第79話 人見知りという壁の極意
「人と人との間には、もうちょっとこう……壁というものがあるはずなんですよ」
とおるが机へ突っ伏したまま、誰に聞かせるでもなくそんなことを呟くようになって、かれこれ燈ヶ京へ来てから一週間が経とうとしていた。
いや、別に不満があるわけではない。任務が理不尽なほど過酷なわけでもないし、東霞第一支部の人間が意地悪で新人をいびってくるわけでもない。むしろ逆である。皆、よく話しかけてくる。よく頼ってくる。よく仕事を振ってくる。よく名前を呼ぶ。よく飯へ誘う。よく知らない場所へ連れていく。よく「せっかくだから」と本人の予定表へ存在しなかった用事を増やす。つまり何が問題なのかと聞かれれば、人間関係そのものはおおむね良好であり、職場環境も恐らく世間一般で見れば恵まれている部類なのだろうが、人見知りにとって良好な人間関係というものは、それはそれで体力を使うという、たいへん贅沢で説明しにくい悩みが発生していたのである。
燈ヶ京へ到着した翌日から、第十九班は東霞第一支部の通常業務へ混ざる形で合同巡任を開始した。朝は支部の掲示板に張り出される任務票を確認し、支部所属の騎士と組んで町へ出る。小型魔獣の駆除。倉庫街で起きた魔力灯の故障確認。川沿いの護岸に生じた亀裂調査。祭礼用の仮設橋の安全点検。荷馬車ならぬ荷風脚鳥同士の衝突事故。宿屋で酔った術士が部屋の扉へ防音術式を重ねがけした結果、逆に室内の音が全部廊下へ増幅されるという「これ誰が得するんですか」という案件まであり、王都で騎士団と聞いて想像していた剣と魔法の華やかな任務よりも、こちらでは「町の困り事を、とりあえず一回引き受ける人たち」という側面が遥かに濃かった。
そして、どの仕事にも人がいた。
当然である。
町の仕事なのだから人がいる。
相談者がいる。
依頼人がいる。
現場担当がいる。
役所の人がいる。
店主がいる。
職人がいる。
住民がいる。
子どもがいる。
老人がいる。
その全員が普通に話しかけてくる。
とおるとしては、自分は班の中でいちばん下の新人なのだから、ロックやココが前へ出て説明し、シルバーが必要な知識を補いつつも、組織としての上下関係というか先輩がまず窓口に立ち、新人はその横で話を聞きながら仕事の流れを覚えていくような、いわば社会人一年目に許された見習い期間めいたものが多少なりとも存在するのではないかと思っていた。シオンが構造を見てモモカが怪我人を確認し、リンが好き勝手どこかへ行こうとして怒られ、自分は後ろで必要な時だけ壁を出すくらいの控えめな立ち位置に収まるのではないかと、内心かなり都合のいい未来予想図を描いていたのである。
しかし現実は違った。
「壁山、そこの荷台ちょっと支えてくれ!」
「とおる君、このおばあちゃん家まで送ってあげてー」
「とおる、この水路の幅、壁で一回測れない?」
「壁山さん、この前村で水漏れ直してたって本当ですか?」
「壁山、悪い、この子が剣士になりたいって聞かねえから何か言ってやってくれ」
「とおるくん、この店の人、白華の話聞きたいって」
「とおるっち、これ持って!」
「とおちゃん、そっち押さえて!」
「トミー、昼飯行くぞ!」
「とーちん、これ支部長んとこ届けといて!」
「誰だ最後の四人!」
日を追うごとに、なぜか呼び方だけが増えていった。
最初の二日ほどは、まだまともだった。「壁山」「壁山さん」、少し親しげな相手でも「とおる君」くらいで、本人としてもその程度なら許容範囲である。ところが三日目、荷車整備班の若い職員が何の前触れもなく「とおるっち」と呼び始めたあたりから雲行きが怪しくなっていた。四日目には救護所の年配女性から「とおちゃん」と呼ばれ、五日目になると騎獣舎の青年が、とおるという名前のどの部分をどう加工すればそこへ辿り着くのかまったく理解できない「トミー」を採用した。さらに六日目、厨房を取り仕切っている豪快な女性から「とーちん」と呼ばれたところで、とおるはもう、自分の名前がこの支部で独自進化を始めているのではないかと疑い始めていた。
「距離感って、文化圏によってこんなに変わるものなんですかね……」
宿舎の共有室で、とおるは机に額をぺたりと押しつけたまま呟いた。正面ではシオンが、昨日行った橋梁調査の記録へ目を通しており、とおるの深刻そうな声にも特に驚く様子はない。
「東霞だから、というわけではないと思います」
「そうなんです?」
「たぶん、支部だからです」
とおるは額を机につけたまま、少しだけ顔を横へ向けた。
「そっちのほうが嫌な答えなんですけど」
「毎日顔を合わせますからね。現場にも一緒に行きますし、食事も同じ場所ですし、自然と呼び方は短くなります」
「だったら『壁山』のままでよくないですか。四文字ですよ。もう十分短いでしょう」
「少し固いです」
「俺の人格まで名字に反映しなくてよくないです?」
シオンは何事もなかったように一枚ページをめくった。
「もう慣れたほうが早いと思います」
「人間には、慣れていいものと、慣れたら負けなものがあると思うんですよ」
「例えば?」
「初対面から二時間で『トミー』」
「本人に言えば、たぶん変えてくれると思いますよ」
とおるはそこでようやく顔を上げ、心外だと言わんばかりにシオンを見た。
「それが言えないから人見知りなんですよ!」
珍しく声を張った、その直後だった。
「何してんの、とおるっち」
共有室の入口から、あまりにも間のいい声が飛んできた。
とおるはゆっくり振り返る。
そこには、まさに三日目から「とおるっち」を使い始めた荷運び担当の青年が、胸の前に書類箱を抱えたまま立っていた。本人は状況をまったく理解していないらしく、にこにこと機嫌がいい。
「……今、ちょうどあなたの話をしてました」
「え、俺?」
「あなたです」
「なんだ、気に入ってた?」
「逆です」
「じゃあトミーのほうがいい?」
「なんで選択肢が増えるんですか」
「とーちん?」
「悪化してるでしょう!」
「じゃあ普通に、とおるで」
「最初からそれでお願いしますよ!」
青年は一瞬きょとんとしたあと、「なんだ、それでよかったのか」と笑い、「了解了解、とおるな」と軽く手を上げて、そのまま廊下の向こうへ消えていった。
残された共有室に、ほんの少しだけ静けさが戻る。
シオンは書類から目を上げることなく言った。
「言えましたね」
「……」
「人見知り、少し治ってきたんじゃないですか?」
「今の一件だけで治療済みにされるんです?」
「少なくとも進歩はしてます」
「俺の知らないところで経過観察されてません?」
だいたい、こういう日々だった。
何にしても、心が完全に休まる時間というものがない。朝、宿舎を出れば誰かに声を掛けられ、任務先へ行けば住民と話し、支部へ戻れば今度は職員に捕まり、食堂へ入れば当然のように誰かが隣へ座ってくる。食後くらいは部屋で静かに過ごそうと思えば、ココから「ねえ、ちょっとだけ話そうよ」と呼び止められ、どうにか廊下まで逃げればリンから「とおる、明日暇?」と訊かれる。暇ではないし、そもそも六週間の合同巡任中に「明日暇?」という質問が成立していること自体がおかしい、と本人は全力で思っているのだが、どうやら周囲にはその感覚が共有されていない。
白華隊舎にいた頃には、まだ逃げ場所があった。
自室へ戻れば一人になれたし、訓練場の隅へ行けば誰にも話しかけられずに済むこともあった。整備庫の裏や中庭の壁際も、とおるにとっては立派な避難場所である。もちろんミレイユに見つかった場合は「こんなところにいたのか」と真顔で訓練へ連行される危険があったものの、それでも「一人でいる」という状態そのものは決して珍しいことではなかった。
ところが東霞第一支部は違う。
地方支部という組織は良くも悪くも仕事と生活の境目がひどく薄い。支部の中で働き、その敷地内にある宿舎で寝て、同じ食堂で朝昼晩を食べる。少し買い物に出れば昨日まで一緒に作業していた支部員と出くわし、町へ足を延ばせば、この前一緒に橋の補修をした住民から「あ、とおるっち!」などと当然のように声を掛けられる。
どこへ行っても、誰かがいる。
つまり、逃げ場がない。
物理的な壁なら好きなところへ作れる男が、社会的な壁だけは一枚たりとも築けていないというのだから、能力設定としてどうなのだろう、と本人としてはかなり納得がいかなかった。
そんな生活にも、気づけば一週間ほど経った日の夕方。
とおるはようやく、その日の任務をすべて終えて支部へ戻ってきた。
午前中は鏡河沿いにある古い倉庫で床板の沈みを調べ、午後からはシオンと一緒に排水路の補強を手伝いながらそのまま支部へ帰って簡単な報告書をまとめるという、ここ最近では珍しいほど平和な一日だった。
戦闘なし。
怪我人なし。
魔獣なし。
封印事故なし。
もちろん、黒いフードの男も巨大な災害級魔獣も出てこない。
素晴らしい。
世界というものは、毎日この程度の穏やかさで回ってくれていい。むしろ、どうして普段からそうしてくれないのか問い詰めたいくらいだった。
「……終わった」
支部の玄関を出たところで、とおるは思わず足を止め、そのまま夕方の空を見上げた。
頭上には薄い茜色が広がり、街のどこかから低い鐘の音がゆっくりと届いてくる。鏡河のほうから吹いてくる風には、昼間より少し湿った冷たさが混じっていて、仕事を終えた身体にはそれが妙に心地よかった。
そして今日は、もう予定がない。
夕飯を食べる。
風呂へ入る。
寝る。
以上。
「……完璧だな」
思わず口に出た。
人類が何千年という長い時間をかけて文明を築き、魔法やら騎獣やら巨大都市やらを生み出してきたとしても、おそらくこれ以上改善の余地はないだろうと思えるほど、完成された夜の予定だった。
「とおるー!」
嫌な声がした。
嫌というのは人物そのものが嫌なのではなく、この時間帯にあのテンションで自分の名前を呼んでいるという状況が嫌という意味だった。
ゆっくり振り返る。
そこにいたリンを見て、とおるは一度瞬きをした。
「……誰です?」
「ひどくない?」
「いや、夜月さんなのは分かってますけど。分かってるから余計に、何があったのかなって」
とおるがそう言うと、リンは呆れたように眉を上げ、自分の袖を軽くつまんで見せた。
普段のリンは緋桜の軽装騎士服か動きやすさを優先した東霞風の私服を着ていることが多く、髪も邪魔にならないよう高い位置でまとめているため、華やかな服装という印象はほとんどない。ところが今日はそのいつもの姿からかなり雰囲気が違っていた。
身につけているのは黒を基調に仕立てられた祭礼用の着物だった。ただの漆黒ではなく、夜空に藍を溶かしたような深い色合いの生地へ薄桃色と白銀の花が裾から袖にかけて風に舞うよう刺繍されている。腰には淡い桜色の帯が締められ、その上から細い飾り紐が何本か重ねられていて、黒髪も今日は高く結い上げず片側へ寄せるようにまとめ、そこへ小さな銀の簪を挿していた。
もともと黒髪に混じっている淡い桃色の筋が帯や飾り紐の色と妙に馴染んでいるせいか、普段の自由奔放さが消えているわけではないのに、ちゃんと地元の祭礼へ出る女性らしい華やかさがある。
とおるは正直に思った。
似合っている。
かなり似合っている。
というより、普段との落差が大きすぎる。
だからこそ口から出てきた言葉は素直な感想ではなく、
「……何かあるんですか?」
という警戒だった。
「祭り」
「帰ります」
返事はほとんど反射だった。
とおるはその場で踵を返す。
「なんで!?」
「今の俺に『祭り』って単語は危険なんですよ。祭りって、人が多いですよね」
「まあ、多いね」
「知らない人もいっぱいいますよね」
「いるね」
「会話も発生しますよね」
「たぶんするね」
「帰ります」
「ちょっと待って、待って待って!」
すぐに袖を掴まれた。
とおるは振り返りもせず、低い声で訴える。
「離してください。今日はもう社会性を使い切ってるんです」
「社会性って使い切るものなの?」
「使い切りますよ。少なくとも俺のは一日ごとに上限があります」
「初めて聞いたんだけど」
「朝から知らない人に挨拶して、倉庫の人と話して、排水路の人に説明して、帰ってきたら報告書でシオンさんと打ち合わせして、食堂でも三人くらいに話しかけられたんですよ。今日はもう十分です。あとは宿舎へ帰って、壁と向き合うくらいがちょうどいいんです」
「壁は喋らないじゃん」
「そこがいいんですよ!」
心の底からの言葉だった。
リンは一瞬きょとんとしてから、腹を抱えて笑い始めた。
「そこまで!?」
「笑い事じゃないです。東霞来てから毎日知らない人と喋ってるんですよ。名前呼ばれて、頼まれて、説明して、また名前呼ばれて。人と人との間には、もうちょっとこう壁というものがあるはずなんですよ」
「とおるがそれ言うと説得力あるね」
「俺の壁はそういう壁じゃないです」
「じゃあ祭り行こ」
「話聞いてました?」
「うん」
「どこをどう聞いたらその結論になるんですか」
「今日の仕事終わってるから」
「繋がってない!」
リンは当然のようにとおるの手首を掴んだ。
「大丈夫大丈夫。任務じゃないし」
「任務じゃないなら余計帰らせてくださいよ!」
「文化交流も大事なんだからさー」
「それ支部長が言ってた『観光旅行じゃない』と矛盾しません?」
「仕事じゃない時間に文化見るのは問題ないよ」
「理屈が強い!」
「ほら、行くよ」
「ちなみに俺に拒否権は?」
「あるよ?」
あまりに普通の返事だったので、とおるは思わず振り返った。
「……本当に?」
「うん。本気で嫌なら行かなくていいよ」
リンはそう言うと、今まで掴んでいた手首から少しだけ力を抜いた。
そのあたりだけは、妙に彼女らしい。
普段は他人の予定へ土足どころか裸足のまま上がり込んでくるような距離感なのに、相手が本当に嫌がっている線だけは、不思議なくらいきっちり見ている。
とおるは少し迷った。
疲れている。
宿舎へ帰りたい。
人混みは苦手だし、祭りだって得意ではない。
ただ、目の前のリンがどう見ても今日を楽しみにしていることくらいは分かるし、せっかく地元へ戻ってきて祭礼用の衣装まで着ているのだから、一緒に行く相手が一人減れば少しくらい残念なのだろうとも思う。
「……何時までです?」
「九時くらい?」
「今六時ですよね」
「うん」
「三時間……」
「途中で帰ってもいいよ」
「本当に?」
「ほんとほんと」
リンは笑った。
「シオンとモモカもいるし」
「……あの二人も?」
「うん。あと一人」
「誰です?」
「行けば分かる」
「一番嫌な情報の隠し方するなあ……」
結局、とおるは連れていかれた。
理由を説明するなら、「断りきれなかった」が七割、「ちょっと興味が出た」が二割、「この格好のリンに祭りへ誘われて一人だけ宿舎へ帰ると、明日ココから絶対何か言われる」が一割である。
支部から歩いて十五分ほど。
鏡河の東側へ広がる町並みを抜けた先には、〈社前町〉と呼ばれる一帯があり、そこへ近づくにつれて人の数は目に見えて増えていった。
日暮れの空にはまだ薄い赤みが残り、軒先へ吊られた灯籠が道の両側へ柔らかな明かりを落としている。屋台からは白い湯気が立ち上り、焼いた川魚の香ばしい匂い、甘い味噌が焦げる香り、少し刺激の強い香辛料、それに果実酒の甘酸っぱい匂いまで入り混じって流れてきた。すぐ近くでは子どもたちが笑いながら走り回り、もっと奥の社殿の方角からは、笛と太鼓の音が人々のざわめきに重なって聞こえてくる。
道行く人々も、普段の仕事着ではなく祭礼用の華やかな衣装を身につけている者が多い。
とおるの記憶にある日本の夏祭りと、驚くほどよく似ている。
ただし、細部を見れば当然ながらまったく同じではない。
並んでいる灯籠のいくつかは炎ではなく、風属性の魔力を閉じ込めた淡い光で揺らめいているし、境門から垂らされた長い飾り布は、ほとんど風がないにもかかわらず水中の布のようにゆったりとたなびいている。屋台の店主が団子を焼いているのも鉄板ではなく、表面に赤い熱術式を刻み込んだ平たい石板だった。
見覚えはある。
でも、間違いなく知らない。
ここへ来てから何度も感じている、その妙な感覚だった。
「……異世界の京都で、とうとう夏祭りまで始まった」
「またキョウト?」
隣を歩くリンが笑う。
「もう諦めてください。俺の中では燈ヶ京を見るたび、自動的に比較されるようになりました」
「そんなに似てるなら、一回見てみたいなあ」
「俺も帰り方が分からないんで、案内できないですけどね」
「あー、そっか」
リンはそこで一瞬だけ残念そうな顔をしたもののすぐにいつもの表情へ戻り、それ以上その話を掘り下げようとはしなかった。
やがて、人混みの少し先を見つけて「あ、いたいた」と声を上げる。
石造りの小さな橋の脇に、シオンとモモカが立っていた。
シオンは普段とほとんど変わらない格好で、祭りへ遊びに来たというより、仕事帰りにたまたま人混みへ紛れ込んだ技術職員という雰囲気を全身から漂わせている。しかも本人の視線は祭りの屋台でも灯籠でもなく、橋の欄干へ組み込まれた魔力灯の固定具に向いていた。
「……祭りに来ても構造物見るんですね」
とおるが声をかけると、シオンはようやくこちらを見た。
「人が多いので、ちょっと荷重が気になって」
「職業病が強すぎません?」
「この橋、普段の三倍くらい人が乗ってますから」
「急に怖い情報出さないでくださいよ」
「大丈夫です。設計上は、この程度ならまだ余裕あります」
「それを最初に言ってください。今、一瞬だけ橋の中央から離れようとしましたよ」
「心配性ですね」
「今の流れで俺が悪いんです?」
一方のモモカは、薄桃色の簡素な東霞風衣装を着ていた。祭礼らしく小さな花飾りも髪へ挿しているが、本人の興味はどう見ても衣装でも祭りの情緒でもなく、屋台の食べ物へ向いている。
すでに右手には串焼き、左手にはとおるが見たこともない赤い飴菓子が握られていた。
「モモカさん、もう来てたんですね」
「うん」
「こういう祭り、好きなんです?」
「限定の薬草飴あるって聞いたから」
「理由があまりにもモモカさんだな」
「喉にいいよ」
「仕事目的が七割くらいです?」
モモカは少し考えるように飴を見た。
「趣味八割」
「増えてるじゃないですか」
そして、シオンとモモカの隣にはもう一人——とおるの見覚えにない男が立っていた。
年齢は自分より少し上だろうか。黒に近い紺色の髪は襟足だけやや長く残され、前髪の一部が細い紐で無造作に束ねられている。支部の正式な騎士服ではなく濃灰色の上衣は袖を肘まで捲り、その腰には臙脂色の帯、脚には動きやすそうな袴型の衣服を合わせていた。腰に差しているのも一般的な長剣ではなく、短刀より少し長い程度の反りの浅い刀が一本だけで、左耳には小さな金属製の輪飾りが光っている。
ただ、服装より先に目についたのは彼の笑い方だった。
口元だけで笑うのではない。目元まで自然に細まり、初対面の相手にも「警戒しなくていい」と思わせるような人懐っこい顔をしている。
とおるは、なぜかその瞬間に思った。
嫌な予感がする。
「おっ、来た来た。噂の壁兄ちゃん」
嫌な予感は、挨拶より先に的中した。
「……誰です?」
「そこから入る?」
「初対面なんで、普通そこからじゃないですか?」
「ああ、確かに。それはそうか」
男は納得したように笑い、自分の胸へ軽く手を当てた。
「俺は〈東霞第一支部〉の榊原千景。堅苦しいの嫌いだから、千景でいいよ」
「壁山とおるです。よろしくお願いします」
「知ってる知ってる。というか最近、支部でお前の名前聞かない日ないよ」
「……そんなに?」
「昨日なんか食堂で三回聞いたぞ。『とおるっちが傾いた穀物倉庫を壁一枚で止めた』って」
とおるは思わず眉を寄せた。
「いや、あれは一枚じゃないです。内側に補強壁を三枚出してますし、そもそも俺が止めたというより、荷崩れした柱が完全に折れるまでの時間を稼いだだけで――」
「ほら、そういうとこまで有名」
「なんで詳細まで広まってるんですか」
「ちなみに俺が聞いた三回目では、『崩れる倉庫を片手で押さえて、中にいた十人を一人で助けた』ことになってた」
「増えてる! 中にいたの四人ですよ! しかも俺、片手どころか両手使って必死でしたからね!」
「明日には二十人になってそうだな」
「やめてくださいよ……」
まだ東霞へ来て一週間ほどしか経っていないのに、本人の知らないところで経歴だけが順調に盛られているらしい。
目の前の男――千景は、それがよほど面白いのか、肩を揺らして楽しそうに笑っていた。
声が明るい。
喋り方も軽い。
話しながらよく手が動く。
そして何より、人との距離が近い。
初対面なら普通この辺りだろう、ととおるが無意識に考える距離より半歩ほど近い。
とおるは反射的に半歩下がった。
すると千景も、ごく自然に半歩前へ出た。
とおるがさらに半歩下がる。
千景も半歩来る。
「……なんで詰めてくるんです?」
「いや、どこまで下がるのかなと思って」
「人で実験しないでください」
「本当に下がるんだなあ」
「何を確認してるんですか」
千景は感心したように頷いた。
「リンが言ってた通りだ。面白いな、お前」
「夜月さん、俺について何を吹き込んでるんですか!」
振り返ると、当のリンはまるで悪びれる様子もなく笑っていた。
「別に変なこと言ってないよ。人見知りだけど、慣れると意外とよく喋るって」
「……だいたい合ってるのがなんか腹立つますね」
「あと、追い込むと声大きくなる」
「余計な情報まで足してる!」
どうやら千景はリンの知り合いらしく、それも最近できた仲というわけではなさそうだった。
「それより千景、久しぶり」
「三日前に支部で会っただろ」
「祭りで会うのは久しぶりじゃん」
「都合よく意味を変えるなよ」
「昔はよく一緒に来てたのに」
「一緒に来てたというか、お前が屋台見つけるたび勝手に消えるから、俺は毎回探す係だった記憶しかねえぞ」
「また監視役が増えた……」
とおるが小さく呟く。
リンがすぐに反応した。
「何?」
「いえ。夜月さんって、昔からちゃんと夜月さんだったんだなと思って」
「どういう意味?」
「変わってないって意味です」
「失礼だなあ。私だってちゃんと成長してるよ」
間髪入れず、千景が言った。
「身長はな」
「そこ!?」
「昔より二寸くらい伸びたんじゃないか?」
「中身は?」
「……」
「なんで黙るの?」
「今、なるべく角の立たない回答を探してる」
「その時点でもう失礼だからね!」
リンが千景の袖を引っ張ろうとし、千景は笑いながらひらりと避ける。
二人のやり取りを眺めているうちに、とおるにも何となく関係が見えてきた。幼馴染というほど四六時中一緒にいたわけではないようだが、東霞で育った頃から祭りや地域の行事で何度も顔を合わせ、そのたびに同じようなやり取りを繰り返してきた間柄なのだろう。
「千景さんって、支部では何を担当してるんです?」
とおるが訊くと、千景は少しだけ考えてから答えた。
「何でも」
「地方支部の人、みんなそれ言いません?」
「だって本当に何でもやるんだよ。普段は町中の巡回と事件対応が多いけど、喧嘩の仲裁もするし、迷子も探すし、祭礼の日は警備もする。たまに屋根に登った猫まで降ろす」
「最後まで騎士団の仕事なんです?」
「猫の飼い主にとっては大事件だからな」
「それ言われると否定できない……」
「今日は一応、半分仕事」
「半分?」
「非番なんだけど、この辺は顔知ってる店が多いからさ。何か起きたら普通に呼ばれる」
とおるは真顔になった。
「それ、非番って言います?」
「地方支部の非番なんてこんなもんだよ」
「労働基準という概念が遠い……」
「何それ」
「故郷で、みんなが存在を信じていた伝説です」
「へえ」
千景は数秒考えた末、妙に納得したように頷いた。
「なるほどなあ」
「納得しないでください。今の冗談です」
「でも伝説なんだろ?」
「そこ拾わなくていいです」
そんなことを話しながら祭りの中心部へ向かって歩いていると、道を埋める人の波は少しずつ密度を増していった。
左右には屋台がほとんど途切れることなく並び、白珠穀をついて丸めた焼き団子や甘く煮た豆を薄い生地で挟んだ菓子、炭火で脂を落としながら焼かれる川魚、氷属性の術式を埋め込んだ桶で冷やした果実水、蜜をたっぷりかけた餅菓子に香草を練り込んだ肉団子まで、少し歩くだけで別の匂いが鼻へ届く。
リンは屋台を見つけるたびに忙しく右へ左へ視線を動かし、モモカは相変わらず限定薬草飴を探している。シオンに至っては祭りの喧騒などほとんど気にせず、人が殺到している屋台の脚がどう固定されているのかを観察していた。
とおるは三人を順番に眺めた。
「みんな、祭りの楽しみ方が違いすぎません?」
「とおるは?」
隣から千景が訊いてくる。
「俺ですか?」
「そう。何か見たいものある?」
「何って……」
改めて訊かれると、少し困った。
祭りそのものへ来る機会は、元の世界でもそれほど多くなかった。もともと人混みが苦手だったし、大きくなってからは誰かと連れ立って祭りへ行くような相手もいなかった。
子どもの頃なら、もう少し違ったのだろうか。
不意に、記憶の底で何かが揺れた。
川。
冷たい瓶。
中で転がる、透明な玉。
夕方の湿った風。
隣を歩く、黒い髪。
見えそうで見えない誰かの横顔。
「……とおる?」
「え?」
リンに呼ばれ、意識が現在へ戻った。
「どうしたの? またぼーっとしてたよ」
「ああ、すいません。ちょっと考えてました」
「見たいもの決まった?」
「それが、特には……」
「じゃあ、とりあえず全部見ればいいじゃん」
「雑ですね」
「分かんない時は歩けばいいんだよ。歩いてて面白いもの見つけたら止まればいいし、何もなかったら、そのまま帰ればいいんだから」
リンは、ごく当たり前のことを言ったように笑った。
妙に彼女らしい考え方だった。
隣で聞いていた千景も「ああ、昔からそう」と頷く。
「こいつ、道に関してだけはずっとこんな感じなんだよ。目的地を決める前に歩き始める」
「それ、普通は迷子って言いません?」
「違うよ」
リンが即座に否定した。
「最初から行き先決めてないんだから、迷子にはなれないでしょ」
「無敵の理論やめてください」
とおるは思わず笑った。
そこでふと、自分が普通に笑っていることへ気づいた。
つい一時間ほど前までは、宿舎へ帰りたい、人混みなんて絶対に嫌だ、今日はもう誰とも喋りたくないと思っていたはずなのに、今は祭りのど真ん中を歩きながら初対面の人間まで交えた会話に自然と口を挟んでいる。
少し前の自分なら、たぶん考えられなかった。
人と人との間には、ある程度の壁が必要だ。
その考え自体は、今でも変わらない。
距離が近すぎれば疲れるし、遠慮なく踏み込まれ続ければ息が詰まる。一人になって何も話さず過ごす時間だって、とおるには間違いなく必要だった。
けれど、だからといって何もかも閉じてしまえばこういう夜まで一緒に遠ざかってしまう。
頭上で揺れる灯籠の明かり。
鏡河から漂ってくる湿った水の匂い。
屋台から立ち上る湯気。
名前も知らない人々の笑い声。
初めて歩く町の祭り。
目を離すとすぐ屋台へ吸い寄せられるリン。
祭りへ来てなお薬草飴しか見ていないモモカ。
人混みの中でも橋と屋台の強度を気にしているシオン。
そして、初対面から五分も経たないうちにこちらの適正距離を無視して入ってきた千景。
人見知りとしてはたいへん疲れるのだが、不思議と嫌ではなかった。たぶん、人との距離というものは近いか遠いかだけで決まるほど単純ではなく、こちらが一歩引けば何となく待ってくれる相手もいれば、待つどころか二歩詰めてくる相手もいて、さらにリンのように壁そのものを見つけた瞬間「これ登れる?」くらいの感覚で攻略を始める人間までいるのだろう。そう考えると、自分がこれまで大事にしてきた対人関係の壁というものも、実は国境を守る城壁ほど立派なものではなく、せいぜい「今日はちょっと疲れているので入ってこないでください」と書いた立て札付きの柵くらいで十分なのかもしれない。
「……やっぱり壁は必要だな」
とおるがぽつりと呟くと、千景が横から顔を向けた。
「何の話?」
「人間関係です」
「祭りの真ん中でする話にしては重いな」
「そんな重い話じゃないですよ。近すぎると疲れるってだけです」
「じゃあ、もうちょい離れて歩く?」
千景はそう言って、本当に半歩だけ横へずれた。
とおるは少し考える。
「……今はいいです」
「お」
「何です?」
「いや?」
千景は妙に楽しそうに口元を緩めた。
「一週間しかいない割には、結構こっちに馴染んでるんだなと思って」
「馴染んでません」
そこだけは、とおるも即答した。
「毎日めちゃくちゃ疲れてます」
「でも祭り来たじゃん」
「連れてこられたんです」
「でもまだ帰ってない」
「……」
「さっき途中で帰っていいって言われてたろ?」
反論しようとして、とおるは口を閉じた。
確かにそうだった。
「とおるー!」
ちょうどその時、少し先へ行っていたリンが人混みの向こうから大きく手を振った。
「何です?」
「射的みたいなのあるよ!」
「みたいなの?」
「魔力弾で的を落とすやつ!」
「俺、そういうの苦手ですよ!」
「大丈夫。壁出せばいいじゃん!」
「射的で壁出して何するんですか!」
「跳ね返す」
「跳弾させる気ですか!? 絶対店の人に怒られるでしょう!」
「やってみないと分かんないよ!」
「やらなくても分かります!」
そう言い返しながらも、とおるの足は結局リンたちのいる屋台へ向かっていた。
もしかすると、人見知りにとって必要な壁というものは、誰も入れないほど高く頑丈に作ればいいわけではないのかもしれない。
必要な時には少しだけ開ける。
疲れたら閉じる。
余裕が戻ったら、またほんの少しだけ開いてみる。
それくらい都合よく使える壁なら、自分にも扱える気がする。
もっとも、現状は周囲の人間がこちらの都合などお構いなしに扉を叩き続けているうえ、リンに至っては扉が開くまで待つどころか、「こっちのほうが早いじゃん」と窓から入ってきそうな勢いなので、理想的な運用にはまだ相当な訓練が必要そうだった。




