第83話 黒い断層
「チサト、いっきまーす!」
神里チサトは「風」を扱う。
風属性の魔力を得意とし、単純に突風を放つだけではなく、大気中へ自らの魔力を広げ、圧力と流れを操作することによって広範囲を支配する術式を得意としていた。
彼女は現在、燈ヶ京の〈天景楼〉周辺へ巨大な風の結界を張り、【大気の壁】を生成している。
四方を取り囲むように魔力流域を繋ぎ、上空まで含めた半球状の閉鎖空間を形成する。
すでに現地へ展開していた東霞第一支部の封境班は、天景楼を中心として緊急用の〈封域障壁〉を展開していた。
魔力を通した複数の術杭を地面へ打ち込み、それぞれの術式を接続することで、外部と内部との侵入経路を塞ぐ。
もっとも、これは本来、戦闘用の防壁ではない。
黒い断層の発生が確認された天景楼へ一般人が近づかないようにし、同時に内部から漏れ出す異常な魔力が周辺市街へ拡散することを抑える。そのための隔離設備としての側面が強く、「強度」という一点だけを見れば、大型魔獣の突進や高位術式へ長時間耐えられるほどのものではなかった。
戦闘の激化が予測される場合、封域障壁そのものへ追加の魔力を供給するか、翠桐系統の技術を取り入れた〈増幅杭〉を追加し、防壁密度を引き上げる指示が出されることが多い。
しかし、白雪キョウカたちは上からの指示を待つより先に動いていた。
“空域術式――〈嵐雲〉”
「風の目」の生成。
チサトは自ら作り上げた風域を使い、縦横無尽に空中を移動する。
飛行術そのものではない。
圧縮した風を足場として踏み、別の気流へ身体を乗せ、さらに次の風へ自分を押し出す。理屈としてはそういうものらしいのだが、地上から眺める限り、普通に空を飛んでいるようにしか見えなかった。
「はい、一番!」
チサトが腕を振り下ろす。
細長い金属杭が石畳へ突き刺さった。
『ストッパー』。
座標記録と魔力流域の固定を目的とした術具である。
内部には使用者の魔力を一時的に記録する小型の術式核が組み込まれており、地面や建造物へ固定することで、離れた場所からでも術者の魔力回路との接続を維持できる。
一つ。
二つ。
三つ。
天景楼の周囲へ次々と打ち込まれていく。
流域と流域を繋ぐための「結び目」。
チサトは空中からストッパーを遠隔操作し、そこへ接続した自分の魔力を大気中へ混ぜ込んでいく。
四方に渦状の暴風が立ち上がった。
天景楼の外周を取り囲むように回転する巨大な風の環。
黒い断層から何が出てこようとも、市街地へ取り逃がさないための「網」が、空中に展開された。
「……ちょッ! なになに!?」
「おい白雪! お前の仕業か!?」
少し離れた封鎖線で、夜月リンとロックが同時に声を上げた。
風が強い。
リンの髪が盛大に乱れ、ロックの外套までばたばたと音を立てている。
とおるは咄嗟に顔を庇った。
「これ、味方がいる場所でいきなり始めていいやつなんですか!?」
「普通は一言ある!」
ロックが即答した。
「ですよね!」
ココが耳元の通信具へ手を当てる。
「キョウカちゃん、聞こえる? こっち十九班。いまの風域、そっちの判断?」
返事がない。
「……聞こえてるけど返す気ないやつだね、これ」
「それ通信の意味あります?」
とおるは訊いた。
キョウカが現在接続している魔力通信網は、彼女の戦闘班内部だけに限定されていた。
本来であれば、東霞第一支部の封境班、十九班、キョウカたちの戦闘班の三系統を共通回線へ接続し、相互に情報を共有する必要がある。
しかし、その手順を踏んでいる時間すら惜しいと判断したのだろう。
キョウカは十九班の状況を逐一確認することなく、戦闘準備を開始していた。
「……あの人、結構勝手ですね」
とおるが呟く。
「白雪は昔からああだ」
ロックが答えた。
「知ってるんですか?」
「以前、同じように合同任務をやったことがあるが、その時も連携など関係なく動いていた」
「それ、褒めてます?」
「結果だけ見ればな」
非常に付き合いにくそうな評価だった。
――〈五月雨江〉。
キョウカが右手をゆっくりと開いた。
掌の上へ集まった魔力が細い光の筋となり、幾重にも絡み合いながら形を結んでいく。最初に現れたのは弓幹、その次に弦、最後に握りへ淡い光が沈み込み、一呼吸もしないうちに、彼女の手には一張りの弓が完成していた。
キョウカの〈固有霊装〉――五月雨江。
世界樹の枝を核として、その所有者が持つ魂位相や魔力回路、誓約、さらには長い年月の中で培ってきた思考や生き方にまで適応して形を変える、個人専用の外部魔力器官。
固有霊装が選ぶ形は、必ずしも剣ではない。槍を取る者もいれば、盾や杖、あるいは武器と呼ぶには少し変わった姿を得る者もいる。
そしてキョウカの場合、その魂が選んだ形は弓だった。
五月雨江が完全に姿を現した瞬間、周囲の空気がすっと冷えた。
白に限りなく近い水色の魔力光が、彼女の足元から静かに立ち上っていく。鮮やかさを持ちながら濁りはなく、夜空へ散った細かな氷晶は雪にも似ていたが、地面へ落ちる前に淡くほどけ、また別の光へ戻っていく。
その色が幾層にも重なり、五月雨江の弓身を薄く包んだ。
同時に、弓を握る腕から肩へ向かって白い補助袖が形成されていく。
固有霊装を本格的に展開した際、こうした補助装束や外部魔力回路が使用者の身体へ現れること自体は珍しくない。ただし、それは見栄えを整えるための装飾ではなく、霊装の性能を最大限に引き出すために必要な機能が、所有者ごとの形で外側へ表れたものだった。
身体強化を補助するものもあれば、魔力放出による反動を逃がすものもある。周囲の魔力を取り込みやすくする構造や、武器と使用者の魔力回路をより深く接続するための器官が形成される例も知られている。
何を必要とするかは、その人間がどう戦うかによって変わる。
だから固有霊装の姿には、持ち主の戦い方そのものがよく表れる。
キョウカの身体を覆ったのは、濃い紺色の羽織だった。左右で長さの異なる腰布が夜風を受けて揺れ、その下には身体へ密着する細身の黒い戦装束が覗いている。腕から伸びた半透明の長袖には、水色の魔力光が水面の反射のようにゆっくりと流れていた。
美しい。
けれど、ただ美しいだけではない。
五月雨江を連続して使用すると、射撃のたびに腕の魔力回路へ急激な冷却負荷がかかる。そのため白い補助袖は腕そのものを保護し、肩や背中へ集中しやすい射撃反動を分散させる役目を持っていた。
キョウカが顔を上げる。
天景楼の最上部から、一人の聖騎士が風へ身体を預けるようにして滑空してきていた。
エドワードだ。
彼は降下しながらすでに複数の合図を送り、黒い断層の内部で検知された敵性反応について、地上にいるキョウカへ情報を流し続けている。
東霞第一支部に所属する聖騎士ではあるものの、彼の得意分野は正面戦闘ではない。索敵、魔力測定、広域通信の補助といった、戦場全体を把握するための能力に秀でており、この現場でも可能な限り断層の近くへ残り、ぎりぎりまで内部反応を拾っていた。
もともと、天景楼周辺で直接戦闘を担当する主力として置かれているのはキョウカとチサトの二人だ。
東霞第一支部の初期調査では、黒い断層から現れた魔獣の一部がすでに周辺へ逃れた可能性も否定できないとされている。そのため偵察班と地上巡回班は朧坂ゲンジの指示を受け、燈ヶ京の各方面へ散って痕跡を追っていた。
天景楼周辺にも封境班、救助班、魔力観測班が残り、王都から合同巡任へ来ている第十九班まで臨時対応要員として組み込まれている。
もっとも、キョウカたちの担当だけは最初から明確だった。
黒い断層、そのものへの直接対応。
彼女は配置が決まった時点で、周囲へはっきりと言っている。
「天景楼の内側は、私とチサトでやる。余計な人数を入れるな」
あの口調で言われれば、反論する者はそう多くない。
そして今。
黒い断層が、ゆらりと揺れた。
白い外壁を引き裂く巨大な亀裂が、呼吸でもするようにわずかに膨らむ。
そこにある黒は夜空の暗さとは違った。光が届かないのではなく、光そのものが途中で意味を失っているような黒で、目を凝らしても奥行きが読めない。
次の瞬間、その暗闇から複数の影が弾き出された。
エドワードの報告通りだった。
十体。
すべて魔獣。
少なくとも、現時点で読み取れる魔力反応だけを基準にするなら、一体ずつの戦闘能力は熟練した聖騎士を大きく下回っている。
では、こいつらは何なのか。
黒い断層が開いたことによって副次的に生じた生物なのか、それとも別の土地に生息していた魔獣が裂け目を通じて偶然こちら側へ迷い込んだのか。あるいは、もともとは普通の生物だったものが、断層の内部で何らかの変質を受けたのか。
今の段階では、どれも断定できない。
ただ一つ言えるとすれば、目の前へ現れた十体程度なら、キョウカが事前に下した「自分とチサトだけで処理できる」という判断は、少なくとも戦力面では間違っていなさそうだった。
キョウカが右手を弦へ添える。
指先から氷属性の魔力が細長く伸び、淡い水色を帯びた半透明の矢へ姿を変えた。
「キョウカ、ちょっと待って。気をつけた方がいい」
降りてきたエドワードが、普段より低い声で言った。
キョウカは視線を空から外さない。
「こいつらにか?」
「いや、違う。そいつらじゃない」
その答えで、わずかに指が止まる。
「じゃあ何だ」
「断層の中。もっと奥に、大きい反応が残ってる」
キョウカがようやく横目を向けた。
「どんな反応?」
「それが分からない」
「分からない?」
「魔力そのものは強いんだけど、流れ方がおかしい。普通なら拾えるはずの魔力回路が見えないし、属性も取れない。それなのに、何かがいるってことだけは分かる」
観測役はそこで一度言葉を切り、黒い断層を見上げた。
「あと……これは勘に近いけど、さっきの奴らとも少し違う気がする」
「へえ」
キョウカの返事は短い。
けれど、その言葉だけは聞き流さなかった。
――ただの魔獣ではない。
強い反応があるにもかかわらず、通常の生体魔力とは異なる。魔力回路らしい循環を拾えず、属性も分類できない。それでも断層のさらに奥には、確かに何かが存在している。
エドワードがそこまで説明した直後、キョウカは再び弓を構えた。
今考えても答えが出ないのなら、先に目の前を片づける。
「分かった。そっちは見続けてろ」
「言われなくても、そのつもり」
キョウカの右腕から、冷気が立ち上った。
「――〈六花の氷晶〉」
ぱき。
ぱきっ、と薄い氷を折るような乾いた音が続く。
六角形の小さな氷晶が一つ、また一つと空中へ生まれ、五月雨江の周囲をゆっくりと旋回し始めた。
少し離れた場所では、第十九班もすでに上空へ飛び出した魔獣たちを捉えている。
リンが一歩前へ出かけたものの、すぐに足を止めた。
天景楼の外周を包む巨大な風の流域。
その中心に立ち、固有霊装を完全展開しているキョウカ。
あの二つを見れば、今むやみに飛び込むべきではないことくらい、十九班の誰にでも分かった。
援護するつもりで入ったところで、射線や術式の流れを乱せばかえって邪魔になる。
とおるも、同じ判断だった。
ただ――。
右目の奥に、ほんの少しだけ疼くものがあった。
「……」
反射的に手を伸ばしかけて、とおるはやめた。
目には触れない。
意識して何かを見ようともしない。
今のところ、あの白い線も出ていなかった。
ミレイユにも、モモカにも、グレンにも、右目へ異常が出たら必ず報告するよう散々言われている。とはいえこの程度のかすかな疼きで戦闘中の全員を止めるのも違う気がして、とおるはひとまず、その感覚だけを忘れないよう頭の隅へ置いた。
ばさっ、と重い羽音が夜空に重なる。
断層から飛び出した十体の魔獣は、互いに似ているようでいて、実際には身体の大きさも輪郭もばらばらだった。
魔獣というものは、そもそも決まった一つの姿を持つ生物ではない。それは変異魔獣——星骸獣と呼ばれる異常な個体群についても同じことが言えた。
生息域、食性、属性、周囲に存在する魔力量。それらが長い時間をかけて身体へ影響するため、同じ地域に生息する個体同士ですら、条件が変われば大きく異なる形態を取ることがある。
二枚の翼を持つもの。
四枚翼のもの。
全身を硬い鱗で覆う個体もいれば、甲皮のような分厚い外殻をまとったものもいる。毛皮を持つものも、鳥に近い羽毛を生やしたものも珍しくはない。
だから姿が違うというだけなら、それ自体は不自然ではなかった。
問題は、目の前の十体が持つ違い方だった。
一体は右半身だけが青黒い鱗に覆われているのに、左半身には濡れたような灰色の体毛が密集していた。別の個体は硬質な甲殻の隙間から、水袋にも内臓にも見える半透明の器官を膨らませている。
翼の構造すら左右で揃っていない個体もいた。
片側は鳥の翼に近い。
もう片側は、皮膜を張った獣の前肢を無理やり翼へ変えたような形をしている。
自然な環境適応の結果とは、とても思えなかった。
むしろ、生き残るために使えそうな形を片端から拾い集め、一つの肉体へ無理に詰め込んだように見える。
以前、とおるはノクスの研究資料を、ほんの少しだけ覗いたことがあった。
魔獣一体を分類するだけでも、魔力回路、肉体変質、魂位相、属性偏向、地域適応、継代変異――そんな項目が延々と並んでいたのを覚えている。
正直、最初の数頁で読む気がなくなった。
研究者という人種は、どうして魔獣一匹を相手にあれほど大量の文章を書けるのだろう、と本気で思ったくらいだ。
もっともその大量の文章のおかげで、現場の騎士が「この牙には毒がある」とか「この個体には火を使うな」と事前に知り、生きて帰れている場合もある。
だから文句だけを言うわけにもいかない。
生物の身体には、本来ならそれなりの理由がある。
速く走るための脚。
飛ぶための翼。
獲物を噛み砕くための顎。
身を守るための殻。
魔力によって肉体が変質したとしても、その根本にある「何のためにこの形をしているのか」まで完全に失われるわけではない。
けれど断層から現れた十体には、その順序が逆転しているような気味の悪さがあった。
まず理由があり、そこから身体が作られたのではない。
逃げたい。
飛びたい。
噛みたい。
守りたい。
死にたくない。
そんな剥き出しの衝動だけが先に膨れ上がり、それぞれが互いの整合性など考えず肉体へ押し込まれたように見える。
だから美しい規則性などない。
左右すら噛み合わず、一つの生命として成立していることそのものが不自然に思える。
それでも、あれらは生きている。
そして生きようとしている。
その執着だけは、嫌になるほど分かりやすかった。
——あれが報告書にも度々記載されている星骸獣?
予測できない危険性が伴っている状況だからこそ、市街地へ逃がすわけにはいかない。
“ただの魔獣ではない”という分類上の理由だけではない。交渉も威嚇も通じず、ただ生存本能だけを頼りに無秩序に逃げ回る異形の存在を、人が密集する街へ取り逃がす方がはるかに厄介だった。
六角形の氷晶が、また一つ増えた。
キョウカの周囲から滲み出した氷属性の魔力が、ゆっくりと大気へ溶け込んでいく。
五月雨江による射撃領域は、彼女一人を中心とした狭い範囲に限られない。
地上から上空へ。
さらに条件さえ整えば、その射程全体を一つの狩場として扱うことができる。
空気の中には水分がある。
とりわけ大河である鏡河を抱え、年間を通して湿度の高い東霞地方の空気は、氷を扱うキョウカにとって非常に相性がいい。
大気中の水分を媒介にして、自分の氷属性魔力を薄く、広く浸透させる。
それだけで周囲の空間を把握する感覚は鋭くなり、五月雨江から放つ矢の誘導精度も大きく上がる。
ただしこの場に限って言えば、キョウカ一人で空を支配しているわけではなかった。
上空を舞う魔獣たちの身体へ、横殴りの風が触れる。
自然風ではない。
風は、神里チサトが天景楼周辺へ張り巡らせた魔力流域に沿って流れている。
そしてその風の中へキョウカの氷属性魔力が溶け込み、互いの領域を邪魔することなく接続されていた。
風が敵の位置を運ぶ。
氷が、その情報を拾う。
二人が何度も組んできたからこそ成立する、即席とは呼べないほど完成された射撃領域だった。
天景楼の上空へ飛び出した魔獣たちは、暗い裂け目から離れるなり、人々の暮らす燈ヶ京の市街地へ向けて進路を変え始めた。
理性が乏しいとしても、戦うか逃げるかを判断するだけの能力まで失っているわけではない。
地上には複数の聖騎士。
近くには、自分たちへ明確な敵意を向ける強大な魔力が二つ。
ここへ残るべきではないと、本能だけでも十分に判断できる。
一ヶ所へ固まれば狙われる。
なら、散ればいい。
先頭を飛ぶ一体が首を反らし、喉の奥から耳障りな甲高い音を響かせた。
それに反応して、後続の魔獣たちが一斉に翼の角度を変える。
魔獣の中には声だけではなく微弱な魔力波や地面の振動、空気の揺れを利用して、同族間で情報を共有する種も存在する。
この十体が本当に同じ仕組みを持っているかどうかは分からない。
少なくとも、互いの動きを見て即座に合わせる程度の連携は取れていた。
十体の影が、空の中で大きく散開する。
東へ。
西へ。
さらに高く上昇するものもいれば、建物の陰へ潜り込もうと高度を落とす個体もいる。
空間を広く使えば、追う側は戦力を分けなければならない。
数秒でも追跡を遅らせられれば、そのぶん逃走経路を選ぶ余地が生まれる。
魔獣たちなりに考えた、生き残るための行動だった
。
「……一、二……ちっ。面倒だな」
空へ散り始めた魔獣を目で追いながら、キョウカが小さく舌打ちする。
次の瞬間、五月雨江の弦が鳴った。
ばしゅっ、と空気を裂き、地上から一本の氷矢が夜空へ駆け上がる。
初速だけを見れば、狙った一点へ一直線に突き刺さる普通の高速射撃に見えた。ところが矢は細かな回転を加えながら上昇すると、そのままチサトが天景楼一帯へ張り巡らせている風域の中へ入り込み、まるで別の力に手渡されたかのように軌道を変えた。
チサトの風は、ただ敵を吹き飛ばすためだけに存在しているわけではない。
空気を動かし、魔力を運び、その流れの中へ味方の術式さえ乗せることができる。
魔獣たちは鳴き声や微弱な魔力波によって互いの動きを合わせていたが、それに対するキョウカとチサトには、細かな指示を一つ一つ交わす必要さえなかった。どこへ撃てば相手が何をするのか、どの風を作れば次にどこへ矢が飛んでくるのか。長く共に戦ってきた二人には、それが半ば呼吸のように染みついている。
上空へ飛び上がっていたチサトが、迫ってくる氷矢を視界の端に捉え、その場でくるりと身体をひねった。
「あー、はいはい。そっちね!」
軽い声とともに、風向きが変わる。
五月雨江から放たれた氷矢の周囲には、すでに微細な氷晶がまとわりついていた。キョウカが大気中の水分へ自らの魔力を混ぜ込み、目にはほとんど見えないほど細かな結晶として風の中へ散らしているのだ。
その氷晶を乗せた風が、今度はキョウカにとって巨大な誘導路になる。
空気があり、チサトの魔力が巡り、そこへキョウカの氷が入り込める場所。
ストッパーによって外縁を固定された〈嵐雲〉の内側は、すでにどちらか一人の領域ではなかった。
二人で作った、一つの戦場だった。
氷矢が風域の深部へ入る。
直後、チサトの風が矢羽根を掴んだ。
まず下から持ち上げ、勢いを殺さないまま横へ押し流す。逃げる魔獣の進路に合わせて角度を変えたかと思えば、今度は背後から風圧を重ね、落ちかけていた速度を一気に取り戻させる。
直線だったはずの射撃が、空中で柔らかな弧へ変わった。
矢そのものが意思を持って獲物を追っているようにも見える。
「ギッ!?」
避けたつもりだった先頭個体の脇腹へ、氷矢が深く突き刺さった。
弾けた氷晶が翼の付け根へまとわりつき、そこから白い霜が血管を走るような速さで広がっていく。数瞬も経たないうちに片翼の関節が凍りつき、左右の揚力を失った魔獣の身体が大きく傾いた。
それを見た後続の動きが、一斉に変わる。
市街地へ向かっていた進路を捨て、地上からの射線を避けるように散開した。
一体が急上昇。
二体は左右へ分かれ、互いの距離を大きく取る。
三体は天景楼の屋根すれすれまで高度を落とし、建物そのものを遮蔽物として利用しようとした。
さらに最後尾の個体は、先頭が撃ち抜かれた瞬間に速度を落とすと、その場から逃げ返るような鋭い旋回へ入る。
十体の軌跡が大きく開き、夜空へ歪な円を描いた。
「キョウちゃん! あいつら、ばらける気だよ!」
風に乗ったチサトの声が落ちてくる。
「見れば分かる。チサト、私の矢、全部拾える?」
「もちのろん!」
「……その返事だけは、何回聞いても不安になるな」
「ひどくない!?」
「落とさなければ文句はない」
「じゃあ一発も落とさない!」
「最初からそう言え」
言葉とは裏腹に、キョウカの視線にはほとんど焦りがなかった。
最初に放った氷矢は、飛翔しながら周囲の水分を凍らせ続けている。その軌跡には白い尾が細く残り、夜空へ一本の弧を描いていた。
キョウカはそれを一度だけ見上げると、五月雨江へ次の矢を番える。
弦を引く。
弓身が、ごく微かに震えた。
狙うべき敵は、すでに一方向にはいない。
上にも、横にも、屋根の陰にもいる。
通常の射手であれば、ここから十体すべてを追うには視線を忙しく動かし、それぞれの位置と速度を一つずつ把握しなければならない。
だが、キョウカは目だけで敵を見ているわけではなかった。
熟練した聖騎士ともなれば、大気中や物体の内部を巡る魔力の濃淡を、五感とは少し異なる感覚で捉えられるようになる。
誰かが身体強化を使えば、体内の魔力回路が大きく動く。
術式が成立する直前には、その場所へ魔力が集まり、周囲との均衡がわずかに崩れる。
属性を帯びた魔力が流れれば、自然魔力にも小さな偏りが生じる。
ただし、誰もが世界を同じように感じ取っているわけではない。
風に強く適応した騎士なら、空気の流れや圧力の変化を拾いやすい。音を扱う者ならば、普通の人間では聞き分けられないほど小さな振動まで感覚へ入り込む。水との親和性が高ければ、大気中の湿度や生体内部の水分変化から、そこに何かが存在することを読み取る者さえいる。
属性適性と、それを何年、何十年と使い続けてきた経験。
その積み重ねによって、一人ひとりが世界から拾い上げられる情報は少しずつ違っていく。
キョウカの場合、その感覚は〈氷晶を介した空間認識〉として異様なほど発達していた。
彼女が周囲へ散らしている、目ではほとんど捉えられないほど小さな氷晶。
それらはチサトの風によって広大な範囲へ運ばれ、屋根へ触れ、石垣を撫で、飛翔する魔獣の身体へぶつかり、時には砕け、時には体温に触れて溶けていく。
その一つ一つが変化する瞬間、ほんのわずかな魔力の揺らぎが生まれる。
五月雨江は、それを拾う。
どこで氷晶が砕けたのか。
何に触れたのか。
相手はどれほどの大きさで、どちらへ、どれほどの速さで移動しているのか。
無数の小さな情報を重ね合わせることで、キョウカの中には肉眼で見る景色とはまったく別の、立体的な戦場が形作られていた。
だから、敵を真正面に捉えている必要はない。
背後に回られてもいい。
屋根の陰へ逃げ込まれても構わない。
チサトの風が届き、その中にキョウカの氷晶が一粒でも存在する限り、そこはまだ彼女の認識領域の内側にある。
空中に散った氷晶。
その間を抜ける風。
大気中の水分。
魔力の流れ。
十体の魔獣。
天景楼の屋根と柱。
石垣。
地面。
それらはキョウカの感覚の中で、別々の物体として存在しているわけではなかった。
世界そのものが、無数の小さな「点」に分解されている。
一本の線も、近づいて見れば無数の点が連なったものになるように、屋根も、空も、敵の軌道も、彼女にとっては膨大な位置情報の集積として捉えられていた。
一つの点が動けば、その隣が変わる。
風が乱れれば、氷晶の流れが変わる。
何かが空間を横切れば、そこにあったはずの情報が押し退けられる。
キョウカは、その変化を拾えばいい。
視線の向いている方角など、大した意味を持たない。
前も。
横も。
背後も。
上空も。
遮蔽物の向こう側でさえ、風と氷が入り込める場所ならば。
彼女の射撃にとって、そこを「見えない角度」と呼ぶ意味はほとんどなかった。




