第12話 白い炎と剣の間合い
剣術とは、刃を振る技術ではない。
少なくとも、剣を握る者たちはそう教えられる。
刃を振るだけなら、ある程度の腕力と握力さえあれば誰にでもできる。薪割りの斧を振り下ろす木こりも、畑を荒らす魔物へ鍬を叩きつける農夫も、広い意味では武器を振るという行為を成立させている。そこへ剣術という名がつくためには、足の置き場、腰の向き、肩の角度、呼吸の深さ、相手との距離、刃が描く軌道、攻撃後に残る隙、次に選べる行動の数まで、一連の運動を途切れない流れとして管理しなければならない。
剣の間合いとは、刀身の長さだけで決まるものではない。腕を伸ばした距離、踏み込みで削れる空間、魔力による身体強化、相手が後退する速さ、床の硬さ、履いている靴、視界の広さ、武器同士が触れた際に生じる反発、それらを加味したうえで、初めて一振りの届く範囲が定まる。構えを見れば、おおよその攻撃方向が分かる。重心を見れば、次に踏み出す足が読める。呼吸を見れば、力を込める瞬間を推測できる。熟練者同士の立ち合いでは、剣が交わる前に幾度もの攻防が生じ、目線の動きひとつ、足指にかかる圧力ひとつが、相手へ向けた問いかけになる。
どちらが先に間合いへ入るのか。
どちらが先に相手の意図を見せるのか。
どちらが、自分の選択肢を多く残したまま相手の選択を狭められるのか。
武器戦闘の本質は、そうした可能性の奪い合いにある。
ゆえに、壁山とおるの木剣の持ち方を見た白華隊の騎士たちが、揃って何とも言えない顔になったのも無理はなかった。
握りが浅い。
肘が少し浮いている。
前足と後ろ足の幅にも確信がなく、身体の中心線を守る構えというより、突然渡された長い棒をどう持てば邪魔にならないか悩んでいる人の姿に近い。剣先はわずかに揺れ、ミレイユの目ではなく、その肩、腰、足元、周囲の地面へ落ち着きなく視線が動いている。立派な騎士の構えを期待した者からすれば、拍子抜けもいいところであり、訓練場の端に置かれた箒のほうがまだ堂々と立っているように見えた。
「……本当に、あの男が隊長を止めたのか」
観覧段のどこかから、小さな声が漏れる。
「木剣を持たせたのが間違いでは?」
「壁使いなのだから、剣の腕は関係ないのだろう」
「それにしても、もう少し何かあると思った」
失礼な感想が聞こえてくる。
とおる自身、全面的に同意していた。
剣術の基本も、対人戦闘で押さえるべき要点も、騎士団の兵士やギルドで長年戦ってきた熟練者と比べれば、劣っていると言って差し支えない。短剣の扱い方、魔物の急所、獣の突進を避ける足運び、森で不意打ちを受けないための警戒方法なら、この三年間でそれなりに身につけてきた。それも必要に迫られて覚えた生存術であり、剣士同士が技を競い、相手の構えを崩し、攻撃の主導権を奪い合う体系的な剣術とは別物だった。
とおるの戦い方は、基本的に後の先を軸にしている。
自分から手を出さない。
より正確に言えば、相手が何をするか分からない状態で、自分の選択肢を減らす行動を取らない。
先に攻撃すれば、その瞬間に体勢が動く。重心が前へ移り、腕が伸び、視線が狙った場所へ集中し、攻撃が外れれば必ず隙が生まれる。剣技に優れ、攻撃後の姿勢まで計算できる者なら、その隙を次の攻めへつなげられる。とおるには、その技術がない。彼が下手に木剣を振れば、攻撃ではなく「今からここへ隙を作ります」という親切な案内表示になり、ミレイユほどの剣士なら喜んで通ってくるだろう。
戦わずに済むなら、戦わない。
避けられるなら、避ける。
相手が攻撃してきたなら、その動きを見てから、自分が潰されない位置へ壁を差し込む。
見る者によっては退屈な戦いと評される。逃げ腰、臆病、受け身、勝つ意志がない。ギルドの酒場で何度かそう言われたこともあった。派手に剣を振るうハンターたちからすれば、壁を出して相手の突進を止め、勝手に転ぶのを待つとおるの方法は、戦闘というより安全管理に近い。
本人としては、その評価に強く反論するつもりもない。
とおるは戦いを好んでいなかった。
魔物を倒した後に得られる経験値や素材はありがたい。村人に感謝されるのも悪い気はしない。それでも、牙が目の前を通り、爪が服を裂き、自分の判断が少し遅れれば骨が折れる状況を、楽しいと思ったことは一度もない。戦いに高揚する者の感覚は理解できても、自分がそこへ加わりたいとは思わなかった。
彼にとって最大の戦術とは、〈壁〉が有効に働く状況を作ることだった。
壁は置けば終わりではない。
どこへ置くか。
いつ置くか。
どれほどの大きさと厚みにするか。
何を受け止め、何を流し、何を遮るか。
その判断に必要な情報は、相手が動いて初めて見えることが多い。呼吸、歩幅、魔力の流れ、視線、武器の軌道、攻撃を始める時の癖。とおるはまずそれを見る。見るための時間を稼ぐ。時間を稼ぐために距離を取る。距離を取るために、相手の呼吸へ合わせるように重心を後ろへ置く。
勝つ気がないと言われれば、その通りに見えるだろう。
そもそも、とおるは勝利そのものへ徹して動いていない。
いかに相手の行動を防ぐか。
いかに致命的な攻撃を避けるか。
いかに自分と周囲を傷つけず、最悪の結果へ向かう道を閉じるか。
意識の置き場所は、常に後の先にある。
その姿勢が必ず戦闘を有利にするわけではない。相手が初手から広範囲攻撃を放てば、観察する時間など与えられない。圧倒的な速度で間合いへ入られれば、見えていても身体が追いつかない。複数の敵に囲まれれば、三枚しかない壁ではすべてを防げない。受けることを前提とする以上、相手の攻撃力が防御力を上回れば、それだけで終わる。
とおる自身、それを理解していた。
ゆえに、目の前のミレイユが苛立ちと個人的な興味に動かされ、自分から積極的に切り込もうとしている状況は、彼にとって都合がよかった。
彼女は自分の実力を確かめたい。
隊長を敗北させた壁の正体を見たい。
とおるが強者なのか、卑怯な偶然の勝者なのか、剣を交えることで答えを出したい。
目的が明確な者は動きも明確になる。待つより攻める。様子を見るより圧力をかける。隠すより、自分の剣が通じることを証明しようとする。本人にとっては正当な怒りでも、とおるの戦術から見れば、手札を見せてくれるありがたい行動だった。
「来ないのか」
ミレイユは剣先をこちらへ向けたまま、鋭く問いかけた。
「来てほしいんですか」
「勝負を申し込まれた者が、いつまで後ろへ下がっている」
「申し込んだのはミレイユさんですよね」
「呼び捨てでいいと言った」
「そこを気にするんですか」
「戦いの最中に余計な言葉を挟むな」
「怖いので、会話で間を埋めています」
「黙れ」
「はい」
命令口調までリディアに似せているものの、本物と比べると少しだけ背伸びが混ざる。リディアの命令は、聞いた者に反論する隙を与えないほど自然に場を支配する。ミレイユの場合、言葉は強いのに、語尾の奥に「これで隊長らしく聞こえただろうか」という十五歳らしい緊張が微かに残っていた。
もっとも、剣を構えた彼女にその幼さはない。
とおるは足を引いた。
相手が一歩進めば、こちらも半歩下がる。
ただ逃げるのではなく、足裏で砂の硬さを確かめ、左足を軸に身体の向きを変え、正面を与えすぎない。剣士として洗練された動きではない。角猪や森狼を相手に、自分が倒れにくい姿勢を探り続けた結果として身についた、実用性だけを継ぎ合わせた足運びである。
ミレイユが右へ寄る。
とおるも弧を描く。
彼女が前へ圧をかける。
とおるは後方の障壁柱までの距離を測り、完全に追い込まれない角度へ移る。
重要なのは、自分が常に“立ちやすい位置”を確保することだった。
地面が平らで、足が滑らず、左右の視界が開き、背後に逃げ場があり、壁を置いた際に自分の動線を塞がない場所。戦場の中心を奪うという発想ではない。自分の小さな安全地帯を、その都度選び直す。
同時に使える〈壁〉は三枚。
先ほど破壊された〈壁〉を再配置するための位置と距離を計算しながら、そのうち一枚を即座に展開できるよう魔力回路へ待機させていた。
術式を完全に外へ出してはいない。魔力を胸部の回路から肩、腕、指先へ流し、形を持つ直前で止めている。弓に矢をつがえ、弦を半分だけ引いた状態に近い。必要になれば、対象と位置を指定し、最後の命令を通すだけで壁が生まれる。待機中も魔力は少しずつ消耗する。長く保てば回路が熱を持ち、集中も削られる。それでも、完全な無準備から壁を構築するより、発動までの時間を大きく短縮できる。
残り二枚は、状況を見てから構築する。
この配分が重要だった。
とおるの〈壁〉は場所を選ばない代わりに、いったん形成された位置を途中で変更できない。地面から一メートルの場所に出した壁を、相手の動きに合わせて横へ滑らせることはできず、高さを変えることも、角度を回すこともできない。壁は生まれた場所に固定され、破壊されるか、とおる自身が解除するまでそこに残る。
三枚すべてを展開した後、新しい場所へ壁を出したければ、どれか一枚を壊すか解除し、空いた回路へ再び魔力を流して対象と座標を定め直さなければならない。
その再生成には、わずかな時間がかかる。
一般人の感覚なら、瞬き一つか二つほど。
剣士の間合いでは、その短い空白が命取りになる。
三枚をすべて使い切ることは、手札を机の上へ全部並べるのと同じだった。相手に配置を見られ、こちらは新しい選択肢を作るまで動けない。ミレイユの攻撃範囲も、白い炎の性質も、連続攻撃の癖も分からない段階で三枚を使えば、彼女は空いている場所を探し、そこへ剣を通してくるだろう。
より高度な壁を作る場合は、さらに集中が必要になる。
ただ厚いだけの壁なら、魔力を多く流せばいい。斜めの面で衝撃を逃がすなら、角度と受ける方向を計算する。魔力の通路へ薄い境界を差し込むなら、目には見えない流れを気脈で捉え、動いている回路へ位置を合わせる必要がある。使いどころを誤れば、壁は役に立たない場所へ残り、ミレイユの剣が空いた間合いへ一気に叩き込まれる。
とおるは、自分の中で魔力を何度も調整した。
多すぎれば発動前に気配を読まれる。
少なすぎれば強度が足りない。
前へ動くための準備と、後ろへ意識を置く比重。その両方を保ち、壁に頼りすぎない距離の取り方を選ぶ。彼の無属性魔力は、炎や水のような明確な性質を持っていない。属性を持つ術者なら、自分の得意分野に合わせて戦場を変えられる。炎属性は地面へ火を走らせ、相手の進路を狭める。水属性は足元を濡らし、霧で視界を奪う。風属性は間合いを広げ、土属性は地形を作り、聖属性は結界によって空間を浄化する。
無属性は、そうした属性特有の場を作りにくい。
どの魔力にも干渉しやすい柔軟さはある。裏返せば、自分から戦場を染めるための強い色を持たない。炎の領域、水の結界、風の加速場といった、属性固有のフィールド術式をそのまま応用することは難しく、術者自身の操作精度と構造理解だけで勝負する必要がある。
とおるは火の海を作れない。
霧で身を隠せない。
地面を盛り上げて砦にできない。
彼ができるのは、既にある空間の中へ、薄い境界を置くことだけ。
それゆえ、〈壁〉を戦術として組み込むには、スキル単体の強さへ頼るのではなく、基本的な立ち回りと選択肢の奥行きを増やさなければならない。
彼は三年間、独学でその答えに辿り着いていた。
重要なのは、壁を“点”として使わないこと。
剣が迫った場所へ一枚出して終わるだけでは、次の攻撃に対応できない。壁を出す前の移動、相手を誘導する位置、壁に触れた後の相手の軌道、その先で自分が選ぶ退路まで、一つの流れとして考える必要がある。
一枚目で剣を逸らす。
逸れた方向へ相手の身体が流れる。
そこへ二枚目を置けば、踏み込みが狭くなる。
相手が避ける方向を選んだら、自分は逆側へ離れる。
三枚目は、予定が崩れた時にだけ使う。
壁は主役ではない。
全体の動きの中にある、一つの歯車。
立ち位置から立ち位置へ、自分と相手を運ぶ動線の一部。
壁そのものがどれほど強くても、そこへ至る過程が一つの細い道しか持たなければ、相手に読まれた時点で終わる。壁を右へ出すことも、左へ出すことも、足元へ置くことも、あえて出さないこともできる。その選択の幅を保ち続けることこそ、とおるが見出した防御戦術だった。
リディアと対峙した時も、同じだった。
まず相手の出方を見る。
足の使い方。
肩の沈み。
魔力が身体強化へ変わる順序。
呼吸から斬撃が放たれるまでの、気の起こり。
もっとも、リディアの技量は高すぎたため、見ようとした時点ですでに剣が目の前まで来ており、とおるの分析はほとんど「速い」「怖い」「死ぬ」の三項目で埋まっていた。それでも、彼は彼女が民間人を殺すつもりで動いていないこと、踏み込みの際に聖魔力が足から腰へ流れること、剣を振る直前に白禍月と身体の魔力回路が一つにつながることを、必死に拾い続けた。
結果、想定外の境界へ壁が入り、事件は集会所の建築構造と騎士団長の尊厳を巻き込む方向へ着地した。
あれを成功例と呼ぶには、かなり勇気がいる。
とおるは、もう二度と同じことを起こさないためにも、目の前の少女の動きを丁寧に見極めようとしていた。
ミレイユは、そんな彼の慎重な足取りに苛立っていた。
剣を向けても攻めてこない。
距離を詰めれば、その分だけ下がる。
挑発しても表情を崩さず、いや、表情にはかなり「帰りたい」と出ているものの、焦って剣を振ることはない。彼女にとっては歯応えがない。隊長を止めた男なら、もっと堂々と壁を並べ、こちらの剣を受け、何か驚くような技を見せると想像していた。
実際に立っているのは、木剣を持つ姿も頼りなく、観覧段の視線を気にしながら、ひたすら自分が斬られにくい場所へ逃げ続ける青年である。
「貴様、本当に戦う気があるのか」
「なるべく戦いたくはありません」
「立ち合いを侮辱しているのか」
「命と身体を大事にしています」
「逃げてばかりで、何が分かる」
「逃げながら分かることもあります」
「ならば、これも見切ってみろ」
ミレイユの足元で白い炎が膨らんだ。
とおるの気脈が、その変化を拾う。
火属性。
炎を外へ放つ術式ではない。
足裏から地面へ魔力を押しつけ、燃焼の爆発力を前進へ変換する身体操作。彼女の強みは、剣の速さだけではなく、間合いを作り出す移動力にあった。
一般的な身体強化は、魔力を筋肉と骨格へ通し、元の運動性能を底上げする。ミレイユはそこへ火属性の瞬間的な膨張を重ねる。地面を蹴る動作に合わせ、足裏で魔力を小さく爆ぜさせ、初動へ急激な加速を加える。炎そのものを噴き出して飛ぶわけではない。外から見える白い火は余剰魔力の残光であり、本質は身体内部と地面との接点に生じる、極めて短い推進力だった。
初速が速い。
しかも、ただ一直線に突っ込むだけではない。
右足の爆発で左へ滑り、左足へ重心を移す直前に出力を絞り、身体を回転させながら軌道を変える。火属性の爆発性を、繊細な足首と膝の操作によって細かく区切り、短い加速を何度も連結する。歩法というより、連続する跳躍を地面すれすれで行っているような動きだった。
白い砂が、小さな花のように弾ける。
ミレイユの身体が、とおるの視界から外れた。
「え」
間抜けな声が出る。
正面にいたはずの少女が、右へいる。
そう認識した時には、右の姿は残像に近い白炎の揺らぎとなり、本体は左前方へ回り込んでいた。速力だけではない。移動の幅が広い。直線、横、斜め、内側への切り返し。そのすべてが一つの滑らかな流れに収まり、動作と動作の間に引っかかりがない。
ミレイユの歩法は、舞に似ていた。
優雅という意味だけではない。音楽の拍へ身体を預ける踊り手のように、呼吸、足、腰、剣が同じ律動の中にある。踏み込んだ後に止まらず、斬撃の勢いを回転へ変え、回転を次の移動へ変え、移動の終わりを次の斬撃の始まりへ重ねる。速さを作るために力んでいる様子はなく、柔らかい軌道の中へ爆発的な初動が組み込まれていた。
粗がない。
動きが切れない。
とおるは待機させていた一枚目を正面へ展開した。
遅い。
ミレイユはすでに正面からいない。
透明な壁だけが空間へ残り、何も受け止めないまま朝日を反射する。完全な空振りである。防御術式で空振りという表現が成立するのか、とおる自身も一瞬疑問に思ったものの、見事なほど何も守っていないので空振り以外の呼び方が浮かばなかった。
「そこか!」
左側から木剣が来る。
とおるは身体を引き、二枚目の壁を肩口へ出す。
木剣が触れ、壁が白く揺れた。
受け止めた。
安堵する暇はない。
ミレイユは剣を押し込まず、壁に触れた反発を利用して刃を引き、身体を低く沈める。下段からの払い。とおるは足を上げようとして間に合わず、三枚目を脛の前へ展開した。
乾いた音。
木剣が壁へ当たる。
三枚すべてを使った。
正面に一枚。
左肩前に一枚。
脛の前に一枚。
配置が固定される。
ミレイユの瞳が、それらを一瞬で捉えた。
「三枚」
小さく呟く。
彼女は、とおるの上限を知った。
とおるは正面の役に立っていない壁を解除する。回路へ魔力を引き戻し、再生成の準備を始める。ほんのわずかなリードタイム。その間、即座に出せる壁はない。
ミレイユの白炎が足元で弾けた。
距離が消える。
とおるは木剣を横へ構え、受けようとした。
剣同士が触れる。
重い。
十五歳の少女の一撃とは思えない衝撃が腕を走り、肩まで痺れた。身体強化と踏み込みの速度が木剣へ乗り、とおるの姿勢をまとめて押し崩す。
「うわっ」
彼は後ろへ下がった。
足が砂を滑る。
ミレイユは追う。
右から斬ると見せ、剣先を途中で止め、左足の爆発で身体ごと外へ回る。とおるの視線が剣へ引かれた瞬間、彼女の本体は反対側へ移り、木剣の腹が脇腹を狙う。
新しい壁の構築が間に合わない。
とおるは木剣を下げ、なんとか軌道へ差し込む。
衝撃。
持ち手がずれ、指が痛む。
木剣を落とさなかっただけでも上出来だった。
「遅い!」
「知ってます!」
「なら動け!」
「動いてます!」
「足が止まっている!」
「心は全力疾走です!」
「心で避けられるか!」
「正論!」
観覧段から笑いが起こる。
とおるに笑いへ反応する余裕はなかった。
ミレイユの間合いの作り方は、彼の想定を越えている。自分が後退して距離を広げたつもりでも、彼女は一歩の幅を変え、白炎の推進を短く重ね、すぐに剣の届く場所へ入ってくる。遠くへ逃げれば加速のための道を与え、近くに留まれば連続攻撃の中へ捕まる。
間合いの主導権を奪われていた。
とおるは相手の呼吸へ合わせようとしていた。
ミレイユは自分の呼吸そのものを、移動によって書き換えてくる。
一拍で入る。
半拍で消える。
息を吐ききる前に角度を変え、こちらが攻撃の終わりだと思った場所から、さらに次の動きを生む。
彼女の剣術は、白い炎で線を引く舞だった。
訓練場の白砂へ足跡が重なり、薄い火の残光が花弁のように漂う。その中心で、とおるだけが明らかに踊れていなかった。舞踏会へ連れてこられ、曲も手順も知らないまま、天才舞踏家に足を踏まれ続ける一般客のようなものである。優雅さはない。あるのは焦りと防御と「これ朝食後にやる運動量ではない」という切実な訴えだけだった。
右肩の壁を解除する。
新しい一枚を左後方へ出す準備。
ミレイユの剣が上から来る。
壁を出す。
彼女は剣を止める。
フェイント。
とおるの壁だけが頭上へ残る。
「また空振り!」
「壁に振らせているのだ!」
「防御側に精神攻撃を混ぜないでください!」
ミレイユは頭上の壁を避け、踏み込む。
とおるは左へ逃げようとした。
そこには自分が先ほど出した壁がある。
「しまった」
自分の壁に進路を塞がれた。
戦術の歯車として使うはずの壁が、完全に足元の石になっている。位置を選べる自由さは、選び方を誤れば自分を閉じ込める危険と表裏一体だった。
ミレイユは見逃さない。
白炎が、彼女の足首から膝へ駆け上がる。
低い姿勢から、一気に身体が伸びる。
木剣が、とおるの正面へ迫った。
致命的な場所だけは守る。
とおるの意識は、勝つことではなく、その一点へ集約された。
胸の前へ出せる壁はない。
頭上に一枚。
脛前に一枚。
左後方に一枚。
すべて使用中。
解除、再生成。
間に合わない。
彼は身体をひねり、木剣の直撃を避ける。刃の腹が胸元をかすめ、服の上から鈍い痛みが走る。訓練用に出力を抑えていても、十分に痛い。身体がよろめく。
ミレイユの足が、とおるの退路へ入る。
転ばせるための足払いではない。こちらの足が置かれる場所を先に奪い、重心を逃がせなくする位置取りだった。
とおるは後ろへ足を置こうとする。
砂の上に、ミレイユの足がある。
横へ逃げようとする。
白い炎が剣の軌道を作っている。
前へ出る選択肢は、最初から意識の中に薄い。
後ろに置き続けた重心が、とうとう逃げ場を失った。
膝が砂へ落ちる。
鈍い音がした。
とおるは片膝をつき、木剣を地面へ突いて、辛うじて倒れきるのを防いだ。
周囲の騎士たちから、どよめきが上がる。
ミレイユは一歩離れ、白炎をまとった木剣をとおるの喉元へ向けた。呼吸は少し速くなっているものの、構えは崩れていない。銀灰色の髪が頬へかかり、菫色の目には勝利への確信と、それでも何か納得できないような険しさが浮かんでいた。
「この程度か」
とおるは膝をついたまま、息を整える。
「まだ朝食のパンを消化している途中なので」
「言い訳は術式に含まれない」
「その語録、万能ですね」
「立て」
「一度膝をついた人間への要求が早い」
「隊長を止めた壁を見せろ。貴様は、まだ何もしていない」
その言葉に、とおるは視線を上げた。
何もしていない。
半分は正しい。
彼は防いだ。
逃げた。
相手の動きを見た。
壁を置き、失敗し、自分の進路まで塞ぎ、間合いの主導権を奪われ、膝をついた。
勝つための行動は、ほとんど取っていない。
それでも、何も得ていないわけではなかった。
ミレイユの初動。
白炎の使い方。
右足から左へ抜ける時の幅。
剣を壁へ当てた後、反発を利用して次の軌道へ移る癖。
フェイントの際に白炎の出力だけは落とさず、残光で本命の動きを隠す技術。
加速を連続させるため、三歩目の後にほんのわずかだけ呼吸が深くなること。
気脈の中に、それらが残っている。
とおるは、膝をついた姿勢のまま三枚の壁をすべて解除した。
透明な面が光の粒となって消える。
魔力回路に空きが生まれる。
今度は、ただ攻撃が来た場所へ壁を置かない。
一枚を防御に使う。
一枚を移動へ使う。
残る一枚を、相手の剣ではなく、相手が剣を振るために必要とする動線へ置く。
壁の使い方を変える。
とおるは木剣を支えに、ゆっくり立ち上がった。
「しつこいな」
ミレイユが言う。
「戦うのは嫌いですけど、負けたまま終わるのも、ちょっと悔しいので」
「勝つ気がなかったのではないのか」
「今も、そこまでありません」
「貴様は本当に腹が立つ」
「よく言われます」
「誰にだ」
「最近は主にリディアさんに」
観覧段から笑いが漏れる。
ミレイユの眉が跳ねた。
「隊長の名を気安く呼ぶな!」
「そこですか!」
白い炎が、再び彼女の足元へ集まる。
とおるは両足を砂へ置き直し、今度は重心をわずかに前へ移した。
前へ動くための時間。
後ろへ意識を残す比重。
壁に頼りすぎない距離。
相手の移動力を受け止めるのではなく、その速さが向かう先を限定する選択。
勝負は、まだ終わっていない。
少なくとも、ミレイユはそのつもりだった。
とおるとしては、クラリッサがそろそろ「そこまで」と言ってくれる展開を強く希望していたものの、審判役の四席は腕を組み、興味深そうにこちらを見ている。止める気配はない。エルネに至っては、測定器の針が大きく動いたことに喜び、記録紙を追加していた。
味方がいない。
白華隊の詰所へ来て二日目にして、とおるは人間関係の配置が敵地寄りであることを実感した。
ミレイユが剣を構える。
とおるは空間へ意識を広げる。
彼女の白い炎は速い。
剣術は滑らか。
正面から受ければ押し切られる。
追いかければ間に合わない。
それならば、追わなければいい。
剣を止めるのではなく、剣が届くために彼女が選ぶ場所を変える。
壁は盾ではない。
足場にもなる。
道標にもなる。
相手の進路を形作る、見えない地形にもなれる。
とおるはようやく、自分の得意な戦い方へ戻ろうとしていた。
白い炎が、訓練場の砂を照らす。
透明な魔力が、とおるの周囲へ静かに集まる。
ミレイユは、今度こそ彼の壁を正面から打ち破るつもりで踏み込もうとしている。
とおるは、その一歩が置かれる場所を見つめていた。
壁の使い方と、その応用。
この立ち合いの本当の攻防は、彼が膝をついたところから始まろうとしていた。




