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第13話 これが俺の通常運転です



 戦いにおいて、相手との能力差を認めることは決して敗北宣言ではない。


 むしろ、そこを見誤った者から順番に地面へ転がる。腕力で負けているのに真正面から力比べを挑む者、速度で劣るのに追いかける者、魔力量で差があるのに大技の撃ち合いへ付き合う者、経験で届かないのに格好よく読み合いへ参加しようとする者。そういう者たちは、物語の中なら覚醒イベントへつながるかもしれない。現実では、だいたい医務室へ運ばれる。壁山とおるはそこだけは非常に現実的だった。自分が剣術でミレイユ・アスターに勝てないこと、身体能力でも間合いの主導権でも劣っていること、まともに打ち合えば三合どころか二合目の途中で「すみません、今の何ですか」と床に質問する羽目になることを、彼は片膝をついた時点で痛いほど理解していた。理解しているからこそ、彼は勝つために前へ出るのではなく、負け筋を減らすために空間を見る。相手の剣ではなく、相手が剣を届かせるために必ず通る道を見る。足が踏む場所、腰が向く角度、魔力が流れる順路、呼吸が攻撃へ変わる起点。戦闘能力の差は明らかであり、それを気合いで埋めるのは、壊れた橋に「根性」と書いた板を渡して村人を通すようなものだった。大工爺さんに見つかれば、説教のうえ修理を手伝わされるようなレベルだ。


 ミレイユは、膝をついたとおるが立ち上がるのを見て、木剣を構え直した。白い砂の上に残る彼女の足跡は、驚くほど複雑な曲線を描いている。一直線に突っ込んだようで、実際には細かな角度変更がいくつも重なり、踏み込みの終点が常にとおるの逃げ道を潰す場所へ置かれていた。彼女の持ち味は単なる速さではない。間合いを作り、間合いを壊し、相手が安全だと思った距離を自分の剣が届く範囲へ塗り替える移動力。火属性由来の爆発的な初動と雷属性めいた反応速度を内側で噛み合わせることで、十五歳という年齢に似合わぬ戦闘密度を成立させている。「まだ続けるか」と彼女は言った。声には勝ち誇りより苛立ちが多い。とおるが倒れきらず、降参もせず、かといって堂々と攻め返すわけでもないことが、彼女の中にある“分かりやすい勝敗”の形を乱しているのだろう。


「できれば、ここで朝食休憩を挟む案は」


「却下だ」


「即答が隊長に似てきましたね」


「隊長は正しい」


「そこまで含めて影響が深い」


 観覧段では、白華隊の隊員たちがざわめいていた。とおるの防御は派手ではない。むしろ、見ている者によってはかなり地味である。壁を出したかと思えば空振りし、押され、下がり、自分の壁に進路を塞がれ、膝をつく。王都まで噂になった「隊長を止めた壁使い」としては、あまりに冴えない。けれど、クラリッサ・ロウだけは腕を組んだまま目を細めていた。四席として数多くの訓練を見てきた彼女には、とおるがただ逃げているわけではないと分かる。彼はミレイユの剣を防げていない。防げていないなりに、斬撃の軌道、足運び、白炎の出力変化を拾い続けている。剣を握る者の観察とは違う。防御する者、逃げる者、生き残る者の観察。相手を倒すためではなく、相手の行動を成立させる条件を探す視線だった。


「あれ、壁山さんの魔力、少し変わりましたね」


 とエルネが測定器を覗き込んで呟く。


「変わった?」


 クラリッサが問う。


「はい。壁を即時展開するための待機回路とは別に、広めの範囲へ薄く魔力を流しています。壁そのものは出していませんけど、空間を撫でている感じです」


「空間を撫でる、か。相変わらず気味の悪い才能だな」


「本人が聞いたら傷つきますよ」


「では、聞こえない程度に言う」


 一般に、スキルには八つの大きな系統があると言われている。肉体や感覚を高める「強化」、魔力を外へ撃ち出す「放出」、武器や物体へ性質を与える「付与」、既存の物質や魔力を操る「操作」、獣や器具や霊的存在を呼び出す「召喚」、一定範囲を自分の術式条件で満たす「領域」、対象の性質そのものを変える「変質」、そして既存分類から外れた例外的性質をまとめて押し込む、学者たちの敗北箱とも呼ぶべき「特殊」。もちろん、現実のスキルは一つの箱へ綺麗に収まるとは限らない。リディアの〈白露〉は領域であり、付与であり、剣術と結界の混成でもある。とおるの〈壁〉に至っては、防御系の強化にも、物質生成にも、領域にも、特殊にも見えるため、王都の魔導学者が見れば会議室の机を割る勢いで分類議論を始めるに違いない。


 ミレイユ・アスターのスキル〈白雷〉は、その八系統のうち「強化」に属する。とはいえ、ただ筋力を増やし、身体を頑丈にするだけの単純な強化ではない。彼女の魔力は、火属性と雷属性を極めて繊細に混合した特殊な複合性を持つ。炎は燃やすために使われていない。雷は撃ち放つために使われていない。炎の役割は、筋繊維の収縮と解放へ爆発的な推進を与えること。雷の役割は、神経と魔力回路を高速でつなぎ、知覚から反応までの遅延を限界まで削ること。二つの属性は、外へ向けた攻撃として派手に燃え上がるのではなく、彼女自身の身体を一個の戦闘回路へ変えるために内側で循環している。足裏で火が小さく爆ぜれば踏み込みが生まれ、膝へ雷が走れば制動が間に合い、腰へ炎が回れば斬撃へ重さが加わり、肩から手首へ雷が抜ければ剣先の向きが一拍未満で変わる。〈白雷〉の真価は筋力そのものではない。敵の動きを知覚した直後、必要な部位へ瞬時に魔力を再配分し、加速、停止、回避、踏み込み、打撃、そのすべてを最適解へ近づける圧倒的な応答性能にある。


 ミレイユは重心を深く落とした。白い火花が足元で散り、彼女の細い身体の内側を、電流めいた魔力が駆け巡る。観覧段の若い隊員が息を呑んだ。彼女がまだ見習い騎士という立場でありながら次期三席候補と呼ばれる理由は、ここにある。剣術の才能、火雷複合の魔力適性、身体操作の勘、それにリディアへのほとんど信仰じみた憧れが、良くも悪くも彼女を前へ進ませ続けていた。彼女は一気に片をつけるつもりだった。相手のスキルの手の内をすべて見たわけではない。それでも、隊長が壁に埋まったなどという、白華隊の廊下に貼り紙で禁句指定したほうがよさそうな噂を、本気で信じられるはずがない。どうせ何かの間違いだ。隊長でさえ予測できないような不運が重なっただけ。あの方が、この覇気も気迫も、いかにも強者らしい目つきも、立っているだけで周囲を威圧する空気もない青年にやられたなど、あるはずがない。そんな噂、この私の剣で吹き飛ばしてやる。ついでに、食堂で写真集の話題を出した件も少しだけ許さない。


 白雷が、ミレイユの全身へ満ちていく。


 それまで低く構えていた彼女の姿勢は、さらに低く、細く、そして鋭く研ぎ澄まされ、まるで人の形をした一本の刃が、今まさに鞘から抜かれようとしているかのように、訓練場の空気そのものをぴんと張り詰めさせた。木剣の先からは白い火花が細かく弾け、雷光の糸が柄から手首へ、手首から肘へ、肘から肩へと、彼女の身体を内側から縫い上げるように走っていく。


 とおるの気脈感知は、その魔力の流れを見た瞬間、きわめて素直な結論を心の中へ叩き出した。


 無理。


 速い。


 強い。


 帰りたい。


 結論が、四つに増えた。


 とはいえ、彼も本当に何もせず、ただ木剣を握ったまま立ち尽くしているわけではない。明らかな戦闘能力差を直感したとおるは、すでに〈壁〉を拡張するための準備へ入っていた。もっとも、拡張と言っても、壁の枚数が急に増えるわけではない。三枚という制限は変わらないし、それを無理に越えようとすれば、魔力回路が内側から悲鳴を上げ、壁はかえって薄くなり、集中を乱した本人の意識まで足元から崩れていく。とおるが行っているのは、壁そのものを増やすことではなく、壁を出す前段階の魔力を、まだ形にならない薄い膜のように、より広い範囲へ流し込むことだった。


 空間へ、印をつける。


 互いの位置、足跡、壁を置ける候補地点、ミレイユが加速に使いそうな足場、退路、観覧段との距離、訓練用障壁の境界。


 それらすべてを、目で見るのではなく、気脈で触れ、身体感覚で測り、頭の中に広げた簡易地図へ、一つずつ落とし込んでいく。対人戦闘の経験は、正直なところ浅い。魔物との戦いなら、それなりに数をこなしてきた。森狼は鼻先の向きで突進方向が分かるし、角猪は怒ると足元の土を掘り返す。ゴブリンは意外と目線が分かりやすく、矢を持つ手と投げ石を持つ手では重心の置き方が違う。そういう生き物を相手にするなら、とおるにも三年分の積み重ねがあった。だが、人間は違う。とくに訓練された剣士は、相手を騙すために身体を使う。視線と剣先は必ずしも一致せず、足を見せて肩を隠し、攻撃の終わりを次の攻撃の始まりに変え、あえて読ませた一手を踏み台にして、さらに別の一手へつなげてくる。ましてやミレイユのように、〈白雷〉によって反応速度そのものを引き上げられる剣士であれば、こちらが判断した後からでも動きを変え、壁を置いたはずの場所を、置いた瞬間にはすでに無意味な空間へ変えてしまうことすらできるはずだった。戦いが長引けば長引くほど、自分が不利になることは、火を見るよりも明らかである。火属性の相手に対して「火を見るより」と心の中で表現してしまうあたり、余裕があるのかないのか、とおる自身にもよく分からなかった。


 だからこそとおるは〈壁〉の干渉性を、ミレイユの踏み込みに合わせようとしていた。彼の〈壁〉は、魔力の流れそのものにも境界を作ることができる。問題は、どのタイミングで、どの位置に、それを差し込めるか。剣を止めるだけなら、剣の軌道へ壁を置けばいい。身体を止めるなら、足元へ置けばいい。けれど、〈白雷〉は身体全体を回路として使う。火の推進力、雷の伝達、剣術の動線、それらがつながった状態で攻撃が成立する。ならば、とおるが狙うべきは剣先ではない。足そのものでもない。彼女の移動と斬撃が一つの動きへ結びつく、その“結び目”だった。踏み込みが攻撃へ変わる場所。加速が剣筋へ伝わる境目。雷の反応が、火の推進へ命令を出す通路。そこへ薄い壁を差し込めれば、彼女の攻撃は止まらなくても、わずかにずれる。完全停止ではなく、予定からの逸脱。その小さなズレこそ、とおるが生き残るための時間になる。


「何をしている」


 ミレイユが言う。彼女は、こちらの魔力が広がっていることに気づいている。見習いとはいえ、白華隊の天才である。鈍いはずがない。


「準備運動です」


「膝をついた後にか」


「心の柔軟体操も含みます」


「ふざけるな」


「ふざけているように見えるなら、俺の通常運転です」


「ますます腹が立つ」


「よく言われます」


 会話を続けているその裏側で、とおるは、目の前のやり取りに反応しているふりをしながら、訓練場全体の空間と、自分とミレイユのあいだに生まれうる動線をどうにか俯瞰しようとしていた。俯瞰、と言えばいかにも戦術的で格好がつくが、実際のところは、頭の中に広げた白紙の地図へ必死に線を引き、違うと思えば消し、また別の線を引き直しているだけであり、そこにはミレイユが正面から突っ込んでくる線、右へ抜ける線、左へ切り返す線、踏み込みの二歩目で火属性の気配が強まる場所、三歩目で白雷が剣先へ抜ける場所、とおる自身の退路、そして自分が作った壁で自分を閉じ込めないために残しておくべき空白までが、乱雑でありながらも必死に書き込まれていく。なお、パンを置いていた小皿代わりの壁はすでに解除済みであり、朝食の安全より命の安全が優先された結果であるとはいえ、パンには少し申し訳ないことをした。


 ミレイユが動いた瞬間、白雷が乾いた音もなく弾け、足元の砂が白く跳ね上がると同時に、彼女の身体は人間の重さを感じさせない低い軌道で滑り出した。さきほどより速い、と判断したとおるは、反射的に正面へ壁を出したくなる衝動を奥歯で噛み殺し、見えている剣に反応してしまえば、その壁は間違いなく囮として使われると自分に言い聞かせる。彼女は正面から来るが、二歩目で右へ流れ、三歩目で斜め左へ切り返すはずであり、しかも白雷による推進は、地面を蹴る直前に一度だけ強く脈打つ。そこだ、とおるは思った。彼は一枚目の〈壁〉を、ミレイユの身体の前に置くのではなく、彼女が右足で踏み込む予定の地点と、そこから斜め左へ伸びていく動線とのあいだに、ほとんど厚みのない形で差し込んだ。強度も低く、目に見える壁としてはあまりにも貧弱で、木剣を受け止めるどころか、小石を投げつけられただけでも頼りなく揺れそうな代物だったが、それでもそこにあるだけで、彼女の足裏から地面へ流れ込もうとしていた白雷の推進力は、ごくわずかに反射する。


 ミレイユの眉が、ほんのわずかに動いた。彼女の身体が、一拍にも満たない短い時間だけ沈む。止まったわけではなく、崩れたわけでもなく、ましてや足を取られたというほど大きな乱れでもなかったが、それでも確かに、白雷の流れには細いひっかかりが生じていた。だが、天才という言葉が安売りではないことを証明するように、ミレイユは即座にその違和感を補正し、右足へ集中していた推進を弱めると同時に、左足へ雷を流し、身体を別の角度へ逃がしていく。その対応は見事だった。見事すぎて、とおるは心の中で少し泣きそうになった。普通ならばそこで十分に体勢が崩れ、せめて一瞬くらいは攻撃の手が鈍るはずなのに、彼女は「足元に変なものがあったので別ルートへ移りました」くらいの顔で、何事もなかったように攻撃を続けてくる。ナビ機能が優秀すぎる。工事中の道を即座に迂回する都会の配達員みたいだった。


 それでも、ズレは生まれた。剣先の軌道が、最初に予定していた胸元から肩口へ変わる。とおるは二枚目の壁を肩口の少し外へ斜めに置いた。受け止めるのではなく、滑らせる。木剣が触れ、白雷が壁面を走り、透明な壁の縁が白く焦げたように揺れる。強化系のスキルなのに、武器へ伝わる余剰魔力だけで壁が削られる。とおるは顔を引きつらせた。「今の訓練用出力ですよね?」「当然だ」「当然の圧が強い!」ミレイユは剣を引かず、壁の表面を走った反発を利用して身体を半回転させた。彼女の髪が白い火花を帯び、菫色の瞳がこちらを捉え直す。反応が速い。速すぎる。とおるが作った小さなズレを、彼女は戦闘中の素材として使っている。


 三枚目をどう使うか。とおるの脳が、冷たい汗をかきながら計算する。ミレイユは右足の推進を封じられたため、左回転から逆袈裟へつなぐ。剣の軌道は下から上。とおるが後ろへ逃げれば、白雷の加速で追われる。左右へ逃げれば、彼女の回転が合う。ならば、逃げ道を外ではなく内へ作る。普通の剣術なら、自分から相手の間合いへ入るのは危険である。とおるの剣術は普通以下なので、危険かどうかを判定する以前に危険。けれど、ミレイユの〈白雷〉は加速と反応に優れるぶん、攻撃のために通す魔力の線が明確になる。外へ大きく逃げる相手を追う動きは得意。内側へ半歩だけ潜る相手への処理は、剣を引き戻す必要がある。


 とおるは三枚目の壁を、自分の背後ではなく、足元のすぐ前へ斜めに出した。高さは靴底一枚分。壁というより、滑り台に近い小さな面。彼はそこへ自分の前足を乗せ、わずかに身体を内側へ滑らせる。戦術としては、かなり情けない。かっこいい踏み込みではない。自作の小さな壁に足を引っかけ、半ば転びかけながら相手の懐へずれ込む、偶然と工夫のあいだで綱渡りするような移動だった。観覧段の誰かが「今のは何だ」と呟く。とおるも聞きたい。名前をつけるなら、陰キャ式・段差利用前進。技名としては弱すぎる。


それでも、ミレイユの剣は空を切った。白雷をまとった木剣は、とおるの肩の上をかすめるように鋭く通り過ぎ、その軌跡が残した風が髪を乱し、ほんの一瞬遅れて、頬の皮膚に焼けるような熱だけが届く。とおるは、彼女の懐の内側へ半ば潜り込んだような悪い姿勢のまま、それでも木剣を振らなかった。振れば当たる、という距離ではないし、そもそも彼自身、ミレイユに一撃を入れるつもりはほとんどない。彼が本当に狙っていたのは、彼女の体勢を大きく崩すことでも、見栄えのいい反撃を決めることでもなく、今この距離で、〈白雷〉というスキルが彼女の身体のどこで結ばれ、どの瞬間に命令として走り、どの回路を通って次の動作へ変換されるのかを読むことだった。火が足裏へ戻る。雷が肩から肘へ戻る。外れた剣を引き戻し、距離を取り直し、次の攻撃へつなげるための命令が、ミレイユの体内を鋭く駆け抜ける。その命令が生まれる場所、胸部から背骨沿いへかけて伸びる魔力回路の一点に、白い火花がひときわ強く灯った。


 ここだ。


 とおるは、すでに使った二枚のうち一枚を解除しようとした。肩口に残していた壁を消し、回路を空け、再生成までに避けられないごく短い遅れを織り込んだうえで、その一点へ新しい壁を差し込む。しかしその刹那、ミレイユが反応した。彼女の雷属性はとおるの魔力回路に生じた微細な変化を捉え、壁が消えたという事実を目で見るよりも早く、理屈で理解するよりも先に“危険”として読み取ったのだろう。——速い。やはり、速い。とおるが壁を消したと分かるや否や、ミレイユは剣を引き戻すのではなく身体ごと一歩後ろへ爆ぜるように離れた。白雷による制動と後退が同時に働き、足元の砂が半月形に散る。彼女は一度距離を取り、すぐに構え直す。とおるの狙いを完全に読んだわけではないはずだった。けれど彼女はその先にあるものが、自分の動きを止める何かであることだけは獣じみた勘と鍛え抜かれた反応速度で感じ取ったのだ。


 訓練場に、短い静けさが落ちた。とおるは内側へ潜った姿勢から、どうにか倒れずに踏みとどまる。体勢はかなり悪いし、見栄えも悪い。腰は引け、木剣は中途半端な角度で宙に浮き、髪は乱れて額には汗が滲んでいる。対してミレイユは、距離を取り直した後だというのに乱れた様子もなく綺麗に立っていた。白雷の残光が肩から腕へ、腕から足元へと細く流れ、呼吸も乱れていない。絵面だけを見れば完全に彼女の優勢であり、実際、観覧段にいる白華隊員たちの何人かもそう判断したに違いなかった。


「今、何をしようとした」


 ミレイユの声が低くなる。


「ええと」


「答えろ」


「説明すると、俺もまだ言語化しきれていないんですが」


「ふざけるな」


「本当にふざけていません。今のは、ミレイユさんの踏み込みと剣の引き戻しの間にある、魔力の結び目みたいなところへ壁を入れようとしました」


 観覧段がざわつく。エルネの測定器が、かつてないほど元気に針を振った。


「結び目……!」


 彼女の声が明らかに弾む。


 「壁山さん、今、ものすごく重要なことをさらっと言いましたよ!」


「今じゃないと駄目ですか、その反応」


「今です。まさに今です。魔力動線への干渉候補点を術者本人が感覚的に把握している可能性が」


「エルネ、後にしろ」


 とクラリッサが止める。


「はい。でも記録はします」


「するんですね」


「当然です」


 ミレイユは、とおるを睨んでいた。ただしその視線に宿っているものは、もはや単純な怒りだけではなかった。苛立ちの奥に、薄く、しかし確実な警戒が混ざっている。初めて彼女は、目の前の青年を「弱く見えるうえに言動も妙な相手」という雑な分類から、「自分の動きの内側へ、こちらが気づく前に何かを差し込んでくるかもしれない危険な相手」へと、静かに分類し直したのである。とおるはその変化を気脈と表情の両方から感じ取り、認められたかもしれないという喜びより先に、かなり真剣に困った。警戒されれば、当然ながら攻め方が変わる。攻め方が変われば、こちらはまた観察し直さなければならない。観察し直すということは、結論が出るまでのあいだ、もう少し殴られる可能性があるということでもある。やはり人生は厳しい。


「貴様の壁は、目に見える板だけではないのか」


「俺も最近までそう思っていました」


「自分のスキルだろう」


「自分の人生だって分からないことだらけなので、スキルくらい分からなくても自然かなと」


「屁理屈を言うな」


「今のは少し自信があります」


 ミレイユの白雷が、さらに強まった。白い火花が木剣の表面を細かく走り、彼女の周囲の空気が針の先で震わせられたように細かく揺れると、訓練用障壁がそれに反応して淡く光り、クラリッサが監督役として一歩前へ出た。さすがに出力が上がりすぎている、と判断したのだろう。


「ミレイユ、出力を落とせ」


「問題ありません」


「問題があるから言っている」


「私は、まだこの男の壁を見ていない」


「見ただろう」


「違う。隊長を止めた壁は、こんなものではないはずだ」


 その言葉には、意地と願いが混じっていた。ミレイユはまだ、隊長が負けた理由を探しているのだ。ありえないはずの敗北を、ありえる何かへ変えたい。尊敬する人の強さを否定しないために、そして自分が目指してきた背中の価値を揺らがせないために、とおるの異常性を確かめ、その敗北が決して偶然でも油断でもなかったのだと、自分自身に納得させようとしている。とおるとしては、それはかなり迷惑で、同時に、かなり真剣な感情だった。


 彼は深く息を吸った。三枚の壁のうち、足元へ置いていた小さな斜面は解除し、残すのは正面に薄く張った干渉壁と、保険として待機させている一枚だけに絞る。魔力回路が内側から熱を持ち始めていた。王都の地脈は濃く世界樹の根が近いせいか、魔力を吸い上げやすい反面、自分の中の流れが太い川へ飲まれていくような危うさもあり、制御をほんの少し誤れば壁は意図した以上に厚くなり、逆に薄くしすぎればミレイユの白雷を逸らすことすらできない。とおるは空間へ意識を広げ、互いの動線が重なりながら結ばれ、次の衝突を生む一点を再び探し始めた。ミレイユはもう先ほどのような単純な加速では来ない。こちらが踏み込みへ干渉しようとしていると理解した以上、もっと細かく、もっと不規則に、白雷を足裏だけでなく身体の各所へ分散させてくるはずだった。ならば足元だけを見ていては足りない。剣、肩、腰、視線、呼吸、火花の強さ、そのすべてが一瞬だけ同じ意味を持ち、攻撃という形へ収束する一点をギリギリまで待つ必要がある。


「行くぞ」


 ミレイユが告げた。


「できれば来ないでほしい」


「黙れ」


「はい」


 彼女の姿が揺れる。白雷は、今度は一か所へ集まらなかった。足裏、膝、腰、肩、手首、首筋へ小さな火花が同時に灯り、それぞれが別々の命令を待つ。どこからでも動ける構え。どの方向へも加速できる準備。とおるの気脈感知が、情報量の多さに悲鳴を上げる。脳内の処理欄が赤く点滅した。多い。速い。無理。帰りたい。さっきと同じ四項目が再提出される。彼はそれを脇へ寄せた。今度は剣先を見ない。足元だけも見ない。ミレイユと自分の間にある空間全体を、一本の布のように見る。彼女がどこへ進もうとしても、必ず布に皺が寄る。動線の結び目とは、その皺の中心だ。


 白い火花が爆ぜ、ミレイユが踏み込んだ瞬間、とおるは、反射的に喉元までせり上がってきた恐怖をどうにか飲み込みながら、それでもすぐに壁を出すことだけはしなかった。白い剣筋が迫る。まだ出さない。観覧段の誰かが息を呑み、クラリッサの足が一歩分だけ動き、エルネの測定器が警告のように鋭い音を鳴らす。木剣の先端は、すでに視界の中で大きくなりすぎていて、常識的に考えれば今すぐ防御しなければならない距離にあるのに、とおるは自分の心臓が肋骨の内側を叩く音を聞きながら、ミレイユの動線がばらばらの可能性ではなく、ただ一つの攻撃として結ばれる点を待ち続けた。剣が自分へ届く直前、彼女の白雷が右肩から手首へ抜け、足裏に残っていた炎が最後の推進力を与え、腰の回転が刃の進路を決定し、いくつにも分かれて見えていた動きが、一つの斬撃へと収束する。そこへ、とおるは壁を差し込んだ。


 それは、目に見える壁ではなかった。空間に板が現れたわけでも、木剣の前へ透明な盾が立ちはだかったわけでもなく、ただ、紙よりもなお薄く、光よりも頼りなく、けれど確かにそこにある境界が、ミレイユの白雷と剣筋とが接続される一点へ、針を差し込むように触れた。白い火花が、一瞬だけ不自然に散る。斬撃の軌道が、ほんのわずかに外れる。だが、完全には止まらない。ミレイユの技量が、その乱れを強引に補正し、彼女自身の反応速度が、ずれたはずの攻撃を再びとおるへ届く形へ引き戻す。木剣はとおるの肩をかすめ、訓練着の布を弾き、皮膚の上に熱い痛みだけを残して通り過ぎた。直撃ではない。致命的でもない。けれど、避けきったなどと胸を張れるほど綺麗な結果でもなかった。


 とおるは、そのまま後ろへ転がり、白い砂の上に尻をついた。格好悪い。信じられないくらい格好悪い。世界の外側から来た境界干渉系スキル保持者、王都の白華隊訓練場にて、十五歳の天才剣士を相手に堂々の尻もち。語感だけなら、かなり情けない事件であり、本人としても、できれば後世どころか数分後の会話にすら残してほしくない種類の出来事だった。それでも、観覧段の空気は笑っていなかった。


 ミレイユの剣が、予定した場所から外れたのだ。白雷の強化をまとった彼女の一撃が、目に見えない何かによって、ほんのわずかとはいえ確かに逸らされた。クラリッサが、低く呟く。「今のは……」エルネは測定器を抱えたまま、興奮と恐怖が混ざった顔で口を開けており、記録を取るべきか、今見た現象を理解するべきか、その両方を同時にやろうとして処理が追いついていないようだった。ミレイユは木剣を振り抜いた姿勢のまま止まり、やがてゆっくりと、自分の手首へ視線を落とす。彼女自身が、一番よく分かっていた。力で負けたわけではない。壁にぶつかったわけでもない。剣を止められたわけですらない。ただ、攻撃を出そうとした流れの途中へ、何かが挟まれた。


 とおるは尻もちをついたまま、じんじんと痛む肩を押さえ、笑った。


「……痛い。やっぱり痛い。訓練用なのに普通に痛い」


「貴様」


 ミレイユの声は先ほどよりも低く、白雷の残響がまだ訓練場の空気に細く残っているせいか、その一言一言はとおるの耳ではなく肩の痛みの奥へ直接落ちてくるようだった。


「今、私の白雷に触れたな」


「たぶん、少しだけ」


「少しだけ、だと」


「俺もまだ、少ししかできません」


「ふざけた男だ」


「よく言われます」


 ミレイユの瞳に怒りとは別の色が灯った。疑念、警戒、そして、ごくわずかな興味。彼女はもう、とおるを単なる噂の中心人物として見てはいなかったし、隊長の敗北を否定するために斬るべき相手としてだけ捉えてもいなかった。自分の〈白雷〉の内側へ、本人ですら容易には踏み込ませたくない流れの中へ、何か薄く冷たく理解しがたい境界を差し込んできた、得体の知れない壁使いとして見ていたのである。とおるはその視線をまともに受け止めた瞬間、心の中でかなり深く呻いた。ノクスのときほどではないにせよ、天才剣士に戦闘面で興味を持たれるという事態は陰キャの健康には明確に悪く、できれば「たいしたことなかったですね」「では解散で」という温度の低い評価で終わってほしかったのだ。しかし現実はどうやら、相手のやる気スイッチを本人の意図に反して少しだけ押してしまった可能性が高かった。


 ミレイユは剣を構え直した。白雷が先ほどよりも静かに、深く、彼女の体内へ沈んでいく。派手な火花は減り、木剣の表面を走っていた白い閃きも細くなったが、それは出力が落ちたというよりむしろ余分な熱と光を削ぎ落とし、制御そのものを鋭く細く研ぎ澄ませたのだととおるにも分かった。彼女は本気で探りに来る。こちらの壁がどこへ触れ、どのように白雷を逸らし攻撃の流れの何を乱したのかを、言葉ではなく剣を通して確かめようとしている。


「もう一度だ」


「俺は一度で十分です」


「立て」


「尻が地面と会議中です」


「立て」


「はい」


 とおるは木剣を杖のように支えながら、どうにか立ち上がった。肩は痛い。膝も痛い。尻も痛い。朝食のパンは遠い。精神はすでに玄関で靴を履き、できることならそのまま帰宅したがっている。けれど彼の気脈感知は、たった一度ではあってもミレイユの〈白雷〉が斬撃へ変わる瞬間の結び目を捉えてしまっていた。その感覚はまだ指先の奥に残っている。壁を置く場所は面ではなく、かといって単なる点でもない。複数の線が重なり、意思と魔力と肉体の動きが次の行動として決定される直前に生まれる、小さな結び目。そこへなら、壁は届く。


 壁の使い方は、まだ広がる。


 とおるはそれを、怖いと思った。怖いと思ったのに、同時に少しだけ面白いとも思ってしまった。その感情を認めることは彼にとってかなり不本意だった。戦闘を好むつもりはない。強者になりたいという野望も薄い。王都の訓練場で白華隊員たちの視線を集める状況などできれば今すぐ誰かに巻き取って終わらせてほしい。にもかかわらず、自分のスキルがこれまで知らなかった新しい形を見せたとき、胸の奥で何かが小さく熱を持った。


 壁は、閉じるだけではない。遮るだけでもない。動線の途中へ置くことができる。魔力の結び目へ触れることができる。攻撃が攻撃として成立する、その一歩手前へ差し込める。ならば、いずれは――。


 そこまで考えかけたところで、ミレイユの白雷が視界の中で揺れた。


「余所見をするな」


「今、内省してました」


「戦闘中にするな」


「ごもっとも!」


 白い炎と雷が、再び訓練場を走る。とおるは三枚の壁へ意識を分け、今度こそ尻もちではなく自分の足で立ったまま、その軌道を見つめた。勝つためではない。まず、防ぐため。防ぎながら、知るため。知った先に自分の〈壁〉がどこまで届くのかを、確かめるため。


 第二ラウンドと呼ぶには、彼の身体はすでにかなり消耗していたし、本人としても一ラウンド目で撤退申請を出したい気分ではあったが、それでも立ち合いはまだ終わらない。ミレイユの〈白雷〉がさらに鋭く研ぎ澄まされていく。とおるの〈壁〉はその白い雷の流れの中へ、再び、紙よりも薄い境界を探し始めた。


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