第7話 顔色が悪いぞ?
壁山とおるは、巨大な異形の死骸を見上げながら、人生には聞かないほうが幸せな説明というものがあるのだな、としみじみ思っていた。
たとえば、村の井戸水がなぜ少し甘いのか。
たとえば、マーサ婆さんの煮込みに何の肉が入っているのか。
たとえば、王国最高戦力の騎士団が隠してきた古代遺構の奥に、今にも起き上がりそうな巨大な神のような死骸が横たわっている理由。
前二つは生活の不安を生む。最後の一つは世界観そのものが倒壊する。
しかも今、その説明を担当しようとしているのは、王樹十二華騎士団第六華隊〈黒蓮〉の隊長、ノクス・ヴァルドレインである。
よりによって、である。
人選が悪い。
知識量だけなら、彼ほど適任な人物はいないのかもしれない。古代遺構、生体術式、魔獣、禁忌研究、魔力回路の変質、未知生物の分類。およそ普通の人間が関わりたくない分野へ嬉々として顔を突っ込む男であり、王国の研究機関〈赫脈生理院〉の局長まで兼任している。
知識はある。
倫理観は、たぶん研究室のどこかに置いてきた。
説明を聞く側の精神衛生に配慮する能力は、最初から持っていない可能性が高い。
「まず、君たちに確認しておこう」
ノクスは、巨大な異形――彼の言うところの〈星骸巨躯〉を見上げたまま、片眼鏡のレンズを指先で整えた。
「ここから先の話は、王国の神官たちが聞けば卒倒し、魔導院の長老たちが聞けば三日ほど会議室に閉じこもり、白華の隊長が聞けば私を斬りたくなる類の内容だ」
「最初から斬りたい」
リディアが即答した。
「素直でよろしい」
「褒めるな」
「正確な感情表現は美点だよ。研究においても重要だ。まあ、君の場合は感情表現の八割が剣に寄っている」
「ノクス」
「はいはい、本題に入ろう」
とおるは小声でエルネに尋ねた。
「この人、毎回こうなんですか」
「はい」
「周りの人、疲れません?」
「疲れます」
「即答ですね」
「黒蓮と合同任務を行った隊は、任務後の休養申請率が平均より二割ほど上がります」
「数字で出ている」
イオナ副官が無表情で補足した。
「正確には二三・七パーセントです」
「もっと悪かった」
ノクスは、そんな周囲の反応を気にも留めず、巨大な台座の前へゆっくり歩いた。
足元に張った浅い水が波紋を広げる。星図のような光が水底で揺れ、彼の影が異形の死骸の腹部へ長く伸びた。
「かつて、世界は神々によって支配されていた」
彼の口から語られた言葉は、神話の始まりに似ていた。
ここから先の話を、すべて会話のまま追うには、あまりにも大きすぎた。ノクスは皮肉を混ぜ、リディアは眉間にしわを寄せ、とおるは時折「急に試験範囲が広い」と小声でぼやき、エルネは研究者として目を輝かせかけて自粛し、セレナは羽ペンを握る指へいつもより力を込めていた。
語られる内容は、ひとつの世界の成り立ちそのものだった。
かつて、世界には境界がなかったという。
地上と空は、今のようには分かれていなかった。
生と死も、昼と夜も、海と陸も、風と静寂も、今ほどはっきり別のものとして存在していなかったとされる。すべては一つの巨大な循環の中にあり、神々と呼ばれる存在がその循環を支配していた。
神々という名が正しいかは分からない。
それは生命だったのか。
自然現象だったのか。
星そのものに宿る巨大な意思だったのか。
古代の文献は、そこを曖昧にしている。ある記録では神々は光の樹として描かれ、別の記録では大地を歩く獣として語られ、さらに別の壁画では、人の形を持たない幾何学的な輪として描かれている。
ただ一つ、共通している点があった。
古い世界において、神々は“分けるもの”を持たなかった。
世界はひとつであり、すべては溶け合い、循環し、終わりと始まりさえも同じ円の中にあった。
その世界へ、空から何かが落ちてきた。
王国の文献では、それは隕石とされている。
星の外より飛来した巨大な石。
火をまとい、空を裂き、大地を抉り、海を沸かし、世界の循環に亀裂を入れたもの。
伝説では、その落下によって古き自然は衰退し、神々の庭と呼ばれた大地は荒れ、空は地上から遠ざかり、初めて世界に風が吹くようになったとされる。
風。
今ではあまりにも当たり前のもの。
草を揺らし、雲を運び、船を進め、鳥の翼を支える透明な流れ。
その風さえ、かつては存在しなかったという話に、とおるは妙な感覚を覚えた。前世の科学知識と、こちらの神話的な説明が頭の中で衝突する。惑星の大気循環とか、隕石衝突とか、環境変化とか、聞き覚えのある理屈へ無理やり押し込めようとする自分と、「神々が支配していた世界」として受け取るしかない異世界の現実が、脳内で仲の悪い隣人同士のように壁を叩き合っていた。
とおるは思った。
壁を出して仲裁したい。
もちろん脳内の話なので無理だった。
星の地層には、“古代の残骸”と呼ばれる遺構が眠っている。
星の塔も、その一つだという。
隕石とされたものが落ちた場所の周辺には、現代の魔術体系でも説明できない構造物が埋まり、魔力が生まれる以前の理屈で動く装置が残され、時には生物とも機械ともつかない遺骸が発見される。
その中でも、この〈星骸巨躯〉は特別だった。
ある文献では、神々を殺した悪魔の骸。
別の伝承では、空からの使者。
さらに古い黒印文書では、星の外から来た原種、あるいはこの世界の新しい生命群の母胎とも記されている。
ノクスは、その最後の説を最も重く見ていた。
つまり、目の前の巨大な化け物は、ただの古代兵器でも、神話上の怪物でもない。
今この世界に生きる人間たちの祖先にあたる、原初の外来生物である可能性がある。
その話を聞いた一同は、さすがに言葉を失った。
リディアでさえ、剣の柄に添えた手をわずかに止める。
エルネは目を見開き、割れた測定盤を抱えたまま固まっている。セレナは羽ペンを落としかけ、マルクは盾を構えながらも理解が追いつかない顔をしていた。
とおるだけは、ひとり別方向の混乱も抱えていた。
異世界へ来たと思ったら、この世界の人類も実は外から来た存在の子孫かもしれない。
つまり、外来種の先輩後輩問題である。
とおるは後輩なのか。
それとも、もっと別の迷惑な転校生なのか。
さすがに悩む場所が違う。
「君たちの小さな頭脳で想像できることは限られている」
ノクスが、実に嫌味たっぷりに言った。
「概ね、その解釈で間違っていないよ」
「お前は、人間がこの化け物の子孫だと言いたいのか」
リディアの声は低かった。
「直接的な血縁か、系統的な起源か、あるいは魔力回路の発生源としての影響か。断言には検体も資料も足りない」
「言い方を選べ」
「研究においては、正確さが礼儀だ」
「人の祖先を検体扱いするな」
「祖先かどうかも未確定だよ。まあ、君たちが心の整理をするために祖先と呼びたいなら止めはしない」
「本当に斬られたいのか」
「斬られるより、もう少し長く話したい」
ノクスは、巨大な異形の胸部に走る管を指した。
「これは世界に境界をもたらした。そして翼をも、もたらそうとした」
「翼?」
とおるが思わず聞き返した。
ノクスの片眼鏡が、とおるへ向く。
「空へ出るための器官、あるいは世界の外へ向かうための概念、と考えればよい。古い神々の世界には、空と地上を分ける必要がなかった。境界がないからね。ところが、外から来たものは違った。外と内を分け、上と下を分け、こちらとあちらを分け、やがてその境界を越えようとした」
とおるの背中が冷えた。
境界。
またその言葉だ。
彼のスキル〈壁〉は、対象と空間の間に境界を挟む能力である。扉は彼を「星の運命の境界に立つもの」と呼んだ。フードの男は「壁を持つ者」として、とおるが扉の前に立つことになると言った。
世界の境界。
星の外側。
翼。
どれも遠すぎる話のはずなのに、なぜか自分の足元へ細い線が伸びてくる。
迷惑である。
非常に迷惑である。
人生のフラグは、本人の許可を取ってから立ってほしい。
「我々は、この星の外から来た外来種の子孫なのだ」
ノクスは言った。
「侵略者の子孫、と言い換えてもいい」
その言葉は、浅い水の張った広間に静かに広がった。
侵略者の子孫。
世界を壊し、神々を殺し、境界を作り、空と地を分け、風を吹かせたものの末裔。
リディアは表情を固くしている。
彼女は聖騎士であり、王国を守る隊長であり、民を守る剣だ。神官ではなくとも、王国の歴史や正義を信じてきたはずである。その彼女にとって、人間そのものがこの星へ外から来た侵略者の子孫かもしれないという話は、剣では受け止めようのない衝撃だった。
とおるは、さらに別の意味で複雑だった。
自分も外から来た。
自分の場合は隕石でも空の船でもなく、謎のゲームソフトである。
スケール感が違いすぎる。
先輩外来種は神々を殺したかもしれない。後輩外来者は村の鍋の蓋を壁で代用していた。並べると、あまりにも格差がある。侵略者としての覇気がない。そもそも侵略する気もない。できれば静かに暮らしたい。
「壁山」
リディアが低く呼んだ。
「はい」
「顔が妙なことになっている」
「人類史と自己認識が同時に揺さぶられています」
「今は耐えろ」
「耐え方の訓練を受けていません」
「私もだ」
「リディアさんでもですか」
「当然だ。祖先が星の外の侵略者かもしれないなど、騎士学校の授業にはなかった」
「授業にあったらだいぶ攻めた学校ですね」
ノクスは楽しそうに肩をすくめた。
「神話も歴史も、勝者と生存者が都合よく整えた保管箱にすぎない。箱の底を開ければ、虫も骨も出る。白華の清潔な廊下には似合わないかな」
「黒蓮の廊下には似合うのか」
「虫も骨も、研究対象としては悪くない」
「やはりお前とは根本的に合わん」
「私も君のように、気に入らないものを剣で片づけようとする若者とは食卓を囲みたくない」
「食卓以前に同じ部屋にいたくない」
「今、同じ神の骸の前にいるね。人生は面白い」
「面白がるな」
エルネが小声でとおるに言った。
「こういうとき、二人を止めるには別の話題を差し込むのが有効です」
「たとえば?」
「世界の危機とか」
「止める話題として重すぎませんか」
まさにその世界の危機について、ノクスは次の話を始めた。
「今回、この遺構から発せられた異常な魔力反応。あれは遺構の自然な再起動だけではない。おそらく、“奴ら”が触れた」
リディアの表情が、鋭く変わった。
「奴ら、か」
「心当たりがあるようだね」
「青の大陸の者たちか」
「十中八九」
青の大陸。
風の大陸に住む者たちにとって、その名は遠い異国の名前であると同時に、近年もっとも警戒される脅威の名でもあった。
リディアたちの王国が属する大陸は、世界樹を中心とした風の大陸と呼ばれている。
巨大な世界樹が大陸中央にそびえ、その根が地脈を整え、風を生み、王国や周辺諸国の魔力循環を支えていると信じられている。大陸には複数の王国、公国、都市連盟、神殿領が存在し、互いに争いながらも、世界樹と地脈の均衡を守るという一点では利害を共有していた。
一方、海を隔てた西方には、青の大陸がある。
そこに台頭した軍事帝国が、センターブルー。
人間だけの国家ではない。
むしろ、その中心にいるのは魔物や亜人、変異種、旧世界の遺伝因子を色濃く宿すとされる異形たちであり、彼らは力と才能と魔力適性を基準に身分を定め、人間も魔物も種族ではなく有用性によって組み込むという、風の大陸の諸国から見れば理解しがたい理念で成り立っている。
センターブルーは近年、急速に力を伸ばしていた。
軍事力だけではない。
古代遺物の解析、魔物の軍団化、生体術式の兵器転用、地脈干渉技術、空を飛ぶ魔導船の開発。その進展は異様な速度で進み、風の大陸側の諸国は危機感を強めている。
特に問題視されているのが、センターブルー皇帝直属の精鋭部隊〈七大罪人〉だった。
名前からして治安が悪い。
とおるは心の中でそう思った。
七大罪人。
その名の通り、七つの罪を冠する怪物たち。公式には存在しないとされ、非公式には国家一つを傾けるほどの力を持つと噂される。魔物の王、堕ちた聖職者、古代遺物と融合した兵士、魂を食う術者、戦場で千人を喰らった巨獣。どこまでが本当でどこからが誇張か分からないものの、王国上層部は彼らの動きを強く警戒していた。
今回、星の塔の異常反応を受け、先遣隊にリディアが派遣された理由もそこにある。
ただの遺跡調査なら、第九華隊長を動かす必要はない。
村の封鎖だけなら、地方軍でも足りる。
白華隊長が来たのは、センターブルーの七大罪人、またはそれに準ずる部隊が、星の塔へ関与している可能性が示唆されたためだった。
「ちょっと待ってください」
とおるは手を挙げた。
こういう会議で手を挙げる癖は、日本の学校教育の成果である。異世界の古代遺跡深部でも発動するあたり、教育とは根深い。
「何だ」
リディアが見る。
「つまり、ここに来たフード男は、そのセンターブルー関係者かもしれない、と」
「可能性は高い」
「そして、そのセンターブルーには七大罪人という、名前だけでだいぶ関わりたくない最高戦力がいる、と」
「そうだ」
「その人たちが、村の近くのこの遺跡に興味を持っている、と」
「その可能性がある」
「村、終わりでは?」
広間が一瞬静まった。
あまりにも素直な感想だった。
リディアは答えに詰まり、エルネは視線を逸らし、セレナは羽ペンを止め、マルクは盾の角度を少しだけ変えた。ノクスだけが面白そうに笑っていた。
「現地協力者の反応は実に率直だ」
「率直に怖いんです」
「よい危機感だ。君のような平凡な小心者の感覚は、時に騎士や研究者より正しい」
「褒めてます?」
「かなり」
「嬉しくない」
リディアは静かに言った。
「だから封鎖が必要だった」
その声に、とおるは口を閉じた。
「星の塔の異常反応。青の大陸の関与。七大罪人の可能性。王国上層部が何かを隠していることも事実だろう。けれど、この地が危険であることもまた事実だ。私は村人たちを脅したかったわけではない」
「……それは、分かってきました」
とおるは小さく答えた。
最初、リディアはただの高圧的な騎士に見えた。
王国命令を盾に村を追い出そうとする冷たい権力者。理由も告げず、暮らしを奪おうとする相手。だからこそ、とおるは決闘を申し込んだ。
今なら、少しだけ違って見える。
彼女は情報をすべて持っていたわけではない。王国の命令と、民の安全と、騎士としての誇りの間で動いていた。説明しないことが正しいとは言えない。村人にとっては理不尽だった。とおるにとっても、納得できるものではない。
それでも、星の塔の奥でこれを見たあとでは、退去命令そのものを単なる横暴と切り捨てることもできなかった。
巨大な星骸巨躯。
神々を殺した悪魔の骸。
人間の祖先かもしれない外来種。
その遺構を狙う、青の大陸の軍事帝国。
七大罪人。
辺境の村が背負うには、あまりにも荷物が大きい。
とおるは思った。
村の荷車でも無理。
マーサ婆さんの芋袋より重い。
もちろん比較対象が生活寄りすぎる。
「センターブルーは、なぜ古代遺物を狙うんですか」
とおるが尋ねる。
ノクスが答える。
「力になるからだよ」
「わかりやすい」
「古代遺物には、現在の魔術体系を飛び越える機能がある。空を飛ぶ船、魔物を従える核、生体を変異させる槽、空間をつなぐ門、地脈を汲み上げる塔。もし星の塔の中枢をセンターブルーが掌握すれば、風の大陸の地脈均衡を揺さぶることさえ可能かもしれない」
「地脈が揺さぶられると?」
「作物が枯れ、魔物が増え、都市の結界が乱れ、魔力病が広がり、最悪の場合、世界樹の根の一部が死ぬ」
「大惨事ですね」
「そう。小心者にも分かりやすい大惨事だ」
「小心者を単位にしないでください」
リディアがノクスを睨む。
「王国上層部は、そこまで把握していたのか」
「全てではない。少なくとも、星の塔が古代遺構の中枢級であり、センターブルーがここへ手を伸ばす可能性があることは知っていた。七大罪人の動きについては、黒蓮にも断片的な情報しか来ていない」
「お前たちにも隠されている情報があるのか」
「当然だ。王国という組織は、情報を隠すために部署を作り、部署が増えたために自分たちも何を隠したか分からなくなる」
「笑えない」
「笑うために言ったわけではない。事実だよ」
イオナが無表情で頷いた。
「黒蓮が把握している未開示資料だけでも、索引の不備により閲覧不能なものが二一七件あります」
「管理がひどい」
とおるはつい言った。
「ひどいから、我々が必要になる」
ノクスが笑う。
「その言い方が信用できない」
「正しい反応だね。研究者を全面的に信用する者は、だいたい研究対象にされる」
「怖いことをさらっと言わないでください」
リディアは、巨大な星骸巨躯を見上げた。
「この遺構は、今どの状態にある」
「眠りから覚めかけている」
ノクスの声から、初めて皮肉が薄れた。
「先ほどの構成体が何をしたかは不明。センターブルー側が深部へ干渉したのか、星骸巨躯の周辺機構へ接続したのか、あるいは外部から信号を送ったのか。いずれにせよ、遺構の中枢が反応している。完全起動には至っていない。今なら、まだ封じ直せる可能性がある」
「方法は」
「調べる必要がある」
「分からないということか」
「分からないことを分かっている。これは重要な一歩だ」
「その一歩で村は救えるのか」
「急ぐ必要がある、という点では一致している」
とおるは、二人の会話を聞きながら、星骸巨躯の胸部を見つめた。
また、かすかに光った。
今度は、見間違いではない。
光は胸から首へ、首から頭部へ、細い線として流れ、膜に覆われた顔の奥で一瞬だけ銀色の点を灯した。巨大な複眼の一つが、眠りの底から薄くこちらを見たような気がした。
とおるは息を呑む。
自分だけかと思った。
リディアも、ノクスも、同じ方向を見ていた。
「動いた、わけではないですよね」
とおるは小声で言った。
「動いてはいない」
リディアが答える。
「では、今のは」
「反応だ」
ノクスが言った。
「何への反応ですか」
「君だろうね」
「俺に押しつける流れ、早くないですか」
「扉を開け、声を聞き、境界のスキルを持ち、世界の外側から来た。これだけ並べて無関係だと主張するほうが難しい」
「並べ方に悪意があります」
「事実を並べただけだよ」
「事実の陳列で人を追い詰めるタイプですね」
とおるは額を押さえた。
自分の人生は、いつからこんなことになったのか。
謎のゲームソフトを起動したあの日からである。
答えは簡単だった。
簡単すぎて腹が立つ。
「ノクス」
リディアが言った。
「一度、村へ戻る。ここで分かったことを整理し、王都へ報告する。村人たちへの避難説明も必要だ」
「妥当だね。深部に長居するほど、こちらの魔力回路が遺構の反応を受ける危険も増す」
「お前たちは」
「我々はこの場に残りたい、と言いたいところだけれど、白華の隊長に見張られた状態で無断調査を続けるのは面倒だ。ひとまず表層まで戻ろう」
「本当に戻るのか」
「信用がないな」
「ない」
「正直でよろしい」
イオナが静かに言った。
「隊長、現在の装備では深部滞在時間の上限を超えています。これ以上の単独調査は、私が本部へ規則違反として報告します」
「うちの副官は優秀で厳しい」
「隊長の自制心が低いためです」
「ひどいことを言う」
「正確です」
とおるは、黒蓮の内部にも苦労があるのだなと思った。
どの隊にも副官は必要である。
そして副官とは、隊長という大型厄介物を現場で人間社会へつなぎ止める命綱なのかもしれない。
リディアにはマルク。
ノクスにはイオナ。
隊長という職業は、実力だけではなく、周囲の胃袋を犠牲にして成り立っているのだろう。
一行は、星骸巨躯の前から離れる準備を始めた。
セレナは祈りの印を切り、エルネは壊れた測定器の破片を丁寧に回収し、マルクは帰路の警戒配置を確認する。ノクスは最後まで名残惜しそうに巨大な異形を眺め、リディアに睨まれてようやく踵を返した。
とおるは、扉へ向かう前にもう一度振り返った。
巨大な死骸は、静かに横たわっている。
死んでいるようで、眠っているようで、何かを待っているようだった。
頭の奥に、あの声の残響がまだ残っている。
世界の外側から来たものよ。
汝は星の運命の境界に立つことはできるか。
とおるは、声には出さずに答えた。
できれば立ちたくないです。
もっと小さい境界でお願いします。
村の柵とか。
畑の水路とか。
人間関係のほどほどの距離感とか。
星の運命は荷が重いです。
もちろん、返事はなかった。
古代の声は、とおるの都合など聞いてくれない。
リディアが入口付近で振り返る。
「壁山、行くぞ」
「はい」
「顔色が悪い」
「世界の真実を聞いた直後の村人としては、かなり頑張っているほうです」
「そうだな」
リディアは、少しだけ声を柔らかくした。
「戻ったら、お前の話も聞く」
「俺の世界の話ですか」
「ああ」
「長くなりますよ」
「構わない」
「ゲームとかインターネットとか説明しないといけないんですけど」
「分かるように話せ」
「俺も分かるように話せる自信がないです」
「努力しろ」
「努力の範囲が広い」
ノクスが横から口を挟んだ。
「私も聞きたいね。世界の外側から来た少年の故郷の話は、実に興味深い」
「あなたには話したくないです」
「正しい判断だ。ますます聞きたくなった」
「リディアさん、この人を会議に入れない方法はありますか」
「ない」
「世界は厳しい」
広間の扉が、来たときと同じように静かに開いた。
彼らは星骸巨躯を背に、地下深部を離れていく。
風の大陸。
青の大陸。
センターブルー。
七大罪人。
星の塔。
神々を殺した悪魔の骸。
世界の外側から来た少年。
とおるが辺境の村で手に入れた平和な暮らしは、今や巨大な世界の渦の中へ巻き込まれようとしていた。
それでも彼は、帰ったらまず焼き芋を食べようと思っていた。
世界の運命は重い。
胃袋はもっと身近である。
そういう身近なものを守るために、人は時々、身の丈に合わない場所へ立たされるのかもしれない。
たとえその本人が、心の底から「立ちたくない」と思っていたとしても。




