第16話 それはもう壁じゃないだろ
あーでもない、こーでもない、足の置き方が違う、魔力の出どころが雑、壁を出す場所が陰気、剣の持ち方が弱々しい、姿勢が負け犬、顔がすでに帰宅している、などという大変ありがたいご指導を毎朝毎昼毎夕浴び続けて、気づけば壁山とおるが白華隊の詰所へ来てから一週間が過ぎていた。
三日間ではなかったのだろうか。
リディア隊長は、確かに「今日から三日間、ミレイユは案内役を務めろ」と言っていた。とおるの記憶が都合よく改竄されていなければ、あれは三日だった。七日ではない。王都の暦がクルム村と違って一日を半日で数える特殊仕様でもない限り、明らかに延長されている。延長申請書は見ていないし、利用者の同意も取られていない。前世の感覚なら、これはサブスクリプションの自動更新に近い罠である。そもそも解約ボタンが見当たらないのだ。
文句を言いに行くべきではないか、と彼は一度だけ真剣に考えた。
考えただけだった。
リディア・アルヴェインの執務室へ乗り込み、「三日と言いましたよね?」などと抗議する勇気は、彼の人生のどこを掘っても出土しない。たとえ出土しても、年代測定の結果、実用に耐えないほど風化しているだろう。白華隊における自分の立場は、いちおう“臨時協力員”である。協力員。響きだけなら、隊の内部へ招かれた外部協力者であり、ある意味では客人に近い扱いなのではないかと、とおるは勝手に想像していた。寝台の柔らかさや客室の広さを見る限り、初日だけはその可能性もあった。ところが現実には、気を抜けば朝から晩まで怒鳴られる生活が続いている。怒鳴るのは主に一人だけ。主に、というよりほぼ完全にミレイユ一人だった。
「足が遅い」
「それは人類の平均と比べてですか、白華隊基準ですか」
「白華隊基準だ」
「比較対象が強すぎる」
「口を動かす前に足を動かせ」
「口のほうが得意なので」
「得意分野を戦場へ持ち込むな」
指南役ミレイユ・アスターは、今日も訓練場の白砂の上で腕を組み、眉間に美しい皺を刻みながら立っていた。見た目だけなら、銀灰色の髪と菫色の瞳を持つ清廉な若き騎士であり、王都の広場を歩けば誰かが振り返る程度には整っている。加えて背筋は伸び、剣帯の位置も完璧で、白華隊の軽装鎧がやたら似合う。これで黙っていれば、未来有望な美貌の騎士として詩人に歌われてもよさそうなものだった。しかし口を開くと、だいたい命令形か罵倒に近い指摘が飛んでくる。美しい花の根元に、怒った山犬が住んでいるようなものだった。
とおるは木剣を肩に担ぎながら、内心でぶつぶつ言っていた。
俺はここに修行しに来ているのか。
星の塔の報告だとか、王国の調査だとか、村の避難だとか、もっと機密めいた話で王都に呼ばれたはずなのに、なぜ毎朝訓練場で「構えが死んでいる」「その逃げ方は見苦しい」「壁を出す前に姿勢を崩すな」と言われているのか。魔力の扱い方や術式構築の基礎なら分かる。自分の〈壁〉が危険であり、制御を学ぶべきだという話も理解している。ミレイユの〈白雷〉を相手にしたことで、対人戦闘における壁の使い方に課題が山ほどあることも嫌というほど分かった。ただ、剣術までやる必要があるのかという点だけが、どうしても腑に落ちない。
とおるは剣士になりたいわけではない。
剣を振るう自分を想像しても、あまり似合わない。そもそも剣という武器は、彼の中でどこか陽キャ専用装備に分類されていた。前へ出る。相手と向き合う。名前のある技を叫ぶ。観客が見ている。勝ったら歓声。負けても絵になる。そういう華やかな要素の詰まった武器であり、壁際で静かに生きたい人間が握るには、精神的な発光量が高すぎる。
彼の主要武器は盾だった。
正確に言えば、普段から携行しているのは小型の丸盾一つである。盾単体。かなり変わっているし、それを“武器”と考えている思想自体尖っているだろう。本人もそれは自覚している。だから盾は防具では、というもっともらしい突っ込みは禁止だった。とおるにとって必要なのは、攻撃力を高めて相手を斬り伏せることではなく、防御力をいかに高め、魔物の突進や爪や牙を制し、自分と村人が無事に帰るための状況を組み立てることだった。これを彼は心の中で戦い工学と呼んでいる。正式な学問ではない。たぶん王都の学士院へ持ち込めば、名前の時点で審査に落ちるだろう。
「貴様」
ミレイユが、訓練用の木剣を持ったまま言った。
「はい」
「なぜ剣を持つたびに、世界から不当に責められているような顔をする」
「だいたい合っています」
「合っていない」
「俺の武器、基本的には盾なので」
「盾は防具だ」
「禁止された突っ込みを即座に」
「知らん。盾だけでどうやって魔物を倒していた」
もっともな質問だった。
白華隊の訓練場で、剣士としての基礎を叩き込もうとしているミレイユからすれば、盾だけ持って魔物討伐をしていたという話は理解しづらいのだろう。いや、とおるも他人が同じことを言っていたら少し距離を取る。盾だけで戦う人間は、だいたい何かしらこじらせていると思うのが自然だが、自分がその側である事実は認めたくなかった。
とおるは少しだけ胸を張った。
「そこはですね、俺の〈壁〉がけっこう応用が利くんです」
「ほう」
「たとえば、壁を小さく圧縮して弾丸みたいに飛ばすことができます。正確には、極小の壁面を生成時の反発で前方へ弾く感じです。大きな壁と違って維持時間は短いですけど、角猪の鼻先へ当てるくらいなら十分です」
「……弾丸?」
「それから、細長くして矢みたいに使うこともできます。面ではなく、縁を尖らせた薄い壁を矢じりみたいにして、弓の代わりに魔力で押し出すんです。威力はそこそこ、射程はあまり長くないです。風の影響も受けます」
「矢?」
「大型の魔物相手なら、槍っぽい形にしたり、斧みたいな分厚い刃にして叩きつけたりもできます。あくまで壁なので、刃物というより鈍器寄りですけど、角度を工夫すればけっこう効きます。あと、地面から斜めに出して相手の足を跳ね上げるとか、空中に足場を作って逃げるとか、丸盾と組み合わせて衝撃を流すとか」
説明しているうちに、とおるは少し得意になっていた。
村で暮らした三年間、彼は派手な魔法を覚えたわけでも、名剣を手に入れたわけでもない。日々の暮らしと魔物退治の中で、自分の地味な〈壁〉をどう使えば生き残れるかを考え続けた。笑われたこともある。便利扱いされたこともある。鍋の蓋として使われたこともある。けれど彼なりに工夫し、失敗し、少しずつ応用を増やしてきた。その成果を話す時くらい、胸を張っても許されるはずだった。
ミレイユは、実にまっすぐな目で彼を見ていた。
そして、悲しいほど真っ当な正論を放った。
「それはもう〈壁〉じゃないだろ」
とおるは何も言えなくなった。
訓練場の風が、白砂を小さく撫でる。
世界樹の葉音が遠くで鳴る。
とおるの胸の中では、三年間育ててきた応用技術への自信が、静かに膝をついていた。
「……壁です」
「弾丸、矢、槍、斧、足場。どこに壁の要素が残っている」
「元が壁なので」
「元が小麦ならパンも麺も全部同じ食べ物と言うつもりか」
「例えが上手い」
「褒めるな。ちゃんと反論しろ」
「できません」
ミレイユは深くため息をついた。リディアのため息に比べると若干刺々しい。ため息にも個性があるのだな、ととおるは思った。
「貴様の能力が応用に富むことは認める。認めたくないが、認める。ただし、今後は対人戦闘が増える可能性が高い。星の塔、センターブルー、得体の知れない黒い構成体、王都内での不測事態。壁だけで全てを処理できると思うな。武器はちゃんと持て」
「盾は」
「防具だ」
「この会話、ループしてません?」
「貴様が進まないからだ」
「剣は難易度が高いんですよ。槍とか短剣とか、もっとこう、地味寄りの選択肢は」
「短剣は間合いが近い。貴様には危ない。槍は取り回しと足さばきを覚えろ。剣は基礎を学ぶのに向いている」
「基礎」
「そうだ。基礎だ。貴様は壁の使い方ばかり考え、身体の使い方が雑すぎる。壁を置く前に足が死んでいる。腕で受けようとしているし、何より視線が泳いでいる。それと肩に力が入りすぎだ。見るからに背中が逃げている」
「背中まで評価されるんですか」
「される」
「厳しい世界」
その時、訓練場の入口から、柔らかな拍手が聞こえた。
一回、二回、三回。
からかうようにゆっくりとした音だった。
「あら、いいわねえ。朝から若い子たちが言い合っていると、訓練場の空気がよく温まるわ」
声は甘かった。
それでいて、刃の薄いナイフを絹で包んだような冷たさが混ざっていた。
とおるとミレイユが振り向く。
そこに立っていた女性は、白華隊の空気の中で明らかに異質だった。
年齢は二十代後半ほど。黒い髪は顎のあたりで切りそろえられ、内側へ深い紅色が差しているため、風に揺れるたび黒と赤が炎の残り香のように入れ替わる。瞳は赤みを帯び、長い睫毛の奥で細く笑っていた。耳には小さな飾りがいくつも連なり、揺れる紅の耳飾りが首筋の動きに合わせて光る。白華隊の正式外套をきちんと着ているはずなのに、彼女だけはどこか夜の街の舞台役者めいた華やかさがあり、襟元から覗く黒い衣と、肩口から背へ流れる花と鳥の刺青めいた魔導紋が、清廉さより危うい美しさを印象づけていた。
背中へ描かれているのは、ただの装飾ではない。
炎属性の魔力回路を皮膚表層へ刻む、古い流派の補助紋。花の線は魔力の拡散を抑え、鳥の翼は熱の逃げ道を作り、墨のような黒い文様は炎が暴走した際に回路を外側へ逃がす安全弁になる。見た目は艶やかで、少し近寄りがたい。実用面では、かなり高度な戦闘術式補助だった。
ミレイユが姿勢を正した。
「ゾロ三席」
「はぁい、ミレイユちゃん。今日も眉間が元気ね。そんなに力を入れていると、せっかく可愛い顔なのに、将来そこへ隊規が刻まれるわよ」
「可愛いなどと」
「褒めているのよ。半分くらい」
「残り半分は」
「観察」
ミレイユが口を閉じた。
とおるは、初対面にして理解した。
この人も厄介だ。
リディアは正面から厳しい。ミレイユは熱く怒る。ノクスは研究者として危ない。ゾロと呼ばれた女性は、そのどれとも違う。笑顔で近づき、柔らかな声で相手の逃げ道を撫でながら、気づけば背後に火を置いているタイプだ。怒ると声を荒げるのではなく、もっと綺麗に笑うのだろう。とおるの危険察知能力が、心の中で「距離を取れ」と鐘を鳴らした。
彼女はとおるへ視線を移した。
「あなたが壁山とおる君ね。はじめまして。白華隊第三席、ゾロ・スネイブルよ」
「壁山とおるです。よろしくお願いします」
「こちらこそ。隊長とミレイユちゃんを妙な噂の主役にした、今もっとも詰所の話題を独占している男の子に会えて光栄だわ」
「光栄の中に棘が多い」
「あら、よく聞いているのね」
「最近、棘のある言葉を浴びる機会が多くて」
「それは大変。可哀想に」
ゾロは微笑んだ。
優しい笑顔だった。
とおるは一歩下がりたくなった。
ミレイユが怪訝そうに言う。
「ゾロ三席、なぜこちらへ」
「隊長から任されたの。あなたたち二人の指導と教育をね」
「指導、ですか」
「ええ。私が白華隊にいる間の最後の仕事になるわ」
その言葉に、ミレイユの表情がわずかに強張る。
とおるは、少しだけ空気の変化を感じた。
ゾロ・スネイブル。白華隊第三席。
ミレイユが次期三席候補と呼ばれているのは、単に彼女の才能が高いからだけではない。現三席であるゾロが白華隊を離れ、第八華隊へ移籍することが決まっているため、その後任として誰が昇進するのかが隊内で大きな話題になっているからだった。
第八華隊は、王樹十二華騎士団の中でも機動戦と強襲任務に長けた隊である。隊の名は〈紅椿〉。燃えるように赤い椿を紋章とし、国境付近の魔物群突破、敵陣への短期突入、要人救出、戦線の穴を強引に塞ぐ高危険任務を担う。白華が守る盾なら、紅椿は火をまとって道を開く刃。最近、その紅椿の上級隊員が、とある任務中に戦死した。詳細はまだ白華隊の一般隊員へ開示されていない。任務地、敵、状況、そのほとんどが黒印扱いとなっている。ただ、失われた戦力を埋め、十二華全体の均衡を保つため、炎属性の熟練者であり、指揮経験もあるゾロに白羽の矢が立った。
王樹十二華騎士団は、十二の花がそれぞれ違う役割を持つ。
一つの隊が弱れば、隣の隊だけでなく王都全体の防衛線に歪みが出る。人員の移籍は、感情で決まるものではない。戦力、属性適性、経験、部隊間の相性、王国の政治的意図まで含めて調整される。ゾロの移籍は、本人の希望だけではなく、白華隊、紅椿、騎士団総務局、軍務府の判断が重なった結果だった。
それでも、ミレイユにとっては複雑なのだろう。
目標の一人である上級騎士が去り、自分がその穴を埋める候補として見られる。名誉であり、重圧であり、まだ追いついていない背中を急に任されるようなものだった。
ゾロはそんなミレイユの表情を見て、少し柔らかく笑った。
「そんな顔をしないの。私は死にに行くわけではないわ。紅椿の子たちが一人欠けて、今は火の扱いに長けた指揮役が必要になっただけ。隊長も副総監も、私が向こうで役に立つと判断した。それなら行くのが騎士の仕事でしょう?」
「分かっています」
「分かっている顔には見えないけれど、まあいいわ。あなたは三ヶ月後、王国騎士試験を控えている。正式な騎士として認められるには、才能だけでは足りない。基礎、規律、連携、報告、判断。とくにあなたは、怒ると前へ出すぎる」
「……承知しています」
「本当に?」
「承知、しています」
「よろしい。返事だけは可愛いわね」
「可愛いと言わないでください」
とおるは横で聞きながら、ゾロの言葉が柔らかいのに逃げ場を残していないことに気づいた。ミレイユが反発しても、笑顔で受け止め、少しからかい、最後には必要な点へ戻す。ミレイユの激情を正面から叩くのではなく、熱を自分の手元へ集めて形を変えるような話し方だった。炎属性の騎士らしい。怒鳴る炎ではなく、炉の中で温度を管理する炎。
ゾロは今度、とおるを見た。
「それで、とおる君」
「はい」
「あなたも対象よ」
「何のですか」
「三ヶ月の基礎指導」
とおるは固まった。
「……三ヶ月?」
「ええ。約三ヶ月。隊長から任されているわ。あなたの基礎戦闘、魔力操作、最低限の武器適性、白華隊内での行動規則、それから対人戦闘で生き残るための判断力。ミレイユちゃんと一緒に、私が見てあげる」
「いや、それっていよいよ修行じゃないですか!?」
反射的に声が出た。
訓練場の空気が、少しだけ静かになる。
ゾロは笑った。
さっきまでと同じ、柔らかな、お姉さんめいた、少し色気のある笑顔だった。
とおるの背筋が冷えた。
リディアやミレイユとは違う種類の冷たい目が、笑顔の奥にある。怒っているのか、面白がっているのか、値踏みしているのか分からない。少なくとも、「拒否権があると思っているの?」という内容が、言葉にならないまま非常に丁寧に伝わってきた。
「修行という言葉が嫌なら、基礎教育と言いましょうか」
「言い換えても内容が同じ気配がします」
「あら、賢いのね」
「褒められている気がしません」
「半分くらい褒めているわ」
「残り半分は」
「観察」
「ミレイユさんと同じ流れ!」
ミレイユも声を荒げた。
「ゾロ三席、なぜ私がこの男と一緒に」
「隊長命令だから」
「それは」
「それに、あなたは三ヶ月後の騎士試験へ向けて、基礎を見直す必要がある。才能は十分。白雷も優秀。剣も速い。けれど、今朝の立ち合いで分かったでしょう。自分より弱く見える相手を侮り、場の流れを無視して前へ出た結果、術式の内側へ触れられた。試験官相手なら減点。実戦なら怪我。戦場なら死亡。ついでに噂なら増築」
「最後は不要です!」
「必要よ。噂は士気にも規律にも関わるもの」
「それは……」
「とおる君も同じ。壁の応用は面白いわ。弾丸、矢、槍、斧、足場。名前は壁なのに中身はほぼ武器庫。発想は悪くない。制御も独自に磨いた跡がある。けれど、身体が追いついていない。魔力の置き方に癖が強い。対人では相手を傷つける危険もある。だから基礎から焼き直す必要があるわ」
「焼き直す」
「炎属性だから、言葉の選び方が少し熱いの」
「比喩ですよね」
「もちろん」
ゾロは微笑んだ。
とおるは信じきれなかった。
ミレイユは不満そうに、とおるを横目で睨む。
「私は、こいつと並んで基礎からなど」
「並ぶのが嫌なら、前を走ればいいわ。後ろを振り返れるくらい余裕を持って。できないなら、あなたも基礎から」
ミレイユは黙った。
ゾロの言葉は甘く、柔らかい。けれど、逃げ道を焼き払う種類の強さがあった。ミレイユの激情すら、彼女の前では少し火力を落とす。とおるは、この人が第三席である理由をなんとなく理解した。剣が強いだけではない。人を動かすのが上手い。相手の弱点を笑顔で撫で、逃げようとした方向へ火を置く。
「というわけで、今日から二人は私の預かりね」
「リディアさんの管理下から、また別の管理下へ移された気がします」
「正確には、隊長の管理下にあるあなたを、私が教育面で預かる形よ」
「説明が組織的」
「騎士団は組織だから」
「俺、村の協力員だったはずなのに」
「今は白華隊の臨時協力員。星の塔案件の重要人物。王国中枢が扱いに困っている不思議な壁の子」
「最後の呼び方かなり軽いですね」
「重く呼ばれたい?」
「軽いほうでお願いします」
「素直でよろしい」
ゾロは手を打った。
「では、第一課題。とおる君は剣を嫌がらず持つこと。ミレイユちゃんは、彼を睨み殺そうとしないこと」
「睨んでいません」
「今も睨んでいるわ」
「これは通常です」
「通常が危ないのよ」
とおるは恐る恐る手を挙げた。
「あの、第一課題に対する質問いいですか」
「どうぞ」
「剣を持つことと、剣で戦うことは別ですよね」
「もちろん別よ。最初は持ち方、歩き方、逃げ方、受け方から」
「逃げ方が入っている」
「あなたには大事でしょう?」
「この人、理解が早い」
「その代わり、逃げるための足を作るわ。壁に頼る前に、自分の身体で半歩ずれる。半歩ずれて、壁を置く。壁で相手の動線を折る。折った先で、自分が立っている。そこまでできれば、あなたの〈壁〉はかなり化ける」
「化ける」
「ええ。今のままでも面白い。整えれば、もっと嫌な能力になる」
「嫌な能力って褒め言葉ですか」
「対人戦闘では最高の褒め言葉よ」
「嬉しくない」
ミレイユは唇を結び、やがて小さく言った。
「ゾロ三席」
「なあに」
「この男と訓練することで、本当に私の弱点は直るのですか」
「直るかどうかは、あなた次第。けれど、あなたが普段見ている強さとは別の形を、彼は持っている。剣が速い、魔力が強い、正面から押し切る。そういう分かりやすい強さではない。嫌らしくて、臆病で、慎重で、生き残ることへ特化した強さ。あなたが正式騎士になり、戦場へ出るなら、そういう相手や状況とも向き合う必要がある」
「嫌らしくて臆病」
とおるが小さく呟く。
「傷つくんですが」
「褒めているのよ」
「本当ですか」
「半分くらい」
「残り半分が怖い」
ゾロは楽しそうに笑った。
その笑顔の周りで、ほんのかすかに炎霊素が揺れた。赤い髪の内側が光を含み、黒い瞳の奥に熱が宿る。怒っているわけではない。ただ、彼女の魔力は笑うだけでも空気を温める。炎属性の熟練者とは、こういうものなのだろう。ミレイユの白雷が若く鋭い火花なら、ゾロの炎は炉心の奥で静かに温度を上げる赤い火だった。
「さて、まずは二人とも木剣を持って」
「またですか」
「またよ、とおる君」
「俺、今日はもう壁の説明だけで」
「三ヶ月あるのよ。初日から逃げ癖を育てるつもり?」
「初日ではなく一週間目です」
「私の担当としては初日」
「制度上の初日がリセットされた」
ミレイユが木剣を取る。
とおるも渋々取る。
ゾロは二人の間に立ち、楽しそうに目を細めた。
「三ヶ月後、ミレイユちゃんは王国騎士試験へ、とおる君は王国が扱いに困らない程度に自分の壁を制御できる協力員へ。目標は分かりやすいわね」
「分かりやすいですかね」
「分かりやすい」
「俺のほうだけ、扱いに困らない程度という控えめなようで失礼な目標なんですが」
「現状、かなり困られているもの」
「事実が鋭い」
ゾロは笑顔のまま、右手を軽く上げた。
「始めましょう。まずは構え。剣を振る前に、立ち方から。壁も雷も、その後よ」
とおるは木剣を握り、ミレイユは不満を隠しきれない顔で隣に立つ。
二人は互いを見た。
片方は、王都へ来たばかりの臨時協力員。
片方は、正式騎士試験を控えた白華隊の新鋭。
相性は最悪。
会話の噛み合いも悪い。
共通点があるとすれば、どちらもリディアの命令に逆らえず、今この場でゾロの笑顔から逃げられないことだった。
「よろしくお願いします」
とおるが小さく言う。
「足を引っ張るな」
ミレイユが返す。
「引っ張らないよう、後ろのほうで静かに」
「前に立て」
「初手から厳しい」
ゾロの拍手が、訓練場へ軽く響く。
「はいはい、仲良くしなさい。仲良くできないなら、せめて同じ方向へ転びなさい」
「転ぶ前提ですか」
「最初はみんな転ぶものよ」
とおるは空を見上げた。
世界樹の枝葉が、王都の空をゆっくり揺らしている。
クルム村から遠く離れ、王都の白華隊詰所で、彼はついに本格的な基礎訓練へ放り込まれた。
それはもう、完全に修行だった。
壁山とおるは、心の中で静かに呟く。
三ヶ月。
干し芋、足りるかな。
世界の運命よりも差し迫ったその不安を抱えながら、彼は木剣を握り直した。




