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第77話 完全に京都じゃないですか



 王都アルヴェリオンを出て最初の半日は、とおるにとって「旅」というより、ひたすら落ちないことへ全神経を注ぎ続ける耐久試験だった。王樹大街道は王都近郊だけあって驚くほど平らに整備され、石畳の継ぎ目ひとつまで翠桐の管理が行き届いているらしく、道の左右には麦畑と牧草地が遠く地平まで続き、その向こうを緩やかな風に押されるように白い雲の影が滑っていく。空気は王都の城壁内より明らかに広く感じられ、何十台もの荷車と騎獣が往来しているにもかかわらず、少し視線を上げれば人間の営みなど簡単に飲み込んでしまうほど巨大な平原と空が広がっていたのだが、ムギの背に乗るとおるには壮大な世界を味わうだけの余裕がまだなく、景色を見ようとして顔を上げるたびに身体が鞍の揺れから遅れ、慌てて姿勢を戻しては「地面って歩いてる時はあんなに頼もしかったんだな」と、普段ほとんど意識したこともなかった大地への感謝を新たにしていた。


「肩、硬いよー」


 前を進んでいたリンが、わざわざ騎獣の速度を落として横へ並んでくる。


「硬くしてるつもりはないんです」


「じゃあ自然に硬いの?」


「緊張してる人間に追い打ちかけるのやめてもらえます?」


「もっと腰で揺れ吸収する感じ。ムギの動きに逆らわないで」


「それが分かれば苦労してません」


「んー……水の入った袋になったつもりで」


「急に雑な教え方になったな」


「ロックより分かりやすいよ?」


 少し前を走っていたロックの背中が反応した。


「聞こえてるぞ」


「ほら、耳もいい」


「褒めて誤魔化すな」


 ムギは飼い主でもないリンの会話を理解しているのかいないのか、首を一度振ってから一定の速度を保って歩き続けていた。とおるが手綱を引きすぎれば小さく鼻を鳴らし、身体の力を抜けば何も言わずに前へ進む。その態度は親切な教官というより「そっちが勝手に慣れてください」という熟練社員に近く、初日の昼を迎える頃には、とおるもなんとか鳥上で周囲を見回せる程度には余裕を取り戻していた。


 王都から離れるにつれて、景色は少しずつ姿を変えていった。世界樹の巨大な樹冠はどこまで進んでも背後の空に残り続けていたものの、半日も経てば幹そのものは薄い青の霞へ溶け込み、夕方には「巨大な木」より「遠い山脈のような影」と呼んだほうがしっくりくる大きさへ変わっていく。とおるは何度か振り返り、そのたびに自分がこれまで暮らしてきた世界の中心が少しずつ遠ざかっていく奇妙な感覚を味わっていた。


 第一継駅を越えた先から、地面にはゆっくりと起伏が増え始めた。


 リーヴァ丘陵。


 低い丘が波のように連なるこの一帯は、遠くから見れば緑色の布を幾重にも折り重ねたように穏やかな土地だった。街道は丘を正面から登るのではなく、その側面を縫うように延び、場所によっては左右へ広がる農地より十数メートルも高いところを通る。小麦畑の間には青紫色の花をつける低木が植えられ、斜面の下には白壁と赤茶色の屋根を持つ農家が点々と見え、荷を積んだ風脚鳥の列が遠い道を蟻のように進んでいる。


「思ったより、広いですね」


 二日目の昼、リーヴァ丘陵をゆっくり登っていたとおるが誰に聞かせるつもりでもなくそう漏らすと、少し前を走っていたココが肩越しに振り返った。


「王国が?」


「いや……世界が、です」


 自分で口にしてから、とおるは少しだけ言葉を探した。クルム村で三年暮らしていた頃も狩りや採取で森に入って山の斜面を歩き、村の外にある小さな街道まで出たことは何度もあるし、白華に連れられて王都へ向かった時だって決して狭い範囲だけを移動していたわけではない。それでも当時の自分は、明日の食料や魔獣の気配や見知らぬ騎士たちに囲まれている居心地の悪さといった目の前のことばかり気にしていて、足元からずっと先へ続いている土地そのものの大きさへ意識を向ける余裕などほとんどなかった。


 ところが今は、ひとつ丘を登るたびにその向こうからまた別の景色が現れる。


 王樹大街道は緑の丘陵を避けるのではなく、地形の緩やかなところを選びながら長い帯のように縫って伸びており、街道の左手には黄金色へ色づき始めた麦畑、そのさらに奥には薄紫色の花を一面につけた草原、右手には低い石垣で区切られた放牧地が段々になって続いている。丘の窪地には十軒ほどの家が寄り添う小さな集落が見え、そこから細い煙が数本、風に押されて斜めへ流れていた。水車の羽根がゆっくり回る小川のそばでは子どもたちが何かを追いかけて走り、そのもっと向こうには、ここからでは名前すら分からない村の屋根が陽炎に揺れるようにぽつぽつと並んでいる。


 視線をさらに上げれば、丘陵そのものが幾重にも重なっていた。近くの丘は草の一本一本まで見えるほど鮮やかな緑なのに、二つ、三つと距離が離れるたび色は青みを増していく。地平近くまで行くと、もはや山なのか雲の影なのか分からない淡い藍色へ溶けていて、その上には高い空が広がっている。王都では巨大な世界樹の樹冠に切り取られていた青が、ここでは何にも遮られずにただ遠く——どこまでも続いていた。


「王都から見ると、世界ってもっとまとまってるように見えるんですよね」


 とおるが言うと、ココは前を向いたまま小さく笑った。


「まあ、あそこは世界樹も王城も十二華も役所も、なんでも集まってるからね。王都に長くいると、『大事なものは全部ここにある』って気分にはなりやすいよ」


「実際、だいたいありますよね」


「政治とか制度の話ならね。でも、あそこの村の人にとって一番大事なのは、王城の会議より今日ちゃんと水が畑に回るかどうかだし、あっちの牧場の人なら、たぶん今は羊が一頭逃げたほうが大事件」


「……そう考えると、そりゃそうですね」


「みんな自分の暮らしてる場所を中心に生きてるから。王都は王国の中心だけど、全員の生活の中心じゃないよ」


 言われてみれば当たり前のことなのに、とおるには妙に新鮮だった。


 燈ヶ京についても、王都では「東霞最大の地方都市」「東部行政の中心」「王樹騎士団東霞第一支部所在地」といった説明ばかり聞いていたせいで、頭の中ではどこか王都を小さくしたような場所として処理していたのだが、実際にはそこで生まれ、そこで商売をし、そこで家族を作りながら王都へ一度も行かないまま一生を終える人間だって少なくないのだろう。


「東霞なんて、もっと分かりやすいよ」


 ココが続ける。


「あっちの人は王都の人が思ってるほど王都に憧れてないから」


「それ、騎士団としては大丈夫なんです?」


「なんで?」


「いや……中央への関心が薄いって、ちょっと不安になりません?」


「国を大事にすることと、王都へ住みたがることは別でしょ。むしろ東霞の人に『アルヴェリオンと燈ヶ京、住むならどっち?』って聞いたら、普通に燈ヶ京って答える人のほうが多いと思うよ」


「そんなはっきり」


「リンに聞いてみたら?」


 言われて、とおるは少し前を走っているリンの背中を見た。


 今のところ本人は鼻歌らしきものを歌いながら風脚鳥を走らせている。


「……聞かなくても答え分かる気がします」


「でしょ?」


 ココは楽しそうに笑った。


 三日目の朝には、リーヴァ丘陵のなだらかな起伏も少しずつ後方へ遠ざかり、街道は東へ連なる低山地帯の中へ入っていった。


 景色の変化は地図で線を一本越えるような明確なものではない。最初は畑の端に数本混ざるだけだった木々が、いつの間にか街道の両側を囲むほどに増えている。遠くまで見えていた空が枝葉の間から覗く細長い青へ変わり、草原を渡っていた風にも土と樹皮の匂いが混じるようになっていた。山そのものは北嶺地方のような険しい高峰ではなく丸みを帯びた尾根がいくつも連なる穏やかな山地だったものの、平地ばかり進んできた身体にとって長い坂道は十分な負担で、午前中いっぱいかけてゆっくり登ったかと思えば谷を巻くような下りが延々と続き、そこを越えた先にはまた別の斜面が待っていた。


 斜面には人の手がかなり入っている。


 崩れやすいところには灰色の石を積み上げた擁壁が続き、山肌から染み出した水を街道へ流さないよう石組みの細い水路が何本も道と並行して走っている。小さな沢を越える場所には丸木を束ねた橋ではなく短いながらも石造りの橋が架けられ、その欄干には翠桐の管理印と補修年が刻まれていた。山の高いところへ来ると木々の隙間から谷底が見え、そこには銀糸のような川が細く光り、その両脇へ小さな集落と段々畑がへばりつくように広がっている。


 昼を過ぎると陽射しが斜めになり、森の色まで変わった。葉の表面だけが明るく照らされ、木々の奥には濃い影が溜まり、風が通るたび梢のざわめきが街道の上を波のように走っていく。ところどころ開けた場所へ出れば、今まで越えてきた丘陵とさらにその西にかすむ王都方面まで見渡せた。


 世界樹も、まだ見える。


 空の端に、淡い影のように立っている。


 あれほど巨大だった幹が、今では親指一本で隠せそうなほど小さい。


「……あれだけ離れても見えるんだな」


 とおるが呟くと、隣でシオンが街道の排水溝を見ながら答えた。


「空気が澄んでれば、もっと東でも見えます」


「ほんとに国のどこからでも目印なんですね」


「東霞の山中だと見えない場所もありますけど。見えなくなると、王都から離れた感じがします」


「シオンさんも思うんですか、そういうこと」


 問いかけると、シオンは少し考えてから頷いた。


「たまに」


「たまにかあ」


「景色見るより、道見てること多いので」


「でしょうね」


 予想通りの答えだった。


 第三継駅の門が見えた頃には、とおるの感想は世界の広さでも山の美しさでもなく、もっと切実なところへ落ち着いていた。


「……尻が痛い」


 騎獣から降りて地面へ足をつけた直後に漏れた声へ、公用車から本を片手に降りてきたモモカが反応する。


「普通」


「普通なんですか、これ」


「初めて長く乗る人は、だいたい痛くなる」


「治療とかないんです?」


 とおるが少し期待を込めて尋ねると、モモカは一拍置いて答えた。


「慣れる」


「医学の人から出てきてほしくない回答なんですが」


「赤くなってたり、腫れてたりしたら薬塗る」


「そこまでじゃなかったら?」


「慣れる」


「二回言われた」


「大事だから」


「そこだけ急に説得力を足さないでもらえます?」


 しかしモモカはすでに興味を失ったらしく、「お腹すいた」とあまりにも自然に呟きながら、そのまま宿舎の中へ消えていった。


 医療担当が最終的に「慣れろ」で全部解決しようとするの、たぶん患者側が一番慣れちゃいけないやつだと思う。少なくとも前世の病院で医者に同じことを言われたら、受付を出たあと一度くらいは口コミ欄を開いていたと思うおるだったが、残念ながらこの世界には星一つをつけて「診察は早いですが、最終的に気合いで治そうとしてきます」と書き残せる便利な場所はないだろうし、仮にあったとしてもモモカ本人は評価欄など一切気にせず、「治ったならいいでしょ」と言いながら菓子でも食べていそうなので、たぶんこちらが疲れるだけだった。


 四日目の昼前のことだった。山地を抜け始めたところで、街道の先にそれまでとはまるで違う明るさが見えた。


 森が途切れている。


 最初はそれだけに思えたのだが、下り坂を進むにつれて木々の隙間から白く光る帯が現れ、それが少しずつ横へ広がり、やがて視界の半分近くを占める巨大な水面へ姿を変えた。


 王国東部を南北に貫く大河——〈イルファン河〉だった。


 とおるは思わずムギの速度を落としたものの、それは怖かったからではない。


 単純に、目の前の景色を見過ごすには惜しかった。


 イルファン河は、クルム村の近くにあった川とは同じ名前で呼んでいいのか迷うほど規模が違っていた。川幅は場所によって大きく変わるものの、大河橋周辺では対岸までかなりの距離があり、向こう岸に建つ倉庫や監視塔が少し霞んで見えるほどだった。水面は一枚の平らな青ではなく、流れの速い中央部には長い白波が斜めに走り、岸に近いところでは深い緑を帯び、浅瀬の上だけ淡い琥珀色へ変わっている。陽光を受けた場所では無数の光が細かく砕け、遠くから見れば大地の中へ巨大な銀色の布を広げたようでもあった。


 上流側には、雪解け水を集める山々が青く重なっている。


 下流へ目を移せば、河はゆるやかに蛇行しながら南へ消えていき、その両岸には湿地と耕作地が扇状に広がっていた。河沿いの低地には細かな水路が何本も引かれ、四角く区切られた農地が空の色を映してきらきら光っている。船着場には帆を畳んだ大型の平底船が何艘も並び、積み上げられた木箱や穀物袋を人夫たちが忙しく運び、その脇を小さな漁舟が滑るように通り過ぎていく。風がこちら側まで届くたび、湿った水の匂いと、泥と、どこか青臭い水草の香りが混ざって鼻を抜けた。


 川面の上空には白い腹をした水鳥が群れを作っていた。何十羽もの鳥が一斉に翼を傾けると光の加減で白から灰色へ色が変わり、その群れが大きく円を描いてから対岸の葦原へ降りていく。


「……これ、川なんですよね」


 とおるが言うと、先を進んでいたリンが振り返った。


「そうだけど」


「ちょっと海って言われたほうが納得できます」


「海はもっと広いよ」


「それ聞くと、まだ上があるのかって気分になりますね」


「東霞の南まで行けば見えるよ」


「今回は行かないですよね?」


「たぶん」


「その『たぶん』が怖いんですよ」


 そんな話をしているうちに、大河橋の全容が見えてきた。


 橋は川の端から端へ一本の線を引いただけの単純な構造ではなく、ひとつの街道施設と呼んだほうが近いほど巨大だった。河岸から延びる石造の取り付き部だけでも小さな城門ほどの幅があり、その先へいくつもの橋脚が規則正しく並んでいる。橋脚は川底から真っ直ぐ立つ柱ではなく、水流を左右へ逃がすために上流側が船の舳先のように尖っており、基部は何層もの石材を噛み合わせるように組まれていた。長い年月を水へ晒されている下部は黒ずみ、さらにその少し上には洪水時に流木がぶつかった跡なのか、色の違う補修石が何か所も残っている。


 橋桁は石だけで作られているわけではない。


 巨大な橋脚同士の間へ太い木梁を渡し、その上から金属製の連結具と補強術式を施した石板を重ねる複合構造になっているらしく、路面の中央には荷車が二台すれ違えるほど広い車道、両側には騎獣と歩行者のための通路が設けられていた。一定間隔で半円形に張り出した待避所があり、そこには簡素な屋根まで付いている。さらに橋の中央付近は大きな船を通すため高く持ち上げられ、そこだけ橋脚同士の間隔が広く、なだらかな弧を描く巨大なアーチが水面の上へ掛かっていた。


 岸側には低い監視塔が二基。


 通行する大型荷車の重量を確認するための石製標柱。


 夜間に橋の縁を示す魔力灯。


 洪水時に封鎖するための太い鎖を収める巻き上げ装置まで備えられている。


「橋っていうより、もう設備ですね」


 とおるが感心して言うと、シオンが少しだけ顔を上げた。


「大河橋なので」


「そういう名前だから大きいんじゃなくて、大きいから大河橋なんですよね?」


「はい」


「今の聞き方、だいぶ馬鹿みたいだったな」


「意味は分かりました」


「そこは流してほしかったです」


 シオンは橋のほうへ視線を戻した。


「今の形になったのは四十二年前です」


「へえ。じゃあ比較的新しいんですね」


「橋自体はもっと古いです。最初の記録は二百年以上前」


「そんな前から?」


「中央の石橋部分だけです。両岸側は昔、ほとんど木造でした」


 とおるは改めて橋脚の並びを眺めた。


 よく見ると、中央の数基だけ石材の色と積み方が微妙に違っている。新しい部分は灰白色で角も比較的整っているのに対し、古い橋脚は石の大きさにばらつきがあり、表面も少し丸みを帯びていた。


「あそこ、色が違うのって古い部分ですか?」


「そうです」


「見た目で分かるんですね」


「修復するたび工法も変わってますから」


「じゃあ、二百年前の橋をずっと継ぎ足して使ってる感じなんだ」


「かなり大雑把に言えば」


「最近シルバーさんの説明を聞いたせいで、その言い方が褒め言葉に聞こえるようになってきました」


 シオンは少しだけ口元を動かした。


「洪水で大きく壊れたのは三回です」


「三回も?」


「部分損壊まで含めると二十一回」


「急に歴史が荒々しくなりましたね」


「この川、増水すると別物になるので」


「どのくらい?」


「記録上、大きい年だと平常時より七メートル以上」


 とおるは橋脚へ目を向けた。


 七メートルと言われても、すぐには実感が湧かない。


 シオンは少し先にある石柱を指した。


「あそこの橋脚、下から色が三段くらい変わってるの分かります?」


「……あ、本当だ。黒いところと、その上に茶色っぽい線がありますね」


「一番上の濃い跡が、前回の大洪水」


「え」


 とおるは橋脚の高さと、現在の水面との距離を見比べた。


 今は橋の下に大きな空間があり、船が余裕をもって通れる。


 ところが洪水跡は、その空間のかなり上まで残っている。


「……そこまで水が来たんですか」


「はい。流木も大量に流れてきます」


「そりゃ橋も壊れますね」


「なので上流側が尖ってます。正面から受けると持たないので、水と流木を左右へ逃がす形です」


「なるほど……」


 怖いというより、感心するほうが先に来た。


 これだけの川へ二百年以上前から橋を架け、そのたび壊れ、直し、補強し、また使い続けてきたという事実のほうがとおるにはずっと印象深かった。


 人間は、自然より強いわけではない。


 川は増えるし、橋は壊れる。


 それでも翌年にはまた人が渡る。


 そのために誰かが石を積み直し、梁を替え、流れを調べ、記録を残してきた。


「……こういうの見ると、翠桐って大変ですね」


 とおるが言うと、シオンは橋を見たまま答えた。


「楽しいですよ」


「そこ即答なんですね」


「壊れた理由が分かれば、次は少し長く持たせられるので」


「シオンらしいなあ」


「そうですか?」


「だいぶ」


 橋へ入ると、川の広さは岸から眺めていた時よりさらに大きく感じられた。


 左右へ遮るものがなくなったぶん風は強く、ムギの首周りの羽毛が細かく揺れる。橋の下では大量の水が絶え間なく流れ続け、橋脚へぶつかった流れが白く砕け、その渦が何十メートルも下流まで筋を引いている。中央のアーチへ近づくにつれて視界が開け、上流側には遠い山並みと川沿いの村々、下流側には何艘もの船と広大な湿地、その先に薄く霞む平原まで見渡せた。


 とおるはしばらく何も言わず、その景色を眺めていた。


 自分たちの下には、何百年も流れ続けている大河がある。


 その上を今朝も商人が渡り、農民が荷物を運び、騎士が地方へ向かっている。


 旅の途中にある橋ひとつでさえ、自分がこれまで知らなかった長い時間と生活の積み重ねの上に成り立っている。


「……こういうの、王都にいたら分かんないですね」


 ぽつりと漏らすと、シオンが珍しくすぐ返事をした。


「だから地方巡任があるんだと思います」


「なるほど」


「たぶん」


「最後で急に自信なくなるんですね」


「制度の目的はココかシルバーに聞いたほうが正確なので」


「その判断は正しいです」


 橋を渡り終える頃には、景色だけでなく空気そのものが少しずつ東霞らしいものへ変わり始めていた。


 イルファン河の東岸には低く湿った土地が広がり、水路や小川が西側よりずっと多い。街道のそばでは細長い葉を垂らす木々が風に揺れ、その下には水を好む青い花が群生している。農地の形も少し違い、麦畑より水を張った浅い耕地が目につくようになった。遠くの田面は午後の日差しを受けて空を映し、ところどころに立つ農家の黒っぽい屋根がその光の中へ島のように浮かんでいる。


 さらに進むと、道端の植生へ節のある真っ直ぐな植物が混ざり始めた。


 何本も密集し、細い葉を高いところで揺らしている。


 とおるは思わず目を細めた。


「……竹?」


「キョウチク」


 リンが答える。


「似てるけど別物。中に水と魔力溜めるから、下手に切ると結構な勢いで噴くよ」


「へえ」


「昔ロックが知らずに切って、頭から全部かぶってた」


「リン」


 少し前から低い声が飛んでくる。


「本当のことでしょ」


「説明に必要ない」


「とおる、すごかったよ。しばらく髪から水垂らしながら歩いてた」


「黙れ」


「見たかったな」


「壁山、お前まで乗るな」


「すみません」


 リンが楽しそうに笑う。


 風がキョウチクの葉を揺らし、さらさらと乾いた音が道の上へ降ってきた。


 その音を聞きながら、とおるは前方の景色へ目を向ける。


 遠くの山には薄い靄がかかり、街道の先には今まで見なかった形の屋根がいくつか見え始めていた。


 アルヴェリオンから東へ進んで四日。


 王都から離れたというだけではない。


 同じ王国の中にありながら、これまでとは違う土地の匂い、違う水、違う暮らし方が、少しずつ街道の両側へ姿を現し始めていた。



 ◇



 ——五日目。


 東霞山地へ入る頃には、街道そのものの雰囲気まで変わっていた。


 石畳は灰色から青みを帯びた平石へ変わり、道脇には一定間隔で低い石灯籠のような標識が立っている。シルバーによれば旅人のための〈導灯〉で、夜になると内部の微弱な風属性術式が周囲の魔力を集め、淡い青白色に光るらしい。ところどころには二本の柱と横木を組み合わせた門型の構造物が街道を跨ぎ、表面には縄に似た編み紐と紙片のような護符が垂れていた。


「触らないでください」


 シルバーが言う。


「まだ触ってません」


「壁山さんは、興味を持つと少し近づく癖がありますので」


「そんな分析までされてるんです?」


「五日あれば、ある程度は」


「合同巡任怖いな」


 峠を越える日は、朝から薄い霧が出ていた。


 山肌を覆う森の奥から水音が絶えず聞こえ、街道の脇を流れる小川には丸い石が敷き詰められている。苔を纏った石仏にも似た標が道の分岐ごとに置かれ、その首元には赤い布が結ばれていた。リンは一つ一つを気にする様子もなく通り過ぎていくため、とおるも「東霞では普通なんだろう」と考えていたのだが、ロックだけは曲がり角へ入るたび周囲を確認している。


「昔からこういう場所なんですか?」


 とおるがリンへ尋ねた。


「んー。そうだね。山多いし、水多いし、霧も多いし」


「なんか……日本っぽいな」


「ニホン?」


 隣を歩いていたリンが、聞き慣れない言葉を舌の上で転がすように繰り返した。


「俺がいたところです。前の世界っていうか……まあ、故郷みたいなもんです」


「ああ。ここが似てるの?」


「全部じゃないですけど、ちょっとだけ」


 そう答えながら、とおるは自分でも妙なことを言っていると思った。


 山道の脇に建つ、小さな木造の休憩小屋。雨を避けるため深く張り出した軒、その端から吊るされた風鈴によく似た青銅の器具、苔の残る石段、道に沿って流れる細い水路。どれもこの世界の材料、この世界の技術で作られているはずなのに、目に入るたびに「知っている」という感覚だけが先に胸へ届き、頭が理由を探すのに少し遅れる。


 懐かしい。


 そう思った途端、頭の奥へ、真夏の白い日差しが一瞬だけ差し込んだ。


 川があった。


 風が吹いていた。


 その向こうに、誰かの黒い髪が揺れて――。


「……とおる?」


「え?」


 気づけば、リンが少し前からこちらを覗き込んでいた。


「さっきから止まりそうなくらいゆっくり歩いてるけど。どうしたの?」


「いや……ちょっと、似てるなと思って」


「故郷に?」


「……たぶん」


「たぶん?」


「自分でも、どこがって聞かれるとうまく説明できないんですよ。ただ、なんか知ってる感じがするっていうか」


 自分で口にしてみても、ひどく曖昧だった。


 リンはそれ以上深く訊かず、「そっか」とだけ言って前を向いた。その距離の取り方がありがたくて、とおるもまた、掴みかけた記憶へ無理に手を伸ばすのをやめた。


 昼前、一行はようやく峠の最高地点へ辿り着いた。


 ここを越えれば、あとは東側へ長く下っていくことになる。


 先頭を進んでいたリンが騎獣の手綱を引き、道の脇にある開けた場所で止まった。


「とおる。ちょっとこっち来て」


「なんです?」


「いいから。ほら」


 リンはそれだけ言うと、谷の向こうを指した。


 とおるもムギをそちらへ進ませ、木々が途切れた場所へ出る。


 次の瞬間、思わず手綱を握ったまま黙り込んだ。


 幾重にも連なる山々の間に、巨大な盆地が広がっていた。


 山あいから流れ込む幾筋もの川が陽光を受けて銀色にきらめき、その流れに沿うように、水を張った田畑が段々に連なっている。盆地の中央には、周囲の川とは比べものにならないほど幅の広い〈鏡河〉がゆったりと横たわり、そこから枝分かれした水路が町の隅々まで入り込んでいた。


 そして、その両岸。


 灰色、黒、赤茶、青緑。数え切れないほどの屋根が折り重なるように並び、その間を細い道と水路が縫い、いくつもの橋が町を結びつけている。


 燈ヶ京。


 遠目に眺めただけでも、王都とはまるで成り立ちが違う都市だと分かった。


 世界樹アルヴェリオンを中心に城壁と石造建築が幾重にも展開し、巨大な一つの機構のように見える王都とは違い、燈ヶ京は、川辺に生まれた家、その隣に増えた店、橋のたもとにできた宿、山へ向かって伸びていった道――そんな無数の暮らしが、長い時間をかけて少しずつ積み重なり、その結果として一つの都市になったように見えた。


 空を突くような高層建築は少ない。代わりに、屋根の海のあちこちから細長い塔や朱色の門、寺院とも神殿ともつかない大きな屋根が顔を覗かせ、そのさらに背後では、深緑の山が町を包み込むように迫っている。山腹には巨大な社殿群が段々に築かれ、もっと遠い東の斜面では、白い湯気がいく筋も立ち上っていた。


 風に流された湯気が、そのまま薄い雲へ溶けていく。


「……すご」


 結局、口から出たのはそれだけだった。


 隣でココが吹き出す。


「やっと静かになったね」


「いや、これは……ちょっと待ってください。俺の中で今、処理が追いついてないです」


「何を処理してるの?」


「いろいろです。世界観とか、記憶とか、俺の常識とか」


「大変そうだねえ」


「他人事だなあ」


 もっと適切な言葉を探そうとして、とおるはもう一度眼下の街を見渡した。


 ここが異世界なのは分かっている。


 山の形だって知らない。鏡河なんて川は日本にはなかったし、屋根に使われている瓦のような素材も、よく見れば色や光沢が少し違う。巨大な社殿の上空には、風を受けて淡く発光する魔力灯がいくつも浮かんでいて、どう頑張っても現代日本の景観ではなかった。


 それなのに、とおるの記憶にある一つの都市が、目の前の景色へあまりにも自然に重なってしまう。


「……これ、完全に京都じゃないですか」


 六人分の視線が、一斉にこちらへ向いた。


「キョウト?」


 リンが首を傾げる。


「俺がいた世界にある町です」


「そこに似てるの?」


「似てます。めちゃくちゃ似てます」


「そんなに?」


「今のところ、八割くらい観光パンフレットです」


「パンフレットって何?」


「……すいません、今のは忘れてください」


「なんで?」


「説明すると話が長くなるので」


 もちろん、それで忘れてくれるはずもなく、ココは面白そうに「キョウト、キョウト」と何度か呟きながら、知らない地名の響きを楽しんでいた。


 峠を越えてから燈ヶ京へ辿り着くまでは、さらに二時間ほどかかった。


 けれど近づけば近づくほど、とおるが最初に抱いた「京都に似ている」という単純な印象は、少しずつ複雑になっていった。


 田畑で育てられているのは、遠目には稲と見分けがつかない〈白珠穀〉で、水田の畦には風除けの術式を記した小さな札が一定間隔で立てられている。農家の屋根には黒い焼成瓦が使われていたが、棟に載っているのは鬼瓦ではなく、翼と尾羽を大きく広げた風鳥の飾りで、玄関先の小皿に盛られているのも塩ではなく、磨かれた白い小石だった。


 遠目には懐かしいのに、近づいて細部を見ると、必ずどこかが違っている。


 その違いがむしろ、とおるには落ち着かなかった。


 やがて町の外縁へ入ると、道幅が一気に広くなり、両側には木造二階建ての家々が隙間なく並び始めた。


 格子戸の向こうに見える薄暗い土間、深い軒、紙を貼った建具、小さな庭へ渡された飛び石、軒先で揺れる青銅製の風鈴。道脇には澄んだ水が流れ、家と家の間の細い路地を小さな石橋が繋いでいる。


「……いや、もう駄目だ。知ってる。これ知ってるやつだ」


「さっきから何と戦ってるの?」


 リンが笑いながら振り返る。


「俺の記憶です」


「負けそう?」


「かなり劣勢です」


 ただし、そこを行き交う人々の姿を見れば、ここが日本ではないこともすぐに分かる。


 町の人々が身につけているのは着物ではなく、袖の広い上衣と細身の袴を組み合わせた〈霞衣〉と呼ばれる衣装で、腰帯からは提灯の代わりに小型の魔法灯が下がっていた。商店の看板に書かれている文字も、とおるが読める王国文字には違いないのだが、直線的な王都の書体とは異なり、筆で一息に流したような柔らかな字体が使われている。


 そこまで来ると、懐かしいというより、知っている景色を誰かが異世界風に丁寧に作り直したように見えてくる。


「焼き白珠団子だよー! 甘だれと山椒だれ、どっちもあるよ!」


「川魚の香味焼き! 今上がったばっかりだ、熱いうちにどうだ!」


「東風茶の新茶入ってるよ! 旅帰りのお兄さんたち、一杯飲んでかない?」


 通りには屋台が連なり、焼いた魚の香ばしさと、甘辛いたれが焦げる匂い、それに茶葉の青い香りが混じって漂ってくる。


 とおるは左右を見回した末、ぽつりと言った。


「……完全に観光地だ」


「ねえ」


 リンが横から顔を覗き込む。


「さっきから言ってるキョウトって、結局どんなところなの?」


「こういうところです」


「説明する気なくなった?」


「違います。俺も今、どこまでが似てて、どこからが似てないのか分からなくなってるんです」


「じゃあ、似てるんじゃなくて、だいたい同じ?」


「それ言われると俺の精神がちょっと困ります」


「何が困るの?」


「異世界に来たはずなのに、修学旅行みたいな気持ちになってるところです」


「シュウガクリョコウ?」


「……新しい単語を拾わないでください」


 リンが笑った。


 その五分後。


 通りの角を一つ曲がったところで、とおるは再び言葉を失った。


 緩やかな石段の上に、巨大な朱塗りの〈境門〉が立っていた。


 太い柱の向こうには深い緑が続き、中央を参道がまっすぐ奥へ伸びている。道の左右には石灯籠に似た魔導具が並び、そのさらに奥では、白い上衣と赤い袴によく似た衣装を身につけた若い社守たちが、参拝客らしい人々を案内していた。


 ムギの背中で、とおるは完全に固まった。


「……」


「また?」


 ココが横から笑う。


「いや……これはさすがに言わせてください」


「なに?」


「あれ、神社じゃないですか」


「ジンジャ?」


 リンが当然のように訊き返す。


「……もういいです」


「急に諦めた」


「俺だけが懐かしさで殴られ続けてるの、なんかだんだん馬鹿らしくなってきたんですよ」


「大丈夫?」


「大丈夫じゃないけど、もう慣れます」


「適応が雑だなあ」


 鏡河へ近づくにつれて、人通りはさらに増えていった。


 川沿いには茶屋や旅館が軒を連ね、二階の縁台では客たちが湯気の立つ茶を飲みながら水面を眺めている。鏡河には屋根付きの細長い船が何艘も浮かび、船頭が長い竿を水底へ突きながら、流れに逆らわない速度でゆっくりと進ませていた。


 橋の欄干には、風車に似た小型の魔導具が一定の間隔で取り付けられている。風を受けるたびに羽根が回り、その周囲へ淡い光の粒をふわりと散らしていく。


 やがて西の空が少しずつ橙色へ染まり始めると、街の灯籠にも一つ、また一つと明かりが入り始めた。


 火ではない。


 青、橙、淡い紫。


 魔力の灯りが水面へ映り込み、川の流れに揺れながら伸びたり縮んだりして、その上を橋を渡る人々の影が横切っていく。


 幻想的。


 これほど素直に、その言葉が当てはまる景色も珍しい。


 けれど、とおるの頭には同時に、どうしようもなく現代人らしい感想も浮かんでいた。


 ――修学旅行で夜まで自由行動だったら、たぶんこんな感じなんだろうな。


 情緒と記憶が、頭の中で正面から殴り合っている。


「とおる」


 前を進んでいたリンが呼んだ。


「はい?」


「もうすぐ支部やよ」


「……」


 とおるは眉を寄せた。


「夜月さん」


「なに?」


「やっぱり、ここ入ってから喋り方変わってません?」


「変わっとらんよ?」


「今! 今ですよ!」


「なんのこと?」


「『変わっとらんよ』って言ったでしょう!」


「気のせいちゃう?」


「ほら! また変わった!」


 リンは口元を隠すでもなく、楽しそうに笑いながら騎獣を進ませていく。


 そこへロックが横を通り過ぎざま、低い声でぼそりと言った。


「諦めろ。昔からああだ。本人は絶対に認めん」


「ロックまで何言っとるん」


「今のは証拠ですよね!?」


「知らん」


「なんで急に逃げるんですか!」


「うるさい!」


 妙な達成感だけはあった。


 少なくとも、自分の聞き間違いではないらしい。


 一行が辿り着いた〈王樹騎士団・東霞第一支部〉は、燈ヶ京の東側、街を囲む低い外郭壁と鏡河から分かれた支流、そのちょうど間に広い敷地を構えていた。


 王都で見慣れた騎士団施設とは、外観からして大きく異なっている。


 石を積み上げた城塞ではなく、黒く太い柱と白い壁を組み合わせた巨大な木造建築がいくつも並び、正面には広い砂利敷きの前庭、その奥には幅の広い階段が設けられている。青黒い瓦を載せた屋根は二層に重なり、端へ向かうほど緩やかに反り上がっていて、左右の棟には翼を広げた風鳥の飾りが載っていた。


 本館の左右には訓練場、騎獣舎、倉庫、宿舎らしい建物が広がり、それぞれが屋根付きの渡り廊下で繋がっている。正面玄関の上には、十二枚の花弁を円形に並べた王樹騎士団の紋章、その下には東霞支部を示す波と風の意匠が刻まれていた。


 門をくぐった途端、前庭にいた何人もの支部騎士が、一斉にこちらへ視線を向けた。


 だが、五日間の移動ですっかり騎獣の背中に人生を吸い取られたとおるには、今さら周囲の視線へ気を配る余裕などない。


 目下の最重要任務は、ムギから無事に降りることである。


 左足を鐙から抜く。


 身体をゆっくり横へ捻る。


 反対側へ勢いよく落ちないよう注意しながら腰をずらし、そのまま――。


 両足が砂利を踏んだ。


「……地面」


 思わず、感慨深く呟いた。


 ココがすぐ横で笑う。


「五日ぶりに地上へ帰ってきたみたいな顔しないでよ。途中でも普通に降りてたでしょ?」


「違うんです。今までの地面と、この地面では重みが違います」


「何の重み?」


「信頼です」


「地面への?」


「地面への」


 その背後で、ムギがぶるるっと鼻を鳴らした。


 とおるは振り返る。


「聞こえてました?」


 当然返事はない。


「ムギさんも、五日間ありがとうございました。途中かなり危なっかしい客だったと思いますけど」


 そう言いながら首筋へ手を伸ばすと、以前なら露骨に顔を背けていたムギは、今度は逃げなかった。


 それどころか、ほんの少しだけ首を下げ、とおるの手を受け入れる。


「お」


 思わず声が出る。


「夜月さん、見ました?」


「見た見た。仲良くなったね」


「ですよね。やっぱり五日間一緒にいれば信頼関係って生まれるんですよ」


「たぶん『こいつ乗せても死なない』くらいには認められた」


「評価基準そこなんです?」


「騎獣にとってはかなり大事だよ?」


「……まあ、確かに」


 非常に現実的だった。


 荷物を騎獣から降ろし終え、いよいよ支部の建物へ入ろうというところで、とおるはふと足を止めた。


 何となく、振り返りたくなったのだ。


 門の向こうに、夕暮れの燈ヶ京が見えている。


 連なる黒い瓦屋根。その隙間を縫うように伸びる細い路地。鏡河へ落ちた夕陽と、水面を流れていく魔力灯の光。山の斜面には灯籠が点々と連なり、遠くでは夕刻を告げる鐘が、低く長く街へ響いていた。


 どこかの屋台から、甘い醤油によく似た匂いまで漂ってくる。


 知らない街だ。


 来たことなど一度もない。


 そもそも世界が違う。


 それなのに、どうしてこんなにも懐かしいのだろう。


 胸の奥で、古びた扉の蝶番がわずかに動くような、かすかな軋みがあった。


 夏。


 川。


 眩しいほど白い日差し。


 風に揺れる、誰かの黒い髪。


 あと少しで何かを思い出せそうな気がして、とおるは無意識にその感覚へ手を伸ばした。


 けれど、指先が届くより先に輪郭は崩れ、夢から覚めた直後の記憶のように、するりと頭の奥へ沈んでいく。


「壁山」


 背後からロックの声が飛んだ。


「はい」


「何してる。行くぞ。支部長が待ってる」


「あ、すみません。今行きます」


 とおるは慌てて荷物を持ち直した。


 考えるのは後でいい。


 そもそも今回ここへ来た理由は、観光でもなければ、よく分からない郷愁へ浸るためでもない。


 六週間の合同巡任。


 地方支部の騎士たちと同じ仕事をしながら土地を知り、そこに暮らす人々を知り、王都とは違う環境で騎士が何を求められるのかを学ぶ。


 そのために、五日もかけてここまで来たのだ。


 分かっている。


 ちゃんと分かっているのだが。


 玄関へ向かって数歩歩いたところで、とおるは我慢できず、もう一度だけ振り返った。


 夕暮れに沈み始めた燈ヶ京を見つめ、誰に言うでもなく呟く。


「……でもこれ、やっぱり京都だよなあ」


「まだ言ってる」


 すぐ後ろからココの笑い声が飛んできて、それは暮れ始めた燈ヶ京の空へ、夕風と一緒に軽やかに溶けていった。


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