第17話 笑顔の鬼軍曹と、異世界版高等魔術講座
人の笑顔というものは、たとえば春先の柔らかな日差しみたいに人の心をほぐすこともあれば、焼きたてのパンを差し出された時のように世界のすべてを少しだけ許せる気分にさせることもあり、あるいは見知らぬ子どもに手を振られただけで「まだこの世界も捨てたものではないな」と勝手に人生を総括したくなるほどの力を持っているわけだが、同時に、使い方を誤れば刃物よりもずっと鋭く、毒薬よりもじわじわ効き、しかも被害者の側が「いま自分は攻撃されている」と気づくころには、すでに外周走十周と崖登り三往復と魔力回路演算百問を抱え込まされているという、たいへん悪質な凶器にもなり得るのだなととおるが心の底から実感するようになったのは、おそらく人生で今日が初めてだった。
いや、厳密に言えば、前世でも笑顔が怖いと思った経験がないわけではない。
定期試験前に「大丈夫、平均点は高くならないと思うよ」とにこやかに言っておきながら、実際には平均点八十二点の地獄を叩き出した高校時代の数学教師とか、バイト先で「今日ちょっとだけ残れる?」と優しく尋ねてきたあと、ちょっとどころか閉店作業から在庫棚卸しまで綺麗に押しつけてきた店長とか、そういう、社会という名のぬるい煮込み料理の中で人間性が柔らかく崩れていく瞬間を何度か見てきたとおるではあったが、それでも目の前にいるゾロ・スネイブルという白華隊第三席の女性が浮かべる微笑みに比べれば、前世のそれらはせいぜい家庭用の包丁であり、こちらは王都認定・対大型魔獣用の儀礼剣くらいには殺傷力が違っていた。
ゾロはいつも艶やかで、穏やかで、黒と紅が混じり合った長い髪を肩口でゆるく揺らし、赤みを帯びた瞳を細め、見る者によっては「包容力のある優しいお姉さん」「相談したら温かいお茶を出してくれそうな先輩」「失恋した時に黙って隣に座ってくれそうな人」と錯覚しかねない、たいへん罪深い表情を浮かべている。…のだが、問題はその口から出てくる言葉が、「では、外周走を十周してから崖登り、戻ったら魔力回路の伝導率を測定して、午前の締めに境界固定演算を二十題、昼食後は術式干渉率の比較計算、そのあと素振り二千本ね」という、人間の肉体と精神と自尊心をまんべんなく粉末にして白華隊特製の栄養粥へ混ぜ込むような予定表であり、しかもそれを「帰りにラーメン屋寄ってく?」くらいの軽さで読み上げてくる点だった。
聖騎士の訓練というものは、とおるの想像を遥かに超えて過酷だった。
過酷という言葉では少し足りない。
過酷の上に筋肉痛を塗り、睡眠不足をまぶし、仕上げに専門書十冊分の座学を添え、さらに「頑張ればできるわよ」という精神論の香草を散らして盛りつけた、王都名物・白華式成長促進定食である。
しかもこの定食、見た目は豪華だが食べる側の胃袋の容量を一切考慮していない。
朝一番に出されるのは王都外縁をぐるりと回る走り込みという名の前菜で、次に、詰所裏の訓練用岩壁を登っては降り、登っては降りるという前菜にしては明らかに重すぎる山岳料理が続き、その後腕立て、腹筋、背筋、砂袋運び、盾を持った階段昇降、木剣の素振り、組み手、姿勢矯正、呼吸法、魔力循環の基礎確認など、食べても食べても皿が減らない宴会場のような訓練が延々と供され、ようやく座れると思ったら剣と魔法のファンタジーという看板からは想像もつかない、大学院レベルの物理学と数学と回路工学と人体生理学と謎の宗教的図像解釈が一体化したような座学が、ろくなガイドブックも辞書もなしに耳から流し込まれてくるのである。
現代人として偏差値七十を誇っていたはずのとおるでさえ、講義の途中から「これは高校の範囲外です」「出題者は何を考えているんですか」「選択問題にしてください」「途中式で部分点は出ますか」「追試ありますか」「試験監督を呼んでください」という、前世の試験前夜に布団の中で噴き出していた冷や汗じみた悲鳴を、内心で上げ続ける羽目になった。
いや、守備範囲外にもほどがあるだろう。
そう思わなかった日がない。
ゾロは今日もにこにこしている。
それはもう、にこにこしている。
世界の争いごとなど一つ残らず自分の微笑みで丸く収められるとでも言わんばかりのやわらかな笑みで、「無理はしなくていいのよ」と言う。
問題は、その直後に「無理をする前提で予定を組んでいるだけだから」と続く点だった。
それは、優しさの顔をした罠だったのである。
「辛かったら言ってね」と言われたので正直に「辛いです」と言ったら、「ええ、辛いところからが訓練よ」と返されるタイプの罠であり、しかもこちらの逃げ道を完全に把握したうえで、逃げ道の先にさらに訓練場を用意しているという、戦略性まで兼ね備えた恐怖の罠だった。
朝はまだ空気が白く、王都の屋根瓦に朝露が残り、遠くの世界樹根門が薄い光を帯びている時間から始まる。
王都外縁の石畳を踏み、城壁沿いの坂道を上り、世界樹の巨大な根が地表へうねるように露出している門近くまで走り、そこから市場の裏道、兵舎前、倉庫街、訓練場外周へと戻ってくるコースはゾロの言葉を借りれば「軽い有酸素」らしいが、とおるの感覚では前世の市民マラソン大会にうっかり申し込んでしまった一般人が、スタート五分で自分の人生選択を後悔し始める距離であり、少なくとも「軽い」という言葉は羽毛とか雲とか焼き菓子の食感に対して使うものであって、膝の関節から「本社へ通報します」という声が聞こえてくるような距離に用いるべきではなかった。
「壁山、足が止まっているぞ」
「足が止まっているのではなく、足が今後の労働条件について協議を求めています」
「情けないことを言うな」
「団体交渉権をください」
「そんなものはない」
「この職場、筋肉に厳しすぎる」
「筋肉は鍛えれば応えてくれる」
「応えてくれる前に辞表を出しそうなんですが」
「辞表は受理しないからな」
隣で同じ訓練をこなしているミレイユは、汗を流しながらも背筋をほとんど崩さず、走っているというより訓練場を支配する一本の細い雷が人の形を取っているかのようだった。
彼女は三ヶ月後に控えた王国騎士試験へ向け、正式な騎士として認められるために改めて基礎を学び直す立場に置かれている。
すでに実力者であり、白華隊の中でも将来を有望視されている彼女からすれば、基礎のやり直しなど剣の柄で自尊心をこつこつ叩かれているような屈辱でもあるのだろうが、それでもリディアの命令とゾロの指導を無視することはできず、文句は言うし顔にも出るし、とおるには容赦なく怒鳴るし、時には目だけで人を裁けるのではないかと思うほど鋭い視線を定期的に飛ばしてくる。ただ訓練そのものは誰よりも真面目にこなすので、そこだけはとおるも素直にすごいと思っていた。
「ミレイユさん、疲れないんですか」
「疲れるに決まってる」
「ですよね。よかった、ちゃんと人間だった」
「貴様は疲れるのが早すぎる」
「俺の身体は辺境村仕様なんです。王都騎士団の軍用規格に合わせないでください」
「三ヶ月もあればなんとかなる」
「改造計画みたいに言わないでください。俺は量産型兵器じゃないんです」
「安心しろ。量産する価値はまだないから」
「安心の方向性がおかしい」
走り込みが終わると、休む間もなく筋力訓練が始まる。
腕立て、腹筋、背筋、砂袋運び、盾を持ったままの階段昇降、腰を落とした姿勢での静止、木剣を頭上に掲げたままの呼吸維持、片足立ちの魔力循環確認、そして「これは何の役に立つんですか」と聞くとゾロが「役に立つ頃には分かるわ」とだけ返す謎の姿勢訓練まで種目は豊富で、…豊富すぎて、まるで筋肉ごとの処刑アトラクションがある遊園地だった。
腕立てをしている最中、とおるが「別にボディービルを目指しているわけではないんですが」と目をぱちくりさせると、ミレイユが横から「筋力は裏切らない」と妙に真顔で言い、ゾロは「裏切るのは姿勢と慢心よ」とにこにこ笑った。
怖い。
格言みたいなことを言う人間が二人揃うと、途端に逃げ場がなくなる。
格言とは本来人生の指針であるはずなのに、ここでは訓練を続行するための判決文として機能していた。
さらに、昼前には崖登りが待っている。
詰所裏にある訓練用岩壁は、王都の安全基準を一応満たしているらしく、魔術的な補強もされ、落下時には最低限の衝撃緩和が働くそうだが、とおるからすればそれは「床に落ちても即死しません」と書かれた高所アトラクションを安全と呼ぶようなもので、命に対する配慮はあるのかもしれないが、精神に対する配慮はどこにもなかった。
もしこの異世界に労働基準法が存在するなら、真正面から相談窓口へ駆け込み、「聖騎士見習いの訓練環境について匿名で相談したいのですが、匿名性は守られますか、あと第三席にバレた場合の身辺保護制度はありますか」と小声で尋ねたい内容である。
「壁山、腕が止まっているぞ」
「腕が労働争議を起こしています」
「却下」
「俺の身体の労働者に交渉権を」
「ない」
「せめて昼休憩の延長を」
「ない」
「白華隊、福利厚生が厳しい」
「昼食は大盛りにしておいたわよ」
「福利厚生の方向が完全に運動部」
「食べなければ動けないでしょう?」
「動かなければ食べなくて済むという考え方も」
「却下」
「この世界、却下が早い」
ゾロはそのやり取りを眺めながら、微笑んでいた。
まるで、仲睦まじい後輩たちを見守る優しい先輩のようである。
実際には二人の呼吸が整う前に次のメニューを差し込む機会を狙っている。
人の笑顔というものは、やはり凶器になり得る。
刃物は光るから分かりやすい。
毒は苦いことが多いからまだ疑える。
しかし笑顔は光っているくせに危険が隠れており、しかも周囲から見ると「優しく励ましている」ように見えてしまうので、もっと質が悪い。
肉体訓練だけでも十分に地獄だったのに、座学はさらに容赦がなかった。
ゾロの講義は、白華隊の資料室奥にある小講義室で行われる。
長机が三列、黒板に似た大きな魔導板が正面に一枚、机の上には魔力測定器、属性石、人体の魔力回路模型、各種術式図面、過去の訓練記録、魔力伝導率を測るための銀線、境界固定を視覚化するための透明な薄板、そして明らかに学生の心を折るためだけに存在している分厚い資料束が並び、とおるは最初、座れるだけで天国だと思った。
走らなくていい。
登らなくていい。
木剣で殴られない。
砂袋を担がなくていい。
足が地面へ反抗的なメッセージを送らなくていい。
なんて素晴らしい時間だろう、と。
五分で認識を改めた。
「スキルとは、言い換えれば、その人だけが持つ魔力回路の設計図に基づいて成立する術式体系よ」
ゾロは魔導板へ白い線を描きながら言った。
炎属性の彼女が指先で板へ触れると、文字が赤く淡く発光しながら線は生き物の血管のように枝分かれし、矢印は小さな火花を散らしながら流れの向きを示していく。
見た目は綺麗だった。
ところが内容はまったく綺麗ではない。
あり得ないほど難しい。
そして疲れ切った脳に容赦がない。
午前中に酷使された筋肉が「こちらも大変なんですけど」と不満を漏らしているところへ、ストレス負荷で摩耗した脳が「急にそんな専門部署を立ち上げられても困ります」と抗議を始めるような難しさだった。
「“スキル”という名称だけ聞くと、生まれつき完成された固有能力、神様から渡された一枚きりの札、あるいは危機的状況で叫べば光って発動する便利な必殺技、みたいに考える子もいるわ。けれど実際には、絶対的な独自性だけで成立しているわけじゃない。火を生み出す者、肉体を強化する者、魔力を刃へ変える者、音を操る者、影を伸ばす者、傷を塞ぐ者、空間へ壁を置く者。表面上の性質だけを見れば、似通ったスキルはいくらでも存在する。大事なのは、その内側。魔力をどの経路へ流し、どの術式へ変換し、どの時点でどれほどの出力を与え、どのような条件で外界の現象として固定するか。その構造が術者ごとに異なるの」
魔導板に、人体模型のような線が浮かぶ。
胸部から腕、腹部から脚、背骨沿いの中枢回路、指先へ枝分かれする細い流路、視線と呼吸に連動する補助経路、感情の揺れによって乱れやすい浅い回路、魔力が滞留しやすい関節部位。
ゾロはそれらへ数字を付け、矢印を置き、赤と白と青の線で属性変換の流れを示し、さらに別の色の点で負荷の集中箇所を示していく。
とおるの前世知識でいえば、人体図と電気回路図と流体力学の模式図とプログラムのフローチャートが、なぜか同じ板の上で仲良く混ざり合い、そこへ魔法陣のような幾何学模様と、大学教授が深夜二時に勢いだけで作ったような難解な数式が重ねられている状態だった。
「たとえるなら、同じ目的地へ向かうとしても、誰もが同じ道を通れるわけではない、ということね。体内を巡る魔力回路の太さ、枝分かれの位置、扱える属性、変換効率、出力に対する負荷、精神状態による揺らぎ、外界の霊素濃度との相性、そのすべてが違う。だから他人のスキルをそのまま真似ても同じ現象を再現できるとは限らないし、むしろ回路に適合しない術式を無理に流し込めば、魔力の逆流や回路損傷を引き起こして悪ければ自分の身体を内側から壊す。便利な必殺技名を覚えれば使える、という世界ではないの」
「……つまり、スキルの習得は、必殺技の名前を覚える話ではない」
ミレイユが真剣に答える。
その横顔は、普段とおるへ「貴様」と言う時の切れ味を少しだけ鞘に収め、騎士としての集中をまっすぐ前へ向けていた。
「ええ。自身の魔力回路を解析し、属性ごとの変換式を組み上げ、出力と消費量の均衡を取りながら発動までの工程を一つずつ最適化していく作業よ」
とおるはノートへ書き写しながら、心の中で頭を抱えていた。
これは何だ。
異世界版の物理学か。
電気回路工学か。
高等数学か。
人体力学か。
それとも、騎士団という名を借りた総合大学院か。
剣と魔法の訓練という看板を掲げながら、説明書なしで複数科目を同時履修させられているようなものではないか。
しかも単位を落とすと卒業できないどころか、現実の戦場で死ぬ。
評価基準があまりにも重すぎる。
前世の大学入試もつらかったが、少なくとも間違えたら内臓から魔力が逆流する問題は出なかったし、数学の試験中に「この設問を誤ると右腕の回路が焼けます」と注意書きされた経験もない。
ゾロはさらに容赦なく続ける。
「今日は、魔力伝導率、術式展開速度、属性変換効率、回路負荷率の基礎計算を行います。まず、魔力伝導率は回路内を魔力がどれだけ抵抗なく流れるかを示す値で、一般に回路が太ければよいという単純な話ではなく、太すぎる経路は制御点が粗くなり、細すぎる経路は負荷に弱くなる。属性変換効率は、無属性の基礎魔力を火や雷、聖、氷、風などの属性へ変換した際に、どれだけ無駄なく出力へ変わるか。術式展開速度は、意思決定から外界現象の固定までにかかる時間。回路負荷率は、発動中に魔力回路が受ける圧力の割合ね。ミレイユちゃんの〈白雷〉なら、火属性の爆発力と雷属性の伝達速度を複合しているから、単純な最大出力よりも、再配分速度と局所負荷、特に踏み込みから切り返しまでの熱の逃がし方が重要になる。とおる君の〈壁〉は無属性寄りで、属性変換効率よりも座標指定精度と境界固定の安定性、それに複数枚同時展開時の干渉率が問題ね」
「待ってください」
とおるは手を挙げた。
「なあに」
「俺の脳内にある黒板が、もう一枚では足りません」
「増やしましょう」
「増やせる前提」
「壁を出せるなら、脳内黒板くらい出せるわよ」
「無茶な励まし」
「大丈夫、慣れれば脳内に講義室を建てられるわ」
「俺の頭を教育施設にしないでください」
ミレイユは横で真面目にノートを取っている。
腹立たしいほど優秀だった。
いや、腹立たしいというより、同じ受講者として非常に焦る。
彼女は難しい用語に眉をひそめながらもゾロの説明へきちんと食らいつき、自分の〈白雷〉に関係する部分では質問までしていた。
「ゾロ三席。白雷の再配分速度を上げる場合、雷属性の出力を単純に増やすより、足裏から腰への火属性流路を細分化したほうが良いという理解でよろしいですか」
「よろしいわ。ただし細分化しすぎると、制御点が増えて反応は鋭くなる代わりに回路負荷も増える。あなたの場合、三歩目の切り返しで右膝外側の回路に熱が残る癖があるから、そこを放置すると試験の長期戦で脚が鈍るわ」
「承知しました。では、火属性を腰で二割ほど逃がし、雷属性の伝達を膝ではなく足首寄りで受ける形に変えれば、負荷の分散は可能でしょうか」
「可能。ただし足首で受けすぎると着地時に回路がぶれるから、背側の補助経路も少し開いておきなさい」
「はい」
「とおる君」
「はい」
「今の説明、分かった?」
「ミレイユさんがすごいことだけ分かりました」
「講義内容は?」
「右膝と足首と背中が、何やら会議をしていました」
「半分寝ていたわね?」
「起きています。理解が追いついていないだけです。脳内の受付番号がまだ五番なのに、講義がもう百二十番まで進んでいます」
「正直でよろしい」
ゾロは笑顔で追加課題を出した。
正直は得ではなかった。
午後の実技では、座学で学んだ内容を即座に身体へ落とし込まされた。
この「座学で学んだ内容を実技に反映しましょう」という流れは、文字面だけ見ればたいへん教育的で、理論と実践を結びつける理想的な学習環境のように思えるが、実態としては午前中に脳をこんがり焼かれた人間へ向かって、「では焼けた脳で身体も動かしてください」と要求する、教育の顔をした二段構えの暴挙だった。
ミレイユは〈白雷〉の出力を抑えたまま、三歩の切り返しを何度も繰り返す。
足裏、膝、腰、背、肩、手首。
各部位へ雷霊素と炎霊素をどう再配分するか、ゾロが横から細かく指摘する。
「いま右肩が早い」
「はい」
「腰の炎が遅れた」
「修正します」
「膝の回路に熱が残っている」
「はい」
「剣先だけ先へ行かせない」
「もう一度お願いします」
ミレイユは悔しそうにしながらも、すぐに修正する。
踏み込みの角度が変わり、膝の沈みが半寸浅くなり、腰の回転が鋭くなり、剣先の走りがほんのわずかに遅れて身体と噛み合う。
そのたびに空気の中で白い雷が紙を裂くように鳴り、彼女の足元の砂が小さく跳ねた。
才能とは間違えないことではなく、間違いを正しく直す速度でもあるのだととおるは思った。
同時に才能とは、横で見ている者の自尊心をたいへん静かに削っていく鉋のようなものでもあると学んだ。
とおるの課題は三枚の〈壁〉を使わずに、まず一枚だけで複数の意味を持たせることだった。
「あなたは壁を増やしたがるのよ」
ゾロは言う。
「三枚までしか出せないのに、見えた危険へすぐ壁を置く。それだと一枚一枚が点で終わる。今日の課題は一枚の壁を出す前に、その壁が何を防ぎ、どこへ相手を流し、自分がどこへ立つかまで決めること。壁は現象ではなく、動線の一部。前にも聞いたでしょう?」
「聞きました」
「では、身体で覚えましょう」
「その言い方、たいてい痛みを伴いますよね」
「伴うわ」
「否定なし」
「痛みは記憶に残りやすいもの」
「教育理念が古代の戦士」
とおるは木剣を持つミレイユの軽い踏み込みに対し、一枚の薄壁を斜めに置く。
剣を止めるだけなら簡単だ。
ミレイユは力を抑えているし、こちらの練習のために速度も落としている。
けれど、ゾロは止めるだけでは首を横に振る。
「違うわ。止めた後、あなたが詰まっている。壁の後ろに自分を閉じ込めてどうするの」
「俺の人生、だいたい壁の後ろにいるので」
「今は訓練中よ」
「はい」
「もう一度」
再び置く。
今度は角度をつけすぎて、ミレイユの剣が滑った先に自分の腕があった。
「痛っ」
「相手を流すなら、流した先を見なさい」
「ごもっとも」
「もう一度」
さらに置く。
今度は自分の退路を作ろうとして、足元の壁が高すぎて自分でつまずいた。
「自滅したわね」
「見事に」
「壁山、名前に甘えるな」とミレイユが冷たく言う。
「名前で壁が上手くなるなら苦労しません」
「なら苦労しろ」
「いま現在進行形でしています」
そういう日々がしばらく続いた。
走る。
登る。
持ち上げる。
剣を構える。
盾を構える。
壁を置く。
失敗する。
ミレイユに怒鳴られる。
ゾロに笑顔で追加課題を出される。
座学で脳を焼かれる。
食堂で大量の炭水化物を食べる。
部屋へ戻り、布団へ沈み、「今日も生き延びた」と呟く。
最初の三日で、とおるは自分の身体のあちこちに知らない筋肉があることを知った。
四日目には、その筋肉がそれぞれ別の声で抗議することも知った。
五日目には、魔力回路も疲労するという事実を、腕の内側を走るじんわりとした熱で理解した。
六日目には、ミレイユが怒鳴る時と本気で心配している時では、眉間の皺の角度が微妙に違うことに気づいた。
七日目には、ゾロの笑顔が三種類あることを見分け始めた。
優しい笑顔。
面白がっている笑顔。
訓練メニューを増やす時の笑顔。
三つ目は危険だった。
野生動物なら本能で逃げるレベル。
人間であるとおるは本能で逃げたいと思いながら、白華隊という社会制度によって逃げられなかった。
一方で、変化もあった。
とおるは、自分の〈壁〉を以前より細かく感じるようになっていたのだ。
出す場所だけではない。
壁を形成する前の魔力が胸の奥から肩を抜けて腕の内側を通り、指先へ向かって細い糸のように伸びていく感覚。
境界面を固定する際、どの部分に力が集中するのか。
正面へ厚く置いた壁は安定するが、斜めに置いた壁はわずかに歪みやすく、しかし相手の力を流すにはその歪みが必要になること。
三枚を同時に展開した時、壁同士の魔力がわずかに干渉し合い、安定性を下げること。
小さな壁を弾丸のように飛ばす時、生成時の反発だけでなく消滅時の魔力解放も軌道に影響すること。
彼は今まで感覚でやっていたことを、数値や構造として見直し始めていた。
それは、とおるにとってかなり奇妙な経験だった。
自分の手足の動かし方を、ある日突然、設計図と数式で説明されるようなものだからだ。
歩く時にいちいち「右足を前へ出し、重心を移動させ、踵から着地し、膝の角度を調整し」などと考えないのと同じように、とおるはこれまで〈壁〉を出す時、危ない、守りたい、止めたい、逃げたい、という感情と直感を頼りに動かしてきた。
だがゾロの訓練はその直感を一度分解し、部品ごとに磨き直し、余計な癖を削って必要な工程を意識へ引き上げるものだった。
たとえるなら、長年なんとなく使っていた安物の包丁を、ある日突然鍛冶師に取り上げられ、「刃の角度、柄の握り、重心、切る対象との抵抗、全部説明できるようになってから料理しなさい」と言われるようなものである。
おかげで料理は上手くなるのかもしれない。
ただし、途中で空腹に倒れる可能性も高い。
ミレイユも変わっていた。
彼女は相変わらずとおるへ厳しい。
呼び方も「貴様」からあまり進歩していない。
顔を合わせれば何かしら刺してくるし、とおるがほんの少し油断しただけで「姿勢が死んでいる」「魔力の出し方が鈍い」「逃げ足だけは一流だな」「壁を出す前に顔で謝るな」など、日替わりの鋭い言葉を放ってくる。
けれど、訓練中に彼の壁を見る目は変わった。
以前は、隊長の敗北を否定するための異物として見ていた。
今は自分の〈白雷〉を磨くための厄介な教材として見ている。
「壁山、今の壁は遅い」
「分かっています」
「違う。発動ではなく、決めるのが遅い。出す前に迷っている」
「そこまで分かります?」
「顔に出ている」
「俺の顔、術式ログみたいになってません?」
「なっている」
「嫌すぎる」
「ただ、角度は良かった。私の二歩目を外へ流そうとしたのだろう」
「はい」
「なら、最初から退路を右ではなく左へ置け。貴様は怖い時、右へ逃げる癖がある」
「見ないでください、そういう生活習慣みたいな癖」
「戦闘中は生活習慣も弱点だ」
「じゃあ寝相も弱点になります?」
「なる相手もいる」
「この世界、怖すぎません?」
ミレイユの助言は相変わらずきつい。
きついのに、役に立つ。
とおるは少し複雑だった。
嫌な相手からも有用な情報は来る。
人間関係とは、盾で防げない種類の難しさがある。
それに、ミレイユの怒鳴り声には不思議な精度があった。
ただ怒っているだけなら聞き流せるが、彼女の指摘はだいたい当たっている。
「右に逃げる癖がある」と言われた時、とおるは最初、そんなことはないと思ったのだが、その後の訓練で危なくなるたび自分の足が当然のように右へ逃げようとするのを自覚してしまい、思わず足へ向かって「お前、いつからミレイユさんと内通していた」と心の中で問い詰めた。
足は何も答えなかった。
ただ痛かった。
夜、講義室で自習をしていた時のことだった。
白華隊の資料室は夜になると、昼間の騒がしさが嘘のように静まり返る。
壁際の本棚には革表紙の古い戦術書や、過去の騎士試験の記録、魔力回路に関する論文、隊員たちの訓練報告がずらりと並び、窓の外では王都の灯が世界樹の根に沿って細く流れ、遠くの鐘楼から夜半を告げる鐘の音が一つ空気の中へ沈んでいった。
とおるは魔導板の小型版に自分の〈壁〉の展開経路を書き出していた。
胸部回路から肩へ、腕へ、指先へ流し、視線と気脈感知で座標を指定しながら空間へ境界面を固定する。
今までは、この流れを一つのまとまりとして扱っていた。
危ないと思う。
壁を出す。
守る。
終わり。
それで済むなら話は簡単だった。
けれどゾロの講義を受けてから分解してみると、発動までの工程はかなり多い。
意思決定、対象認識、座標指定、境界定義、魔力密度設定、固定、維持、解除、再展開。
どこに時間がかかっているのかを考えるだけで、頭が痛くなる。
さらに厄介なのは、とおるの〈壁〉が単なる防御ではなく、位置と角度と厚みと発生タイミングによって相手の動きを止めることもずらすことも、自分の足場にすることも、攻撃の軌道を変えることもできるという点だった。
便利と言えばたしかに便利だ。
しかし便利な道具ほど、雑に使うと自分の首を絞めることがある。
前世でも、便利だからとスマートフォンに予定も連絡先も地図も財布も何もかも任せていたら、充電が切れた瞬間に文明から追放された原始人みたいになることがあった。
とおるにとって〈壁〉は、まさにそれだった。
壁を出せば防げる。
壁を置けば逃げられる。
壁を飛ばせば攻撃できる。
だからこそ、壁を出す前の自分が育っていなかった。
隣ではミレイユが、自分の〈白雷〉の回路図を睨んでいた。
火と雷の流れが複雑に絡み、足裏から膝、腰、背、肩、手首へつながっている。
彼女は何度も線を引き直し、消し、また描く。
その姿はとおるが普段見ている、怒鳴って、突っ込んで、斬りかかってくるミレイユとは少し違っていた。
自分の強さを当然のものとして扱うのではなく、その強さを一度ばらばらにしてもう一度組み直そうとしている顔だった。
「ミレイユさんでも悩むんですね」
「当たり前だ」
「天才なので、全部感覚で行けるのかと」
「感覚だけで進めば、どこかで頭を打つことになる。ゾロ三席の講義を聞いていなかったのか」
「聞いていました。ただ、半分くらい理解できませんでした」
「それは問題だな」
「問題が多すぎて、問題一覧表が必要です」
ミレイユは少しだけ黙り、やがて小さく言った。
「私は、白雷が得意だと思っていた」
「実際、すごいですよ」
「すごいだけでは足りない。試験官は、私の得意な距離だけで戦ってはくれない。戦場では相手がこちらの都合に合わせてくれることなどない。貴様の壁に乱された時にそれを理解した」
とおるは驚いた。
ミレイユが、かなり素直なことを言っている。
明日は嵐かもしれない。
いや、王都の天候は世界樹が安定させているらしいので、たぶん大丈夫だ。
それに今ここで「珍しく素直ですね」などと口に出せば、嵐より早く雷が落ちる。
しかも白くて殺傷性の高い雷が。
「俺も、壁が便利だと思っていました」
「便利ではある」
「便利すぎて、身体のことを後回しにしていた気がします。壁を出せば防げる。壁を置けば逃げられる。壁を飛ばせば攻撃できる。そうやってきたせいで、壁を出す前の自分が弱いというか」
「弱いな」
「そこは遠慮なしなんですね」
「事実だからな」
「はい。だから、基礎をやる意味は少し分かってきました」
ミレイユはふん、と鼻を鳴らした。
「少しなら成長だ」
「褒めてます?」
「少し」
「ゾロさんに似てきましたね」
「やめろ」
「本気で嫌そう」
「当然だ。あの人の笑顔は危険だ」
「共通認識ができている」
二人はまた、それぞれの回路図へ向き直った。
静かな時間だった。
仲良しとは言えない。
相性が良いとも言えない。
とおるはミレイユの怒鳴り声が苦手で、ミレイユはとおるの覇気のなさに苛立つ。
けれど同じ訓練で疲れ、同じ講義で頭を抱え、同じ食堂で山のような飯を食べ、同じゾロの笑顔に怯え、互いのスキルを少しずつ知っていく中で、二人の間には妙な共通認識が生まれ始めていた。
自分のスキルは、自分が思っているより奥が深い。
扱いを誤れば、強さではなく弱点になる。
誰かに勝つためだけではなくまず自分を壊さないために、ちゃんと知る必要がある。
とおるは魔導板の上に小さく「境界固定前の余白」と書いた。
ミレイユは自分の回路図の膝部分へ「三歩目、熱残り」と記した。
その様子を講義室の入口から眺めていたゾロは、声をかけずに微笑んでいた。
優しい笑顔と言えば優しい笑顔であり、少し面白がっている笑顔でもあった。
ただ訓練メニューを増やす時の笑顔ではなかったので、とおるの命はその夜だけはひとまず守られた。
ただし、ひとまずという言葉はたいへん便利であり、同時にたいへん信用ならない言葉でもある。
なぜなら翌朝にはまた外周走が待っていたからだ。




