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第85話 細かいこと気にするタイプ?



 トッ、と軽い音がした。


 十体の星骸獣がすべて墜ちたことを確認したあと、チサトは〈嵐雲〉の主流をいったん緩め、その流れに身体を預けるようにして地上へ降り立った。


 圧縮された風を足場にして最後の数メートルを滑り、石畳へ着地する。白鷺遊撃班用に調整された軽装は濃い青緑を基調とした短衣の上から薄い防護布を重ねたもので、肩や腰へ余計な装甲を持たない。弓を扱う右腕と風術を制御する脚部だけが重点的に補強され、踵の薄い戦靴にはまだ微かな風属性魔力が絡みついていた。


「お! やっちんじゃん!」


「……やっちん?」


 聞き慣れない呼び方に、とおるが思わずそちらを見る。


 もっとも、呼ばれた本人――夜月リンはまるで気にしていなかった。


「ちぃちゃんも来てたんだ。見かけないなーと思ったんだ」


 リンが片手を上げる。


「やっほー!」


 チサトも負けじと両手をぶんぶん振った。


 数分前まで十体の星骸獣を相手に上空一帯の気流を掌握し、キョウカの射撃を自在に運んでいた人物とは思えないほど声が軽い。


「離れたところにいたからねー。〈ストッパー〉置くのに、ぐるっと回ってたし。ま、案の定って感じ?」


「案の定で十体出てくるの、だいぶ嫌なんだけど」


「それはそう」


 神里チサトは、白鷺遊撃班の中では比較的――というより、かなり社交的な部類に入る。


 他支部の騎士にも気軽に声をかけ、共同任務で一度組んだ相手なら次に会った時には大抵あだ名で呼ぶ。白鷺遊撃班には班長のキョウカを筆頭に個人判断の強い人間が集まりやすいという評判があるが、その中でチサトだけは妙に横方向への人脈が広かった。


 キョウカ本人は、その無駄口の多さをあまり評価していない。


 ただし、チサトが他班との連絡を円滑にしていることまで否定したことはなかった。


「キョウカに言っといてくれる? 私たちの仕事、全部先に取らないでって」


 リンが少しだけ声を落とす。


「あはは。キョウちゃんに悪気はないよ? 口は悪いけど」


「悪気がない状態であれなのが一番怖くない?」


「それもそう」


 とおるは、何となく会話へ入らず一歩だけ後ろへ下がった。


 すると隣にいたロックも、ほんのわずかに同じことをした。


 目が合った。


「……」


「……」


 お互い何も言わなかった。


 こういう時だけ妙に意思疎通が早い。


 リンとチサト。


 二人は騎士団へ正式配属された時期が近い。


 ただし、その経歴は少し違う。


 リンは東霞地方の夜月郷で育ったあと、燈ヶ京に置かれている〈霊術院〉へ進んでいた。


 霊術院。


 王国では、騎士団や魔術に関わる公職を志す若者のため、王都アルヴェリオンと各地方の主要都市に設けられている教育機関の総称である。


 燈ヶ京にあるのは〈東霞霊術院〉。


 王都には国内最大規模の〈中央霊術院〉が置かれている。


 名前だけを聞けば、魔術師だけを育てる特殊な学校のようにも思える。


 実際、その起源はかなり魔術教育寄りだった。


 この世界では、生物の体内を巡る魔力そのものと、自然界や術式の中に存在する微細な魔力粒子は区別して研究されている。


 一般にはそれらを広く〈魔素〉、あるいは魔力粒子と呼ぶが、意志や術式、魔力回路を介して明確な属性性質を帯びたものについては、古くから〈霊素〉という名称が使われてきた。


 熱と燃焼、膨張の性質を帯びれば〈火霊素〉。


 流動や冷却、浸透に偏れば〈水霊素〉。


 速度や圧力、振動を持つものは〈風霊素〉。


 同様に土、雷、氷、木、金、聖、影、音、無の各属性にも、それぞれ対応する霊素が存在する。


 ただし、魔素と霊素が完全に別の物質というわけではない。


 何の属性として働くかまだ定まっていない魔力粒子が、術者の意志、呼吸、経験、適性、魂の位相、術式などの影響を受け、一定の性質へ偏った状態を〈霊素〉と呼ぶ――というのが、現在の王宮魔導院で一般的な整理だった。


 要するに。


 同じ水でも、川になったり、霧になったり、氷になったりする。


 とおるは以前そう説明されて、「分かりやすいような、余計にややこしくなったような」と思ったことがある。


 そして〈霊術院〉という名称も、この〈霊素〉に由来している。


 王国成立以前、魔術教育がまだ神殿や一部の家系に独占されていた時代、属性を帯びた霊素を安全に「読み、整え、扱う」技術はまとめて〈霊術〉と呼ばれていた。


 その霊術を体系的に教える施設が、霊術院の始まりである。


 時代が下るにつれて魔術研究は細分化され、魔力回路、術式、十二属性、地脈、魔導具、治癒、結界など、それぞれ独立した学問へ発展した。


 それでも学校の名前だけは残った。


 現在の霊術院は、いわゆる魔術師養成所ではない。


 読み書き、算術、王国法、地理、歴史、魔術理論、魔獣学、地脈学、応急処置、基礎戦闘、集団行動、騎士団制度、行政実務などを広く教える、学校に近い総合教育機関となっている。


 当然、卒業したからといって自動的に聖騎士になれるわけではない。


 地方騎士団。


 都市警備。


 行政魔術官。


 神殿職。


 魔導技術職。


 封境管理関係。


 冒険者組合の専門職。


 卒業後の進路は多岐にわたる。


 王樹騎士団を志す者は霊術院を出たあとに各種の選抜や実務訓練を受けることになり、とりわけ十二華を目指す場合は、さらに聖騎士試験を含む厳しい選考を通過しなければならない。


 逆に言えば、騎士団へ入る人間全員が霊術院出身というわけでもない。


 地方軍出身者。


 神殿育ち。


 貴族家で専門教育を受けた者。


 冒険者や狩人として実績を積んだ者。


 冒険者や狩人からの推薦。


 各種工房や魔導技術職から転向する者。


 実務経験を重ねたのち、騎士団の選抜試験を受ける者も珍しくなかった。


 とおるなどその分類を全部無視して外側から飛び込んできた人間である。


 霊術院の正規課程どころか、この世界の基礎教育そのものをほとんど通っていない。


 王国の人事記録から見ても。


 かなり説明に困る経歴だった


「……学校まであるんですね」


 以前制度説明を聞いた時にとおるがそう言うと、シルバーは穏やかに頷いた。


「あります。魔法を扱えるからこそ、教育せず現場へ出すほうが危険ですから」


「それは……まあ、そうですね」


「特に王国法と事故処理は重要です」


「戦闘じゃないんですか」


「戦闘より先に、壊した家の補償手続きを覚えます」


「やっぱり行政職じゃないですか」


 そんな会話をした記憶がある。


 リンは東霞霊術院に籍を置いていた期間が長く、燈ヶ京とその周辺で過ごした年月だけを比べれば、実のところチサトより土地に詳しい。


 道なら知っている。祭りの日取りや山へ入るならどの道が安全かも、河川が増水したときにどこの橋が最初に閉じられるかも、近隣の集落で評判の店も、それどころか「なんでそんな人まで知ってるんだ」と言いたくなるような相手とまで普通に顔見知りだった。


 地元へ戻ったリンが三歩も歩かないうちに誰かから「あらリンちゃん」「久しぶり」「今度うちにも寄っていきな」と声をかけられるのは、本人の妙に人懐っこい性格だけが理由ではないらしい。


「おい、チサト」


 不意に、低い声が飛んできた。


 白雪キョウカだった。


 〈五月雨江〉はまだ完全には消しておらず、弓の輪郭こそ薄く透け始めているものの、左手の周囲には淡い氷色の光が残り、戦闘の名残である細かな氷晶も夜気の中をゆっくり漂っている。


「仕事はまだ終わってない」


「え?」


 チサトが振り返り、いかにも心外そうに目を丸くした。


「でも全部落としたじゃん。ちゃんと十体いたし、十体ぜんぶ落ちたよ?」


「あれは第二陣だ。断層の奥にもっと大きい反応が残ってる」


「えええ……」


 見るからに嫌そうな声を出してから、チサトは自分の周囲を見回した。


「もう〈嵐雲〉、半分くらい解いちゃったんだけど」


「……」


 キョウカが眉間へ指を当てた。


 何も言っていない。


 それなのに、「なぜ解除した」という気持ちがものすごく分かりやすく伝わってくる。


 チサトの〈嵐雲〉は一度完成してしまえば相当に強力な術式だが、思いついた瞬間にぽんと展開できる類のものではない。


 複数の〈ストッパー〉を適切な位置へ配置し、それぞれの座標を風属性魔力で結びながら空域全体へ流路を作っていく必要がある。


 星骸獣十体を封鎖圏の内側で撃ち落とした時点で一つの戦闘が終わった――その判断自体は間違っていない。


 ただし、エドワードからはすでに次の報告が届いていた。


 黒脈断層の、さらに奥。


 先ほど現れた第二陣十体とは明らかに規模の違う反応がある。


 属性は分類不能。


 通常の魔力回路に相当する反応も確認できない。


 それでも、何かがいる。


 チサトだってその報告を聞いていなかったわけではない。


 ただ、本人としてはまだ「本当に生き物なのか?」という疑いが残っていた。


「でもさあ、あくまで反応でしょ?」


「そうだ」


「黒脈断層の中って、もともと魔力ぐちゃぐちゃじゃん。さっきだって波形、何回も変な跳ね方してたし」


 その言い分にも、ちゃんと理由はある。


 黒脈断層の内部では、既知の地脈とも通常の魔術領域とも異なる不安定な魔力が絶えず流れている。


 青。


 紫。


 銀。


 性質の異なる光が深部を走り、ときには絡まり合い、次の瞬間には何事もなかったように消えていく。


 観測を担当しているエドワード自身、見えている反応すべてを「何らかの生体反応だ」と断定しているわけではない。


 むしろ誤検知としか思えない波形が頻繁に混じるからこそ、星骸獣五体分の残留魔力と断層そのものが発している反応を別系統で測り続けている。


 観測時間が短ければ、慎重になるのは当然だった。


 だから、チサトの疑問はもっともだ。


 もっともではあるが。


「話してても埒が明かない」


 キョウカは、そこを迷わず切った。


「チサト。〈嵐雲〉を張り直すのに何分?」


「えーっと……急げば五分くらい?」


「十分」


「え、十分かかるの?」


「違う。五分で十分だ」


「あ、そっちね」


 チサトがぽんと手を打つ。


 キョウカは何も言わず、ほんの少しだけ目を細めた。


「今から地上の〈封域障壁〉を増幅杭で補強させる。私は断層前面を一時的に押さえる。恒久的な封印なんて期待してないけど、もし何か出てくるなら、数秒でも動きを鈍らせたい」


「うん」


「そっちは空域を戻す。できるだけ急いで」


 チサトは少しだけ唇を尖らせた。


「……でもさ、まだ本当に来るって決まったわけじゃないよ?」


「来なければ、それでいい」


 キョウカは即答した。


「準備だけして、何も起きなかったなら一番いい。起きてから『やっぱり張っとけばよかった』って言うほうが最悪だ」


 薄青い瞳が、まっすぐチサトを見る。


「分かった?」


「うぁーい」


 返事は軽い。


 とおるは少し不安になった。


 ところが当のチサトは、気の抜けた声とは裏腹にもう動き始めている。


 腰の袋へ手を突っ込みながら予備の〈ストッパー〉を三本まとめて抜き出すと、それを器用に指の間へ挟んだ。


 どうやらこの人は、口調と仕事の速さがまったく一致しない類の“できる人”らしい。


「西側の三本、ちょっと流されてるっぽいから直してくるねー。北側はたぶん残ってる」


「たぶんじゃなくて確認して」


「あいあいさー!」


「その返事やめろ」


「了解であります!」


「もっと悪い」


「もちのろん!」


「……もういい。早く行け」


「はーい」


 楽しそうに片手を振ると、チサトはそのまま風へ身体を預けるようにふわりと浮かび上がり、何か思いついた子どものような軽さで西側へ飛んでいった。


 キョウカは遠ざかっていくその背中をしばらく無言で見送っていたが、やがて肩の力を抜くように、今日に入って何度目なのか本人ですら数えていなさそうな深いため息を吐いた。


 とおるはその横顔を眺めながら、今さらになって少しだけ腑に落ちるものがあった。


 白雪キョウカが白鷺遊撃班を率いているのは、単純に戦闘能力が高いからではない。


 もちろん強い。


 それは今さら疑う余地もないのだが、彼女が隊長として厄介な現場の中心に置かれている理由はたぶんもっと別のところにある。


 キョウカは、異常事態に対して驚くほど準備をする。


 一見するととにかく先に身体を動かしてしまう人にも見えるし、周囲への相談や細かな手続きを「あとでいい」とばかりに飛び越えていく場面も珍しくない。


 というより、実際かなり飛ばす。


 見ている側が「そこ、本当に飛ばして大丈夫なのか」と不安になる程度には飛ばす。


 けれど、それは考えるより先に突っ込んでいるという意味ではなかった。


 むしろ逆だ。


 敵が空へ逃げる可能性があるなら、戦闘が始まる前に空を閉じておく。


 逃走を選ぶかもしれないなら、追いかけることを考えるより先に逃げられる方向そのものを減らしておく。


 建物へ被害が及びそうなら、「壊さないように気をつける」という曖昧な話で済ませず、どこまでなら損傷を許容できて、どこから先は何があっても守らなければならないのかを最初に決めておく。


 怪我人が出る可能性があるなら、誰かが倒れてから慌てて治療班を呼ぶのではなく、まだ誰も傷ついていないうちに必要な人間を近くへ配置しておく。


 そして、何が起きるのか分からないのなら。


 分からないままでも、起こりそうなことから一つずつ潰していく。


 それが、キョウカのやり方なのだろう。


 速戦即決。


 彼女がその言葉を好むのも、単純に「面倒だから早く敵を倒したい」という話ではないらしい。


 異常災害では、一つ判断が遅れただけで被害が次の被害を呼ぶ。


 一人が負傷すれば救助へ人手を割かなければならず、その穴から別の敵が抜ければ配置を崩して追う必要が生まれ、そこへ人員を回せば今度は別の場所が薄くなる。


 たった一つの綻びが、まるで引っ掛かった糸を引くように気づいた頃には全体をほどいてしまう。


 まして黒脈断層のようにそもそも次に何が起きるのかさえ予測しづらい現象が相手なら、その連鎖がどちらへ転がるのかを完全に読むことなどできない。


 だからキョウカは、読めない未来を無理に当てようとはしない。


 その代わりに起こり得る面倒を一つずつ先回りして消していく。


 結局何も起きなければ、準備は無駄になる。


 配置した人員も事前に消費した魔力も、念のため補強した障壁も、結果だけを切り取れば「必要なかった」で終わる。


 たぶんキョウカにとっては、それでいいのだ。


 何も起きなかったから無駄だったのではなく、何も起こさずに済んだなら、それが一番いい。


「……念には念を、ってやつか」


 とおるが、誰へ聞かせるでもなく小さく呟く。


 口にしてみると、その言葉は思っていた以上にキョウカの戦い方へよく馴染んだ。


 そこでふと、とおるの中に別の考えが浮かんだ。


 今まで、この人は何でも自分でやりたがる人なのだと思っていた。


 誰かへ任せて説明するくらいなら自分で動いたほうが早いし、実際そのほうがたいてい上手くいくから、気づけば仕事を全部抱え込んでしまう。


 そういう、不器用なくらい責任感の強い人なのだと。


 けれど、もしかすると少し違う。


 キョウカが嫌っているのは、他人へ任せることそのものではない。


 任せたあとに残る、「まあ大丈夫だろう」という曖昧さなのではないか。


 誰かが見ているはず。


 たぶん問題ない。


 ここまでは起きないだろう。


 普段なら、それで何事もなく終わる程度の小さな穴。


 ほとんどの人なら見過ごしてしまうし、実際、見過ごしたところで困らない日のほうがずっと多い。


 けれど異常事態では、そのわずかな綻びがある瞬間を境に取り返しのつかない傷口へ変わることがある。


 そしてキョウカは、きっとそれを知っている。


 知っているからこそ人により少し多く確認して、人より一手早く備えて、人から見ればやりすぎに思えるところまで穴を塞ぐ。


 他人を信用していないのではない。


 たぶん彼女は――「大丈夫だったはずなのに」という言葉を、誰より嫌っているのだ。


「私たちも動こっか」


 リンがそう言って、さっきまで浮かべていた軽い笑みをほんの少しだけ引っ込めた。


 白鷺遊撃班が上空を押さえ、キョウカが黒脈断層の正面を監視している以上、第十九班まで同じ場所へ雪崩れ込む必要はない。戦力を一か所へ固めたところで、次の異変が別方向から起きれば対応が遅れるだけだ。


 今やるべきなのは何かが起きてから慌てて散ることではなく、その前にそれぞれが互いの動きを邪魔せず動ける場所へ収まっておくことだった。


「シオン。モモちゃんと本丸御殿の屋根、お願い」


「分かりました」


「ん」


 シオンが素直に頷き、隣ではモモカが読んでいた本をぱたんと閉じる。


 旧白鷺城の本丸御殿は、天景楼の南東側に建つ比較的低い建物だ。天景楼ほどの高さこそないものの、屋根へ上がれば本丸一帯を広く見渡せるため、封域障壁の内側はもちろん、地上部隊がどこで動いているかまで確認しやすい。


 リンは通信符へ本丸御殿の簡易図を呼び出し、屋根の上へ順番に四つの印を置いていった。


「ここ、それからここ。あと南側の軒寄りと……最後が北東。全部で四か所ね」


 棟の中央。


 北西側。


 南側の軒寄り。


 そして、天景楼を真正面に見られる北東側。


「シオンは、この四点を順番に見て。天景楼側ばっかり気にしないで、本丸御殿そのものと、その周りの地面も一緒にお願い。もし断層が広がるなら、いきなり天景楼が崩れるより先に、地面とか建物の歪みとして出る可能性もあるから」


「了解です。屋根材の浮きや柱の傾きも確認します」


「助かる。モモちゃんも同じ四点を使って。基本は中央で待機、負傷者が出たら一番近い位置から降りて」


「ん。分かった」


 モモカは返事をしながら、口の中の飴をころりと転がした。


「落ちないでね?」


「落ちない」


「その自信どこから来るの」


「シオンいるから」


「僕を命綱みたいに扱わないでください」


 シオンが困ったように言うと、モモカは真顔のまま「頼りにしてる」と返した。


 リンは小さく笑ってから、通信符の地図を西へ動かす。


「シルバーは私と西側」


「西曲輪ですね」


「うん。断層から漏れた魔力が外へ流れてないか見たいんだよね。さっきから、あっちだけ風向きと魔力の流れが微妙に噛み合ってない」


 シルバーは手元の通信符へ視線を落とし、観測値を確かめてから静かに頷いた。


「記録上でも、西側だけ封域障壁の魔力消費量がわずかに高くなっています。現時点では誤差の範囲ですが、夜月さんの感覚と一致している以上、現地確認を入れる価値はあります」


「でしょ?」


「ただし、断層へ必要以上に近づかないでください」


「分かってるって」


「夜月さんの『分かっている』は、行動の保証にならないと聞いています」


 リンの眉がぴくりと動いた。


「……誰から?」


「複数名からです」


「複数なの?」


「ひどくない?」


「事実だろう」


 背後からロックが淡々と言った。


 リンが振り返る。


「ロックは後ろね」


「分かっている」


「返事早っ」


「最初からそのつもりだ」


 ロックが選んだのは、本丸南側の開けた場所だった。


 前へ出すぎず、それでいて本丸御殿、西曲輪、天景楼前のどこへでも短時間で移動できるうえ、全員の位置を大まかに目で追うこともできる。


 リンやシオンのように専門的な観測を担当するわけではない。


 必要な場所へ人を回す。


 退路が塞がれれば開く。


 誰かが前へ出すぎれば引き戻す。


 何かが起きてから目立つ役目ではなく、何も起きていないうちから全体を崩さないための役目だ。


 第十九班にとって、ロックが後ろにいるというのはそれだけでかなり大きな意味を持っていた。


「俺は後方から全体を見る。配置変更が必要になったら、俺かココを通せ。自己判断で持ち場を変えるな」


「はーい」


「特にお前だ、夜月」


「なんで私だけ名指しなの」


「当然だ」


「信用ないなー」


「積み重ねだ」


「歴史って残酷だね」


 そのやり取りを聞いていたとおるは、少し前に聞かされた演武祭の話を思い出しながらつい小さく呟いた。


「……歴史から何も学んでない……」


「とおる、今なんか言った?」


「何も言ってません」


「聞こえたけど?」


「気のせいです」


 リンがじっと見てくる。


 とおるは迷わず目を逸らした。


「で、最後。ココ」


 リンが通信符の地図へ二つの印を追加する。


「とおるお願い」


「りょーかい」


 ココが明るく返し、とおるは表示された場所を確認した。


 本丸の東側。


 天景楼からは少し距離を取っているものの、完全な後方でもない。戦闘区域と退避線、そのちょうど中間あたりに位置する場所だった。


「俺、ココさんと一緒なんですね」


「そうだよ?」


「いや、別に嫌とかじゃなくて」


「今、一瞬だけ嫌そうな間があったよね?」


「ないです」


「ほんとに?」


「ないです」


 ココが疑わしそうに顔を覗き込んでくる。


 とおるは反射的に一歩下がった。


「あ」


「何ですか」


「その一歩。人見知りの壁」


「今それ関係あります?」


「あるある」


「ないですって」


「はいはい、そこまでだ」


 ロックが会話を切った。


「壁山はココと行動しろ。今回は戦闘参加より、状況確認と補助を優先する」


「了解です」


「それから、白鷺遊撃班の射線には絶対に入るな。断層へ自分から近づくのも禁止だ。何か妙なものが見えても、その場で勝手に確かめに行くな。まず報告して、こちらで判断してから動け」


「……はい」


 返事をしたとおるへ、ロックは一度だけまっすぐ視線を向けた。その目つきは相変わらず厳しかったが、叱っているというよりここだけは勘違いするなと念を押しているように見える。


「一応言っとくが、お前にできることが少ないから後ろへ置くわけじゃないぞ」


 予想していなかった言葉だったのか、とおるはわずかに目を見開いた。


「むしろ逆だ。できることがあるから、勝手に使うなって言ってる。お前の壁は状況によっちゃ十分戦力になるし、俺たちには見えないものをお前だけが拾う可能性もある。だからって、それを理由に一人で前へ出られると困るんだよ」


「……ああ」


 そこまで説明されれば、とおるにも言いたいことは分かった。


 自分には壁を出せる。普通の人間には見えない何かを自分だけが見つけることだってあるかもしれないし、もし目の前で誰かが危険になれば考えるより先に身体が動く可能性もある。


 けれど、それと「だから前へ出ていい」はどうやらまったく別の話なのだ。


 ここには白鷺遊撃班がいて、東霞第二支部の騎士たちがいて、封境班も調査隊もいる。自分より遥かに長くこの土地で働き、こういう異常と向き合ってきた人間がそれぞれ必要な場所へ配置されているのだから、何も知らない新人が善意だけで飛び出したところで役に立つどころか余計な手間を増やす可能性のほうが高い。


「必要なら、こっちから指示する」


 ロックはそこで少しだけ声を落とした。


「それまでは見てろ。覚えろ。分からないものが出たら、分かったふりしないで聞け。新人の仕事なんて、最初はそれで十分だ」


「……分かりました」


 とおるは今度こそ素直に頷いた。


 そういうふうに言ってもらえると、かなりありがたい。


 何も分からないまま「とりあえず前へ行って、なんとかしてこい」と放り出されるよりたぶん百倍くらい助かるし、少なくとも何をすればいいのか分からないまま邪魔になる心配は減る。


「ということで、とおる君は私と一緒ね」


 横からココが手を伸ばし、ぽん、と肩を叩いた。


「はい」


「安心して。危なくなったら私が一番に逃げるから」


「俺を置いて?」


「違う違う、一緒。一緒に逃げるって意味」


「今の、一言目のほうが本音ですよね?」


「いやだなあ、とおる君。細かいこと気にするタイプ?」


「生命に関わる細かいことなので」


「それは確かに細かくないね」


 ココはけろりと言い直した。


 そんな調子で、各自の配置が決まっていった。


 本丸御殿の屋根にはシオンとモモカが上がり、シオンは四つある観測点を順番に巡りながら建物構造と魔力流の変化を監視、モモカは負傷者が出た場合に備えて中央付近へ留まる。西側へ向かうのはリンとシルバーで、リンが地形や風の妙な変化を現場の感覚から拾い、その隣でシルバーが断層や封印、残留魔力といった術式寄りの異常を解析する。


 ロックは後方へ残り、全員の位置と退路をまとめて把握しながら、状況が崩れた場合の指揮役を担当することになった。


 ココととおるは東側へ。


 各班から流れてくる情報を受け取りつつ、何かあればすぐ動ける位置で待機する。


 そして天景楼の正面には白鷺遊撃班が入り、キョウカが地上から射線を確保し、上空ではチサトが空域を押さえる。城外区画ではレンタロウが動き、さらにエドワードが観測役として周辺の動線を保つ。


 黒脈断層を中心にして人の配置だけを上から見れば、大きな円を描くように複数の班がゆっくりと散っていった。


「じゃ、私たちも行こっか」


 ココが先に東へ歩き出した。


「はい」


「そんなに緊張しなくていいよ」


「してません」


「してる人の声だったけどなあ」


「普通です」


「肩も上がってるよ?」


「え」


 言われて、とおるは反射的に自分の肩へ目を落とした。


 確かにいつもより少しだけ上がっている気がする。


 誰にも見られていないふりをしながら、そっと下げた。


「ほら」


「……そういうところに観察力使わないでください」


「銀桂なので」


「それ、何にでも使えて便利ですね」


「便利だよー。困ったときはだいたい銀桂って言っとけば、それっぽく聞こえるし」


「今、自分で台無しにしましたよね?」


「気のせい気のせい」


 ココは楽しそうに笑い、そのまま歩調を緩めず東側へ進んでいく。


 とおるも数歩遅れて後ろを追った。


 ちょうどその頃、腰の通信符が淡く光り、リンの声が入る。


『西側、移動開始。シルバーも一緒』


『確認した』


 ロックの返事はいつも通り短い。


 間を置かず、今度はシオンから通信が入った。


『本丸御殿へ到着しました。これから屋根へ上がります』


『モモカもいる』


『分かってる。二人とも落ちるなよ』


『シオンがいるから平気』


『……先ほどから、その理屈がまったく分かりません』


『構造、分かるから』


『そういう意味ではありません』


『ん』


 通信の向こうで、モモカは納得したのかしていないのか分からない声だけを返した。


 隣を歩いていたココが、堪えきれなかったように小さく吹き出す。


「なんか、十九班らしくなってきたねえ」


「これがですか?」


「うん、これが」


「俺、まだ『十九班らしい』の基準を知らないんですけど」


「そのうち嫌でも分かるよ」


「その言い方、ものすごく嫌な予感するんですが」


「大丈夫大丈夫」


「何が大丈夫なんです?」


「それも、そのうち分かる」


「やっぱり全然大丈夫じゃないじゃないですか」


 結局、何が大丈夫なのかは最後まで教えてもらえなかった。


 東側の配置地点へ到着すると、さっきまで笑っていたココの空気がほんの少しだけ変わった。表情から柔らかさが消えたわけではないが、視線だけは素早く周囲を走り、退路になりそうな場所、遮蔽物、他班の位置を短い時間で順番に確認していく。


 前方には天景楼がそびえていた。


 その五層目から六層目へかけて、黒脈断層が縦に走っている。


 少し距離を取って眺めても、やはり普通の亀裂には見えなかった。


 壁が割れて、その奥が暗く見えているわけではない。


 そこだけ「もともと壁が存在していた」という事実そのものを何かに抉り取られたようで、黒い空白の奥では青、紫、銀の細い光が、液体とも煙ともつかない速度でゆっくり流れている。


 見るな、と言われている。


 正確には、長く凝視するな——だ。


 とおるは思い出したように視線を少しだけ横へずらした。


「見すぎない」


 ほとんど同時に、隣からココの声が飛んできた。


「見てません」


「今、見ようとしてたよ」


「……ちょっとだけです」


「素直でよろしい」


「それ、さっきも言いましたよね」


「使いやすいからねえ」


「便利な言葉ばっかり持ってますね」


「銀桂なので」


「それも二回目です」


 ココは満足そうに頷いてから通信符を持ち上げた。


「東側、配置完了。ココ、壁山。今のところ異常なし。とおる君もちゃんといるよ」


「ちゃんと、はいらないです」


「新人が迷子になってない報告は大事」


「迷子になってません」


『雑談は通信切ってからやれ』


 即座にロックの声が割り込んだ。


「はーい」


『返事だけはいいな、お前は』


 その直後から、別方向の報告が続けて入ってくる。


『西側到着』


 リンの声。


『こちらも配置につきました。これから魔力偏差を確認しますので、数分ください』


 続いてシルバー。


『本丸御殿、第一観測点へ到着しました』


 シオン。


『医療待機。暇』


 最後にモモカ。


『暇でいいんだよ。むしろ暇でいてくれ』


 ロックが間髪入れずに返す。


『知ってる』


 それを最後に、通信はひとまず静かになった。


 全員の位置が定まったのだ。


 とおるは何となく手元の通信符へ目を落とし、そこに表示された簡易地図をあらためて眺めた。


 地図の上には、小さな光点がいくつも浮かんでいる。


 西側。


 東側。


 後方。


 本丸御殿の屋根。


 天景楼の正面。


 それぞれ互いに離れた場所へ立ち、担当している仕事もまったく同じではないのに、地図上では点と点のあいだを細い光の線が結び、一つの異常を中心として散らばった人間たちが情報だけは切れずに繋がっている。


「……なんか」


「ん?」


 ココが横を向いた。


「いや……なんでもないです」


 とおるは一度、口に出しかけた言葉を飲み込んだ。


 なんだか、不思議な感じがした。


 さっきまで全員同じ場所に集まっていたときより、離れた今のほうがむしろ一つのまとまりに見える。


 全員が同じ景色を見る必要はない。


 同じ場所へ立つ必要もなければ、同じ判断を下す必要もない。


 必要な場所へ必要な人が行き、それぞれが自分にしか拾えないものを拾って、その情報だけを別の誰かへ渡す。


 一人では見えない場所を別の誰かが見ている。


 自分では分からないものを分かる人間が調べている。


 たぶん――こういうものも、「班」というものなのだろう。


「とおる君」


「はい」


「難しい顔して何かいいこと考えてるところ悪いんだけど」


「何ですか」


「そこから、もう半歩だけ下がろっか」


「え?」


「キョウカちゃんの射線に、ちょーっと近い」


 とおるは考えるより早く半歩下がった。


「……ここですか?」


「うん。そこなら大丈夫。いい子いい子」


「子供扱いやめてください」


「じゃあ、新人扱い」


「そっちも微妙です」


「注文多いなあ。じゃあ何扱いがいいの?」


「普通に人間として扱ってください」


「難しい注文きたね」


「なんでですか」


 ココは楽しそうに笑った。


 けれど、とおるはそれ以上言い返さなかった。


 今回は、たぶんこれでいいのだと思えた。


 無理に手を出さない。


 分からないものへ、分かったつもりで触れない。


 自分の出番が来るまでは周りを見て、聞いて、覚える。


 立っているだけに見える時間にもちゃんと意味はある。


 それは何もしないこととは、少し違う。


 とおるは黒脈断層から意識的に視線を外し、天景楼の輪郭、その周囲へ展開している騎士たち、遮蔽物になりそうな場所、退路として確保された通路をそれぞれ確認するように、一つずつ目で追っていった。


 今の自分にできることはきっとそれでいい。


 ――ただ。


 そうして別の場所へ注意を向けていても、右目の奥に残った違和感だけは消えなかった。


 激痛というほどではない。


 目を開けていられないほどでもない。


 けれど、細い針の先を当てられたまま、奥からほんの少しずつ押され続けているような鈍い痛みが、さっきから一度も途切れず残っている。


 気にしなければ忘れられそうで。


 忘れようとすると、また存在を主張してくる。


 そんな小さな痛みだけが、右目の奥で静かに続いていた。


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