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第5話 リディアさんを壁に埋めた件は、一生自慢しない



 本来〈間合い〉というものは、相手との距離や位置関係、武器の特性や術式の効果範囲によって流動的に変動するもので、とくに初見の立ち合いの場合はいずれの諸条件においても慎重に状況を見極める必要がある。


 剣を握る者には剣の間合いを。


 弓を扱う者には弓の間合いを。


 魔法を扱う者には、その効果範囲と発動におけるリードタイム、術式を組み上げる際の癖、魔力回路から外界へ力が流れ出す角度まで、間合いに含めなければならない。


 壁山とおるは、この三年間でそのあたりを実地で覚えた。


 森狼の突進には、牙が届く前に壁を置く必要がある。ゴブリンの投げる石には、腕の振りかぶりを見てからでは遅い。角猪の突進は軌道こそ単純であるものの、下手に真正面へ壁を出すと衝撃がこちらへ戻ってくるため、斜めに置いて流すほうが安全だった。


 つまり、戦いとは相手が何をしてくるかを読み、その行動が成立する前提条件をどこかで崩す作業であり、とおるのような防御寄りの人間にとっては、相手の間合いを理解することが生存そのものだった。


 リディア・アルヴェインは、そんなセオリーを無視するかのように歩を進めていた。


 まるで、相手と自分との間には対等な駆け引きなど存在しないとでも言うかのように。


 彼女の武器は、一見するとなんの変哲もない片手剣である。


 長さは柄を含めて一メートルに届くか届かないか。刃渡りはおよそ七十センチ前後で、取り回しの良さと斬撃の威力を両立させた、最も普遍的な武器の一つと言っていい。長剣ほど大振りではなく、短剣ほど間合いが狭いわけでもない。突く、斬る、払う、受け流す。そのどれにも対応できる反面、突出した特性を持たないがゆえに、扱い手の技量がそのまま性能として表れる武器でもあった。


 剣の名称は〈白禍月〉。


 白い刀身から迸る彼女特有の魔力は、聖属性の力を納める聖櫃とも、触れたものを白き浄火で裁く断罪の器とも言われている。


 とおるの感想としては、名前が格好よすぎる。


 白禍月。


 声に出して読みたい異世界武器名である。


 自分のスキルが〈壁〉であることを考えると、あまりにも命名格差が激しい。白禍月に対して壁。聖櫃に対して壁。断罪の器に対して壁。役所の備品管理表に並べられたら、白禍月だけフォントが金色になり、壁だけ「建材一式」の欄へ入れられそうだった。


 そんな内心のひがみをよそに、リディアは黒い扉の前に立つフードの男へ近づいていく。


 足取りは静かだった。


 鎧を身につけているはずなのに、金属音がほとんどしない。白銀の甲冑は古代遺跡の青白い光を受けて冷たく輝き、足元に落ちる影は乱れず、呼吸も変わらない。


 歩法が、美しい。


 とおるは戦闘中であることを忘れそうになった。


 彼女は一直線に詰めているようで、実際にはわずかに弧を描いている。水面に落ちた白い花弁が、風に押されるのではなく、水の流れそのものを選び取るように滑っていく。その足運びには、聖属性の鋭さだけでは説明しきれない柔らかさがあった。


 水。


 とおるの気脈感知が、その性質を拾う。


 リディアの魔力は聖属性を主としている。あの清澄な白い光、穢れを焼き、術式の淀みを断つ力は間違いなく聖なる性質のものだ。


 そこへ、ごく薄く、水属性の流れが重なっている。


 流れる。


 受け流す。


 染み込む。


 形を変えながら、なお本質を失わない。


 リディアの剣筋が昨日と違って見える理由は、そこにもあった。力で押し潰すだけではない。相手の術式を受け、読み、流し、必要な位置へ自分の刃を滑り込ませる。聖なる刃の輪郭を、水の柔らかさで包んでいる。


「二属性持ち……?」


 とおるが小さく呟く。


 隣のエルネが、目を輝かせた。


「よく気づきましたね。隊長は聖属性の印象が強いですけど、厳密には聖属性を主軸に、水属性の回路を副脈として併用しています。公式記録では聖属性特化型とされていますけど、実際の戦闘では水属性の補助制御がかなり重要で、白禍月との相性が非常に」


「解説助かりますけど、今それ聞いてる場合ですか?」


「研究者としては常に聞いてほしいです」


「研究者の欲求、場面を選ばなすぎる」


 リディアが前方で低く言った。


「静かにしろ」


「はい」


 とおるとエルネは同時に口を閉じた。


 フードの男は、杖を斜めに構えていた。


 彼の右手に集まる魔力は、色がない。


 少なくとも、属性特有の色彩がない。炎なら熱の赤、氷なら蒼、水なら流れる透明感、土なら重い黄褐、風なら軽く揺らぐ緑、聖なら白、影なら黒。もちろん術者によって差はあるものの、属性魔力には必ず性質がにじむ。


 フードの男の魔力は、無色だった。


 無属性。


 この世界では、無色の魔力とも呼ばれる属性である。


 本来、無属性は万能に近い柔軟性を持つ一方、属性由来の爆発力に欠ける。炎のように燃え広がることも、水のように形を変えることも、聖属性のように浄化や断罪へ特化することもない。どんな魔力にも干渉できる反面、際立った特性を持たないため、術者本人の技量、魔力操作の精度、術式構築の発想力がそのまま強さへ直結する。


 地味に見えて、極めれば恐ろしい。


 とおるはそこに妙な親近感を覚えかけ、すぐにやめた。


 自分の〈壁〉も、地味に見えて応用が利く能力だ。フードの男の無属性も、地味な基礎能力を極めたタイプに近い。つまり同じ地味枠。そう考えると、一瞬だけ仲間意識のようなものが芽生えそうになったものの、相手から発せられる気配があまりにも不気味すぎて、芽は土に戻った。


 同じ地味でも、こちらは村の修繕に使える庶民派地味。


 向こうは古代遺跡の深部で黒い扉から出てくる危険物地味。


 所属するジャンルが違う。


「妙だな」


 リディアが言った。


 彼女も感じ取っているらしい。


 男の魔力は、単なる無属性では説明できない。無色でありながら、流れの端が歪んでいる。術式の輪郭が、空間そのものへ指をかけようとしている。とおるの〈壁〉が境界へ反応するように、男の術式もまた、世界の継ぎ目に触れようとしていた。


「お前の魔力は無属性に近い。けれど、純粋な無属性ではない」


「おや、さすがですねえ」


 フードの男は嬉しそうに笑った。


「人間の術式分類では、そこまで読み取れれば上出来でしょう」


「その口ぶり、やはり人間ではないのか」


「さあ。人間という言葉の定義にもよります」


「面倒な返答だな」


「褒め言葉として受け取っておきましょう」


 リディアの足が止まる。


 距離は十歩。


 片手剣の間合いとしては遠い。


 魔法の間合いとしては近い。


 フードの男にとっては、術式を放つにも、罠を仕掛けるにも、相手を観察するにも都合のいい距離。リディアにとっては、踏み込めば届く距離。とおるにとっては、できればあと百歩ほど離れて眺めたい距離だった。


「来ないのですか?」


 男が挑発する。


「来てほしいのか」


「歓迎しますよ。白華の隊長殿を迎える準備くらいは整えています」


 男の足元に、無色の魔力陣が広がった。


 線が見えない。


 光もない。


 ただ、空間の密度だけが変わった。透明な板を何枚も重ねたような歪みが床の上に生まれ、リディアの進路を塞ぐように配置されていく。


 とおるは目を細めた。


 あれは壁ではない。


 近いけれど違う。


 空間の表面を引っ張り、薄く畳み、踏み込んだものの動きをずらす術式。罠であり、結界であり、干渉場でもある。普通の剣士が踏み込めば、足の位置と身体の位置がわずかに食い違い、重心を崩される。そこへ男の攻撃が重なれば、対応は難しい。


「足元、歪んでます!」


 とおるが叫んだ。


「分かっている」


 リディアは進む。


 とおるは思わず口を開けた。


 彼女は歪んだ床を避けなかった。踏まない位置を探すのでもなく、壁で防ぐのでもなく、罠があると理解したうえで、その中心へ足を置いた。


 白い靴底が、無色の歪みに触れる。


 広間の床が水面のように揺れた。


 リディアの身体は崩れない。


 むしろ、揺れに合わせて滑る。足首がわずかに沈み、膝がしなやかに角度を変え、腰がぶれず、肩は静かなまま。歪みに抵抗していない。罠を力で踏み抜くのではなく、水の上に浮かぶ花弁のように、揺れそのものへ身を預けて進んでいる。


 フードの男の笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。


「器用ですねえ」


「その程度か」


「試しただけですよ」


「なら、こちらも試す」


 リディアの剣が動いた。


 速い。


 斬撃が一つ放たれたように見えて、実際には三つの軌道が重なっていた。正面からの袈裟斬り、半拍遅れて足元を払う横薙ぎ、さらに剣先だけが跳ね上がる突き。白い魔力が残像を生み、広間の空気へ花びらのような軌跡を散らす。


 男は杖で受けた。


 金属音は鳴らない。


 杖の先に無色の膜が生まれ、白禍月の刃をわずかに逸らす。完全に止めるのではなく、角度を変え、斬撃の力を空間の歪みへ逃がす。高度な防御だった。


 リディアは追撃する。


 男は下がる。


 二人の距離が伸びたかと思えば、リディアの歩法が半円を描いて距離を潰し、男が無色の術式で空間を折るようにして位置をずらす。剣と杖、白と無色、聖水の魔力と歪んだ魔力波が、古代都市の広間で何度も交差した。


 とおるは見ているだけで忙しかった。


 正直、戦闘観戦に実況解説がほしい。


 いや、エルネが隣にいるので解説はあるかもしれない。あるかもしれないけれど、彼女の解説は学術的すぎて、聞いた直後に「つまり?」と聞き返したくなる可能性が高い。


「今の何ですか?」


 とおるは小声で尋ねた。


「隊長が相手の無属性干渉場を水属性の副脈で受け流しつつ、聖属性の刃を三層に分けて術式圧をかけました。相手は空間屈折を防御膜に転用して、斬撃の衝撃を床の回路へ逃がしています」


「つまり?」


「すごいです」


「最初からそれでお願いします」


 リディアと男の攻防は、徐々にリディア側へ傾き始めていた。


 最初、男は余裕を見せていた。未知の術式、遺跡との接続、無属性に似た歪んだ魔力、空間干渉の罠。初見であれば、どれも致命的な要素である。


 リディアは、それらを一つずつ見切っていく。


 足元の歪みは、水の歩法で流す。


 杖から放たれる無色の弾は、剣の腹で角度を逸らす。


 背後に回り込む干渉波は、聖属性の薄い膜で焼き切る。


 男が遺跡の床から魔力を吸い上げようとすれば、その接続点を白禍月の剣先で軽く打ち、流れを乱す。


 それは派手な力押しではなかった。


 精密。


 冷静。


 美しいほど容赦がない。


 とおるは、あらためて昨日の自分がどれほど危うい橋を渡ったのかを思い知った。あれは勝利というより、巨大な猛獣が欠伸をしている最中に、偶然鼻先へ洗濯ばさみを挟んで逃げ切ったようなものだった。


 調子に乗ってはいけない。


 心の中のメモ帳に赤字で書き足す。


 リディアさんを壁に埋めた件は、一生自慢しない。


 むしろ忘れる。


 自分が忘れても村の少年が覚えている気がするので、帰ったら教育方針を見直す。


「退屈ですねえ」


 フードの男が言った。


 杖を振る。


 無色の魔力が広間の空間を撫で、リディアの周囲に細い亀裂のような歪みがいくつも生まれる。


「あなた方人間は、いつもそうだ。世界の表面だけを撫で、浅い理屈に名前をつけ、自分たちが理解したと思い込む」


「喋る余裕があるなら、名乗れ」


「名乗るほどの名は、もう残っていませんよ」


 男の声が、初めてわずかに低くなった。


「私たちは、奪われた名の残響にすぎない」


 リディアの目が鋭くなる。


「私たち、か」


「おっと」


 男は笑った。


「口が滑りました」


「その口ごと拘束する」


「怖い方だ」


 男の杖から、無色の刃が何本も生まれた。


 刃というより、空間を薄く剥いだ断片。見えない刃が光の屈折だけを残し、リディアへ向けて四方から飛ぶ。正面、側面、頭上、足元。単純な回避では逃げられない配置だった。


 とおるは壁を出そうとした。


 リディアの声が飛ぶ。


「動くな」


「でも!」


「見ていろ」


 彼女は剣を構え直した。


 白禍月の刀身に宿る白い光が、静かに薄くなる。


 弱まったのではない。


 分かれている。


 刃の輪郭が、霧へほどけていく。


 とおるは目を見開いた。


 剣が消えていく。


 白い刀身が、聖属性と水属性の魔力に分解され、細かな霧となってリディアの周囲へ広がる。水の粒子のようであり、光の粉のようでもあり、触れれば切れると直感できるほど研ぎ澄まされた微細な刃の群れ。


 リディアの呼吸が、静かに整う。


 広間の空気が白く霞む。


「——スキル展開」


 彼女は、刃を振り上げるでもなく、声を張るでもなく、ただ自分の呼吸を一段深く沈めるようにして、低く告げた。


「〈白露〉」


 その瞬間、リディアの周囲にあった空気の質が変わった。


 光が変わり、温度が変わり、距離の感覚が変わる。


 白禍月の刀身がまるで月光の中でほどける絹糸のように音もなく分解され、無数の微刃となって彼女の周囲へ散っていくと、その一つ一つは目で追えるほど大きくも鋭くもなく、むしろ存在しているかどうかさえ疑わしいほど細かく薄いのに“そこに確かに刃がある”のだと肌だけが理解してしまう。見えるのは、空気中で白い光がかすかに散り、粒となり、霧となり、リディアを中心に静かに漂う様子だけだった。白い花弁が朝露に濡れ、風もないのに震えているようにも見える。月明かりの下で眠っていた霧が、彼女の呼吸に合わせて目を覚ましたようにも見える。あるいは世界そのものが彼女のために薄い白銀の帳を下ろし、その内側へ入る者すべてを神聖な裁きの場へ招き入れているようにも見えた。


 美しい。


 圧倒的に、美しい。


 ただしその美しさの中身が、三百六十度全方位自動斬撃領域であることを除けば。


 とおるは心の中で叫んだ。美しさと殺意の同居がすごいというか、一言で言えば白い霧のセキュリティシステム。自分の〈壁〉が村の大工爺さんに相談しながら手作りした防犯柵だとすれば、リディアの〈白露〉は、王都の最新魔導警備網に神殿の祝福と聖騎士団長本人の冷静な殺意と、ついでに国宝級の美的センスまで混ぜ込んだような代物だった。


 だが〈白露〉の本質は、単に白禍月を霧状の刃へ変えることではない。リディアの魔力回路から放たれた聖属性の魔力が白禍月という媒体を通して極限まで薄く、細かく、均一に分割され、それぞれが独立した刃でありながら、彼女の呼吸、視線、重心、剣の記憶に従って一つの領域として連動する。つまり、刃が増えたのではない。リディアという剣士の間合いそのものが、霧の形を取って外界へ展開されたのだ。通常、剣の間合いとは腕の長さと踏み込みの距離によって決まるが、〈白露〉が展開された瞬間にその常識はつゆを祓うように消える。リディアの刃が届く距離とはもはや白禍月の刀身が物理的に届く範囲ではなく、彼女の呼吸が届き、魔力が満ち、敵意を感知した白露が反応できる範囲すべてを意味する。


 フードの男が放った無色の刃が、その白い領域へ踏み込んだ。いや、踏み込まされた、と言うべきかもしれない。見えない術式の刃がリディアの首筋へ向かって走り、同時に側面から別の刃が肋骨を狙い、頭上から薄い圧力が落ちながら足元からは魔力回路そのものへ干渉しようとする波が忍び寄る。それらはどれも、普通の騎士ならば一つ防ぐだけで精一杯の、角度も性質も異なる攻撃だった。だが、白露は反応した。音はほとんどない。霧がほんのわずかに揺れながら白い線が無数に走り、見えない微刃が侵入してきた術式を形として成立している部分からではなく、形になる前の継ぎ目から細かく刻んでいった。正面から来た刃は白い粒子に削られて輪郭を失い、側面の刃は微細な斬撃に挟み込まれて砕け、頭上から落ちた圧力は霧の膜に絡め取られる。足元から這い上がろうとした干渉波は、リディアの靴先へ届くより先に白い光の粒へ分解されて消える。


 攻撃だけではない。防御でもある。防御だけでもない。そこは〈領域〉だった。リディアの周囲に薄い膜として広がった白露は、背後、側面、頭上、足元、そのすべてを覆い尽くし、敵意ある魔力、殺気を帯びた術式、不自然な空間の歪み、刃として成立する直前の力の流れを、彼女自身が振り向くより早く感知する。刃は彼女の手元にあるのではない。霧の一粒一粒が彼女の剣であり、目であり、盾であり、呼吸だった。ひとたび展開されれば、そこはもはや白禍月の刀身が届く距離ではない。リディアの呼吸が届く範囲すべてが、白禍月の刃となる。


 フードの男が後退した。初めて、明確に下がった。これまでは距離を取っていたのではなく、間合いを調整していたにすぎない。しかし今の後退には、わずかに判断の遅れがあった。


「これは……」


「遅い」


 リディアが踏み込む。白露が、彼女の歩みに合わせて広がる。雪原に朝日が差し込むように、あるいは白い月光が床を滑るように、その領域は静かで速く、拒絶の余地がなかった。男が杖を振り、空間の歪みを何層も重ねる。リディアの前に透明な壁のような干渉場が生まれた。とおるにはそれが見えた。壁に近いがとおるの〈壁〉よりずっと薄く、ずっと狡猾で、世界の表面そのものを少しだけ捻じ曲げ、こちらの攻撃が届くはずの距離をずらしながら刃が通るはずの道を迷わせるような〈術式〉だった。


 リディアは止まらない。白露が干渉場に触れながら霧が線になる。線が刃になる。刃が、歪みの継ぎ目を見つける。


 無数の微細な斬撃が透明な層へ同時に触れ、力任せに叩き割るのではなく術式が世界へ縫い留められている部分を探し出し、一糸ずつ切りほどいていく。


 第一層が裂ける。第二層がほどける。第三層は逃げるように歪んだが、白露の一部がそれを追い、薄皮を剥ぐように削り取った。第四層は反発したものの、リディアの足運びが半歩変わった瞬間、霧の流れが角度を変え、反発の力そのものを斬撃の導線へ変えてしまう。力で破っているのではない。速さで押し切っているのでもない。リディアは敵の術式の縫い目を、呼吸の間に切っていた。


「やば……」


 とおるは、あまりにも素直な感想を漏らした。


「何がですか?」


 隣で測定器を抱えていたエルネが、目を輝かせたまま聞く。


「かっこよすぎます」


「分かります」


「そして怖すぎます」


「それも分かります」


 白露の中で、リディアはさらに一歩進む。その一歩は静かだったが、戦場の意味を変えるには十分だった。男が築いた透明な干渉場はいまや守りではなく、切り裂かれる順番を待つ薄い層にすぎない。白い霧は美しく清らかで、あまりにも冷たい。朝露という名を持ちながら、それは花を潤すためのものではなく、敵の術式を濡らし、重くし、ほどき、最後には音もなく断ち切るための、リディア・フェルヴァインという騎士の完成された間合いそのものだった。


「隊長の〈白露〉圏内へ不用意に入った者は、訓練用の木剣であっても三秒以内に武器を失う」


「三秒」


「腕の良い者なら五秒もつ」


「伸び幅が悲しい」


「生きていれば上出来だ」


 とおるは、リディアの背中を見ていた。白い霧をまとい、古代都市の床石に刻まれた青白い光の上で剣を振るう彼女の姿は、もはや王国聖騎士団長という肩書きだけでは収まりきらず、古い神話の奥から現代へ歩み出てきた断罪者か、失われた時代の罪を白い刃で数え直すために遣わされた月光の化身のようであり、昨日の壁事件さえなければ本当に非の打ちどころのない聖騎士そのものだった。いや、あの事件があったとしても彼女が聖騎士であることに変わりはない。変わりはないのだが、とおるの記憶が勝手に集会所の外壁へ封じ込められた女騎士団長という英雄譚にあるまじき画像を添付してくるだけで、いま目の前にある彼女の強さも、美しさも、研ぎ澄まされた殺気も、疑いようのない本物だった。


 フードの男が残った手で杖を握り、床へ深く突き立てた瞬間、遺跡全体に走っていた青白い光が誰かに息を吹き消された灯火のように一斉に暗くなった。黒い扉から無色の魔力が音もなく流れ込み、男の背後で巨大な輪を形作る。輪の内側では空間がねじれ、遠くの星空のようにも、光の届かない深い海底のようにも、あるいはこの世界のどこにも存在しない裂け目の向こう側のようにも見える景色が、一瞬だけ揺らめいた。


「開け、失われし門よ」


 男が詠唱する。


「名を奪われ、形を奪われ、それでも眠りを拒む者たちのために――」


「させるか」


 リディアの声が、白露の中から鋭く響いた。


 彼女は剣を振っていない。白禍月の刀身はすでに白い霧となって彼女の周囲へ展開され、目に見える一本の刃としての形を捨てている。それでも、白露は斬った。リディアの視線が男の右腕を捉え、呼吸が一つ、静かに整い、その一拍の中で白い霧は男の右肩から手首へ至る魔力の流れ、詠唱を支える指先の緊張、杖へ術式を送り込むために集中している回路の結び目を読み取った。フードの男が術式を完成させるより早く、白露の微刃が殺到する。音は驚くほど軽かった。肉を断つ重い音ではなく、布を裂くような、紙を切るような、あるいは朝露に濡れた蜘蛛の糸を指先で払うような、あまりにも静かで、あまりにも冷たい音だった。


 フードの男の片腕が、杖ごと床へ落ちた。


 けれど、血はほとんど出なかった。断面からこぼれたのは赤ではなく、黒銀色の霧であり、床へ落ちた腕は数秒と形を保てず、指先から輪郭を失いながら外套の袖ごと黒銀の粒子となって崩れていく。とおるは思わず口を押さえた。


「人間じゃない……?」


 腕を落とされた男は、呻かなかった。痛みに顔を歪めることもなく、膝をつくこともなく、フードの奥でむしろ楽しげに笑っていた。リディアは白露を維持したまま、男の首筋へ霧の刃を向ける。白い粒子の一つ一つが、首を落とすための刃にも魔力回路を断つための針にも、逃走経路を封じるための結界にもなれる位置で静かに漂っていた。


「終わりだ」


「ええ、ひとまずは」


「最後に言うことはあるか」


 フードの男は、ゆっくりと顔を上げた。影の奥に、目があった。人間の目ではない。光を反射しない黒い瞳の中心に小さな星のような銀点が浮かんでおり、とおるはそれを見た途端、星の塔の外殻に走っていた黒い溝と地下広間の天井に浮かぶ無数の光点を思い出した。あれは瞳だったのではないか、と考えた瞬間、背筋に冷たいものが走る。男は笑う。楽しげに、満足げに、そして何かを成し遂げた者だけが浮かべる、ひどく落ち着いた顔で。


「すでに神々は、深い眠りから目を覚ましました」


 広間が沈黙した。遺跡の奥で低く脈打っていた魔力音すら、その一言を聞くために止まったように感じられた。リディアの表情が険しくなる。


「何を言っている」


「人間の王国が封じたと思い込んでいたものは、封印などではありません。ただの寝台ですよ。あなた方は眠る巨人の周りへ柵を立て、危険区域と札を貼り、自分たちが世界を管理していると信じていたにすぎない」


「神々とは何だ」


「あなた方が、そう呼んだのでしょう?」


 男の身体に亀裂が走った。それは皮膚が裂けるというより、術式の表面にひびが入るような崩れ方であり、外套も、身体も、影も、すべてが一枚の薄い仮面だったかのようにまとめて割れていく。内側から黒銀色の光が漏れ、男という形を保っていた魔力の輪郭が端から崩壊を始めた。


 エルネが叫ぶ。


「隊長、魔力構造が自壊しています! 拘束は難しいです!」


「止められるか」


「無理です。術式核がありません。これは本体ではなく、遠隔構成体か、あるいは何かの端末です!」


「端末……?」


 とおるは呟いた。


 嫌な単語だった。敵本人ではなく遠隔操作の人形か、分身か、通信越しの投影体のようなもの。つまりここで倒したところで本体は別の場所にいて、こちらが命がけで戦った結果として得られるものは、壊れた端末と、不穏な台詞と、より面倒な本編開始の合図だけということになる。ゲームで言えば序盤に現れる謎の幹部が、プレイヤーの前に投影体だけを差し向け、意味深な単語をいくつもばらまいた挙げ句、「いずれ分かる」みたいな顔で消える、非常に迷惑なイベントである。


 リディアは白露を収束させようとした。男が、崩れかけた首をわずかに傾ける。


「我々の復讐は、もう始まっています」


「我々、だと」


「白華の娘。境界の少年。あなた方は、よい時代に生まれましたねえ」


 男の視線が、とおるへ向いた。


 とおるの心臓が跳ねる。黒い瞳の中心に浮かぶ銀点が、まるで遠い星ではなくこちらを観測するために開いた小さな穴のように見えたからだ。名前を呼ばれたわけではない。壁山とおると告げられたわけでもない。それでも、境界の少年、という言葉は、彼の〈壁〉の奥にある、まだ自分自身でも触れきれていない部分を冷たい指でなぞったような響きを持っていた。


「え、俺ですか」


「壁を持つ者。あなたはきっと、扉の前に立つことになる」


「人違いでお願いします」


「人違いではありませんよ」


「自己紹介もしてないのに断定しないでください」


 男は楽しそうに笑った。


「その壁は、閉ざすためのものか、開くためのものか。いずれ分かります」


 言葉の終わりとともに、フードの男の身体が崩れた。


 黒銀の粒子がほどけ、外套の輪郭が消え、床へ落ちたはずの杖も腕も、砂のように細かく砕けていく。白露の刃が届くより早く、男は自らの構造を壊し、跡形もなく消え去った。


 広間には、静寂だけが残る。


 青白い光が、ゆっくりと元の明るさを取り戻す。


 リディアは白露を解除した。


 霧となっていた白禍月の刀身が、彼女の手元へ集まり、再び一本の白い剣として形を結ぶ。まるで朝露が月光を集めて刃へ戻るような光景だった。とおるは素直に感動した。


「……すごいですね、そのスキル」


 リディアは振り返る。


「軽い感想だな」


「語彙が焼き切れました。今の俺には、すごい、かっこいい、怖い、の三種類しか残っていません」


「最後は不要だ」


「正直な感想なので」


 リディアは剣を鞘へ収めず、広間の奥を見た。


 先ほどフードの男が出てきた黒い扉。


 そのさらに向こう側。


 そこから、異様な気配が流れてきている。


 最初は微かな震えだった。


 床の光が揺れ、黒水晶の柱の内部で白い粒子が一斉に下へ沈み、天井の星図がゆっくりと軌道を変える。広間全体が、何か巨大なものの鼓動に合わせて反応しているようだった。


 低い音がする。


 地鳴りではない。


 魔力波でも、風でもない。


 眠っていた何かが、ゆっくり寝返りを打つような、あまりにも大きな気配。


 とおるの気脈感知がその奥にあるものを捉えきれず、逆に頭の内側を白く染めた。大きすぎる。強すぎる。魔物でも人間でも術式でもない。山に心臓があり、星に骨があり、古代都市そのものが一体の生き物だったとでも言われたほうが、まだ納得できる。


 彼は無意識に一歩下がった。


「リディアさん」


「何だ」


「今度こそ帰りませんか」


「無理だ」


「俺もそう思いました。言うだけ言ってみたかったんです」


 エルネの測定杖が、甲高い音を立てて割れた。


 彼女は目を丸くする。


「……測定不能です」


「面白いか」


 リディアが聞く。


 エルネは割れた水晶を見つめたまま、珍しく笑わなかった。


「いいえ。これは、面白がる段階を越えています」


 その一言で、とおるの胃はさらに冷えた。


 研究者が面白がらない異常。


 それは、素人が怖がる異常より何段階も上にある。


 セレナが聖印を握りしめ、小さく祈りの言葉を唱える。マルクは盾を構え直し、リディアの前へ半歩出ようとして、彼女に手で制された。


 リディアは黒い扉の奥を見据える。


「進むぞ」


「今の流れでですか」


 とおるは思わず声を裏返した。


「今の流れだからだ」


「騎士団長の論理、勇敢すぎて一般村民には消化できません」


「お前は一般村民ではない」


「村の便利な壁係です」


「その壁係が、敵に名指しされた」


「名指し料金を請求したいです」


「ふざけている余裕があるなら歩け」


「ふざけていないと歩けないんです」


 リディアは一瞬だけ、とおるを見る。


 その表情は厳しい。


 けれど、昨日までのような苛立ちだけではなかった。彼が怖がっていることを理解し、そのうえで連れて行くと決めた者の顔だった。


「私の側を離れるな」


「それは安全だからですか」


「危険物の管理も兼ねている」


「また俺側の扱い」


「それに」


 リディアは、ほんの少しだけ声を低くした。


「お前の壁が必要になる気がする」


 とおるは返事に詰まった。


 黒い扉の奥から、再び低い鼓動が響く。


 星の塔の地下。


 神々が眠ると呼ばれた古代都市の深部。


 そこに何が封じられているのか、とおるはまだ知らない。


 知らないままでいたかった。


 心からそう思った。


 それでも村の地下へつながるかもしれない遺跡で、王国が三百年、あるいは千年かけても理解できなかった何かが目覚めようとしているなら、見ないふりをして帰るわけにはいかない。


 平和な村暮らしは、何もしなければ守れない。


 とおるはそれを、もう知っている。


 彼は深く息を吸い、頭の中で自分のステータスを確認した。


 レベル四十二。


 スキル〈壁〉。


 同時展開可能数、三枚。


 精神状態、できれば帰りたい。


 最後の項目は、相変わらず正式表示ではない。


 正式表示ではないものの、精度は非常に高かった。


「分かりました」


 とおるは言った。


「行きます。ただし、本当に危なくなったら、全力で壁を出します」


「許可する」


「妙な場所に出たらすみません」


「それは許可しない」


「善処します」


「誓え」


「誓います」


 リディアはうなずき、白禍月を手に黒い扉へ向かった。


 とおるはその隣に並び、できればこの先に待っているものがただの大きな石像であってほしいと願った。


 巨大な石像なら、まだいい。


 動かなければ観光資源になる。


 動いたら困る。


 目から光線とか出たら、かなり困る。


 腕が六本あったら、もっと困る。


 心の中でくだらない想像を並べながら、彼は扉の奥へ足を踏み入れた。


 その先から流れてくる気配は、もはや敵意ではなかった。


 もっと古く、もっと重く、もっと巨大なもの。


 眠りから覚めた神々の息吹が、暗い通路の奥で静かに揺れていた。


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