第80話 川の流れの向こうで
祭りというものは、始まる前にはせいぜい「人が集まって、屋台が並んで、いつもより少し賑やかな場所」くらいの輪郭しか持っていないのに、いざその中へ入り込んでしまうと、目に飛び込んでくる色も耳に残る音も、ふとした拍子に鼻をくすぐる匂いも思った以上に多くて、帰る頃にはたった一晩の出来事とは思えないほど細かな記憶がいくつも積み重なっている。
とおるも最初のうちは、「適当なところで抜けて宿舎へ戻ろう」と本気で考えていた。ところが気づけば焼き白珠団子を一本きれいに食べ終え、リンから「ほら、飲んでみて」と半ば強引に押しつけられた冷たい果実水も半分ほど飲んでいる。そのすぐ横では、千景が輪投げの屋台を見つけるなり「この距離なら絶対入る。こういうの得意なんだよ、俺」と妙な自信を見せた挙げ句、五本投げて一度も輪を通せず、最後の一本が景品台の手前で虚しく転がったところで、店主からまで「兄ちゃん、口ほどじゃないねえ」と笑われていた。
「いや、今のは輪が軽すぎるんだって」
「五回とも?」
「風向きも悪い」
「無風ですけど」
「とおる、お前はどっちの味方?」
「事実の味方です」
「一番嫌なやつだな」
千景が不満そうに笑っている一方で、少し離れた場所ではシオンが屋台そのものをじっと見つめていた。
「……シオンさん?」
「はい」
「さっきから景品じゃなくて柱見てません?」
輪投げ屋の前でとおるが半ば呆れながら声をかけると、シオンは景品台ではなく屋台の右端へ視線を向けたまま、小さく頷いた。
「右側の支柱だけ、少し沈んでます」
「祭りに来てまで、そういうの見つけなくていいんですよ」
「でも、人がもう少しこっちへ寄ったら傾くかもしれません。今は大丈夫でも、夜になればもっと混みますし」
「見つけた以上、放っておけない顔してますね」
「はい」
「即答だなあ……」
シオンは迷う様子もなく店主へ声をかけ、事情を聞いた店主も「え、本当かい?」と顔色を変えて屋台の下を覗き込んだ。どうやら地面そのものがわずかに緩んでいたらしく、そこから話は早かった。
「この板、一回外します。下にもう一枚噛ませたほうがいいです」
「悪いねえ。裏に予備の敷板があるはずなんだ」
「持ってきます」
「俺もやる流れです?」
とおるが訊いた時には、もう遅かった。
つい数分前まで子どもたちが輪投げに夢中になっていた屋台の端で、なぜか即席の補修作業が始まっていた。とおるは支柱を押さえながらシオンは敷板の高さを調整し、店主は工具を片手に地面へしゃがみ込んでいる。
「……俺たち、遊びに来たんですよね?」
「終わったら遊べますよ」
「祭りで『終わったら遊べる』って言う人、初めて見ました」
「でも倒れてからだと遅いです」
「それはそうなんですけどね」
あまりにも正しいので、それ以上は何も言えなかった。
一方、モモカはといえば、目当てだった限定薬草飴を無事に三袋確保した時点で満足し、その後は静かに祭りを回るのかと思われた。
ところが飴を売っていた老人が何気なく「今年は湿気が強くてねえ。乾燥が難しかったんだよ」と漏らした、その一言がまずかった。
「湿気が多い時期なら、炭灰を薄い布袋に包んで一緒に入れるといいですよ」
「やっぱりそうかい。昔はそうしてたんだけどねえ」
「ただ、香りの強い葉には向かないです。炭の匂いを拾いやすいので」
「ああ、それだよ。それで去年の月香草が少し炭臭くなっちまって」
「月香草なら乾燥石のほうがいいかも。粒の細かいものを下段に置いて、葉は直接触れないようにして」
「へえ……お嬢ちゃん、ずいぶん詳しいねえ」
「仕事なので」
少し離れた場所でそのやり取りを聞いていたとおるは、思わず隣を見た。
ちょうど屋台の補修を終えたシオンも、こちらを見ていた。
「……今、『仕事なので』って聞こえました?」
「聞こえました」
「感染してません?」
「何がです?」
「祭りに仕事を持ち込む病気が」
シオンは本気で意味が分からないという顔をした。
「仕事は持ち込んでないですよ」
「じゃあ今の補修は何だったんです?」
「危険だったので」
「ほら、その無自覚さが一番怖いんですよ」
本人たちには、どうやらまったく自覚がない。
その頃にはリンもリンで、二人を待つでもなく別の屋台へ吸い寄せられ、千景はさっき輪投げで思ったほど成果が出なかったらしく、「次は絶対取る」と妙な闘志を燃やしながら別の遊戯屋を探している。気づけばとおるだけが、片手に団子、もう片方に果実水を持ったまま、人混みの真ん中で全員を見失わないよう首を巡らせていた。
「……誰が一番、祭り楽しんでるんだろ」
遊びに来たはずなのに、補修を始める者がいて、薬草保存の講義を始める者がいて、勝手に屋台を回る者がいて、遊戯に本気になる者もいる。
誰が祭りを楽しむために来ていて、誰が仕事や用事を増やしに来ているのか、とおるにはもうよく分からなかった。
ただ、最初は隙を見て宿舎へ戻るつもりだった自分までこの騒がしさの真ん中で団子を食べながら普通に笑っているのだから、今夜くらいはそんな区別をつける必要もないのかもしれない。
「はい、とおる」
人波の向こうへ消えていたリンが、いつの間にか戻ってきていた。
そして当然のような顔で、紙に包まれた何かを差し出してくる。
「……今度は何です?」
「焼き餅」
「さっき団子食べましたよ」
「これは餅」
「炭水化物としては、かなり近い親戚ですよね」
「味が違うから大丈夫」
「何に対して大丈夫なんですか」
「お祭りに対して」
「祭りって、食べ物を無限に収納しても許される制度なんです?」
「だいたいそう」
リンは何の迷いもなく自分の分へかじりついた。
白珠穀を搗いて丸く整えた餅には薄い焦げ目がついていて、割れた隙間から甘く煮た黒豆餡が少しだけ覗いている。湯気に混じって香ばしい匂いと柔らかな甘さが漂ってきて、とおるは数秒だけ「もう食べない」という意思を保とうとしたものの、結局その紙包みへ手を伸ばした。
「食べるんじゃん」
「渡されたものを捨てるわけにもいかないので」
「うんうん、そういうことにしとこ」
「その顔やめてください」
リンは楽しそうに笑うと、もう次の屋台を探すように人混みの先へ視線を向けた。
夕刻を過ぎた社前町は、昼間に見た燈ヶ京とはまるで別の町になっていた。
天風大社へ続く大参道を中心に、いくつもの細い路地へ灯りが広がり、軒下には縦長の紙灯籠が途切れず連なっている。石畳の上には人の影が何重にも重なり、祭礼衣装を着た子どもたちが風車を手に駆け回れば、そのすぐ脇では楽師たちが笛と小鼓を鳴らし、少し離れた舞台では顔の半分を木製の面で覆った踊り手たちが、長い袖を風に遊ばせながらゆっくりと扇を開いていた。
昼間の燈ヶ京が、水と木と石で形作られた静かな町だとすれば、今夜だけはそこへ光と音と人の熱が幾重にも重なり、町全体そのものが大きな祭壇へ姿を変えたようにも見える。
この夜に行われているのは、燈ヶ京で〈送り風祭〉と呼ばれる夏の祭礼だった。
由来はかなり古く、現在の燈ヶ京がまだ一つの都市としてまとまる以前、鏡河沿いに小さな集落が点在していた時代まで遡るという。
東霞は、昔から山と水に恵まれた土地だった。
けれど、恵みがいつも穏やかな顔を見せていたわけではない。雨期になれば鏡河はたびたび増水し、山の斜面が崩れ、田畑だけでなく橋や家まで流されることもあった。人々の暮らしを支えてくれる川がほんの少し機嫌を変えただけで、その暮らしそのものを奪っていく。
さらにこの地方では地下を通る魔力脈と水系の結びつきが強いため、大水のあとには目に見えないほど弱い魔力の乱れが土地へ残ることも珍しくなかったらしい。
昔の人々は、それを〈居残った風〉と呼んだ。
最初は、災害のあと土地へ残った魔力の淀みを示す言葉だったのだろう。
けれどいつの頃からか、その意味は少しずつ広がっていった。
災いの名残。
言えなかった言葉。
失った人や物への未練。
一年のあいだ、胸の奥へ置いたままになっていたもの。
姿のないそうした感情まで、いつしか人々は同じように〈居残った風〉と呼ぶようになり、季節の終わりにそれを川へ預けて流す習慣が生まれたという。
初めの頃は小さな木片の上へ草花を乗せ、そのまま水へ流すだけの素朴な儀式だった。
やがて町が大きくなり、天風大社を中心とした依代信仰が整えられていく中で、木片は薄い紙と軽木を組み合わせた〈流し灯〉へ変わっていった。
灯りといっても、中へ入っているのは火ではない。
風と水の属性を弱く重ねた小さな発光石で、川へ浮かべると水面からわずかに魔力を受け取りながら、数時間ほど淡い光を保ち続ける。
そこへ願い事を書く者もいる。
亡くした家族の名を記す者もいれば、叶わなかった望みや、最後まで口に出せなかった言葉を書く者もいる。
何も記さず、ただ一年を無事に過ごせたことへの感謝だけを込めて流す人もいる。
けれど、この土地ではそれらを細かく分けて考えないらしい。
願いも、別れも、感謝も、後悔も。
胸の内へ長く留めておけば、いつか淀むものを、いったん流れへ預ける。
水が運び、風が遠くまで連れていく。
それが〈送り風〉という名前に込められた意味らしかった。
「昔は、灯りすらなかったらしいぞ」
大参道から鏡河へ抜ける道を歩きながら、千景が前方に並ぶ流し灯の売り場を顎で示した。
「木の葉とか花とか、小さい船みたいなのを流してたんだって。今みたいな形になったのは……百何十年か前だったかな」
「百六十三年前です」
すぐ後ろから、シオンの声が飛んだ。
千景が振り返る。
「なんでそんな数字すぐ出てくるんだよ」
「さっき案内板に書いてありました」
「見てたの?」
「はい」
「祭りに来て説明板を最初から最後まで読む人、初めて見たかもしれない」
「読みません?」
「読むけど、百六十三までは覚えないなあ」
「そうですか」
シオンは本気で不思議そうに首を傾げ、それから何か思い出したように付け足した。
「ちなみに、現在の祭礼形式がほぼ完成したのは百四十七年前です」
「情報が増えた」
とおるが思わず笑う。
千景も肩をすくめた。
「ほらな。俺が適当に説明しても、横から正しい数字が飛んでくるから楽なんだよ」
「それ、案内役としていいんです?」
「雰囲気は俺、正確さはシオン」
「役割分担がだいぶ雑ですね」
「でも合ってるだろ?」
「否定しづらいのが嫌だなあ……」
そんなやり取りを続けながら歩くうち、一行はやがて鏡河のほとりへ出た。
そこには、昼間とは比べものにならないほど多くの人が集まっていた。
両岸には低い柵が設けられ、その内側では白い上衣をまとった社守たちが、人々から受け取った流し灯を一つずつ両手で確かめてから丁寧に水面へ送り出している。橋の上には地元の警備兵が一定の間隔で立ち止まり、混雑しすぎないよう人の流れを見ながら「橋の中央では止まらないようお願いします」と柔らかく声を掛けていた。
そして——その先。
鏡河の水面には、数え切れないほどの灯りが浮かんでいた。
最初は、一つひとつ別々の光として目に入る。
ひとつ。
ふたつ。
十。
百。
けれど下流へ視線を移していくにつれてその境目は少しずつ曖昧になり、やがて無数の小さな灯りが一つの大きな流れとなって川そのものが光を運んでいるように見えてくる。
淡い青。
薄い金色。
乳白色。
ほんのり桃色を帯びたもの。
発光石へ込めた魔力の性質や、外側へ使われている紙の種類によって色合いは少しずつ異なり、そのすべてが鏡河の穏やかな流れへ身を預け、揺れながら同じ方向へ進んでいく。
岸辺に並ぶ灯籠の明かりが水面へ映り込み、その上を流し灯が横切るたびに現実の光と水鏡の光がいったん混ざってはほどけ、また別の形へ結び直される。
とおるは、しばらく何も言えなかった。
まるで夜空から落ちてきた星を川がそのまま抱き込んで、どこか遠い場所へ運んでいるように見えたからだ。
山から吹き下ろしてきた夜風が、川面を撫でるようにゆっくり通り過ぎている。
流し灯へ結ばれた薄紙の飾りがそのたびにさらさらと小さな音を立て、遠くでは祭囃子の笛が細く長く伸びていた。すぐ近くでは灯を流し終えた子どもが母親の袖を何度も引っ張りながら「ちゃんと流れたよ、見て、あそこ」と嬉しそうに指を差していて、少し離れた岸辺には年老いた夫婦が肩を並べ、言葉も交わさないまま同じ一つの灯を見送っている。
祭りの賑わいは、もちろんここまで届いている。
屋台の呼び声も聞こえる。
人々の笑い声も絶えない。
それなのに川辺へ立つと、その騒がしさとの間へ薄い膜でも一枚挟まったように、誰にも邪魔されない静けさがあった。
「……きれいですね」
気づけば、とおるはそう口にしていた。
隣へ来たリンが、少しだけ得意そうに笑う。
「でしょ?」
「夜月さん、小さい頃から毎年来てたんです?」
「だいたいね。夜月郷でも小さい送り風はやるけど、燈ヶ京の流し灯はやっぱり別格かな」
「子どもの頃も、ちゃんと見てたんです?」
リンは一瞬だけ考えた。
「……灯より屋台のほうが大事だった」
「でしょうね」
「何その納得」
「今までの行動を見れば自然な結論ですよ」
「今はちゃんと半々くらいだよ」
「祭りの伝統と焼き団子が同率なんですね」
「団子は大事でしょ」
「そこまで堂々と言われると、否定する気もなくなりますね……」
少し離れたところでは、モモカが流し灯の売り場の隣に出ていた薬草茶屋へ迷いなく吸い込まれていき、シオンは橋脚へ追加された祭礼用の補助照明を見上げながら、何やら固定方法を確認している。
千景もまた、顔見知りらしい支部騎士に呼び止められ、笑いながらその場で話し込んでいた。
気づけば、川辺に残ったのはとおるとリンだけになっていた。
とおるは柵へ軽く両手を置き、目の前を流れていく灯を追う。
近づいてきた明かりがゆっくりと目の前を通り過ぎ、そのまま少しずつ遠ざかっていく。
どれほど綺麗でも、水はそこに留まらない。
ほんの少し目を離しただけで、さっきまで手を伸ばせば届きそうだった灯が、もうずっと下流の暗がりへ溶けかけている。
その光景を眺めているうちに、胸の奥へふいに妙な感覚が浮かんだ。
知っている。
この感じを。
どこかで。
川がある。
夏の夜。
静かな水の音。
隣には、誰かがいる。
風が吹いて、黒い髪が揺れる。
手の中には、よく冷えた瓶。
指先へ伝わる冷たさ。
瓶の中で、小さな透明の玉がころりと鳴る。
――どこだ。
とおるは、わずかに眉を寄せた。
頭の奥へ何かが引っかかっている。
輪郭だけなら、確かにそこにある。
けれど掴もうとして意識を向けた途端、その形は水面へ映った光のように揺らぎ、指を伸ばすより先に崩れていく。
あと少し。
もうほんの少しで思い出せそうなのに。
そう思うほど、記憶は遠ざかっていった。
「ねえ、とおる君」
「はい?」
不意に呼ばれて、意識が川辺へ戻った。
リンはまだ水面を眺めたまま、まるで今夜の屋台について尋ねるようなごく軽い調子で言った。
「好きな子とかいないの?」
「……はい?」
何を訊かれたのか理解するまでに少し時間がかかった。
そしてその言葉の意味を理解した瞬間にとおるの身体が見て分かるほどに固まった。
「い、いないですよ、そんなの」
自分でも分かる。
返事が早すぎた。
声も少し高いし、なんなら最後の「そんなの」に至っては、訊かれてもいない追加情報まで勝手に提出してしまった人間特有の焦りが滲んでいた。これでは否定しているというより、「この話題について何かあります」と自分から赤い札を掲げたようなものである。
リンがゆっくりとこちらへ顔を向ける。
「へえ」
「何ですか」
「別に?」
「その顔で『別に』は無理がありますよ」
「いやあ、分かりやすいなと思って」
「何がです?」
「今、ものすごく慌てた」
「急にそんなこと聞かれたら、普通は驚きますよ!」
「そうかな?」
「そうです」
リンは少し考える素振りを見せたあと、何でもないことのように続けた。
「じゃあ、ミレイユちゃんとかは?」
「なんでそこでミレイユが出てくるんですか!」
思った以上に大きな声が出た。
近くで灯を流していた親子が、一瞬だけこちらを振り返る。
とおるは反射的に小さく会釈し、そのまま声を落とした。
「……というか、やめてくださいよ、そういうの」
「えー。だってあの子、すっごい可愛いじゃん」
リンが軽く肘で脇腹をつついてくる。
「可愛いとか、そういう話じゃなくてですね」
「可愛くない?」
「いや、だからそういう意味じゃなくて」
「じゃあ可愛い?」
「質問の罠が雑すぎません?」
「はいかいいえで答えて」
「答えません」
「答えないってことは、可愛いと思ってるんだ」
「なんでそうなるんですか!」
「違うの?」
「……いや」
「ほら」
「ちょっと待ってください」
「可愛いんだ?」
「一般的に見て整ってるのは否定しませんけど、それと俺がどうこうって話はまったく別ですからね?」
「ふーん」
「その『ふーん』やめてもらえません?」
リンは口元へ手を当てながら、いかにも楽しそうに笑っている。
「だって、仲いいって聞いたよ」
「誰からです」
「ココ」
「あの人か……」
「あと、ウチの隊でもちょっと聞いた」
「なんで他の隊にまで情報が流れてるんです?」
「白華の美人騎士と、謎の壁男がよく一緒にいるって」
「謎の壁男って俺ですよね」
「他にいる?」
「いたら怖いです」
リンは肩を揺らして笑った。
「でもさ、よく一緒に訓練してるんでしょ?」
「しますよ。ミレイユは白華で、俺の訓練も見てくれてましたから」
「二人で?」
「他の人がいる時もあります」
「二人の時もあるんだ」
「言葉尻だけ拾わないでください」
「じゃあ、ご飯は?」
「食堂でなら普通に食べますよ」
「二人で?」
「班とか隊のみんなでです!」
「一回も二人だけってことはないの?」
「……たぶん、ありますけど」
「あるじゃん」
「たまたまですよ!」
「へえー」
「もうこの話、終わりにしません?」
リンはとおるの顔を覗き込むように少し身体を傾けた。
「顔、赤いよ」
「灯籠の光です」
「今当たってるの、青い灯りだけど?」
「じゃあ暑いんです!」
「夜風、かなり涼しいよ?」
「逃げ道を一個ずつ潰すのやめてください!」
リンはとうとう堪えきれなくなったらしく、声を立てて笑い始めた。
とおるとしては、完全に遊ばれている。
しかも厄介なことに、リン本人には悪意らしい悪意がない。ただ反応が面白いからつついているだけなのでこちらも本気で怒るほどではないし、かといって放っておけば永遠に続きそうでもある。
「じゃあ、ミレイユちゃんじゃないならリディアさん?」
「どうして候補を増やすんですか!」
「白華で仲いいって聞いたら、その辺かなって」
「リディアさんは上司です!」
「でも美人じゃん」
「それは否定しませんけど!」
「あ、そこは即答するんだ」
「今のは誘導尋問でしょう!」
「じゃあココに聞いたら、もっと詳しく教えてくれるかな」
「本当にやめてください。明日から俺の職場環境が壊れます」
「もう結構馴染んでるんだし、大丈夫じゃない?」
「恋愛話を共有される形で馴染みたくないんですよ」
とおるが心底嫌そうな顔をすると、リンはまた笑った。
その横顔の向こうを、流し灯がいくつも流れていく。
先ほどまで掴みかけていた記憶の断片は、もうどこにもなかった。
黒い髪も、冷たい瓶も、夏の夜の川も。
全部、下流へ流れていった灯のように、少し目を離した隙に手の届かないところまで遠ざかっていた。
「…じゃあ、とおる君って今まで誰かを好きになったことないの?」
その問いに、とおるはすぐには答えなかった。
リンとしては先ほどから続いている恋愛話の延長で、特に深い意味もなく口にしたのだろう。口元にはまだ悪戯っぽい笑みが残っていて、とおるが少しでも妙な反応をすれば、またミレイユの名前を持ち出して遊ぶつもりなのが見て取れた。
ただ、とおるの視線だけはリンへ戻らず、そのまま鏡河へ向かった。
夜の水面には幾百もの流し灯が浮かび、淡い青白い光を揺らしながらゆっくりと下流へ運ばれていく。そのうちの一つが流れの中央で小さく回り、また向きを戻して遠ざかっていくのを眺めているうちに、とおるの意識へ今とは違う川の風景が静かに浮かんできた。
水崎葵。
家が近くて、物心がついた頃にはもう隣にいて、学校が終わればどちらから誘うでもなく一緒に遊んでいた少女。
真っ黒な髪。
夏になるとすぐ日に焼ける腕。
知らない道や細い路地を見つけると、とおるの都合などほとんど聞かずに先へ進んでしまう癖。
いつも少し前を歩き、こちらが追いつかないと振り返って、「とおる、遅い」と笑っていた顔。
川辺で拾った妙な形の石を、本人だけはものすごい宝物を見つけた顔で持ち帰ったことがある。駄菓子屋で一本ずつラムネを買い、どちらが先に瓶の中のビー玉を落とせるか競争したこともあった。草むらの奥へ勝手に道を作って進み、翌日そこが近所の人の畑へ繋がっていると知って、二人で青くなりながら引き返したことだってある。
思い返してみれば、どれも大した出来事ではない。
子ども同士が、毎日のように遊んでいただけだ。
ただ、その「だけ」が、今になって振り返るとひどく大きかった。
「……いましたよ」
ようやく、とおるがぽつりと答える。
リンの目が丸くなった。
「え」
「そんな驚きます?」
「いや……とおる君が普通に認めると思ってなくて」
「聞いといて何なんですか」
「だってさっきまでものすごい勢いで逃げてたじゃん」
「それとこれは別です」
とおるは少しだけ笑ってから、もう一度川へ視線を戻した。
「昔、近所に仲の良い子がいたんです」
「近所に?」
「はい」
「名前はなんていうの?」
「葵っていいます」
名前を声に出してみると、不思議なくらい自然にいろいろな顔が浮かんできた。
笑っている葵。
頬を膨らませて不機嫌そうにしている葵。
とおるの家の玄関前で、勝手に待っている葵。
知らない路地を見つけて、目を輝かせている葵。
「幼馴染ってやつです。家が近くて、小さい頃はほとんど毎日のように遊んでました」
「へええ」
リンの声から、さっきまであったからかいの色が少し薄れる。
「どんな子だったの?」
「……勝手な子でしたね」
「最初に出てくる感想がそれ?」
「だって本当に勝手だったんですよ。行きたい場所を見つけたら先に行くし、面白そうなものを見つけたら当然みたいに俺まで巻き込むし、こっちが危ないからやめようって言っても、『大丈夫だよ』の一言で終わるし」
そこまで言ってから、とおるは横目でリンを見た。
「……なんか、誰かに似てますね」
「え、誰?」
「自覚ないんですか」
「ないよ?」
「でしょうね」
リンは本気で分からないらしく首を傾げている。
とおるは小さく笑った。
「でも……まあ、楽しかったんだと思います」
「思います?」
「その頃っていちいち考えないじゃないですか。今日は楽しかったとか、この人といる時間が大事だとか。明日も普通に会えると思ってるから」
川面を流れていく灯りを、とおるはゆっくり目で追った。
「学校が終わったら遊んで、休みの日にも会って、喧嘩したら次の日にはなんとなく元に戻って。別に約束なんかしなくても、そういうのがずっと続くと思ってたんです」
リンは黙って聞いていた。
少ししてから、今度はさっきよりずっと静かな声で訊く。
「好きだったの?」
とおるは、すぐには答えなかった。
「……分かりません」
「分かんないんだ」
「子どもでしたからね。今みたいに、これは友情でこっちは恋愛で、みたいにいちいち名前をつけて考えてなかったですし」
少し言葉を探す。
「ただ……葵が俺以外のやつと遊んでると、ちょっと面白くなかった覚えはあります」
「おお」
「そこだけ急に食いつかないでください」
「いや、そこ結構大事じゃない?」
「大事じゃないです」
「嫉妬じゃなかった?」
「……知らないですよ」
「顔赤いよ」
「灯りです」
「さっきもそれ使ってなかった?」
「便利なので」
リンが吹き出す。
とおるも苦笑して、少しだけ肩の力が抜けた。
「まあ……好きだったんでしょうね。たぶん」
その言葉は、自分でも意外なくらい自然に出た。
「恋愛だったのかは今でもよく分かりません。でも、好きだったとは思います。友達としてだったのか、それより少し違う意味だったのか、当時の俺にはそこを分けて考える必要がなかっただけで」
「そっか」
「一緒にいるのが普通だったんですよ。だから、特別だって思う必要もなかった」
そこまで話したところで、胸の奥にほんの小さな痛みが走った。
葵は、もういない。
あの夏の続きを、自分は彼女と歩くことができなかった。
「……亡くなったんです」
リンの表情から笑みが消えた。
「川で」
それ以上の説明はいらなかった。
周囲ではまだ祭りの音が続いているはずなのに、その瞬間だけずいぶん遠くに聞こえた。
目の前にはいくつもの灯りが同じ川をゆっくり下っている。
「そうなんだ」
「はい」
「……ごめん。軽い気持ちで聞いた」
「いや、大丈夫ですよ」
それは慰めではなく、とおるの本心だった。
「もう、ずっと昔のことですから」
昔だから何とも思わない、という意味ではない。
時間が経てば全部きれいに消えてなくなるわけでもない。
ただ、以前よりは少しだけ言葉にしても崩れなくなった。
「葵のこと、今までほとんど人に話したことなかったんです」
「どうして?」
「単純に、話す相手がいなかったっていうのもありますけど」
「うん」
「……なんていうか言葉にしたら、違うものになりそうだったんですよ」
「違うもの?」
「自分の中に残ってるものが」
とおるは流れる光を見つめた。
「楽しかったことも嫌だったことも、最後のことも、全部ごちゃごちゃしたまま一つの記憶なんです。でも誰かに話そうとすると、分かりやすくまとめなきゃいけないじゃないですか」
「うん」
「『大切な幼馴染でした』とか、『初恋でした』とか。そう言えばたぶん話としては綺麗に収まるんでしょうけど……俺にとってはそれだけじゃないんですよ」
葵は、いつも優しかったわけではない。
勝手だった。
こっちが嫌だと言っても、強引に連れ出されたことが何度もある。
喧嘩だってした。
一緒にいるのが面倒だと思った日だって、きっとあった。
それでも、その全部を含めた日々が大切だった。
「好きだったから、全部いい思い出だったわけじゃないですし、死んだからって全部を綺麗な思い出にしたいわけでもないんです」
リンは何も言わず、とおるの言葉を待っている。
「腹が立ったこともあります。鬱陶しいと思ったこともあるし、もっと話しておけばよかったって今でも思う。あの日のことを考えれば、やっぱり嫌な気持ちにもなります」
そこで一度、静かに息を吐いた。
「でも、なかったことにはしたくないんです」
口にした瞬間、その言葉が思いのほか自然に胸へ収まった。
「葵がいて、一緒に遊んで、笑って、喧嘩して。そういう時間まで、最後が悲しかったからって遠ざけるのは違う気がするんですよ」
川面に、少し大きな流し灯が浮かんでいた。
白い紙の側面には何か文字が書かれている。
誰かの願いなのかもしれない。
あるいは、誰かの名前なのかもしれない。
それもやがて流れへ乗り、たくさんの灯りの中へ静かに混ざっていった。
「だから……誰かを好きになったことがありますかって聞かれたら、まあ、葵のことは好きでしたよ」
言い終えてから急に気恥ずかしくなり、とおるは頬を掻いた。
「これで満足ですか」
「うん」
「妙に素直ですね」
「さすがに今の話を茶化したら怒られそうだし」
「誰に?」
「とおる君に」
「俺、そんな怖くないですよ」
「ロックより?」
「比較対象がおかしいでしょう」
リンがくすっと笑う。
「でも、ちょっと意外だった」
「何がです」
「とおる君、ちゃんとそういうこと言えるんだなって」
「どういう評価だったんですか、俺」
「『好きでした』とか、死んでも言わなそうだと思ってた」
「そこまでじゃないですよ。俺だって言う時は言います」
「じゃあミレイユちゃんは?」
「なんで話を戻すんですか!」
とおるの声が、静かな川辺へ少し大きく響いた。
リンはすぐに楽しそうな笑顔へ戻る。
「だって、今ちょうどいい流れだったから」
「何がいい流れなんですか。流れるのは川だけで十分ですよ!」
「葵ちゃんは好きだった。じゃあ今は?」
「知りません!」
「ミレイユちゃん可愛い?」
「そこから離れてくださいって!」
「リディアさんは?」
「上司!」
「ココは?」
「班長!」
「モモカは?」
「医療担当!」
「じゃあ私」
「自由人!」
リンが目を見開いた。
「分類が急に雑じゃない!?」
「今までの会話で一番正確な回答だと思います!」
「ひどーい」
頬を膨らませながらも、リンの横顔には笑いが残っていた。
とおるも、つられて笑った。
鏡河の流れは変わらない。
灯りは一つずつ遠ざかり、やがて夜の奥へ溶けていく。
見えなくなったからといって、その光が最初から存在しなかったことにはならない。
水崎葵と過ごした夏も、きっと同じなのだろう。
もう戻れない。
続きを一緒に歩くこともできない。
それでも、あの時間が確かに自分の中へ残っているのならそれでいいのかもしれない。
とおるはしばらく川を眺めたあと、ふと隣のリンへ顔を向けた。
「……夜月さん」
「ん?」
「さっきの話なんですけど」
「ミレイユちゃん?」
「葵の話です!」
「あ、そっち」
「そっちしかないでしょう」
「なに?」
少し迷ってから、とおるは言った。
「聞いてくれて、ありがとうございました」
リンは一度だけ瞬きをして、それからいつものように柔らかく笑った。
「どういたしまして」
「あとこの話、ココさんには言わないでくださいね」
「え」
「なんで今そこで困るんですか」
「いやあ……」
「夜月さん」
「分かった分かった」
「本当に?」
「たぶん」
「一番信用できない返事だ!」
静かな川辺に、とおるの声とリンの笑い声が重なった。
流し灯は今も途切れることなく鏡河を下っている。
遠い夏の日を胸の奥へ抱えたまま、とおるはその光が見えなくなるまで静かに見送っていた。




