第15話 案内役ミレイユと、王樹中枢会議
見た目だけなら、ミレイユ・アスターはどこぞの高嶺の花と呼ばれてもおかしくない清廉な若き女性騎士だった。銀灰色の髪は光を受けるたび絹糸のように淡く揺れ、菫色の瞳は宝石めいた透明感を持ち、白華隊の軽装鎧を身につけた立ち姿には、剣を捧げ持つ聖画の人物にも似た凛とした美しさがある。少し離れた場所から眺めるだけなら、王都の貴族子女が憧れ、見習い騎士たちが密かに目標へ掲げ、吟遊詩人が「白き雷花」などという少し盛った二つ名をつけても成立しそうな雰囲気さえあった。にもかかわらず、なぜこうもはっきりと眉間に皺が寄り、顔の下に何か小さな怒れる龍でも詰まっているのかと疑いたくなるほど、こめかみ付近へ血管が正直に浮き上がっているのだろうか。とおるは、目の前を歩くミレイユの後ろ姿を見ながら、人間の美貌と機嫌の悪さは同居できるのだな、とどうでもいい学びを得ていた。
リディアの執務室で「ミレイユが壁山とおるの指南役を務めろ」と命じられてから、まだ半刻も経っていない。にもかかわらず、二人の間にはすでに三日間の任務を終えた老兵同士のような疲労感が漂っていた。もちろん老兵のような信頼関係はない。あるのは、壁際へ寄りたいとおると、壁際へ寄ると何か仕掛けられるのではないかと睨むミレイユ、という非常に相性の悪い配置だけである。とおるはただでさえ王都の暮らしが性に合っていない。世界樹はでかいし、人は多いし、隊舎は広すぎるし、食堂では知らない騎士たちが妙な尊敬と警戒の混ざった目で見てくるし、廊下を歩けば「例の壁の」と囁かれ、部屋に帰れば貴賓室めいた寝台が自分を身分不相応な寝心地で包もうとしてくる。今すぐクルム村へ帰り、狭い自宅の机で書き写した古文献を読み、マーサ婆さんの干し芋を食べ、山羊のポルカが柵をかじらないかだけ心配していたい。そこへ、よりにもよって相性が最悪というか、同じ生活圏内に置くと気圧の変化で窓が割れそうな激情型の若き騎士が、自分の壁の内側へ踏み込んできた。精神的な壁の話である。物理的に出すと、いよいよ問題になる。
基本的に、とおるは一人でいたい。できることなら一日に十五時間以上は壁に囲まれた部屋の中にいて、残りの時間もなるべく人の少ない場所で活動したい。前世でも異世界でも、彼の心は「予定のない休日」と「鍵のかかる部屋」と「誰にも話しかけられない時間」を主要栄養素として生きてきた。にもかかわらず、現在の彼は白華隊の若き新鋭に半ば監視されながら隊舎を案内されている。囚人ムーブである。罪状は、隊長を壁に関する不名誉な噂へ巻き込み、さらに案内役本人を訓練場で盛大な事故へ巻き込んだこと。裁判なし、判決あり、刑期三日。とおるは心の中で控訴した。受理されなかった。
「ここが一階東廊下だ」
ミレイユは硬い声で言った。
「食堂、補給室、外来受付、馬房へ通じる。勝手に奥へ入るな。迷ったら受付へ戻れ。廊下の右側を歩け。走るな。騒ぐな。壁を出すな」
「最後だけ俺専用の規則ですね」
「当然だ。貴様は歩く事故要因だ」
「歩いているだけで事故扱い」
「反論があるなら、今朝の訓練場を思い出せ」
「申し訳ありませんでした」
「早いな」
「反省は早めに出したほうが被害が小さいので」
ミレイユは鼻を鳴らし、足早に進んだ。彼女の説明はたしかに説明ではある。任務として案内しようとはしている。リディアからの命令を果たさなければならないという使命感だけに、彼女の中の栄養素とエネルギーが一〇〇パーセント吸い上げられているだけで、とおるへの配慮は一ミリもなかったが。
歩く速度は速いし、曲がる時の合図は短いし、説明の合間に「覚えたか」「遅れるな」「そこへ触るな」「壁を見るな、壁を作るな」と命令が飛ぶ。言葉の端々には今にも飛びかかりそうな殺意がまぶされ、彼女の周囲には沸騰した油へ水を落としたような、ぱちぱちと危険な雷霊素が散っていた。雷霊素とは雷属性の魔力を構成する微細な粒子であり、本来は訓練や術式発動時に制御されるべきものだ。案内中に漏らすものではない。少なくとも、とおるはそう思った。
指南役としては零点である。ついでに、とおるへの敵愾心は非の打ちどころのない百点だった。
「ここが礼拝室だ」
ミレイユは扉の前で止まった。白い花弁を模した扉飾りの奥から、静かな祈りの気配が漏れている。
「任務前後に祈りを捧げる隊員も多い。白華は聖属性の適性者が比較的多く、歴代隊長の多くも世界樹と王権への誓約を重んじてきた。貴様も騒ぐな」
「騒ぐタイプに見えます?」
「事故を起こすタイプには見える」
「判断基準が訓練場に支配されている」
礼拝室の隣には医務室があり、薬草と清潔な布と消毒液めいた香りが漂っていた。ミレイユは「今朝、貴様の頬を診てもらうならここだ」と言い、とおるは「叩いた側が案内する医務室、感情が複雑ですね」と返し、ミレイユは「自業自得だ」と短く斬った。階段を上がれば資料室と会議室、三階には隊長執務室、上級騎士用の控室、魔導通信室がある。中庭側へ出れば訓練場、武器庫、魔力障壁の調整室、白華隊専用の小礼拝庭。詰所はひとつの建物ではなく、小さな軍事共同体だった。人が動き、書類が流れ、武器が整えられ、訓練が行われ、祈りが捧げられ、命令が下り、報告が上がる。クルム村の集会所が生活の中心なら、白華隊の詰所は秩序の心臓だった。
「白華隊の一日は、朝の点呼、第一訓練、朝食、任務割り振り、警備交代、書類処理、第二訓練、外勤報告、装備点検、夜番交代という流れで動く。隊長の命令は最優先。副官マルク殿の通達は隊長命令に準じる。四席クラリッサ殿は訓練管理を担当することが多い。エルネ殿の測定には、必要がない限り近づくな」
「必要があっても近づきたくない時があります」
「判断としては正しい」
「そこは同意するんですね」
「エルネ殿は優秀だ。優秀すぎて、測れるものを見ると測りたくなる」
「ノクスさんよりは安全ですか」
「比較対象が悪すぎる」
ミレイユの眉間の皺が少しだけ緩んだ。とおるは小さな変化を見逃さなかった。彼女もきっとノクスは嫌いなんだなと何となく理解する。白華隊内でノクスの評判がどうなっているのか気になったものの、聞けば別の地雷が起動しそうなのでやめた。
中庭へ出ると、数名の隊員が木剣で基礎訓練をしていた。クラリッサの号令に合わせ、同じ動きを何度も繰り返している。踏み込み、斬り下ろし、引き戻し、構え直し。単調に見える動きの中に、足裏の圧力、腰の角度、肩の脱力、視線の置き方が細かく仕込まれているのが、とおるにも少しだけ分かった。ミレイユはその様子を横目で見ながら言う。
「貴様も基礎からやる。剣を握るなら、最低限の構えくらい身につけろ」
「俺、壁担当では」
「壁を使うにも姿勢が要る。今朝のように自分の壁で逃げ道を塞ぐ者へ、自由に術式を使わせるわけにはいかない」
「正論は逃げ場がないので苦手です」
「逃げるな」
「心が逃げています」
「しっかり捕まえろ」
説明なのか説教なのか分からない会話の中で、ミレイユはふと足を止めた。訓練場の白砂を見つめ、しばらく黙ってからこちらへ顔を向ける。
「そもそも、貴様の〈壁〉とは何なのだ」
とおるは即答できなかった。質問そのものは何度も受けている。村人には「壁を出すスキルです」で済んだし、ギルドでは「防御と簡易足止めに使えます」と当たり障りのない言葉で説明した。リディアには「俺にもよく分かっていません」と正直に白状したし、ノクス相手なら何を言っても採血の理由にされそうなのでなるべく黙りたいところだった。しかしミレイユはそのどれとも違っていた。彼女は自分の〈白雷〉を乱された当事者であり、リディアを深く尊敬する剣士であり、とおるの能力を認めたくないまま無視もできなくなっている立場の人間だ。
「それと、村で一体何があったのかを正確に教えろ」
ミレイユは続けた。
「隊長が貴様に敗れたなどという話は、いまだ納得していない。はっきり言って噂は信用していない。とりあえず貴様の口から聞こうと思ってな」
「正確に、ですか」
「そうだ」
「正確に話すと、途中でミレイユさんが剣を抜く可能性があります」
「抜かせる内容なのか」
「言葉の選び方によります」
「じゃあ選べ」
「はい」
つらい。非常につらい。とおるは必死に言葉を探した。目の前のミレイユを怒らせず、リディアの尊厳を必要以上に削らず、かといって嘘もつかず、自分の能力についてある程度説明する。考えれば考えるほど難易度が高い。前世の国語の記述問題より難しいし、採点者の機嫌で命運が変わる点も似ている。
「俺の〈壁〉は、最初は本当に壁を出すだけのスキルだと思っていました。矢を止めるとか、魔物の牙を防ぐとか、橋の補強をするとか、鍋の蓋とか」
「鍋の蓋…?」
「便利なんです」
「黙れ、続けろ」
「はい」
彼は中庭の端に立ち、手のひらを軽く上げた。透明な壁が一枚、二人の間に薄く浮かぶ。厚みは指先ほど、光を受けてわずかに輪郭が見える程度。
「基本は、対象と空間の間へ遮蔽物を作ることです。場所はある程度自由に選べます。ただ、同時に出せるのは三枚まで。出した後に位置を動かすことはできません。消して作り直すには少し時間がかかります」
「それは見た」
「ですよね。今朝、けっこう失敗しましたし」
「自覚はあるのか」
「めちゃくちゃあります」
とおるは壁を消し、今度は足元の少し前へ斜めの小さな面を出した。
「村で魔物を相手にしているうちに、壁は単なる盾ではなくて、動線を変える道具になると分かりました。突進する魔物の進路へ斜めに置けば、相手の勢いで横へ流れます。足元へ低く置けば踏み込みが乱れます。自分の足場にして距離をずらすこともできます。かっこよくはないですけど」
「今朝の妙な滑り込みか」
「はい。陰キャ式段差利用前進です」
「技名が弱すぎる」
「俺もそう思います」
ミレイユは眉間を押さえた。怒っているのか呆れているのか、微妙なところである。とおるは続ける。
「それで、最近分かってきたのは、壁を置けるのが物と物の間だけではないかもしれない、ということです。魔力の流れ、動作の起点、攻撃が成立する直前の結び目。そこへ、薄い境界を差し込める場合があります」
ミレイユの表情が変わった。彼女の周囲に散っていた雷霊素が少し静まる。
「今朝、私の白雷に触れたものか」
「たぶん」
「たぶんで済ませるな」
「本当にまだ制御できていないんです。ミレイユさんの動きは速すぎて、剣を止めるのは無理でした。だから、剣が振られる前に、足と腰と腕と魔力が一つにつながる場所を探しました。そこへ薄く壁を置いて、動きの流れを少しずらしたかった」
「結果、私は倒れた」
「はい」
「そして貴様は、よからぬ場所を掴んだ」
「不可抗力です」
「一生忘れないからな」
「やめてください。リディアさんも別件で一生言うって言ってました。白華隊の人たちはみんな記憶力が強すぎます」
ミレイユの眉がまた跳ねた。
「別件とは何だ」
「それは、隊長の名誉のために」
「答えろ」
「答えると俺の命と隊長の機嫌が両方危ないです」
「では、村で何があったかは察しておく」
「察しないでください」
ミレイユは腕を組み、少しだけ考え込んだ。怒りはまだ残っており、羞恥も敵愾心も消えてはいない。けれど彼女の剣士としての部分が、いま聞いた説明を無視できなくなっていた。
「貴様の壁は、相手の強さを正面から受けるのではなく、力が働く前提へ触れるということか」
「言い方がかっこいいですね。俺が言うと生活感が出るのに」
「茶化すな」
「はい。まあ、そうです。ただ、いつでもできるわけではありません。相手の動きが分からないと無理ですし、速すぎると見えませんし、強すぎる魔力に触れると壁ごと持っていかれます。リディアさんの時は、本当に事故みたいなもので」
「隊長は手加減していた」
「それは間違いないです。地下遺跡で本気に近い魔力を見た時、あの人とまともに戦ったら俺は三合どころか開幕で帰宅希望でした」
「当然だ。隊長は誰よりも強いからな」
「はい。間違いなく」
ミレイユは少しだけ満足そうに頷いた。リディアを褒めると機嫌が微妙に改善するという重要かつ貴重な手ごたえを、脳内のミレイユ取扱説明書に一項目追加した。
「それでも、隊長は貴様に止められた」
「はい」
「なら、貴様の壁は危険だ」
「そうですね」
「自分で認めるのか」
「認めないと、もっと危ない気がします」
ミレイユは不服そうに唇を結んだ後、ふいに視線を外した。
「……私は、隊長が敗れたと聞いて許せなかった」
「はい」
「隊長は私の目標だ。あの方の剣、誇り、任務への姿勢、すべてを尊敬している。そんな隊長が、貴様のような、なんというか覇気の置き忘れみたいな男に」
「悲しいくらい表現が強い」
「敗れたという話を、受け入れられなかった」
「それは、分かります」
ミレイユは少し驚いたようにこちらを見た。とおるは苦笑する。
「俺も、勝ったとは思っていません。止めた、というのが一番近いです。それも、相手の善意と手加減と、俺のスキルの変なところと絶妙な運が重なって。だから、ミレイユさんが怒るのも分かります。俺が逆の立場でも、なんか地味な人が推しを変な噂に巻き込んだら怒ると思います」
「推しとは何だ」
「説明すると文化の話になります」
「また異界の言葉か」
「だいたい、尊敬対象とか応援対象みたいなものです」
「隊長を軽い言葉で扱うな」
「すみません」
ミレイユはまた歩き出した。先ほどよりはほんの少しだけ速度が落ちている。案内役としての配慮というより、とおるの説明を咀嚼するための間だった。二人は武器庫の前を通り、補給倉庫の脇を抜け、白華隊の裏庭へ出た。裏庭には白い小花が植えられ、訓練場の喧騒とは違う静けさがある。世界樹の枝葉が遠く高く揺れ、王都の風が柔らかく吹いた。
「ここは休憩庭だ」
とミレイユは言った。
「任務前に気を整える者もいるから、決して騒ぐな。あと寝るな。壁で囲うことも禁止だ」
「最後の三つ目だけ、俺の将来の行動を先読みしてません…?」
「貴様ならやりかねん」
「否定しきれない」
少しだけ、彼女の口元が動いた。笑ったのか怒りが別の形に変わったのか、とおるには判別しづらかった。ミレイユは相変わらず分かりやすいようで分かりにくい。雷霊素を撒き散らすほど敵意があるのに、説明は律儀にする。怒鳴るのに、リディアの命令は絶対に守ろうと彼女なりに努力している。蛇がカエルを仕留めようと狙い定めているときのように睨むのに、とおるの能力については真面目に聞く。相性は最悪でも、完全に話が通じない相手ではないのかもしれない。そう思いかけたところで、ミレイユが鋭く言った。
「勘違いするなよ。私はまだ貴様を認めてはいないし、この場にいることも認めていない」
「心の声を読まないでください」
「顔に出ているぞ」
「俺の顔、王都に来てから情報漏洩が多いみたいですね」
同じ頃、リディア・アルヴェインは白華隊の詰所から離れ、王城北翼にある〈王樹中枢院〉へ向かっていた。
王都アルヴェリオンの中心、世界樹の根に抱かれた王城には、いくつもの機関が存在する。王族の居住区、謁見の間、軍務府、宮内記録院、王宮魔導院、王国神殿庁、近衛司令部、そして王権直属の危機管理機構である王樹中枢院。表向きには、地脈、国境、魔物災害、大規模術式犯罪、古代遺物、王族安全保障など、国家規模の危機情報を統合するための行政機関とされている。実態は、各部署が自分たちの失点を隠しながら、それでも国が傾くほどの案件だけは嫌々共有する場所だった。王国という巨大な組織において、情報とは血液であり、同時に毒であり、権力そのものでもある。誰が何を知り、誰が何を知らないか。それだけで責任の所在、予算の流れ、軍の配置、貴族間の発言力まで変わっていく。リディアは若くして白華隊長となった身でありながら、その面倒さを十分に知っていた。
王樹中枢院の会議室は、円形だった。中央には世界樹の根材を加工した大きな卓があり、表面には風の大陸の地図が魔導投影されている。星の塔周辺、クルム村、ラグメル観測塔、王都、国境線、青の大陸へ向かう海路が淡い光で浮かび、いくつもの印が点滅していた。壁には遮音結界が張られ、記録用の水晶球が三つ、宮内記録院の封印官によって管理されている。発言は自動筆記されるが、機密等級に応じて黒印、赤印、白印へ分類され、閲覧権限も分けられる。口にした言葉がそのまま政治的な重さを持つ場所であり、軽口を叩けば軽口のまま記録に残る。ノクスなら嬉々として余計なことを言うだろう。リディアはそう思い、会議室に彼の姿がないことを少しだけありがたく感じた。彼の席には代理として黒蓮副官イオナ・ベルカが座っている。無表情で書類を揃えている姿は、ある意味では本人より安心できた。
出席者は多くない。王樹十二華騎士団総務局からは副総監グラウ・エーレンフェルト。王宮魔導院からは古代遺構部主任魔導師マティアス・ローヴェ。王国神殿庁からは封印儀礼担当の司祭長補佐セレナとは別系統の高位神官アルド。軍務府からは国境戦略官リーゼル・カーン。宮内記録院からは黒印管理官。さらに、古代遺構封鎖を専門に扱う〈封境管理局〉の局長補佐も同席していた。どの顔も、星の塔が単なる地方調査案件では終わらないことを理解している。
「第九華隊長、報告を」
副総監グラウが言った。彼は白髪混じりの厳格な男で、声に余分な温度がない。王樹十二華騎士団全体の運用と王城内での調整を担う人物であり、各隊長から恐れられる理由の半分は戦歴、もう半分は書類の不備を見逃さない目だった。リディアは立ち上がり、星の塔調査の経緯を簡潔に述べた。クルム村封鎖準備、村民避難の進捗、ラグメル観測塔の異常波、星の塔地下遺構への進入、黒い扉、フード姿の構成体との交戦、白露の使用、構成体の自壊、深部で確認された巨大生体構造物〈星骸巨躯〉、第六華隊の合流、壁山とおるによる扉開放。感情を削ぎ落とした報告は、静かな会議室へ重く落ちていった。
王宮魔導院のマティアスが細い指で地図の星の塔を示す。
「扉開放が、現地協力者の接触によって起きたという点を再確認したい。王国式の解錠術式、聖印、地脈共鳴石、いずれも反応を得られなかった古代扉が、彼の手で開いたと」
「その通りです」
「彼は詠唱を行ったか」
「行っていません」
「魔力を意図的に流した様子は」
「本人の証言では、扉に触れた直後に未知言語による声を認識し、意味を理解した。その後、扉が開いたとのことです」
「未知言語を理解した…だと?」
マティアスの目が光る。
「興味深い。精神翻訳か、魂位相の同期か、遺構側の意味情報投射か」
軍務府のリーゼルが冷たく言った。
「主任魔導師、研究課題ではなく安全保障案件として扱っていただきたい」
「理解している。研究と安全保障は対立しない。無知は危険を増やすだけだ」
「好奇心も時に危険を増やす」
「それは否定しない」
封境管理局の局長補佐が書類をめくる。
「クルム村の封鎖範囲について、現地判断で一時移住へ切り替えたとあります。初期命令は強制退去を含む即時封鎖でしたね」
「住民の反発が強く、強制措置を取れば混乱と逃亡者を生む可能性が高いと判断しました。現地協力者の説得もあり、第一陣の避難は完了しています」
「判断としては妥当でしょう。ただし、遺構接触制限区域内に民間人が残る時間が増えた点は記録されます」
「構いません。責任は私が負います」
リディアは即答した。グラウ副総監がわずかに目を細める。
「責任を負うという言葉は便利だ。実務上、責任だけでは魔物も外交問題も止まらん」
「承知しています。封鎖業務の追加人員と住民護送の馬車を要請します」
「それを先に言え」
グラウは記録官へ視線を向けた。
「第九華隊への補給と護送支援、軍務府と調整。封境管理局は墓地保全結界の追加要員を出せ」
「承りました」
会議室内で書類と命令が動く。王国の内幕とは、勇ましい掛け声よりも誰が馬車を出すか、どの印章で通すか、どの部署の予算に付けるかで出来ている。現場の命は、こうした地味な調整に支えられていた。
話題は壁山とおるへ移った。黒印管理官が、感情の読めない声で言う。
「当該人物は異界出身を自称。固有スキルは境界干渉の疑い。古代遺構の第一級封鎖扉を開放。星骸巨躯より音声様の意味情報を受領。これらが事実なら、白華隊管理下の臨時協力員という扱いは軽すぎるのでは」
「拘束を提案するのですか」
リディアの声が低くなる。
「可能性の一つです。王都へ入った以上、監視、尋問、魔力回路測定、記憶抽出の許可申請を検討すべきでしょう」
神官アルドが眉をひそめた。
「記憶抽出は精神への負荷が大きい。本人が敵性を示していない段階で認めるべきではありません」
「敵性の有無は、確認しなければ分かりません」
「確認のために人を壊すのは本末転倒です」
リディアは、卓に置いた手をわずかに握った。王国のため、民のため、危険管理のため。その名目で人が道具のように扱われる場面を、彼女は好まない。ノクスの研究理念を嫌う理由もそこにある。
「壁山とおるは、現時点で王国へ協力しています」
リディアは言った。
「クルム村の避難説得にも協力し、星の塔調査では複数回こちらを守りました。危険性は認めます。監視も必要です。けれど、拘束と精神干渉は現時点では不要と判断します」
「第九華隊長は、彼に個人的な庇護感情を抱いているのでは」
黒印管理官が問う。会議室の空気が少し硬くなる。しかしリディアは表情を変えない。
「私は現場判断を述べています」
「彼はあなたを決闘で制したと報告にありますが」
「その事実と、現在の判断は別です」
「白華隊内で不名誉な噂も出ているようですね」
グラウ副総監の視線が、わずかに鋭くなった。リディアの眉間に、非常に小さな変化が生じる。
「本件と無関係です」
「では、記録から外す」
グラウが即座に言った。記録官の羽ペンが一度止まり、該当発言へ黒い印が落ちる。副総監はため息をついた。
「会議を茶番にするな。問題は、壁山とおるをどう扱えば王国の危険が最小になるかだ」
イオナ副官が初めて口を開いた。
「第六華隊、黒蓮としては、当該人物の全面拘束には反対します」
「ノクス局長の代理がそう言うとは意外ですね」
軍務府のリーゼルが言う。イオナは無表情のまま書類を一枚差し出した。
「ノクス隊長の見解です。壁山とおるは、星の塔遺構側から能動的に選別された可能性がある。強制拘束、精神干渉、過度な回路測定は、遺構反応を誘発する恐れがあるため、当面は白華隊の管理下で自発的協力関係を維持すべき、とのことです」
「珍しく常識的だな」
グラウが呟く。
「ただし、髪、呼気、血液、足跡、睡眠時魔力波、食事後の回路変動の採取許可も同時に申請されています」
「却下だ」
リディアが即答した。
「私が言う前に言うな、第九華隊長」
グラウが言う。
「副総監のご判断を待つまでもありません」
「却下でよい」
グラウは額を押さえた。
「第六華隊には、通常倫理規定を再送しておけ」
「承知しました」
イオナは淡々と記録する。リディアは、会議室でまでノクスの影響に胃を削られるとは思わなかった。
最終的な暫定方針は、現実的な妥協へ落ち着いた。壁山とおるは第九華隊〈白華〉の臨時協力員として登録を継続。王都滞在中は白華隊詰所内の客室を使用し、外出には届け出と同行者を必要とする。王宮魔導院による測定は、本人同意と白華隊立ち会いを条件に低侵襲のものへ限定。第六華隊による生体採取は禁止。封境管理局は星の塔関連資料の閲覧権限を一部解放し、王宮魔導院と白華隊へ共有。軍務府はセンターブルー関連の情報を、黒印等級の範囲でリディアへ開示する。クルム村避難支援は継続。これらの決定は、王樹中枢院の名で三日間有効とされ、状況変化があれば再協議となる。
会議の終わり際、リーゼルが地図の青の大陸側へ目を向けた。
「次回の議題は、センターブルーの動向です。星の塔付近で確認された黒いフードの構成体について、七大罪人の部隊との関連を疑っていましたが、軍務府の照合で一致しない点が出ています」
「一致しない?」
リディアが問う。
「魔力痕跡の色が違いすぎる。センターブルーの生体兵器や魔物指揮個体は、もっと濃い魔獣因子を残します。星の塔で観測された黒銀の粒子は、古代遺構側の反応に近い」
「つまり、あの存在はセンターブルーのものではない可能性があると」
「現段階ではあくまで可能性です。センターブルーが関与していない、という意味ではありません。彼らが呼び起こした別のもの、あるいは彼らも利用しきれていない古代由来の端末という線が浮上しています」
会議室に、重い沈黙が落ちた。センターブルーだけでも厄介である。そこへ、どの国家にも属さない古代由来の存在が絡むなら、星の塔は単なる国際問題ではなく、世界史の底から伸びる手になる。
リディアは、静かに頷いた。
「次回、詳細を聞きます」
「その前に」
グラウ副総監が言った。
「第九華隊長。壁山とおるを御しろ。彼が鍵であれ、危険物であれ、現時点で最も近くにいるのはお前だ。決して感情で庇うな。恐怖で縛るな。使える情報は使い、守るべき線は守れ」
「承知しました」
リディアは頭を下げた。会議室の扉が開く。外の廊下には、世界樹の葉を透かした午後の光が淡く差し込んでいた。白華隊の詰所では今ごろ、ミレイユが不満げにとおるを案内しているはずである。あの二人が再び問題を起こしていないことを、リディアは心から願った。
同じころ、白華隊の休憩庭では、ミレイユがとおるへ言っていた。
「次は訓練棟だ。逃げるなよ?」
「逃げません。心だけは少し帰省していますけど」
「帰らせるな」
「そこも管理対象なんですか」
「当然だ」
リディアの願いは、半分ほど手遅れだったかもしれない。
壁山とおるの王都生活は、案内役という名の監視、監視という名の訓練、訓練という名の胃痛を伴って、着実に白華隊の日常へ組み込まれつつあった。そして王城の奥では、星の塔で見た黒いフードの正体が、センターブルーという分かりやすい敵国の影だけでは説明できないものとして、静かに輪郭を変え始めていた。




