第6話 眠る神の骸
星の塔の地下深部へ続く通路は、歩けば歩くほど、洞窟でも廃墟でも迷宮でもない、もっと別の何かへと姿を変えていった。
最初のうちは、青白い光が床や壁の溝を流れ、巨大な金属めいた素材が古代都市の骨格を形作っているだけに見えた。人間の手では作れない規模と精度ではあったものの、それでも通路、広間、扉、柱という言葉でなんとか分類できる範囲に収まっていたのである。
奥へ進むにつれ、その分類は少しずつ役に立たなくなった。
壁面は滑らかな白銀灰色から、半透明の膜を重ねたような質感へ変わり、内部には細い管のようなものが無数に走っていた。管の中を流れる光は一定ではなく、ときおり淡く脈打ち、まるで巨大な生物の血管の奥を、星の粉だけで作られた血が流れているように見える。
床も不気味だった。
一見すると平らで、足を置けば硬い。靴底へ伝わる感触は石に近い。ところが、気脈を探るように意識を広げると、足元の素材は完全な無機物ではないように思えた。こちらの体温や重さを読み取り、ほんのわずかに沈み、すぐ元へ戻る。呼吸に合わせて反応しているわけではない。もっと冷静で、もっと機械的で、踏み入った者を観察しているような応答だった。
とおるは、できるだけ床を見ないようにして歩いていた。
床を見ると、自分が巨大な何かの体内を歩いているような気分になる。
上を見ると、天井が遠すぎて不安になる。
横を見ると、壁の奥に走る管が不穏すぎる。
正面を見ると、リディアがいる。
結論として、とおるはリディアの背中だけを見て歩くのが一番精神に優しいと判断した。
白銀の鎧と長い金髪は、古代遺跡の異様な光の中でもはっきりと見える。背筋は伸び、足取りは乱れず、白禍月の柄に添えられた手は静かで、先ほど正体不明のフード男を切り伏せたばかりとは思えないほど落ち着いている。
頼もしい。
とても頼もしい。
同時に、とおるの脳は、頼んでもいないのに昨日の集会所の映像を差し込んでくる。
白銀の鎧。
長い金髪。
壁。
とおるは頭の中で、その記憶を力いっぱい封印した。
今ここで笑ったら死ぬ。物理的に。
「壁山」
リディアが前を向いたまま言った。
「はい」
「何か余計なことを考えたな」
「考えていません」
「声が裏返った」
「遺跡の音響効果です」
「便利な遺跡だな」
「俺も今そう思いました」
リディアは振り返らなかった。
それが救いだった。振り返られていたら、とおるは表情管理に失敗し、白禍月による教育的指導を受けていたかもしれない。
通路の先で、エルネの割れた測定杖がまた不安げに鳴った。
先ほど水晶部分が砕けたため、完全な測定はできない。それでも彼女は、予備の小型測定盤を片手に、遺跡の反応を確認し続けていた。研究者としての執念は、道具の破損くらいでは止まらない。むしろ、道具が壊れるほどの異常値に遭遇したことで、彼女の中の好奇心は葬式帰りの親戚みたいな顔をしながらもしぶとく生き残っていた。
「気脈の流れが全部同じ方向へ集まっています」
エルネが言った。
「方向は」
リディアが尋ねる。
「この先です。かなり深い場所に、遺跡全体の魔力を引き受ける中枢のような構造があるように見えます。地脈というより、巨大な術式回路ですね。塔、谷、地下都市、村の地下枝、全部がひとつの装置としてつながっている可能性があります」
「装置って、何をするための装置なんですか」
とおるが尋ねると、エルネは小型測定盤を見たまま困ったように笑った。
「それが分かれば、私は王都の研究院で十年は威張れます」
「今は威張りたい気持ちを抑えて、安全に寄せてもらえると助かります」
「安全のためにも調べる必要があります」
「研究者の安全って、けっこう攻めますよね」
セレナが後方で記録を取りながら、穏やかに口を挟んだ。
「記録。現地協力者、研究職への不信感を軽妙に表明」
「軽妙にしているだけで、中身はかなり本気です」
「その点も記録します」
「記録対象から外してください」
副官マルクは盾を構えながら、静かに周囲を警戒していた。実直な男である。とおるが見たところ、マルクの心の中にも色々な感想はあるはずだった。たとえば「なぜ村人が隊長の隣を歩いているのか」とか、「なぜこの村人は危険な古代遺跡で会話の温度を下げ続けるのか」とか、「隊長は昨日の件を本当に報告書にどう書くつもりなのか」とか。
それらを一切表に出さないところが、副官としての高い職業意識だった。
通路はやがて、下へ向かう長い斜路へ変わった。
階段ではない。傾斜のついた広い道が、螺旋を描きながら地下へ沈んでいく。壁に沿って並ぶ黒い柱には、腕ほどの太さの管が何本も絡みつき、内部を流れる光は一定の周期で強くなったり弱くなったりしていた。
足音が反響する。
リディアの鎧は静かで、マルクの鎧も訓練された音を立てる程度。とおるの革靴だけが、やけに素人っぽい。異世界三年目にしても、こういう場所で自分だけ一般人感が出るのは困る。装備を整えたところで、内面の村人属性までは隠せない。
斜路の途中、壁の一部に巨大な窓のような空間が開いていた。
外へ通じているわけではない。そこから見えたのは、さらに下層へ広がる空洞だった。
縦に何百メートルもありそうな巨大空間の中を、いくつもの橋や管や光の線が横切っている。上から下へ流れる青白い光の滝。壁面にへばりつく都市の残骸。宙に浮いたまま停止している円環状の構造物。足場も支柱もないのに空中へ固定された透明な球体群。
そして、そのすべてが中心のさらに下、見えない底へ向かってつながっている。
とおるは、そっと窓から離れた。
「見ないのか」
リディアが尋ねる。
「見ました。十分見ました。人間、情報量が多すぎる景色を見ると、脳が労働組合を作ります」
「意味が分からん」
「休ませろと言っています」
「却下だ」
「リディアさん、人の脳にも厳しい」
斜路を降り続けた一行は、やがて巨大な門の前へ辿り着いた。
それは扉というより、ひとつの地形だった。
高さは二十メートルを超え、幅は小さな砦の正門ほどもある。両側の壁から生えた白銀灰色の構造物が、中央で噛み合うように閉ざされ、表面には無数の線と点が刻まれていた。星図にも見える。回路図にも見える。古代の文字にも、巨大な生物の神経網にも見える。
扉の中央には、縦に走る一本の溝がある。
ただの合わせ目ではない。
とおるの気脈感知は、その溝から強烈な“境界”の気配を感じ取っていた。
こちら側と向こう側。
生と死。
眠りと覚醒。
世界の内と外。
言葉にすれば大げさになる。とおる本人も、自分の感覚に中二病めいた翻訳を混ぜてしまっている自覚はあった。とはいえ、その溝に触れた瞬間、自分の〈壁〉がただの防御スキルでは済まない何かに結びついているような、ひどく嫌な予感がした。
マルクが扉の周辺を確認する。
「開閉装置は見当たりません」
エルネが小型測定盤をかざす。
「封鎖されていますね。王国式の封印ではありません。遺構本来の機構です。魔力を流しても反応なし。聖属性にも水属性にも反応なし。無理に開こうとすれば、周辺構造ごと崩落する可能性があります」
「迂回路は」
リディアが問う。
「測定不能です。壁の向こう側が広すぎて、距離感が狂っています。というより、この扉の先だけ空間の相が違います」
「また空間ですか」
とおるは小さく呟いた。
最近、空間という言葉を聞くたびに胃が反応するようになっていた。前世では「空間デザイン」と聞けばおしゃれなカフェくらいを連想したものの、こちらの世界では空間干渉、空間歪曲、空間相違、封印空間と、だいたい命に関わる形で登場する。言葉の治安が悪い。
リディアは扉を見上げ、剣へ手を添えた。
「斬って開けるのは」
「おすすめしません」
エルネが即答した。
「隊長の白禍月なら表面を削ることはできるかもしれません。中の機構がどう反応するかは不明です。爆発、崩落、封印反転、深部の異常覚醒、最悪の場合は古代都市全体の閉鎖機構が作動する可能性があります」
「つまり」
「やめましょう」
「分かった」
リディアは珍しく素直に剣から手を離した。
とおるは少し安心した。騎士団長が力技を選び、古代遺跡が怒り、全員まとめて地下深くへ沈む展開は、できれば回避したかった。
そのとき、扉の表面を見つめていた彼の中で、妙な感覚が強くなった。
呼ばれている。
声ではない。
音でもない。
気脈の流れが、彼の〈壁〉へ向かって指を伸ばしている。
とおるは、ゆっくりと扉へ近づいた。
「壁山」
リディアが鋭く言う。
「勝手に触るな」
「触らないほうがいいとは思ってます」
「なら離れろ」
「それが、向こうから呼ばれている気がします」
「向こう?」
「この扉です。正確には、扉の向こうとこちらの間にある境界、みたいなものが」
リディアの表情が変わった。
とおるの〈壁〉が境界に干渉する可能性を、彼女はすでに考えている。先ほどのフード男も、とおるを「境界の少年」と呼んだ。嫌な伏線が、丁寧に糸を結び始めている。
「危険なら止める」
リディアが言った。
「はい。危険そうなら俺も止まりたいです」
「信用できないな」
「俺も自分を全面的には信用していません」
「そこは自信を持て」
「自信を持って事故る人間より、疑いながら進む人間のほうが安全です」
「妙に説得力がある」
とおるは扉の前に立った。
巨大な構造物の表面は、近くで見るとさらに異様だった。素材は冷たい金属のように見えるのに、かすかな温度がある。息を潜めた生き物の皮膚に触れる前のような緊張が漂っている。
彼は右手を伸ばした。
指先が、扉に触れる。
その瞬間、とおるの中を何かが通り抜けた。
風ではない。
魔力でもない。
もっと細く、もっと古く、気の流れと呼ぶしかないもの。彼の指先から腕へ、肩へ、胸へ、頭の奥へ、一本の光の糸が通ったような感覚だった。
視界が白く滲む。
頭の中に、声が届く。
『――世界の外側から来たものよ。汝は星の運命の境界に立つことはできるか?』
聞いたことのない言語だった。
音ではなく記号。記号ではなく波。波ではなく意味そのものが、頭の奥へ直接刻まれる。とおるの知る日本語でも、この世界の共通語でも、王国式魔術語でもない。聞けば理解できないはずの未知の響きが、なぜか彼の中で言葉になった。
世界の外側から来たもの。
星の運命の境界。
立つことはできるか。
「……星の、運命?」
とおるは呟いた。
直後、頭痛が走った。
鋭い痛みではない。頭蓋骨の内側を広げられるような、記憶の棚を他人に勝手に開けられるような痛みだった。前世のアパート。謎のゲームソフト。起動画面。新規開始の文字。森。双角の猪。クルム村。集会所の壁。リディアの怒声。星の塔。黒い扉。白露。フード男の笑み。
すべてが一瞬にして、ばらばらの映像として流れた。
「壁山!」
リディアの声が遠く聞こえる。
とおるは手を離そうとした。
扉が、動いた。
音はなかった。
あれほど巨大な扉が、重さを持っていないように、中心の溝から光を漏らしながら左右へ開いていく。機構が軋むことも、封印が砕けることもない。まるで長い眠りから目覚めた扉が、来客の身元を確認し、当然のように通路を譲っただけのようだった。
エルネが口を開けた。
「……開きました」
とおるは頭を押さえたまま、小さく言った。
「俺にも見えています」
「どうやって?」
「手を触れたら、知らない言葉で話しかけられて、意味だけ分かって、頭が痛くなって、扉が開きました」
「情報量が多いですね」
「俺の頭にも多いです」
リディアが駆け寄り、とおるの腕を掴んだ。
「何を聞いた」
「世界の外側から来たものよ、と。あと、星の運命の境界に立つことはできるか、みたいなことを」
リディアの顔が険しくなる。
「世界の外側……」
「俺の出身の話、いよいよ誤魔化しにくくなってきましたね」
「あとで話してもらう」
「あとで、の予約が増えていく」
「逃げられると思うな」
「思っていません。逃げたいとは思っています」
扉の奥から、冷たい空気が流れ出した。
一行は警戒しながら内部へ入る。
そこは、今まで見てきたどの空間よりも広かった。
広間という言葉では足りない。
地下大聖堂。
いや、巨人の墓所。
あるいは、星を納めるための棺。
天井は高すぎて闇に溶け、壁は遥か左右へ広がり、足元には薄い水のようなものが張っていた。水面はくるぶしにも届かないほど浅く、踏むと音もなく波紋が広がる。光の線が水底を走り、波紋に合わせて星図のような模様を描いた。
空間の中央には、巨大な台座があった。
その上に、何かが横たわっている。
とおるは最初、それを建造物の一部だと思った。
あまりにも大きすぎたため、生物という発想が追いつかなかったのである。
全長は、村の集会所をいくつ並べても足りないほど。人型に近い輪郭を持っているものの、人間からはあまりにも遠い。胴は長く、肋骨のような白い構造が外側へ露出し、肩から伸びる腕は左右で形が違う。片方は細く長く、もう片方は岩山のように太い。背中には折れた翼の残骸にも、巨大な放熱板にも見える板状の器官が並んでいた。
顔に相当する部分は、布のような白い膜で半分覆われている。
膜の下には、眼窩らしきくぼみがいくつもある。二つではない。縦に三つ、横にさらに二つ。口に当たる部分は閉じているのか、そもそも存在しないのか分からない。頭部からは角とも管ともつかないものが伸び、台座の周囲の装置へ接続されていた。
皮膚は、死んだ灰色ではなかった。
白く、青く、ところどころ肉のように赤みを帯び、生々しい。生命活動を終えた死骸であるはずなのに、今にも胸が上下し、眠りから覚め、こちらを見下ろしそうな気配がある。腐敗臭はない。血の匂いもない。代わりに、雨上がりの石、古い鉄、清潔すぎる祭壇、そして雷が落ちる直前の空気のような匂いが漂っていた。
とおるは声を失った。
リディアもまた、目を見開いていた。
「……なんだ、これは」
王国最高戦力の一角である白華隊長の声から、初めて純粋な驚愕が漏れた。
エルネは小型測定盤を掲げようとして、手を止める。測るという行為そのものが、この巨大な異形に対してあまりにも小さいのだと、彼女自身が悟ったようだった。
セレナは祈りの言葉を途中で止めた。
マルクは盾を構えたまま、一歩も動けない。
とおるは、その異形から目を離せなかった。
さっきの声は、こいつからなのか。
世界の外側から来たもの、と自分を呼んだのは、この巨大な死骸なのか。
死んでいる。
そう見える。
それなのに、気脈は完全には止まっていない。身体そのものに魔力は流れていない。心臓の鼓動も感じない。生命の気配はない。代わりに、周囲の遺構全体がこの死骸を中心に呼吸している。死んだ巨体を、古代都市という巨大な装置が抱え続けている。
「これは……神、なのか?」
とおるの声は、自分でも驚くほど小さかった。
返事は、背後から来た。
「神と呼ぶには、信仰が足りない。兵器と呼ぶには、尊敬が足りない。生物と呼ぶには、われわれの分類表が貧弱すぎる。まあ、古代文明の遺構、と言っておくのがいちばん無難だろうね」
全員が振り返った。
扉の向こう側、いつの間にか二人の人物が立っていた。
一人は、長身の男だった。
黒に近い深紫の騎士外套をまとい、襟元には蓮の花を模した銀の徽章が輝いている。年齢は四十前後に見えるものの、肌は不自然に白く、目元には眠っていない者特有の深い影がある。髪は灰色がかった薄い金で、後ろへ雑に束ねられ、片眼には複数のレンズが重なった奇妙な片眼鏡をかけていた。
腰には剣がある。
騎士としての装備は整っている。
それなのに、彼がまとっている空気は戦士のものではなかった。戦場より解剖室が似合う。号令より実験記録が似合う。部下へ「突撃」と言うより、検体へ「開いてみようか」と言いそうな男だった。
もう一人は、副官らしき女性だった。
黒い短髪をきっちり耳の下で切りそろえ、同じく深紫の外套を着ている。背は高くない。表情はほとんど動かず、両腕には分厚い書類束と細長い金属ケースを抱えている。左耳には小さな測定器のようなものが装着され、視線は常に周囲の情報を無表情に採取していた。
彼女は一礼した。
「王樹十二華騎士団、第六華隊〈黒蓮〉。隊長、ノクス・ヴァルドレイン。副官、イオナ・ベルカ。現刻をもって深部調査へ合流します」
第六華隊〈黒蓮〉。
王樹十二華騎士団の中でも、もっとも異質な隊のひとつである。
その象徴は、泥の底に根を張り、光なき水面へ咲く黒い蓮。矜持は「禁忌の底へ手を伸ばし、王国へ必要な知を持ち帰ること」。役割は、魔獣災害の解析、生体術式の研究、古代遺物の検査、呪染病の原因究明、変異個体の捕獲、戦場に残された未知の魔力痕跡の分析など、普通の騎士が剣で終わらせる問題を、切り刻み、分類し、名札を貼り、保存液へ沈める方面から解決する部隊だった。
王国民からの知名度は低い。
騎士団内部での評判は、かなり悪い。
成果は出す。恐ろしく出す。黒蓮が解析した魔獣の弱点によって救われた街もあれば、彼らが開発した対呪染薬で助かった兵士もいる。知識と技術だけを見れば、王国に欠かせない存在である。
人望は、残念ながら保存液の中で溶けたのかもしれない。
ノクス・ヴァルドレインは、第六華隊長であると同時に、王立生体魔導研究機関〈赫脈生理院〉の局長を兼任していた。魔物、人間、古代遺物、呪具、異種族の身体構造、魔力回路の変質。そのすべてを研究対象として扱い、研究のためなら人を人として見ているのか疑わしい言動を平然と重ねるため、リディアは彼を個人的に毛嫌いしていた。
それはもう、かなり毛嫌いしていた。
剣の柄に手が伸びる速度を見れば分かる。
「ノクス」
リディアの声が低くなる。
「なぜお前たちがここにいる」
ノクスは、薄く笑った。
「おや、我々がここに来ることは決定事項だったはずですが?」
「私が聞いているのは、なぜ今ここにいるのか、ということだ」
リディアは一歩前へ出る。
「第六華隊は、先遣隊が到着し、周辺地域の封鎖が完了した後に合流すると聞いていた。村の安全確認も、外周封鎖も、正式な測量も終わっていない。この深部へ、どうやって先回りした」
「先回り、という表現は面白いね」
ノクスは片眼鏡のレンズを指で整えた。
「道というものは一つではない。王国が記録している道、現地住民が知る道、古代遺構が覚えている道、研究者が勝手に掘った道。世の中にはさまざまな道がある」
「勝手に掘った、と聞こえたぞ」
「聞こえるように言ったから当然だ」
リディアの眉間に、綺麗なほど怒りの線が浮かんだ。
とおるは思わず半歩下がる。
あ、これ斬る顔だ。
昨日の自分を睨んでいたときより、ある意味で自然な怒り方だった。自分への怒りが予期せぬ事故への怒りだとするなら、ノクスへの怒りは長年積み上げた不信と嫌悪と「またお前か」という職場ストレスの結晶である。
エルネが慌てて二人の間へ入った。
「隊長、ここで隊長同士が斬り合うと、遺跡の反響と記録処理と報告書の修正が大変なことになります」
「止める理由が事務寄りだな」
とおるが呟く。
イオナ副官が無表情で頷いた。
「隊長間の私闘は、第六華隊側でも申請書類が三十二枚増えます。できれば避けたいです」
「そこなんですか」
「重要です」
「騎士団の世界、戦闘より書類が強い瞬間がありますね」
ノクスは、リディアの怒気などまるで意に介さず、巨大な異形の前へ歩いていった。
足取りは軽い。
まるで美術館で長年見たかった展示物に出会った研究者のように、いや実際ほとんどそのままの顔で、彼は台座の前に立ち、巨大な死骸を仰ぎ見た。
「……素晴らしい」
ため息混じりの声だった。
祈りにも似ていた。
狂気にも似ていた。
「表層組織の保存状態、骨格らしき外殻の配置、魔力ではない循環痕、そして周辺遺構との接続。文献の写しでは分からなかった。ああ、これを前にして、剣を抜くことしか考えられない連中が王国の主戦力を名乗っているのは、実にもったいない」
「聞こえているぞ」
リディアの手が剣の柄へ伸びる。
「聞こえるように言っているんだから当然だろう」
ノクスは振り返りもしない。
リディアの眉間に、さらに怒りの線が増えた。
とおるは心の中で、人体の額にあんなにはっきり怒りの記号が出るものなのかと感心した。漫画的表現だと思っていたものが、異世界では実在するらしい。正確には、リディアの血管と表情筋が非常に誠実に怒りを表現しているだけである。
「お前は、これを知っていたのか」
リディアが問う。
ノクスは片手を広げた。
「知っているも何も、これは古代文明の遺構だよ」
「それ以上のことを聞いている」
「まあ、剣を握ることしか脳がない若者には、それ以上のことは理解できんだろうがね」
「ノクス」
「はいはい、怒らない怒らない。聖属性の魔力は感情で濁ると効率が落ちるよ。白華の隊長なら、そのくらい理解しているだろう?」
「お前の首で試してやろうか」
「首を落とされると発声が難しくなる。議論の質が下がるので推奨しない」
エルネが両手を広げた。
「リディア隊長、落ち着いてください。ノクス隊長も煽らないでください。ここは古代遺構深部で、巨大な未知生体構造物の前で、先ほど正体不明の構成体が自壊した直後で、測定器も割れていて、全員かなり危ない場所にいます」
「要約すると最悪ですね」
とおるが言う。
「そうですね」
エルネはにこりともせず答えた。
「いつもの私なら面白いと言いますけど、今はちょっと笑えません」
「エルネさんが笑えないと、俺は泣くしかないんですが」
セレナが静かに言った。
「泣く場合は、記録上、精神的緊張による自然反応として扱います」
「記録しなくていいです」
ノクスの副官イオナが、とおるを見た。
無表情なまま、彼女は書類束の一枚をめくる。
「あなたが壁山とおるですね。クルム村在住、出身地不明、ギルド登録済み、固有スキル〈壁〉、第九華隊長との決闘に勝利した人物」
「最後の情報、もう共有されているんですか」
「概要のみです」
「概要に一番共有されたくない部分が入っています」
「詳細は伏せられています」
「逆に詳細が気になりますよね、その書き方だと」
イオナは瞬きもせず答えた。
「第六華隊では、すでに三つの仮説が提出されています」
「提出しないでください」
「一つ目、白華隊長の油断。二つ目、あなたの境界干渉能力による偶発的勝利。三つ目、隊長が未知の羞恥的拘束状態に陥ったことによる心理的敗北」
「三つ目を今すぐ燃やしてください」
リディアの声が低く響いた。
「イオナ」
「失礼しました。三つ目は未確定仮説として扱います」
「扱うな」
「では保留箱へ」
「捨てろ」
とおるは、王国騎士団という組織のイメージが音を立てて崩れていくのを感じた。
厳格、荘厳、規律、忠誠。
そんな言葉でできていたはずの巨大組織の内部には、煽り屋の研究者、無表情に危険な仮説を読み上げる副官、記録を残したがる神官、測定不能で少し静かになる魔導士、怒りで白く輝きそうな騎士団長がいる。
会社も学校も騎士団も、中に入ればだいたい人間関係で苦労するのかもしれない。
そんな妙に現実的な結論へ至りかけたとき、ノクスの視線がとおるへ向いた。
片眼鏡の奥の瞳が細まる。
「……ほう」
その一音だけで、とおるの背中が冷えた。
魔物に見つかったときとは違う。
研究者に見つかった。
標本棚の空きスペースを確認されているような気分だった。
「興味深い魔力を持つ奴がいる」
「人を珍しい虫みたいに見ないでください」
「珍しい虫ならまだ扱いやすい。君はもっと厄介そうだ。魔力回路の基礎構造はこの世界の標準型に近い。一方で、気脈の外縁に妙な断層がある。魂の縁がこちらの世界に完全には馴染んでいない。しかも固有スキルが境界干渉系と来た。いやあ、これは実に」
「面白い、ですか」
とおるは先回りして言った。
ノクスは嬉しそうに笑った。
「素晴らしい」
「面白いより悪化した」
リディアがとおるとノクスの間に立った。
「ノクス。壁山とおるは第九華隊の管理下にある現地協力者だ。勝手な検査、拘束、採血、回路測定、精神干渉、その他お前が思いつきそうな一切を禁じる」
「採血程度なら」
「禁じる」
「髪の毛一本」
「禁じる」
「呼気の採取」
「禁じる」
「足跡の型」
「禁じる」
「厳しいな」
「お前相手には足りないくらいだ」
とおるは、リディアの背中を見た。
昨日から今日にかけて、彼女には睨まれ、脅され、訓練場行きを宣告され、危険物扱いされている。それでも今、彼女が自分を守るように前へ立ったことは分かった。
少しだけ、胸が温かくなる。
その直後に、いやこの人を壁に埋めたのは自分なんだよな、という申し訳なさが湧き上がり、温かさは複雑な温度になった。
「第九華隊の管理下ねえ」
ノクスは巨大な異形へ視線を戻した。
「では、その現地協力者に聞こう。君は、この扉を開けたね」
とおるは慎重に答えた。
「触ったら、開きました」
「声を聞いたか」
広間の空気が止まる。
リディアの視線が鋭くなる。
エルネも、セレナも、マルクも、イオナも、とおるを見る。
ノクスだけが、最初から答えを知っているように薄く笑っていた。
「……聞きました」
「何と言っていた」
「世界の外側から来たものよ。汝は星の運命の境界に立つことはできるか、と」
ノクスの笑みが、深くなった。
「やはり」
「やはり?」
リディアが問う。
「その言葉の意味を知っているのか」
「知っているとも言えるし、知らないとも言える。古代文明の記録は断片だらけでね。黒蓮は、王宮魔導院より少しだけ正直に、分からないことを分からないまま扱う訓練を受けている」
「前置きはいい」
「短気だなあ。白華は花の名を冠しているわりに、剣の茎しか残っていない」
「ノクス」
「はいはい」
ノクスは肩をすくめる。
「この異形について、王国の文献にはいくつかの呼び名がある。神骸、星胎、始祖機、天より墜ちた眠り子。どれも詩的で、どれも不正確だ。黒蓮では仮称として〈星骸巨躯〉と呼んでいる」
「星骸巨躯……」
とおるは巨大な死骸を見上げた。
言葉が妙に似合っていた。
星の骸。
巨きな躯。
眠っているのか、死んでいるのか、封じられているのか、今の彼には分からない。
ただ、あれは巨大すぎる。
神と呼ばれる理由も分かる。兵器と恐れられる理由も分かる。生物として扱うには、自分たちの身体の尺度が小さすぎる。
「こいつが、さっきのフード男の言っていた神々なんですか」
とおるが尋ねる。
ノクスは片眼鏡を光らせた。
「さて。神々という言葉は便利すぎる。理解できないもの、倒せないもの、願いを投げたいもの、責任を押しつけたいもの、人間はそれらをまとめて神と呼ぶ。研究者としては、もう少し切り分けたいね」
「説明が長い人ですね」
「よく言われる」
「俺も言われます」
「君とは仲良くなれそうだ」
「今ので一気に不安になりました」
リディアが低く言う。
「仲良くなる必要はない」
「リディアさん、即答ですね」
「当然だ」
広間の奥で、巨大な異形の胸部に当たる部分がかすかに光った。
全員が口を閉じる。
光はすぐに消えた。
動いたわけではない。
息をしたわけでもない。
それでも、とおるには分かった。
完全に死んでいるわけではない。
あるいは、死骸であることと、目覚めることが矛盾しない存在なのかもしれない。
ノクスは、恍惚に近い表情でそれを見上げていた。
「素晴らしい。本当に、素晴らしい。千年の封鎖、三百年の監視、幾度もの異常波、王国上層部が隠したがる理由も分かる。これは単なる危険物ではない。世界そのものの成り立ちに関わる」
「お前はどこまで知っている」
リディアが問う。
「次の説明には、王国機密の黒印が三つほど貼られている」
「ここまで来て隠すつもりか」
「隠したいわけではない。話す順番がある。知識というものは、雑に並べると人を賢くするより混乱させる。剣を握るだけの若者には、とくに配慮が必要だ」
「もう一度言ってみろ」
「聞こえていたなら二度言う必要はない」
リディアの白禍月が、鞘の中でかすかに鳴った。
エルネが再び両手を広げる。
「隊長、ここで黒蓮隊長を斬ると、本当に報告書が大変です」
「報告書のために我慢しているわけではない」
「王国のために我慢してください」
「……分かっている」
とおるは小声でセレナに尋ねた。
「騎士団長同士って、いつもこんな感じなんですか」
「いいえ。リディア隊長とノクス隊長は特に相性が悪いです」
「でしょうね」
「記録上は、過去に七度の口論、三度の模擬戦、二度の合同任務中断、一度の研究室扉破壊があります」
「最後、何があったんですか」
「リディア隊長が、ノクス隊長の研究室で保護対象の魔獣幼体が拘束されているのを見て、扉ごと救出しました」
「めちゃくちゃリディアさんらしい」
「その後、ノクス隊長は『鍵を壊すより、合鍵を要求してほしかった』と苦情を出しました」
「怒る場所が独特すぎる」
会話の隅で、イオナが淡々と書類へ何かを書き込んでいた。
「追加記録。現地協力者、両隊長の関係性に対し常識的反応を示す」
「だから俺を記録しないでください」
「現地協力者の常識的反応は貴重です。ここにいる人員の中で、あなたの反応が最も一般市民に近い」
「嬉しいような、巻き込まれたくないような」
「両方で問題ありません」
とおるは、ため息をつきかけたところで、もう一度巨大な異形を見上げた。
冗談を言っていないと、心が持たない。
そういう種類の光景だった。
巨大すぎる死骸。
星の運命。
世界の外側。
王国機密。
黒蓮の隊長。
自分のスキル。
すべてが一本の線で結ばれようとしている気がする。とおるは、その線の中心に自分が立たされる未来を想像し、ものすごく嫌な顔をした。
村に帰りたい。
布団に入りたい。
焼き芋を食べたい。
明日の畑の水路点検だけを心配していたい。
その願いは、巨大な星骸巨躯の前では、あまりにも小さかった。
ノクスが静かに言った。
「さて、説明を始めようか。これが何なのか。この地下遺構が何のために作られたのか。そして、なぜ世界の外側から来た少年の〈壁〉が、扉に選ばれたのか」
リディアが剣から手を離さずに言う。
「余計な比喩は省け」
「努力しよう」
「信用できんな」
「正しい判断だ」
ノクスは笑った。
その笑みは、フードの男のものとは違う。
人間らしい。
人間らしいぶん、もっと厄介に見えた。
とおるは、自分の手を見た。
扉に触れた指先には、まだかすかな冷たさが残っている。
あの声は、確かに自分へ届いた。
世界の外側から来たものよ。
汝は星の運命の境界に立つことはできるか。
答えなど持っていない。
そもそも質問が大きすぎる。
偏差値七十のぼっちが、人生で受けてきたどの試験よりも範囲が広い。出題範囲、世界。解答形式、たぶん命がけ。追試、なさそう。
とおるは心の中で呟いた。
これ、村の壁修理の延長で受けていい依頼じゃない。
それでも、もう扉は開いてしまった。
巨大な異形は、眠りとも死ともつかない静けさの中で横たわっている。
星の塔の地下深部で、一行はようやく、王国が隠し続けてきた秘密の入口に立った。
そして、その秘密を語る男は、よりにもよってリディアが心底嫌っている第六華隊〈黒蓮〉の隊長だった。
世界の運命以前に、まずこの会議が無事に終わるかどうか。
とおるには、そちらのほうが差し迫った危機に思えた。




