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プロローグ


挿絵(By みてみん)



 目の前に、壁があった。


 いや、まず最初に断っておきたいのだが、壁があること自体はべつにおかしなことではない。


 ここは村の集会所の前であり、集会所というものは当然ながら屋根があり、柱があり、扉があり、そして外界と室内をやんわり分け隔てるための壁というものがあるわけで、もしもここに壁がなかったならそれはもう集会所ではなく、雨の日に村人全員がびしょ濡れになりながら村議会を開くための高級な屋外スペースでしかない。


 しかもその壁は、ただの壁ではなかった。


 三年前、俺がこの村に流れ着いたばかりのころ、雨漏りと虫食いと老朽化という建築物にとっての三大成人病みたいな症状を一気に患い、いよいよ強めの風が吹いたら「では皆さん、私はここで失礼します」と言わんばかりに崩れ落ちそうになっていた集会所の外壁を、村の大工爺さんと一緒に朝から晩まで泥まみれになりながら直した、俺にとってはそこそこ、いやかなり思い入れのある壁なのである。


 石灰を混ぜた土をこね、木材で骨を入れ、隙間風が入らないように何度も何度も塗り直し、途中で爺さんに「とおる、お前は壁塗りだけは妙に筋がいいな。顔は都会のモヤシだが」と褒められたのか貶されたのか判断に困る評価を受け、ようやく完成させたその壁は、村の春祭りの日には花飾りを吊るされ、冬には子どもたちが雪玉をぶつけ、夏には日陰を作ってくれる、いわば俺の辺境生活における数少ない成功体験の象徴みたいな存在だった。


 だから、壁があることはいい。


 問題は、その壁から人が生えていることだった。


 白銀の鎧。


 王国騎士団の紋章。


 腰のあたりまでさらさらと伸びた、物語の挿絵なら絶対に風もないのになびいている淡い金髪。


 そして何より、壁のこちら側にたいへん堂々と残されている下半身。


 上半身は壁の向こう、下半身はこちら、という、建築と人体の境界線に関する哲学的な問いを、いきなり村の広場のど真ん中に提出してくるような光景を前にして俺はしばらく何も言えなかった。


「……えーっと」


 俺、壁山とおるは、十七年と異世界三年分の人生経験を総動員した結果、たいへん真剣にこう思った。


 異世界、難しすぎない?


「貴様……ッ!」


 壁の向こう側から、殺意と屈辱と気合いと、あとたぶん騎士としてのプライドを一緒くたに鍋へ放り込み、三日三晩煮詰めたうえで焦がしたような声が響いてきた。


 声の主は王国聖騎士団長、リディア・アルヴェイン。


 ほんの数分前までこの村の広場に集まった誰もが息を呑むほど、凛々しく、気高く、そしてどう考えても「そのへんの青年がうっかり喧嘩を売っていい相手」ではない女騎士だった。


 銀の甲冑をまとった姿は朝日を受けて神話の英雄像みたいに輝き、背筋は一本の槍のように伸び、青い瞳は氷のように澄んでいて、剣を抜けば本当に空気がぴりりと震えるほどの迫力があり、実際、決闘が始まってからの俺は押されっぱなしどころか、押されるためにこの世に生まれてきたのではないかと自分の存在意義を疑いたくなるくらい一方的に追い詰められていた。


 普通に強い。


 いや、普通ではない。


 あれはもう人間の形をした災害であり、たまたま剣を持って礼儀作法を身につけているだけで、分類としては台風とか雪崩とか、そういう自然現象に近い何かである。


 その災害が今、俺が直した村の集会所の壁にすぽんと、しかも妙にきれいな角度で封じ込められていた。


 人生、わからないにもほどがある。


「その……大丈夫ですか?」


「大丈夫に見えるか!」


「ですよね」


 俺はとりあえず両手を上げた。


 敵意はありません。


 追加攻撃の意思もありません。


 むしろ今すぐこの状況をなかったことにして、朝食の麦粥をもう一杯おかわりするところから本日をやり直したいです。


 そういう気持ちを全身で表現しているつもりだったのだが、残念ながらリディア団長の上半身は壁の向こう側にあり、俺の渾身の無害アピールは彼女の視界には一ミリも届いていないらしかった。


「解除しろ、今すぐに!」


「それは、ええと……解除してもいいんですけど」


「ならば早くしろ!」


「解除した瞬間、俺を斬りません?」


 沈黙が落ちた。


 村の広場に集まっていた村人たちも、王国から来た騎士団員たちも、誰一人として声を出さなかった。


 風だけが状況をまったく理解していない顔で広場を通り抜け、道端では鶏が一羽、世界の命運も騎士団長の尊厳も自分には関係ないとばかりに石ころの間をつつきながら歩いている。


「……斬らん」


「今の間は何ですか」


「斬らんと言っている!」


「声に殺意が乗ってるんですよね……。言葉の上では斬らないって言ってるのに、音程がもう完全に斬る人のそれなんですよ」


「貴様、私の発声にまで文句をつける気か!」


「いえ、発声はすごくいいです。腹から出てます。訓練の成果を感じます。ただ、その腹から出ている殺意がですね」


 言いながら、俺は頭を抱えた。


 違う。


 本当に、こんなはずではなかった。


 俺はただ、この村を守りたかっただけなのだ。


 三年前、謎のゲームソフトに取り込まれるようにしてこの世界へ転送されて以来、俺はこの辺境の村で、どうにかこうにか生きてきた。


 最初は右も左もわからず、空を飛ぶトカゲをドラゴンだと思って全力で土下座し、森で魔物に追われ、腹を空かせ、井戸の水を汲むだけで腰を痛め、村の子どもにまで「兄ちゃん、顔色が干したキノコみたいだね」と心配される始末で、異世界転生と聞いて思い浮かべていた無双やハーレムや王都での華々しい活躍などは、すべて遠い山の向こうで焚き火にくべられた妄想だった。


 それでも、俺はなんとかやってきた。


 畑の水路を直した。


 魔物除けの柵を作った。


 書庫に眠っていた古い文献を読み漁り、地方の地理や魔力の基礎を少しずつ覚えた。


 冒険者ギルドに登録し、最初の依頼で薬草と毒草を間違えて受付嬢に真顔で説教され、その次の依頼でスライムに靴を溶かされ、ゴブリン討伐では勢い余って自分の仕掛けた落とし穴に落ち、森狼相手には木の上で半日ほど人生について考える羽目になったが、それでも経験値という名の苦労を積み重ね、たまにレベルが上がるたび頭の中に浮かぶステータス画面を見て、誰にも見られないよう物陰でこっそりにやけたりもした。


 ぼっち陰キャ偏差値七十。


 友達はいなかったが、ゲーム知識とラノベ知識だけはあった。


 体育の授業では常にチーム分けの余り枠だった俺でも、攻略本を読み込む執念と誰にも誘われない休日をすべてゲームに注ぎ込んできた継続力だけは本物であり、その役に立つのか立たないのか微妙だった知識が、この世界では案外、命綱になった。


 その結果、俺はようやくこの村で居場所を手に入れたのだ。


 村長は俺を余所者ではなく村の若い衆として扱ってくれるようになったし、婆さんたちは余った芋をくれるようになったし、子どもたちは俺の変な罠作りを面白がって手伝ってくれるようになったし、大工爺さんにいたっては「お前、壁だけなら嫁に出せる」と、意味はよくわからないがたぶん最大級の賛辞をくれるようになった。


 なのに今朝、王国騎士団が来た。


『この村は本日をもって閉鎖区域に指定される。住民は三日以内に退去せよ』


 いきなりである。


 いきなりにも格というものがあるだろうが、彼らのいきなりは相当な上位個体で、朝の鍋をかき混ぜていた婆さんが杓文字を握ったまま固まり、鶏に餌をやっていたおっちゃんが餌を自分の靴に撒き、子どもたちが遊んでいた木の剣を下ろすくらいには、村全体が一瞬で凍りついた。


 理由を聞いても答えはない。


 移住先の手続きは王国が行う、と騎士たちは言った。


 けれど、そんな事務文書みたいに平らな言葉で納得できるほどこの村の暮らしは軽くなかった。


 村長の家も。


 婆さんたちの畑も。


 子どもたちが遊ぶ広場も。


 大工爺さんが昼寝している納屋の影も。


 俺が泥だらけになって直した、この集会所の壁も。


 全部、ここにある。


 ここで誰かが生まれ、ここで誰かが笑い、ここで誰かが喧嘩をし、ここで誰かが仲直りし、ここで季節が巡って、ここで俺みたいな異世界迷子まで、どうにか人間らしく暮らせるようになったのだ。


 だから俺は、騎士団長の前に立った。


 そして、言った。


『それなら、決闘で決めませんか』


 今思うと、だいぶラノベ脳だった。


 いや、だいぶどころではない。


 もしもあの瞬間の俺を第三者として見ていたら、「おい、その台詞は主人公補正を持っている者だけが口にしていい類いのやつだぞ」と全力で肩を揺さぶっていたに違いない。


 けれど、この世界では決闘に意味がある。


 名誉を重んじる騎士であれば、正面から申し出られた決闘を何の理由もなく無下にはできない。


 そう読んだ。


 読み自体は、当たった。


 問題は、その後だった。


 俺のスキルは、〈壁〉。


 指定した対象と空間の間に、魔力で構成された遮蔽物を差し込む能力である。


 一見すると、ものすごく地味だ。


 攻撃力はない。


 派手な炎も出ない。


 雷も落ちない。


 剣を振れば山が割れるとか、拳を握れば海が蒸発するとか、ドラゴンを一撃で倒す必殺技だとか、そういう男の子が一度は夢見る派手な要素はびっくりするほど一切ない。


 最初にスキル名を見たときなど、俺は本気で「この世界の神様、俺の名字を見て安直に決めただろ」と思ったし、実際、〈壁〉という表示が頭の中に浮かんだ瞬間、異世界に来て最初に感じた感情は感動でも使命感でもなく、「親父、なんで俺を壁山なんて名字の家に産んだんだ」という、だいぶ筋違いな恨みだった。


 だが、このスキルには長所があった。


 制約が少ないのだ。


 対象と空間。


 その“間”を認識できれば、そこに壁を挟める。


 魔物の突進と俺の身体の間。


 飛んでくる矢と村人の額の間。


 崩れかけた屋根と床の間。


 川の流れと壊れた橋脚の間。


 鶏小屋へ忍び込もうとする狐と、何も知らずに眠る鶏たちの間。


 村長の説教と俺の精神の間には残念ながら挟めなかったが、それ以外の多くの状況で壁は地味に役立った。


 俺はこの三年間、ひたすら練習した。


 魔物の突進を止める壁。


 矢を防ぐ壁。


 崩れかけた屋根を支える壁。


 川の流れを一瞬だけ変える壁。


 鍋の吹きこぼれを防ごうとして台所を半分水浸しにした壁。


 昼寝中の大工爺さんのいびきを遮断しようとして、音ではなく爺さん本人を半透明の箱に閉じ込めてしまい、三時間ほど口をきいてもらえなくなった壁。


 そうやって、地味に、地道に、しかし確実に俺は壁を置き続けた。


 そして今日。


 聖騎士団長リディアの剣が、俺の首筋に届く寸前。


 俺は今までで一番細かく魔力回路を操作した。


 剣と俺の間ではない。


 鎧と身体の間でもない。


 彼女の魔力の流れと、彼女自身の動作の間。


 つまり理屈の上では「勢いそのもの」と「その勢いに乗っている本人」の間に、髪の毛一本ぶんより薄く、しかし鋼よりも頑固な壁を差し込んだつもりだった。


 その瞬間、リディア団長の踏み込みがわずかに乱れ、剣の軌道が逸れてぎりぎりで首を守ることに成功した。


 ここまではいい。


 ここまでは俺の三年間の努力が実を結んだ、なかなか感動的な場面だったと言ってもいい。


 問題はその直後、魔力の反動なのか、彼女の突進速度が凄まじすぎたのか、俺の認識が雑だったのか、あるいはこの世界の物理法則が「せっかく壁山なんだから壁に関係する珍事件を起こしておけ」とでも考えたのか、勢いを殺されたはずの団長様がそのまま集会所の壁に、ぬるりと、しかし迷いなく吸い込まれてしまったことである。


 結果。


「……なんで物理的にも壁に入ってるんだ?」


「それはこちらの台詞だ!」


 団長様の怒声が壁越しに返ってきた。


 俺は冷や汗を流しながらちらりと騎士団員たちを見た。


 誰も動けないでいる。


 当然だ。


 自分たちの団長が決闘相手のスキルによって敗北しただけならまだしも、村の集会所の外壁から腰下だけを出した状態で封じ込められているのである。


 突撃命令を待てばいいのか、救出活動を始めればいいのか、まずは笑いを堪えるべきなのか、王国騎士としての忠義と人間としての生理現象の間で全員が苦しんでいるのが顔を見ればわかった。


 ただし、その光景はあまりにも間抜けだった。


 いや、間抜けと言ってはいけない。


 相手は王国の聖騎士団長だ。


 たぶん国の重要人物だ。


 下手をすれば俺は反逆者である。


 この瞬間だけを切り取れば、「村の青年、王国騎士団長を壁に埋める」という、歴史書に載るにしても民話に堕ちるにしてもタイトルが最悪な事件の加害者なのだ。


 それでも村の小さな男の子が、純粋な目でぽつりと言った。


「とおる兄ちゃん、すごい。騎士のお姉ちゃん、壁の人になった」


「言い方」


 俺は思わず突っ込んだ。


 反射だった。


 命の危機とか政治的問題とかそういうものより先に、ツッコミ担当としての魂が動いてしまった。


 リディア団長が、壁の向こうで息を呑む気配がした。


「壁の、人……?」


「違います。今のは子どもの純粋な感想であって、俺の公式見解ではありません。俺はそんな不名誉な称号を授与した覚えはありません」


「貴様、私を愚弄しているのか!」


「してません! 本当にしてません! むしろ俺のほうがこの状況に一番困惑してます! 壁側の責任者として謝罪したほうがいいのか、勝者として胸を張ったほうがいいのか、感情の置き場所がないんです!」


「壁側の責任者とは何だ!」


「名字です!」


 広場の空気がさらに妙な方向へ転がっていく。


 騎士団員たちは口元を引き締めていたが、何人かは明らかに肩が震えていた。


 村人たちも最初は恐怖と緊張で青ざめていたはずなのに、今では「笑っていいのか、笑ったら首が飛ぶのか」という生きるか死ぬかの瀬戸際で腹筋と理性を戦わせている顔になっている。


 俺は必死だった。


 この状況をどう収めるか。


 村を守るにはどうするか。


 騎士団と全面戦争にならないためにはどうするか。


 そもそも壁に人が埋まった場合、責任の所在は施術者なのか建物の所有者なのか、王国の法律では何罪に該当するのか。


 考えるべきことは山ほどある。


 しかしその前にひとつだけ、はっきりさせておかなければならないことがあった。


「リディア団長」


「……何だ」


「決闘の約束、覚えてますよね」


 壁の向こうで、彼女の呼吸がわずかに止まった。


 さっきまで怒りと羞恥と壁材にまみれていた空気が、ほんの少しだけ引き締まる。


 俺は村人たちの視線と騎士たちの警戒を背中に感じながら、ゆっくりと言葉を続けた。


「俺が勝てば、村の閉鎖命令について、理由を説明する。そして、一方的な退去命令は撤回する。そういう約束でした」


「……」


「王国騎士団の団長が、まさか決闘の誓いを破るなんてことは、ありませんよね?」


 広場の空気が変わった。


 さっきまでの笑っていいのか悪いのかわからない妙な気まずさが少しだけ薄れる。


 代わりに、剣を抜く直前のような緊張が戻ってきた。


 リディア団長はしばらく黙っていた。


 その沈黙は、単なる悔しさの沈黙ではなかった。


 彼女は王国聖騎士団長であり、王命を背負ってここに来た人間であり、そして今、村の集会所の壁にたいへん不本意な姿勢で挟まれているとはいえ、騎士としての誇りまでは失っていない。


 やがて壁の向こうから、低く抑えた声が聞こえた。


「……解除しろ」


「斬りません?」


「斬らん」


「本当に?」


「誓う。聖騎士リディア・アルヴェインの名において、決闘の結果は認める」


 その声には悔しさがあった。


 怒りもあった。


 たぶん、今後しばらく夢に見そうなほどの屈辱もあった。


 けれどそれ以上に、騎士としての矜持があった。


 約束を破るくらいなら壁に埋まっていたほうがまし、というほど極端かどうかはわからないが、少なくとも彼女は自分の敗北を認めるだけの強さを持っていた。


 俺は少しだけ息を吐いた。


「わかりました。解除します」


 俺は魔力回路を意識する。


 頭の奥に、見慣れたステータスの感覚が浮かぶ。


 名前、壁山とおる。


 レベル、四十二。


 スキル、〈壁〉。


 同時展開可能数、三枚。


 現在展開数、一枚。


 その一枚が、今、王国聖騎士団長と村の集会所の外壁と俺の胃痛を、たいへん複雑な形で結びつけている。


 壁を解く。


 そう念じた瞬間、集会所の外壁に走っていた見えない魔力の線がすっとほどけた。


 空気が一度、小さく震えた。


 次の瞬間。


 リディア団長が壁の向こうからこちら側へ倒れ込んできた。


「おっと」


 俺は反射的に受け止めようとした。


 自分でも驚くくらい自然に腕が伸びたし、この一瞬だけを切り取れば、異世界に来てようやく主人公らしいことをしたと言えるかもしれない。


 ただし、俺は忘れていた。


 彼女が身にまとっているのは白銀に輝く美しい甲冑であり、美しい甲冑というものは見た目が神々しいぶん、だいたい現実の重量という地味で残酷な真実を内包している。


 つまり。


 甲冑、重い。


「ぐえっ」


 俺は団長ごと地面に倒れた。


 背中を打った衝撃で肺の中の空気がまとめて逃げ出し、目の前には白銀の鎧と淡い金髪が広がり、鼻先には金属と革とほんのわずかな花のような香りが混ざった、どう反応していいかわからない匂いが漂った。


 すぐ近くで、リディア団長の青い瞳が俺を睨んでいた。


 その距離は、物語なら胸が高鳴る場面なのかもしれない。


 しかし現実の俺は甲冑の重量によって胸どころか肋骨が高鳴る前に軋んでおり、恋愛イベントというよりは荷物の下敷きになった宅配業者の気持ちに近かった。


「……貴様」


「はい」


「今の受け止め方は、零点だ」


「すみません。騎士団長を受け止める実技試験、人生で初めてだったので」


「言い訳をするな」


「次回までに筋トレしておきます」


「次回があると思うな」


 その瞬間、村の誰かがついに吹き出した。


 最初は、ほんの小さな音だった。


 しかし一人が笑うと、もう止まらなかった。


 堰を切ったように村人たちの緊張が笑い声になって広場に広がり、婆さんは杖で地面を叩きながら腹を抱え、子どもたちは「壁の人! 壁の人!」と悪意のない残酷さで連呼し、大工爺さんにいたっては俺が直した壁を見上げながら「いやあ、いい壁だ。人を通しても崩れん」と職人としてそこを褒めるのかという感想をしみじみ述べていた。


 騎士団員たちは困惑していた。


 ある者は団長を助け起こすべきか笑いをこらえるべきか剣を抜くべきかで完全に判断を見失い、またある者は口を引き結びすぎて顔が別人のようになりながら、一人は明らかに咳払いを装って笑いを逃がしていた。が、リディア団長に睨まれた瞬間、背筋を伸ばして王国の忠臣みたいな顔に戻った。


 リディア団長は屈辱に震えていた。


 俺は甲冑の重みで肺を潰されかけていた。


 そして俺の頬のすぐ横では、何も知らない鶏が一羽、倒れた俺たちをちらりと見てから興味なさそうに土をつついていた。


 平和というものは、案外こういう顔をしているのかもしれない。


 いや、違うな。


 これはたぶん、平和ではなく嵐の前の妙に陽気な静けさだ。


 なにしろ俺は王国聖騎士団長に決闘で勝ち、村の閉鎖命令をいったん止め、しかもその勝ち方が「壁に埋める」という、政治的にも歴史的にも説明が難しすぎる手段だったのである。


 この後、王国が黙っているとは思えない。


 リディア団長が俺を忘れてくれるとも思えない。


 村人たちがこの話を酒場で盛らずに語ってくれる可能性にいたっては、限りなくゼロに近い。


 それでもそのときの俺は、地面に押し潰されながら村人たちの笑い声を聞いていた。


 閉鎖を告げられて凍りついた朝の広場に、少しだけ日常が戻ってきたような気がした。


 それだけで、まあ、悪くはないと思った。


 リディア団長が俺の胸板の上でゆっくりと身を起こし、まだ怒りの残る瞳でこちらを見下ろす。


「壁山とおる」


「はい」


「貴様には、聞かねばならんことが山ほどある」


「俺もです。特に、なぜ村が閉鎖区域なのかとか、どうして俺のスキルが団長を壁に収納したのかとか、あとこの体勢から穏便に起き上がる方法とか」


「最後のひとつは自分で考えろ」


「ですよね」


 彼女はため息をつき、それから騎士団員たちへ視線を向けた。


「剣を収めろ。決闘は終わった」


 その一言で、騎士たちの間に走っていた緊張が少しずつ解けていく。


 まだ警戒は残っている。


 まだ問題は山積みだ。


 村の閉鎖命令の理由も、王国が何を隠しているのかも、俺がこの先どう巻き込まれていくのかも何ひとつわかっていない。


 けれど少なくとも今日この瞬間、村は守られた。


 俺が直した壁は村人たちを雨風から守るだけでなく、なぜか王国騎士団長まで受け止め、いや、受け止めたというより一時的に収納し、結果的に村の運命をほんの少しだけ変えたのである。


 大工爺さんが言った。


「とおる」


「何ですか、爺さん」


「今度からあの壁は名所になるぞ」


「やめてください」


「壁の人記念壁じゃ」


「絶対にやめてください!」


 村人たちがまた笑った。


 リディア団長のこめかみがぴくりと動いた。


 これは本当にまずい、と心の底から思った。


 たぶん、この日から。


 俺の平和な辺境暮らしは、完全に終わった。


 しかもその終わり方がよりによって、壁から騎士団長が生えるという後世に伝えるにはあまりにも絵面の強すぎる形だったことを、俺はしばらく、……いや、おそらく一生、忘れることができないのだった。


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