第2話 だいぶ私情が入ってませんか
リディア・アルヴェインは、仮設天幕の奥で折り畳み式の椅子に腰を下ろしたまま、人生で初めて壁という建築概念そのものを憎んでいた。
石壁、土壁、城壁、防壁、障壁、心の壁。
騎士として生きてきた彼女は、あらゆる壁を乗り越えるもの、あるいは守るものとして捉えてきた。城を守る城壁には敬意がある。民を守る防壁には使命がある。己の未熟さという壁には鍛錬で挑む価値がある。
ところが、あの青年の壁は違った。
王国聖騎士団長たる自分を、村の集会所の外壁へ、まるで寸法を測った建材のように納めたのである。
思い出したくない。思い出したくないのに、記憶というものは時に本人の尊厳を考慮しない。白銀の鎧、王国の紋章、聖騎士団長の威厳、二十歳になったばかりにして隊長職を任された誇り、それらを背負った自分が、辺境の村人たちと部下たちの前で、壁の一部として展示されていた。
展示品名、白華隊長の失敗。
展示期間、永遠に語り継がれないことを願う。
「……忘れろ」
リディアは誰もいない天幕の中で低くつぶやいた。
自分に言い聞かせたのか、壁に向けて命じたのか、世界に対する抗議なのかは定かではない。少なくとも壁は返事をしなかった。返事をされたら、彼女はたぶん剣を抜いていた。
敗北した。
その事実自体は認めている。
王国には、正規軍とは別に、王権直属の最高戦力として〈王樹十二華騎士団〉が存在する。王都を中心に十二の隊が置かれ、それぞれが花の名を冠し、国境防衛、魔物災害、大規模術式犯罪、王族護衛、古代遺物の封鎖任務など、通常の軍や衛兵では対処できない案件を担当していた。
第九華隊、通称〈白華〉。
その隊の矜持は、汚れなき盾であること。
敵の侵攻を受け止め、民への災禍を防ぎ、王命を遂行しながら、決して弱き者を踏みにじらない。リディアはその理念を信じ、幼い頃から剣を握り、血を吐くような鍛錬を積み、同期の誰より早く聖属性の魔力回路を開花させ、前隊長が戦線を退いたのち、異例の若さで第九華隊長に任じられた。
年齢、二十。
肩書き、王樹十二華騎士団第九華隊隊長。
実力、王国随一の若き聖騎士。
ついでに本日追加された非公式情報、辺境の青年に壁へ埋められた女。
最後の一行が経歴書に載ったら、リディアは王都の人事局を聖剣で二枚に下ろす自信があった。
もちろん、本気ではなかった。
彼女は村人を相手に命を奪うつもりなど最初から持っていなかった。壁山とおるという青年が決闘を申し込んだときも、反抗心を折り、最低限の力の差を見せ、王国の命令に従わせるための形式的な相手をしてやるつもりでいた。剣速も落としていた。聖魔力の出力も抑えていた。殺傷に至る術式も使っていない。もし本気であれば結果は違った、そう言い訳する材料はいくらでもある。
それでも、負けは負けだった。
決闘の誓いは騎士の誇りに関わる。相手が敵国の将であろうと、大罪人であろうと、辺境で畑の水路を直している青年であろうと、勝敗を認めない騎士に白華を名乗る資格はない。
リディアは敗北を認めた。
命令の執行も保留した。
自分の部下たちが何を思ったとしても、それだけは曲げられない。
問題は、彼女の誇りとは別の場所にあった。
「あの術式は、何だ……?」
あらためて考えるほど、理解しがたい。
壁山とおるの能力は、表面上は単純な防御スキルに見えた。魔力で遮蔽物を生み、剣や牙や矢を防ぐ。実戦ではありがちな能力であり、王都の騎士学校にも似た術式を扱う者はいる。城壁系、防盾系、結界系、硬化系。どれも防御の基本として研究されている。
あの青年の〈壁〉は、そうした系統のどれとも合わない。
リディアの聖魔力は、肉体の中心から胸部回路を通り、右肩、腕、剣へと流れる。その流れに詠唱を重ね、足運びと呼吸を合わせることで、斬撃はひとつの術式として完成する。剣士にとって攻撃とは腕を振るだけの行為ではない。肉体、魔力、意思、武器、相手との距離、そのすべてが連動したひとつの現象である。
壁山とおるは、その連動の途中に、何かを挟んだ。
刃の前ではない。
鎧の表面でもない。
もっと内側、魔力が動作へ変換される境目、本人でさえ普段は意識しない薄い隙間へ、透明な板のような術式を差し込んだ。
その結果、リディアの剣は止まり、魔力回路は乱れ、身体は勢いを失い、なぜか村の壁へ上半身から収納された。
最後の部分だけ、いくら分析しても理屈が追いつかなかった。
魔術理論において、人間は箪笥ではない。
収納される前提で作られていない。
「あんなボンクラに……」
リディアは歯を食いしばる。
とおるの顔を思い出す。黒髪、細身、覇気のない目、緊張すると不要な補足を足す口、騎士団長を前にしても妙に庶民的な敬語を崩さない態度。強者の気配は薄い。英雄の風格もない。威圧感は、村の鶏と比較しても控えめと言ってよかった。
まともな戦闘経験など積んできたように見えない。
都会の闘技場で死線をくぐった者の目ではなかった。軍で磨かれた者の足運びでもない。訓練された殺気もない。むしろ殺気の代わりに「この話し合い、早く終わらないかな」という生活感が漏れていた。
それでいて、あの青年は戦いの中でリディアの間合いを読み、壁を置き、最後には魔力回路の流れを遮断した。
弱者としての戦い方。
それも、弱いまま生き延びることに最適化された技術。
リディアはそれを思い出し、ほんの少しだけ表情を引き締めた。
「……油断で済ませるな、リディア」
敗北を汚名として恥じるのは当然。
滑稽な決闘を受けた自分の判断も反省すべき。
部下たちの面目を危うくしたことも、王都へ戻れば報告書で頭を抱える未来が待っている。
それでも、あの術式の危険性と可能性を見落とすほうが、隊長としてはよほど愚かだった。
天幕の外から、副官の声が聞こえた。
「隊長。村長と壁山とおるを案内しました」
「通せ」
リディアは椅子から立ち上がり、背筋を伸ばした。
怒りも恥も、今は奥へ押し込む。白華の隊長として、やるべきことをやる。壁に関する記憶は、ひとまず心の地下倉庫に封印した。封印強度に不安が残るため、見張りを三人ほど置きたいところだった。
天幕の入口が開き、村長と壁山とおるが入ってくる。
村長は緊張で顔を強張らせていた。とおるはもっと複雑な表情をしており、謝罪したい、質問したい、帰りたい、何なら椅子の裏に隠れたい、という複数の感情が顔面で順番待ちをしていた。
「座れ」
リディアが告げると、村長は恐る恐る椅子に腰を下ろした。
とおるは椅子を見たまま、なぜか一拍遅れる。
「どうした」
「いえ、騎士団長の前で座っていいのか、村人枠として座るべきか、決闘の当事者枠として立つべきか、判断に迷いまして」
「座れと言った」
「はい」
とおるは素直に座った。
座り方は浅い。逃げる準備をしている小動物のようだった。
天幕の中央には大きな地図が広げられている。クルム村、周辺の森、東の街道、北西の丘陵、そのさらに奥に描かれた一本の細い塔。地図上で見ると小さな記号にすぎないその建造物を、リディアは指で示した。
「我々がこの地へ来た理由を話す。最初に確認する。お前たちは、星の塔を知っているな」
村長は重々しくうなずいた。
「もちろんです。村の古い者は皆、子どもの頃から聞かされております。森の奥、星見の丘に立つ大塔。近づくな、石を持ち帰るな、夜に灯りが見えても追うな、と」
とおるも小さく手を挙げた。
「俺も、文献で読みました。実物も何度か遠目に見に行っています。近くまで行くと、魔力の流れが変になるので、あまり長居はしてませんけど」
「勝手に入ったのか」
「外周だけです。村の若者たちが肝試しに行く距離より手前です」
「それをなぜ自慢げに言う」
「陰キャは危険なイベントの手前で引き返す判断が得意なので」
リディアは眉間を押さえた。
この青年は真面目な会議の温度を、発言ひとつで三度ほど下げる能力を持っている。〈壁〉とは別種のスキルではないかと疑いたくなる。
「星の塔には、多くの伝承がある」
リディアは地図に視線を戻した。
「神々が眠る場所。星の船が墜ちた跡。大地の臍。世界が二つに裂けた傷口。地方によって呼び名は違う。王国の正式記録では、星の塔およびその地下構造物は、第一級古代遺構に指定されている」
「第一級……」
村長の顔色がさらに悪くなる。
とおるは耳慣れない分類に首を傾げた。
「第一級って、どれくらい危ないんですか」
「王都の地下宝物庫に収められている呪具より上。国境沿いの魔獣巣より上。王族しか閲覧できない黒印文書と同格、またはそれ以上」
「思ったより話が大きい」
「思ったより、で済ませる神経が怖いな」
「急に大きい話をされると、人間は逆に実感が湧かないんです」
「妙なところで冷静だ」
リディアは、地図の塔から周囲へ広がるように赤い線を引いた。正確には、すでに引かれた魔力測量線をなぞっただけである。赤い線は森を抜け、クルム村の真下を通り、さらに南の谷へ伸びていた。
「かつて、この世界には魔力という概念が存在しなかったとされる」
その言葉に、とおるは思わず目を上げた。
「魔力が、なかった?」
「現在の神学、魔術史、古代地質学の共通見解では、そう推定されている。もちろん年代については学派によって揺れが大きい。数万年前とする者もいれば、数十万年前までさかのぼる者もいる。かつて大陸はひとつであり、世界全体の地脈も今とはまるで違っていた。大陸の分裂と、魔力の発生が同時期に起きたのではないか、という説が有力だ」
「急に授業みたいになってきましたね」
「必要な説明だ」
「はい。ノート取ったほうがいいですか」
「取れるなら取れ」
とおるは本当に懐から小さな帳面を出した。
リディアは一瞬だけ目を細めた。冗談で言ったのに、相手が真面目に対応してきた場合、人は少しだけ損をした気分になる。
「星の塔が発見されたのは、少なくとも千年以上前。王国成立より前の時代だ。伝説では、空から巨大な船が落ちてきたとされている」
「船、ですか。空から」
「そう記録されている」
「比喩ではなく?」
「不明だ。詩的表現とする学者もいる。古代の飛行都市と考える者もいる。神々が乗っていた棺だと語る神官もいる。王国の調査団は、いずれの説も正式には採用していない」
とおるの指が帳面の上で止まる。
空から落ちた巨大な船。
魔力がなかった世界。
大陸の分裂。
現代の知識では理解できない超文明の遺跡。
それは、ラノベ脳を持つとおるにとって、あまりにも危険な単語の並びだった。だいたいこういうものは、古代兵器か、封印された神か、異世界人の先輩が残した失敗作と相場が決まっている。どれも関わりたくない。辺境スローライフを名乗るなら、せめて古代遺跡は遠くの山にあってほしかった。
「塔の下には、広大な地下遺構がある」
リディアは続けた。
「王国の調査記録では、便宜上それを古代都市と呼んでいる。通路、広間、封鎖扉、用途不明の装置、文字とも図形ともつかない刻印、魔力に反応しない金属、光を吸う石材。現代の術式体系では説明できないものばかりだ」
「調査は進んでいるんですか」
「ほとんど進んでいない」
「千年もあったのに?」
「千年かけても、入口付近を撫でているに等しい。深部へ進めば測量術式が狂う。灯火魔法は不安定になる。方向感覚を失い、戻った調査員の記憶が部分的に欠ける事例もある。数十年前には、王都から派遣された高位魔導師が三名、地下第三層で行方不明になった」
村長が小さく呻いた。
とおるも帳面に「地下第三層、行方不明、行きたくない」と書いた。隣からリディアに見られたので、さりげなく手で隠した。
「それ以来、王国は星の塔周辺を研究区域として管理し、必要最低限の監視だけを続けてきた。大きな進展は長らくなかった」
「長らく、ということは」
「数年前から、変化が起きている」
天幕の空気が重くなる。
リディアは地図の脇に置かれた別紙を広げた。そこには波形のような線がいくつも記録されている。魔力観測塔から送られてきた測定資料らしく、複雑な数字と専門用語が並んでいた。
とおるは一目見て、内容の半分以上を理解できないと悟った。
偏差値七十のプライドは、異世界専門用語に対して意外と脆かった。
「近隣都市ラグメルの観測塔で、異常な魔力波が検出された。発生源は星の塔地下深部。最初の観測は三年前。その後、年に一度あるかないかの頻度で似た波形が出ていた」
「三年前……」
とおるは眉を寄せた。
自分がこの世界へ来たのも、およそ三年前である。
偶然と言い切るには、あまり気持ちの悪い一致だった。
リディアはその反応を見逃さなかった。
「心当たりがあるのか」
「いえ。俺がこの村に来た時期と近いなと思っただけです」
「お前は、この村の出身ではないな」
「まあ、かなり遠くから」
「どこだ」
「説明が難しい場所です」
「難しいで済むと思うな」
「説明すると会議が別ジャンルになります」
リディアの視線が鋭くなる。
とおるは静かに帳面を閉じた。今は異世界転移の話を広げるべきではない。広げたところで、自分にも仕組みがわかっていない。謎のゲームソフトに触ったら森にいました、と真顔で言えば、騎士団の調査対象が星の塔から自分に移る危険もある。
その展開は困る。
とても困る。
解剖とかされそうで困る。
「話を戻す」
リディアは追及したそうな顔を残しつつ、資料へ目を落とした。
「過去数回の異常波は、規模も小さく、観測時間も短かった。調査団は地脈の一時的な乱れとして処理してきた。今回検出された波形は違う。強度、周期性、発生深度のすべてが過去最大。星の塔の地下にある何かが、眠りから覚めつつある可能性がある」
「何か、ですか」
「記録には明記されていない」
「騎士団長にも?」
「少なくとも、私に渡された資料にはない」
その言葉で、天幕内の全員が微妙な表情になった。
王国最高戦力の隊長にさえ伏せられている。
つまり、王国上層部は何かを知っている可能性が高い。リディアにすら知らされていない情報があり、その情報を前提に、この辺境一帯の長期封鎖という重い議決が下された。
とおるは腕を組む。
「なんというか、説明されればされるほど、説明されていない部分が大きくなっていきますね」
「同感だ」
リディアは否定しなかった。
その率直さに、とおるは少し意外な顔をした。
「王国の命令は絶対だ。私は白華の隊長として命令を遂行する。近年、王国は北方諸国と緊張状態にあり、南の港湾都市でも不穏な動きがある。最高戦力である王樹十二華騎士団を一か所へ集中させる余裕はない。今回この地へ送られた我々は、第一調査隊の先遣部隊にすぎない」
「先遣部隊に騎士団長が来るんですか」
「本来なら副隊長級で足りる。星の塔が関わる以上、隊長格がひとりは必要と判断された」
「それだけ危ない」
「危ない可能性がある、という段階だ」
「可能性で村を丸ごと閉鎖するんですか」
「議会と王宮魔導院は、今後長期にわたり、この一帯を封鎖する方針を固めた。クルム村は星の塔へ至る地脈枝の上にある。地下構造の一部が村の直下まで伸びている可能性もある」
村長が顔を上げた。
「この村の下に、古代都市が……?」
「確証はない。魔力波の反射と地脈測量図を照合すると、その可能性を否定できない」
村長は黙り込んだ。
村に住む者たちは、星の塔の存在を知っていた。森の奥にある不吉な建物。子どもに近づくなと教える場所。古い神話や祭りの言い伝えに出てくる、半分物語の中の土地。
その地下の何かが、自分たちの家の下まで伸びているかもしれない。
そう告げられて、すぐに言葉を返せる者はいない。
とおるは、地図の赤い線を見つめた。
自分が畑の水路を直した場所。
村の子どもたちと土人形を作った広場。
老婆に芋を押しつけられた道。
その下に、千年以上研究しても理解できない古代都市が眠っている。
それは物語としてなら最高に面白い。
住民としては、最悪に胃が重い。
「調査って、具体的には何をするんですか」
「星の塔の外周確認、地下入口の封印状態の測定、地脈枝の再測量、村周辺の魔力汚染の有無を調べる。必要なら地下第一層へ入る」
「地下第一層」
とおるの中で、ゲーム的な警戒音が鳴った。
第一層という言葉には、第二層、第三層、最深部という嫌な親戚がいる。しかもさっき、第三層で行方不明者が出ていると聞いたばかりである。地下第一層なら安全、などという都合のよい保証はどこにもない。むしろ物語では、入口が一番油断を誘う。
「俺たちも同行するんですか」
「お前には来てもらう」
「なぜ俺限定で」
「お前の〈壁〉が封印や地脈に反応するか確認したい。さらに、村周辺の地理に詳しい。魔物への対処経験もある。加えて、昨日の決闘で私に勝った責任がある」
「最後だけ理由の毛色が違いませんか」
「気のせいだ」
「だいぶ私情が入ってませんか」
「気のせいだ」
「二回言うと余計に怪しいです」
リディアは軽く咳払いをした。
村長は、とおるを心配そうに見た。
「トオル、無理はせんでよいのだぞ」
「村長、俺も行きたくない気持ちは、かなりの完成度で仕上がっています」
「ならば」
「でも、村の下に何があるか分からないまま、みんなに退去しろとも残れとも言えません。見られる範囲は、自分で見ます」
とおるの声は、派手ではなかった。
英雄の宣言にしては弱く、騎士の誓いにしては肩の力が抜けていて、酒場で「ちょっと様子見てきます」と言う時の温度に近かった。
それでも、村長はその言葉を聞いて、静かにうなずいた。
「すまんな」
「いえ。こういうとき、村でそこそこレベル上げしていた人間が動く流れになるのは、ジャンルの宿命なので」
「ジャンル?」
「こちらの話です」
リディアは、また変な言葉を聞いたという顔をした。
とおるという青年は、時々この世界の者ではないような言い回しをする。実際にそうなのかもしれない。星の塔の異常波が三年前から観測され、同じ時期に彼がこの村へ流れ着いたという事実は、隊長として頭の片隅へ留めておくべきだった。
会議は続いた。
調査へ向かう人数は最小限。
リディア、白華隊の副官マルク、魔導測量士のエルネ、神官記録官のセレナ、村の代表として村長の代理を務めるとおる。村長は高齢であり、星の塔までの道は半日以上かかるため、村で待機することになった。騎士団の残りは村の外周警備と住民保護へ回される。
副官マルクは、実直そうな灰髪の騎士で、終始リディアの顔色をうかがっていた。特に壁という単語が出るたび、彼の肩が少し跳ねる。優秀な副官に必要なのは、剣術でも指揮能力でもなく、上司の地雷を踏まない足裏感覚なのかもしれない。
魔導測量士エルネは、小柄な女性で、大きな眼鏡とさらに大きな測定杖を持っていた。とおるを見るなり、興味深そうに目を輝かせた。
「あなたが例の壁の人ですか」
「壁の人は俺じゃないと思います」
「あっ、では壁にした人?」
「それもだいぶ語弊があります」
「境界干渉系の固有スキル保持者なんて、文献上でも珍しいんですよ。あとで魔力回路の計測をさせてください。痛くしません。たぶん」
「最後に不安を置かないでください」
神官記録官セレナは、穏やかな笑みを浮かべた白衣の女性で、羊皮紙と羽ペンを抱えていた。
「安心してください。調査中の発言は正確に記録します」
「それは安心材料ですか」
「歴史に残る可能性があります」
「不安材料でした」
リディアが鋭く言う。
「余計な記録は残すな」
「もちろんです、隊長。昨日の決闘における特異事象については、王国機密扱いで記録します」
「書くな」
「では口述で」
「残すなと言っている」
セレナはにこにこしていた。
白華隊にも、なかなか癖の強い人材がいるらしい。
とおるは少しだけ安心した。まともな人間しかいない組織より、多少変な人が混ざっている集団のほうが、ぼっちにはまだ呼吸しやすい。完全無欠のエリート集団に放り込まれると、自分の呼吸音が場違いに聞こえる。癖のある人々の中なら、自分の挙動不審も風景の一部になる。
準備は昼前に始まった。
リディアたちは手際がよかった。武具の点検、魔力石の配分、測量器具の固定、緊急信号筒の確認、予備食料の分配。白華隊の騎士たちは余計な言葉を交わさず、各自の役割を淡々とこなしていく。さすが王国最高戦力の一翼と呼ばれるだけはある。
一方、とおるの準備は生活感に満ちていた。
短剣、革手袋、携帯食、村で作った薬草布、水筒、小型ランタン、予備の紐、折り畳みナイフ、干し芋、さらに村の老婆が持たせた焼き芋二本。
リディアはその荷物を見て、眉をひそめる。
「遠足ではない」
「知っています。遠足ならもっと気楽な顔をしています」
「その芋は何だ」
「村のマーサ婆さんが、腹が減ると人間は判断を誤るから持っていけと」
「理屈は正しい」
「ですよね」
「本数が多い」
「愛情が重いんです」
とおるは鞄の奥へ芋を押し込んだ。
リディアは小さく息を吐く。
「それと、確認しておく」
「はい」
「調査中、勝手に〈壁〉を使うな」
「必要なときは?」
「私に確認しろ」
「魔物が飛びかかってきたときも?」
「その場合は使え」
「落石が来たときは?」
「使え」
「鍋の蓋がないときは?」
「使うな」
「基準が明確で助かります」
リディアの視線が冷たい。
とおるは大人しくうなずいた。
村の外れに集合した頃には、空はよく晴れていた。
クルム村の家々から、心配そうな顔がいくつも覗いている。子どもたちは興味津々で騎士団の装備を見つめ、老人たちは祈るように手を組み、村長は杖をつきながら、とおるの前へ歩み寄った。
「頼むぞ、トオル。無茶はせんようにな」
「できるだけ壁の後ろで生きます」
「お前らしい答えじゃ」
「褒め言葉として受け取ります」
村長は苦笑し、とおるの肩を軽く叩いた。
その力は弱い。けれど、とおるにはずっしり重く感じられた。責任というものは、鎧より軽そうな顔をして、実際には甲冑を着た騎士団長より重い場合がある。昨日の受け止め失敗を思い出した彼は、心の中で責任とリディアの重さを比較し、すぐにその思考を封印した。
リディアが振り返る。
「出発する」
白華隊の小隊が動き出す。
森へ続く道は、村人たちが長年使ってきた細い獣道から始まっていた。畑の脇を抜け、石積みの祠を越え、背の高い草が風に揺れる丘へと続く。その先、木々の向こうに、まだ遠い星の塔の影がかすかに見えた。
とおるは歩きながら、その黒い輪郭を見つめた。
神々が眠る場所。
空から落ちた巨大な船。
魔力が生まれる前の世界を知る古代都市。
王国が千年以上研究し、それでも入口付近すら理解できない遺跡。
その深部から、三年前より異常な魔力波が響き始めた。
そして三年前、この世界へ壁山とおるがやって来た。
偶然と言えば偶然。
物語と言えば、あまりに物語。
彼は鞄の中の焼き芋が潰れていないか気にしながら、乾いた笑いをこぼした。
「攻略難易度、急に上がりすぎでは……?」
「何か言ったか」
リディアが振り返る。
「いえ。平和な村暮らしの継続に暗雲が立ち込めているな、と」
「それは最初からそう言っている」
「できれば、もう少し段階的に教えてほしかったです。村の地下に古代都市、星の塔に神々、王国機密、異常魔力波、ついでに自分のスキルが危険物かもしれない。情報量が昼食前の胃に厳しい」
「昼食前の胃で世界の危機を測るな」
「俺の胃は正直なので」
リディアは呆れたように前を向いた。
その横顔には、まだ敗北の悔しさが残っている。とおるへ向ける視線も冷たい。おそらく昨日の件を完全に許す日は遠い。というより、永遠に来ない可能性もある。
それでも、彼女は約束を守った。
村を守るための調査に、とおるを連れて行くことを選んだ。
とおるはそれだけで、彼女をただの横暴な騎士とは思えなくなっていた。
もちろん、怖いものは怖い。
壁に埋めた手前、余計に怖い。
森の入口へ差しかかったところで、村の少年が遠くから叫んだ。
「とおる兄ちゃーん! 壁の人に気をつけてねー!」
リディアの足が止まった。
空気が凍った。
とおるはゆっくり振り返り、少年へ向かって必死に両手で大きなばつ印を作った。
遅かった。
リディアの声が、ひどく静かに降ってきた。
「壁山とおる」
「はい」
「帰ったら、村内機密という言葉の意味を、全員に教えろ」
「はい。識字教育と合わせて徹底します」
「そして、お前も忘れろ」
「はい」
「今すぐ忘れろ」
「はい」
「忘れたな」
「何の話でしょうか」
リディアは、ようやくわずかに満足したようだった。
とおるは冷や汗を拭いながら、森へ一歩踏み入れる。
木々の奥から、冷たい風が流れてきた。
それは夏の森に吹く風としては不自然なほど澄んでいて、どこか金属の匂いを含み、耳の奥を小さく震わせる奇妙な響きを伴っていた。
魔力波。
そう呼ばれるものの片鱗なのかもしれない。
エルネが測定杖を見下ろし、眼鏡の奥で目を見開いた。
「……村の外周でこの反応ですか。これは、想定より強いですね」
リディアの表情が引き締まる。
とおるの胃も引き締まる。
焼き芋だけが、鞄の中で何も知らずに眠っていた。
彼らは星の塔へ向かう。
辺境の村を出た先に待つものが、古代の眠りなのか、王国が隠した秘密なのか、それとも壁山とおる自身に関わる何かなのか。
まだ誰も知らない。
ただひとつ確かなのは、平和にレベルアップしていただけの青年が、またしても本来なら近づかないほうがいいイベントの中心へ、非常に不本意そうな顔で歩いているということだった。




