第76話 人見知りにはきつい長旅
出張というものは、決まった瞬間にはまだ半分くらい概念でしかない。行きたくないと思っていても、書類の上に出発日と行き先が並んでいるだけなら、机の引き出しへしまって見なかったことにできそうな気がする。もちろん実際にはそんなことで予定が消えてくれるはずもないのだが、人間の心は案外よくできているもので、「五日後」という文字列を今日の自分とは直接関係のない未来の問題として棚へ上げ、そのまま平然と夕飯のことを考えるくらいは簡単にやってのける。けれど旅装をまとめ、騎士団章を確認しながら予備の服を畳み、グレンから預かった灰白色の鞘の剣を専用の保管具へ収め、そのうえミレイユから「右目が重くなったら、その時点ですぐ申告しろ」「少しでも違和感があったら黙って我慢するな」「念のためもう一度言うが、本当にすぐだぞ」と三回も念を押され、最後に白華隊舎の門を出てしまえば出張はもう立派な現実となってしまう。しかもこちらの気分など一切考慮せず、自分の足で集合場所まで向かわなければならない種類のかなり逃げ道の少ない現実である。
合同巡任第十九班の集合場所に指定されていたのは、王都アルヴェリオン東門の内側にある〈王樹東方継送所〉という施設で、名前だけを聞けばどこか荘厳な役所か騎士団の重要拠点を想像するものの、実物を一目見たとおるの感想は「騎士団専用の巨大な駅と倉庫と厩舎を全部まとめた場所」がいちばん近かった。王樹大街道を使う公務騎士や伝令、地方支部の職員、荷車や騎獣が早朝から絶え間なく出入りしており、石造りの広場では荷札を確認する係員、風脚鳥へ鞍を載せる厩務員、出発前の装備検査を受ける騎士、書簡の束を抱えて走る伝令が互いにぶつからないのが不思議なくらい入り乱れ、その向こうでは成人男性より頭一つ高い大型の鳥が何羽も首を伸ばして、朝からやたら元気な声で鳴いている。
門をくぐったところで、とおるは一度だけ足を止めた。できることなら人の少ない隅を探して壁際へ寄り、そのまま壁紙の一部になったつもりで集合時刻までやり過ごしたかったのだが、白華の外套を着て大きな荷物まで背負った状態で物理的に壁へ逃げ込むと、「集合場所が分からず途方に暮れている新人騎士」という説明があまりにも正確に成立してしまう。さすがにそれは嫌だったので、かつて元の世界で社会人として働いていた時に辛うじて身につけた「分からなくても分かっている顔で案内板を見る」という技術を頼りに、出立区画の表示を確認した。
十九班、東方第三出立区。
そこへ向かいながら、とおるは昨日までに何度も見返した名前を頭の中で順番に並べる。ココ・アッシュホード、夜月リン、モモカ・リヴリー、シオン・グリーンランド、それから自分。五人。五名編成。資料にもそう書いてあったし、リディアからも確かにそう聞いている。
もちろん、その四人とはほぼ初対面なのだから、五人編成でも十分すぎるほど胃には悪い。けれど人見知りにとって「今日は初対面の人が四人いる」と事前に分かっていることは意外なほど重要で、四人なら四人分だけ挨拶と愛想と相槌の予算を心の中で配分できるし、一人あたりどの程度まで会話すれば最低限感じの悪い人間にならずに済むかも、なんとなく想定できる。そこへ予定外の一人が追加されれば、頭の中でせっかく作った座席表を全部組み直す必要が出てくる以上、とおるにとって事前に知らされた人数は、もはや単なる名簿ではなく立派な戦術情報だった。
だからこそ、指定された区画に着いて七人分の気配があった時、とおるは最初に「場所を間違えた」と思った。
荷物車の近くには、赤茶色の髪を肩のあたりでまとめた背の高い女性、黒髪を高い位置で束ねた細身の女性、淡い桃色の髪をした妙に小柄な女性、それから緑髪で眼鏡をかけた青年が立っている。そこまでは資料の特徴とおおよそ一致していたのだが、その横にはさらに、腕を組んで立っているだけで「ここから先は関係者以外立入禁止」という看板の役割まで果たせそうな大柄な男がおり、少し離れた場所には銀灰色の髪を綺麗に後ろへ流し、細身の眼鏡をかけた穏やかな顔立ちの男性までいた。
合計六人。
自分を入れれば七人。
とおるは、その場で完全に足を止めた。
――十九班って、五人だったよな。
記憶違いかもしれない。いや、リディアの机の前で確かに「五名編成です」と説明されたし、渡された紙にも五人分の名前しかなかった。ひょっとすると、隣の区画の人が何人か混ざっているのだろうか。そう考えて、とおるがさりげなく周囲の標識へ視線を泳がせた、その時だった。
「あ、とおるくん?」
赤茶色の髪の女性がこちらに気づき、顔全体を明るくして手を上げた。
「……はい」
返事をした瞬間、自分でも分かるくらい声が一段小さくなったのはもはや条件反射ならぬ生まれ持った才能に近い。
「よかった、やっぱり合ってた。こっちこっち」
女性はためらいもなく手招きした。その動作があまりにも自然で、初対面の相手に向けるものとは思えないほど距離感の詰め方に迷いがなく、とおるはその場で早くも思った。
――この人、強い。
もちろん戦闘力の話ではない。
“対人戦闘力”である。
「改めまして、私がココ・アッシュホード。所属は銀桂なんだけど、今回の班だとたぶん私が一番しゃべるから、そこは最初に諦めといて」
「諦めるところから始まるんですか?」
「お、返し早いね。いいじゃん、思ってたより話しやすそう」
「まだ一往復しかしてないですよ」
「第一印象って大事だから」
初対面から三十秒も経っていないのに、会話の主導権をほぼ全部持っていかれている。銀桂は犯罪捜査や聞き込みを担当することが多いと聞いていたが、なるほど、この勢いで質問されたら、気づいた時には住所だけでなく家族構成や好きな食べ物まで答えてしまいそうだ、とおるは内心で少しだけ警戒レベルを上げた。
するとココは、そんな警戒など見えていないような顔で、いきなり次の一手を放ってきた。
「でさ、白華で一番仲いいのって、やっぱミレイユちゃんなの?」
「……なんで挨拶の次がそれなんですか」
「結構噂だよ?まあ昨日ちょっと調べたんだけどね」
「怖い」
「いやいや、大丈夫。公開されてる情報しか見てないよ?」
「公開情報に俺とミレイユの仲の良さまで載るんです?」
「載らない載らない」
「じゃあ何を調べたんですか」
「君の周りにいる人たちとか、その他もろもろ」
「もっと怖いですよ」
とおるが思わず半歩だけ引くと、ココは悪びれるどころか「やっぱそこ気になるよね」とでも言いたげに楽しそうに笑った。
「だって白華って情報少ないんだもん。誰と誰がよく組んでるとか、誰が誰を止める役なのかとか、そういうの知っとくと仕事しやすいでしょ?」
「俺の交友関係って業務情報として扱われてるんですか」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「個人的な興味かな」
「そっちのほうが嫌だな……」
ココは心底楽しそうに笑っていたものの、とおるが冗談ではなく本気で一歩ぶん後ろへ下がったのを見ると、それ以上こちらへ距離を詰めてくることはなかった。
人の反応を見るのが好きなのだろう。からかう時にはずいぶん近くまで踏み込んでくるくせに、相手が本当に嫌がっていると分かれば、そこでぴたりと足を止める。その加減があまりにも自然だったので、とおるは、彼女が単なるおしゃべり好きというわけではなくむしろ人との距離を測ることに慣れているのだろうとなんとなく察した。
「はいはい。じゃあ、自己紹介はちゃんと順番にやろっか」
ココは軽く手を叩き、さっきまでとおるを囲むように立っていた面々を見回した。
「このまま全員が好き勝手しゃべったら、新人くん、たぶん五分後には誰が誰だか完全に分かんなくなってるから」
「そんな顔してました?」
「かなりね!」
「そんなにですか」
「うん。今の顔、たぶん『情報量が多いので一回壁になっていいですか』って感じだった」
「壁って表情には出せないんですね……」
「出せたら怖いよ。朝起きて壁が困った顔してたら、その宿もう泊まりたくないもん」
「確かに」
妙なところで納得していると、少し離れた場所に立っていた黒髪の女性が、ふっと口元だけで笑った。
腰まで届きそうな長い黒髪を後ろでゆるくまとめた、細身の女性だった。年齢はとおるより少し上に見えるが、落ち着いた立ち方のせいで実際より大人びて見えているのかもしれない。左腰には細身の剣、その柄には赤い花弁を思わせる意匠が入っている。
「夜月リンだよ。所属は〈緋桜〉。東霞の出身だから、向こうに着いてから道とか店とか分かんないことがあったら色々聞いてー」
「壁山とおるです。よろしくお願いします」
反射的に頭を下げると、リンは少しだけ眉を上げた。
「そんな固くしなくていいって。とおる、たぶん私より年下でしょー?」
「たぶん」
「……たぶん?」
返事をした直後、自分でも妙だったと思ったが、もう遅い。
リンが面白そうにこちらを見る。
「まさか、自分の年齢が分かんないの?」
「いや、自分の年齢は分かるんですけど……異世界転移した期間とか、こっちの暦への換算とかまで含めて数え始めると、どこを基準にしたらいいのか少し迷うというか」
「なにそれ、おもしろ」
「すいません。そこは拾わないでください」
「誕生日は?」
「だから拾わないでくださいって」
「じゃあ後で聞こ」
「後でも聞かなくていいです」
リンはくすくす笑ったものの、異世界転移という言葉について深く問い詰めてくることはなく、そのまま隣に立つ大柄な男へ視線だけを送った。
「で、こっちがロック」
「自分で言わせろ」
「名前は合ってるでしょ」
「そういう問題じゃない」
「じゃあどういう問題?」
「紹介する順番までお前が奪うなって話だ」
「ああ。そこ大事なんだ」
「大事というほどではないが、お前に任せると余計なことを付け足すだろうが」
「付け足さないよ。『見た目は怖いけど案外いい人です』くらいしか」
「もう付け足してる!」
低い声が継送所の軒先へ響き、とおるは思わず肩を揺らした。
男はその反応に気づいたらしく、一瞬だけ気まずそうに口を閉ざしたあと、深く息を吐いてこちらへ向き直った。
近くで見ると、やはり大きい。
背丈そのものも高いが、それ以上に肩幅と胸板が厚く、両腕も戦闘用の防具を着けたまま薪を一束まとめて折れそうなほど太い。眉は濃く、目つきも鋭いので、黙って立っているだけならその辺の魔獣よりよほど「不用意に近づくな」という雰囲気を放っていた。
ところが、実際にとおるへ向けられた声は見た目から想像していたよりずっと落ち着いている。
「ロック・クロフォード。〈緋桜〉第四席。今回の巡任では、基本的にココの補佐へ回る」
「よろしくお願いします」
「おう」
ロックは短く頷いたあと、とおるの肩から背中、最後に足元へ置かれている荷物へ視線を落とした。
「長距離の巡任は初めてか」
「はい。何日も歩き続けるのは、ほとんど経験がないです」
「なら一つ覚えとけ。分からないことを、分からないまま自分で判断するな」
「はい」
「道のことでも、野営のことでも、荷物のことでもいい。初めてなら聞け。聞いたせいで怒る奴はいない。勝手に判断して面倒を増やしたら怒るからな」
「……分かりました」
「それと」
ロックの目が、もう一度とおるの荷物へ向く。
着替えに簡単な野営道具、支給品と水筒と予備の外套、それに自分で必要だと思って詰め込んだ細々した物まで合わせると確かにかなりの量になっていた。
「その荷物、全部自分で背負うつもりか?」
「一応、そのつもりでした」
「やめておけ」
即答だった。
「え」
「五日あるんだぞ。初日に張り切って全部持って、二日目に肩と腰を壊して荷物ごと運ばれる奴は、根性があるんじゃなくてただの馬鹿だ」
「そこまで言います?」
「言わないと新人はだいたい『これくらい平気です』って顔をするからな。で、三時間後には黙るんだ」
「……気をつけます」
「荷車に載せられる物は載せていいが、途中で必要になる物だけ手元に残せ」
「はい」
怖い顔をしているのに、さっきから言っていることが一つ残らずまともだった。
とおるの中で、ロックに対する評価が静かに上方修正されていく。
その様子を横から見ていたリンが楽しそうに口を挟んだ。
「ロックさあ、初対面でそれやると、ちょっと説教してるみたいに聞こえるよ」
「お前だけには言われたくない」
「なんで?」
「昨日、荷造りを始めたのは何時だ」
「昨日?」
「そうだ」
「夜」
「何時だ」
「夜だよ」
「俺は時間を聞いてる」
「だから夜」
「何時だ」
ロックの声が少し低くなる。
リンは視線を斜め上へ逃がした。
「……九時くらい?」
「十一時半だ」
「細かいなあ」
「出発前日に菓子を買いに行くと言って宿を出て、そのまま二時間帰ってこなかった奴が言うな」
「戻ったでしょ」
「二時間後にな!」
「ちゃんと帰ってきたんだから、そこは結果を評価してほしいな」
「帰宅を成功判定にするな!」
「ちゃんとお菓子も買えたよ」
「何の成果報告だそれは!」
どうやら、この二人のやり取りは今日に始まったものではないらしい。
とおるは半歩ほど離れた場所からその応酬を眺めながら、出発前にリディアから聞かされていた「今回の巡任班には山岳救難経験者を複数配置している」という、いかにも組織的で立派な公式説明の裏側に、ひょっとすると別の事情も混ざっているのではないかという涙ぐましい背景があることをなんとなく理解した。
次に視線を向けたのは、荷車の脇で分厚い本を読んでいる小柄な人物だった。
淡い桃色の髪を短く整えた少女――と、最初はそう思った。
身体つきはかなり小さく、とおるの感覚では学生どころか、服装によっては子どもに見間違えても不思議ではない。その小さな身体には少々不釣り合いなほど分厚い医学書らしき本を両手で開き、口元には棒付きの飴を一本咥えている。
とおるの視線に気づいたのか、本から顔を上げた。
「モモカ・リヴリー。〈蒼菫〉」
「あ、壁山とおるです。よろしくお願いします」
「うん」
短い。
そのまま本へ戻ろうとする気配があったので、とおるは慌てて会話の糸口を探した。
「えっと……モモカさんって、東霞の方なんですか?」
本へ落ちかけていた視線が止まる。
モモカは数秒ほど、とおるの顔をじっと見た。
「なんで?」
「いや、その……名前が、なんとなく」
「名前?」
「モモカって、東のほうの名前っぽい気がして」
「ああ」
本人はようやく理由を理解したらしく、飴の棒をくるりと口の端へ動かした。
「西生まれ」
「違うんだ」
「育ちも西」
「完全に違った」
「よく言われる」
「じゃあ、ご両親が東の出身とか?」
「違う」
「そうなんですね」
「母親が桃好きだっただけ」
「由来そこなんだ」
「たぶん」
「たぶん?」
「聞いたことないから」
「思ったよりふわっとしてるな……」
そこで会話は終わったらしい。
モモカは再び本へ視線を戻したが、ほんの数秒後に何かを思い出したように顔を上げた。
今度は本当に真っ直ぐ、とおるの顔を見る。
「右目」
「え?」
「重い?」
とおるは一瞬、何を聞かれているのか分からなかった。
それから自分の右目――正確には、そこに宿っているものについて聞かれているのだと気づく。
「ああ……今は大丈夫です」
言った瞬間、モモカの目がわずかに細くなった。
「今は?」
「はい?」
「『今は大丈夫』ってことは、重い時あるんだ」
「……言い方を間違えました」
「どんな感じで重くなる?」
「いや、本当に、今のはそういう意味じゃなくて」
「痛みは?」
「ないです」
「熱は?」
「ありません」
「視野欠ける?」
「たぶんないです」
「たぶんは駄目」
「なんで自己紹介から診察に入ってるんですか?」
「気になったから」
あまりにも当然という顔で返され、とおるは言葉に詰まった。モモカは一度とおるの右目を眺め、それから何でもないことのように告げる。
「あとで見る」
「決定事項なんですね」
「うん」
「白華を出ても医療監視から逃げられないのか……」
「逃げるものじゃないよ」
「リディアさんとまったく同じこと言われた」
「正しいから」
声そのものは眠そうで、感情の起伏も薄い。それなのに不思議なくらい逃げ道がなかった。
とおるはこの時点で、今後六週間の健康管理に関して、自分に拒否権というものがほぼ存在しないらしいことを悟った。
「ちなみに」
モモカはもう本へ視線を戻していた。
「痛くなくても異常はあるから」
「まだ何も言ってないんですけど」
「『痛くないから大丈夫です』って言いそうだった」
「この班、人の内心読む人が多くないです?」
反射的に周囲を見回すとおるだったが、その浮き足立ったつま先を摘むようにすぐさまココが答えた。
「読んでないよ」
「じゃあなんで分かるんですか」
「顔に出てるだけ」
「そんなに?」
「うん。とおるくんって思ってるより顔がしゃべってるよ」
「ちょっと待ってください。今日だけで二回くらい同じこと言われてるんですけど」
「じゃあ信憑性高いね」
「嫌な方向に統計取らないでください」
自分ではそれなりに平静な顔をしているつもりだったので、とおるはこの先の巡任期間中、まず表情管理の練習から始めるべきではないかと本気で悩み始めた。
そんな騒ぎを少し離れた場所で聞きながら、緑色の髪をした青年は一人で荷車の車輪を調べていた。
細身で年齢も若く見え、眼鏡越しの顔立ちにもどこか静かな雰囲気がある。工具箱の脇へしゃがみ込み、車輪を手で少しずつ回している姿だけを見れば、とおるは継送所に雇われている整備見習いか何かだと思っていただろう。
しかし腰に提げられた装具には、第十華の象徴である〈翠桐〉の紋章が刻まれている。
青年は立ち上がると、眼鏡の位置を指で直した。
「シオン・グリーンランド」
「壁山とおるです。よろしくお願いします」
「知ってます」
「……あ、はい」
終わった。
驚くほどきれいに、そこで会話が終わった。
とおるは愛想笑いでも足したほうがいいのか、それともこちらから何か話題を探すべきなのか判断がつかず、半端な笑顔のまま数秒ほど立っていたのだが、当のシオンは気まずさなど最初から存在しなかったかのように荷車の脇へしゃがみ込み、今度は左の後輪、その奥に隠れている車軸へ指先をそっと添えた。
「左後輪」
近くで荷紐をまとめていた整備係が振り返った。
「ん?」
「軸受け、少し鳴ってます」
「そこなら、さっき見たばっかりだぞ」
「空荷だと、ほとんど鳴らないです」
「だったら問題ないだろ」
「荷物を積むと出ると思います」
整備係は露骨に怪訝そうな顔をしたものの、シオンがからかっているわけではないと察したのだろう。荷台の縁へ片足を掛けると、そのままぐっと体重を預け、車体を沈ませるように何度か上下へ揺らしてみた。
一度目は何もない。二度目も、荷台の板が軋んだだけだった。
ところが三度目、車体が深く沈み込んだ瞬間、ごく小さく――キィ、と、乾いた金属同士が擦れ合うような音が混じった。
「……あ」
整備係の顔つきが変わった。
「ほんとだ。よく聞こえたな」
「まだ軽いですけど」
シオンは車輪の奥を覗き込みながら、軸の付け根を指先でなぞる。
「この程度なら、平地だけなら五日くらい持つかもしれません。でも峠に入って荷重が片側へ寄ると、削れ方が急に変わる可能性があります。壊れるなら町の中より、山の途中のほうが困るので」
「そりゃそうだな。分かった、今のうちに替えとく」
「お願いします」
「助かったよ」
整備係が工具箱を取りに行くのを見送りながら、とおるはようやく、この青年について少しだけ分かったような気がした。
シオンは、単純に口数が少ないわけではない。
必要なことなら、むしろ驚くほど細かく話す。ただ、必要のない場面でまで言葉を足して無理やり沈黙を埋めようとはしないのだ。
そう考えると、先ほどの「知ってます」も本人の中では会話を切ったつもりなどなく、単に「自己紹介された名前は把握済みです」という事実を返しただけだったのかもしれない。
それはそれで、もう少し何か言ってくれてもいい気はしたけれども。
「大工仕事、好きなんですよね」
不意にシオンが言った。
今度も荷車へ向かって話しているものだと思い、とおるは反応が一拍遅れた。
「え? あ、はい。好きですけど」
「プロフィールに書いてましたよね?自給自足、農地開拓、大工が趣味だって」
「ああ……あれ」
どうやら本当に読まれているらしい。趣味欄というものは書いている時には気軽なのに、面と向かって読み上げられると妙に恥ずかしい。そんな赤らんだ彼の横顔を覗き込むように、シオンは荷車の側板を軽く指で叩いた。
「こういうのも直せます?」
「荷車ですか?」
「はい。板が割れたとか、車輪が緩んだとか、そのくらい」
「本格的な修理は無理ですよ。車軸を削り出せとか言われたら、たぶん職人さんを呼んだほうが早いです。でも板の張り替えとか、釘や楔の打ち直しとか、留め具が緩んでる程度なら……村でもやってました」
「木材の癖は分かります?」
「癖?」
「反りやすいとか、割れやすいとか」
「ああ、それなら多少は。種類によりますけど、乾き方が悪い板をそのまま使うと後で反ったりしますし、節の近くへ無理に釘を打つと割れます。あと、濡れる場所なら木だけじゃなくて、どこに水が逃げるかも見ないと長持ちしないです」
そこまで答えたところで、シオンがわずかに顔を上げた。
「水路も触ってました?」
「村のですか? それなら結構」
「どの程度?」
「詰まりを取ったり、崩れた縁を石で組み直したりですね。雨のあとに土が流れ込む場所が決まってたので、そこへ溝を増やしたこともあります。あとは水漏れしたところに板を当てて、一晩だけ持たせたり」
「堰は?」
「小さいのなら。畑へ流す量を変える程度ですけど」
「地面の傾きは見られます?」
「正確な測量はできませんよ」
「正確じゃなくていいです」
「だったら、水を少し流して、溜まる場所を見ながら直すくらいなら。クルム村じゃ道具もそんなになかったので、紐を張ったり、水を張った桶を使ったりしてました」
「十分です」
シオンの返事は早かった。
「え、十分なんですか?」
「はい」
「なんか採用試験みたいになってません?」
「確認してただけです」
「何の確認を?」
「できることの」
それは採用試験とだいたい同じではないだろうか、ととおるは思ったものの、シオンはもう答えを出した顔をしている。
その視線が一度だけ、とおるの足元へ落ちた。
何度磨いても細かな染みまでは消えなくなった革靴には、乾いた泥が縫い目の奥に残っている。それから流れるようにとおるの手を見た。
このところは剣を握る時間が増えたせいで掌には新しい硬さが混じり始めているものの、指先や関節の脇にはクルム村で石を積んだり木材を運んだりしていた頃にできた古い痕がまだ残っていた。
シオンは、ほんの少しだけ目を細めた。
「……ちゃんと現場の人ですね」
短い一言だった。
感心したように声を弾ませたわけでもなく、大げさに褒められたわけでもない。ただ、目で見て話を聞いて、自分の興味のあることだけを確認した事実をそのまま口にしたような穏やかな声音だった。
それなのに、とおるは妙に嬉しかった。
「ありがとうございます」
「褒めてます」
「分かってますよ」
「ならいいです」
星の塔でもなければ特殊な右目でもない。剣術の才能でも、魔力の量でもなかった。
木の板を張り替えたことがあるとか水路へ詰まった泥を掻き出せるとか、畑へ水を引くために地面の傾きを眺め続けたことがあるとか――そういうごく普通の暮らしの中で身につけたことを評価された。
それが自分でも意外なくらい安心できることだったので、とおるは嬉しいという気持ちに気づいてから少しだけ戸惑った。
この世界へ来てからというもの、自分の周囲では何もかもが大きすぎた。騎士がいて、魔獣がいて、魔法があって、塔があり、封印があり、その合間には冗談では済まない命のやり取りまで転がっている。だからこそ、クルム村にいた頃なら誰も特別だとは思わなかった「板が傷んだら替える」「水が流れなければ詰まりを探す」という程度の経験を、誰かがごく自然に「使えるもの」として見てくれたことが、妙にすんなり胸の奥へ収まった。
「道中で何か壊れたら、頼むかもしれません」
シオンはそう言って、再び荷車へ向き直った。
「何かって、だいぶ範囲広くないです?」
「柵とか、水路とか、荷車とか。簡単なものです」
「そのくらいなら。できる範囲で」
「できない時も、できないって言ってください」
「あ、それロックさんにも言われました」
「大事なので」
「この班、そのへん徹底してるんですね」
「黙って無理して、余計に壊す人がいるので」
そこでシオンの視線が、ほんの一瞬だけ横へ動いた。
その先にいたのはリンだった。
「……なんで今こっち見たの?」
本人は見逃さなかった。
「別に」
「いや絶対なんか思ったでしょ」
「別に」
「二回言うと余計怪しいんだけど。ロック、シオンが冷たい」
「俺に言うな」
「班長でしょ?」
「そういう苦情を受け付ける役職じゃない」
「じゃあ誰に言えばいいの?」
「本人に言ってるだろ、今」
「聞いてくれないんだもん」
「聞いてます」
シオンが荷車の下を覗き込みながら答えた。
「聞いたうえで無視してるじゃん!」
「別に」
「三回目!」
とおるは思わず吹き出しそうになりながら、どうやらこの翠桐の青年にも案外きちんと感情というものがあるらしい、と安堵にも似た感情を抱いていた。
ただしそれを本人がわざわざ分かりやすく表へ出してくれるかどうかは、また別の話のようではあるが…。
そして最後に、少し後方へ立っていた銀灰色の髪の男性が歩み寄ってくる。
背丈はロックほどではないものの高く、装いも他の面々に比べて整っている。旅装の上から紫色の細い帯を掛け、そこには第五華〈紫苑〉の紋章があった。
物腰にはどこか学者めいた穏やかさがある。
「はじめまして。シルバー・アクアリアです。第五華〈紫苑〉所属で、今回の巡任では封印術式、それから各地方に残っている古式術式について、現地での確認と判断を担当します」
「壁山とおるです。よろしくお願いします」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
差し出された手を握ると、力加減まで妙にきちんとしていて、挨拶が終わる頃にはとおるの中でシルバーに対する第一印象がほとんど完成していた。
普通の人だ。
少なくとも、今のところは。
ここまで顔を合わせてきた面々がそれぞれ違う方向へしっかり個性を発揮していたせいもあって、声を荒らげるでもなく、妙な圧をかけてくるでもなく、ごく自然に名乗って握手までしてくれる相手が現れただけで、とおるは胸の奥に張っていたものが少し緩むのを感じた。
しかしその安心が長持ちしなかったことを、彼はすぐに思い知ることになる。
「壁山さんは、東霞へ行くのは今回が初めてですか?」
「はい。というか、地方そのものについてほとんど何も知らないんですよ。王都からまともに出たこともないので」
「でしたら、道中で分からないことがあれば遠慮なく聞いてください。土地ごとの法規や生活習慣は、王都で暮らしていると意外に知る機会がありませんし、東霞は特に地域独自の取り決めが多い土地ですから」
「それは助かります。こういう巡任って、現地の制度とか慣習を知らずに動くと、やっぱりまずいですよね」
「そうですね。知っているだけで避けられる問題は、かなりあります」
シルバーは穏やかに頷くと、少し考えるように視線を上げた。
「では、せっかくですし、出発前に簡単なところだけ説明しておきましょうか」
「お願いします」
「分かりました。アルセリア王国の現在の地方行政制度を理解する場合、まず前提として王都総監院、州政府、地方支部、この三者がどのような歴史的経緯によって現在の権限を獲得したのか、その成立過程から確認しておく必要が――」
「あの」
「はい?」
「すみません。ほんとに簡単な感じでお願いします」
「もちろんです」
その返事があまりにも淀みなく返ってきたので、とおるは安心した。
三分後。
まだ州政府ができていなかった時代の話をしていた。
「――当時は地方領主が徴税権と治安維持権の大部分を保有していましたが、第三次中央改革によって、まず徴税機構だけが他の権限に先行する形で再編されることになります。ここで重要なのが、徴税権の移管と行政権の移管が同時ではなかったという点でして」
「なるほど……」
とおるは頷いた。
もちろん、理解できたからではない。
ここで頷くのをやめたら、この人は「どの部分が分かりにくかったでしょうか」と一度戻って丁寧に説明し直してくれそうな気がしたので、とりあえず話を前へ進めるために頷いているだけだった。
そして五分後。
「その後、王樹騎士団の地方支部と各地の旧領主家との間で、治安維持権をどちらが優先して行使するのかという問題が各地で頻発します。この期間が、後世の行政史では俗に『地方権限衝突期』と呼ばれているのですが――」
「はい……」
まだ続いている。
しかも困ったことに、シルバーの説明は決して下手ではなかった。むしろ話の筋は整理されており、言葉も聞き取りやすく、専門用語が出るたびに短い補足まで入れてくれる。ただし、その親切さが全部積み重なった結果、どう考えても「簡単な説明」という名札をつけていい長さではなくなっていた。
八分を過ぎたあたりで、とおるはさすがに不安になってきていた。
「シルバーさん」
「はい、どうしました?」
「一個だけ確認してもいいですか?」
「もちろんです」
「これ、初心者向けの説明ですよね?」
「はい。かなり簡略化しています」
とおるは黙った。
聞き間違いの可能性を考えたのである。
「……かなり?」
「かなりです」
「これで?」
「ええ」
「じゃあ、削る前はどれくらいあるんですか」
シルバーは、明日の天気を尋ねられた程度の気軽さで答えた。
「制度成立以前の背景から順を追って説明するなら、二時間ほどでしょうか」
「聞かなくてよかった」
ほとんど反射だった。
隣で黙って聞いていたココがついに耐えきれなくなったらしく、ぶふっと吹き出した。
「だから言ったでしょ?」
「何をですか」
「シルバーに『簡単に説明して』は危ないよって」
「初耳なんですけど」
「うん。今教えた」
「八分遅いですよ」
「でも自分で経験したほうが、たぶん忘れないかなって」
「新人教育の方針が野生動物みたいに雑じゃないですか?」
「でも覚えたでしょ?」
「何をですか。州政府が成立するまでの歴史ですか、それともシルバーさんに『簡単に』って頼んじゃいけないことですか」
「後者かな」
「ですよね。俺もそっちだと思いました」
当のシルバーはからかわれても少しも気を悪くした様子を見せず、むしろ自分の説明が長かったことを真面目に反省したらしい。申し訳なさそうに眉尻を下げると、姿勢をわずかに正した。
「失礼しました。では、本当に必要な部分だけに絞って、改めて整理します」
「お願いします。今度こそ、本当に必要なところだけで」
「承知しました」
「その顔を見ると、また十五分くらい始まりそうで怖いんですけど」
「では、一文にします」
「一文?」
予想していなかった方向から解決策が飛んできたので、とおるは思わず聞き返す。
シルバーは一度頷き、今度こそ簡潔に言った。
「東霞では、王都で一般的とされている規則より地域固有の慣習が優先される場面がありますので、判断に迷った場合は自己判断で進めず、私かリンに確認してください」
「すごい。できるじゃないですか」
「ただ、これでは説明不足です」
「今くらいでいいんです」
「背景を知っておいたほうが、現地で判断しやすくはなるのですが」
「その背景が二時間あるんですよね?」
「全部なら」
「じゃあ今ので大丈夫です」
シルバーはほんの少しだけ残念そうだった。
どうやら彼にとって説明とは、相手の疑問を解消する行為というより体系を最初から最後まできれいに並べて渡す行為らしい。
本当はもう三文くらい足したかったのだろう、とおるにはなんとなく分かった。
「ただ、それとは別に、もう一点だけ覚えておいてください」
「はい」
「今回の移動経路には、古い境門や封印標が残っている可能性があります」
先ほどまで半分ほど歴史の授業を受ける顔になっていたとおるも、その言葉には自然と表情を引き締めた。
「封印標?」
「古式術式を用いて、土地そのものや地下構造、場合によっては魔力脈の一部を封じるために設置された標です。大半はすでに機能を失っているはずですが、もし見つけても、許可なく触ったり動かしたりはしないでください」
「そこは大丈夫です」
今度は即答だった。
「最近、よく分からないものを『まあ大丈夫だろ』って触った結果、ろくでもない目に遭うことが多すぎるので。分からないものには触らない、近寄りすぎない、できれば詳しい人を先に呼ぶ。このへんはだいぶ学びました」
シルバーの顔に、ほんのわずかではあるが感心したような色が浮かんだ。
「良い学習です」
「なんだろう。褒められたはずなのに、全然うれしくないな……」
「分からないものを、分からないまま扱うというのは大切なことですよ」
「分からないままでいいんですか?」
「少なくとも、勝手な理屈で分かったことにしてしまうよりはずっと安全です。専門家でもない人が『古いし、もう大丈夫だろう』と判断して封印を解いてしまうと、そのあと専門家が数日かけて元に戻すことになりますから」
「ああ……黒蓮の人にも聞かせたい言葉ですね」
とおるとしては、本当に何気なく口にしただけだった。
ところがシルバーはすぐには返事をせず、一拍ほど間を置いてから穏やかな顔のまま静かに言った。
「私は、何度も言っています」
「……ああ」
「何度もです」
さっきまで地方行政について八分間淀みなく話していた人とは思えないほど、その一言には重みがあった。
「苦労してるんですね」
「ええ」
それ以上詳しい話を聞いたわけではないのに、その短いやり取りだけで、とおるには〈紫苑〉と〈黒蓮〉が普段どういう関係にあるのか、おおよその光景が目に浮かんだ。おそらく片方が何かを見つけて嬉々として触り、もう片方が頭を抱えながら後始末をする。しかも、それが一度や二度ではないのだろう。
そうして一通りの自己紹介と説明が終わったところで——とおるはようやく、さっきからずっと胸の隅へ小さな棘のように引っかかっていた違和感へ意識を戻した。
目の前にいる顔を、今度は改めて一人ずつ数えてみる。
ココ。
リン。
ロック。
モモカ。
シオン。
シルバー。
そして、自分。
「……あの」
「ん?」
ココがこちらを向き、小さく首を傾げた。
「今さらこんなことを聞くのも何ですが、出発前に聞いてた話だと、今回の班って五人だった気がするんですけど」
「ああ」
「今、七人いますよね」
「いるね」
「増えてますよね?」
「増えたね」
「そんな昨日ちょっとパンが増えました、みたいな軽さで言います?」
「だって二人増えただけだし」
「五人から七人って四割増しですよ」
「あ、数字で言われると結構増えてるね」
「今そこで気づいたんですか?」
ココは少し考える顔をすると、本当に確認していなかったらしく、自分の指を一本ずつ折り始めた。
「元々は、私、とおるくん、リン、モモカ、シオン。この五人でしょ」
「はい。そこまでは俺も聞いてます」
「それで一昨日、〈紫苑〉からシルバーが追加になった」
「一昨日?」
「うん。東霞の巡任予定を最後に確認してたら、地方祭礼に関係する案件と、古式封印に関係する案件が一件ずつ入ってるのが分かってね。だったら術式関係をちゃんと見られる人を一人連れていったほうがいいだろう、って話になったの」
隣でシルバーも穏やかに頷いた。
「現時点ではどちらも危険案件として扱われているわけではありません。私はあくまで、現地で問題がないか確認するための担当です」
とおるは少しだけ黙って、その言い回しを頭の中でもう一度転がした。
「……その『現時点では危険案件じゃありません』って、後になって危険案件になる時によく聞く言い方じゃないですか?」
「その可能性は否定できません」
「そこは否定してほしかったです」
「根拠もないのに安全だと保証するほうが、私は危険だと思います」
「いや、それはそうなんですけど……」
正論だった。
しかも反論しづらい種類の正論である。
とおるは小さく息を吐きながら、妙なことに気づいた。
どうもこの班は、見た目なり肩書きなりが怖そうな人ほど、言っていること自体はやたら真っ当な気がする——と。
「じゃあ」
ひとまず話がまとまったところで、とおるはまだ触れていなかった最後の一人へ顔を向けた。視線の先では、いかにも「その話題はできれば後回しにしてほしい」と言いたげな男が、腕を組んだまま黙って立っている。
「ロックさんは、どういう理由でこの班に?」
その瞬間だった。
ココが、すっとリンを見る。
シオンもほとんど同じタイミングでリンへ視線を送った。
モモカだけは本から顔を上げなかったものの、口の中の飴を右頬から左頬へころりと移し、シルバーに至っては一言も発さずにただ静かに成り行きを見守っている。
そして肝心のリン本人はといえば、周囲の視線に気づいていないはずがないのに、実に滑らかな動作で顔を横へ向けた。
あまりにも自然だったので、一瞬だけ「最初からそちらを見ていました」と押し通せそうなくらいだった。
ロックの額に、小さな青筋が浮かぶ。
「……山岳救難経験者を、複数配置するためだ」
「それが理由ですか?」
「そうだ」
「公式には?」
「そうだ」
「じゃあ、公式じゃない理由は?」
「聞くな」
「今ので、だいたい分かりました」
「分かったなら、それ以上掘るな」
「はい」
とおるは素直に引き下がった。
こういうとき、好奇心より身の安全を優先できる程度にはこの世界での生活にも慣れてきている。
ところが話題の中心にいるらしいリンだけは、どうにも納得していない様子で周囲を見回した。
「なに、その空気」
自分を囲む六人分の沈黙を順番に確認したあと、心底不思議そうに首を傾げる。
「私、そんなに監視つけられるようなことした?」
六人が黙った。
誰一人として、即座に否定しなかった。
継送所の軒下へ、朝の鳥の声さえ遠慮して聞こえるほど綺麗な沈黙が落ちる。
「……え、なに?」
最初は笑っていたリンも、さすがに不安になったらしく眉尻を下げた。
「なんで誰も『してないよ』って言ってくれないの?」
そこでロックが、地面の底から引きずり出したような低い声を発した。
「先月」
「うん」
「任務中、お前は何時間いなくなった」
「二時間くらい?」
「四時間だ」
即答だった。
リンが目を丸くする。
「あれ、四時間だった?」
「四時間だ!」
「でも、ちゃんと戻ったじゃん」
「戻れば問題ないって話じゃねえ!」
「怪我もしてなかったよ?」
「そこじゃない! どこにいた!」
「祭り」
「なんで任務中に祭りへ行くんだ!」
ロックの声が軒下に響き、近くにいた厩務員が一瞬だけこちらを見た。
リンは慌てた様子もなく両手を振る。
「違う違う、遊びに行ったわけじゃないって」
「じゃあ何をしてた」
「人が足りなさそうだったから、手伝ってた」
「余計に悪い!」
「なんで!?」
「自分の判断で勝手に任務を増やすな!」
「でも最初は荷運びだけだったよ」
「四時間も荷運びしてたのか?」
「途中で踊りにも誘われて」
「祭りを満喫してんじゃねえか!」
リンはひどく心外そうな顔をした。
「満喫っていうか、断るのも悪いかなって。せっかく衣装まで貸してくれたし」
「衣装まで着たのか!?」
「似合ってたよ」
「聞いてない!」
ロックは額を押さえた。
しかしリンは、自分なりには理屈が通っているらしく、なおも説明を続ける。
「でもさ、そのおかげで村の道、かなり覚えたんだよ。広場から東の畑へ抜ける細道とか、火事になったときに使えそうな裏道とか。それに古い井戸も見つけたし、村の人から崖側の地盤が弱いって話も聞けた」
「結果が役に立ったからって、途中経過まで全部許されると思うな!」
「でも結果はよかったじゃん」
「だから先に報告しろと言ってる!」
「報告しようと思ったときには、もう祭り終わってたから」
「最初にしろ!」
「ロック、細かいなあ」
「俺が細かいんじゃない! お前が大雑把すぎるんだ!」
完全にいつものやり取りなのだろう。
ココは止めるでもなく楽しそうに眺め、シオンは「また始まった」という顔をしている。
とおるはその様子を見ながら、リンの行動原理がほんの少しだけアスカに似ているような気がした。もちろん性格そのものはだいぶ違うのだが、「結果的に必要だったからやった」という理屈で途中の説明を吹き飛ばすところには、なんとなく覚えがある。
もっとも、ここでその名前を出せば話が一方向では済まなくなる気がしたため、とおるは賢明にも黙っておいた。
「というわけで、七人ね」
ロックとリンの言い争いが一段落したところで、ココが手を叩くように話を戻した。
「予定より二人増えたけど、そのぶん賑やかでいいでしょ?」
「初対面が二人増えた側からすると、対人負荷が四割増しです」
「ちゃんと計算したんだ」
「こういうことだけは妙に早いんです」
「まあまあ。五日一緒にいれば、そのうち嫌でも慣れるって」
「……五日間、ずっと一緒なんですよね」
「うん」
「宿も?」
「基本一緒」
「食事も?」
「一緒」
「移動も?」
「もちろん一緒」
とおるは返事をせず、継送所の向こうに広がる青空をぼんやり眺めた。
「人見知りには、なかなか厳しい長旅だな……」
「とおるくん、全部声に出てるよ」
「もういいです。隠すのも疲れてきました」
ちょうどその頃、車輪の交換を終えた軽量公用車が整備区画の奥から運ばれてきた。
二頭の風脚鳥に牽かせる形式の車体で、荷台には食料箱や雨具、医療箱、野営用の装備、交換用の鞍、地方支部へ届ける書類が隙間なく収められ、とおるの無名剣についても移動中に暴れないよう固定する専用保管具が用意されている。
車が止まるなり、班の面々は誰に指示されるでもなく動き始めた。
シオンは交換された左後輪の取り付け具合をしゃがみ込んで確認し、ロックは任務札と荷物目録を見比べながら積載物を一つずつ照合している。シルバーは封印付きの書類箱に刻まれた番号を几帳面に記録し、モモカはそのすべてにほとんど関心を示さないまま、いつの間にか車内のいちばん揺れにくそうな隅へ陣取って本を開いていた。
ココは厩務員と世間話でもしているように見えたが、数分後には東方街道の天候、昨夜入った商隊から聞いた路面状況、ついでに近隣で崩れかけている柵の位置まで把握していた。
リンだけはというと、風脚鳥の群れの中へ平然と入り込み、一羽ずつ首筋を撫でながら何か話しかけている。
その光景をしばらく眺めたあと、とおるの胸に嫌な予感が芽生えた。
「……移動って、公用車だけじゃないんですよね?」
「もちろんだ」
ロックが顔も上げずに即答した。
「街道での騎乗も巡任訓練に含まれている。騎獣の経験は?」
「ほぼないです」
「なら、今日から覚えろ」
「でも車、空いてますよね?」
「空いてるな」
「モモカさん、もう乗ってますけど」
「モモカは乗れる」
すると車内から、モモカが本から目を離さないまま淡々と言った。
「乗ると本読めないから、車がいい」
「理由が自由すぎません?」
「乗れる人間が車を選ぶのと、乗れない人間が車へ逃げ込むのは別だ」
ロックの言葉は、ひどく正しかった。
正論というものは、逃げ道を塞ぐ場面になるとどうしてこんなに頑丈になるのだろう。
「はい、とおる。この子ね」
逃走経路を探している間に、リンが一羽の風脚鳥を連れてきた。
黄褐色の羽毛に包まれた大きな身体で、首周りには少し濃い色の長い羽が生え、二本の脚は見た目以上に太い。遠目では大きめの鳥くらいに思っていたが、真正面へ立たれると印象がまるで違った。
頭の位置など、とおるの目線より完全に上である。
黒く丸い瞳が、こちらをじっと見下ろしていた。
「……高くないですか?」
「普通だよ」
リンはさも当然のように答える。
「いや、地面までの距離がもう怖いんですけど」
「乗れば地面はだいたい遠くなるだろ」
ロックが言った。
「ロックさん、たぶんそういう数学の話じゃないです」
「名前はムギ。女の子」
「名前はかわいい」
少し安心したとおるが近づくと、ムギは一歩だけ横へずれた。
とおるも止まる。
もう一歩寄る。
するとムギは、また同じだけ横へ移動した。
「……これ、嫌われてません?」
リンが吹き出す。
「違う違う。遊ばれてる」
「そっちのほうが精神的には悪いんですが」
「頭いい子だからね。とおるが怖がってるの、もう分かってるんだと思う」
「初対面で弱み握られてる……」
ムギが首を少し傾ける。
その目がどうにも、「ほら、乗れるなら乗ってみな」と挑発しているように見えた。
「騎獣にまで舐められるの嫌だな……」
「大丈夫だって」
リンは笑いながら鞍を軽く叩いた。
「ムギ、無茶する人のほうが嫌いだから。自信満々で雑に扱う人より、とおるみたいに怖がって慎重になる人のほうが相性いいよ」
「今の、褒められてます?」
「かなり褒めた」
「この班、褒め方が一回頭の中で変換しないと伝わらない人、多くないですか?」
ともあれ、乗らない限り出発できない。
とおるは覚悟を決め、教えられた通り左足を鐙へ掛けた。
一度ムギの様子を確かめ、それから鞍へ手を掛けて身体を持ち上げる。
「うわ、高……」
予想していたより、ずっと高かった。
身体が鞍へ収まった途端、地面が急に遠くなり、足を置ける場所がないというだけで本能的な不安が込み上げてくる。
思わず足元へ壁を出したくなった、その瞬間。
「壁出すなよ」
ロックが荷物を確認したまま言った。
「まだ出してません」
「顔が出しそうだった」
「そんなに分かりやすいんですか、俺」
「だいぶ」
「ちょっと嫌だな……」
「手綱、引きすぎないでね」
リンが横からムギの首具を示した。
「風脚鳥は口元を強く引かれるの嫌がるから、基本は脚と重心。慣れてる子なら、曲がりたい方向を見て身体を少し向けるだけでも分かるよ」
「そんなに賢いんですか?」
「人間より賢いときある」
「今の比較対象に俺、入ってませんよね?」
「まだ入れてない」
「その『まだ』が怖いんですよ」
やがて出立準備が整い、東門側へ続く大扉がゆっくりと開いていった。
建物の影に切り取られていた朝の光が区画へ差し込み、その向こうに、王都から東へ伸びる王樹大街道が姿を現す。
都市近郊だけあって道幅は広く、路面にはよく整えられた石が敷かれていた。その上を荷車、商隊、旅人、騎士たちが絶え間なく行き交い、さらに遠くへ目を向ければ、セイル平原の東端へ続く緑の帯と、その先に薄く霞んだ低い丘陵が見える。
ここから先、五日。
王都平原を抜け、丘陵農村を通り、低山地帯を越え、大河橋を渡る。
その先には東霞山地の西口が待ち、峠を越えれば、目的地である燈ヶ京だ。
普通の商隊なら数週間ほどを見込む距離だが、合同巡任第十九班は街道沿いの継駅を利用しながら五日で進む。
とはいえ、速さだけを求める旅ではない。
途中の継駅へ立ち寄り、現地職員と顔を合わせ、街道の状態や地方特有の仕事の流れを知ることも巡任の一部であり、王都から目的地まで無事に到着すればそれで終わり、という単純な移動任務ではなかった。
「全員、聞いて」
ココが声を上げた。
口調そのものはいつもの明るさを残していたが、ほんの少しだけ芯が入り、それだけで自然と全員の視線が集まる。
「今日は第一継駅を越えて、夕方までにリーヴァ丘陵の第二継駅へ入る予定。昼過ぎから東風が強くなるけど、雨はなし。途中に工事区間が一か所あって、州道との分岐では荷車が詰まる可能性が高いって話だから、そこで多少遅れるかもしれない」
一度全員を見回してから、ココは続ける。
「急ぐ必要はないから、無理に追い越さないこと。何か気になるものを見つけたら、まずロックか私に声をかけて。リンは勝手に消えない」
「そこだけ名指し?」
「前例があるから」
「一回くらいで大げさだなあ」
「記録上は七回」
リンが目を瞬いた。
「……そんなに?」
「銀桂を舐めないで。報告書、ちゃんと残ってるから」
ココがにこりと笑う。
その横でロックが、今初めて知ったらしい顔をしていた。
「七回もあったのか……?」
「細かく数えればね」
「なんで俺が把握してない案件まであるんだ」
「そのとき別班だったからじゃない?」
「それにしたって多すぎる!」
「まあまあ」
なぜか本人が宥める側へ回っている。
ココは軽く咳払いして話を戻した。
「モモカは自分の体調管理。シオンは道と構造物を見て。シルバーは封印物と古式標識。私は人と情報。ロックは全体の安全確認ね」
「とおるは?」
リンが尋ねる。
ココは少し考えるようにとおるを見て、それから笑った。
「とおるくんは、とりあえず落ちない」
「俺だけ役割の次元が違いません?」
「初日は大事だよ?」
「防衛とか領域補助とか、そういうのは?」
「ちゃんと乗れるようになってから」
「新人の肩身が狭い……」
ムギが、ぶふ、と小さく鼻を鳴らした。
「ほら、ムギもそう言ってる」
「今の音から何を読み取ったんですか」
「『まず乗れ』って」
「絶対もっと意地悪な言い方してますよ、この子」
やがて東門の門衛が出立許可を示す札を高く掲げた。
それを合図にロックが先頭へ出る。
リンはその少し横へ並び、ほとんど手綱へ頼ることなく風脚鳥を歩かせた。シオンは早くも街道の舗装へ視線を落としており、ココは最後まで厩務員と何か言葉を交わしてから、慣れた動きで鞍へ上がる。
シルバーは教本に載っていそうなほど安定した姿勢で後方へつき、モモカは予想どおり、公用車の中で既に本の続きを読み始めていた。
そして、とおるだけがムギの上で固まっている。
「行くぞ」
少し先へ出たロックが振り返った。
「はい」
とおるは教わった通り、脚でそっと合図を送った。
ムギは動かない。
「あれ」
もう一度やってみる。
やはり動かない。
横から見ていたリンが、堪えきれず笑った。
「声もかけてあげて」
「声?」
「うん。最初だし」
とおるはムギの後頭部を見つめる。
「えーと……行こう?」
数秒の間があった。
それからムギは、まるで「まあ、それなら」とでも言うように、ゆっくり歩き始めた。
「通じた……」
「優しく言えば動いてくれるよ」
「俺より職場環境いいな、この子」
列へ合流すると、ムギの足取りは少しずつ速くなった。
鞍が揺れる。
身体も揺れる。
そのたびに地面が遠く感じられ、とおるは反射的に首具へ強く手を掛けそうになったが、直前でリンの説明を思い出して力を抜いた。
するとムギは、それを確かめるように一度だけ首を振り、それ以上とおるをからかうこともなく、前を進む風脚鳥たちの列へ自然に馴染んでいった。
王都の東門が、少しずつ背後へ遠ざかっていく。
このところ見慣れ始めていた三重の城壁。
空へ届きそうなほど高くそびえる世界樹。
白華隊舎。
そこに残っているリディアやミレイユたち。
振り返るたびに、それらが少しずつ小さくなっていく。
その光景を眺めているうち、とおるはようやく、自分が本当に王都を離れるのだという実感を持った。
寂しい、と言うほどではない。
けれど、不安ならある。
知らない土地へ向かうことも、ほとんど知らない人間たちと五日間行動を共にしたあと、そのまま六週間働くことも、人付き合いが得意とは言い難い自分の性格を考えれば、それなりどころか十分すぎるほど重たい。
それでも改めて十九班の面々を眺めてみれば、ココはもう街道脇の門衛へ何か話しかけているし、リンは前方の風を楽しみながらロックに怒られている。シオンは馬上――正確には鳥上から舗装の継ぎ目を観察し、シルバーは誰に頼まれたわけでもないのに古い街道標識について説明を始め、モモカは揺れる車内ですら一切ぶれずに本を読んでいた。
七人。
最初に聞いていた人数より二人多く、そのぶん知らない相手も増えてしまった。
けれど、全員が同じ性格で、同じことを考え、同じ判断しかしない集団よりは、こうして見事なくらいばらばらな人間が集まっているほうが、案外仕事はしやすいのかもしれない。
「とおるくん」
いつの間にか横へ並んでいたココが声をかけてきた。
「はい」
「緊張してる?」
「かなりしてます」
「そっか。よかった」
「……何がです?」
「緊張してない新人より、ずっと扱いやすいから」
「また分かりにくい褒め方する」
「そのうち慣れて」
「六週間で?」
「五日で」
「要求が早いなあ」
ココが楽しそうに笑う。
その少し先では、リンがもう別のことを考えていた。
「ねえ、第一継駅って甘いものあるかな?」
「任務初日から食うことばかり考えるな」
ロックが即座に返す。
「移動も任務なら、補給だって任務のうちでしょ」
「自分に都合よく言い換えるな」
「とおるも食べるよね?」
「なんで俺に振るんですか」
「嫌い?」
「甘いものは嫌いじゃないですけど」
「じゃあ決まり」
「今ので何が決まったんですか」
「みんなで食べる」
「だから決まってないって」
「リン!」
朝の大街道へ、ロックの声がよく響いた。
リンは笑いながら風脚鳥を少しだけ前へ走らせ、それを追うようにロックの鳥も速度を上げる。
とおるはムギの上で揺られながら、その様子を眺めていた。
不思議なことに、さっきまで肩へ入っていた力が、ほんの少しだけ抜けている。
これから五日間。
人見知りにとっては、間違いなく楽ではない長旅になる。
少なくとも――静かすぎて困るような旅には、なりそうになかった。




