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第1話 村を守ったら、王国の女騎士団長が壁に埋まった



 壁山とおるの人生を一皿の料理にたとえるなら、それは隠キャ性能を限界まで煮詰め、ぼっち耐性という香辛料を惜しみなく振りかけ、仕上げに「人間関係? それは攻略対象外ですね」という冷めたソースを添えた、実に専門性の高いスペシャリテであった。


 幼い頃から、とおるは集団行動というものがあまり得意ではなかった。


 運動会では、リレーの走順を決める会議において、誰にも指名されないまま空気と同化する才能を発揮し、文化祭では、クラスメイトたちが青春の熱量で焼きそばの具材について熱く議論する横で、なぜ人類は粉末ソースにここまで感情を注げるのかという哲学的疑問を抱きながら、段ボールを黙々と畳んでいた。


 成績は悪くない。むしろ良かった。偏差値でいえば七十付近をうろつく、教師から見れば「もっと積極性があればなあ」と言われるタイプであり、本人からすれば「積極性というステータスに経験値を振るくらいなら、読解力とゲーム理解度に振ります」という極めて合理的な配分をしていただけである。


 友人と呼べる存在は、いなかった。


 彼女という概念については、もはや図鑑の中に載っている珍獣に近かった。存在は知っている。街を歩けば観測できる。高校の廊下でも発生しているらしい。けれど自分の生活圏内に自然湧きすることはなく、攻略サイトを開いても出現条件が不明なまま、いつの間にかサービス終了の気配を漂わせていた。


 そんなとおるにとって、ひとりの時間は逃げ場ではなかった。


 主戦場である。


 放課後の寄り道、休日のカラオケ、誰かの誕生日会、そういった陽の者たちが輝くイベントをすべて丁寧に回避し、自室に帰り、ゲームを起動し、ラノベを積み、ネットの攻略掲示板を読み、誰にも話しかけられない空間で脳を最大限に回転させる時間こそ、彼にとっての青春だった。


 人との間に壁を作ることに関して、とおるは生まれながらの職人であった。


 笑顔で話しかけられたときに、必要最低限の返答だけをして会話の通路を閉鎖する壁。


 グループ作業で「どこ担当する?」と聞かれたとき、誰もやりたがらない資料整理を即座に引き受け、他者との共同作業領域から安全に退避する壁。


 休日に「暇?」とメッセージが来たとき、三時間後に「ごめん寝てた」と返すことで、相手にも自分にも深追いさせない柔らかな壁。


 人生そのものが、見えない壁の建築現場だった。


 その性質が、異世界に転送された彼のスキルに影響したのかどうかは、学者でも神官でも魔導師でも正確には判断できない。とおる本人にも、自覚はほとんどなかった。


 謎のゲームソフトがアパートに届き、説明書も送り主もないまま、どう見ても怪しいパッケージの起動画面に「新規開始」と表示された夜。


 とおるは、危険を感じなかったわけではない。


 むしろ、かなり感じていた。


 現代日本で突然届く謎のゲームソフトなど、ホラー作品か都市伝説か詐欺の入口である。普通なら警察か消費者センターに相談するところを、とおるはしばらく画面を眺めたのち、長年鍛えられたゲーマーとしての好奇心に負けた。


 押した。


 画面が光った。


 部屋が消えた。


 気づけば、彼は辺境の森の入り口で、見たこともない双角の猪に追いかけられていた。


 そこからの数ヶ月は、とおるにとって人生最大の混乱期であり、同時に、隠キャ知識の総決算でもあった。


 言葉は通じる。食べ物はある。魔物もいる。ギルドもある。魔法もある。ステータスらしきものが頭の中に表示される。いかにも異世界転移である。


 とおるは最初の三日間こそ「え、無理、帰りたい、いや帰っても家賃払えるかな、そもそも部屋どうなってるんだ」と錯乱していたものの、四日目には村の書庫に入り浸り、七日目には野草と毒草の見分け方を覚え、十日目には村の子どもたちに混じって基礎魔力の扱いを習い、三十日目には「これ、思ったよりゲーム知識が通じるな」と静かに理解していた。


 それから三年。


 辺境の小さな村、クルム村において、壁山とおるはすっかり馴染んでいた。


 畑の水路が詰まれば直し、壊れかけた橋があれば補強し、夜に魔物の気配がすれば森の外縁まで出て追い払い、村長の腰が痛むと聞けば前世の湿布知識を応用して薬草布を作り、子どもたちに計算を教え、老婆たちに「トオルは細いからもっと食べな」と芋を山盛りにされ、そのたびに胃袋の限界と村人の愛情の重さを同時に噛みしめていた。


 彼は英雄になりたかったわけではない。


 王都で名を上げる野心もなく、魔王を倒して伝説になる予定もなく、美少女たちに囲まれてハーレムを形成したいと叫ぶほどの度胸もなかった。正直なところ、よく眠れて、ほどほどに働けて、たまにレベルが上がり、村人に挨拶されても心臓が爆発しなくなった現在の生活は、とおるにとって十分すぎるほどの成功であった。


 この世界には、魔力がある。


 魔力とは、あらゆる生命体の内側を巡る力であり、肉体を動かす血の流れとは別に、精神と魂の奥を走るもうひとつの流路だと考えられている。目に見えない水路のようなもの、と村の古い神官は説明していた。身体の中に張り巡らされた魔力回路を通り、意思と呼吸と経験によって練り上げられ、外界へと形を与えられたとき、それは魔法や術式と呼ばれる。


 術式とは、魔力に命令を与えるための構造である。


 炎を出すなら、熱を集め、方向を定め、燃焼の条件を整える必要がある。水を操るなら、湿度や質量、流れの向き、維持時間などを組み込まねばならない。単に「燃えろ」「凍れ」と願うだけで世界が気軽に応じてくれるほど、現実は親切ではない。異世界であっても、現実は現実であり、魔法は雰囲気ではなく理屈で動いていた。


 そして、スキルとは個人の魂や肉体、経験、適性に深く結びついた固有の術式である。


 訓練によって伸びる。熟練によって精度も上がる。魔力回路の使い方を覚えれば応用も利く。それでも根本部分は本人の性質に縛られるため、他人のスキルをそのまま真似ることはできない。炎の剣を生み出す者もいれば、影の中を移動する者もいる。獣を従える者、傷を縫う者、音を刃にする者、視界に入った対象の重さを一時的に変える者までいるらしい。


 とおるのスキルは、〈壁〉だった。


 名前を聞いた村の若者は、最初、絶妙に気を遣った顔をした。


「防御向きで、いいんじゃないか?」


 その一言には、「派手さはないけど元気出せよ」という慰めが、干し肉よりも噛み応えたっぷりに含まれていた。


 とおる自身も、最初は外れ能力だと思った。炎も雷も出ない。剣が巨大化するわけでもない。身体能力が十倍になる気配もない。指定した対象物と空間の間に、魔力でできた一枚の壁を挟む。それだけ。


 地味である。


 誕生日会における端の席くらい地味であり、集合写真の二列目で前の人の肩越しに半分だけ顔が映っている人くらい地味であり、強そうなスキル名が並ぶ一覧表の中に置くと、役所の建築許可申請みたいな顔をしていた。


 ところが、使い込むほどに、とおるは気づいた。


 このスキル、制約が妙に緩い。


 多くのスキルには、距離、視界、対象の材質、魔力量、発動の姿勢、詠唱、持続時間など、細かな条件がついている。術式は複雑になるほど強力になる一方、条件も増え、発動までの工程も増える。戦闘中に詠唱を噛めば失敗するし、魔力回路の流れを乱されれば暴発もする。


 〈壁〉は違った。


 壁を置く。


 それだけで成立する。


 もちろん限界はある。現在のとおるが同時に維持できる壁は三枚まで。強度は日によってばらつき、魔力の流れが悪い朝には、やけに薄く頼りない壁になることもあった。形状を細かく調整しようとすると集中力を使い、長時間維持すれば頭痛も来る。巨大な壁を出そうとすれば、一気に魔力を持っていかれる。


 とはいえ、発動位置の自由度が高すぎた。


 矢と村人の間に壁を差し込む。


 魔物の牙と自分の腕の間に壁を差し込む。


 崩れかけた屋根と床の間に、仮の支えとして壁を差し込む。


 畑に流れ込みすぎた水を、ほんの数分だけせき止める。


 鍋の蓋が見つからないとき、熱気を逃がさないよう鍋の上に小さな壁を張る。


 最後の使い方を見た村の料理番には「便利すぎるけど神聖さがない」と評された。


 とおるは、三年かけて、この地味なスキルを地味に磨き続けた。


 剣を振るより壁を置く。


 魔法を撃つより壁を差し込む。


 派手な必殺技を叫ぶより、相手の動きが成立するために必要な空間を見つけ、そこに黙って壁を置く。


 そうして彼は、地方のギルドに登録したハンターとして、そこそこ知られるようになっていた。


 派手な二つ名はない。


 本人も求めていない。


 村人たちは親しみを込めて「壁の兄ちゃん」と呼び、近隣のハンターたちは少しだけ畏怖を込めて「攻めにくい奴」と呼んだ。


 とおるは、その評価で満足していた。


 攻めにくい奴。


 なんと自分らしい響きだろう。


 穏やかな暮らしは、ある日の朝、馬蹄の音によって破られた。


 クルム村の広場に、王国騎士団の一行が現れたのである。


 白銀の鎧をまとった騎士たちが、整然と隊列を組み、村人たちの視線を受けても眉ひとつ動かさず、まっすぐ村長宅の前へ進んでいく。その中央にいたのは、ひときわ目立つ女騎士だった。


 背は高く、姿勢は真っ直ぐで、鎧の胸元には王国聖騎士団の紋章が刻まれている。腰まで届く淡い金髪は戦場に似つかわしくないほど美しく、青い瞳は冬の湖のように澄んでいるにもかかわらず、視線を向けられた者は、なぜか背筋を正したくなる圧を感じた。


 リディア・アルヴェイン。


 王国聖騎士団長。


 とおるはその名を、近隣都市のギルドで耳にしたことがあった。王都の剣術大会を最年少で制し、聖属性の魔力回路を持ち、魔物の大群を単騎で食い止めた逸話まであるという、物語なら中盤以降に仲間になるか、最初に主人公を叩きのめして成長を促すタイプの人物である。


 そのリディアが、村長に一枚の封書を渡した。


「王国命令である。クルム村は本日をもって閉鎖準備区域に指定された。住民は三日以内に退去せよ。移住先の手続き、補償、護送については王国が責任を持つ」


 広場の空気が、一瞬で凍った。


 村長は封書を受け取ったまま、何度も瞬きをした。


「閉鎖、ですと?」


「詳細はこの文書に記されている」


「理由をお聞かせ願えませんか。ここは小さな村ですが、皆、長く暮らしてきた土地です。畑も家も、先祖の墓もあります」


「説明できる範囲には限りがある」


 リディアの声は冷たく聞こえた。


 とおるには、それが感情のない冷酷さではなく、感情を押し殺している者の硬さであるようにも思えたものの、村人たちにとっては突然生活を奪われる宣告にほかならなかった。


「三日で出ろなんて、無茶だよ!」


「牛はどうするんだい!」


「王国が責任を持つって言ったって、畑は持っていけねえだろ!」


 声が広がる。


 騎士たちは動かない。


 村人たちも、怒ってはいるが、相手が王国騎士団である以上、拳を振り上げることはできない。王国の法に逆らえば、村ごと反逆の疑いをかけられる危険もある。


 その場の空気は、巨大な石を胸に置かれたように重かった。


 とおるは、広場の端に立ったまま、奥歯を噛んだ。


 ここは、彼がようやく手に入れた居場所だった。


 誰かと自然に挨拶できるようになった場所。


 変な失敗をしても笑って済ませてもらえる場所。


 ひとりでいることを否定されず、それでも腹が減れば飯に呼ばれる場所。


 日本にいた頃の彼なら、権力者に正面から意見するなど考えもしなかった。学校の先生にすら、プリント提出の順番を確認するだけで脳内会議を五分開いていた男である。ましてや鎧の騎士団長など、存在そのものが圧迫面接だった。


 それでも、とおるは歩き出した。


「すみません」


 声は思ったよりも小さかった。


 本人は勇ましく言ったつもりだったものの、実際には図書館で隣の人に消しゴムを拾ってもらったときくらいの声量である。


 リディアが視線を向ける。


 その瞬間、とおるの内臓が全員で会議を始めた。


 胃が退職願を出し、心臓が異議を唱え、肺が議事録を取り損ねる。


 それでも彼は止まらない。


「なぜ、この村を閉鎖する必要があるんですか」


「民間人に開示する義務はない」


「せめて、危険があるのかどうかだけでも」


「繰り返す。開示する義務はない」


「王国の命令なら何をしてもいい、という意味ではないはずです」


 騎士たちの視線が鋭くなった。


 村人たちが息を呑む。


 リディアの青い瞳が、とおるを正面から射抜いた。


「名は」


「壁山とおるです」


「変わった名だ」


「よく言われます。元の世界でもまあまあ浮いていました」


「元の世界?」


「こちらの話です」


 とおるは咳払いをした。


 自分でも何を言っているのかわからなくなりつつあった。緊張すると余計なことを口走る癖は、異世界に来ても治っていない。


「とにかく、この村の人たちは納得していません。理由を説明せずに退去だけ命じるのは、乱暴です」


「乱暴で済むなら、まだ軽い。命令に従わねば、より厳しい措置が取られる」


「それは脅しですか」


「警告だ」


 広場の空気がさらに張り詰めた。


 リディアの手が剣の柄に近づく。


 とおるはその動きを見て、背中に嫌な汗をかいた。


 まともに戦えば勝てる相手ではない。


 それは見ただけでわかる。歩幅、重心、呼吸、周囲の騎士たちが彼女に向ける信頼の濃さ。すべてが「強者」と書かれた看板を背負っていた。とおるはゲーム知識のおかげで、こういう人物がチュートリアルボスではなく、負けイベント担当であることを理解していた。


 それでも彼は、言った。


「決闘を申し込みます」


 村長が咳き込んだ。


 近くにいた少年が「えっ」と素直な感想を漏らした。


 騎士のひとりが、あまりに予想外だったのか、槍の石突きを自分の足に軽くぶつけて小さく呻いた。


 リディアだけは表情を変えなかった。


「正気か」


「正気ではあります。自信はあまりありません」


「ならば、なぜ申し込む」


「この世界では、正式な決闘の誓いには意味があると聞きました。騎士が受けた決闘であれば、勝敗に応じて条件を守る。違いますか」


「相手と条件による」


「俺が勝ったら、村の閉鎖命令は一旦保留。理由を説明する。村人の退去は、説明と協議のあとにしてください」


「お前が負けた場合は」


「俺は王国騎士団の命令に従います。村人たちにも、退去を説得します」


「ずいぶんと大きく出たな。村の代表者でもない男が」


 とおるは、ちらりと村長を見た。


 村長は真っ青な顔をしていた。たぶん「頼むから今すぐその口を畑に埋めてくれ」と思っている。


 村人たちも不安げだった。


 とおるの足は震えている。手も冷たい。頭の中では「選択肢を間違えました。セーブ地点からやり直しますか?」という架空の表示が点滅していた。


 それでも、彼は逃げなかった。


「この村で、三年暮らしました。俺にとっては家です」


 リディアの瞳が、わずかに細くなる。


「家、か」


「はい。なので、勝手に壊されるのは困ります」


「こちらも遊びで来たわけではない」


「わかっています。だから決闘で」


「命を落としても知らんぞ」


「できれば、それは避けたい方向でお願いします」


 妙に情けない返答だった。


 村の少年が「とおる兄ちゃんらしい」とつぶやき、隣の母親に口を塞がれた。


 リディアはしばし沈黙し、やがて剣を抜いた。


 銀の刃が朝日に光る。


「いいだろう。王国聖騎士団長リディア・アルヴェインの名において、その決闘を受ける」


 騎士団員たちが広場の外周へ下がり、村人たちも慌てて距離を取った。


 とおるは腰の短剣を抜いた。護身用であり、魔物相手にとどめを刺す程度には使えるものの、騎士団長を相手に構えると、果物ナイフで台風に立ち向かっているような気持ちになる。


 リディアが剣を構えた。


 空気が変わる。


 ただ立っているだけで、彼女の周囲に薄い光が集まっていく。聖属性の魔力。澄んでいて、鋭くて、触れれば焼けるような清浄さを持つ力。とおるは魔力の流れを視るように意識し、頭の奥に浮かぶ自分の状態を確認した。


 名前、壁山とおる。


 レベル、四十二。


 スキル、〈壁〉。


 同時展開可能数、三枚。


 今日の魔力循環、良好。


 精神状態、最悪寄り。


 最後の項目は表示されていない。本人の実感である。


「始め」


 リディアが告げた。


 その一語が終わるより早く、彼女の姿がぶれた。


 とおるは反射で壁を置く。


 自分の前方、剣筋と首の間。


 透明に近い魔力の壁が、薄い板のように生まれ、リディアの剣を受け止めた。


 甲高い音が広場に響く。


 壁が軋む。


 とおるの額に汗が浮かんだ。


 重い。


 剣の一撃が、ただの物理攻撃ではない。聖属性の魔力が刃にまとわりつき、壁そのものを削っている。まるで、分厚い辞書を金属やすりで削られている気分だった。意味はよくわからないが、とにかく嫌な感覚である。


「防いだか」


 リディアの声には、わずかな驚きが混じっていた。


「一応、防御系なので」


「ならば、どこまで防げる」


 斬撃が増えた。


 一撃、二撃、三撃。


 とおるは壁を動かし、置き直し、ずらし、斜めに挟み、剣の軌道を逸らし続けた。真正面から受ければ壊れる。ならば、受けずに逸らす。押し返さず、通らせない。相手の力を止めるのではなく、相手の力が予定していた道に、そっと通行止めの看板を立てる。


 とおるの戦い方は、華麗とはほど遠かった。


 よく言えば合理的。


 悪く言えば、ものすごく陰湿。


 剣を振り抜こうとする空間に壁。


 踏み込もうとする足元に薄い壁。


 魔力を流そうとした回路の外側に、ほんの一瞬だけ干渉する壁。


 リディアは眉をひそめた。


「妙な術式だな」


「本人もそう思っています」


「壁というより、境界を作っているのか」


「たぶん、その解釈に近いです」


「戦いながら解説するな」


「すみません、緊張すると口が動くタイプで」


 村人たちは、固唾を呑んで見守っていた。


 最初は誰もが、とおるが一瞬で負けると思っていた。無理もない。相手は王国の聖騎士団長。こちらは村の便利な壁の兄ちゃん。肩書きの重量差だけで、すでに腰を痛めそうなほどである。


 ところが、とおるは粘った。


 地味に。


 とても地味に。


 粘着質に。


 リディアの剣は速い。力もある。魔力の質も高い。正面からぶつかれば、とおるの壁は長くもたない。


 そのため、とおるは正面に立たない。


 立っているように見せて、剣の通り道だけを塞ぐ。避けるように見せて、足場の間合いをずらす。壁を盾ではなく、相手の行動計画に挟む余計な付箋として使う。


 リディアの表情が、少しずつ真剣になっていった。


「なるほど。村の者にしては、随分と戦い慣れている」


「村の外の魔物がわりと凶暴なので」


「それだけではない。お前は、自分が弱いことを前提に戦っている」


「人生がだいたいそうでした」


「褒めている」


「ありがとうございます。褒め言葉として受け取るには、若干の苦味がありますけど」


 リディアの剣が、鋭く跳ね上がった。


 とおるは上に壁を置く。


 刃が壁に触れた瞬間、リディアの聖魔力が爆ぜた。


 壁が砕ける。


 一枚消失。


 とおるは後ろへ転がり、土にまみれながら距離を取った。


 村の子どもが「兄ちゃん、転がり方うまい!」と叫んだ。褒めるところがそこしかなかったのかもしれない。


 リディアは踏み込む。


 とおるは二枚目の壁を横に置き、彼女の足運びをわずかに遅らせた。


 半歩。


 その半歩で、彼は生き延びた。


 リディアの剣先が、とおるの髪を数本散らす。


 もし美容師なら相当な腕前である。本人に切る意志はなかったはずなので、なおさら恐ろしい。


「降参しろ」


「村の件、保留にしてくれます?」


「それはできない」


「じゃあ、もう少し頑張ります」


「頑固だな」


「人付き合いを避け続けた人間は、自分の中だけで結論を固めるのが得意なんです」


「面倒な精神構造をしている」


「よく言われました。主に担任に」


 リディアの魔力が高まる。


 聖なる光が剣身に集中し、空気が細く鳴った。必殺の一撃。とおるにもそれはわかった。受ければ、壁ごと持っていかれる。逃げても間に合わない。残る壁は二枚。真正面の防御に使えば、一枚目で砕け、二枚目も持つ保証はない。


 ここで、とおるは考えた。


 剣と自分の間に置くから、壊される。


 相手の力が完成したあとで止めるから、間に合わない。


 ならば、完成する前に止める。


 魔力は回路を通る。


 術式は、魔力が意味を持つための構造。


 スキルは、個人の性質によって固定された固有術式。


 リディアの一撃は、剣を振る肉体、剣に流れる聖魔力、踏み込みによる重心移動、そのすべてが噛み合って成立する。


 そのどこかに、壁を挟めないか。


 とおるは、息を吸った。


 世界が細くなる。


 剣の輝き。足元の土。リディアの呼吸。鎧の隙間を流れる魔力の線。肉体の動きと術式の発動が、一本の糸のようにつながっていく。


 壁山とおるは、人との間に壁を作ることに長けていた。


 相手の気持ちがこちらへ踏み込んでくる前に、そっと距離を取る。


 会話が深くなる前に、話題をずらす。


 期待される前に、自分から存在感を薄くする。


 そんな人生で培った、あまり誇れない観察眼が、この場で奇妙な形の才能として働いた。


 彼は、リディアという強者の中にある、ほんのわずかな“間”を見つけた。


 肉体が動く。


 魔力が走る。


 剣が振られる。


 その三つが完全に重なる、ほんの直前。


 そこに、壁を差し込んだ。


 透明な壁が生まれた。


 誰もが、剣の前に出ると思っていた。


 とおる自身も、そうなる予定だった。


 理論上は、リディアの魔力回路と術式の接続部に干渉し、一瞬だけ発動を乱すはずだった。非殺傷、非破壊、相手の動きを止めるための高度な応用。本人の脳内では、実に知的でスマートな決着図が描かれていた。


 現実は、もう少し建築寄りだった。


 リディアの身体が、横へ滑った。


 正確には、彼女の突進する力と、とおるの壁が発生した空間の位置が妙な形で噛み合い、広場のそばにあった集会所の外壁へ、彼女の上半身だけがきれいに押し込まれた。


 ごん、と鈍い音が鳴る。


 魔力の光が消える。


 剣が地面に落ちる。


 そして広場には、白銀の鎧をまとった王国聖騎士団長の下半身が、集会所の壁から生えているという、王国史に残すにはあまりに気まずい光景が完成した。


 沈黙。


 村人も、騎士も、とおるも、鶏も、全員が黙った。


 鶏については元から大して喋らない。


「……ええと」


 とおるは、自分の手を見た。


 それから、壁を見た。


 壁のこちら側に残されたリディアの足が、ぴくりと動く。


 壁の向こうから、低い声が響いた。


「貴様……」


 その声には、怒り、屈辱、困惑、そして自分の身に何が起きたのかを騎士団長として冷静に把握しようとする職業意識が、かなり無理のある配合で混ざっていた。


「はい」


「これは、何だ」


「俺にも、ちょっと」


「解除しろ」


「はい。もちろん。もちろんなんですけど」


「早くしろ!」


「解除したら、斬ります?」


 沈黙が二回目の来訪を果たした。


 広場にいた全員が、とおるの質問に対する答えを待った。


 リディアは壁の向こうで息を吸った。


「斬らん」


「今、少し考えましたよね」


「斬らんと言っている!」


「殺意が文末に付属している気がします」


「付属などしていない!」


 とおるは困った顔で村長を見た。


 村長は、人生で見たことのない表情をしていた。笑っていいのか、祈るべきなのか、王国に謝罪文を書く準備をすべきなのか、その三択で魂が迷子になっている顔だった。


 騎士団員たちはさらに大変だった。


 団長を助けたい。


 助けたいが、近づけばとおるの壁があるかもしれない。


 それ以前に、どう助ければいいのかわからない。


 下手に引っ張ると、王国聖騎士団長を畑の大根のように抜くことになる。忠義の問題だけでなく、絵面の問題が深刻である。


「団長!」


 副官らしき騎士が叫んだ。


「ご無事ですか!」


「無事に見えるか!」


「申し訳ありません!」


「謝るな! 余計に惨めになる!」


 村の少年が、広場の端から小さな声で言った。


「騎士のお姉ちゃん、壁の人になった」


「こら、見ちゃいけません」


 母親が慌てて目を塞ぐ。


 とおるは両手で顔を覆いたくなった。


「違うんです。本当に違うんです。俺はもっとこう、魔力回路を止める感じで、非暴力的に、知的に、できれば格好よく決める予定でして」


「結果がこれか!」


「結果だけ見ると、弁明の余地が薄いです」


「薄いどころではない!」


 リディアの脚が、怒りに震えた。


 壁の向こう側で上半身がどうなっているのかは見えない。幸い、痛みで苦しんでいる様子はなかった。とおるの壁は物質を切断しているのではなく、対象と空間の間に境界を作り、動きと魔力を遮っている。現在のリディアも、身体そのものを傷つけられたというより、魔力回路と運動の連結を妙な形で寸断され、抵抗できない状態に近い。


 それでも精神的被害は大きそうだった。


 おそらく治癒魔法では治らない種類の傷である。


「壁山とおる」


 リディアの声が、低くなった。


「はい」


「決闘の勝敗について、確認する」


「お願いします」


「私は、現在、戦闘継続が困難な状態にある」


「はい」


「この状態を作り出したのは、お前のスキルで間違いないな」


「はい。不可抗力寄りですが、俺です」


「ならば、この決闘は私の敗北だ」


 騎士団員たちがざわめいた。


 リディアの言葉は、重かった。本人がどれほど屈辱的な状況に置かれていようと、決闘の結果を曲げない。そこには確かに、王国聖騎士団長としての誇りがあった。


 とおるは、少しだけ表情を引き締めた。


「約束は、守ってもらえますか」


「守る」


「村の閉鎖命令は」


「一旦、保留とする」


 広場に、安堵の気配が広がった。


 村人たちは顔を見合わせ、小さな歓声を上げかけたものの、まだ団長が壁に埋まっていることを思い出し、喜び方の難しさに全員で直面した。


 拍手をすれば失礼な気がする。


 喜ばなければ、とおるに申し訳ない気もする。


 結果として、広場には「お、おお……?」という、祭りの始まりとしては煮え切らない声が散らばった。


「では、解除します」


「早くしろ」


「本当に斬りませんね?」


「誓う。聖騎士リディア・アルヴェインの名において、敗者として決闘の結果を認める」


 その声には、怒りよりも悔しさが強かった。


 とおるは魔力を整えた。


 壁の構造をほどく。


 対象と空間の間に差し込まれた境界を、糸を抜くように解除する。


 壁が淡く揺れ、光がほどけ、リディアの身体を縛っていた不可視の境界が消えていく。


 リディアが壁の向こう側からこちらへ戻った。


 戻ったというより、重力に負けて落ちた。


 とおるは受け止めようとした。さすがに、ここで顔面から地面に落とすのは人としてどうかと思った。相手は敵であり、騎士団長であり、今すぐ自分を斬りたい可能性の高い人物であり、さらに甲冑を着ている。


 甲冑を着ている。


 この重要情報を、とおるは受け止める直前まで軽視していた。


「ぐえっ」


 リディアの体重そのものというより、鎧の重さと勢いと、とおるの筋力不足が三者会談を開いた結果、彼は見事に押し潰された。


 広場の地面に背中を打ち、肺から情けない空気が抜ける。


 リディアは彼の上に倒れ込んだ形になり、至近距離で青い瞳をぎらりと光らせた。


「貴様」


「はい」


「受け止め方が下手だ」


「騎士団長を受け止める訓練を受けたことがなくて」


「言い訳にならん」


「人生で必要になる予定がなかったんです」


 リディアは歯を食いしばり、ゆっくりと立ち上がった。


 鎧についた土を払い、落とした剣を拾い、鞘に収める。


 その動作は美しかった。怒りで頬が赤くなっていても、壁に埋まっていた直後でも、剣を収める姿には威厳があった。とおるは地面に転がったまま、思わず感心しかけた。


 リディアの視線が降ってくる。


 とおるは慌てて正座した。


 日本人の謝罪本能が、異世界でも正しく発動した結果である。


「村の閉鎖命令は、決闘の結果に基づき一時保留とする」


 リディアは、騎士団員と村人の双方に聞こえる声で告げた。


「王国聖騎士団長リディア・アルヴェインの名において、この場での強制退去は行わない」


 村人たちの表情に、ようやく明るさが戻った。


 老婆が胸を撫で下ろし、子どもたちは小さく跳ね、村長は膝から崩れ落ちかけたところを隣の若者に支えられた。


 とおるも息を吐いた。


 勝った。


 勝ったという実感は、あまりなかった。むしろ、どうしてああなったのかという反省会が脳内で開かれており、議題の中心には「高位女騎士を壁に埋めてしまった件について」という胃に悪い文字列が掲げられていた。


 リディアは、とおるへ向き直る。


 その表情はまだ怖い。


 とても怖い。


 魔物より怖い。魔物は食べるために襲ってくるだけなので、ある意味で理由がわかりやすい。今のリディアは、名誉、怒り、職務、羞恥、敗北感が複雑に絡み合った、人間ならではの高度な怖さをまとっている。


「壁山とおる」


「はい」


「お前は勝った。約束どおり、命令の執行は保留する。村人への説明も行う」


「ありがとうございます」


「礼を言うには早い」


 リディアの声が、広場の空気を再び冷やした。


 とおるは顔を上げる。


 リディアは剣の柄に手を置いたまま、村の奥、さらにその向こうに広がる森を見た。


「王国からの命令は絶対だ。私がここで保留を宣言したところで、正式な撤回にはならない。調査結果によっては、より大きな部隊が派遣される可能性もある」


「より大きな部隊、ですか」


「この村の者たちが命令に従わず、危険区域に留まり続けるというなら、命の保証はできん」


 村人たちのざわめきが消えた。


 危険区域。


 その言葉は、閉鎖命令よりも生々しかった。


 とおるは眉をひそめる。


「危険というのは、魔物ですか」


「魔物なら、まだ分かりやすい」


「疫病?」


「違う」


「盗賊団?」


「それも違う」


「税金関係?」


「なぜそこで少し現実的になる」


「前の世界では、それが一番怖かったので」


 リディアは一瞬だけ言葉に詰まった。


 怒るべきか、流すべきか、会話の処理に迷った顔である。


 結局、彼女は深く息を吐いた。


「お前は、この村の書庫を調べたことがあると言ったな」


「はい。古い文献はだいたい読みました。虫食いが多くて、半分くらい推測ですけど」


「ならば、クルム村の旧名を知っているか」


「旧名?」


 とおるは記憶を探った。


 村の歴史、周辺地図、古い農地の記録、昔の領主の帳簿。書庫にはまとまりのない文献が山ほどあった。読みづらい筆跡、古い表現、やたら回りくどい神官の記録。眠気との戦いにおいては、どれも一級品だった。


 その中に、たしかに別名があった。


「……クルム、じゃなくて、クルムディア封境地」


 リディアの表情がわずかに変わる。


「そこまで読んでいたか」


「封境地って、古い行政区分だと思っていました。戦争時代に一時的に管理された土地、みたいな」


「間違いではない」


「では、何が問題なんですか」


 リディアは周囲を見た。


 騎士団員たちは表情を固くし、村人たちは不安げに彼女を見つめている。


 王国聖騎士団長は、ほんの数分前に壁に埋まっていた人物とは思えない厳粛さで、声を落とした。


「この村の地下に、王国が三百年間監視してきたものがある」


 とおるの背筋に、冷たいものが走った。


「三百年?」


「そうだ。私たちは、それを確認するために来た」


「それ、村人に説明しないまま閉鎖しようとしたんですか」


「混乱を避けるためだ」


「もう十分混乱しましたよ。主に壁の件で」


「その件を蒸し返すな」


 リディアの眉間に深いしわが寄る。


 とおるは即座に口を閉じた。


 リディアは続ける。


「近隣都市の観測塔で、異常な魔力波が検出された。発生源は、この村の地下深く。記録と照合した結果、封印の劣化が疑われている」


「封印?」


 村長が震える声で問う。


「団長殿。この村の地下に、一体何があるというのですか」


 リディアは答えなかった。


 答えようとして、言葉を止めた。


 何かを迷っているようだった。


 とおるには、その沈黙の意味が少しだけわかった。王国の命令。機密。民の安全。騎士としての誇り。彼女はそれらの間で、ひどく窮屈な場所に立っている。


 皮肉なことに、その姿は少し前の彼女そのものだった。


 壁に挟まれて、動けなくなっていた姿。


 見えない壁に囲まれているのは、とおるだけではないのかもしれない。


 リディアは、ようやく口を開いた。


「今ここで、すべては話せない」


 村人たちの間に、不満が広がる。


「リディア団長」


 とおるは静かに言った。


「約束では、理由を説明するはずです」


「説明する。約束は守る」


「それなら」


「だからこそ、今は言葉を選ばせろ」


 彼女の目は、真剣だった。


 怒りも屈辱も、まだ消えてはいない。けれどその奥にあったのは、村人たちを見下す冷たさではなく、何かを守ろうとしている者の緊張だった。


「この村の地下には、あるものが封じられている。王国はそれを、災厄級の危険物として記録してきた」


「災厄級……」


「封印が破れれば、この村だけでは済まない。近隣都市、領都、場合によっては王都まで被害が広がる」


 村人たちは声を失った。


 とおるも、軽口を返せなかった。


 穏やかな畑。


 古い集会所。


 子どもたちが走り回る広場。


 その地下に、王国が三百年間隠してきた何かが眠っている。


 あまりにも物語じみていて、嫌になるほど現実味があった。


 異世界生活三年目にして、とおるは初めて思った。


 これは、のんびりスローライフ作品ではなかったのかもしれない。


「詳しい話は、日を改めて行う」


 リディアは言った。


「調査隊を村に入れる。お前たちには協力してもらう。拒めば、今度こそ王国は強制措置を取る」


「協力すれば、村は守れるんですか」


「保証はできん」


「また怖いことを」


「嘘をついて安心させるよりはましだ」


 とおるは、彼女を見た。


 さっきまで壁に埋まっていた人である。


 その事実を脳がどうしても横から差し込んでくるせいで、緊迫した会話の輪郭が少しだけ歪む。真面目な顔で話せば話すほど、「でもこの人、さっき壁だったんだよな」という余計な感想が頭をもたげる。


 とおるは必死にそれを押し込んだ。


 今笑ったら、村の未来より先に自分の首が危ない。


「わかりました」


 彼は言った。


「調査には協力します。ただし、村人を力ずくで追い出すのはやめてください。危険があるなら、ちゃんと説明して、避難が必要なら一緒に段取りを考える。それでお願いします」


「お前は、ずいぶんと条件を出すな」


「さっき勝ったので」


 リディアのこめかみがぴくりと動いた。


 とおるは一歩下がった。


「すみません。言い方を間違えました」


「忘れるな、壁山とおる」


 リディアは低い声で言った。


「私は決闘の結果を認めた。村の閉鎖命令も保留にした。お前との約束を守るためにな」


「はい」


「そのうえで言っておく。お前のスキルは危険だ」


「危険、ですか」


「自覚が薄いようだから、なおさら危険だ。壁を作る能力などという単純なものではない。お前は境界そのものに干渉している可能性がある」


 とおるは返事に困った。


 自分の能力について、なんとなく普通ではないとは思っていた。便利すぎる瞬間があった。魔物相手にも、建築作業にも、鍋の蓋にも使える時点で、術式としての守備範囲がおかしい。


 それでも、自分のスキルを危険だと言われると、胸の奥が妙にざわついた。


「境界に干渉すると、何がまずいんですか」


「本来、術式には枠がある。魔力は肉体の中で生まれ、回路を通り、外界へ放たれる。その流れには、必ず内と外、前と後、対象と非対象の区別がある。お前の壁は、その区別に割り込む」


「つまり?」


「使い方を誤れば、魔法だけでなく、人の身体、魔力回路、封印、空間そのものを壊しかねない」


「……鍋の蓋にしている場合ではなかったかもしれません」


「何に使っている?」


「忘れてください」


 リディアは額に手を当てた。


 怒りすぎたせいか、疲れが見え始めている。王国聖騎士団長という肩書きは重いのだろう。壁に埋まった心労も当然あるだろう。


 とおるは少しだけ申し訳なくなった。


「その、さっきの件は、本当にすみませんでした」


「さっきの件とは、どれだ」


「候補が複数あるのがつらいんですが、壁に……その、封じた件です」


「二度と言うな」


「はい」


「二度と同じことをするな」


「努力します」


「努力ではなく誓え」


「誓います」


 リディアはじろりと睨んだ。


「お前の誓いは軽そうだ」


「人付き合いを避けてきたせいで、こういう場面の重み調整が苦手なんです」


「便利な言い訳だな」


「わりと人生全般に使えます」


 村人の何人かが小さく笑った。


 先ほどまでの重苦しい空気が、ほんの少し緩む。


 リディアはそれを見て、複雑そうな顔をした。


 この村には、生活がある。


 恐れも、不満も、冗談も、笑いもある。


 命令書の中では「閉鎖準備区域」と書かれるだけの場所にも、実際には朝食の匂いがあり、干された洗濯物があり、子どもの落書きがあり、老人の思い出がある。


 とおるはそれを守りたかった。


 リディアはおそらく、失わせたくなかった。


 二人の立場は違う。


 ぶつかり方も最悪だった。


 壁という物理的にも精神的にも扱いの難しいものを挟んで始まった関係としては、今後の難易度が非常に高い。


 それでも、この日、ひとまず村は救われた。


 少なくとも、三日以内に全員退去という最悪の宣告は止まった。


 とおるは空を見上げた。


 異世界の空は、今日も無駄に青い。


 ゲームのイベントが進行しているような気配がある。重要人物が来て、決闘して、謎の封印が出てきて、主人公の能力に不穏な説明が入り、最後に「詳しい理由は次回」と言わんばかりの流れになっている。


 とおるは心の中で、誰にともなくつぶやいた。


 自分は、辺境の村で平和にレベルアップしていただけなのに。


 なぜ、王国の女騎士団長を壁に埋めることになり。


 なぜ、村の地下に三百年もの封印が眠っており。


 なぜ、今さら自分のスキルが危険認定されているのか。


 誰か、攻略サイトを作っておいてほしかった。


 リディアは騎士たちに短く指示を出し、村の外周に調査用の陣を張らせ始めた。村人たちは不安を抱えたまま、それでもひとまず家へ戻っていく。


 広場に残ったとおるへ、リディアが歩み寄った。


「壁山とおる」


「はい」


「明朝、村長宅で話す。お前も同席しろ」


「俺もですか」


「当然だ。お前はこの村の代表として決闘を申し込んだ。今さら無関係な村人の顔をするな」


「それ、陰キャには一番きつい責任の背負わされ方なんですが」


「知ったことか」


 リディアは冷たく言い放ち、踵を返した。


 数歩進んだところで、彼女は立ち止まる。


 振り返らないまま、低い声で付け加えた。


「それと」


「はい」


「今日のことを、妙な噂にした者は処罰する」


 広場の端にいた村の少年が、びくりと肩を跳ねさせた。


 とおるは真顔でうなずく。


「俺からも言っておきます。王国聖騎士団長が壁の人になった件については、村内機密ということで」


「その表現を今すぐ捨てろ」


「はい」


 リディアは、今度こそ騎士たちの方へ去っていった。


 とおるはその背中を見送りながら、深く、深く息を吐いた。


 クルム村の一日は、まだ昼にもなっていない。


 それなのに、彼の精神はすでに一週間分くらい働いていた。


 家に帰ったら寝よう。


 そう思った直後、村長に肩を掴まれた。


「トオル」


「はい」


「説明してもらえるかの」


「何をでしょう」


「全部じゃ」


 とおるは空を見上げた。


 雲ひとつない青空が広がっている。


 逃げ場はなかった。


 壁を作るのは得意なはずなのに、こういうときに限って、彼の周囲には見事なほど何も建たなかった。


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