第3話 インドア派には厳しすぎる古代遺跡
それにしても自分のスキルがあんな形で有効に働くなんて予想外というか、いや予想はしていたけれど、まさかあそこまで無力化できるなんて――と、とおるは頭の中で何度か反芻しつつも、時折その思考を見透かされたように睨みを効かせてくるリディアにビビりながら、スキル〈壁〉についての可能性を考えていた。
王国聖騎士団長リディア・アルヴェイン。
若くして〈王樹十二華騎士団〉第九華隊、通称〈白華〉の隊長に任じられた実力者。
その肩書きの重さは、村で一番大きな収穫用荷車に石を満載して坂道で止めたくらい重いはずなのに、とおるの脳内では、どうしても昨日の光景が余計な字幕つきで再生されてしまう。
白華隊長、壁に収納。
王国最高戦力、集会所の一部になる。
騎士団長、建築物との一体化に成功。
本人に知られたら斬られる。誓って斬られないとは言われたものの、それは昨日の決闘直後の話であり、今日のリディアが同じ保証を維持しているとは限らない。人間の誓いというものは時と場合と精神状態によって解釈が揺れる。とおるはそのあたりを前世のネット炎上事例から学んでいた。
「壁山とおる」
「はいっ」
名前を呼ばれた瞬間、とおるの背筋はよく訓練された犬のように伸びた。
リディアは先頭を歩きながら振り返りもせず、白銀の甲冑の背中だけで圧を放っている。
「何か失礼なことを考えていないか」
「考えていません」
「返答が速すぎる」
「無実の人間ほど返答は速いものです」
「有罪の人間ほど言い訳も速い」
「詰んでませんか、その理論」
リディアは小さく息を吐いた。
怒っているというより、呆れている。
その呆れには、ほんの少しだけ慣れが混じっていた。昨日の朝には、王国の命令を背負って現れた冷厳な騎士団長だった彼女が、今ではとおるの挙動不審に対して即座に反応するようになっている。人間関係とは恐ろしい。壁を作ることに長けた男でさえ、相手が剣を持って正面から壁を叩いてくると、多少は会話の穴が開く。
一行は、クルム村を出てから半日ほど森を進んでいた。
白華隊長リディア、副官マルク、魔導測量士エルネ、神官記録官セレナ、そして村の案内役兼問題の壁使いとして同行する壁山とおる。
森の道は、村人たちが薪拾いや狩りで使う区域を越えると、急に人間に対する配慮を失った。足元には根が絡み、湿った落ち葉は靴底を滑らせ、枝は顔の高さで遠慮なく待ち伏せし、虫は「お客様ですね、歓迎します」と言わんばかりに耳元へ集まってくる。
とおるは歩きながら、心の底から思っていた。
これは、インドア派が踏み入れていい場所ではない。
アウトドアとは、もっと公園でレジャーシートを広げ、サンドイッチを食べ、帰りにアイスを買うくらいのやさしい概念であってほしかった。少なくとも、古代遺跡調査に向かう騎士団とともに、魔力波が漂う森の奥へ半日歩く活動を、同じ単語で括るべきではない。
「息が上がっているな」
リディアが言った。
「上がっていません。これは呼吸の個性です」
「便利な言葉を使うな」
「身体が文句を言っているだけで、精神はまだ負けていません」
「顔はすでに敗残兵だ」
「顔に戦況を表示する機能がついているんです」
副官マルクが横で小さく咳払いをした。
笑いを堪えたのか、単に喉が渇いただけなのか、騎士らしく真顔に戻るのが速すぎて判断できない。
エルネは測定杖を抱えたまま、楽しそうに周囲の魔力濃度を記録している。巨大な眼鏡の奥の瞳は、森の不気味さより測定値の異常さに輝いていた。学者という種族は、危険な数値を見ると逃げるより先に喜ぶ傾向があるらしい。
「面白いですねえ。村の外周からずっと、地脈の流れが浅い層へ浮いてきています。普通なら地下深くを通る魔力が、樹木の根にまで染み込んでいる感じです。これ、長期的には植物相にも影響が出ているかもしれませんよ」
「それは安全なんですか」
とおるが尋ねると、エルネは笑顔のまま言った。
「安全ではない可能性が高いので、面白いです」
「面白いの基準が俺と違う」
「研究者はだいたいこうです」
「だいたいであってほしくなかった」
セレナは後方で羽ペンを動かしていた。
「記録。案内役、魔導測量士の発言に対し、一般的な危機感を示す」
「俺の発言まで記録するんですか」
「現地協力者の心理推移は重要です」
「心理推移というか、普通に怖がっているだけです」
「恐怖反応も立派な資料になります」
「俺を資料にしないでください」
森が開けたのは、午後の光が少し傾き始めた頃だった。
木々の密度が薄くなり、風の通り道が広がり、湿った土と腐葉土の匂いに混じって、石と鉄をすり合わせたような冷たい匂いが鼻をかすめる。とおるは足を止めかけた。胸の奥に、かすかな圧迫感がある。遠くで巨大な鐘が鳴っているような、音ではなく骨へ伝わる振動に近い感覚。
そして、彼は見た。
星の塔。
それは、塔と呼ばれていた。
地図にもそう記され、村人もそう呼び、文献でも星見の丘に立つ塔として扱われている。人間は未知のものを見ると、手持ちの言葉で無理やり分類しようとする。高ければ塔、長ければ柱、空から来れば船、光れば神のしるし。そうやって言葉を貼り付けることで、理解したふりをして安心する。
目の前にあるものは、とおるが知る塔とはあまりにも違っていた。
大地から天へ伸びる細長い建築物、という意味では確かに塔なのかもしれない。高さは尋常ではない。雲に届くほどではないにせよ、丘陵の上に立つその姿は周囲の森や岩肌を圧倒し、距離感を狂わせるほど巨大だった。
表面は石ではなかった。
金属にも見える。陶器にも見える。白とも銀とも灰ともつかない無機質な外殻が、陽の光を反射するのではなく、薄く飲み込んでいる。ところどころに走る黒い溝は装飾ではなく、巨大な機械の継ぎ目のようでもあり、夜空の星図を切り取って貼りつけたようでもあった。
基部は円形ではなく、楕円に近い。
上へ向かうほどわずかにねじれ、途中から翼の名残のような板状の突起が折れたまま突き出している。塔というより、墜落した巨大な構造体が、地面へ斜めに突き刺さったのち、千年の時間で周囲の地形に飲み込まれたものに見えた。
とおるの前世の感覚で言うなら、巨大な宇宙船。
しかも映画で人類が乗り込む明るい希望の船ではなく、乗員の九割がすでに何かに置き換わっていそうな、調査隊が入ったら通信が途絶えるタイプの宇宙船である。
「……これは」
とおるは息を呑んだ。
異世界へ来たばかりの頃、彼の周囲にあるものはすべて異物だった。
木の種類も違う。空の色も少し違う。二つの月が夜に浮かび、村の井戸には魔力を帯びた淡い光が揺れ、森には双角の猪が走り、子どもでさえ火花を出す練習をしていた。目に映るものすべてが、自分の知っている世界と噛み合っていなかったため、星の塔を遠目に見たときも「異世界にはこういう変な塔もあるのか」と思うだけで済ませていた。
今、三年を経て、村の畑の匂いも、魔物の足跡も、魔力灯の明かりも、騎士団の鎧も、この世界の一部として受け入れられるようになった今、星の塔だけが妙にはっきりと浮いて見える。
この世界のものではない。
それは知識ではなく、皮膚に刺さる感覚だった。
「以前、見に来たことがあるのだろう」
リディアが横に立った。
「遠目に、です。正直、あの頃は異世界慣れしていなくて、全部が変だったので」
「今は違うか」
「今は、周りの変さに慣れた分、あれだけ別方向に変だとわかります」
「妙な言い方だな」
「俺の故郷には、あれに近い形のものが物語の中にありました。空を飛ぶ巨大な船、宇宙へ行くための乗り物、機械でできた人工の星みたいなもの」
「お前の故郷は、どんな場所だ」
「説明すると、リディアさんが俺を星の塔より先に調査対象にするので、今日はやめておきます」
「すでに半分ほど調査対象だ」
「半分で止めてください」
リディアは塔を見上げる。
その横顔は、村で命令を告げたときより硬かった。王国の騎士として、この場所が持つ危険を知っている顔。王命に従う者として、上層部が隠している何かを疑っている顔。ついでに、とおるを警戒対象として数え始めている顔。
とおるは、その視線を見なかったことにした。
人生には、直視すると会話が発生するものがある。とおるはそういうものを避けて生きてきた。今もできれば避けたい。避けた先が古代遺跡である時点で、避け方を間違えている気もする。
一行は、星の塔そのものへは近づかなかった。
地下遺跡への入口は、塔の基部ではなく、その北側に走る巨大な谷の底にあるという。塔が落ちた際に大地を裂いた跡とも、地下遺構の崩落で生まれた裂け目とも言われる谷は、星見の丘の裏側へ回り込むと突然姿を現した。
森が途切れ、足元の大地が唐突に終わる。
そこには、幅数百メートルはある巨大な裂け目があった。
両側の崖はほぼ垂直に切り立ち、岩肌には自然の地層とは思えない平行線や曲線が走っている。見下ろせば、谷底は薄い青白い霧に満たされ、ところどころに黒い柱のようなものが突き出ていた。風が谷から吹き上がり、低い笛の音に似た響きを運んでくる。
マルクが先行し、崖沿いに作られた王国管理の降下路を確認した。
降下路といっても、手すりつきの親切な階段ではない。岩壁に金属の杭を打ち、鎖を渡し、古い石段と自然の棚を繋いだ、命綱が仕事を放棄したら人生も一緒に退勤するような道である。
とおるはそれを見て、無言で一歩後ずさった。
「どこへ行く」
リディアが襟首を掴む。
「村です」
「案内役だろう」
「案内役は谷の上までです、という契約にしませんか」
「していない」
「今から追加条項を」
「却下」
「まだ提案文の途中です」
「却下」
リディアは容赦がなかった。
とおるは崖下を見た。青白い霧。底の見えない深さ。風の音。足場の細さ。どう考えても、日頃から椅子と机と本棚を主な生活圏としてきた人間が踏み込む場所ではない。
「俺、こう見えて高所が得意ではないんです」
「得意そうには見えん」
「得意なものが少ない人生でした」
「壁は得意だろう」
「人間関係の壁なら」
「今ここで使え」
「落ちたら、人間関係だけでは受け止められません」
リディアは彼を見つめた。
しばらくして、短く言う。
「不安なら、足元に壁を出せ。落下防止用に薄く展開しろ。許可する」
「え、いいんですか」
「必要時の使用は認めると言った。勝手に妙な場所へ差し込むな」
「妙な場所とは」
リディアの視線が、氷点下になった。
「聞き返すな」
「はい」
とおるは素直にうなずき、自分の足元と崖の外側の間に、薄い透明な壁を一枚展開した。目にはほとんど見えない。空気がわずかに硬くなったような感覚だけがある。壁というより、見えない手すり。実際に身体を預けるには怖いものの、あるとないとでは精神的な寿命が三年ほど違う。
降下が始まった。
リディアは鎧を着ているにもかかわらず、驚くほど安定した足取りで石段を下りていく。マルクも無駄がない。セレナは記録用具を抱えながら涼しい顔で進み、エルネに至っては測定杖で崖の魔力反応を調べながら「この層、人工的に焼結されていますねえ」と楽しそうに呟いている。
とおるだけが、壁を足元へ出し、鎖を握り、膝を震わせ、顔面の血色を遠い故郷へ置いてきたような表情で進んでいた。
「遅い」
「命は速度より大事です」
「この程度で怯えるな」
「この程度という言葉は、騎士団長の身体能力を前提にしていませんか」
「普通に歩けばよい」
「普通の定義を地上へ戻してから話しましょう」
谷底に近づくほど、空気の質が変わっていった。
湿気はあるのに、土の匂いが薄い。代わりに、冷たい金属と古い石、さらに焦げた雨のような匂いが混じる。青白い霧の中には小さな光点が漂っており、近づくと虫ではなく、魔力の粒子であることがわかった。触れても熱はない。服の布目をすり抜け、肌の上をくすぐるように流れていく。
谷底に降り立ったとき、とおるは思わず地面に手をついた。
「地面、最高……」
「大げさだな」
「人類がなぜ地面を愛するのか、今なら論文が書けます」
「書かなくていい」
谷底は、洞窟と遺跡が混ざり合った場所だった。
天井のない巨大な通路にも見える。崖壁の一部は自然岩で、苔や根が垂れ下がっている一方、その奥には明らかに人工物と思われる滑らかな面が露出していた。石材ではない。塔と同じ白銀灰色の素材が、岩の内側から骨のように覗いている。
床には、幅広い板状の構造物が埋まっていた。
板と板の間には細い溝があり、溝の底を淡い光が流れている。水ではない。魔力でも、通常の魔力灯とは性質が違う。エルネが測定杖をかざすと、杖の先についた水晶が細かく震えた。
「反応がずれますね。魔力に似ていますけど、完全には一致しません。地脈由来ではなく、遺構自体が何かを循環させている……?」
「危険か」
リディアが問う。
「危険かどうかを判断するための基準が足りません」
「つまり」
「とても面白いです」
「面白い以外の語彙を用意しろ」
とおるは小さくうなずいた。
「俺もリディアさんに賛成です。面白いで近づく場所じゃないです」
「お前は近づけ」
「賛成したのに扱いが悪い」
「案内役だ」
「案内されている側の気分です」
谷底の奥、岩壁と人工外殻が噛み合う場所に、入口はあった。
高さは十メートル以上。幅も馬車が四台並んで通れそうなほど広い。洞窟の口のように岩が割れ、その内側に、半円形の巨大な扉が埋め込まれている。扉と呼ぶには継ぎ目が見えず、まるで壁そのものが眠っているような姿だった。
表面には星の配置に似た点と線が刻まれ、中央には人の身長ほどもある円形の窪みがある。そこだけが黒く、光を吸い込むように深い。王国の封鎖印が周囲にいくつも貼られ、古い鎖と新しい鎖が幾重にも巻かれていた。紙、金属、魔力陣、聖印、測量杭。千年分の恐れと慎重さが、入口を覆い尽くしている。
とおるは、その前で完全に足を止めた。
「ラスボスの家じゃないですか」
「違う」
「違うんですか」
「地下遺構の入口だ」
「分類上はそうかもしれませんけど、雰囲気が完全に最終決戦前です。入る前に仲間がひとりずつ決意表明するやつです」
「お前は何を言っている」
「俺にも自信がなくなってきました」
リディアは入口へ近づき、封鎖印の一部を確認した。
マルクが周囲を警戒し、セレナが記録を取り、エルネが測定杖を中央の窪みに向ける。水晶がさらに強く震え、内部に細かい亀裂のような光が走った。
「封鎖印の一部が劣化しています。外部から破られたというより、内側から押されていますね」
「内側から?」
とおるが聞き返す。
エルネは楽しそうに、そして少しだけ真剣に答えた。
「はい。たとえるなら、密閉した箱の中で何かが膨らんでいる感じです。まだ破裂していませんけど、箱そのものが古いので、押し返す力が弱くなっています」
「そのたとえ、怖くない部分が一つもないです」
「怖いので正確です」
リディアは剣の柄に手を置いた。
「封印解除の手順に入る。全員、配置につけ」
王国の騎士たちは、何度も訓練してきた動きで作業を始めた。マルクが古い鎖を外し、エルネが測定杖を入口左右の石柱へ当て、セレナが聖句を唱えながら封鎖印の状態を記録する。リディアは中央に立ち、聖属性の魔力を薄く広げ、周囲の乱れを抑え込んでいた。
とおるは何をすべきかわからず、とりあえず邪魔にならない位置で立っていた。
前世でも、グループ作業において「具体的な指示がないと端で待機する」という熟練のぼっちムーブを繰り返してきた男である。ここでも自然に発動した。異世界に来ても、魂に刻まれた行動パターンは消えない。
「壁山」
リディアが呼ぶ。
「はい」
「お前は入口が開いたら、最後尾ではなく私の隣に来い」
「なぜ危険度の高い場所へ配置されるんですか」
「お前のスキルが反応するか見るためだ。危険があれば、壁で防げ」
「俺、便利な安全装置扱いされてませんか」
「不満か」
「不満というより、仕様書なしで現場投入された気分です」
「仕様書?」
「こちらの話です」
封鎖印が淡く光った。
入口の中央に刻まれた星図の線が、ひとつ、またひとつと青白く灯る。音はほとんどない。地面の奥から、巨大な生き物がゆっくり呼吸しているような振動だけが広がる。扉に見えた壁の表面に細い隙間が走り、その隙間から冷たい風が漏れた。
とおるの腕に鳥肌が立つ。
匂いがある。
古い空気。
石棺の中に閉じ込められていた時間の匂い。
そこへ混じる、油でも血でも香でもない、機械的で清潔すぎる何かの匂い。
入口が開いていく。
重い石扉が左右に動くのではない。表面の材質そのものが、液体のように薄く波打ち、星図の線に沿って内側へ折り畳まれていく。千年以上閉じられていたはずの入口が、錆びも軋みもなく、まるで主の帰還を待っていた家の扉のように静かに道を開けた。
その奥には、闇があった。
洞窟の闇ではない。
ランタンの光が届かないために暗い、という単純なものではなく、光そのものが遠慮しているような、境界の曖昧な黒だった。
「進むぞ」
リディアが言った。
とおるは、心の底から帰りたくなった。
ここまで来てしまった以上、後戻りできない。村の人たちのためにも、放っておくわけにはいかない。それはわかっている。わかっているから足は一応前へ出る。出るものの、心は村の自宅に残り、布団にくるまり、今日の自分は体調不良という設定でやり過ごしたがっていた。
「顔が死んでいる」
リディアが横目で言う。
「魂の一部が有給を申請しました」
「却下だ」
「リディアさん、人事権まで持っているんですか」
「お前の魂に関しては知らん」
「俺も正直、管理できていません」
リディアは少しだけ口元を動かした。
笑った、と言うにはあまりにわずかで、とおるが見間違いかどうか判断する前に表情は戻っていた。聖騎士団長の微笑は、レア素材より出現率が低いのかもしれない。
一行は遺跡へ入った。
内部は、外から想像したよりもはるかに広かった。
最初の通路だけでも、王都の大聖堂の身廊ほどの幅がある。天井は高く、ランタンを掲げても上部までは届かない。壁面には、白銀灰色の素材が滑らかに続き、ところどころに黒い帯が走っている。その帯の内部を、青白い光がゆっくり流れていた。血管のようにも、星の軌道のようにも見える。
床は平らで、埃がほとんどない。
千年閉じられていた遺跡なら、砂や瓦礫や朽ちた骨があってもよさそうなものなのに、ここには時間の堆積が少なすぎる。むしろ、誰かが昨日まで使っていた巨大施設が、使用者だけを失って静止しているような不気味さがあった。
通路の先に、広間が見えた。
リディアが合図を出し、全員が慎重に進む。マルクが盾を構え、リディアが剣へ手をかけ、とおるは足元に薄い壁を出す準備をしながら、なるべく中央ではなく端を歩いた。端は落ち着く。教室でも、食堂でも、異世界古代遺跡でも、端には不思議な安心感がある。
「なぜ壁際へ寄る」
リディアが聞く。
「落ち着くので」
「壁使いらしいな」
「皮肉ですか」
「半分は」
「もう半分は」
「観察だ」
「観察対象から外してください」
広間に出た瞬間、とおるは言葉を失った。
そこは、地下にあるとは思えないほど巨大な空間だった。
天井は見えない。上方には暗いドーム状の空間が広がり、そこに星のような光点が無数に浮かんでいる。地上の夜空ではない。光点は微妙に位置を変え、軌道を描き、時折線で結ばれる。まるで、空をそのまま地下へ閉じ込め、誰かが今も静かに星図を計算し続けているようだった。
中央には円形の大広場がある。
床には幾何学模様が刻まれ、外周から中心へ向かって何本もの光の線が伸びていた。線の途中には、用途不明の柱や台座が配置されている。柱は石造りではなく、透明度の低い黒水晶のような素材で、内部に白い粒子が舞っている。台座の上には何も置かれていないのに、周囲の空気がわずかに揺らぎ、そこに見えない球体が浮いているような圧力を感じさせた。
広間の壁面には、無数の扉が並んでいた。
大小さまざま、形もさまざま。人が通れる程度のものから、巨人が出入りするような巨大なものまである。扉の上には記号が刻まれている。文字に見えなくもない。星座に見えなくもない。とおるの前世の感覚では、電子基板の回路図や、古いプログラムの構造図にも似ていた。
そして、広間の奥には巨大な構造物が横たわっていた。
都市の残骸。
そう呼ぶほかないものだった。
段々に重なる通路、空中で途切れた橋、壁面へ埋め込まれた建物のような箱、円筒形の塔、半壊した環状の骨組み。すべてが同じ白銀灰色の素材で作られ、自然な生活感はまるでない。家というより機能の塊。街というより装置。人が暮らす場所というより、誰かが世界を管理するために組み上げた巨大な機械の内部。
「……これが、古代都市」
とおるは呟いた。
村の書庫で見た文献には、「神々の都」「星の民の宮」「眠れる都」などと書かれていた。老人たちは、星の塔の下には黄金の街があると語っていた。子どもたちは、夜になると神さまの明かりが灯ると信じていた。
実物は、黄金の街ではなかった。
もっと冷たく、もっと大きく、もっと意味がわからない。
美しい。
美しいのに、人間のための美しさではない。
とおるは、自分が非常に小さな存在になったような気がした。ゲーム画面で主人公を操作しているとき、背景に巨大な古代文明の遺跡が描かれていても、プレイヤーは画面の中のキャラクターを中心に考える。自分が実際にその場へ立つと、主役感など一瞬で消える。広すぎる空間、長すぎる時間、理解できない目的。それらがまとめて肩に乗ってきて、自分の人生の悩みが急に小銭のように感じられる。
「口を開けたままだぞ」
リディアが言った。
とおるは慌てて口を閉じる。
「すみません。想像より、ずっとすごかったので」
「私も初めて入ったときは言葉を失った」
「リディアさんでも?」
「私を何だと思っている」
「壁に強い人」
言った直後、とおるは己の口を両手で押さえた。
広間の空気が、遺跡由来とは別方向に冷えた。
マルクが目を閉じた。
エルネが「あ」と小さく言った。
セレナの羽ペンが妙に軽快に走りかけたので、リディアが視線だけで止めた。
「壁山」
「はい」
「今の発言について、弁明はあるか」
「感動で語彙の管理機能が落ちました」
「それで出てくる語彙がそれか」
「本当に申し訳ありません」
「帰ったら訓練場に来い」
「処刑場ではなく?」
「訓練場だ」
「よかった……のか?」
「よくはない」
とおるはうなだれた。
古代遺跡の荘厳さに心を打たれた直後でも、口を滑らせれば人生は滑落する。人間はどれほど壮大な景色の中にいても、やらかしひとつで現実へ引き戻される生き物だった。
リディアは広間を見渡し、隊の面々へ指示を出した。
「エルネ、地脈反応の測定。セレナ、封鎖印の記録と広間の刻印を写せ。マルク、外周警戒。壁山は私の側から離れるな」
「安全のためですか」
「危険物の管理のためだ」
「俺側の扱いでしたか」
「両方だ」
とおるは複雑な顔でうなずいた。
エルネが中央の光線へ近づき、測定杖を床へかざす。水晶は不規則に震え、時折、測定値を示す小さな魔法陣が空中で乱れた。彼女は眉を寄せ、すぐに楽しそうな笑みへ戻る。研究者としての危機感と好奇心が、彼女の中で椅子取りゲームをしており、今のところ好奇心が勝ち続けている。
「魔力波、地上よりかなり強いです。通常の地脈とは相が違いますね。術式に干渉する可能性があります。隊長、ここで高出力の聖術を使うと、反響するかもしれません」
「反響?」
「はい。撃った術式が壁面や床の回路を伝って、別方向から戻ってくる可能性です」
「つまり、剣を振ったら背中から自分の術式が来るかもしれないと」
「簡単に言えばそうです」
とおるは真顔になった。
「この遺跡、性格が悪いですね」
「遺跡に性格はない」
リディアが言う。
「でも、こっちの攻撃を反射してくる建物は、だいたい性格が悪いです」
「経験があるのか」
「ゲームで」
「そのゲームというものは、何なのだ」
「人生の一部であり、時に教科書であり、時に時間泥棒です」
「説明になっていない」
「説明すると長いです」
「お前はそればかりだな」
広間の外周を歩きながら、とおるは壁面の記号を見た。
文字にしては線が多く、絵にしては規則的すぎる。繰り返しのパターンがある。中心から外へ流れる形、円を区切る形、点を接続する形。前世で見た回路図や星図、さらにはプログラムのフローチャートめいた印象もあった。
彼は手を伸ばしかけ、すぐに引っ込めた。
古代遺跡の怪しい壁に不用意に触る主人公は、だいたい何かを起動する。ラノベ知識は命を救うことがある。少なくとも、余計なフラグを立てない程度には役に立つ。
「触らないのか」
リディアが意外そうに言った。
「触ったら起動しそうなので」
「むやみに触れない判断は正しい」
「今、初めて普通に褒められた気がします」
「調子に乗るな」
「褒められた時間が短い」
そのとき、とおるの頭の奥に奇妙な感覚が走った。
音ではない。視界でもない。スキル〈壁〉を発動するときに感じる、空間の境目、対象と対象の間にある薄い膜。その感覚が、広間の奥に並ぶ扉のひとつから、微かに呼ばれているような気がした。
とおるは足を止める。
「どうした」
リディアが問う。
「今、変な感じがしました」
「具体的に」
「壁を出すときの感覚に近いです。空間の間に、何か薄い境目があるような。たぶん、あそこです」
彼は広間の奥、他の扉より少し小さな黒い扉を指差した。
周囲の扉には淡い光が流れているのに、その扉だけは完全に暗い。形は長方形に近く、表面には何の装飾もない。目立たない。むしろ目立たないように作られているような扉だった。
リディアの表情が鋭くなる。
「エルネ」
「はいはい、見ます」
エルネが測定杖を向けた。
水晶は反応しなかった。
「あれ? 魔力反応なし。地脈反応もなし。術式痕跡も……いえ、測定できないですね。存在しているのに測れません」
「危険か」
「測れないので、危険か安全かを判断できません」
「お前もそればかりだな」
「研究者なので」
とおるは黒い扉を見つめた。
自分のスキルが、そこに薄い壁を感じている。
扉そのものではなく、扉の向こう側とこちら側の境界。まるで誰かが、世界を一枚隔てて閉じている。彼の〈壁〉が、同族を見つけたようにざわついていた。
「触るなよ」
リディアが言った。
「触りません」
「近づきすぎるな」
「近づきません」
「勝手に壁を差し込むな」
「信用がない」
「昨日の実績に基づく妥当な評価だ」
「実績という言葉の使い方がつらい」
リディアは黒い扉の前に立ち、剣を抜かないまま周囲を確認した。
マルクが盾を構え、セレナが記録を止め、エルネが首を傾げながら測定杖を何度も振る。遺跡内の青白い光が、ほんのわずかに脈打った。
とおるは、気づいた。
黒い扉の下。
床の隙間。
そこに、足跡のようなものがある。
埃がない遺跡の床に、かすかな泥の跡。古くない。乾ききってもいない。村の森の土に似た、赤みのある泥。
つまり、王国の先遣部隊より前に、誰かがここへ来ている。
「リディアさん」
「何だ」
「俺たち以外にも、来客がいるかもしれません」
とおるが足元を指し示すと、リディアの瞳が冷たく細められた。
彼女はしゃがみ、泥の跡を確認する。
マルクが息を呑む。
「隊長、これは」
「ああ。新しい」
広間の空気が変わった。
先ほどまで遺跡の壮大さに圧倒されていた一行の意識が、現実的な危険へ引き戻される。古代文明、神々の眠り、異常魔力波。そのすべてに加えて、誰かがこの封鎖区域へ侵入しているという事実が重なる。
リディアは立ち上がり、剣を抜いた。
白銀の刃に、淡い聖光が宿る。
エルネが測定杖を抱きしめるように持ち、セレナが記録具をしまい、マルクが黒い扉の前へ盾を向ける。
とおるも、喉を鳴らした。
「もしかして、ここから本格的に危ない流れですか」
「おそらくな」
「できれば、軽めの危ない流れでお願いしたいです」
「敵が聞いてくれるといいな」
「交渉窓口はありますか」
「剣ならある」
「騎士団式の窓口、物騒すぎませんか」
リディアは、黒い扉へ向けて一歩進んだ。
そのとき、扉の向こう側から、かすかな音が聞こえた。
布が石床を擦るような音。
杖の先が、硬い床を軽く叩くような音。
そして、誰かが笑ったような、ひどく低い息の揺れ。
とおるの背筋に冷たいものが走る。
黒い扉の表面に、細い光が一本だけ灯った。
それは星図の線ではなく、まるで内側から瞼が開くような、縦に走る白い光だった。
リディアが剣を構える。
とおるは反射的に壁を一枚、彼女と扉の間へ置きかけて、寸前で止めた。
許可制。
勝手に差し込むな。
昨日の実績。
さまざまな言葉が脳内を駆け抜ける。
「壁山」
リディアが、扉から視線を外さずに言った。
「はい」
「今は使え」
「了解です」
とおるは息を吸い、扉と一行の間に薄い壁を張った。
透明な境界が、古代都市の青白い光をわずかに歪ませる。
広間の奥から、知らない誰かの気配が近づいてくる。
フードの裾が、黒い扉の隙間から見えた。
星の塔の地下で眠っていたはずの遺跡は、どうやら彼らだけを待っていたわけではなかった。




