↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
74/102

第72話 あの夏へ



 ――久しぶり。


 その言葉の意味が分からないわけではないし、ああ、一体いつぶりになるんだろう、と反射的に数えかけた感情が胸のあたりを掠めたことさえあまりにも自然すぎて、とおるは一拍遅れて自分自身の反応に戸惑っていた。久しぶりというのはしばらく会っていなかった相手へ向ける言葉であって、もう二度と会えないと知っている人に使うものではないはずだった。それでも目の前の少女からそう呼びかけられた瞬間だけは、まるで長い夏休みの途中で数日ほど予定が合わず、ようやくいつもの遊び相手と顔を合わせられたようなごくありふれた懐かしさのほうが先に込み上げてしまっていた。


 いつからだったのだろう。


 彼女の記憶へ見えない蓋をするようになったのは、もう随分と昔のことだったようにも思える。もう二度と会うことはない、どれだけ振り返っても彼女は世界のどこにもいないのだと何度も自分へ言い聞かせ、それを続けていれば、いつか本当に当たり前のこととして受け入れられるだろうと思っていた。蝉時雨が遠い記憶の上へ降り積もるような季節が巡ってくるたびに、胸のどこかに小さな痛みが生まれても、わざわざ指で押して確かめるような真似はしなかった。思い出したところであの日へ戻れるわけでも、その先から続きを始められるわけでもないのなら、いっそ記憶の前で目を閉じていたほうが楽なのだと、どこかで思うようになっていたからだ。


 本当に、葵なのか。


 喉まで上がってきたその問いは、結局そこから先へは出なかった。夢の中なら何度も彼女を見ていた。


 小学生の頃の姿で遠くを走っていく葵も、実際には見ることのできなかった少し大人になった葵も、顔すらはっきりしないまま人混みの向こうへ消えていく誰かも——


 とおるはそのたびにその影を追いかけようとして、けれど決まって途中で目を覚ましていた。


 もし、もう一度だけ会えるなら。


 夢の中で彼女の名前を呼んでも返事はなかった。伸ばした指先はいつだって遠い空を掴み、近づこうとするほどにその姿は雲のように輪郭を崩して消えていった。


 だから今回も、きっと同じなのだと思いたかった。葵によく似た何か、自分が勝手に作り上げた幻、あるいは世界樹の根へ触れたせいで見せられている記憶――そういう名前をひとつ貼りつけてしまえば、少なくとも怖くはないと思えた。葵本人がここにいるのだと考えるよりも、ずっと。


「隣、いい?」


 柔らかな声でそう尋ねられ、とおるは返事の仕方さえ一瞬だけ忘れた。うん、いいよ、好きにすれば——、声にする形は別に何だってよかったはずなのに、言葉という言葉が喉のあたりへひとかたまりになって引っかかり、結局できたのはぎこちなく頭を縦へ動かすことだけだった。


「ありがと」


 葵はそれ以上何も言わず、とおるから少しだけ間を空けて草の上へ腰を下ろした。


 その距離まで、昔と同じだった。近すぎるわけでも、わざと遠ざかっているわけでもなく、子どもの頃、二人で河川敷へ来て駄菓子屋の棒アイスを齧りながら川を眺めていた時も、おそらくこれくらいだったような気がする。肩が触れるほどではないのに、隣に誰かがいることだけは意識しなくても分かって、もし何か面白いものを見つけたら、すぐ袖を引ける程度の間隔――そんな細かなことまで覚えていた自分に、とおるは今さら気づいた。


 葵は膝を軽く抱えるようにして、川を眺める。


「一体いつぶりかな?」


「……さあ」


「忘れちゃった?」


「そういうわけじゃないけど」


「じゃあ、覚えてる?」


「……どっちだよ」


 思わずそう返してから、とおるは口を閉じた。あまりにも普通だったからだ。何年も顔を合わせていなかった人間同士なら、もう少しくらい気まずい間があってもよさそうなものなのに。


 まして相手は、あの葵だ。


 再会という言葉を使うこと自体がおかしいはずなのに、彼女は少し楽しそうに口元を緩めただけで、昔と何も変わらない様子のまま川の向こうへ目を向けていた。


 その横顔には、とおるが最後に覚えている少女の面影が確かに残っている一方で、頬の輪郭や目元には記憶にない柔らかな成長まで混ざっていて、小学生だった葵と、もし生きていたならこうなっていたかもしれない葵が、どちらとも決めきれない一人の人間としてそこへ座っているように見えた。


「とおるってさ、昔からそうだったよね」


「何が?」


「ちゃんと答えようとして、考えすぎて、最後によく分かんないこと言うの」


「……そんなだったっけ」


「そんなだったよ」


「覚えてないな」


「私は覚えてる」


 それだけの言葉だったのに、胸の奥で何かが小さく軋んだ。


 蝉の声が遠い木立から絶え間なく降り注ぎ、川面へ散った夏の日差しは細かな欠片になって、流れに合わせて形を変えている。風が河川敷を撫でるたび、伸びた草は同じ方向へ波打ちながらその何本かが葵の脚へ触れ、黒い髪が頬にかかると彼女はいつものような手つきでそれを耳の後ろへ払った。


 その仕草まで、知っている気がした。


「……ここ、覚えてる?」


「うん」


「よく来たよな」


「とおるが家に帰りたくないって言った日にね」


「俺、そんなこと言った?」


「言ったよ。お母さんにテストの点数見せたくないって」


「……それは帰りたくないな」


「しかも三十二点」


「具体的に覚えてるのやめてくれない?」


「ちなみに算数」


「教科まで覚えてるの?」


 葵が笑った。声を立てて大きく笑うのではなく、昔と同じように目尻をわずかに下げ、肩を小さく揺らしながら楽しそうに息を漏らす。その笑い方を見た瞬間に、とおるの中で何年も触れないようにしていた記憶の引き出しが、誰かに勝手に開けられたみたいにひとつ、またひとつと滑り出してきた。


 夕方まで遊んで、二人揃って親に叱られたこと。自転車で競争して、葵が曲がり角を曲がりきれず植え込みへ突っ込み、本人は半泣きなのにとおるが笑ったせいでさらに怒られたこと。夏祭りの日、人混みに呑まれそうになった葵が何も言わず手を掴み、そのまま最後まで離さなかったこと。公園の水道で水を掛け合い、最初は手を濡らすくらいだったはずが途中から意地になって、帰る頃には二人とも服の色が変わるほどびしょ濡れになっていたこと。秘密基地と呼ぶには道から丸見えすぎる空き地の隅へ段ボールや古い傘を持ち込み、それでも本気で大人には絶対見つからないと思っていたこと。


 どれも、大した思い出ではない。誰かに語れば、子どもならよくある話だと笑われて終わる程度の記憶ばかりだった。なのに失ってから長い時間が経った今になって振り返ると、どうして自分たちはあんな日々が永遠に続くものだと信じていられたのだろうと思うほど、ひとつひとつが眩しく見えた。


「……葵」


 名前が零れた。


 今度は、飲み込めなかった。


「うん」


 返事があった。


 あまりにも簡単に。


 ずっと怖くて思い出さないようにしていた名前なのに、夢の中では何度呼んでも振り向いてくれなかった名前なのに、葵はただ隣へ座ったまま、昔と何も変わらない調子でとおるの声へ答える。


「なに?」


「…………」


「とおる?」


「いや」


 本当に葵なのか。その一言をただ口にすればいい。どうしてここにいる、ここはどこなんだ、俺は元の世界へ戻ったのか、お前は死んだんじゃなかったのか――聞かなければならないことなら、いくらでもあった。


 それでも、そのどれも喉を越えなかった。


 たぶん、怖かったのだと思う。問いかけてしまえば、この時間に答えが与えられてしまう。夢なら夢、幻なら幻、死者の記憶なら死者の記憶と、名前のある何かへ変わってしまった瞬間に今こうして隣に座っている葵まで、その言葉の向こう側へ連れていかれるような気がした。


 だから、とおるは川を見た。


「……暑いな」


「夏だもん」


「それだけ?」


「夏が暑いのは昔からでしょ?」


「そうだけどさ」


「暑いの嫌いだったよね」


「今も嫌いだよ」


「じゃあ、変わってないね」


「結構変わったと思うけど」


「そうかな」


 そこで葵は初めて、とおるのほうへ身体を少し向けた。何かを確かめるような目だった。懐かしんでいるようにも、ずっと遠くから見ていた人をようやく近くで見られたようにも思えて、その奥にほんの少しだけ寂しさが混ざっている。それでも最後には、昔と同じ柔らかな笑みへ戻った。


「私には、あんまり変わってないように見えるけどな」


 胸が痛んだ。


 それが嬉しいからなのか、悲しいからなのか、とおる自身にもよく分からなかった。


「……俺さ」


「うん」


「ずっと、忘れてたと思ってた」


「何を?」


 答えようとして、言葉が止まる。


 忘れていたのではない。


 忘れようとしていたのだ。


 思い出せば苦しくなるから記憶の奥へ押し込み、もう終わったことなのだと何度も自分へ言い聞かせ、いつの間にか思い出さなくなったことを「乗り越えた」と呼ぶようになっただけだった。


 けれど本当に忘れたものが、こんなにも鮮明に夢へ出てくるはずがない。


 声も、笑い方も、少しだけ癖のある髪も、自分を呼ぶ時の「とおる」という柔らかな響きも。


「……ごめん」


 なぜ謝ったのか、自分でも分からなかった。


 葵は少し驚いた顔をしたあと、困ったように眉を下げる。


「何で謝るの?」


「分からない」


「変なの」


「俺もそう思う」


「じゃあ、謝らなくていいよ」


 昔から、そういう子だった。こちらが一人で悩んで、一人で難しくして、絡まった紐のどこを引けばいいのか分からなくなっていると、葵はいつも拍子抜けするほど簡単な言葉で、その結び目の外側へ連れ出してしまう。


 とおるは、小さく息を吐いた。


「……本当に、忘れてたわけじゃないんだ」


「うん」


「ただ、考えないようにはしてた。何年か経ってからは、もう平気なんだって思ってたし、普通に飯食って、学校行って、そのあとも普通に生きてたから、まあ大丈夫なんだろうなって」


「うん」


「でも、今会ったら全然大丈夫じゃなかった」


 自分で言っておいて、ずいぶん情けない言葉だと思った。もっと気の利いたことが言えればよかったのに、何年も会えなかった相手へ再会して早々「大丈夫じゃなかった」と告白する人間など、だいぶ重たい分類へ入りそうだと頭の隅では分かっていた。


 葵は笑わなかった。


「それでいいんじゃない?」


「いいのかな」


「駄目なの?」


「いや……分かんないけど」


「またそれ」


「仕方ないだろ。今の俺に判断能力を期待するなよ」


「昔より大げさになったね」


「そこは変わった判定なんだ」


「うん。少しだけ」


 風が吹いた。


 対岸のさらに向こう、住宅街と鉄塔の背後へ積み上がった積乱雲は、青空を押し上げる巨大な白い山のように見える。それを眺めているうち、とおるはふと、昔の夏を思い出した。


「あれ、追いかけたことあったよな」


「雲?」


「うん。自転車で行けば下まで行けると思って」


「あったねえ」


「途中で知らない町まで行って、帰り道分からなくなった」


「とおるが大丈夫って言ったんだよ」


「いや、葵がこっちだって」


「私は『たぶんこっち』って言ったの」


「子どもにおける『たぶん』は、ほぼ断言でしょ」


「責任転嫁だ」


「あの時めちゃくちゃ怒られたんだからな」


「私も怒られたよ」


 葵は楽しそうに笑い、とおるもつられて口元を緩めた。


 ほんの数秒だけ、本当に昔へ戻ったような気がした。自転車の籠へ水筒を入れ、行ったことのない道だけを選びながら走った午後。


 電柱の影は細く、アスファルトは靴底越しにも熱くて、遠くに浮かぶ積乱雲はどれだけ進んでも近づいてこなかった。それでも二人は、あの雲の向こうに何かすごい場所があるのだと勝手に決めつけ、ジュース一本分の小銭と子ども用自転車だけで世界の端まで行けるような気になっていた。


「ねえ」


 葵が言った。


「もし今、あの頃に戻れるって言ったら、とおるは戻りたい?」


 とおるは答えに詰まった。戻りたい、と反射的に言えそうなのに、どうしてもすぐには言えない。


「……ずるい質問だな」


「そう?」


「楽しかったところだけなら戻りたいよ。でも全部戻るってことなら、また同じことが起きるんだろ」


「私が死ぬこと?」


 喉が止まった。


 葵の声には陰りがなく、雨の日のことでも、遊びに行った公園の名前でも口にするような自然さで、その言葉だけがぽんと置かれた。


「……そういうの、普通に言うんだな」


「言っちゃ駄目?」


「駄目じゃないけど」


「じゃあ、いいじゃん」


「その理屈、昔から強いな」


「便利でしょ?」


「雑なんだよ」


 葵は少しだけ笑った。


 とおるは川へ視線を戻した。


 水は穏やかだった。


 あの日は、こんな川ではなかったはずだ。


 雨が続いたあとで水位が上がり、流れが速くなっていたと聞いた。大人たちはいろいろなことを言っていた。足を滑らせたのだろう、何かを追いかけたのではないか、子どもだけで近づいてはいけなかった、どうしてあそこへ行ったのか分からない――けれど、とおる自身は何も知らない。


 その日、葵と一緒ではなかったから。


「……俺、あの日だけ一緒じゃなかったんだよな」


「うん」


「覚えてるの?」


「覚えてるよ」


「俺はずっと、それが嫌だった」


「うん」


「一緒にいたら助けられたとか、そういう話じゃないんだ。たぶん無理だったし、俺まで流されてた可能性のほうが高い。でも、普段あれだけ一緒にいたのに、あの日だけいなかった。それがずっと……なんていうか」


「刺さってた?」


「……そんな感じ」


 葵は川のほうを向いたまま、しばらく何も言わなかった。


 とおるも続きを急がない。


 昔なら、沈黙を気まずいと思ったことはなかった。二人でいるからといって常に話している必要なんてなかったし、片方が石を投げて、もう片方が川面を眺めているだけでも時間は勝手に過ぎていった。


 大人になってからは、そういう間を持てる相手がほとんどいなかった気がする。


「とおる」


「ん?」


「私が死んだの、とおるのせいじゃないよ」


 その言葉は、胸の奥へ音もなく落ちた。


「……分かってる」


「ほんと?」


「理屈では」


「じゃあ、心では?」


「面倒な聞き方するなあ……」


「昔から、ちゃんと答えようとして考えすぎるから」


「はいはい」


「でもね、あの日とおるが一緒じゃなかったことは、とおるが選んだ悪いことじゃないよ」


 とおるは顔を上げた。


 葵の横顔は、ひどく穏やかだった。


「会わない日もあるよ。別々の場所にいる日もある。全部一緒じゃないから、一緒にいる日があるんじゃない?」


「……小学生のお前、そんな達観してたっけ」


「今の私が小学生に見える?」


「そこがそもそも分からないんだよ」


「あはは」


 葵の笑い声が風に混じる。


 そこで、とおるはようやく気づいた。


 彼女とこうして会話してからずっと、不自然なくらい避けていることがある。


 目の前の葵が、何歳なのか。


 最初に見た時から、はっきりしない。子どもの頃の面影は強いのに、声も表情も少しだけ大人びていて、十代後半にも見える時があれば、ふとした拍子に幼い少女へ戻ったように感じる瞬間さえある。光の加減なのか、それとも自分の記憶が定まらないせいなのか、とおるがきちんと見ようとするたび、印象だけがわずかに揺れてしまう。


「……葵」


「なに?」


「お前、今いくつなんだ?」


 葵は目を丸くしたあと、声を上げて笑った。


「女の子に年齢聞くの?」


「いや、この状況でその返しする?」


「だって、とおるが変なこと聞くから」


「変なのは状況全体だよ」


「それはそうかも」


「認めるんだ……」


 何となく力が抜けた。


 けれど、葵は答えない。


 それもまた、気づかないふりをしておくことにした。


 今はまだ。


 聞きたいことを全部聞けば、この場所は壊れてしまう――そんな予感があった。


「そういえばさ」


 葵が何でもないように話題を変えた。


「とおる、草で罠作ったの覚えてる?」


「……罠?」


「長い草を二本結んで、道に張ってたやつ」


「ああ」


「私を転ばせようとして」


「いや、あれは二人で作っただろ」


「そうだっけ?」


「しかも転んだのお前だからな」


「そうだった」


「自分で作って、自分で忘れて、自分で引っかかってた」


「膝、泥だらけになったんだよね」


「泣きながら笑ってた」


「とおるも笑ってた」


「そりゃ笑うだろ」


「ひどい」


「俺もそのあと怒られたし」


 葵が小さく笑う。


 あの頃は、本当にどうでもいいことで泣けた。転んで膝を擦りむいた、アイスを落とした、ゲームで負けた、親に叱られた――その瞬間は世界の終わりみたいに悲しかったはずなのに、翌朝になれば少し軽くなって、二人で遊び始める頃にはいつの間にか消えていた。


 葵が死んだ時だけは、違った。


 翌朝になっても戻らなかった。


 一週間経っても、一年経っても。


 大人たちは、時間が解決すると言った。確かに生活はできるようになったし、笑えるようにもなった。葵の話をしなくても毎日を過ごせるようになったけれど、時間というものは傷を消してくれるのではなく、その傷へうっかり触れずに歩く方法を覚えさせるだけなのかもしれないと、とおるは今になって思う。


「俺さ」


「うん」


「たぶん、お前がいなくなってから、人と仲良くならないようにしようとか、そこまで大げさなことを考えてたわけじゃないんだ」


「うん」


「別に葵のせいで性格が全部変わったとか、そんな単純な話でもないと思う。俺、元々そんなに人付き合い得意じゃなかったし」


「知ってる」


「即答やめろ」


「だって知ってるもん」


「まあ……そうなんだけど」


 とおるは草の先を指で摘み、意味もなく左右へ揺らした。


「ただ、何かがなくなるってことを、最初にちゃんと知ったのは、お前だった気がする」


 葵は黙って聞いている。


「昨日までそこにいて、明日も普通にいると思ってたやつが、本当にいなくなることがあるんだって分かった。それから先は、別に意識してたわけじゃないけど……一人なら一人で楽だし、最初から深く入りすぎなければ、なくなった時も少しは楽なのかなって、どこかで覚えたのかもしれない」


「楽だった?」


「……それなりに」


「ほんと?」


「さっきからそこばっかり聞くね」


「大事だから」


「まあ、完全には嘘じゃない。一人は楽だよ。今でもそう思う」


「そっか」


「でも」


 そこで、とおるは一度言葉を止めた。


 クルム村の景色もが浮かぶ。いつも壁を便利道具のように頼んでくる村人たち、子どもたち、リディア、ミレイユ、クラリッサ、白華の面々。面倒な書類、騒がしい訓練、望んだ覚えのない任務――どれも三年前の自分なら、好んで近づいたとは思えない。


「……最近は、一人じゃない時間も、そこまで悪くない」


 葵の目が少しだけ細くなった。


「友達できた?」


「その質問の仕方だと、小学校の保護者面談みたいだな」


「できたんだ?」


「……まあ」


「女の子?」


「何でそこへ行くんだよ」


「いるんだ」


「いるとかいないとか、そういう――」


「ふうん」


「その顔やめろ」


「どの顔?」


「分かってて聞いてるだろ」


 葵はいたずらっぽく笑った。


 その表情があまりにも昔と同じだったせいで、とおるも少しだけ笑ってしまう。


「良かった」


 葵が、ぽつりと言った。


「何が?」


「とおるが、一人じゃなくて」


「……やっぱり保護者なの?」


「違うよ」


「じゃあ何なんだよ」


 軽い調子で返したはずなのに、葵はすぐには答えなかった。ほんの少し目を伏せ、膝の上へ置いた指を重ねる。


「何なんだろうね」


 小さな声だった。


 それ以上踏み込むには、まだ早い気がした。


 とおるは川へ視線を戻す。


 水は流れている。


 同じ名前を持つ川なのに、今目の前を流れている水は、一秒前のものとは違う。それでも誰も、別の川になったとは言わない。


「……前にも思ったけど」


「うん?」


「川って変だよな」


「何が?」


「ずっと同じ名前なのに、中身はずっと入れ替わってる」


「うん」


「人もそんな感じなのかなって」


 葵は少し考えた。


「とおるはどう思う?」


「分からん」


「便利だね、その答え」


「今までのお前の受け売りだよ」


 とおるは苦笑した。


「記憶も変わるし、身体も変わるし、考え方だって変わる。それでも同じ名前で呼ばれるんだから、どこまでが同じ人間なのかなんて、考え始めるとよく分からない」


「じゃあ、今の私が昔の私と少し違ってたら?」


 とおるは横を見る。


 葵は川を見たまま尋ねていた。


「それでも、葵だと思う?」


 奇妙な問いだった。


 少し前なら、もっと疑っていただろう。本物なのか、記憶なのか、幻なのか――けれど今は、その問いへの答えだけは意外なほど簡単に出た。


「……たぶん」


「たぶん?」


「だって俺の知ってるお前も、毎日同じじゃなかっただろ。機嫌悪い日もあったし、知らないことだって増えてたし」


「結構雑だね」


「人間なんてそんなもんじゃないの」


「そっか」


 葵は微笑んだ。


 その笑顔には、どこかほっとしたような色が混ざっていた。


 とおるはそれに気づいたものの、理由までは分からない。


 風が河川敷を抜ける。


 草が擦れ合う音、水の流れる音、蝉の声。遠くからは、ひぐらしに似た少し寂しい響きまで混じり始めていた。


 まだ太陽は十分に高い。


 それなのに、この夏だけが少しずつ夕方へ向かっているような感じがした。


「ねえ、とおる」


「ん?」


「もしもさ、この世界が元々存在していなかったって言ったら、どう思う?」


 とおるはすぐには答えなかった。何を言われたのか分からなかったわけではない。言葉の意味そのものなら、むしろ簡単すぎるくらいだった。


 この世界は、元々存在していなかった。


 ただ、その一文が指している範囲があまりにも大きすぎて、頭の中へ置いた瞬間にどこから考え始めればいいのか分からなくなる。


「……何それ」


 結局、出てきたのはそんな言葉だった。


「哲学?」


「ふふ。とおる、そういうの苦手だったもんね」


「得意な小学生がいたら嫌だろ」


「でも昔、よく聞いてきたよ。宇宙の外ってどうなってるの、とか。死んだらどこへ行くの、とか」


「……そんなこと言ってた?」


「言ってた。私が知らないって答えたら、『葵でも知らないことあるんだ』って」


「何で子どもの俺は、お前を全知全能だと思ってたんだよ」


「さあ?」


 葵は小さく笑った。


 いつもと同じ笑い方だった。


 それなのに、とおるはなぜか笑えなかった。


 川は変わらず流れている。水面では夏の光が細かな破片になって瞬き、対岸に並ぶ住宅も、遠くの鉄塔も、その向こうへ膨れ上がった積乱雲も、記憶の中から寸分違わず切り取って貼りつけたようにそこへある。


 それでも。


 雲は動いていない。


 先ほどから、一度も。


 風は確かに吹いているのに、あれほど巨大な積乱雲の輪郭だけは少しも崩れず、青空の一点へ白い絵具を厚く塗り重ねたように静止していた。


 とおるは無意識に眉を寄せる。


「……元々存在してなかったって、どういう意味だよ」


「そのままの意味だよ」


「そのままって」


「最初から、何もなかったの」


 葵は川を見たまま、夏休みの宿題や明日どこで遊ぶかを話す時と変わらない穏やかな声で、途方もないことを口にした。


「空も、海も、大地も。星も、命も、時間も。名前を呼ぶ人もいなかったし、呼ばれるものもなかった。暗かった、っていう言い方も、本当は少し違うのかもしれないね。だって、暗いって分かるためには、明るいっていうものを知ってないといけないでしょう?」


「……待って」


「うん」


「何の話をしてる?」


 葵は答えず、足元の草へ手を伸ばし、細い葉を一本だけ指先で撫でた。


「これを、草って呼ぶでしょ?」


「……まあ」


「どうして?」


「どうしてって……草だからだろ」


「うん。じゃあ、とおるが『草』っていう言葉を知らなかったら?」


「それでも草は草だろ」


「本当に?」


 葵がこちらを向いた。


 柔らかな笑顔だった。


 問い詰めるための目ではない。


 正解を求めてもいない。


 ただ昔、二人で答えのない疑問をいつまでも話していた時のように、とおるが何を言うのか待っている。


「名前を知らなくても、これはここにある。触れば感触があるし、踏めば曲がるし、千切れば指に匂いが残る。だから、たぶん、とおるの言う通りなんだと思う」


「だったら――」


「でもね」


 葵の指先から、草の葉が離れた。


「世界のほうは、最初からそうだったわけじゃないんだって」


 蝉時雨が、一瞬だけ遠くなった気がした。


「最初の世界には、物と物の境目がなかった。ここからが空で、ここからが地面。これは生きていて、これは死んでいる。これは私で、これはとおる。そんなふうに分けるためのものが、まだ何もなかった」


「……誰から聞いたんだよ、そんな話」


「誰からだと思う?」


「質問を質問で返すなよ」


「昔もそう言ってたね」


「言ってないだろ」


「言ってたよ」


「さっきから都合よく昔の俺を捏造してない?」


「どうかな」


 くすくす笑う葵を見ていると、ひどく懐かしい。


 同時に、ひどく遠い。


 手を伸ばせば届く距離に座っているはずなのに、その姿だけが何年も前の記憶の底へ沈んでいて、こちらが近づこうとするほど、水面の向こうへ離れていくような感覚が胸へ残る。


「じゃあ……何もなかったところから、どうやって今みたいになったんだよ」


 気づけば、とおるは尋ねていた。


 葵は少しだけ目を細める。


「分けたの」


「……分けた?」


「うん」


 空と大地を。


 生と死を。


 自分と、それ以外を。


 形あるものと、形を持たないものを。


 葵はそれらを教科書の項目のように順番へ並べるのではなく、ひどく古い記憶の輪郭を指先でなぞって確かめるように、ゆっくりと言葉へ変えていった。


「何も分からないところから始まって、動いて、触れて、これは自分じゃないって知って、そこへ名前をつけて、形を与えて、見えるようになって、誰かと繋がって、欲しいって思って、手を伸ばして、掴んで――そうやって、自分がここにいるって決まっていった」


 とおるの表情から、わずかに力が抜けた。


 どこかで。


 その並びに似たものを、聞いたことがある気がした。


 名前。


 形。


 生きるもの。


 死ぬもの。


 境界。


 繋がること。


 選ぶこと。


 頭の奥で白い線がちらつくような感覚が一度だけ走り、とおるは眉間へ指を当てる。


「どうしたの?」


「いや……何か、聞いたことある気がして」


「どこで?」


「それが分からない」


 思い出そうとすると、薄い靄が降りてくる。


 あと少しで届きそうだった何かが、指の隙間から滑るように逃げた。


「それで、生まれるの」


 葵は言った。


「生まれて、変わって、最後には失っていく」


 川のせせらぎだけが、二人の間を通り抜ける。


「そうやって世界は、今の形になったんだって」


「……誰が?」


「え?」


「誰が世界をそうしたんだよ」


 葵はしばらく黙ったあと、少し困ったように笑った。


「それはね――私も、知らない」


「そこは知らないのかよ」


「うん」


「ずいぶん壮大な話を始めたくせに」


「知らないことは、知らないよ」


 昔と同じ答えだった。


 宇宙の外には何があるのか。


 人は死んだらどこへ行くのか。


 世界はどうして始まったのか。


 子どものとおるが答えのない疑問を投げるたび、葵は知ったふりをせず、いつもそう答えていた。


 知らないよ、と。


 だからこそ、その答えが余計に恐ろしかった。


 知らない部分があるということは。


 裏を返せば。


 今まで語った部分については、何かを知っているということになる。


 とおるは葵を見る。


「……お前、さっきから妙なんだよ」


「そう?」


「そうだよ。昔のこと知ってるのは分かる。俺の記憶から出てきた何かなら、むしろ知っててもおかしくない。でも、今の話は違うだろ」


「うん」


「うん、って」


「違うね」


 あっさり認められて、とおるは逆に言葉を失った。


「……じゃあ、何なんだよ」


 葵は答えず、遠くの積乱雲へ目を向ける。


 雲はまだ、動いていない。


「とおるはさ」


「何だよ」


「ここを夢だと思ってる?」


「……たぶん」


「記憶かも、って?」


「それも」


「私のことは?」


 とおるは口を閉じる。


 葵は笑っていなかった。


 試しているようにも見えない。


 ただ、静かに待っていた。


「……分からない」


「そっか」


「でも、葵に見える」


「うん」


「声も葵だし、話し方も、変なところ覚えてるのも」


「変なところ?」


「テスト三十二点とか」


「あれは大事でしょ」


「俺の人生の汚点を重要文化財みたいに扱うな」


「ふふ」


 笑った葵を見て、とおるは少しだけ肩の力を抜く。


「だから……葵だと思いたい」


 口にした瞬間、胸の奥が強く痛んだ。


 葵の目が、ほんのわずかに揺れる。


「思いたい、なんだ」


「悪い?」


「ううん」


 葵は首を横へ振った。


「嬉しい」


 その言い方が、どうしようもなく寂しかった。


「でもね」


「……何だよ」


「思いたいと、そうだって決めるのは、少し違うよ」


 とおるは眉を寄せる。


「何が?」


「選ぶこと」


「選ぶ?」


「うん」


 葵は両手を後ろへつき、少し身体を反らして空を見上げた。


「たとえば、明日どこへ遊びに行くか決めるでしょ?公園でもいいし、川でもいいし、家でゲームしててもいい。その中から、今日は川へ行こうって決める」


「まあ」


「それって、川しか存在しないから川へ行くわけじゃないよね」


「……そりゃそうだろ」


「公園もある。家もある。別の道もある。それでも川を選ぶ」


 葵の声は穏やかだった。


「もし最初から川しかなかったら、それは選んだって言えるのかな」


「……言わないだろうな」


「うん」


 とおるは、なぜか胸の奥がざわつくのを感じた。


 選ぶ。


 可能性。


 道。


 どこかで似た響きを持つ何かが、遠いところからこちらを覗いている。


「急に何なんだよ」


「思っただけ」


「何を」


「とおるは昔から、選ぶの苦手だったなって」


「そんなことないだろ」


「あるよ。アイス買うのにも時間かかってた」


「百円玉一枚しかないんだから慎重になるだろ」


「ラムネとソーダ味を五分くらい見比べてた」


「幼児の五分は重要な意思決定なんだぞ」


「結局、私と同じの買うんだよね」


「お前が先に決めるからだろ」


「ほら」


「何がほらなんだよ」


 葵は楽しそうに目を細めた。


「でも今は、自分で選んでる?」


「……何を?」


「いろいろ」


 とおるは答えなかった。


 騎士になること。誰かを守ること。戦うこと。逃げないこと。白華へ残ること――どれも、自分が積極的に選んだのかと聞かれれば怪しいものが多い。


 流されている。


 巻き込まれている。


 断りきれなかった。


 そんな説明なら、いくらでもできた。


 けれど。


 グラド・バルムの子を守ろうとしたことだけは。


 ミレイユの傷を止めたことだけは。


 自分で選んだ。


 怖かった。


 帰りたかった。


 やりたくなかった。


 それでも、あの場では。


「……少しは」


 葵がこちらを見る。


「そっか」


「何だよ」


「嬉しいなって」


「だから何で保護者なんだよ」


「違うってば」


「じゃあ何なのか言えよ」


 軽口のつもりだった。


 葵は少し困ったような顔をしたあと、遠くへ視線を逃がす。


「それを言うには、まだちょっと早いかな」


「……夢の中でも情報開示に段階があるの?」


「あるかもしれないね」


「嫌な夢だな。説明書を先に配ってくれ」


「とおる、昔から説明書読むの好きだったね」


「知らないもの触る前には読むだろ、普通」


「でもゲームは先に始める」


「……それは」


 とおるの言葉が止まった。


 ゲーム。


 自分が、この世界へ来るきっかけになったもの。


 あの黒い画面。


 奇妙なソフト。


 起動した夜。


 そこへ意識を向けた途端、遠くで蝉の声が一段低くなった。


「どうしたの?」


「いや」


 とおるは首を振る。


「何でもない」


「ほんと?」


「今はいい」


「そっか」


 葵は追及しなかった。


 それがありがたかった。


 同時に、少し怖かった。


 まるで葵のほうも、聞かなくていい理由を知っているように思えたからだ。


 しばらく二人で川を眺めた。


 どれくらい時間が経ったのかは分からない。太陽の位置は変わっていないように見えるのに、空気だけは少しずつ夕方へ近づき、蝉の鳴き方まで変化している。


「ねえ、とおる」


「ん?」


「夏休みってさ、子どもの頃は終わらないと思ってなかった?」


 とおるは笑った。


「終わるに決まってるだろ」


「今だから言えるんだよ」


「……まあ」


 少し考える。


「分かるかも」


「でしょ?」


「一日が長かったからな」


「朝起きて遊んで、昼ごはん食べて、また遊んで、夕方帰って、お風呂入って、寝たらまた次の日」


「それだけ聞くと、すごい生活だな」


「最高でしょ」


「今やったら三日で罪悪感出る」


「大人って大変だね」


「主に自分の頭の中が面倒なんだよ」


 葵は笑った。


「私はね」


 声が少しだけ静かになる。


「本当に、終わらないと思ってたよ」


 とおるは隣を見る。


「毎日同じじゃないんだけど、次の日になったらまた続きができるって思ってた。昨日喧嘩しても明日会えばいいし、今日は雨でも、晴れたらまた外へ行けばいい。夕方になって帰っても、それは終わりじゃなくて、続きは明日にあるって」


 葵は膝の前で指を組む。


「だから、約束なんてしなくても大丈夫だと思ってた」


「……何の?」


「また明日って」


 風が髪を揺らした。


「言わなくても、また会うと思ってたから」


 とおるの胸の奥へ、幼い日の夕焼けが蘇る。


 自転車を押しながら歩く帰り道。どこかの家の前へ撒かれた水で、アスファルトの色だけが濃くなっていたこと。近所の家から夕飯の匂いが漂っていたこと。葵が角を曲がる前、「またね」と言ったこと。


 もしかすると、言わなかった日もあった。


 どうせ明日また会うと思っていたから。


「……俺もそうだった」


「うん」


「お前が死んでから初めて、『また明日』って保証じゃなかったんだって思った」


 葵は何も言わない。


「当たり前だけどさ?普通はそんなの分かるんだろうけど、子どもだったから」


「子どもじゃなくても、分からないんじゃない?」


「そうかな」


「明日会えるって思ってる人に、毎回これが最後かもって考えながら別れる人、そんなにいないでしょ」


「……それも嫌だな」


「でしょ?」


「毎回遺言みたいになる」


「重たいね」


「近所へ買い物行くだけで『今までありがとう』とか言われたら怖いだろ」


 葵が吹き出した。


「とおるって、そういうところ変わらないね」


「何が?」


「ちょっと悲しい話すると、すぐ変なこと言う」


「重くなりすぎると耐えられないんだよ」


「知ってる」


 葵は笑ったまま、少しだけ目を伏せる。


「私、好きだったよ。そういうところ」


 とおるの頭が止まった。


「……え」


 聞き間違いかと思った。


 葵は川を向いている。


「昔から」


「……それは」


「何?」


「いや」


 何を返せばいいのか分からない。


 好き、という言葉が、どの種類なのか。


 それを聞くほどの勇気はなかった。


 子どもの頃の好意かもしれない。


 友達として。


 遊び相手として。


 いくらでも解釈できる。


 だから、今はそうしておくことにする。


「……ありがとう」


「そこでお礼なんだ」


「他に何言えばいいんだよ」


「知らない」


「知らないのかよ」


「うん」


「さっき世界の成り立ちみたいなこと話してた人が?」


「それとこれは別」


 葵はおかしそうに笑う。


 とおるは耳のあたりが妙に熱い気がして、川へ顔を向けた。


 そこで、また違和感があった。


 川面が。


 少しずつ静かになっている。


 風が止まったわけではない。


 草は揺れている。


 髪も動いている。


 なのに、水の流れだけが次第に遅く見えた。


「……葵」


「うん?」


「これ、やっぱり普通の場所じゃないよな」


「うん」


 今度は。


 否定しなかった。


 とおるはゆっくり息を吐く。


「元の世界じゃない?」


「それを私から聞きたい?」


「……ずるいな、その言い方」


「ごめん」


「謝るんだ」


「とおるがさっき謝ってたから」


「そこ真似しなくていいよ」


 葵は膝を抱え直す。


「私から答えを聞いたら、とおるは信じる?」


「内容による」


「私が、ここは本物の世界だよって言ったら?」


「疑う」


「じゃあ夢だよって言ったら?」


「それも疑う」


「やっぱり昔から変わってないね」


「今は慎重になったって言ってくれ」


「うん。じゃあ、慎重になった」


「言わされてるだけだろ」


 軽口を交わしながらも、とおるは少しずつ分かり始めていた。


 葵は何かを知っている。


 自分が知らないことを。


 この場所について。


 世界について。


 もしかすると、自分自身についてまで。


 それでも葵は教えようとしない。


 いや。


 教えないのではなく、こちらが自分で問いを選ぶまで待っているようにも見えた。


「……何で、こんな回りくどい話するんだよ」


 とおるが尋ねる。


「何が?」


「世界が最初はどうとか、名前がどうとか。何か言いたいことあるんだろ」


「あるよ」


「じゃあ言えばいいじゃん」


「言ったら、とおるの答えじゃなくなるかもしれないから」


「……何それ」


「大事なこと」


 葵は静かに答えた。


「誰かに答えを渡されるのと、自分で選ぶのは、同じに見えても違うから」


「また選ぶ話?」


「うん」


「最近そういう単語に縁がありすぎて嫌なんだけど」


「最近?」


 葵が聞き返す。


 とおるは一瞬迷った。


「……今いる場所で、いろいろあるんだよ」


「そっか」


「そこは聞かないの?」


「聞きたいよ」


 葵は即答した。


「すごく」


 その声に、初めて少しだけ強い感情が混ざった。


「どんなところで暮らしてるのか、誰と会ったのか、何食べてるのか、ちゃんと寝てるのか、怪我してないのか、嫌なことばっかりじゃないか、楽しいこともあるのか」


「……いっぱいあるな」


「聞きたいこと、ずっといっぱいあったから」


 とおるは葵を見る。


 葵もこちらを見ていた。


 その瞳に宿った寂しさは、懐かしい友人と久しぶりに再会した程度のものではないように見えた。


「ずっと?」


 とおるが尋ねる。


 葵は数秒だけ黙る。


「……長かったから」


「何が」


 答えはなかった。


 代わりに、葵は少し笑う。


「今度、聞かせて」


「今度って」


 その言葉だけで、胸が締めつけられた。


 今度。


 また会うことが前提になっている言葉。


 昔なら当たり前だった。


 それを一度奪われてから、とおるにとってはひどく重たい言葉になっていた。


「……今度、あるのか?」


 自分でも驚くほど、それは小さな声だった。


 葵の表情から笑みが消える。


 悲しい顔ではなかった。


 むしろ、何かを長い間待っていた人のような目で、とおるを見た。


「あるよ」


 それだけ。


 あまりにも迷いなく答えた。


 とおるは何も言えない。


「今度もあるし、その次だってある」


「……何でそんなこと言い切れるんだよ」


「言い切りたいから」


「願望じゃん」


「願望って、そんなに悪い?」


「いや」


 とおるは視線を落とす。


「悪くはないけど」


「じゃあ、いいじゃん」


「やっぱり強いな、その理屈」


「便利でしょ?」


 先ほどと同じ言葉だった。


 それでも、とおるは笑えなかった。


 今度がある。


 その言葉が嬉しかった。


 嬉しいと思ってしまったことが、怖かった。


 一度失ったものへ期待するのは、もうやめたつもりだったから。


「……期待させるなよ」


「うん?」


「また会えるとか」


 葵は少し驚いたように目を瞬かせる。


「期待したら、なくなった時きついから」


 言ってから、とおるは心の中で、ああ、と呟いた。


 これなのかもしれない。


 ずっと人との間へ置いてきたもの。


 失わないためではないく、失った時の痛みを少なくするために。


 最初から距離を作る。近づきすぎない。大切だと認めすぎない。


 そうしておけば、なくなったとしても致命傷にはならないと思っていた。


 葵はとおるを見ている。


「でも」


 静かな声だった。


「期待しなかったら、なくならないの?」


「……なくなるよ」


「好きにならなかったら、別れなくて済む?」


「……別れる相手がいないだけだろ」


「大事にしなかったら、失わない?」


「失うものがなくなる」


「それって」


 葵はほんの少し首を傾けた。


「楽?」


 とおるは答えられなかった。


 蝉の声が降ってくる。


 川が流れている。


「……分かんない」


「うん」


「楽な時もある」


「うん」


「でも、今は」


 とおるは川の向こうを見る。


「村のやつらとか、騎士団の連中とか。面倒なのも多いし、俺がいなくても普通に回りそうな人ばっかりだけど」


「うん」


「いなくなったら、嫌だと思う」


 葵の顔が少しだけ柔らかくなる。


「そっか」


「だからたぶん、また同じことになったら痛い」


「うん」


「それでも、もう最初から一人に戻ろうとは、あんまり思わない」


「……そっか」


 同じ言葉。


 今度は声が、ほんのわずかに震えていた。


 とおるが横を見ると、葵の目元だけが少し濡れているようにも見えた。


「何だよ」


「何でもない」


「泣いてる?」


「泣いてない」


「嘘つけ」


「汗だよ」


「目から?」


「夏だから」


「夏、万能すぎるだろ」


 葵が笑う。


 とおるも少し笑った。


 それでいい気がした。


 少なくとも今だけは。


 彼女が何なのか分からなくても、この場所が何なのか分からなくても、隣にいる誰かと笑えたという事実まで疑う必要はない。


「ねえ、とおる」


「ん?」


「もしも」


 葵は一度、言葉を止めた。


「もしも、今まで本物だと思ってたものが、実はそうじゃなかったって分かったら、どうする?」


 とおるは眉を寄せる。


「また壮大な質問?」


「ちょっとだけ」


「ちょっとの範囲がおかしいんだよ」


「答えて」


「……例えば?」


「例えば、この空とか、この町とか。学校とか、家とか」


 葵はひとつずつ、遠くを見るように口にする。


「子どもの頃のことも」


 とおるの喉が乾いた。


「私と遊んだことも」


「……葵」


「全部」


 声は穏やかなままだった。


「もし誰かに、『最初からなかったものだよ』って言われたら」


 蝉の音が少し遠ざかる。


「とおるは、どうする?」


 問いの意味を考えた途端、胸の奥へ冷たいものが落ちた。


 この場所の不自然さ。止まった積乱雲。読もうとするとぼやける文字。誰もいない街。自分の身体。主根。あの奇妙な光。頭の中へ流れ込んだ無数の関係。


 ——知らないはずなのに、懐かしかった景色。


「……どういう意味だよ」


「もしもの話」


「そういう言い方する時のもしもって、だいたいもしもじゃないだろ」


 葵は答えなかった。


 とおるは無意識に手のひらを握る。


「……なくなるのか?」


「何が?」


「今までのこと」


「どう思う?」


「質問で返すなって」


「ごめん」


 葵は素直に謝った。


 とおるは息を吐く。


「もし……仮に」


 ゆっくりと言葉を選ぶ。


「仮に全部、俺が思ってたのと違ったとしても」


「うん」


「俺が覚えてることまで消えるわけじゃないだろ」


 葵の目が、わずかに見開かれた。


「学校が本当はなかったとか、町がどうとか、何を言われても、俺はここで遊んだ記憶がある。痛かったことも、楽しかったこともある」


「……うん」


「お前がいたことも」


 葵の唇がわずかに震える。


「少なくとも、俺の中にはある」


 とおるは川を見た。


「だから……全部嘘だったって言われたら、腹は立つと思う」


「腹立つんだ」


「そりゃ立つだろ。勝手に人の人生を無効扱いされたら」


 自分で言いながら、なぜか胸の奥に熱が生まれた。


 まだ何も知らない。


 問いの本当の意味さえ分からない。


 それでも、これだけは。


「なかったことには、したくない」


 葵は黙っていた。


 長い沈黙。


 やがて。


「そっか」


 葵はほんの少しだけ俯いた。


「よかった」


「何が?」


「ううん」


「またそれ?」


「今は、いいの」


「情報開示が渋いな……」


「ごめんね」


「いや、まあ」


 とおるは頭を掻こうとして、自分の髪が思ったより短いことに妙な違和感を覚えた。


 この姿は、いつの自分なのだろう。


 年齢は今の自分に近い。


 服だけは昔の世界のもの。


 葵の年齢は曖昧。


 何もかも、境界がぼやけている。


「……葵」


「うん」


「お前は、何でそんなこと知ってるんだ?」


 とうとう聞いた。


 避け続けていた問いだった。


 葵の表情が止まる。


 風が消えた。


 土手の草が、傾いた形のまま動かなくなる。


 とおるは目を見開いた。


 川面から細かな波が消える。


 光の粒を抱いたまま、流れていたはずの水まで止まっていた。


 そして。


 あれほど耳を埋め尽くしていた蝉の声が消える。


 まるで音というものだけを、世界からそっと抜き取ったような静寂だった。


 遠くの積乱雲も。


 鉄塔も。


 住宅街も。


 草も。


 川も。


 何ひとつ動かない。


 葵だけが、そこにいる。


 彼女は答えなかった。


 ただ、とおるを見ていた。


 懐かしい目で。


 寂しそうな目で。


 そして、ずっと昔から、この質問をされる時が来ることを知っていたような目で。


「……葵?」


 自分の声だけが、妙に遠くまで響いた。


 葵の髪も、もう風に揺れていない。


 それでも彼女は確かに瞬きをして、ゆっくり息を吸う。


「……ねえ、とおる」


 やがて葵は、とても静かに言った。


「本当に聞きたいのは、それ?」


「え?」


「私がどうして知ってるのかじゃなくて――」


 葵はほんの少しだけ笑った。


 昔、何か悪戯を思いついた時によく見せたものに似ていて、それなのに、とおるの記憶には存在しないほど寂しい笑い方だった。


「どうして死んだはずの私が、ここにいるのかじゃない?」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。