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第11話 壁という名の境界



 さて、ここで壁山とおるの固有スキルである〈壁〉について、いったん落ち着いておさらいしておく必要があるだろう。


 壁、と聞いて、胸の奥に勇壮な音楽が鳴り響く者は、まずいない。


 名前だけを取り出して眺めれば、それは驚くほど地味で、火を放つわけでもなく、雷を落とすわけでもなく、剣をまばゆく輝かせて敵を一刀両断するわけでもなく、竜を呼び寄せるでも、空を駆けるでも、相手の時間を凍りつかせるでも、ましてや闇の翼を広げながら「我が真名を知るがいい」などと宣言するでもない、あまりにも日常に近い単語である。


 壁、である。


 非常口の横に貼られた案内図にも、建築業者の見積書にも、村の大工爺さんが腰にぶら下げている道具箱の中身を説明する場面にも、何ひとつ違和感なく紛れ込める、英雄譚の題名としては致命的なほど生活感に満ちた言葉だった。


 とおるがこの世界に来て、自分の頭の中にステータス画面らしきものが初めて浮かび上がったとき、そこに表示されていた固有スキル名が〈壁〉であった瞬間の気持ちは、彼自身の語彙をもってしても、なかなか一言では表しがたいものがあった。


 異世界転移、謎のゲームソフト、突然放り出された森、双角の猪、死にかけた直後に開かれるステータス画面という、どう考えても勇者か何かの始まりにしか見えない流れの中で、普通ならば、誰だってそれなりに派手で、強くて、物語の中心に据えられそうな能力を期待してしまう。


 聖剣召喚、無限魔力、全属性適性、神速再生、あるいはそこまで贅沢を言わないにしても、せめて〈結界術〉くらいの、いかにも魔法職らしく、説明するだけで少し胸を張れそうな名前であってほしかった。


 しかし、表示されたのは〈壁〉だった。


 あまりにも率直で、あまりにも飾り気がなく、あまりにも生活寄りで、その場に立ち尽くした彼は、異世界にも命名センスの残酷さは確かに存在するのだと、ひどく現実的な形で学ぶことになった。


 もっとも、三年という時間は、人間の認識をかなり変える。


 最初は「地味すぎる」と思っていた能力も、毎日使い、失敗し、検証し、魔物に追われ、村の水路を直し、屋根の補強に使い、鍋の蓋に代用し、ときには王国最高戦力である女騎士団長を、非常に説明しづらい状態へ追い込むことまで経験していくうちに、とおるは少しずつ、その名の裏側に潜む厄介さと可能性を理解していった。


 〈壁〉とは、単に板を出す能力ではない。


 この世界における魔力とは、生命の内側を巡る力であり、血管が血を運び、神経が刺激を伝え、筋肉が身体を動かすように、魔力回路は意思と魂の奥に眠る力を外界へと通すための道であって、術者は呼吸と集中によってそれを練り、属性という性質を与え、術式という構造へ組み込むことで、初めて炎や水や風や聖光といった現象を生み出す。


 術式とは、魔力に与える命令書であり、同時に設計図でもある。


 たとえば炎の術式を作るならば、熱量、発火点、燃焼範囲、飛翔距離、維持時間、停止条件といった要素を定める必要があり、水の術式なら質量、流速、圧力、形状、温度、周囲の湿度との関係まで調整しなければならず、聖属性の術式ともなれば、浄化対象の定義、穢れとみなす条件、反発する魔力の処理、味方への影響範囲までも計算に含めなければならない。


 魔法は、気合いと雰囲気だけで都合よく飛んでいくものではないのだ。


 少なくとも、熟練者ほどそう考えない。


 強力な魔法ほど、その術式の内部には細かな命令が複雑に詰め込まれており、雑に撃てば暴発し、甘く組めば威力が逃げ、条件指定を間違えれば本来守るべき味方まで巻き込むことになるため、騎士や魔導師が長い訓練を積む理由も、結局のところそこに行き着く。


 剣の素振りに型があり、呼吸があり、足運びがあり、少しでも誤れば痛い目を見るのと同じように、魔力回路にも型があり、呼吸があり、力の通し方があり、失敗したときには相応の代償が返ってくる。


 一方で、スキルとは、その人間の魂、肉体、経験、性質、適性に深く結びついた固有術式である。


 訓練によって伸び、魔力回路の操作によって洗練され、使い方の発想次第で応用の幅を広げることはできるものの、それでも根元にある形だけは術者本人に縛られており、他人が同じ詠唱を真似ても、同じ手順を踏んでも、完全に再現することはできない。


 リディアの〈白露〉を、とおるが理屈だけ聞いても使えないように、とおるの〈壁〉もまた、他人が「壁よ出ろ」と唱えたところで、同じものを生み出せるわけではなかった。


 スキルとは、本人の在り方が魔力回路へ刻み込まれたもの。


 その定義を聞いたとき、とおるは少しだけ嫌な顔をした。


 自分の在り方が、壁。


 人との距離を取り、教室の端で静かに生き、社会との間に見えない仕切りを作り、友人関係も恋愛関係も攻略対象から外し、ひとりの時間こそ最も安全な領域として守り続けてきた人生の総決算が、固有スキル〈壁〉であるという事実は、納得できてしまう分だけ、余計に嫌だった。


 そんな〈壁〉の基本効果は、指定した対象と空間の間へ、魔力による遮蔽物を創造することにある。


 最も単純な使い方は、面を出すことだ。


 矢と身体の間に置く。


 牙と腕の間に置く。


 雨と窓の隙間に置く。


 落ちてくる梁と床の間に置く。


 鍋と蓋の不在の間に置く。


 最後の使い方については、リディアに知られればまた顔をしかめられるかもしれないが、生活に役立つ能力とは本来そういうものであり、英雄譚に記されないだけで、鍋の蓋問題は庶民にとってかなり切実な課題だった。


 この第一段階の〈壁〉は、物理的な板に近い。


 厚さ、硬度、大きさ、角度、設置位置を意識すれば、おおむねその通りに近い形で現れ、魔力消費も比較的少なく、反応も早いため、とおるが最初に覚えた使い方であり、同時に村で最も多く使ってきた形でもあった。


 問題は、〈壁〉がそこで終わらなかった点にある。


 第二段階として、とおるは“流れ”を遮るようになった。


 水路の水が不要な溝へ流れ込まないように薄い壁で方向を変え、魔物の突進を正面から受け止めるのではなく、斜めに置いた壁によって滑らせ、炎の熱が村人へ届かないように熱と空気の間へ魔力壁を挟み、さらには矢そのものではなく、矢の勢いが伝わる線を切る。


 このあたりから、〈壁〉はただの板ではなくなった。


 とおるの中で重要になったのは、「何と何の間に挟むのか」という認識である。


 物体と物体、力と進行方向、魔力と術式、意思と発動、動きと結果。


 そこに境界を見つけることができるなら、理屈の上では、その場所へ壁を差し込める可能性がある。


 もちろん、可能性があるというだけで、何でも好き放題できるわけではない。


 〈壁〉には、明確な制約がある。


 まず、同時に維持できる枚数は、現状三枚まで。


 一枚ごとの強度は、注ぎ込む魔力量、集中の深さ、設置対象との距離、周囲の魔力環境、そして壁に与える性質指定によって大きく上下し、目の前に小さな板を出すだけなら簡単でも、巨大な魔物の突進を真正面から止めれば、その衝撃は内側の魔力回路へ跳ね返ってくる。


 薄く広げれば広げるほど耐久は落ち、厚く固めれば固めるほど反応は遅くなるため、万能どころか、使うたびに細かな調整と判断を迫られる、地味な名前に似合わず面倒な能力でもあった。


 次に、設置には認識が必要である。


 見えている場所、気脈で捉えた場所、身体感覚で把握できる距離なら精度は高いが、背後や遠距離、動きの速い対象、空間の歪みを含む場所ではどうしても誤差が出る。


 曖昧な認識のまま壁を出そうとすれば、位置がずれたり、強度が薄くなったり、最悪の場合は術式そのものが成立しない。


 さらに、抽象的な“間”へ壁を置こうとする場合、その負荷は一気に跳ね上がる。


 剣と自分の間へ板を出す程度ならまだ分かりやすいが、剣を振る意思と腕の動きの間、魔力が術式へ変換される境目、封印と外界の接点、空間の相が切り替わる薄皮のような場所へ干渉しようとすると、とおるの頭の奥は熱を持ち、指先は冷え、視界の端には細かなノイズが走る。


 クルム村でリディアを止めたときの壁は、この第三段階に近かった。


 本来、とおるは彼女の斬撃を止めるつもりだった。


 リディアの身体を傷つけず、剣を弾き飛ばすことも避け、魔力回路と動作の接続だけを一瞬遮り、戦闘継続を難しくするという、本人なりには平和的で繊細な着地点を狙ったのである。


 その結果として起きたのは、王国聖騎士団長が集会所の外壁に封じ込められるという、歴史書にはあまり載せたくない種類の出来事だった。


 なぜそうなったのか、とおる自身、今でも完全には説明できない。


 彼の仮説では、リディアの聖属性魔力、剣の軌道、身体の重心、集会所の外壁、そして自分が差し込もうとした“間”が、あの瞬間だけ妙な形で重なってしまい、〈壁〉は物理的な壁を新しく作ったのではなく、リディアと空間の境界そのものをずらし、結果として外壁という既存の境界へ彼女を押し込む形になったのだろう、ということになっている。


 説明すればするほど、やっていることが危ない。


 とおる自身も、そう思っている。


 ゆえに彼は王都に来てからも、自分のスキルを軽々しく使うつもりはなかった。


 少なくとも訓練場で十五歳の天才剣士を相手に、いきなり第三段階の境界干渉を試す気などさらさらない。


 そんなことをすれば、ミレイユが訓練場の壁に半分めり込む可能性があり、リディアの愛弟子をそんな状態にしてしまった場合、とおるの王都生活は初日にして、白禍月による厳しい教育指導のもと終了することになる。


 それは困る。


 非常に困る。


 彼はまだ、王都の屋台も本屋も見ていないのだ。


 だから、とおるは決めていた。


 今回使うのは、第一段階と第二段階まで。


 一枚目は、自分とミレイユの木剣の間に出す正面防御。


 二枚目は、彼女の踏み込みの勢いを横へ逃がすための、斜めに置く薄い壁。


 問題は、ミレイユのような剣士を相手にしたとき、とおるが〈壁〉の“どの性質”を、“どの段階まで使うべきか”という点にあった。


 物理遮蔽だけなら、話はまだ分かりやすい。


 木剣が来る場所へ壁を出す。


 それだけである。


 ただしその「木剣が来る場所」を、彼女の速度に合わせて正確に読み取り、必要な角度と強度で壁を差し込めるかとなると、話は途端に怪しくなる。


 リディアほどではないにせよ、相手は白華隊の次期三席候補と目される十五歳の天才剣士であり、こちらが見てから受けようなどと悠長なことを考えていれば、訓練場の観客たちから「え、今から反応するつもりだったのか」という、同情と困惑が混じった顔をされて終わる可能性が高かった。


 では、位置制御ならどうか。


 足元へ壁を置けば、踏み込みを乱すことはできるかもしれない。


 しかし、相手は若いとはいえ訓練場の地面にも慣れた剣士であり、下手な段差を出して転ばせでもしたら、それはもう立ち合いというより罠に近く、周囲からの評価が「隊長を倒した謎の男」から「訓練場で未成年の足元に段差を作る危険人物」へと、かなり困った方向へ伸びていくことになる。


 魔力遮断は、もっと危ない。


 白炎の流れを少し乱す程度ならまだしも、回路へ干渉しすぎれば相手を傷つける可能性があり、しかも相手は未成年の見習い騎士で、本人が喧嘩腰で、態度が偉そうで、隊長写真集を持っていそうな気配を全身から漂わせているとしても、とおるとしては別に怪我をさせたいわけではなかった。


「どうした。構えが緩いぞ」


 ミレイユが言う。


「俺の構えはだいたい常に緩いです」


「誇ることではない」


「誇ってはいません。事実確認です」


「隊長は、弱さを自覚する者ほど警戒しろと言っていた」


「隊長語録、戦闘中にも使えるんですね」


「貴様はすぐ話を逸らす」


「逸らさないと怖いので」


 観覧段ではクラリッサが肩を揺らしながら笑いをこらえており、エルネは測定器の針を見つめたまま、「会話時の精神変動とスキル安定性の相関、興味深いですね」と、研究者としては正しいが被験者としてはまったく歓迎できない呟きを漏らしていた。


 やめてほしい。


 人の不安を、測定しやすい研究材料にしないでほしい。


 とおるは、木剣を軽く持ち直した。


 剣で勝つ気はない。


 というより、勝てるはずがない。


 必要なのは相手の攻撃を直接受けず、自分のスキルの危険な部分を出しすぎず、周囲に「隊長を倒した男はこの程度か」と思われすぎず、かといってミレイユの信仰心を真正面から粉砕するほどのこともせず、なんとか訓練として成立しているように見せることだった。


 条件が多い。


 多いというか、普通に難しい。


 ゲームならチュートリアルの小目標が四つくらい同時に並んでいる状態であり、しかもそのうち一つでも失敗すると、十五歳の天才剣士の心が傷つくか、自分の骨が傷つくか、リディアの耳に余計な噂が入り、訓練場送りの回数が増えるかのどれかに繋がる。


 どれも嫌だった。


 そこで、とおるは一枚目の壁を作った。


 位置は、自分の真正面ではない。


 ミレイユと自分の間、そのちょうど中央よりも少しだけミレイユ側、地面から膝ほどの高さに、ほとんど透明な薄い壁を斜めに置く。


 厚みは、紙より少し厚い程度。


 強度は低く、まともに蹴られれば割れる。


 目的は防御ではなく、彼女の踏み込みを読み取るための“触覚”だった。


 壁へ何かが触れれば、魔力の反響が返る。


 足がかすめるか、剣圧が触れるか、白炎が揺らぐか、その小さな変化を気脈で拾い、目で見てからでは間に合わない一瞬を壁そのものに先取りさせる。


 二枚目は、自分の左側面、肩の高さへ短く出す準備だけしておく。


 三枚目は温存する。


 三枚しか出せない以上、最後の一枚は保険として残すべきであり、村で角猪を相手にしたとき、慌てて最後の壁を鍋の蓋サイズで出してしまい、何の役にも立たなかった経験を思い出せば、保険は大事であり、保険のサイズもまた同じくらい大事だった。


 ミレイユの目が、細くなる。


「それが貴様の壁か」


「はい」


「薄いな」


「薄いほうが便利なこともあります」


「臆病者の壁だ」


「臆病者なので」


「開き直るな」


「開き直らないとやっていけない人生もあります」


 ミレイユは苛立ったように足をずらした。


 その一歩で、白い砂が小さく鳴る。


 魔力が足裏へ落ち、身体強化が膝から腰へ走り、剣先に宿った白炎が細く伸びるのをとおるの気脈感知が拾った。


 速い。


 綺麗だ。


 そして、ひどく直線的だった。


 剣を振るための動線に迷いがなく、身体のどこにも余分なためらいがない。


 リディアの歩法が水面に漂う花弁のようなものだとすれば、ミレイユの踏み込みは火をつけた矢を一直線に放つようなものだった。


 クラリッサの声が響く。


「始め!」


 ミレイユが動いた。


 白い砂が跳ね、細い身体が一気に距離を削る。


 とおるは目で追うより先に、膝下へ置いた薄壁へ伝わる魔力の揺れを感じた。


 彼女は正面から来る。


 正面に見せて、右へ抜ける。


 いや、右へ抜けると見せて剣だけが左肩へ走る。


 白炎の軌跡が、視界の端で一本の線になる。


 とおるは反射的に二枚目の壁を出しかけ、その途中で角度を変えた。


 左肩を守る壁では遅い。


 守るべきは肩ではなく、剣が肩へ届くまでの“通り道”だ。


 薄い壁が、白炎の軌道へ斜めに差し込まれる。


 木剣と壁が触れた。


 軽い音が鳴る。


 完全には止まらない。


 壁は薄く、ミレイユの斬撃は鋭く、白炎をまとった木剣は壁の表面を滑り、角度を変え、予定していた肩の軌道からわずかにずれた。


 とおるの髪先が揺れ、頬に風が触れる。


 怖い。


 ものすごく怖い。


 今のは本当に序盤の確認だったのか。


 十五歳の確認としては、強度が高すぎる。


 彼は心の中で、白華隊の教育方針に対する匿名アンケートを提出したくなった。


 ミレイユは距離を取らず、その場で剣を返した。


 返しが速い。


 手首が柔らかく、足の位置も崩れていない。


 彼女はとおるが置いた一枚目の薄壁を足先で軽く砕き、邪魔な感触だけを把握したように踏み越えてくる。


 その目にはわずかな驚きが混じっていた。


 壁が想像より薄く、そして想像より嫌な位置にあることを理解した顔だった。


「小細工を」


「小細工しかないんです」


 木剣を握る手に、汗が滲む。


 とおるは三枚目の壁を、まだ出さない。


 出したくなる。


 出せば少し安心できる。


 けれど安心のために切り札を切れば、その後がない。


 彼の人生はいつだって、安心したい気持ちと、安心した後に詰む未来との戦いでもあった。


 ミレイユの白炎が、さらに細く絞られる。


 剣先だけでなく、足裏、腰、肘へと魔力が流れ、彼女の身体全体が一本の剣へ近づいていく。


 観覧段の空気も変わった。


 騎士たちは笑うのをやめ、クラリッサは完全に審判役の顔になり、エルネの測定器は小さく震えた。


 とおるは思う。


 戦闘は、ここから本格化する。


 今のは挨拶でしかない。


 白い炎と剣の間合い。


 その本当の怖さは、まだ見えていない。


 そして彼の〈壁〉もまた、ただ攻撃を受け止めるだけのものではない。


 境界を置く。


 道をずらす。


 成立しかけた行動の途中に、薄い否定を差し込む。


 それは強者に正面から勝つための力ではない。


 弱者が潰されないために世界の隙間へ爪をかける力だ。


 ミレイユが、再び踏み込む。


 とおるは息を吸い、恐怖を飲み込み、残していた三枚目の壁へ意識を伸ばした。


 せめて、パンを最後まで食べておけばよかった。


 そんな情けない後悔を抱えたまま、彼は白い炎へ向かって、見えない境界線を引き始めた。


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