第78話 とりあえず宿屋に行って休みたい
王樹騎士団・東霞第一支部の正面玄関をくぐった時、とおるが最初に考えていたことは、地方騎士団の組織構造でも、六週間にわたる合同巡任の意義でも、この先どんな人間と一緒に働くことになるのかという社会人的にたいへん重要な問題でもなく、非常に単純かつ切実な――とりあえず宿屋に行って横になりたい、ただそれだけだった。
五日間である。
文字にしてしまえばたった三文字で済むものの、騎獣という生き物の背中の上で毎日何時間も揺られ、見たことのない丘陵を越えて大河を渡り、山道を登って峠をいくつも下った。その合間に少しずつ人間関係を構築し、シルバーの「簡単な説明」という名の講義を何度か受講しながらリンがいなくなりかけるたびにロックの怒声を聞き、夜になれば継駅の寝台へ倒れ込み、朝になったら筋肉痛という身体からの正式な抗議書を無視して再び鞍へ乗るという生活を続けてきた結果、とおるの頭の中では「地方支部へ到着」という大きな節目さえ、もはや「これでようやく布団へ近づいた」という一工程として処理されつつあった。
そんな期待を踏み潰すように、玄関ホールの奥から途轍もなく低い声が飛んできた。
「――おう。やっと来やがったか、王都の花ども」
声だけ聞けば、山賊の親玉が関所を占拠して旅人から通行税を取っている場面のほうが似合いそうだった。
とおるは反射的に顔を上げた。
奥の柱にもたれるように立っていた男は、まず何より濃かった。
存在感が、ではない。
全部が濃い。
日に焼けた褐色の肌。太い首。熊でも片腕で押し返せそうな肩幅。短く刈り込まれた黒髪には白髪がかなり混じり、左眉から頬骨へかけて一本の古い傷が走っている。顎には無精髭という言葉では少々足りないくらい硬そうな髭が密生し、そのくせ目だけは妙に鋭く、笑っていない時には「今からお前の供述の矛盾を全部指摘する」とでも言いたげな圧力があった。
着ているものも支部長らしい豪華な礼装ではなく、使い込まれた濃紺の騎士服に革製の胸当て、腰には幅広の剣帯、その上から東霞支部の紋章が刺繍された羽織を雑に引っ掛けただけで、袖に残る薄い泥汚れを見るかぎり、少なくとも今日は執務室へ座って書類だけを眺めていた人間ではないらしい。
男は腕を組んだまま一行を見回し、一人ずつ確認するように視線を移していった。
ココ。
シルバー。
ロック。
モモカ。
シオン。
とおる。
そして最後。
リン。
そこで目が止まった。
「……おい」
「ん?」
リンが首を傾げた。
「真面目にやっとるのか、お前」
「第一声それ?」
「第一声で足りんくらい聞きたいことがあるわ」
「ちゃんとやってるよー」
「誰が信じるか!」
支部全体の梁が震えたのではないかと思うほど声が響いた。
近くで書類を運んでいた支部騎士が二人ほど振り向いたものの、驚いた様子はなく、むしろ「ああ、始まった」とでも言いたげに視線を戻したので、この支部ではこれが日常なのだろう。
男は大股でこちらへ近づき、リンの目の前で止まった。
「去年、お前が東霞へ戻ってきた時、何をやった」
「去年?」
「祭礼警護で来ただろうが」
「ああー」
「思い出したか」
「お団子おいしかった」
「警護の話をしとる!」
「警護もしたよ」
「途中で消えたな?」
「ちょっとだけ」
「三時間だ!」
「ロックより短いよ」
「比較対象を作るな!」
横でロックの眉間に皺が深くなる。
「俺は消えてない」
「違う違う、この前ロックに怒られた時は四時間だったから、それより短いって話」
「改善点として提示するな!」
「えー。でも一時間減ってる」
「減点が百点から七十五点になっただけだ!」
男は額を押さえた。
豪快な外見のわりに、リンが相手だと頭痛に悩まされる中間管理職のような仕草になる。
「お前なあ……昔っからそうじゃ。夜月郷におった頃から、祭りの日になったらどこぞへ消え、川の増水を見に行ったかと思えば山へ入っとるし、山へ入ったかと思えば知らん婆さんの薪運び手伝っとるし、ようやく戻ってきたと思ったら『近道見つけた』とか言い出す」
「役立ったでしょ、その近道」
「役には立った!」
「ほら」
「そこが腹立つんじゃ!」
完全に知り合いだった。
しかも、かなり昔から。
とおるが無言でココを見ると、ココも口元を押さえながら小声で教えてくれた。
「朧坂ゲンジ。東霞第一支部の支部長」
「あの人が?」
「うん」
「想像より三倍くらい強そうなんですが」
「実際強いよ」
「支部長ってもっとこう、執務机の後ろで難しい顔してる人かと」
「それ本人の前で言わないほうがいいよ」
「言いませんよ」
ちょうどそこで、ゲンジの耳がこちらへ向いた。
「お前が壁山か」
「……はい」
聞こえていたらしい。
耳まで強い。
とおるは少し姿勢を正した。
「壁山とおるです。第九華〈白華〉所属です。今回の合同巡任では――」
「硬い硬い」
「え?」
「五日も鳥に揺られてきた顔でそんな挨拶しとったら舌噛むぞ」
ゲンジは豪快に笑い、とおるの肩をばん、と叩いた。
かなり痛い。
「話は聞いとる。王都で妙な壁を出す新人じゃろ」
「紹介のされ方がだいぶ雑ですね」
「細けえ事情は書類で読んだ」
「じゃあ壁だけじゃないって分かってますよね?」
「読んだ結果、壁じゃった」
「書類の結論までそこなんですか……」
「安心せえ。ここじゃ王都でどれだけ偉かろうが、どこの花だろうが、役に立たん奴は役に立たんし、役に立つ奴なら昨日まで荷運びやっとった見習いでも現場じゃ戦力じゃ」
その言い方は乱暴だったものの、不思議と嫌味には聞こえなかった。
ゲンジはとおるだけでなく、全員へ向けて同じ調子で言葉を続ける。
「合同巡任は観光旅行じゃねえ。王都から来た奴が地方へ『教えに来る』んでもなけりゃ、こっちが王都様に頭下げて勉強させてもらう制度でもない。互いにやり方を見せ合って、使えるもんは持って帰る。そのための六週間じゃ。分かったか」
「はい」
今度は全員が揃って答えた。
「よし。じゃあ荷物置いたら町見てこい」
「……はい?」
とおるの返事だけ一拍遅れた。
ゲンジは平然としている。
「町見てこい」
「今からですか?」
「今からじゃ」
「五日移動してきた直後なんですけど」
「だから何じゃ」
「できれば宿屋に行って休みたいというのが、今かなり強い要望としてありまして」
「寝るのは夜でええ」
「人類は夕方に寝てもいいと思うんですよ」
「若い奴が五日鳥に乗ったくらいで死ぬか!」
「尻はかなり死にかけてます」
モモカが少し離れた場所から口を挟んだ。
「それは普通」
「医療担当が援護してくれない」
「腫れてないなら平気」
「昨日と同じ判定だ……」
ゲンジは腹の底から笑った。
「気に入った。お前、思ったより喋るじゃねえか」
「最近そう言われること増えました」
「王都の報告じゃもっと陰気な奴かと思っとったぞ」
「報告書に陰気って書かれてたんです?」
「いや、俺がそう読んだ」
「風評被害の発生源が目の前にいる」
どうやら休息の交渉は失敗したらしい。
しかも支部長命令である。
白華ならリディアへ多少は「体調管理のため」と正論をぶつければ検討の余地くらい生まれそうなものだが、この人へ「疲れたので休みたい」と言ったところで、「飯食って風呂入って寝ろ」で終了する未来しか見えなかった。
十九班が今後六週間の拠点とする東霞第一支部は、王都にある十二華それぞれの本拠とは性格が大きく違う。
そもそも〈王樹騎士団地方支部〉という組織は、十二華の地方版ではない。
王樹十二華騎士団が、王国全土を視野に入れながら「何を専門とするか」によって十二の隊へ分かれているのに対し、地方支部へ求められる役割はほとんど逆で、その土地で起きた問題なら、とりあえず最初に何でも受けることを前提としている。
魔獣が出れば行く。
崖が崩れれば行く。
大規模な魔術事故が起きれば封鎖する。
祭りなら警備する。
行方不明者が出れば山へ入る。
洪水の兆候があれば堤防を見る。
貴族や王族が来れば護衛し、古い遺物が見つかれば一般人を遠ざけ、専門性が必要になった段階で初めて十二華の担当隊へ連絡する。
言うなれば十二華が王国規模の専門医なら、地方支部は救急診療所と消防と警察と災害対策本部を一つにまとめたような存在であり、とおるがこの説明を初めて聞いた時には「業務範囲広すぎません?」と素直な感想を漏らし、シルバーから「ですので人員配置も専門より総合対応能力が重視されます」と補足され、最終的に「聖騎士って戦闘のできる行政職どころか戦闘のできる何でも屋では」という結論へ辿り着いていた。
東霞第一支部もその例に漏れず、建物そのものから王都の隊舎とは設計思想が異なっている。
正面棟には受付、住民相談窓口、任務割り当て室、記録課、会議室。
東棟には救護所と薬庫、その隣へ災害時の臨時病床。
西棟には武具庫、修理工房、装備貸出所。
裏手へ回れば騎獣舎、荷車庫、訓練場、備蓄倉庫がまとまり、さらに奥には地方騎士たちの宿舎と食堂がある。
地下には水害時でも使える備蓄庫と避難通路が整備されており、東霞という土地柄を反映して地震、洪水、山崩れ、地脈異常の四種類について別々の非常計画が存在するという。
王都の白華衛宮が「一つの専門部隊を効率よく動かす施設」なら、こちらは町そのものが困った時、何でも放り込める巨大な実務箱と呼んだほうが近かった。
そして、その箱を束ねているのが朧坂ゲンジ。
王都では「地方支部の支部長」という役職だけを聞くと、中央から遠ざけられた古参騎士の落ち着き先か、地域行政へ転向した人間の管理職を想像する者もいるらしいが、東霞に限って言えばまるで違う。
支部長は平時の組織責任者であると同時に、大規模災害時にはその地域の聖騎士戦力を即座に動かす現場指揮官でもある。
つまり、書類仕事が嫌いでも書類から逃げられず、現場が好きでもずっと現場にいることは許されない、たいへん気の毒な職業だった。
ゲンジ本人にその認識があるかどうかは別として。
「東堂!」
彼が奥へ向かって怒鳴る。
「はいはい、聞こえてますよ支部長。建物壊す勢いで呼ばなくても来ますから」
返事とともに、一人の女性騎士が廊下の奥から現れた。
東堂真澄。
東霞第一支部所属の常任聖騎士で、肩までの黒髪を後ろへ低くまとめ、東霞式の軽量騎士服の上から藍色の短い羽織を着ている。背筋はまっすぐ伸びているものの堅苦しい雰囲気はなく、やや切れ長の目には、人の話を一度聞いてから「まあ大体分かった」と処理してしまいそうな現場慣れした落ち着きがあった。
「合同巡任の皆さんですね。東堂真澄です。滞在中の実務案内を担当します」
「よろしくお願いします」
とおるが頭を下げる。
真澄も軽く返したあと、ゲンジを見る。
「それで、何人連れていけばいいんです?」
「適当に五人くらい」
「適当なんですか」
「町見せるだけじゃ」
「支部長が人数も決めてないのに呼んだんですか?」
「細けえこと気にすんな」
「私が気にしないと誰が気にするんですか」
「そこにロックがおる」
「俺はここの職員じゃないぞ」
ロックが即座に拒否した。
真澄は「それもそうですね」と納得し、一行へ視線を移す。
「では、壁山さんとグリーンランドさん。それから……」
「私行く」
リンが手を上げる。
「あなたはいいです」
「なんで!?」
「地元でしょう」
「地元だから案内できるよ」
「あなたが案内すると寄り道が増えます」
「偏見」
「実績です」
「真澄ちゃんまでロックみたいなこと言う」
「誰が真澄ちゃんですか」
どうやらこちらも知り合いらしい。
最終的にはココ、リン、モモカが加わり、とおる、シオンを合わせた五人が真澄の案内で町を歩くことになった。
ロックは支部側との装備確認。
シルバーは早速、古式封印関係の資料を確認するため記録室へ向かうという。
「なんでモモカさんは来るんです?」
とおるが尋ねると、本人は既に玄関へ向かいながら答えた。
「薬屋あるって聞いた」
「観光目的が明確すぎる」
「仕事でも使う」
「今ちょっと後付けっぽかったですけど」
「気のせい」
こうして、とおるが切実に望んでいた「到着→宿→風呂→夕飯→寝る」という人類史上もっとも合理的な移動日の予定表は、地方支部到着から二十分足らずで跡形もなく消滅した。
燈ヶ京の町へ改めて足を踏み入れると、騎獣の上から眺めていた時には見落としていた生活の細部が、急に近いところから押し寄せてきた。
支部前の〈東衛郭〉は行政施設と物流施設が多い区域で、道幅も広く、荷車同士がすれ違えるよう中央は平石で舗装されている。家々の前には雨水を逃がす細い側溝が途切れず走り、流れ込んだ水は一定区画ごとに設けられた沈砂槽を通して鏡河の支流へ落とされる仕組みらしい。
「排水、ちゃんとしてますね」
シオンが早々に食いついた。
「そこ見るんですか、最初に」
とおるが言う。
「重要です」
「まあ、そうですけど」
真澄が振り返った。
「東霞は夏の雨がかなり強いので、水を逃がせない町は長持ちしません。昔の燈ヶ京は今より水害が多かったらしくて、百年以上かけて水路を増やしてきたそうです」
「ほら」
シオンが言う。
「何の『ほら』です?」
「重要」
「分かりましたって」
中心部へ進むにつれ、街並みは少しずつ密度を増した。
格子戸の町家が肩を寄せるように並び、通りへ向けて大きく開いた店先には干した魚、色鮮やかな布、竹籠、陶器、薬草、紙製品、金属細工が所狭しと並んでいる。二階から張り出した深い軒が夏の日差しを遮り、その下を行き交う人々の衣服も王都より薄手で、男性は腰で絞った長衣に細身の脚衣、女性は袖の広い上衣へ巻き布を合わせる者が多い。
通りのあちこちには魔力灯があるものの、王都のような街灯柱ではなく、木製の軒灯や石灯籠の内部へ小さな魔石を収める形式が主流で、昼間は街並みに自然と溶け込み、夕方になると一斉に淡い光を灯す。
人が多い。
それも観光客だけではない。
荷籠を担ぐ職人。
桶を運ぶ子ども。
店先で魚を捌く老人。
配達らしい若者。
紙包みを抱えた女性。
騎士。
旅商人。
社守。
昼下がりの町には、それぞれ違う目的で動く人間が同じ道を共有する生活の熱があり、とおるが峠から見下ろした「幻想的な古都」という印象とはまた別の、生々しく忙しい都市の顔があった。
「はい、ここが〈鏡河町〉」
真澄が立ち止まった。
大きな川へ向かう通りの両側に商店が密集し、奥には太鼓橋のように中央が高くなった石橋が見える。
「燈ヶ京で一番古い商業区の一つです。川運が先に発達したので、昔はここが町の中心でした。今でも川沿いに問屋と倉庫が多く残ってます」
「王都の市場とは全然違いますね」
「王都は陸路中心ですから。東霞は山が多いので、昔は重い荷物を川で運んだほうが楽だったんです」
通りの先では、細長い船から大きな木箱を岸へ運び上げていた。
作業員が二人一組で縄を引き、別の男が荷札を読み上げ、それを役所らしい人物が帳面へ記録している。
「税関もここにあるんですか?」
「小規模な荷検所ですね。州を跨ぐ大口貨物はもっと東の河港で確認しますけど、市内へ入る荷物はここでも記録します」
「ちゃんと行政してる……」
「何だと思ってたんですか」
「もっとこう、異世界の古都って風情で全部なんとなく回ってるのかと」
ココが横から笑う。
「とおるくん、王都でも似たようなこと言ってなかった?」
「魔法世界に役所が多すぎるんですよ」
「魔法があるから増えるんですよ」
真澄が、ごく自然にリディアとまったく同じ答えを返した。
とおるは足を止めた。
「その台詞、騎士団の研修で習うんです?」
「何がです?」
「いや、なんでもないです」
どうやら国家規模で共有されている真理らしい。
少し進んだ先で、リンが急に立ち止まった。
「あ」
ロックがいなくても分かる。
嫌な「あ」だった。
「リンさん」
真澄が低い声を出す。
「まだ何もしてないよ」
「どこ見てました?」
「右」
「何があります?」
「焼き団子」
「行きません」
「まだ行くって言ってない」
「顔が言ってました」
「この班、人の顔読む人多くない?」
「夜月さんの場合は分かりやすすぎるんです」
とおるは妙な親近感を覚えた。
「俺と同じこと言われてる」
「一緒にしないで」
「なんで俺だけ嫌がられるんですか」
リンは不服そうな顔をしながらも列へ戻った。
十歩進む。
振り返る。
団子屋を見る。
さらに十歩。
また振り返る。
「犬みたいになってますよ」
「猫だから」
「そこ主張するんです?」
やがて一行は〈南環市場〉とはまた違う、燈ヶ京最大の生活市場〈千鳥市〉へ入った。
ここまで来ると街の印象は「京都っぽい幻想都市」から一気に「地元民が本気で買い物する市場」へ変わる。
魚屋から威勢のいい声が飛び、野菜を積んだ籠が通路へ迫り出し、肉屋では解体したばかりの山鳥が吊るされ、香辛料屋の前を通れば鼻の奥が痛くなるほど強い匂いがする。衣類店では染色した布が何十本も天井から下がり、鍛冶屋の軒先では包丁、農具、釘、金具が無骨に並べられていた。
とおるが想像していた「和風ファンタジー観光地」というきれいな言葉では到底片づかない。
臭い。
暑い。
騒がしい。
狭い。
人にぶつかる。
それでいて、妙に楽しい。
「こっちが白珠穀」
真澄が穀物店の軒先を指した。
浅い升の中へ、米によく似た白い穀粒が山のように積まれている。
「主食なんですよね」
「東霞ではかなり。炊いたり、蒸したり、粉にしたり。王都でも最近増えてると思いますけど」
「見た目、ほぼ米だな……」
「コメ?」
「俺の故郷の穀物です」
とおるは粒を眺める。
似ている。
非常に似ている。
しかし白珠穀は米より少し丸く、光へ透かすと中心に淡く青い芯が見える。
「魔力を含む水で育つと、芯が青くなるんです」
真澄が説明する。
「質の良いものほど色が澄むので、高級品は〈青珠〉とも呼ばれます」
「日本米に魔力ステータスついたみたいだ……」
「ニホン、本当に似たもの多いんですね」
「俺も今びっくりしてます」
さらに歩くと発酵食品の匂いが漂う一角へ入った。
大きな木樽。
暗褐色の調味液。
豆を潰して発酵させた味噌に似たもの。
魚を塩と麹に似た菌で漬け込んだ保存食。
とおるは立ち止まるたび、「醤油では」「味噌では」「漬物では」と脳内で元世界の名称を貼り付け、しかし微妙に材料や味が違うため、そのたびに「似てるけど別物」という結論へ戻され続けた。
「完全に京都じゃないですかって言ったけど、京都より食文化がだいぶ異世界だな……」
「何をぶつぶつ言ってるの?」
ココが覗き込んでくる。
「故郷と似すぎてて脳が比較作業をやめてくれないんです」
「楽しい?」
「半分」
「残り半分は?」
「ちょっと怖いです」
その答えに、ココは一瞬だけからかう表情を消した。
「……そっか」
それ以上は聞かない。
代わりに目の前の店へ視線を向ける。
「じゃあ、とりあえず食べよっか」
「何をです?」
「似てるか確認」
「結局食べるんですね」
「文化交流だから」
「さっきのリンと同じ理屈になってますよ」
「私は班長だからいいの」
「権力の使い方が小さいなあ」
その会話を聞きつけたリンが、いつの間にか後ろから顔を出した。
「食べるの?」
「どこから湧いたんですか」
「ずっといたよ?」
「さっき薬屋の前にいませんでした?」
「モモカ見てた」
横を見ると、モモカが薬草店の店主と何か話し込んでいる。
いつも眠そうな彼女が珍しく本まで閉じ、乾燥させた青い葉を真剣に眺めていた。
「これは?」
「〈霞蓬〉。蒸して使うと熱取りに効きます」
「乾燥温度は?」
「低め。高温だと香り飛ぶからね」
「魔力含有は?」
「山の北側のほうが高いよ」
「買う」
即決だった。
「モモカさんだけ完全に業務モードですね」
とおるが言う。
「趣味七割だと思います」
真澄が答えた。
「残り三割は?」
「仕事」
「逆じゃないんだ」
市場の喧騒を抜ける頃には、空がかなり赤くなっていた。
夕陽が町家の黒い瓦へ斜めに当たり、軒先の風鈴が一斉に細い音を鳴らす。店々では昼用の商品を片づける者がいる一方、夜の客を相手にする飲食店は提灯型の魔力灯を吊り始め、狭い路地の奥から焼いた魚と甘い酒の匂いが漂ってくる。
鏡河へ出ると、昼間とはまるで違う景色が待っていた。
川面に浮かぶ小舟。
橋を渡る人々。
水辺の茶屋。
向こう岸へ続く木造建築。
山際に灯り始めた無数の導灯。
王都の夜が白い魔力灯によって明るく「管理された都市の夜」であるなら、燈ヶ京の夕暮れは暗さそのものを残したまま、必要な場所だけへ光を置く。
陰影が深い。
川面の明かりは揺れ、建物の奥は暗く、格子戸の向こうだけが暖色に染まっている。
その景色を眺めながら、とおるは不意に思った。
ここには、人が住んでいる。
当然のことなのに、王都から五日もかけて来た土地を眺めていると、その事実が妙に新鮮だった。
王樹十二華騎士団に所属してから、国というものを地図や任務報告の上で見る機会が増えた。
東霞地方。
燈ヶ京。
東霞第一支部。
文字にすれば、それぞれ一行で済む。
しかし実際には、一行の中に何万もの家があり、店があり、道があり、井戸があり、水路があり、毎朝仕事へ出る人間がいて、夕飯の材料を買いに市場へ来る人間がいる。
騎士団が守ると言っている「王国」とは、結局こういうものの集合なのだろう。
「……なに真面目な顔してるの?」
リンが横から覗き込んできた。
「いや、ちょっと」
「お腹すいた?」
「違います」
「疲れた?」
「それはかなり」
「じゃあ宿戻ろ」
「今日初めて夜月さんと意見が一致した!」
「なにそれ」
とおるは本気で感動した。
「もう十分見ましたよね? 市場も町も。文化交流もしました。行政も見ました。排水もシオンが見ました。モモカさんは薬草買いました。リンさんも団子買いました」
「いつの間に!?」
真澄が振り返る。
リンは口をもぐもぐさせていた。
「……」
「夜月さん」
「買ってないよ」
「口の中は?」
「文化」
「飲み込めば証拠消えると思ってません?」
リンは急いで咀嚼を始めた。
「そういうところなんですよ!」
東霞第一支部へ戻るころには、すっかり日が落ちていた。
門の前には赤い灯籠が二つ灯り、その間で腕を組んだロックが立っている。
嫌な予感しかしない配置だった。
「リン」
「ただいまー」
「何を食ってる」
「何も」
「手を出せ」
「なんで?」
「いいから出せ」
渋々差し出されたリンの右手には、串が三本。
ロックの眉間へ、見慣れてきた深い皺が刻まれた。
「三本?」
「みんなで食べた」
「嘘つけ。とおる」
「俺は食べてません」
「シオン」
「食べてません」
「モモカ」
「薬草買ってた」
「ココ」
「私は別の食べた」
「ほぼ一人じゃねえか!」
「真澄も一個食べたよ」
「巻き込まないでください!」
「五本買って三本私なら、半分くらいじゃん」
「五本中三本は半分じゃない!」
「細かいなあ」
「算数だ!」
支部の夜空へ、今日何度目か分からないロックの怒声が響いた。
とおるはそれを聞きながら、ようやく宿舎の場所を教えてもらえるらしいことに心の底から安堵した。
王都から五日。
燈ヶ京へ到着して数時間。
地方支部の仕組みを聞き、支部長の濃さに圧倒され、市場を歩き、町の文化を見て、白珠穀や排水路や発酵調味料についてまで学んだ。
十分である。
新人聖騎士として非常に充実した一日だった。
これ以上何か新しい経験が追加された場合、知識より先に身体のほうが保存容量を超える。
「……もう寝ていいですよね」
誰にともなく呟く。
隣を歩いていたシオンが答えた。
「夕食まだです」
「…………」
「あと支部長から、明朝六時集合って」
「聞かなかったことにしていいです?」
「駄目です」
「ですよね」
そして支部食堂の方角から、煮物らしい良い匂いが漂ってきた途端、とおるの腹だけは本人の疲労とは一切協議することなく、非常に元気な音を鳴らした。
リンが振り返る。
「お腹すいてるじゃん」
「……そこだけは認めます」
宿屋に行って休みたい。
その願い自体は、まだ何一つ叶っていなかった。




