろ」
とおるは木剣を構えた。
構えはかなり素人臭い。
周囲の騎士たちが少しざわめく。
それも仕方ない。剣の勝負であれば、彼はミレイユに勝てない。百回やって百回負ける自信がある。百一回目は途中で帰りたい。
彼の戦い方は、剣ではない。
相手の動きが成立するための空間。
攻撃が届くための道。
魔力が流れる隙間。
そこに、壁を差し込む。
とおるは息を吸った。
気脈を広げる。
王都の地脈は、村とは違った。世界樹の根が近いせいか、魔力の流れが太く、空気そのものが濃い。扱いやすいようで、逆に飲まれそうになる。大きな川のそばで小さな水路を作るような感覚だった。
ミレイユの白い炎が、剣先に集まる。
とおるの〈壁〉が、薄く形を取り始める。
クラリッサが観覧段から声をかけた。
「両者、訓練用障壁内で行う。殺傷術式は禁止。危険と判断すれば私が止める」
「承知した」
ミレイユが短く答える。
「できれば早めに止めてください」
とおるも答える。
周囲から笑いが漏れた。
ミレイユは笑わない。
彼女の菫色の瞳は、ただまっすぐとおるを見ていた。
「行くぞ」
白い炎が、剣の間合いを染める。
とおるは悟った。
これは、ただの喧嘩ではない。
リディアという存在を信じる少女が、その信仰を守るために挑んできている。
そして、自分はその信仰にうっかり壁を差し込んでしまった男である。
重い。
朝食後に背負うには、かなり重い。
ミレイユの足が、白い砂を踏んだ。
剣の間合いが、一気に縮まる。
とおるは木剣を握り直し、心の中でぼやいた。
せめてパンを最後まで食べてからにしてほしかった。
白い炎と剣の間合いが、訓練場に広がり始めた。




