第4話 会話する気はなさそうだな
とおるが頭の中で可視化できる【ステータス】は、まさにRPGで目にしてきた細かい項目がずらっと並び、その一つ一つに数値が添えられている“ゲーム画面のアレ”そのものである。
名前、レベル、体力、魔力、力、耐久、器用、素早さ、精神、知覚、属性適性、スキル熟練度。
最初に見たときは、異世界転移という状況に半分泣きそうになりながらも、心のどこかで「うわ、本当にステータス画面だ」と少しだけ興奮した。前世で育ててきた数多のゲーム主人公たちが、ようやく自分にもメニュー画面を開く権利を与えてくれたような気がしたのである。
とはいえ、その数値が何を基準にしているものなのか、とおるはいまだに正確には把握できていなかった。
たとえば【力】が一〇〇あったとして、それは成人男性の平均を一〇とした数値なのか、村の農夫を基準にしているのか、騎士団員を基準にしているのか、あるいは世界そのものが「なんとなくそれっぽい数字」を表示しているだけなのか、さっぱり分からない。
上限があるのかも不明。
他人の数値を確認する方法も不明。
自分の【耐久】が上がったからといって、石を頭に落として検証する勇気もない。
実用性という意味では、非常に便利そうに見えて、肝心なところで説明書を紛失している家電製品のような立ち位置だった。
それでも、三年間の辺境生活で少しずつ見えてきたことはある。
ステータスの各項目は、単独で完結しているわけではない。
【力】は筋肉だけではなく、魔力を肉体へ流す効率と関係している。【耐久】は骨や皮膚の硬さだけではなく、受けた衝撃を魔力回路がどう逃がすかにも影響している。【素早さ】は足の速さに留まらず、神経の反応速度、魔力詠唱の立ち上がり、術式へ意思を通すまでの遅延にも深く関わっているらしい。
もちろん、すべてはとおるの推測である。
研究設備もなければ、比較対象も少ない。辺境の村で、森狼やゴブリンを相手に壁を出し、畑の水路を直し、鍋の蓋にスキルを使い、たまに近隣都市のギルドで資料を漁る程度では、学術論文など書けない。
それでも彼は、地味に、しつこく、陰キャ特有のひとり作業耐性を最大限に活かして、自分なりの魔力理論を積み上げてきた。
レベル三〇を越えたあたりから、村周辺の魔物では経験値の伸びが極端に鈍くなった。
最初の頃は、スライムを倒してはレベルが上がり、角兎を追い払っては数値が伸び、森狼を撃退しては「お、成長している」と実感できた。初心者ボーナスのような時期である。
そこを過ぎると、世界は急に渋くなった。
倒しても倒しても、経験値の伸びは牛歩。
雨の日も、風の日も、村の柵を直した帰りに魔物を追い払い、森の浅い場所で危険種を狩り、たまにギルド依頼で遠出をし、数週間、時には数ヶ月かけて、ようやくレベルがひとつ上がる。
ゲームならコントローラーを置いていた。
現実なので置くものがなかった。
結果、とおるは悟った。レベルとは目安であり、数字だけを追うものではない。むしろ、スキル熟練度、魔力の流し方、属性との相性、術式を組み立てる感覚、そのあたりの積み重ねこそ生存率を大きく左右する。
そして、彼が三年間で得た最も大きなものは、レベル四〇台という数字でも、簡単な魔法の扱いでもなく、気脈と呼ばれる感知能力だった。
気脈。
魔力特有の波。
魔素の粒子そのものが空間を渡る流れ。
熟練した騎士や魔導師にとっては、基本中の基本なのかもしれない。剣士が相手の重心を見るように、狩人が獣の足跡を読むように、魔力を扱う者は、空間に流れる気脈を読む。
とおるにとって、それは索敵能力だった。
魔物が藪の向こうにいるかどうか。
相手が術式を発動しようとしているかどうか。
魔力の流れが乱れている場所に、罠や封印がないかどうか。
完全ではない。むしろ曖昧な感覚であり、風向きや体調によっても精度は揺れる。それでも、何も知らずに飛び込むよりは遥かにましだった。
星の塔の地下遺跡に入る前から、とおるは気脈を探るための意識を薄く広げていた。
それは、指先で暗闇の中の糸を探るような感覚に近い。
青白い光を走らせる床。
星図のような天井。
音もなく呼吸するような古代都市。
そして黒い扉の向こうに立つ、謎の先客。
そこから流れてくる〈それ〉は、とおるが今まで感じたこともないほど、悍ましく、濃く、純度が高かった。
人間の魔力には、揺らぎがある。
感情、呼吸、疲労、緊張、経験、癖。どんなに訓練された者でも、魔力の流れには本人らしさがにじむ。リディアの聖魔力でさえ、普段は薄く抑え込まれていても、奥の方に真っ直ぐ研ぎ澄まされた剣のような気配がある。
黒い扉の向こうから現れたフード姿の人物には、その“人間らしい揺らぎ”が薄かった。
魔力はある。
むしろ、ありすぎる。
深い井戸の底から湧き上がる水のように、絶え間なく、静かに、嫌なほど澄んでいる。濁っていない。淀んでもいない。清らかに近いほど高純度でありながら、触れた瞬間に皮膚の内側を凍らせるような気持ち悪さがある。
とおるの脳内警報は、全力で鳴っていた。
攻略対象ではありません。
初見殺しの可能性があります。
推奨レベルが足りません。
今すぐセーブしてください。
残念ながら、現実にはセーブポイントがない。
黒い扉の前に張られたとおるの〈壁〉が、青白い光を受けてわずかに揺れた。
その向こう側から、フードを目深にかぶった人物が姿を現す。
背丈は人間と同じ程度。細身。長い外套の裾が床を擦り、右手には古びた杖のようなものを持っている。顔はフードの影で見えない。口元だけが薄く笑っており、その笑みは礼儀正しい商人にも、相手を解体する前の研究者にも見える、非常に近づきたくない種類のものだった。
「おやおや、お早い到着ですねえ」
声は男のものだった。
高くも低くもない。柔らかく、飄々としていて、聞く者の警戒心を撫でるような調子。相手を挑発するために大声を出すでもなく、怯えるでもなく、まるで予定より少し早く来た客を出迎える宿屋の主人のようだった。
「もう少し、王国の皆さまには森で迷っていただけると踏んでいたのですが。いやはや、白華の隊長殿は仕事熱心でいらっしゃる」
リディアは剣を抜いたまま、一歩も動かなかった。
表情には焦りがない。
青い瞳は、相手の手元、足運び、魔力の流れ、背後の扉、広間の地形を順番に見ている。とおるが見る限り、彼女は不気味な侵入者を前にしても、昨日と同じ人物とは思えないほど静かだった。
昨日と同じ人物ではある。
壁に埋まった事実も消えていない。
消えてはいないけれど、今この場でその記憶を取り出すほど、とおるも愚かではなかった。
「お前は誰だ」
リディアの質問は短い。
余計な飾りも威圧の演出もない。必要な情報だけを取りに行く、鋭い刃のような問いだった。
フードの男は肩をすくめる。
「名乗る義務はありませんねえ」
「ここは王国が指定した隔離地域だ。許可なき侵入は認められない。身元を明かし、杖を捨て、こちらの指示に従え」
「隔離地域」
男はその言葉を舌の上で転がすように繰り返した。
広間の青白い光が、彼の外套の端を淡く照らす。
「王国の皆さまは、本当に名前をつけるのがお好きですねえ。塔、遺跡、隔離地域、第一級古代遺構。名前をつけ、線を引き、印を貼り、所有したつもりになる」
「警告は一度で十分か」
「そもそも、ここはあなた方の所有物ではありませんよ」
男の声は落ち着いていた。
柔らかく、丁寧で、礼節さえ感じさせる口調。そのくせ、言葉の底には王国という枠組みそのものを見下す冷たさがあった。人間の作った札や封鎖印など、蟻が落ち葉へ書いた通行禁止の文字に等しいと言わんばかりに。
リディアは剣をわずかに下げた。
攻撃の準備ではなく、重心を変えたのだと、とおるには分かった。踏み込みやすい姿勢。いつでも前へ出られる角度。剣士としての動きが、美しいほど無駄なく整っている。
「会話する気はなさそうだな」
「私は会話しているつもりですよ。あなた方が摘発、拘束、所有権の主張、そういった人間らしい儀式を始めるので、少しばかり温度差を感じているだけです」
「人間らしい、だと」
リディアの瞳が細くなる。
フードの男は笑みを深めた。
「ええ。人間如きが、我々を“摘発する”とでも言うのでしょうか?」
その言葉が広間に落ちた瞬間、空気がわずかに歪んだ。
男の右手へ、魔力が集まり始める。
とおるの気脈感知が、その流れを捉えた。通常の術式構築とは違う。普通の魔導師は、魔力を体内回路から手や杖へ流し、詠唱や印によって形を与える。彼の場合、右手へ集まっている魔力は、体内から出ているというより周囲の遺跡そのものから吸い上げられているように見えた。
広間の床を走る青白い線が、ほんの少し暗くなる。
黒水晶の柱の内部で舞っていた白い粒子が、風に流されるように男の方へ傾く。
男の杖の先端に、黒と銀が混ざった渦が生まれた。
高すぎる。
純度が、あまりに高すぎる。
とおるは喉の奥が乾くのを感じた。
村周辺で出会った魔物の魔力は、もっと粗かった。森狼なら獣臭く、ゴブリンなら濁り、角猪なら突進方向へ偏る。ギルドで見かけた腕利きハンターにも強い魔力の者はいたものの、人間らしい熱や呼吸があった。
目の前の男は違う。
冷たい。
整いすぎている。
まるで、誰かが魔力という素材から不純物だけを削ぎ落とし、代わりに生き物らしさまで奪ってしまったような流れだった。
とおるは無意識に術式を組み始めていた。
〈壁〉。
対象と空間の間に境界を差し込む。
とりあえず、男の右手と一行の間に厚い壁を一枚。
さらに、リディアの側面へ防御用の薄い壁を一枚。
可能なら、男が遺跡から魔力を吸い上げる経路そのものへ、細い壁を差し込む。
頭の中で三枚の配置図が組み上がる。魔力回路に負荷がかかり、指先が冷たくなる。戦闘前の焦りが、足元から首筋へ這い上がってきた。
「待て」
リディアの声が、とおるの術式構築を止めた。
彼女は振り向かない。
右手だけをわずかに後ろへ掲げ、待機を命じる。
「ここは私に任せろ」
「でもッ!」
とおるは思わず声を上げた。
危険だ。
あの男は普通ではない。
そう言おうとしたものの、言葉がまとまる前に、エルネが口を挟んだ。
「大丈夫ですよ、壁山さん」
魔導測量士エルネは、先ほどまで測定杖へ視線を落としていた顔を上げる。
いつもの研究者めいた好奇心は残っている。残っているものの、その声には奇妙な確信があった。
「彼女がここに来た以上、私たちが遂行できない任務はありません」
「いや、言い切り方が強すぎません?」
「事実です」
「俺、昨日その人に勝ったことになっているんですけど」
「それは隊長が村人相手に出力を極端に抑え、相手の術式系統を初見で見誤り、さらに壁山さんの能力が想定外の境界干渉を起こし、最後に状況が非常に珍妙な方向へ転がった結果です」
「説明が正確すぎて、こっちも傷つくんですが」
リディアのこめかみが小さく動いた。
「エルネ」
「はい」
「余計な分析はあとにしろ」
「了解しました。記録官にも今の分析は残さないよう伝えておきます」
セレナが羽ペンを止めた。
「残念です」
「本当に残そうとしていました?」
「歴史的価値がありますので」
「歴史に残さないでください。俺も困ります」
広間の空気は危険で満ちているのに、味方側の会話だけ妙に生活感がある。
フードの男は、そのやり取りを楽しげに眺めていた。
「ずいぶん余裕ですねえ。人間というものは、追い詰められるほど冗談を言う癖があるのでしょうか」
「違います」
とおるは即答した。
「この人たちが個性的なんです」
「お前が言うな」
リディアが、低く返す。
その声が広間の石壁に沈み込むのとほとんど同時に彼女の身体から聖属性の魔力が溢れ出し、空気は音もなく白く染まっていった。それは爆風に似ていながら荒々しさを持たず、滝に似ていながら一片の濁りもない。まるで夜明けの光を剣の形へ研ぎ澄ませたような清冽で、静謐で、それでいて触れたものの在り方そのものを正すような魔力だった。リディアの足元から広がった白光は床を走っていた青白い線を押し返し、黒い柱の内部で不穏に揺れていた粒子の流れを正面から断ち切りつつも、遺跡全体に染み込んでいた異質な気配をまるで夜露を払う朝日のように薄めていく。
とおるは息をすることを忘れた。決闘のとき、彼女は間違いなく強かった。速く、重く、鋭く、こちらの〈壁〉を削り取るほどの聖魔力を当然のように扱い、その時点でとおるの脳内掲示板は「王国騎士団長やばすぎ」「チュートリアルの敵ではない」「無理」「帰りたい」という、ほとんど悲鳴に近い感想で埋め尽くされていた。しかし今のリディアは、そのとき見た彼女とはまるで違う。あの決闘で彼女が見せていた魔力など本来の力の表面にたまたま浮かんだ朝霧のようなものにすぎず、目の前にあるものこそが、王国最高戦力の一角に名を連ねる者が必要に応じて解き放つ本当の深さだった。
彼女本来の魔力は深く広く、そして圧倒的に澄んでいる。人の身体という器の中に収まっていること自体が不思議に思えるほどの聖属性が、暴れることも漏れ出すことも、周囲をただ威圧することもなく精密に制御されている。そしてそのまま床や壁を伝う空気の震えを読み、仲間たちの位置を把握しながら敵の術式の継ぎ目を探っている。そしておそらく、遺跡が返す反響の歪みさえも、計算に入れながら——
その様子を気脈で捉えた瞬間、とおるはようやく悟った。魔力の流れとは所有者が蛇口をひねるように自由に出し入れするだけのものではなく、強い者は大量に放出でき、弱い者は少ししか出せないという単純な量の話でもないのだ。
真に熟練した者は、魔力を隠す。必要な分だけを外へ出し、余剰を漏らさず、刃先へ、足裏へ、肺へ、心臓へ、魔力回路の細部へ、まるで精密機械の内部を流れる電流のように、狙った場所へ狙った量だけを通す。決闘のとき、リディアはとおるを相手に本気を出していなかった。それは彼女をかばうための言い訳でも敗北の意味を曖昧にするための慰めでもなく、今こうして目の前に広がる魔力の密度を見れば数値に直すまでもなく明白な事実だった。
王樹十二華騎士団、第九華隊〈白華〉。その隊長に選ばれた者の魔力が、どれほどの時間と経験と修羅場を経て鍛え上げられ、どれほど精密に研がれ、どれほど静かに危険なものとして完成しているのか。とおるの気脈感知は彼が望むか望まないかにかかわらず、その答えを嫌というほど理解させていた。
「……昨日の俺、よく生きてましたね」
小さく呟く。
リディアは前を向いたまま答えた。
「殺すつもりはなかった」
「本気だったら?」
「三合もたなかった」
「ですよね。知ってました。今、魂が納得しました」
「それでも、お前は私を止めた」
その言葉だけが、静かに響いた。
リディアの声には、怒りも屈辱もなかった。
事実を認める騎士の声だった。
とおるは口を閉じる。
褒められたのか、警戒されたのか、判断しづらい。たぶん両方である。自分のスキルはやはり妙な場所へ足を踏み入れている。鍋の蓋にして笑っていた能力が、王国最高戦力の魔力回路へ一瞬とはいえ干渉した。その重みが、遺跡の空気より冷たく背中へ落ちてくる。
フードの男は、リディアの魔力を浴びても焦らなかった。
杖の先に集まる黒銀の渦は、一度も乱れない。むしろ彼女の聖魔力を観察するように、わずかに形を変えていた。
「素晴らしい。若くして白華を継いだだけのことはありますね。聖属性の純度、出力、回路制御、どれも人間としては完成度が高い」
「人間としては、か」
「ええ。褒めていますよ」
「不要だ」
リディアは剣を構えた。
その姿勢は、決闘のときより低い。
余計な力みを削ぎ落としたぶんだけ、彼女の身体全体が一本の静かな刃へ変わっていくように見えた。左足が半歩だけ前へ出され、右手は柄を握り、左手は剣の腹へ軽く添えられている。その指先から流れ込む聖魔力は、派手な炎となって燃え上がることも、雷のように弾けることもなく、眩しすぎる光で周囲を塗り潰すこともない。ただ、刃の輪郭へぴたりと吸い付くように集まり、一分の無駄もなく剣という武器が持つ長さと鋭さだけを、静かに、しかし確実に延長していた。
とおるにはそれが恐ろしかった。強者というものはもっと派手に光るものだと、どこかで思っていた。膨大な魔力をこれ見よがしに放ち、空気を震わせ、周囲にいる者すべてへ「これが力だ」と叩きつけるものなのだと、異世界らしい雑な想像をしていた。しかし現実の強者は、無駄に光らない。必要な場所だけが必要な分だけ、静かに輝く。その静けさこそが、かえって逃げ場のない圧となって広間の空気を押し沈めていく。
「二度は言わない」
リディアは、フードの男へ向けて告げた。
「お前は何者だ」
男は答えなかった。代わりに、詠唱を始めた。
「――星骸の底に眠るもの、失われた名の残響よ」
低い声が、広間の壁に吸い込まれるように響いた。その詠唱は普通のものではなかった。古代語にも聞こえず、王国式魔術語にも似ておらず、そもそも言葉として耳に入っているはずなのに意味が頭へ届く前に形を失い、胸の奥で冷たい粉のように崩れていく。音でありながら音ではなく、言葉でありながら言葉として理解されることを拒んでいるような、ひどく不快な響きだった。
エルネが顔色を変えた。
「隊長、詠唱構造が測定できません。少なくとも王国式ではありません」
「分かっている」
リディアは、一歩前へ出た。聖魔力が床を滑り、遺跡に満ちていた青白い光がその白へ押し返される。対するフードの男の右手には黒銀の渦がゆっくりと集まり始め、やがてそれは夜の底から削り出した金属片を溶かし合わせたような、奇妙な球体の形を取り始めた。
「――隔てよ、砕けよ、かつて閉ざされた門の残光よ」
とおるの背筋が、ぞわりと粟立った。
門。
隔てる。
閉ざされた。
その言葉のひとつひとつに、彼の〈壁〉が反応した。黒銀の球体は、一見すれば攻撃術式に見える。見えるものの、その本質は恐らく別にある。あれはただ何かを撃ち抜き、砕き、吹き飛ばすだけの魔法ではない。境界に触れる術式だ。扉、封印、空間の仕切り、こちら側と向こう側を分けるもの、そうした境目へ指をかけ、こじ開けるための性質を持っている。
つまり、とおるの〈壁〉と近い。
近いからこそ、嫌なほど分かる。
あれを食らえば、ただ壊されるだけでは済まない。板が割れるとか盾が砕けるとか、そういう分かりやすい破壊では終わらない。壁として立っているものが壁であるという意味そのものを裂かれ、隔てるという役割を奪われ、こちら側と向こう側の境目を無理やりなかったことにされる。
「リディアさん!」
「分かっている」
彼女は短く返す。
フードの男が杖を上げる。
「では、開きましょうか」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、フードの男の手元から黒銀の球体が放たれた。それはただ真っ直ぐに飛んでくるような単純な術式ではなかった。空間の表面を滑るように進んだかと思えば途中で輪郭をほどきながら霧のように広がり、次の瞬間には再び一本の槍へと収束する。目で追えば遅れ、魔力で追えば惑わされる。形を見た時にはもう形が変わっており、流れを捉えたと思った時にはすでに別の経路へ移っている。とおるは反射的に壁を張ろうとしたが、その意識が形になるより早くリディアが前へ出た。白華の剣が、横一文字に走る。聖属性の光が、広間そのものを切り開くように広がった。
黒銀の槍と白い剣光がぶつかり、衝突は音ではなく圧として空間を震わせた。床に刻まれた光線が波打つように乱れ、黒水晶の柱の内部では細かな粒子が吹雪のように舞い上がり、セレナの羽ペンが持ち主の手を離れてふわりと宙へ浮いた。エルネの眼鏡が衝撃で少しずれ、とおるの前髪は真正面から叩きつけられた風によって本人の意思とは無関係に後ろへ吹き飛ばされた。
「うわっ、髪型が強制的に陽キャ寄りに!」
「黙って伏せろ!」
マルクが盾を構え、とおるを半ば押し込むようにして後ろへ下げる。その間もリディアはまったく揺らがなかった。白い光の中心に立つ彼女の剣は黒銀の術式をただ力任せに受け止めているのではなく、その継ぎ目を読みながら魔力の流路を斬り、反響して広間全体へ散る前に聖魔力で包み込みつつも削り、分解していく。とおるが壁によって相手の行動計画へ通行止めを置くのだとすれば、リディアは剣そのもので相手の術式を構造から解体しているのだった。
フードの男の口元が、かすかに笑う。
「見事」
黒銀の術式が弾け、霧のように消える。しかしリディアはその消滅を見届けるための間すら置かず、すでに踏み込んでいた。その動きにとおるは思わず目を見開く。昨日の決闘で見た速さとはまるで別物だった。単純に移動速度が上がったという話ではなく、動き出しの予兆そのものがない。剣を振る前に肩が動き、肩の前に足が沈み、足の前に魔力が流れるという、普通ならわずかに見えるはずの順序がすべて限界まで小さく削り落とされている。気脈で追っても、その“起こり”が見えない。
フードの男が杖を引く。リディアの刃がその先端をかすめる。古びた杖の表面に白い火花が散りながら男は一歩下がり、リディアは一歩詰める。広間の中央で白と黒銀の線が交差し、互いの魔力がぶつかるたびに床の紋様が淡く揺れ、柱の内部に閉じ込められていた粒子がまるで眠りを妨げられた星のようにざわめいた。
とおるは後方で壁を維持しながら、自分の口の中がひどく乾いていることに気づいた。昨日、自分はこの人に勝った。記録上は確かにそうなっている実際、決闘の勝敗として見れば間違いではないし、あの場にいた誰もがその結果を認めている。けれど今目の前で本気の片鱗を見せるリディアを見て、とおるの中にいる冷静な自分が心の黒板へ大きく結論を書いた。昨日の勝利は宝くじに当たったようなものです。調子に乗ると死にます。ついでに壁の件は、可能な限り蒸し返さないようにしましょう。それは非常に的確かつ厳格な結論だった。
リディアの剣が、再び白く輝く。フードの男の外套が遺跡の奥から吹き上がるような冷たい風に揺れる。星の塔の地下、神々が眠ると呼ばれた古代都市の広間で、王国の白華隊長と正体不明の侵入者が向かい合い、その背後では黒い扉の奥から光を拒むようなさらに深い闇が覗いていた。とおるはその闇を見つめながら、心の中でひどく場違いな感想をこぼす。
自分は村でこつこつレベル上げをしていただけなのに、いつの間にかイベントの難易度が王国最高戦力基準になっている。このゲーム、バランス調整が雑すぎる。
フードの男が笑った。リディアの剣が、静かに構え直される。広間に満ちる魔力がさらに一段濃くなり、黒水晶の柱に映る光と影が、まるでこれから始まるものを記録しようとするかのように揺らめいていた。
今度こそ、誰の目にも分かる形で戦いの幕が上がった。




