第73話 夢の岸辺に眠るもの
その言葉に何を返せばいいのか、とおるには分からなかった。否定することも驚いてみせることもできないまま、ただ目の前にいる葵の瞳を見つめていると自分がずっと避け続けてきたものを、彼女だけが最初から知っていたような気がした。
問いの形にしてしまえば簡単なのだ。ここはどこなのか、今日という日はいつなのか、目の前にいる少女は本当にあの葵なのか――けれど、どれだけ問いを積み重ねても、人の足では決して辿り着けない場所があり、どれほど悔やんだところで巻き戻せない時間があることをとおるはもう知っている。だから長いあいだ、陽射しの向こう側に置き去りにした記憶へ手を伸ばすことも、その奥に何が残っているのか確かめることも、できるだけしないようにしてきた。
それでも、本当はずっと思っていた。
どうすれば、もう一度あいつのいる場所まで辿り着けるのだろう。
どれほど速く生きれば、君に追いつけるのだろう。
叶うはずのない問いを胸の片隅へ押し込み、知らないふりをしたままいくつもの季節を越えてきたのに、夕方の湿った土の匂いや、遠くで途切れず鳴いている蝉の声、真っ青な空の果てへゆっくり膨らんでいく白い雲を見つけるたびに、とおるの心はほんの少しだけ昔へ戻っていた。たぶん自分でも気づかないところで、あの日へ続く道を探していたのだ。
帰りたかったのかもしれない。
葵がいた場所へ、ではなく。
葵がまだ隣にいて、自分もまだ何ひとつ失うということを知らず、今日が終わってしまっても明日になれば当たり前のように続きを始められると、疑う理由すら持っていなかった――あの夏へ。
「……聞いたら、答えてくれるのか?」
ようやく出た声は、自分が思っていたよりも頼りなく、少し情けないほど弱かった。
葵はすぐには答えず、止まったままの川を背にとおるの顔を静かに見つめていた。その目は昔と何も変わっていないようにも見えるのに、ふとした瞬間には、とおるの知らない長い年月をひとりきりで歩いてきた誰かのようにも見えた。
「答えてほしい?」
「……分からない」
「そっか」
「でも、聞かないまま終わるのも嫌なんだと思う」
「うん」
「お前が何なのかも、ここがどこなのかも、俺には全然分からない。でも……」
そこまで言って、とおるは一度口を閉じた。聞いてしまえば何かが壊れるかもしれないし、答えを知った瞬間、目の前にいる葵をもう「葵」とだけ呼べなくなるかもしれない。それでも、その怖さより先に胸へ浮かんだものはひどく単純だった。
「……もう、会えなくなるのは嫌だ」
葵の目が、ほんの少しだけ細くなった。
「とおる」
「何だよ」
「昔より、ちゃんと言えるようになったね」
「……今それ言う?」
「だって昔なら、絶対そんなこと言わなかったもん」
「昔の俺、便利に使われすぎだろ」
「でも本当にそうだったよ。変に格好つけてさ」
「悪かったな」
「ううん。今のほうが、ちょっと好き」
「ちょっとかよ」
葵はくすりと笑った。
つられて、とおるの口元もわずかに緩む。
そのやり取りだけなら昔と何も変わらなかった。夕方まで遊んで、意味もなく言い合いをして、どちらから謝るでもないまま次の日にはまた同じ場所へ集まっていた頃の、そのまま続きのようだった。
なのに。
葵の笑顔を見た途端、とおるはなぜかもうすぐこの時間が終わるのだと分かってしまった。
「忘れないで、とおる」
葵が言った。
「……え?」
その言葉に重なるようにして——
「空」が落ちてきた。
そうとしか言いようがなかった。
頭上に広がっていた夏の青が、まるで長いあいだ世界へ貼りついていた薄い膜のように、音もなくゆっくりと剥がれ始めたのである。
最初に異変が現れたのは、対岸に膨れ上がる積乱雲よりさらに遠い、気を抜けば見過ごしてしまいそうな空の一角だった。髪の毛ほど細い黒い筋が一本だけ走り、それは雷のように瞬くことも、雲の影のように形を変えることもないまま、ただひどく静かに横へ伸びていった。
まるで空という一枚の絵の裏側から誰かが細い刃先を押し当て、こちらへ音を漏らさないよう慎重に切れ目を入れているみたいだった。
「……何だよ、あれ」
とおるが見上げている間にも細い亀裂は青を割りながら遠くへ遠くへ伸び、やがて視界の端から端まで届く一本の線になった。
そして、その境目から。
空が、剥がれた。
薄い青の欠片が、春の花びらのようにはらはらと降ってくる。けれど地上までは届かず途中で輪郭を失うと、淡い光の粒へほどけながらまるで初めから何もなかったかのように消えていった。
剥がれ落ちた空の向こうに夜があるわけではなかった。星もなければ、果てのない宇宙が広がっているわけでもない。
そこにあったのは、何もないという言葉ですら足りないほどの空白だった。
黒いのではない。
暗闇ですらない。
暗いと感じるためにはそこに光がなければならないのだと、そんな当たり前のことを思い知らされるような場所。
色が失われているのではなく、色というものがまだ一度も生まれていない。
そんな、世界より前にある空白だった。
「……葵」
こぼれた声は、自分でも驚くほど幼かった。
川の向こうへ先に走っていく彼女の背中を、「待てよ」と必死に追いかけていた頃の声へ、身体だけが勝手に戻ってしまったようだった。
返事はなかった。
葵はただ、とおるを見ている。
やがて風が河川敷を通り抜け、その風に撫でられた草の穂先から、今度は地上の景色が消え始めた。枯れていくのではなく、そこに形を留めている理由そのものを忘れてしまったかのように細かな光へほどけ、土手を覆っていた緑が遠い端から波にさらわれる砂のように少しずつ失われていく。
河川敷も、対岸の家並みも、鉄塔も、遠くに見えていた学校も、何度も渡った橋も、さっきまで二人で歩いてきた街さえも、夏の陽炎より頼りない輪郭へ変わり、古い記憶をどうしても思い出せない時のように細かなところから欠けていった。
蝉の声がひとつ、消えた。
少し遅れて、またひとつ。
耳を塞ぎたくなるほど世界いっぱいに満ちていた夏の音が、いつの間にか遠くへ退いていく。最後まで残っていたひぐらしの声も、知らない夕暮れの向こうへ吸い込まれるように細くなり、やがて、それすら聞こえなくなった。
「待って」
とおるは立ち上がった。
「葵、待って。……なあ、待ってくれよ」
何を待ってほしいのか、自分でも分からなかった。
空がなくなることなのか。
街が消えることなのか。
この夢そのものが終わってしまうことなのか。
それとも。
また彼女がいなくなってしまうことなのか。
葵もゆっくりと立ち上がった。
不思議なことに、彼女だけはまだ何ひとつ変わっていなかった。世界が端からほどけ、夏そのものが薄れていく中で、葵だけがあの日と同じ陽射しを肩に乗せ、記憶の中の姿のまま、静かにそこへ立っている。
「忘れないで」
今度は、少しだけ念を押すような声だった。
「……何を?」
とおるが訊くと、葵はすぐには答えず、ほんの少し困ったように笑った。
昔と同じ笑い方だった。
とおるが一人で考え込み、眉間に皺を寄せ、誰にも頼まれていない難問を勝手に背負い込んでいた時、呆れたように、それでも最後まで隣にいてくれた葵がよく見せていた顔だった。
「私のこと、忘れないで」
その声に重なるように、川の流れが白い光へほどけていく。
「ここにいたことも。とおると一緒に遊んだことも」
橋の輪郭が崩れ、きらきらと細かな粒になって消えていった。
「泣いたことも、笑ったことも。くだらないことで喧嘩して、次の日になったら何もなかったみたいな顔して、また一緒に遊んでたことも」
遠くから街が失われていく。
積乱雲はもう白い峰の形を保っていられず、巨大な綿の山が無数の光へ変わり、音ひとつ立てないまま空白へ落ちていった。
「それから――」
葵はそこで一度言葉を止めると、消えていく世界を懐かしむように、それとも長いあいだ暮らした町を静かに見送るように、ゆっくり辺りを見回した。
「世界が、最初から今みたいな形だったわけじゃないってことも」
とおるの呼吸が止まった。
その一言だけが、それまで交わしていた別れの言葉とはまるで違う場所へ落ちた気がした。
胸の奥で何かが、かすかに軋んだ。
「葵、お前……それ、どういう――」
訊かなければならない。
今度こそ、聞き逃してはいけない。
葵は何を知っているのか。
なぜ今、それを自分へ伝えようとしているのか。
あの世界とは何なのか。
この世界は、いったい何なのか。
そして――最初からなかったものとは、何なのか。
とおるが手を伸ばした、その先で。
葵の髪がひと筋だけ、光へ変わった。
「葵!」
考えるより先に身体が動いていた。
ほんの数歩しか離れていなかったはずなのに、届かない。
一歩踏み出せば、そのぶんだけ二人の間の距離が引き延ばされる。走れば走るほど河川敷は遠ざかり、葵の姿だけが、もう二度と取り戻せない夏の日の向こうへ置いていかれていく。
まただ、とおるは思った。
夢の中では、いつもこうだった。
見つけたと思えば遠ざかる。
名前を呼んでも届かない。
どれだけ走っても、その背中には追いつけない。
だから今度は、それまでより強く地面を蹴った。
今度こそ。
今度こそは。
せめて、その手に触れたかった。
指先だけでもいい。
ほんの一瞬でもいいから、そこにいるのだと確かめたかった。
「大丈夫だよ」
葵の声が聞こえた。
とおるの足が止まる。
気づいた時には、世界はもうほとんど残っていなかった。
空も、街も、川も、あれほど濃かった夏の色も、すべてが遠い記憶の底へ沈んでしまい、何もない空白の中には葵だけが立っていた。
「だって、とおるは――」
彼女の唇が動く。
けれど、その先だけが聞こえなかった。
「……え?」
とおるが思わず聞き返した、その瞬間。
葵の輪郭が、ふっと光へ溶けた。
「待っ――」
伸ばした指先は、何にも触れなかった。
温度にも。
髪にも。
服にも。
あの小さな手にも。
届かなかった。
最後に残ったのは、葵の笑顔だった。
泣きたくなるほど懐かしく、だからこそ胸が痛くなるほど、昔と何ひとつ変わっていない。
あの夏の笑顔。
それが淡い光の中へ静かにほどけていき、輪郭をなくし、記憶の向こうへ溶けていったあと。
世界から、最後の光が消えた。
◇
「――とおる!」
意識の底に残っていた最後の光がふっと消え、その代わりに遠くから誰かの声が滲み込んできたかと思うと、次にとおるの耳へ届いたのは、焦りを隠す余裕さえないまま何度も自分の名前を呼ぶミレイユの声だった。
「――とおる。おい、とおる、聞こえるか?」
「……ん」
「とおる!」
ひどく深い水の底から急に引き上げられたような重さが身体の芯に残っていて、とおるは鉛でも乗せられたような瞼をどうにか持ち上げたものの、目の前には白い靄がかかり、何度かゆっくり瞬きを繰り返しても、ぼやけた輪郭はすぐには元へ戻らなかった。
「私が分かるか?」
やがて霞の向こうから銀灰色の髪と薄紫の瞳が浮かび上がり、寝台の脇に片膝をついたミレイユが、こちらの顔を食い入るように覗き込んでいるのが分かった。普段なら、どれほど慌てていても表情の奥へ押し込めてしまうはずの焦りが今日は隠しきれておらず、とおるが目を開けたと分かっても安心して肩の力を抜くどころか、瞳孔の動きや呼吸の速さまで一つずつ確かめようとしている。
「……ミレイユ」
「よし。名前は出るな」
「そこから確認する?」
「一時間近く目を覚まさなかった人間に、起き抜けから気の利いた受け答えまで求めるな」
「一時間?」
その数字を聞いた途端、頭の奥で小さく何かが引っかかった。身体を起こそうとして肘へ力を入れた瞬間、背中から首筋へかけて重い鈍痛が走り、半拍遅れて頭の中心までぐらりと揺れたような感覚が追いかけてくる。
「起きるな」
「いや、これくらいなら大丈夫」
「大丈夫かどうかを、お前自身に判断させる段階はもう過ぎた」
「信用ないな……」
「当然だ」
乱暴に押し倒すようなことはしなかったが、ミレイユは有無を言わせない手つきで肩へ掌を添え、とおるの身体をもう一度寝台へ戻した。その声には明らかな苛立ちが混じっているものの、無茶をした本人へ腹を立てているだけではなく、目を覚まさなかった時間そのものに相当肝を冷やしたのだろうということくらいは、とおるにもなんとなく察せられた。
「それで……何があったんです?」
「それはこちらが聞きたい」
「ああ……そうだった」
目を閉じると、記憶はいくつかの断片だけを置き去りにしたまま、少し遅れて戻ってきた。逆枝の森。深層へ続く道。地表へ露出した主根。そこへ伸ばした掌。そして触れた瞬間、視界のすべてを埋め尽くした無数の白い線と、骨の内側まで震わせるように響いた、あまりにも巨大な脈動。
その先を思い出そうとすると、記憶は途端に水へ落とした紙のように形を失い、その代わりとして強い夏の日差しや、川面を撫でて渡っていく風、それから誰かの黒い髪だけが、輪郭を結ばないまま胸の内側へ残っていた。
「……夢を見てた気がします」
とおるがぽつりとこぼしても、ミレイユはすぐには問いを重ねず、ほんの少しだけ眉を寄せてこちらを見た。
「覚えているか?」
「いや……ちゃんとは。すごく懐かしい場所だった気はするんだけど、思い出そうとすると、なんか……手から抜けていくみたいで」
言葉を探しているうちに、胸の奥へ理由の分からない寂しさが広がっていく。それは悲しい出来事を思い返した時の痛みとは少し違っていて、もう二度と戻れない場所から帰ってきたばかりなのに、指先にはまだそこにあった温度だけが残っており、その正体を確かめようと触れた途端、全部消えてしまいそうな、そんな頼りない感覚だった。
「……寂しいな」
「何が?」
「分からない」
それ以上は、どう説明しても違う気がして、とおるは口を閉じた。
そこでようやく、自分が主根のある深層ではなく、グレンの工房へ戻されていることに気づく。横たわっているのは飾り気のない木製の寝台で、その周囲には治療用の布や薬瓶、樹液を加工したらしい淡い色の液体を満たした細長い容器が並んでおり、どうやらここは鍛造場そのものではなく、工房の脇へ後から設けられた休憩兼治療区画らしかった。
もっとも、「部屋」と呼ぶには少々変わった造りで、壁も天井も世界樹の地下根系から完全に切り離されているわけではなく、巨大な根と根の隙間に人間が暮らせる場所だけを器用に縫い込んだような形になっている。頭上には梁の代わりに太い根が何本も横切り、その表面へ付着した琥珀色の発光苔が柔らかな明かりを落としていた。壁際には工具棚や素材箱が積まれている一方、炉から少し離れた一角には小さな湯沸かし釜や折り畳み式の机まで置かれており、長期間地下へ籠もる職人らしく、仕事場と生活空間をきっちり分ける発想は最初からあまりなかったように見える。
床も場所によって素材が違い、熱を持つ区画には黒い耐火石、寝台の周囲には踏み心地の柔らかな厚い木板が敷かれ、その継ぎ目を縫うように何本もの細い銀管が走っていた。管の内部では魔力を帯びた液体がゆっくり循環しているらしく、工房のどこか遠くから響く低い振動と重なって、とおるには巨大な生き物の腹の中へ横たわっているような妙な錯覚さえ覚えられた。
「ここまで運んだんですか?」
「ああ。お前が倒れたあと、グレン殿が主根との接触を切り、ゾロ殿と私で状態を確認した。身体そのものに大きな損傷は見当たらなかったが、呼びかけてもほとんど反応がなかったから、ひとまずここへ戻した」
「……痛いことしてない?」
「状態確認だ」
「したんだ」
「必要だった」
「怖いな」
「今はそれより右目のほうを怖がれ」
ミレイユは冗談へ付き合う気などないらしく、とおるの右目を正面からじっと覗き込んだ。
「痛みは?」
「少し重いくらい。焼ける感じはない」
「視界はどうだ?」
「普通。……たぶん」
「白い線は見えるか?」
問われて、とおるは天井を横切る根や机の縁へ順番に視線を移した。普段なら意識を向けた時に浮かび上がることのある、物と物、人と人を結ぶ関係の線は、今のところどこにも現れない。
「出てない」
「出そうとするなよ」
「分かってる」
「本当に分かっているか?」
「今日はずいぶん信用が低いな」
「主根へ触れたまま意識を失った人間へ、目覚めて五分で信用を全額返すほど私は寛大ではない」
「ごもっともです」
「あらあら、起きて早々ちゃんと怒られてるのねえ」
少し離れたところから柔らかな女の声が飛んできて、とおるが顔だけを向けると、作業机のそばにゾロが立っていた。片手を腰へ添えながらこちらを眺める姿にはいつもの余裕があり、口元にも軽い笑みが浮かんでいるものの、普段なら誰かをからかうために細められる赤みがかった瞳は、今だけはとおるの顔色や呼吸を慎重に確かめているようだった。
「ゾロさん」
「はぁい。お目覚め?」
「たぶん」
「たぶん、ねえ」
ゾロはくすりと笑い、少しだけ肩をすくめた。
「一時間近く寝てた人の第一声にしては、ずいぶん自信がないわね。でもまあ、口がちゃんと回ってるなら少し安心したわ」
「すみません」
「そこは謝らなくていいの。好きで倒れたわけじゃないでしょうし」
そこで一度言葉を切ったゾロは、わずかに首を傾け、とても穏やかな声音のまま続けた。
「ただし、次に正体不明の巨大な根へ触る時は、倒れる前にひと声ちょうだいね?」
「倒れる前提なんですか」
「今のところ実績が一回一敗だからねえ」
「ひどい」
「事実よ」
言い方は柔らかいのに、逃げ道だけはきれいに塞いでくる。
ミレイユが小さく息を吐いた。
「ゾロ殿、甘やかさないでください」
「甘やかしてないわよ。怒る係をミレイユちゃんに任せてるだけ」
「誰が怒る係ですか」
「今のところ、圧倒的にあなたね」
「……」
「ほら、また眉間に皺」
「ゾロ殿」
「はいはい。もう言わないわ」
そう言いながら、口元を見る限りどう考えても楽しんでいる。
とおるはそのやり取りを眺めて、少しだけ肩の力が抜けた。少なくともゾロはいつものゾロらしい。
炉の近くでは、グレンが腰を下ろしたまま、こちらの騒ぎへ興味があるのかないのか分からない顔で髭を撫でていたが、とおるが十分に受け答えできると判断したらしく、やがてゆっくり腰を上げた。
「夢を見た、と言ったな」
「たぶん」
「どんな夢じゃ」
「……どこか遠い場所にいた…と思います。昔いた場所みたいな、そんな感じで。でも、細かいところは全然出てこないですね」
「人はおったか?」
そう問われた瞬間、頭の奥に黒い髪が浮かんだ。
名前さえ喉元まで出かかったような気がするのに、それを声へ変えようとすると輪郭だけがするりとぼやけてしまう。
「いた……気はします」
「誰じゃ」
「分かりません。ただ……なんだろう。世界が、止まってたみたいな」
グレンはそこで追及を止め、年輪を刻んだような深い皺の奥で目を細めると、とおる本人ではなく、そのさらに向こう側にある何かを覗き込むような奇妙な視線を向けた。
「なるほど」
「何がです?」
「お主はどうやら、世界樹の“中”へ触れてしまったらしい」
「中?」
「根の内部へ入り込んだという意味ではないぞ」
「それくらいは何となく分かります」
「なら話は早い」
グレンは近くの椅子を引き寄せるでもなく、その場で腕を組んだ。
「世界樹は、ただ図体のでかい木というだけではない。人の一生より長く、王国より長く、街が生まれて消える時間よりさらに長く生きてきたものが、何ひとつ抱え込まず、空っぽのまま立っておると思うか?」
とおるは答えず、その先を待った。
「木は年輪を作る。雨の多かった年も、ひどく乾いた年も、枝を折られた季節も、根元で獣が死んだ夜も、すべて身体へ重ねながら太くなっていく。それ自体は珍しい話ではないが、あれほど長く世界へ根を張ったものが重ねてきたのは、木として過ごした時間だけではないのかもしれん」
「記憶……みたいなもの?」
「その言い方が一番近いじゃろうな。ただし、人の記憶とは違う。思い出したい時に棚から取り出せるものでもなければ、眠れば都合よく見られる夢でもない。ただ、長い時間の中で世界樹が触れてきた何かが、その内側へ沈んでおる――わしら枝鍛冶は、昔からそう考えておる」
ミレイユが眉を寄せる。
「世界樹が、人の記憶を保存しているということですか?」
「そこまで単純ではない。何を拾い、何を捨て、何を残すのかも分からんし、そもそも人間と同じ意味で“覚えている”かどうかさえ怪しい。ただな」
グレンは改めてとおるを見る。
「主根へ触れた者が、そこへ沈むこと自体はごく稀にある」
「じゃあ、俺だけじゃないんですね」
「そこまではな」
グレンは顎へ指を当てたものの、すぐに眉間へ皺を寄せる。
「じゃが、それにしても妙じゃ」
「何が?」
今度は返事まで少し間があった。
グレンはとおるから視線を外し、工房の壁、そのさらに向こうへ広がる世界樹そのものを意識するように顔を上げた。
「普通は、あそこまで迎え入れられん」
「迎え入れられた?」
「言葉を選べば、そうなる。主根へ触れた騎士が過去の断片を見ることもあるし、枝鍛冶が年輪に似た景色を夢へ見ることもある。じゃが、お主の呼吸と魔力の沈み方は、単に何かを見せられた者とは少し違っておった」
「どう違ったの?」
今度はゾロが尋ねた。声の柔らかさはそのままだったが、先ほどまで混じっていた軽いからかいは消えている。
「境目が、薄くなっておった」
グレンの答えを聞き、ゾロの瞳がわずかに細くなった。
「身体と根の魔力が混ざったという意味ではない。むしろ、混ざっておらんから気味が悪い。普通、異質なもの同士があそこまで深く触れれば、どちらかが引かれるか、多少なりとも染まる。お主の場合は、違うもののまま近すぎた」
とおるは自分の掌へ目を落とした。
「それって……良いことなんでしょうか」
「分からん」
「悪いことだったり?」
「それも分からん」
「あら、便利ねえ」
ゾロが口元だけで笑う。
「“分からない”を二回続けると、急に専門家っぽく聞こえるわ」
「分からんものを知ったふりして語る職人よりはましじゃ」
「それはそうね」
ゾロはあっさり頷いた。
「名前だけ立派につけて、あとで全員で困るよりずっといいわ」
「話の分かる火女じゃ」
「褒めても何も出ないわよ」
「最初から期待しとらん」
「ほんっと可愛くないわねえ」
グレンは鼻を鳴らすと、そこで話を切り上げるように片手を振った。
「ただ、一つだけ決められることはある。お主はもう主根へ近づくな」
「それは俺も賛成です」
「私もだ」
ミレイユが間髪入れずに答える。
「私も賛成ね」
ゾロも笑みを浮かべたままとおるを見る。
「今回はちゃんと帰ってきたけれど、同じ扉をもう一度開けた時に、また同じところへ戻れる保証なんてないでしょう?」
「言い方が怖い」
「あら、そこは怖がっておいたほうがいいところよ」
「はい」
「素直でよろしい」
ゾロは満足そうに頷いたあと、何気ない様子でグレンへ視線を移した。
「それで?」
「何じゃ」
「さっきから、ずいぶん考え込んでるでしょう」
「……」
「その顔、知ってるわよ。分からないものを見つけて黙ってる時と、面白そうな玩具を思い出した時の顔が、あなたって妙によく似てるの」
「失礼な女じゃ」
「当たってる?」
グレンはしばらく黙っていた。
するとゾロの笑みが、ほんの少しだけ深くなる。
「ほら」
「……ひとつ、思い出したものがある」
「やっぱり」
「何です?」
とおるが尋ねると、グレンは少しだけ面倒そうに髭を撫でた。
「ここへ来た時から見せるつもりはなかった。というより、存在そのものを半分忘れかけておったくらいじゃ」
「そんなもの置いといて大丈夫なんです?」
「忘れたいものほど場所を取る。それが工房じゃ」
「嫌な説得力だな……」
「ただ、お主が主根へ触れたところを見て、少し考えが変わった」
ゾロは笑みを消さないまま、わずかに顎を引いた。
「危ないもの?」
「多少は」
「あら」
「命に関わるようなものではない」
「“今までのところは”って続く?」
「よく分かっとる」
「でしょうねえ」
ゾロは大げさにため息をつくでもなく、軽く肩をすくめた。
「先に言っておくけれど、今のとおる君に無茶はさせないわよ。ついさっき一時間も寝かされたばかりなんだから、二回目はさすがに笑えないもの」
「持たせるだけじゃ」
「それを無茶じゃないって言い切れる?」
「言い切れん」
ゾロは、とても綺麗に笑った。
「そういうところ、昔から本当に変わらないわねえ」
「嫌なら来るな」
「嫌とは言ってないでしょう?」
声は甘い。
けれど、目だけは笑っていなかった。
「危なかったら止める。それだけよ」
「好きにせい」
「ええ、最初からそのつもり」
とおるは二人を交互に見た。
「……俺の話なんですけど」
「あら、ごめんなさい」
ゾロはようやくこちらへ向き直った。
「もちろん、決めるのはあなたよ、とおる君。爺さんが面白がってるからって、付き合う義務なんてないわ」
「そこまで言われると、逆に気になるんですよね」
「でしょう?」
「誘導してません?」
「してないわよ」
「笑顔が怪しい」
「観察よ」
「すごく便利ですね、その言葉」
「覚えておくといいわ」
横からミレイユが口を挟む。
「とおる。無理はするな」
「分かってる」
「本当に?」
「今日は何回確認されるんだ」
「必要なだけだ」
「やっぱり怖いですね、白華って」
「あら、今さら?」
ゾロが楽しそうに笑った。
「じゃあ、まず歩けるか確かめましょう。ふらついたらその時点ですぐ言うこと。倒れてからの事後報告は禁止ね」
「はい」
「ミレイユちゃん、右についてあげて」
「承知しました」
「私は後ろを見るわ。今度倒れたら、ちゃんと受け止めてあげる」
「優しい」
「床へ落としたら爺さんに怒られそうだから」
「優しさが工房都合だった」
「半分くらいはあなたのためよ」
「残り半分は?」
「床」
「正直だな」
ゾロはくすくす笑った。
とおるはミレイユの手を借りながら身体を起こし、慎重に床へ足を下ろした。予想していたほど身体は重くなく、むしろ一時間も寝かされていたせいで筋肉が少し固まっている程度だったが、頭の内側にはまだ薄い膜が一枚張りついているような、ぼんやりした違和感が残っていた。
それでも立って歩くぶんには問題なさそうで、グレンが先頭に立つと、とおるたちは工房のさらに奥へ向かった。
鍛造場を抜けた先には、最初に訪れた時には使われていなかった裏側の作業区画が広がっていた。そもそもこの工房は最初から一本の大きな建物として設計されたわけではなく、地下へ縦横無尽に伸びる根と根の隙間を見つけるたび、必要になった場所へ床や炉や棚を足していった結果、長い年月をかけて現在の迷路じみた形へ育ったらしい。まっすぐ歩ける通路などほとんどなく、目の前へ太い根が現れれば左右どちらかへ折れ、数段下ったと思えばすぐ別の足場へ上がる階段が現れ、時には人ひとり通るのがやっとの細い木橋で深い溝を越えることさえあった。
壁面には金属製の棚が隙間なく埋め込まれ、大小さまざまな槌や鑿、鉗子、刃のない鉋のような道具に加え、透明な環を何重にも重ねた用途不明の測定器まで整然と並んでいる。その間には試し打ちした金属片や逆枝の欠片が吊るされ、それぞれへ日付と短い注記が直接刻まれていた。紙の札も一部には使われていたが、炉の熱や地下特有の湿気ですぐ傷むため、長く残す記録は樹皮か金属へ彫り込むのが、この工房では昔からのやり方らしい。
しばらく進んだところで、床に細長い水路のような溝が現れた。ただし中を流れているのは普通の水ではなく、青白い光を帯びた透明な液体で、その表面では砂粒ほどの魔力粒子が浮かんでは消え、ゆるやかな流れに沿って奥へ運ばれていく。
「それは何です?」
ミレイユが尋ねた。
「逆枝の樹液を処理して作った冷却液じゃ。炉の周りへ回して、余分な熱を逃がしておる」
「触れないほうがいいですか?」
「触れんほうがいい」
「何が起きるんだ?」
「濃いところなら、皮膚が数日ほど硬化する」
「聞いてよかった……」
「あら、とおる君」
後ろからゾロの声が飛んでくる。
「今日はちゃんと聞いてから触るのね。偉いじゃない」
「一時間の昏睡から学びました」
「成長が早くて何より」
「褒められてる気がしない」
「ちゃんと褒めてるわよ。七割くらい」
「残り三割は?」
「観察」
「またそれか」
「便利でしょう?」
さらに奥へ進むにつれ、工房の空気は少しずつ変わっていった。鍛造場に満ちていた熱と金属の匂いが遠ざかり、代わりに乾いた木と古い油、それから長く閉ざされていた場所だけが持つ、ひやりとした古い空気が混じり始める。
そこへ並んでいたのは、普段使いの工具や素材ではなかった。完成しなかった武具。用途を失った試作品。構造上の問題が見つかり、そのまま眠らされた品々。
刃の中央だけ妙に色の違う剣や、柄まで一本の金属で繋がった槍、見た目は薄い木片ほどなのに床へめり込むほど重い盾、さらには弦を張る場所そのものが存在しない弓まであり、どれも一目見ただけでは、なぜ使われなくなったのか分からないものばかりだった。棚の端には素材名や作成年、試験者の名前に加え、失敗の内容らしき短い言葉が小さく刻まれている。
「ここって、失敗作置き場?」
「失敗作だけではない。試作品、保留品、使い手が決まらんもの、完成したものの用途そのものがなくなった品もある」
「あら、懐かしいわねえ」
ゾロが棚の一角を見て、わずかに歩みを緩めた。
「まだ残してたの、その火槍」
「捨てる理由がない」
「持った人の髪を全部焦がしたやつでしょう?」
「二人目からは焦げとらん」
「一人目は焦げたのね」
「軽傷じゃ」
「爺さんの軽傷基準は信用しないほうがいいわよ、とおる君」
「覚えておきます」
「火女が大げさに言っとるだけじゃ」
「眉毛までなくなった人を軽傷扱いする人に言われたくないわねえ」
「生えたろうが」
「生えればいい問題なの?」
とおるは少し考えた。
「……帰っていいですか?」
「駄目よ」
「即答」
「せっかくここまで来たんだもの」
ゾロは楽しそうに笑う。
「怖いもの見たさって、あるでしょう?」
「その言葉、同行者側から言っていいんですか」
「私は見る側だもの」
「俺は触る側なんですけど」
「あら、そうだったわね」
「忘れないでください」
「大丈夫。そこはちゃんと覚えてるわ」
そんなやり取りを背中で聞きながら、グレンはさらに奥へ進み、やがて他の棚から少し離れた場所で足を止めた。
そこには、一本の剣が置かれていた。
華やかな装飾は何もない。宝石も騎士団の紋章もなく、灰白色の鞘と濃い色合いの柄だけで形作られたその剣は、遠目に見れば古びた実用品にしか見えない。長さは一般的な片手剣よりわずかに長いものの、両手剣と呼ぶには短く、鞘の表面にはごく細い黒い筋が数本走っていたが、それが自然な木目なのか、後から刻まれた傷なのかさえ判然としなかった。
「これ?」
とおるが尋ねる。
「こやつじゃ」
グレンは剣の前で腕を組んだ。
「問題児、と言えば分かりやすいかの」
「あらまあ」
ゾロが剣を眺める。
「ずいぶん地味な子ね」
「見た目だけはな」
「聖装?」
「完成した聖装とは呼べん。逆枝は使っとるが、枝そのものが主材ではない」
「それで、何が問題なの?」
グレンの目がわずかに細くなった。
「こいつは何も受け入れん」
先ほどまでより少し低い声で、ゆっくりと言う。
「魔力を通そうとすれば止める。魂相を合わせようとすれば弾く。剣技へ馴染ませようとすると、今度は持ち手の癖そのものを嫌う。無理に力で押さえ込めば、剣が折れるより先に握った側が疲弊する」
「まあ」
ゾロはどこか楽しそうに目を細めた。
「ずいぶん面倒な子ねえ。誰に似たのかしら」
「わしを見るな」
「見てないわよ?」
「見とる」
「気のせいよ」
「完全に見てますよ」
とおるが口を挟むと、ゾロは嬉しそうに笑った。
「とおる君もそう思う?」
「はい」
「ほら」
「二対一にするな」
ミレイユは二人のやり取りには付き合わず、剣へ視線を向けたまま尋ねた。
「これまで何人が試したんです?」
「十七人」
「全員、駄目だった?」
「全員じゃ。一人は握っただけで魔力酔いを起こし、一人は右腕が半日ほど動かんようになった。他は剣のほうが完全に閉じてしまって、鞘から抜くことさえできんかった」
「あらあら」
ゾロがゆっくりと、とおるを見る。
「聞いた?」
「聞きました」
「今のうちなら帰ってもいいのよ?」
「その言い方、絶対に帰らないと思ってるでしょう」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「本当に心配してる」
「そっちも半分あるんだ」
「失礼ねえ」
ゾロは少し口を尖らせるように笑った。
「私だって心配くらいするわよ。あなた、ほんの少し前まで寝たまま起きなかったんだから」
からかうような言葉の隙間から、ほんのわずかに本音が覗いた。
とおるは一度剣へ目を戻した。
グレンは灰白色の鞘を走る黒い筋へ指先を添える。
「こやつは何か特定のものを嫌って拒んでおるというより、最初から何とも繋がろうとせん。だから長いこと、わしは作り方そのものを間違えたのだと思っとった」
「今は違うかもしれない?」
「そう思い始めた」
グレンの視線が、とおるへ向く。
「木目のない男が主根へ触れ、それでも混ざらず帰ってきたとなれば、試したくもなる」
「あら」
ゾロが横から口を挟んだ。
「言い方を選びなさいよ、爺さん。それじゃ、とおる君が珍しい虫か何かみたいでしょう?」
「似たようなもんじゃ」
「違いますよ」
「ほら、傷ついたじゃない」
「ゾロさん、かばってます?」
「ええ。七割くらい」
「残り三割は?」
「ちょっと面白い」
「裏切られた」
ゾロは楽しそうに笑ったあと、少しだけ表情を和らげる。
「でも、本当に決めるのはあなたよ。持ちたくないなら持たなくていい。爺さんが興味を持ってるからって、付き合う必要はないわ」
「……」
「ミレイユちゃんも、そう思うでしょう?」
「はい。危険があるなら、無理に試す必要はない」
「ほらね」
とおるはもう一度、剣を見た。
怖くないと言えば嘘になる。つい一時間ほど前、正体の分からない主根へ触れて意識を失ったばかりなのだから、今日はもう未知のものへ手を出さず、大人しく寝台へ戻るのが、おそらく一番まともな判断だった。
それでも、なぜか目を離せなかった。
灰白色の鞘へ走る細い黒線。何の変哲もない古い剣にしか見えないのに、こちらが一方的に眺めているのではなく、向こう側からも静かに存在を確かめられているような、そんな落ち着かない感覚がある。
「……持つだけ?」
「持つだけじゃ」
「何か変だったら、すぐ離す」
「それでいい」
「あら、決めたのね」
ゾロが微笑む。
「じゃあ私は後ろにいるわ。もし剣が飛んだら捕まえるから」
「剣が飛ぶ前提なんですか」
「爺さんの工房でしょう?」
「説得力が強い」
「でしょう?」
とおるはゆっくり右手を伸ばした。
「右手で大丈夫か?」
ミレイユが尋ねる。
「目はまだ少し重いけど、手は平気」
「違和感が出たら、その瞬間に言え」
「分かった」
「本当に?」
「ミレイユちゃん」
ゾロが横から笑う。
「そこまで言うと、お母さんみたいよ」
「誰がお母さんですか!」
「あら、怒った」
「ゾロ殿!」
「はいはい、ごめんなさいね」
声だけ聞けば謝っているが、どう見ても反省していない。
とおるは思わず小さく笑い、そのおかげで肩へ入っていた力が少し抜けた。
改めて、柄へ指を伸ばす。
触れた感触は冷たくも熱くもなく、木とも金属とも言い切れない、不思議なほど乾いた感触が掌へ返ってきた。
そのまま、指を閉じる。
剣を握る。
一秒。
二秒。
三秒。
何も起こらない。
「……普通だけど」
そう言って顔を上げた瞬間、とおるはミレイユの目がわずかに見開かれていることに気づいた。
「グレン殿」
「ああ」
ゾロも一歩だけ距離を詰めた。
さっきまで浮かんでいた柔らかな笑みが、ほんの少しだけ薄くなっている。
「……あら」
「何です?」
「とおる君」
「はい」
「そのまま。動かさないで」
「怖い言い方しないでください」
「大丈夫よ。今のところは、ね」
「今のところ……」
「爺さん」
「ああ」
グレンの声が低くなる。
彼が見ていたのは、とおるの手でも柄でもなく、剣の鞘だった。
つられて、とおるも視線を落とす。
灰白色の鞘へ走っていた黒い筋。
その一本に寄り添うようにして、いつの間にか、ごく細い光が浮かんでいた。
白い。
どこかで見たことのある色だった。
それは磨かれた刃の反射でもなければ、魔力を通した武具が放つ分かりやすい発光とも違う。
まるで鞘そのものの奥深くにずっと眠っていた境目が、とおるの掌へ触れたことでようやく自分の形を思い出したかのように――。
一本の白い線だけが、静かに灯っていた。




