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第84話 空に落ちる雨の軌跡



 星骸獣までの距離――そして、その間に存在する空間。


 キョウカは、敵の飛行軌道を逐一目で追ってはいなかった。


 視線はむしろ、天景楼とその上空をまとめて捉えられる「中央」へ据えられている。


 空域の外縁には、すでに二種類の封鎖が重なっていた。


 一つは、東霞第二支部の封境班が天景楼周辺へ展開している〈封域障壁〉。複数の術杭を地上へ打ち込み、それぞれを魔力回路で接続することによって、異常魔力の拡散と一般人の侵入を防ぐための隔離層である。


 そしてもう一つが、神里チサトの空域術式――〈嵐雲〉。


 こちらは固定された壁そのものではない。空気の流れ、圧力、魔力の濃淡を広い範囲で操作し、上空まで含めた空域全体を一つの流動する閉鎖領域として扱う術式だった。


 星骸獣たちは、その二つの境界を本能的に認識していた。


 できるだけ高く。


 それでいて、外縁へ近く。


 封域障壁そのものを破壊して外へ出ることも、理屈の上では不可能ではない。あれは元々、大型魔獣との正面戦闘を想定した城壁ではなく、異常区域を隔離するための設備だ。一定以上の攻撃を集中させれば、局所的に穴を開けることはできるだろう。


 それを許さなかったのが、キョウカの最初の一矢だった。


 先頭を飛んでいた一体。


 ほかの個体が進路を変える直前、甲高い鳴き声と微弱な魔力波を放っていた星骸獣を、真っ先に撃ち落とした。


 あれが本当に群れ全体を統率する司令塔だったのか、それとも単に最初に反応を示しただけなのかは分からない。


 ただ、後続の個体へ一つの情報を与えるには十分だった。


 ――地上から飛んでくる、あの矢は危険だ。


 封域障壁を壊すために必要な魔力。


 壊れるまでにかかる時間。


 その間、天景楼周辺へ残る聖騎士たちから攻撃を受ける確率。


 星骸獣たちは、ごく短い時間だけ迷った。


 理性と呼べるほど整った思考があるかどうかは分からない。それでも、生きようとする本能は明確だった。


 危険を避ける。


 死を遠ざける。


 逃げられる場所を探す。


 その程度の判断であれば、むしろ人間より純粋なほど身体へ刻み込まれている。


 ならば、その「恐怖」を戦場で利用しない理由はない。


 キョウカは、自分の矢が危険なのだと最初の一体を使って教えた。


 五月雨江の射程。


 その領域。


 先頭個体が氷矢によって撃ち落とされた直後、残る星骸獣たちが一斉に飛行経路を変えたのは、戦うためではなく、生き残るための離脱へ舵を切ったからだ。


 逃亡という選択。


 その瞬間の判断を――キョウカは、待っていた。


 星骸獣までの距離は、遠い個体なら数百メートル。


 空を飛び、しかも上下左右の三次元すべてへ進路を取れる対象を弓で射るとなれば、並の射手なら照準を合わせるだけでも相応の時間を必要とする。


 キョウカが視線を中央へ置いたままなのには、理由があった。


 矢を撃つべき「方向」は、彼女の中ですでに定まっていたからだ。


 敵そのものを一本ずつ目で追う必要はない。


 氷晶が触れる。


 風が動く。


 空間のどこかから情報が返ってくる。


 それだけで、どこに何がいるのかは分かる。


 ぎりぎりまで引きつける。


 散開が始まり、それぞれの逃走方向が定まるところまで。


 そして。


「――〈霧雨〉」


 キョウカが五月雨江の弦を、限界まで静かに引き絞った。


 右腕を巡っていた魔力が一息に固有霊装へ吸い込まれ、白に限りなく近い水色の光が細身の弓を駆け抜けていく。番えられた氷矢はまだ一本だけだったが、その透明な矢身の奥では圧縮された魔力が脈打ち、雪の結晶を思わせる六角形の微細な紋様が幾重にも重なって浮かび上がっていた。


 五月雨江に組み込まれた射撃術式の一つ、〈霧雨〉。


 放たれる瞬間までは、確かに一本の矢である。


 けれどその一本が、着弾する瞬間まで同じ姿を保っている保証はどこにもない。


 キョウカは狙いをずらさないまま、いっぱいまで張り詰めさせた弦から指を離した。


 ばしん、と五月雨江が鋭く鳴った。


 弦だけではなく、周囲の空気まで一緒に打ち据えられたように震え、一本の氷矢が天景楼の上空へ向かって駆け上がる。


 そして、ほんの一拍遅れて。


 矢が、増えた。


 一が十へ。十が百へ。そこから先は、もう数える意味すら薄れていく。


 分かれた一本一本を核として大気中の水分が瞬時に凍りつき、それらがさらに枝分かれするように細分化され、気づけば夜空の一角を埋め尽くすほどの淡い氷矢へ変わっていた。


 雨。


 目の前の光景を説明するなら、それ以外の言葉を探すほうが難しい。


 ただし、降っているのは空から地上へではない。


 地上から空へ向かって降り注ぐ、逆さまの雨だった。


 数え切れないほどの淡い光が、天景楼の上空を白く塗り替える。


「ギィッ!」


 星骸獣の数体が、キョウカの射撃とほとんど同時に動いた。


 翼を畳み、胴体を細く縮め、空中へ留まるために生み出していた揚力をあえて捨てることで、一気に落下速度を稼ぐ。


 片方の翼だけが鳥のような羽毛に覆われ、もう片方が蝙蝠じみた皮膜になっている個体すらいた。左右で空気の掴み方が違うどころか、まともに飛べること自体が不思議な身体だったが、それでも星骸獣は胴を捻り、尾のように伸びた器官を振り回しながら崩れそうになる姿勢を強引に立て直していく。


 向かう先は、氷矢が押し寄せる上空とは正反対。


 地面だ。


 真正面から見れば、迫ってくる氷矢はすでに千を軽く超えている。


 それでも、まだ距離は残されている。


 射撃を確認してから自分たちへ届くまで、そのわずかな時間を使って射線の外へ抜ければいい。数が多かろうと、当たらなければ意味はない。


 星骸獣たちの判断は、決して間違っていなかった。


 そもそも〈霧雨〉は、五月雨江から放つ通常の一射と同等の威力を、分裂したすべての矢へそのまま持たせる術式ではない。一本あたりの破壊力を意図的に落とす代わりに、数と面積を獲得し、狙った一地点ではなく空間そのものを射程へ変えていく技だ。


 星骸獣がそこまで理屈を理解していたとは思えない。


 だが、無数の細い攻撃を前にして、「全部を避ける必要はない。隙間さえ抜ければいい」と判断したのなら、その選択はむしろ合理的だった。


 まして彼らは翼を畳んだ時点で、〈霧雨〉が描く緩やかな放物線の内側へ入り込んでいる。


 大きく進路を変える必要はない。


 身体をそのまま落とし、下方へ抜ければ、矢がもっとも密集する空域から逃れられる。


 ――普通の矢ならば、だが。


 急降下する星骸獣の速度が、さらに増した。


 通常の魔力回路がどこを通っているのかさえ判然としない異形の肉体、そのあちこちで不規則な光が明滅する。


 筋肉を強化しているのか、翼へ魔力を送り込んでいるのか、それとも人間側の魔術理論では分類できない別種の身体強化なのか。


 今のところ、誰にも分からない。


 ただ、結果だけならば嫌になるほど分かりやすかった。


 速い。


 翼を閉じて落ちているだけとは思えないほど速く、何の補助もない人間の自由落下とは比較にならない速度で地表へ迫っている。


 〈霧雨〉の有効射程そのものは、周辺の湿度や魔力環境さえ整えば数キロメートル規模にまで広げられる。とはいえ距離というものを完全に無視できるわけではなく、遠ざかるほど魔力は拡散し、射撃速度も一本あたりの威力も少しずつ失われていく。


 星骸獣たちは翼を細かく動かして落下角度を調節しながら、霧雨が描く放物線の外へ抜けようとしていた。


 あと少し。


 そう見えた瞬間。


 矢が、曲がった。


「ギ……?」


 先頭を落下していた一体が、初めて理解できないものを見たように首を振る。


 上方から追ってきていた無数の氷矢は、水滴が風に流されるように細かく散開しながら、逃げる星骸獣たちの軌道そのものへ吸い寄せられるように進路を変えていた。


 一つ一つは、巨大な槍ほど太くもなければ、遠目には白い粒にしか見えない。


 しかしその中心には、キョウカの氷属性魔力が高い密度のまま封じ込められている。


 彼女の魔力が得意とするのは、最初から大量の氷を生み出し、それを遠距離まで無理やり飛ばし続けることではない。


 五月雨江から放った魔力を小さな核として残し、その周囲に存在する水分を次々と結晶化させ、進みながら矢の形を維持していく。


 だからこそ、湿度の高い東霞地方はキョウカにとってひどく都合がいい。


 まして鷺ノ浜は、鏡河水系から流れ込む湿気と海風の影響を同時に受ける土地であり、夜の空気は目には見えない大量の水分を抱えている。


 仮に同じ術式を海上で放てば、風向きさえ味方につけば、今よりさらに広大な一帯を射撃領域へ変えることもできるだろう。


 五月雨江は、巨大な魔力を一本の大砲へ変えるような固有霊装ではない。


 一つの力を分ける。


 必要なら百へ、千へ、さらにその先へ。


 単位あたりの破壊力を削り、その代わりに一つ一つへ異なる役割を持たせながら、広い空間を丸ごと自分の射撃範囲へ組み替えていく。


 それが、キョウカの戦い方だった。


 星骸獣を追う無数の氷晶が、夜空を走る水流のように縦横へうねる。


 ばさっ。


 ばさばさっ、と、複数の翼が焦ったように風を叩いた。


 星骸獣たちは〈嵐雲〉の内側を滑り落ちるように高度を下げていく。


 もっと低く。


 射手から見えなくなる場所まで。


 やがて、その進路へ巨大な黒い影が入り込んだ。


 天景楼だった。


 六層から成る巨大楼閣そのものを、彼らは遮蔽物として利用するつもりらしい。


 地上にいる射手から姿さえ隠せれば、少なくとも一直線の射撃は届かなくなる。


 白漆喰の壁と、夜空へ大きく反り返った黒瓦の屋根。そのぎりぎりを翼の先で掠めるように飛び抜け、星骸獣たちは一斉に天景楼の裏手へ回り込んだ。


 だが〈霧雨〉は、そこで止まらなかった。


 氷矢を包む冷気が細い白尾を引き、楼閣の輪郭を淡く縁取るように湾曲していく。


 一方、急降下した仲間とは反対に上空へ逃れていた一体は、回避そのものを諦めたらしい。


 空中で身体を大きく反転させ、その正面へ不均一な魔力を押し広げる。


 盾。


 そう呼ぶのが一番近いだろう。


 もっとも、人間が術式によって構築する〈防護障壁〉とは、見た目こそ似ていても中身はまるで違っていた。術式文字もなく、十二属性のいずれかへ安定して偏っている様子もない。ただ体内から押し出した魔力を、力任せに一枚の面へ押し固めたような代物である。


 星骸獣の魔力は、通常の魔獣と比べてもひどく不安定だった。


 一つの属性傾向を保てる個体がいる一方で、炎に似た性質を示した直後に水へ変わるものもいる。魔力回路と呼ぶべき循環構造そのものが途中で途切れ、その先がまったく別の器官へ繋がっているように見える個体まで確認されていた。


 だからといって、魔力を扱えないわけではない。


 むしろ必要になれば、既存の身体構造などお構いなしに肉体そのものを組み替え、生き残るための機能をその場で捻り出す。


 目の前の個体もまた、〈霧雨〉一本あたりの威力がそれほど大きくないことを見抜いたのだろう。


 ならば、防げる。


 すべてを完全に止める必要はなく、数秒さえ耐えれば、その間に射線から逃げ出せる。


 その発想までは正しかった。


 星骸獣は障壁を前方へ展開したまま翼を大きくうねらせ、尾を折り曲げ、胴を捻って左へ回り込もうとする。


 止まった場所で受け続ければ一点へ攻撃が集中する。


 だったら動きながら受け流し、被害を広い範囲へ散らせばいい。


 直後、〈霧雨〉が魔力障壁へ殺到した。


 ばらばらばらばら、と、屋根へ雹でも降りつけているような硬い音が夜空いっぱいに広がり、ほとんど透明だった障壁の表面へ無数の白い点が咲いた。


 続いて。


 ぱき。


 ぱき、ぱきききき、と。


 薄い氷が水面を這うような音が連続する。


 キョウカの氷矢は、単に冷たい物質を高速で叩きつける武器ではない。


 一度触れた場所へ、わずかながら氷属性の魔力を残す。


 その残留魔力が周囲の水分を捕らえ、さらに敵自身の魔力によって作られた表面構造まで足場として利用しながら、白い霜をじわじわと広げていく。


 星骸獣を包む防護膜の上を、凍結が球面状に駆け抜けた。


 それでも障壁そのものは壊れない。


 十分な厚みがあり、〈霧雨〉の一本一本を受け止めるだけなら強度も足りている。


 つまり星骸獣の判断は、ここまでは成功していた。


 離脱に必要な数秒を、実際に稼いでみせたのだから。


 星骸獣が大きく翼を持ち上げる。


 そのまま横へ抜ける――はずだった。


「ギィ……ッ!?」


 進まない。


 翼は確かに動いている。筋肉も収縮し、前へ出るための力は生み出されている。


 なのに、身体だけがその場へ縫いつけられたように前へ出ない。


 星骸獣がさらに強く羽ばたくと、今度は正面の空気そのものが意志を持ったように押し返してきた。


「そっちはだーめ。まだ帰しませーん!」


 上空のどこかから、妙に明るい声が降ってきた。


 神里チサトだ。


 〈嵐雲〉の内部で、風向きが一瞬にして書き換わる。


 星骸獣が進もうとした方向から強烈な向かい風が叩きつけ、翼へさらに力を込めれば、今度は横手から乱流が入り込んで姿勢を崩す。


「ギッ、ギィァッ!」


「うんうん、飛びたいよねえ。でも今はこっち」


 返事が通じているはずもないのに、チサトは楽しそうだった。


 その間にも〈霧雨〉は止まらない。


 風は大気を運ぶ。


 そして今、その大気中へ含まれている水分には、すでにキョウカの氷属性魔力が広く馴染んでいる。


 チサトの操る風は、空一面へ張り巡らされた巨大な透明の糸となって、〈霧雨〉を次から次へと別の場所へ送り出していた。


 本来なら距離とともに落ちていくはずの速度を風圧で補い、外れかけた軌道を持ち上げ、逃げようとする敵の進路へ先回りするように氷矢を押し込んでいく。


 ただ矢を追尾させているのではない。


 チサトが空そのものを動かし、その流れへキョウカの射撃を乗せている。


 長年同じ戦場へ立ってきた二人だからこそ成立する、半ば呼吸に近い連携だった。


 〈嵐雲〉の領域、その中心に近い場所で、キョウカは小さく息を吐く。


 チサトの〈嵐雲〉がこの空域で担っている役割は、大きく分けて三つある。


 第一に、空域の封鎖。


 もっとも、〈嵐雲〉そのものが石壁のような障壁を空中へ作り出しているわけではない。領域の外縁へ複数の強い風流を重ね、その位置を〈ストッパー〉によって固定することで、星骸獣が市街地へ抜けようとすれば風圧で内側へ押し戻す。


 地上へ展開された〈封域障壁〉と合わせれば、天景楼周辺は上下ともに逃げ道を狭められた、一つの閉鎖戦場になる。


 第二に、流域の形成。


 つまり、空中へ「道」を作ること。


 キョウカが放った矢をその流れへ乗せて運び、必要なら途中で曲げ、一度敵から遠ざけたあとで別方向から回り込ませることさえできる。


 もちろん、何もかも勝手に敵を追いかけてくれる便利な自動追尾ではない。


 チサト自身が刻々と変わる風向き、建物の位置、星骸獣の高度と速度を読み続け、そのたびに空中の風路を組み替えている。


 そして三つ目。


 魔力の輸送と分散。


 どれだけ熟練した聖騎士であっても、身体から放した魔力は距離とともに失われる。


 量だけではない。


 密度も落ちる。


 術式として組み上げた構造も、遠くなればなるほど徐々に崩れやすくなる。


 キョウカの射撃技量なら、通常条件であれば五百メートル圏内の人間大の標的へ相当な精度で矢を通せるが、当然ながら相手の速度、遮蔽物、風向きによって難度は大きく変わる。


 まして三次元機動を行う飛行魔獣となれば、狙撃手の腕だけですべてを補うには限界がある。


 そこで、チサトの流域が生きる。


 矢を最初から最後まで一直線に飛ばす必要がなくなるのだ。


 魔力が大きく減衰する前に風へ預け、風圧で速度を足し、途中に漂うキョウカの氷晶を核として新たな水分を取り込みながら、必要な場所まで運んでいく。


 二人の術式が噛み合った瞬間、五月雨江単独では届きにくい距離も、死角になりやすい角度も、まとめてキョウカの射撃領域へ変わる。


 キョウカは障壁に包まれた星骸獣を見上げ、わずかに弓を下げた。


「――〈霧雨・雨〉」


 呟きに近い声だった。


 その瞬間、防護膜へ降り続けていた数百の氷矢が、一斉に役割を変えた。


 もう、貫く必要はない。


 今度の雨は、凍らせるために降る。


 星骸獣の障壁は、まだ壊れていなかった。


 そして、その頑丈さが仇になった。


 本来なら攻撃を防ぐために身体の周囲へ残していた広い魔力の面が、今では大量の氷属性魔力を受け止めるための、あまりにも都合のいい足場になってしまっている。


 白い霜が一気に広がった。


 細かな氷晶同士が繋がり、冷却された魔力膜が星骸獣の動きへ合わせて柔軟に形を変えられなくなる。


 翼の付け根へ。


 胴体へ。


 首へ。


 凍結は、外側から内側を抱き締めるように伝播していった。


 あと一歩、離脱が早ければ逃げ切れたかもしれない。


 けれど、もう遅い。


 チサトの風域では、自分の意思だけで自由に飛べる空間そのものが少しずつ削り取られている。


 星骸獣が選んだ進路へ、そのまま進ませてもらえない。


 そのうえ〈霧雨〉を構成する魔力は〈嵐雲〉によって運ばれているため、本来なら距離とともに薄れていくはずの氷晶が、十分な密度を保ったまま次々と殺到する。


 星骸獣の全身が白く染まった。


 一度、翼が痙攣する。


 次にはもう動かなかった。


 首も止まり、尾も固まり、最後には身体を覆っていた魔力障壁ごと、巨大な一塊の氷へ閉じ込められる。


 数秒後。


 それは重力に引かれ、ゆっくりと頭を下げた。


 そして、そのまま地上へ落下を始める。


 それでもキョウカは、弓を下ろさなかった。


 第一陣で確認された星骸獣の中には、核を破壊されたあとでさえ、残された器官を繋ぎ合わせて別の何かを組み上げようとした個体がいる。


 凍ったから。


 動かなくなったから。


 その程度で、目の前の異形へ「死んだ」という人間側の常識を当てはめる気にはなれなかった。


「落下個体、一。地上班へ。核を確認するまで接近禁止。動いてなくても、絶対に触らないで」


 短く通信を飛ばす。


『了解。念のため二班で囲む』


「お願い」


 返答を聞き終える頃には、キョウカの視線はもう次の標的へ移っていた。


 天景楼の影へ潜り込んだ数体は、今なお〈霧雨〉を振り切ろうと複雑な飛行を続けている。


 白漆喰の壁へ沿い、黒瓦の屋根を掠め、六層目から大きく張り出した軒下へ潜り込んだかと思えば、今度は五層目とのわずかな空間を斜めに横切る。


 その途中で何本かの氷矢が黒瓦へ触れた。


 建物へ被害を出さないようキョウカが威力を落としているため、瓦が砕けるほどではない。


 氷晶だけがぱっと弾け、白と淡い水色の粒へ変わって散った。


 月明かりと魔導灯の光を拾った欠片が、一瞬だけ宝石のように煌めき、すぐ夜へ溶けていく。


 星骸獣を直接追っている氷矢の数は、先ほどより明らかに減っていた。


 屋根。


 壁。


 軒。


 柱。


 天景楼のあらゆる構造物を盾に使うたび、背後から迫る矢が一本、また一本と姿を消していく。


 それを見て、星骸獣たちの飛び方がわずかに変わった。


 逃げられる。


 そう判断したのだろう。


 直線で逃げれば追いつかれる。


 ——だったら曲がればいい。


 上へ抜け、すぐ下へ落ち、右へ振った直後に左へ折れる。時には身体を斜めに倒し、左右で形の違う翼の片方だけへ無理やり風を噛ませ、急上昇したかと思えば次の瞬間には力を抜いて落下し、そのまま別の屋根の影へ滑り込む。


 黒瓦の巨大楼閣を縫うように、複雑な飛行軌道が何本も重なっていった。


 空間を好きに使えているのは、自分たちのほう。


 少なくとも、星骸獣たちにはそう思えたはずだ。


 地上から見上げている者にも、途中まではそう見えただろう。


 しかし追跡する氷矢が減っていたのは、すべてが建物へ衝突して消えたからではない。


 そもそも。


 ここは、誰の「空」なのか。


 星骸獣は天景楼の屋根を使った。


 柱を使った。


 白い壁を使い、射手から自分の姿を隠した。


 それで射線を切ったつもりになった。


 けれど彼らが今なお飛び続けている場所は、最初から最後までチサトの〈嵐雲〉の内側であり、同時にキョウカの氷晶が無数に漂う射撃領域の中でもある。


 空を自由に飛ぶ。


 言葉だけなら、選べる進路はいくらでもあるように聞こえる。


 現実は違う。


 建物にはぶつかれない。


 地上の〈封域障壁〉にも触れられない。


 キョウカの射線へ長く身体を晒すわけにもいかない。


 チサトが作った強風域へ正面から突っ込めば、速度を殺される。


 しかも、先ほど避けた氷晶がどこへ流れていったのかまで考えなければならない。


 条件が一つ増えるたび、使える空間が一つ消えていく。


 広いはずの夜空が、少しずつ狭くなる。


 数え切れないほどあったはずの進路が、一本、また一本と潰れていく。


 上へ逃げたのは自分たちの意思。


 屋根へ寄ったのも自分たちの判断。


 軒下を選び、壁際を抜け、次の柱の脇へ飛び込んだのも、すべて星骸獣自身が選んだ道だった。


 だからこそ、気づきにくい。


 自由に逃げ回っているつもりのまま。


 少しずつ。


 本当に少しずつ。


 自分で選べる道が――最初から選ばされていた道へ変わっていることに。



 天景楼の東側を回り込み、ようやく射手の死角へ抜けた――そう判断した一体の星骸獣、その真正面に、唐突に白い雨が現れた。


「ギ――?」


 声とも呼べない音を漏らし、星骸獣の動きがほんの一瞬だけ止まる。


 あり得ない。


 〈霧雨〉は、つい先ほどまで自分の背後を追っていたはずだった。


 ところが、天景楼の向こう側から姿を現した無数の氷矢は、まるでそこへ逃げ込んでくることを最初から知っていたかのように、白い光を連ねながら前方の空を塞いでいる。


 追跡していた氷矢の数が、途中から少しずつ減っていた理由は単純だった。


 消えたのではない。


 チサトが拾っていたのだ。


 背後を追わせる分は、そのまま追わせる。残りは〈嵐雲〉の風ですくい上げ、天景楼の屋根や壁を迂回する別の流路へ乗せて、星骸獣より先に反対側へ送り込む。


 しかも、ただ二手に分ければいいわけではない。


 追ってくる矢が減ったと悟られれば、敵は当然、別方向からの攻撃を警戒する。


 だからチサトは、そこまで含めて誤魔化していた。


 星骸獣たちは、肉眼だけを頼りに周囲を見ているわけではない。


 個体による差は大きいものの、少なくとも何体かは魔力の濃淡や空気の微細な振動を感じ取り、視界へ入っていない攻撃であっても、おおよその位置や数を把握しながら飛んでいる。


 ならば、その感覚そのものを信用できなくしてしまえばいい。


 チサトは〈嵐雲〉の一部へ、意図的に小さな乱れを作っていた。


 本物の氷矢が持つ魔力反応。キョウカ特有の氷属性魔力。そして空間にもともと漂っている自然魔力。


 それらを風で散らし、混ぜ合わせ、場所によって濃くしたり薄くしたりすることで、ある方向には実際より多くの矢が存在するように思わせ、反対に、本当に氷矢が潜んでいる場所では周囲の魔力へ反応を溶かし込み、その輪郭だけを曖昧にしていた。


 幻術ではない。


 存在しない矢を見せているわけでもない。


 敵が感覚器官を通して拾い上げる情報へ、風を使って大量の雑音を混ぜているだけだ。


 強風の中では遠くの声を聞き分けにくくなり、砂埃が舞えば目の前にあるものさえ輪郭を失う。それと似たことを、チサトは星骸獣の魔力感知に対してやっていた。


 彼女なりの〈囮〉である。


 背後には、確かに矢が迫っている。


 振り切らなければ死ぬ。


 その明確すぎる危険へ意識を向けさせれば、前方や側面を探る感覚はどうしても薄くなる。


 しかも星骸獣自身が遮蔽物として選んだ天景楼は、一時的に視界を切ってくれる反面、その向こう側に何が待っているのかを自分から見えなくしてしまう。


 人間の射手なら、壁の裏は死角になる。


 けれど、キョウカとチサトにとっては違った。


 天景楼の壁を回り込んで風が流れ、軒下まで氷晶が入り込んでいる。


 そこを星骸獣が横切れば、大きな身体に押された空気が揺らぎ、それまで整っていた流れに小さな歪みが生まれる。


 どの高さを飛んでいるのか。


 速度はどれほどか。


 身体をどちらへ向け、次にどこへ抜けようとしているのか。


 キョウカが直接その姿を見られなくても、チサトの風が必要な情報を拾って返してくれる。


 だから、隠れたところで意味がない。


 天景楼の東側を抜けた星骸獣は、ようやく目の前の氷矢を危険だと認識したらしく、慌てて翼を広げた。


 左へ逃げようとする。


 その瞬間、チサトが風向きを変えた。


「うん、そっちはなし」


 横殴りの風がぶつかり、星骸獣の身体を正面へ押し戻す。


「ギィッ!」


 ならば上。


 翼を大きく打ち、急上昇へ転じようとした途端、頭上を流れていた風路が沈み込み、見えない掌のように身体を上から叩いた。


「そこも、だーめ」


 押し潰されるように高度を戻され、星骸獣は焦って右へ身体を捻る。


 右なら空いている。


 少なくとも、そう見えた。


 だから飛び込んだ。


 そして、そこにはすでに〈霧雨〉が待っていた。


 逃げ道を一つずつ奪っていたわけではない。


 もっと性質が悪い。


 空いている道だけをわざと残し、「ここなら逃げられる」と敵自身に選ばせ、その先へあらかじめ矢を置いていたのだ。


「はい。そこ」


 チサトの声と、氷矢が殺到する音はほとんど同時だった。


 どどどどっ、と重い衝撃が連なり、天景楼の中層ほどの高さで、夥しい数の氷矢が一体の星骸獣を呑み込んだ。


 白い結晶が一斉に弾け飛ぶ。


 砕けた氷片と魔力の粒子が粉雪めいた波になって円形へ広がり、暗い夜空の中へ、ほんの一瞬だけ淡い光輪を描いた。


 そして同じ光景が、別の場所でも立て続けに起こる。


 一体。


 少し離れて、もう一体。


 さらに天景楼の西側で、三体目。


 ブラック・ストリームの断層から飛び出してきた十体の星骸獣は、決して同じ逃げ方を選んだわけではなかった。


 危険な地上から距離を取ろうと、ひたすら上空を目指した個体。


 射撃を避けるため天景楼へぴたりと張り付き、屋根と壁の隙間を縫った個体。


 〈嵐雲〉の外へ逃れようとして封域障壁へ向かったものもいれば、進路を反転させ、一度ブラック・ストリーム側へ戻ろうと試みたものまでいる。


 選んだ道は、それぞれ違う。


 それでも一つだけ、共通していることがあった。


 全員がまだ、〈嵐雲〉と〈霧雨〉の内側にいる。


 重い衝撃音が夜空のあちこちで続き、本丸の上には砕けた氷晶が細かな雪のように舞い始めた。


 星骸獣たちも、ただ一方的に攻撃を受けていたわけではない。


 最後まで翼を動かし続け、無理やり風を掴もうとする個体がいた。


 先ほどの一体と同じように魔力を押し出し、身体の周囲へ厚い防護膜を張るものもいる。


 別の個体は、氷矢を受けた瞬間に皮膚の一部を異常な速度で硬化させ、甲殻にも鉱石にも見える黒い殻を全身へ作り始めた。


 生き残るための手段を、その場で探している。


 だが、その適応の速ささえ今回は相性が悪かった。


 防護膜を作れば、そこへ氷属性魔力が付着する。


 攻撃を防ぐために広げた面積そのものが凍結の足場となり、白い霜が外側から身体を包み込んでいく。


 ならばと殻を硬くすれば、その継ぎ目や僅かな隙間へ細かな氷晶が潜り込み、内側から凍りついて可動域を奪う。


 そこへチサトの風が横から叩きつけた。


 わずかに姿勢が崩れる。


 翼が空気を掴み損ね、速度が落ちる。


 その一瞬があれば十分だった。


 遅れた身体へ、次の〈霧雨〉が追いつく。


 また白く染まる。


 さらに動きが鈍る。


 そして今度は、避けるための速度そのものを失っていく。


 一度始まった連鎖は、簡単には止まらなかった。


 やがて一体が、翼を広げた姿のまま完全に凍りついた。


 次の一体は身体を丸めた格好で動きを止め、その少し向こうでは、逃げようと伸ばした尾の先まで真っ白な氷に覆われていく。


 支える力を失った身体が、ひとつずつ地上へ向かって落ち始めた。


 直線的に降下し、最初から〈霧雨〉の射程外へ抜けようとしていた個体も例外ではない。


 距離があったぶん、氷矢が追いつくまでには多少の時間差が生まれた。


 それでも最後の一体が白い奔流へ呑み込まれるまで、さほど長い時間は必要なかった。


「……十」


 五月雨江を構えたまま、キョウカが小さく数える。


 少し遅れて、通信越しにチサトの声が返った。


『うん。こっちでも十。飛んでるのは、もういないよ』


「了解。落下地点は?」


『風で少し散らしてる。天景楼には当てないようにするけど――地上班には頭上に気をつけてもらったほうがいいかも』


「伝える」


 短いやり取りを終えたキョウカの視線の先で、ブラック・ストリームから現れた星骸獣たちは次々と夜空を落ちていった。


 完全に凍結したもの。


 翼だけを白く固められたもの。


 身体の半分を氷に覆われ、それでも最後まで動こうとしていたもの。


 姿はそれぞれ違っていたが、落下する軌跡には共通して長い白色が残った。


 枝垂れ桜の枝が空から垂れ下がるように、あるいは夜そのものへ白い筆を走らせたように、淡い尾が幾筋も伸びていく。


 その上には先ほどまで〈霧雨〉が駆け巡っていた名残として、大きな白い放物線が雲のように夜空へ掛かっていた。


 砕けた氷晶はまだ消えず、互いにぶつかるたびにかすかな音を立てながら光を散らしている。


 風に煽られた細かな結晶があちこちで弾け、そのたびに空気の表面へひびでも入ったような鋭い音が走り、淡い魔力の残滓が波打ちながら不規則な模様を描いては薄れていった。


 そしてその白い光の中へ、——ぽつり、ぽつりと黒い空白が生まれていく。


 落下する星骸獣から、魔力反応が消えているのだ。


 一体。


 また一体。


 命が途切れた場所から光だけが抜け落ち、先ほどまで異様なほど濃密だった気配が、自由落下の軌道に沿って静かに途切れていく。


 華やかにさえ見える白い軌跡とは裏腹に、その中心を落ちているものには、もう空を飛ぶ意思も、地上を避ける力も残されていなかった。


 

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