第14話 手を離せこの変態が!
その日、王樹十二華騎士団第九華隊〈白華〉の詰所は、朝食の黒麦パンよりも熱く、訓練場の白砂よりも細かく、世界樹の葉擦れよりも速く広がった“新しい噂”によって、ほとんど全域が微妙に浮ついていた。
内容はこうである。
あの隊長を壁に埋め込んだ青年が、今度は隊の若き新鋭である天才剣士ミレイユ・アスターまで壁に埋めたらしい。
尾ひれである。
ひれどころか、翼も角も余計な光輪もついている。
実際には、ミレイユが壁に埋め込まれた事実などない。訓練場の壁は無事であり、白華隊の建築物は朝から誰の上半身も収納していない。施設管理担当の騎士が「今回は修繕申請が要らない」と安堵していたので、その点は間違いない。
とはいえ、噂が完全な虚構かと言われると、これもまた面倒だった。
ミレイユが自ら申し込んだ立ち合いで、最終的に敗北条件を満たしたこと。
とおるの〈壁〉が彼女の動きを止め、スキル〈白雷〉の流れを一時的に乱したこと。
そして、その結果として訓練場にいた者たちの記憶へ、できれば公式記録には残したくない非常に気まずく、非常に笑ってはいけない、しかし笑わずにはいられない構図が刻まれたこと。
これらは、まぎれもない事実だった。
白華隊にとって、それは小さな事件では済まない。
相手は辺境の村人である。ギルドハンターとしても王都ではほぼ無名。鎧を着ているわけでも、名剣を帯びているわけでも、立っているだけで周囲を威圧するような英雄的風格をまとっているわけでもない。むしろ初見の印象だけなら、「書庫で迷っていたら間違えて訓練場へ入り込んだ人」に近い。
そんな青年が、隊長リディア・アルヴェインに続き、白華隊の若き新鋭ミレイユ・アスターまで制した。
しかも、やり方が壁。
白華隊の隊員たちが衝撃を受けないほうが無理だった。
剣士は剣で勝つもの、騎士は鍛錬で勝つもの、努力と才能と魔力制御によって相手を上回るもの。そういう分かりやすい価値観の中へ、「見えない壁をよく分からない場所に差し込まれて、気づいたら負けていました」という結果が放り込まれたのである。騎士たちの理解は一度詰まり、噂だけが先に廊下を走った。
白華隊の食堂では、若い隊員が粥を混ぜながら囁いていた。
「本当にミレイユ殿まで……?」
「壁に?」
「いや、壁には入っていないらしい」
「では何に入ったんだ」
「何か、こう、隊長案件とは別方向の事故に」
「別方向の事故とは」
「聞くな。訓練場にいた奴らが、全員そろって言葉を濁している」
中庭では、木剣を抱えた見習い騎士たちが、普段よりも壁際から距離を取っていた。
「壁の近くに立つと危ないのか」
「壁山殿は壁そのものではなく、間に壁を置くらしい」
「間とは」
「分からん」
「分からないものが一番怖い」
資料室では、記録担当の事務官が頭を抱えていた。
「立ち合い記録の事故欄に、どこまで書けばいいんだ」
「事実だけを書けばよいのでは」
「事実を書くと、書類の品位が下がる」
「事実の品位が低い場合はどうすれば」
「上司に相談する」
王都の詰所に来てまだ間もない壁山とおるは、完全に話題の中心になっていた。
本人は中心にいたくなかった。
彼にとって中心とは、日差しの強い広場であり、視線の集まる教室の前であり、前世で発表を当てられた時の黒板前である。居心地の良さは壁際にある。椅子の端、部屋の隅、食堂の柱の陰、そうした場所にこそ魂の安息がある。にもかかわらず、今の彼は白華隊の噂という巨大な鍋の真ん中で、ぐつぐつ煮込まれていた。
そして、その鍋に最初の具材を放り込んだのは、ミレイユ・アスター本人だった。
立ち合いは、終始ミレイユが圧倒していたと言っていい。
実際に見ていた者たちの大半は、そう判断している。剣術、速度、身体能力、間合いの作り方、火雷複合のスキル〈白雷〉による応答性能、どれを取ってもミレイユが上だった。とおるは防ぎ、下がり、受け流し、時には尻もちまでつき、木剣で打ち合えばあっさり押し込まれていた。戦いようによっては、とおる自身が勝ち目などないと本気で思うほど、二人の実力差は明白だった。
ミレイユの敗因を挙げるなら、それは彼女の“積極性”だった。
彼女には自信があった。
正面から、とおるの〈壁〉を突破できる。
いや、突破してみせる。
隊長リディアが敗北したなどという噂は、何かの間違いであり、不運と偶然と特殊条件が重なっただけであり、この覇気のない青年を自分が剣で下せば、隊内に流れる不穏なざわめきも、王都へ広がりかけている妙な噂も、まとめて吹き飛ばせる。
そういう闘志が、彼女の足を前へ前へと運ばせた。
白雷をまとったミレイユの踏み込みは美しかった。炎の爆発力は足裏で小さく弾け、雷の反応は神経と魔力回路を駆け巡り、細い身体を一本の鋭い刃へ変える。彼女は強かった。天才と呼ばれるだけの動きを見せた。とおるの目に見える壁を避け、薄い干渉壁を踏み越え、正面から圧をかけ、彼が逃げ場を失うように訓練場の空間を切り取った。
それでも、とおるは見ていた。
剣ではなく、剣へ至る道を。
白雷の光ではなく、その光が身体のどこで結び直されるかを。
ミレイユの攻撃は、速い。速いからこそ、攻撃へ移る際に必ず流れが収束する。足裏の炎、腰の回転、肩の雷、手首の制御、木剣の軌道。それらが一つの斬撃へ束ねられる場所がある。とおるは、そこへ〈壁〉を差し込もうとしていた。
本人としては、相手を倒したいわけではない。
ましてや、辱めたいわけでもない。
彼が作りたかったのは、ミレイユの攻撃の底へ生じる小さな〈余白〉だった。動きと動きのあいだ、決定されるはずの軌道に、ほんのわずかな空白を挟む。白雷を破壊するのではなく、命令の流れを薄くずらす。斬撃の成立を完全に止めるのではなく、相手自身が次に選ぶべき動きを見失うほどの、小さな迷いを生む。
そこまでは、理屈としては悪くなかった。
問題は、とおるの〈壁〉が、本人の予想よりもよく効いたことである。
ミレイユが最後の踏み込みへ入った時、とおるは彼女の胸部から背骨沿いへ流れる白雷の命令、そのごく細い結び目を捉えた。火の推進が足へ降り、雷の反応が腕へ走り、剣筋が完成する直前、そこへ一枚の境界を差し込む。
見えない壁が、白雷の流れへ触れた。
白い火花が散る。
ミレイユの動きが、ほんのわずかに空白を挟む。
彼女は天才だった。普通なら崩れるところを、即座に補正しようとした。足で砂を噛み、腰を戻し、木剣を引き、体勢を立て直すために白雷を再配分しようとする。
その再配分が、壁によって一拍遅れた。
身体強化が途切れたわけではない。完全に失われたわけでもない。ただ、必要な場所へ必要な出力が届くまでの間に妙な〈空白〉が落ちた。剣を振るための力は残り、踏み込んだ勢いも残り、体勢だけがわずかに置き去りになる。
結果、ミレイユの上半身が白雷の反動に押し出されるように前へ落ちた。
そこに、とおるがいた。
いや、正確に言うなら、とおるはそこに“いてしまった”。
ここから先は、誰が悪いのか非常に判断しづらい。
とおるはミレイユの攻撃を受け流した直後で、足は砂に取られ、腰は半端に沈みながら腕は木剣を流した姿勢のまま空中に残っており、つまり人間としてはかなり逃げにくい形に折り畳まれていた。
ミレイユのほうも悪意などまったくなく、白雷を放ったあとの反動で体の軸がふっと抜け、気丈な表情とは裏腹に膝が一拍遅れて言うことを聞かなくなり、握っていた木剣の柄から指先の力がするりと逃げかけていた。
二人の距離は近すぎた。
訓練場の砂は滑った。
周囲の白華隊員たちは「あ」と思った。
ただし、その「あ」が喉から外へ出るころにはもう何もかもが手遅れだった。
ミレイユの胸元と肩が、とおるの顔面へ“むにゅり”とぶつかった。
むにゅり、である。
断じて“がつん”ではない。
訓練用の胸甲も、硬い金属板も、現実的な防具の冷たさもそこにはなかった。
あったのは稽古用の動きやすい服越しに伝わってくるあまりにも想定外で、あまりにも人間的で、あまりにも反応に困る柔らかくて温かい圧迫感だった。
とおるの鼻先と頬はほんの一瞬、世界のどこにも逃げ場がないほどふわりと包まれながら視界が真っ暗になった。呼吸は止まり、脳内では「何が起きた」「柔らかい」「いや考えるな」「でも柔らかい」「考えるなと言っている」という理性と事実確認の小競り合いが猛烈な勢いで始まっていた。
さらに悪いことに、とおるは反射でミレイユを支えようとした。
人が倒れてきたら支える。
それは人として自然な行動であり、騎士団の訓練場であろうと平民の市場であろうと道端で荷車がひっくり返ったときであろうと、基本的には褒められるべき判断である。
問題は彼の顔が現在進行形でミレイユの胸元に埋まり、目は見えずに鼻はふさがれ耳は熱くなり、姿勢は砂に沈みながら両手は空中で「どこを持てば人間として正解なのか」という人生最大級の難問に直面していたことだった。
そしてその難問に対して、とおるの手は最悪に近い解答を提出した。
ミレイユの腰を支えようとして、指先が服の布地を滑り、重心を止めようとして手のひらがさらに下へ回り込み、結果として臀部と太ももの境目あたりを——助ける気持ちだけは真面目に、しかし見た目としては弁解の余地がかなり少ない形で——しっかり掴んでしまった。
掴んだ。
掴んでしまった。
しかも、掴んだ側の顔はまだ柔らかい胸元に押し込まれていた。
訓練場が、固まった。
とおるは前も後ろもわからないまま、両手だけは「倒したら危ない」という善意で固定され、ミレイユは前のめりに倒れ込んだ姿勢のまま胸元でとおるの顔を完全に捕獲し、木剣を持っていた側の手が気まずさと羞恥と重力のあいだでぷるぷる震えていた。
それまで緊張感に満ちていた立ち合いは、一呼吸のあいだに王都の騎士団訓練場で発生してはいけない種類の、あまりにも由緒正しいラッキースケベ事故へ変わった。
誰かが噴き出した。
すぐに別の誰かが耐えきれず笑った。
さらに数人が口元を押さえ、肩を震わせ、笑ってはいけないと理解している顔で完全に笑っていた。
クラリッサは審判役として笑ってはいけない立場だったため奥歯を噛み締めて顔を横へ向けていたが、その横顔は戦場で矢を受けた騎士よりも苦しそうで、肩だけが小刻みに上下していた。
エルネは測定器を抱えたまま、「魔力干渉、身体制御喪失、偶発的密着、支援動作の位置誤認……これは記録分類が難しいですね」と研究者として最低限の体裁を保とうとしていたが、測定器の針よりも彼女の声のほうが震えていた。
ミレイユは、数拍遅れて自分の状況を理解した。
倒れた。
胸元に顔がある。
腰の下あたりに手がある。
その手が、思ったよりもしっかり下半身を掴んでいる。
反射的に顔が赤くなる。
耳まで赤くなる。
白雷とは別の熱が、首筋から頬へ、頬から耳へ、耳から頭のてっぺんへと駆け上がり、気高く凛々しい白華隊の少女騎士はほんの一瞬だけ言葉を失った。
「……貴様」
声が震えていた。
とおるは胸甲に顔を押され、非常に聞き取りづらい声で答えた。
「ふぁい」
「手を」
「はい?」
「手を離せ、この変態が!」
乾いた音が訓練場に響いた。
ミレイユの平手が、とおるの頬を見事に打ち抜いた。白雷は乗っていない。乗っていなかったことをとおるは本気で感謝した。乗っていたら頬ではなく魂が焦げていたかもしれない。
彼は砂の上へ横倒しになり、頬を押さえた。
「不可抗力です……」
「黙れ!」
「支えようとしただけで」
「黙れと言っている!」
「はい……」
ミレイユは顔を真っ赤にしたまま立ち上がり、木剣を拾おうとして自分の手からすでに武器が離れていることに気づいた。白い砂の上、木剣は彼女から少し離れた場所に転がっている。
立ち合いの条件は明確だった。
危険と判断される接触、または武器の喪失、もしくは審判による停止。
彼女は武器を落とした。
とおるの〈壁〉によって白雷の流れを乱され、体勢を崩し、攻撃を継続できない状態になった。
敗北条件を満たしている。
ミレイユの表情が、怒りと屈辱と理解したくない現実によって複雑に歪んだ。
「今のは違う」
彼女は言った。
「事故だ」
とおるは頬を押さえながら頷く。
「俺も事故だと思います」
「貴様は黙っていろ!」
「はい」
「私は負けていない。今のは、貴様の卑劣な壁と、よからぬ手つきと、意味不明な偶然が重なっただけで」
「ミレイユ」
クラリッサの声が、訓練場を落ち着かせた。
四席の女性騎士は、笑いをようやく押し殺し、審判役として中央へ歩いてくる。顔の筋肉が少し震えているのをとおるは見なかったことにした。見たらたぶん自分の心が折れる気がしたからだ。
「お前の負けだ」
「クラリッサ殿!」
「武器を落とした。攻撃継続不能。壁山の干渉で白雷の制御が乱れたことも、こちらから見えていた。内容がどうであれ、立ち合いとしては決着している」
「内容がどうであれ、という言い方に問題があります!」
「そこは同意する」
「同意しないでください!」
とおるは椅子が鳴かないよう腰を浮かせると、誰の記憶にも残らない背景の一部を目指すように、そろり、そろりと後退を始めた。
今なら逃げられる。
幸いなことに、その場にいる全員の視線は火花を散らして向かい合うミレイユとクラリッサへ吸い寄せられており、つい先ほど頬に見事な一撃を受けた男が一人減ったところで気づく者などいないはずだった。
頬を押さえ、深く反省しているような顔を作り、騒ぎの責任を痛感した末に自発的な謹慎へ向かう男を装いながら訓練場の端まで移動する。
そこから廊下へ出て部屋へ帰り、扉を閉めながら念のため椅子で押さえ、保存してある干し芋を食べながら今日という一日を静かに振り返りつつ反省すべき点については明日以降の自分へ引き継ぎ、できることなら今後二度と訓練場という危険地帯には近寄らないようにする。
逃走、隠蔽、補給、反省、再発防止までを一度に網羅した、我ながら隙のない計画だった。
少なくとも、とおる本人の中では。
彼が記念すべき第一歩を後方へ踏み出したまさにその瞬間、訓練場の入口から冬の湖面に鉄板を落としたような冷たい声が飛んできた。
「二人とも、何をしている」
空気が凍った。
比喩ではない。
少なくともその場にいた全員の肺は一瞬だけ呼吸の仕方を忘れ、遠くで木剣を落とした音さえ処刑開始の合図めいて響いた。
入口には、リディア・アルヴェインが立っていた。
朝の光をはじく白銀の鎧。
一本の乱れさえ許されていない金の髪。
冬空を削り出したような青い瞳。
そして誰がどう見ても言い逃れの余地なく、明確かつ全面的にご立腹である。
白華隊長の怒りにはいくつかの〈種類〉が存在する。
敵へ向けるそれは声を荒らげる必要すらない静かな殺気であり、部下の失態へ向けるものは背筋を正さずにはいられない厳格な叱責となり、王国上層部の理不尽に対しては礼儀という薄布に包まれた冷たい不満として現れ、ノクスへ向けた場合に限っては、感情ではなく斬撃の予備動作と呼ぶほうが正確だった。
しかし今のリディアは、そのどれとも微妙に異なっている。
朝一番の執務へ向かう途中、自隊の訓練場を覗いてみれば見習い隊員がまだ正式な所属すら定まっていない臨時協力員を勝手に連れ込み、許可のない立ち合いを始めている。隊員たちは訓練そっちのけで群がり、最終的には理由のよく分からない接触事故によって既存の噂へ増築工事まで施されていくだろう――そんな光景を一度に見せられた隊長の顔である。
分類名が長い。
説明も長い。
そして、怒りは説明以上に深い。
とおるは自分に向けられた直接的な呼びかけがまだないことを好機と解釈し、今度は反対方向へ逃げることにした。
人は追い詰められると、同じ失敗を角度だけ変えて繰り返す。
「壁山」
「はい」
返事だけは、驚くほど良かった。
「どこへ行く」
「医務室へ……頬が」
とおるは頬を押さえ、負傷者として最大限の哀れさを演出してみたが、残念ながら相手は情に流される人物ではなく、むしろ情へ訴えようとした事実そのものが減点対象になりそうな顔をしていた。
「執務室へ来い。ミレイユ、お前もだ」
ミレイユの肩が、目に見えて跳ねた。
「隊長、これは」
「言い訳は執務室で聞く」
「はい……」
先ほどまで木剣を握り、とおるへ今にも再戦を申し込みそうだった威勢は朝露に当たった火種のように一瞬で小さくなった。
「クラリッサ」
「はっ」
名を呼ばれたクラリッサは、これ以上ないほど姿勢を正した。
「朝の訓練を再開しろ。集まっている者たちも持ち場へ戻せ。それから、この場で見たことを面白半分に広げる者には、午後の基礎走を追加する」
その命令が下った途端、見物人と化していた白華隊員たちは、蜘蛛の子を散らすという表現では足りないほどの勢いで四方へ消えていった。
つい先ほどまでどちらが先に倒れたのか、なぜ頬を叩かれたのか、ミレイユの木剣はいったいどの瞬間に手を離れたのかと朝の訓練よりも目の前の騒動へ熱心に取り組み、好奇心という名の胃袋を限界まで満たそうとしていた者たちは今や木剣を握り、盾を構え、我々は初めから一心不乱に鍛錬しておりましたとでも言いたげな清廉潔白そのものの顔を整然と並べていた。
人は見物を好む。
しかし、それ以上に隊長から見られることを恐れる。
好奇心には重さがないが、白華隊長の視線には下手な甲冑よりも人の肩を沈ませる重量があった。
こうしてとおるとミレイユは、背後で急速に健全さを取り戻していく訓練場をあとにし、リディアに先導されるまま執務室へ向かうこととなった。
道中、二人の間に会話はなかった。
もっとも、静かだったという意味ではない。
ミレイユは一言も発さぬまま視線だけでとおるの背中へ風穴を開けようとしており、とおるは無言の圧力に耐えかねた結果、廊下の壁へ刻まれた彫刻を数えるという人生において今後まったく役立つ見込みのない作業へ全神経を注いでいた。
白華隊の廊下は清潔で、静謐で、隊の名にふさわしい上品さに満ちており、磨き上げられた白い石壁には花弁を模した浅い彫刻が寸分の狂いもなく一定間隔で並んでいる。
一つ。
二つ。
三つ。
どれも形がよく似ており並びにも乱れがないため、背後から突き刺さるミレイユの殺気と前方を歩くリディアから漂う冷気を忘れるための題材としては申し分ない。
美しい。
数えやすい。
そして何より、現実から目を逸らすのに適している。
とおるはこのとき初めて、白華隊の内装を心の底から称賛した。
執務室へ入ると、リディアは机の前まで進んだものの椅子には腰掛けず、二人が室内へ入ったことを確認してからゆっくりと振り返った。
座らない。
ただそれだけのことで、とおるには今後の展開が理解できた。
これは、二言三言で解放される類いの呼び出しではない。
「まず、ミレイユ」
「はい」
「誰が、勝手に立ち合いを許可した」
「訓練場で力量を確認しただけであり、正式な決闘ではありません」
ミレイユは即座に答えたが、その内容は質問に対する返答ではなく、少しでも罪状の響きを軽くしようとするささやかな名称変更の提案だった。
「質問に答えろ」
提案は、採用を検討される段階にすら至らなかった。
「……誰からも、許可は得ていません」
「白華隊の見習いであるお前が、まだ正式な隊員ですらない臨時協力員を朝食の途中で連れ出し、隊の訓練場を無断で使用したうえ、許可なく立ち合いを始め、周囲の隊員を巻き込み、朝の訓練まで中断させた。これをどう説明する」
順序立てて並べられた事実はどれも腹立たしいほど正確であり、誤解も誇張も含まれていないだけに反論の差し込みようがなく、部屋の隅で聞いていたとおるでさえ、自分たちは朝食もろくに終えないうちからいったい何をしているのだろうという根本的な疑問を抱かずにはいられなかった。
「それは……」
ミレイユは答えを探すように口を開いたものの、続く言葉は出てこなかった。
さすがの彼女も、リディア本人を目の前にして「隊長が辺境の青年に敗れたという話を否定したかったのです」と正直に告げるのは難しいらしい。
無理もない。
その説明には、辺境、敗北、この男、という、それぞれ単体でも室温を下げる力を持ちそうな単語が含まれており、順番どおり口に出せば執務室が季節を無視して真冬へ突入する可能性すらあった。
とおるは部屋の隅に立ち、叱責を真摯に受け止めているような神妙な表情を作りながら内心ではひたすら祈っていた。
どうか、壁の話題が出ませんように。
集会所で起きた件へ話が飛びませんように。
リディアさんの眉間へ集結している血管が、これ以上の援軍を呼び寄せませんように。
そして可能であるなら、自分の存在が一時的にでも棚か置物、せめて来客用の傘立て程度に認識されますように。
ミレイユはしばらく黙り込んでいたが、やがて悔しげに拳を握ると、逃げ道をすべて塞がれた者だけが見せる妙に潔い覚悟を顔へ浮かべた。
「私は、納得できませんでした」
「何がだ」
リディアの声音は静かだった。
怒鳴られるよりも、その静けさのほうが数段恐ろしい。
「隊長が……その、辺境で、この男に敗れたという話が」
危険な単語が、とうとうすべて出た。
リディアの目が、時間をかけてゆっくりと細くなる。
それに呼応するように、とおるの胃も可能な限り存在感を減らそうと小さく縮んだ。
「だから、確かめようとしたのか」
「はい」
「結果は」
ミレイユは唇を噛んだ。
「……納得していません」
「感想を聞いているのではない。勝敗を聞いている」
「武器を落としました」
「ならば、お前の負けだ」
「隊長!」
「ミレイユ」
名を呼ぶリディアの声には、反論そのものを断ち切るような厳しさがあった。
「敗北を認められない者は、その場に立ち止まり続けることしかできない。お前は相手の姿や立場から力量を決めつけ、自分の得意な間合いへ引き込めば勝てると考えたが、肝心の術式が何へ作用するものなのかを見誤った。速さで上回りながら負けたのではない。速さだけで上回れると思い込んだことが、お前の敗因だ」
ミレイユは何も言わず、うつむいた。
顔にはまだ赤みが残っていたが、それが羞恥によるものなのか悔しさなのか、それとも今すぐとおるへもう一度木剣を振り下ろしたい衝動を必死に抑えているせいなのか、本人以外には判別できない。
おそらく、全部だった。
リディアはひと呼吸置くと、先ほどよりわずかに声音を和らげた。
「お前の〈白雷〉は優れている。速度、反応、踏み込みの鋭さ、そのいずれを取っても、同年代の騎士の中では頭一つ抜けていると言っていい。だが、その強さに慣れた結果、自分より遅い相手なら押し切れると考え、相手が何を狙っているのかを見ようとしなかった」
ミレイユの拳に、さらに力が入った。
「壁山の術式は、単純に相手より速く動くものではない。速さが生じる条件や、運動が成立する前提そのものへ干渉する。そこを理解せずにいつもどおり踏み込めば、何度試したところで同じ場所につまずくことになる」
とおるは思わず顔を上げ、リディアを見た。
説明が的確すぎる。
術式の持ち主である自分よりも分かりやすく、しかも本人がこれまで感覚だけで処理していた部分まできれいに言葉へ置き換えられている。
もしかすると次から自分の術式について尋ねられた際には、今の説明をそのまま借りればよいのではないか。
とおるがそんな不届きなことを考えている一方、ミレイユも同じ衝撃を受けたらしく、悔しさを顔に残しながらも反論はせず、黙ってリディアの言葉を聞いていた。
やがてリディアはミレイユから視線を外し、今度は部屋の隅で置物になり損ねていたとおるへ顔を向けた。
「壁山」
「はい」
「お前もだ」
「俺もですか」
「当然だ。立ち合いに応じるな」
「かなり断ったつもりではあるんですが」
「最終的に応じた」
「腕を掴まれて連れて行かれました」
「拒む手段はいくらでもあったはずだ」
「白華隊の天才剣士に朝食中の一般村民がどれだけ拒めるか、そこは少し考慮してほしいです」
「臨時協力員だ」
「肩書きで筋力は増えません」
「口はよく回るな」
「戦闘より得意です」
「ならまず得意分野を選べ」
「選べるなら、文献整理がいいです」
リディアは深く息を吐いた。
机の上には、すでに書類が何枚も積まれている。王都へ戻ってから彼女が抱える仕事は山ほどあるはずだった。星の塔の報告、村の封鎖、王都への説明、青の大陸の動き、ノクスの管理、とおるの身元問題。その山の上に、朝から白華隊内部の訓練場事故が追加されたのである。
隊長業は大変だ。
とおるは他人事のように思いかけ、自分がその原因の一部であることを思い出して静かに反省した。
「壁山、お前の術式は危険だ。特に魔力回路や動作の結び目へ干渉する使い方は、制御を誤れば相手を深く傷つける可能性がある」
「はい」
「今回のような事故で済むとは限らない」
「はい」
「返事だけは素直だな」
「反省しています」
「本当か」
「頬がまだ痛いので、かなり」
ミレイユが横から睨む。
「自業自得だ」
「不可抗力です」
「変態」
「そこは本当に誤解です」
「黙れ」
「はい」
リディアの眉間がまた動いた。
「二人とも、私の執務室で喧嘩をするな」
「申し訳ありません」
「すみません」
二人の声が重なった。
その重なり具合が妙に気まずく、二人は同時に顔をそらした。
リディアは額へ手を当てる。
「……本題に入る」
まだ本題ではなかったらしい。
とおるは嫌な予感を覚えた。
白華隊長がため息をついた後に出す本題は、だいたい逃げ道がない。王国へ来いと言われた時もそうだった。星の塔へ同行しろと言われた時もそうだった。彼女のため息は通行止めの看板ではなく、こちらを捕まえる網の前兆である。
「ミレイユ」
「はい」
「しばらくの間、壁山とおるの指南役を務めろ」
執務室が静かになった。
とおるとミレイユは、同時にリディアを見た。
「……はい?」
「隊舎の案内、一日の動き、白華隊の基本業務、訓練場の使い方、最低限の戦闘訓練。お前が面倒を見る」
ミレイユの顔から赤みが引き、代わりに驚きが広がる。
「隊長、なぜ私がこの男の」
「勝手に立ち合いを申し込んだ責任だ」
「責任」
「お前は壁山の術式を軽く見た。壁山は白華隊の規律と対人訓練を知らない。互いに学ぶことがある」
「この男から学ぶことがあると?」
「ある」
リディアは即答した。
「お前は速い。才能もある。将来を期待している。だからこそ、自分より弱く見える相手、戦いを好まない相手、剣で勝負しない相手への理解が浅い。壁山はその欠点を突ける」
ミレイユは黙った。
とおるは手を挙げる。
「あの、リディアさん」
「何だ」
「俺側の意見としては、昨日王都へ来て、今日すでに殴られている相手に面倒を見られるのは少し不安が」
「殴られる原因を作ったのはお前だ」
「不可抗力です」
「不可抗力を起こしやすいなら、なおさら監視が必要だ」
「監視」
「案内兼、指南兼、監視だ」
「肩書きがどんどん重くなる」
ミレイユが言う。
「隊長、私は納得できません」
「納得する必要はない。命令だ」
「……はい」
とおるは再び手を挙げた。
「俺も納得できません」
「お前は白華隊の管理下にある臨時協力員だ」
「急に組織の力で押してくる」
「命令だ」
「はい……」
リディアは二人を見比べた。
「今日から三日間、ミレイユは壁山の案内役を務めろ。訓練は基礎から行う。勝手な立ち合いは禁止。壁山、お前も相手の挑発に乗るな。術式の検証は、エルネとクラリッサの立ち会いのもとで行う」
「三日間」
とおるが呟く。
「三日も」
ミレイユが呟く。
二人は互いを見た。
ミレイユは頬を赤くし、怒りと羞恥をまだ引きずっている。
とおるは頬を押さえ、どう考えても穏やかな王都生活の始まりではない現実を噛みしめている。
数拍の沈黙。
そして、二人はほぼ同時に叫んだ。
「えええええ!」
リディアはもう一度、深いため息をついた。
世界樹の影に守られた王都アルヴェリオン、その白華隊詰所の執務室で、壁山とおるの王都生活は早くも面倒な方向へ増築されていた。
壁を作るのは得意なはずなのに、人間関係の距離だけはどうにも思い通りに設計できない。
とおるは心の底からそう思った。




