第71話 遠い昔の記憶
◇
長いあいだ、何もなかった。
暗闇があったのかと問われても、とおるにはそうだと答えることすらできなかった。暗いという感覚には、それを暗いと判断する自分と比較するための明るさが必要になる。けれどそこには音もなく、寒くもなく温かくもなければ、身体の重さや床へ触れている足の感触も、息を吸っているという実感さえ存在しなかった。ただ自分という輪郭だけが途方もなく広い空白の中へ薄く溶け、そのままどこへ流れているのかも分からない状態——
夢を見ているのかもしれない。
不意に、そう思った。
何かに触れていたような気がする。
大きな何か。
掌よりずっと広く、身体よりずっと大きく、それどころか街や山と比較することさえ馬鹿らしくなるほど巨大なものへ触れ、自分の心臓とは別の場所から聞こえてくる鼓動。
記憶を辿ろうとすると、水面へ沈めた指先から小さな波紋が広がるように、何かの欠片だけが遠くへ逃げていった。
名前。
自分の名前。
何だっただろう。
そう思ったところで、空白の向こうからひどく遠い音がした。
最初は一つだった。
細く、高く、耳ではなく記憶の内側へ直接触れるような音。
じい、と。
途切れて。
また、じい、と鳴く。
少し遅れて、別の場所から重なる。
じいじいじいじい、と、夏の熱を押し広げるような蝉の声だった。
「……あ」
声が出た。
自分のものだった。
声を出したという事実へ驚いたところで、今度は頬に柔らかな熱を感じた。火のそばへ顔を近づけた時の刺すようなものではなく、閉じていた瞼の上から日差しが染み込んでくる、あの少し重たくて眠気を残す夏の光。
とおるは、ゆっくり目を開いた。
最初に見えたのは青だった。
あまりにも青く、あまりにも高い空。
雲一つないわけではない。視界の右端、家々の屋根が重なるずっと向こうに、白い積乱雲が大きく盛り上がっている。真夏の日差しを受けて輪郭だけが眩しいほど白く輝いていて、青空との境目は驚くほど鮮明で、子どもの頃に色鉛筆で描いた夏休みの絵のように眩しい空が広がっていた。
——蝉が鳴いている。
近くの街路樹からも家の庭木からも、もっと遠い神社の森らしき方向からも聞こえてくる。
風はなかった。
電柱から電柱へ渡された黒い電線が一本たりとも揺れていない。道路脇へ植えられた街路樹の葉も止まっていて、青い空の上へ薄く浮かんでいる白い雲でさえ見つめていても形を変えないのに、蝉の声だけがまっすぐ地上へ降り注いでいた。
「……え?」
とおるは立っていた。
いつ立ち上がったのか分からない。
身体を見下ろしてみると、着ているのは白華の制服でも訓練用の軽装でもなかった。薄い灰色のシャツに、黒いズボン。何度も履いて少し形の崩れたスニーカー。そこまで見えたところで咄嗟に自分の手を広げてみると、右手にも左手にも傷はなく、紅椿の訓練でできた擦り傷も、最近薄く残るようになっていた細かな痕も消えている。右目へ意識を向けてもそこに熱はなかった。
腰へ提げた剣もなければ盾もなく、騎士団章もない。
「……は?」
何度目か分からない声が、ひどく間の抜けた形で漏れた。
目の前には住宅街が広がっていた。二階建ての家と、低いブロック塀。塀の隙間から道路側へ少しだけはみ出した紫陽花の葉。玄関前へ置かれた青い植木鉢に、車一台がようやく通れる程度の道路。アスファルトの端には白く乾いた泥の跡が残り、側溝の蓋には細い草が伸びている。電柱には黄色と黒の縞模様が巻かれ、その上には見覚えのある町名を記した小さな表示板があった。
見覚えがある。
当然のように。
——そこは、とおるが知っている街だった。知っているどころではない。子どもの頃から何百回、何千回と歩いた場所だった。
「……嘘だろ」
胸の内側だけが一拍遅れて強く鳴った。角の向こうへ行けば、小さな公園がある。滑り台と錆びた鉄棒と、砂場しかない公園。その先の交差点を左へ曲がれば、古い酒屋があって、自動販売機が二台並んでいる。
さらに進めば橋。橋を渡れば、学校へ向かう坂道。
全部知っている。忘れたつもりなどなかった。それでも何年も思い出そうとさえしなかった景色だった。とおるは立ち尽くしたまま、しばらく何も考えられなかった。
異世界。
世界樹。
白華。
ミレイユ。
ゾロ。
グレン。
主根。
頭の中にそれらの名前を一つずつ並べていくと、それらが全部消えていないことはすぐにわかった。夢を見ていた人間が目を覚ましたあとに夢の内容だけをぼんやり思い出しているような、そんな薄さでもない。リディアに叱られた記憶もミレイユと訓練した記憶も、クルム村で三年間暮らした記憶も細部まで確かに残っている。
そのうえで、目の前には見慣れたはずの街があった。
「……まさか、戻った?」
口にすると、自分の声なのに妙に他人事のように聞こえた。
元の場所へ。
本当に?
どうやって。
主根へ触れたから?
それとも、あのあと何かが起きて——。
「ミレイユ?」
とっさにその名前を呼んでみる。
けれど返事はなく、静かな風の流れのそばで蝉の声だけが返ってきた。
「ゾロさん」
返事はない。
「グレンさん」
もちろん、ない。
とおるはもう一度周囲を見回した。
玄関の扉は閉まっている。窓にはカーテンが敷かれ、洗濯物が干されている家もある。物干し竿へ白いシャツとタオルが下がったままぴくりとも動かない。
人が暮らしている形跡は至るところへ残っていた。
けれど周りのどこにも、人がいない。
「……いや」
とおるは、浮かびかけた考えを自分で打ち消すように小さく首を振った。
いくら昼間とはいえ、住宅街を歩いていてたまたま誰とも出くわさないことくらいなら、珍しくはあっても絶対にあり得ない話ではない。今日は平日で、大人は仕事、子どもは学校へ出払っているのかもしれない――そんなふうに、ひとまず無難な説明へ自分を押し込めながら歩き出したものの、数歩もしないうちにその理屈ではどうにも辻褄が合わないことへ気づいた。
軒先では、とうに乾ききった洗濯物が白い光を弾いている。
頭上には、容赦のない真昼の夏空。
そして。
――蝉。
耳の奥へまとわりつくような大合唱を聞いた瞬間、とおるは眉を寄せた。
学校へ行っている時間だというのなら、まず自分がここにいる理由から説明がつかない。
いや、それ以前に。
今は、何年だ。
「……いや待て待て」
思わず立ち止まり、反射的にポケットへ手を突っ込む。
右。
何もない。
左。
やっぱり何もない。
財布もなければ携帯電話もなく、念のため後ろまで探ってみたところで家の鍵一本すら見当たらなかった。
「急に帰すなら、せめて本人確認できるものくらい持たせてくれよ……」
誰に抗議すればいいのかも分からないまま、ぼそりと文句だけを落とす。
役所へ行ったとして、「異世界から帰ってきました。身分証はありません」と言えばどうなるのだろう。
たぶん別室へ通される。
悪い意味で。
「説明、めちゃくちゃ面倒だぞこれ……」
そんなくだらない心配をしながら街を進み、記憶に従って角をひとつ曲がったところで、見覚えのある小さな公園が姿を現した。
青い滑り台。
赤いブランコ。
端のほうへ雑草が入り込み始めた狭い砂場。
ところどころ塗装が剥げ、細かなひびまで浮いている赤いベンチ。
細部こそ少し古びているものの、配置も大きさも、記憶の中に残っている景色とほとんど変わっていない。
けれど。
やっぱり、誰もいなかった。
子どもの声はもちろん、ベビーカーを押す親も、日陰のベンチで休む老人もいない。
砂場の真ん中には小さなバケツだけがひとつ、遊びの途中で持ち主に忘れられたように置き去りにされている。
黄色いプラスチックの本体に、赤い取っ手。
それを見た途端、とおるの記憶の底で、長いあいだ泥をかぶっていた何かがほんの少しだけ輪郭を持った。
昔。
似たようなバケツを持っていた子がいた。
「……誰だっけ」
口に出してみる。
名前は出てこない。
けれど、完全に忘れているわけでもなかった。
思い出せないのではなく、もうすぐ指先が届くというところで薄い膜のような何かが記憶との間へ入り込み、触れようとするたび形だけを曖昧にしてしまう。
公園の端にある水飲み場。
夏になると蛇口の金属が日に焼かれ、うっかり触れば「あつっ」と手を引っ込めるほど熱くなった。
冷たい水が出てくるまで蛇口を開けっぱなしにしていたら、隣にいた誰かから「もったいないよ」と怒られたことがある。
誰か。
女の子だった。
髪。
笑い声。
そこまでは分かる。
なのに、その先だけが出てこない。
「…………」
とおるは砂場から目を逸らした。
今は、それを掘り返している場合ではない。
まず自分がどこにいるのか確かめる。
そう判断した。
正確には――そう判断したことにした。
公園を抜け、そのまま交差点まで歩いていく。昔からあった酒屋は記憶とほとんど変わらない姿で角地に建っており、看板の端は赤茶色に錆び、ガラス戸には酒の商品名が印刷された古めかしいポスターが何枚か貼られ、店先には自動販売機が二台並んでいた。
ただし、どちらも電気が入っていない。本来なら絶えず低く唸っているはずの冷却装置は沈黙したまま、商品見本の並ぶ小窓だけが真夏の日差しをぎらぎらと跳ね返している。
とおるはガラス越しに店内を覗き込んだが、やはり人影はなかった。
「すみませーん。……いませんかー?」
声を上げてみても返事はなく、店の奥まで響いた自分の声だけが、そのまま薄くなって消えていった。ガラス戸へ手をかけて引いてみると、鍵がかかっているらしく、乾いた音を立てただけでびくともしない。
生活していた痕跡は、そこらじゅうに残っている。洗濯物もあり、自転車も家々の前へ置かれ、店の商品だって片づけられてはいない。なのに、人間だけがいない。まるで街じゅうの住人が「ちょっと出てきます」と示し合わせ、肝心の行き先だけ秘密にしたまま一斉にどこかへ消えてしまったようだった。
とおるは道路の真ん中へ出た。本来なら長居するだけで危ない場所なのに、今はクラクションどころか遠くを走る車のエンジン音ひとつ聞こえてこない。自転車も来ず、犬も吠えず、それどころか家々の壁に取りつけられたエアコンの室外機まで、示し合わせたように止まっている。
耳へ届くのは蝉ばかりだった。近くからも、遠くからも、庭の木々からも、電柱の向こうからも、人間の営みが作る音をすべて失った街の空白へ無理やり入り込むように、夏だけが「自分はまだここにいる」と、ひどく律儀に叫び続けている。
「……さすがに、おかしいよな」
とおるは、ようやくそれを認めた。帰ってきた、そう思いたかったのかもしれない。見慣れた家並みも、道路の形も、公園も酒屋も、記憶とあまりに似すぎていたせいで、懐かしさのほうが先に胸へ飛び込んできてしまい、その陰に隠れていた異常へ目を向けるのが少し遅れた。
これは普通ではない。もう、それだけは誤魔化せなかった。
ところが、不思議なことに恐怖はそれほど強くない。主根の前に立った時と似ていて、頭では何も分かっていないのに、身体のもっと深い部分だけが先に何かを知っており、「少なくとも今すぐ逃げなくてもいい」と言っているような、根拠のない安心感がこの街にも薄く漂っていた。
「……なんなんだろうな、これ」
答えはない。
だから歩くことにした。
とおるは昔の学校がある方向へ足を向けた。ランドセルを背負い、数え切れないほど上り下りした坂道は、記憶の中とほとんど同じ傾斜で住宅街を貫いている。夏場はろくに日陰がなく、照り返した熱が靴底から足へ伝わってくるほど暑かったことや、雨が降れば道路脇へ集まった水が坂の下まで流れ、小さな川のようになったことまで、歩き始めると勝手に蘇ってきた。
道路脇の家、赤い郵便受け、伸びた植木、一台分しかない狭い駐車場――ひとつ視界へ入るたび、忘れていた記憶がこちらの都合などお構いなしに浮かび上がる。
あの角では学校帰りに転んだ。派手に膝を擦りむいたくせに、恥ずかしくて泣いていないふりをしたら、一緒にいた女の子から笑われた。坂の途中にあった自動販売機では、夏休みになると小銭を持ち寄ってジュースを買った。二人とも金が足りなくて、一本だけ買い、仕方なく二人で分けた。
――誰と。
胸の奥へ、また例の引っかかりが生まれた。さっきより少し大きく、その感覚を追いかけようとした途端、蝉の声が一段だけ近くなったように聞こえる。
やがて、校門が見えた。
閉じてはいない。
とおるは少しだけ躊躇った末、そのまま敷地へ足を踏み入れた。校庭には白線が薄く残り、鉄棒もサッカーゴールも、奥にある体育館も昔とほとんど同じ場所に建っている。校舎の窓には白い夏の光がべったりと張りついているのに、その向こうへ動く人影はひとつもない。
夏休みなのかもしれない。そう考えれば学校が静かなこと自体には、一応説明がつく。ただし、部活動の声すらまったく聞こえないという点を無視すれば、の話だ。
「静かすぎるだろ……」
昇降口の扉は開いていた。
中へ入ると、下駄箱、長い廊下、教室、手洗い場、そのどこへ目を向けても午後の明るい光だけが入り込み、外であれほど耳を埋めていた蝉の声は少し遠のく代わりに、とおる自身の靴音がやけに大げさな音を立てて廊下へ響いた。
そして歩きながら、妙なことに気づく。
「……小さいな」
昔より廊下が狭く、天井も低い。手洗い場まで妙に小さく感じる。もちろん建物が縮んだわけではなく、自分が大きくなっただけなのだが、子どもの頃には途方もなく広い世界に見えていた校舎も、大人の身体で歩き直せば驚くほどコンパクトに収まってしまう。
「こんなだったっけな……」
懐かしい。けれど、どこか寂しい。記憶の中で大きかったものが実際には小さいと知ることは、それだけで昔へ戻れない理由をひとつ見せつけられているような気がした。
廊下の壁へ貼られた掲示物に目をやり、とおるは足を止めた。
「……ん?」
文字が読めない。
いや、読めないという表現は少し違う。そこには確かに文字らしい形があり、色紙も画用紙も黒板に書かれたものも見えている。ところが内容を理解しようとして意識を向けた途端、輪郭だけがふっと曖昧になり、意味のない模様へ崩れてしまう。
「夢……なのかな」
ぽつりと呟いた。
そう考えれば、むしろ説明はつく。見覚えのある場所ばかり異様なほど鮮明で、自分にとって意味の薄い部分は曖昧。人はいない。時間の流れも怪しい。蝉だけが鳴き続けている。主根へ触れたあと、意識を失って、そのまま夢を見ている。現状では、それが一番まともな答えに思えた。
ただ、階段の手すりへ指を置けば、日陰で少し冷えた金属の感触がはっきり伝わってくる。窓から差し込む陽射しにはきちんと熱があり、教室へ入れば、乾いた木材と埃、それから長い年月を吸い込んだ古いワックスの匂いまで鼻へ届いた。
夢と言うには、細部があまりに具体的すぎる。かといって現実と呼ぶには、人がいなさすぎた。
「どっちだよ」
誰も答えてくれない。
とおるは、自分がかつて使っていた教室を探すことにした。何年生だったか、何組だったか、頭で思い出そうとしても曖昧なのに、不思議なことに足は迷わない。
二階へ上り、右へ曲がり、廊下の奥へ進む。窓側から三つ目の教室へ入った瞬間、とおるは息を止めた。
並んだ机、前方の黒板、教卓、後ろのロッカー。窓の向こうには校庭が見え、そのさらに向こうへ住宅街が広がり、もっと遠くには、真夏らしい巨大な積乱雲が空を押し上げるように立っていた。
真っ白な雲。
さっきから、ずっと同じ場所にある。
まるで、自分がここへ来るのを待っていたみたいに。
「……あの雲」
胸の奥がざわついた。昔も見たことがある、そんな気がする。
どこで。
誰と。
近くの机へ何気なく指先を置いた、その瞬間、ひどく小さな記憶が浮かんだ。
夏休み。登校日。授業はほとんどなかった。友達と帰った。外は暑く、蝉が鳴いていた。
一人の女の子が空を見上げて言った。
――あの雲、追いかけたらどこまで行けるかな。
とおるの喉が、かすかに動いた。
誰だ。
もう分かりそうなのに。
顔も、声も、隣を歩いた感覚すらあるのに、名前だけがどうしても出てこない。
「……なんで忘れてるんだ」
忘れたはずがない。
そう思った次の瞬間、胸の奥から別の答えが返ってきた。
違う。
忘れたのではない。
むしろ、忘れようとしていた。
そこまで考えた途端、胸の奥がわずかに痛んだ。
とおるは教室を出て、そのまま校舎を離れ、校門を抜けて再び坂道へ戻った。空を見上げると積乱雲はまだ見える。ただ、さっきよりほんの少し右へ動いている。空全体は止まっているように見えるのに、あの雲だけが先へ進んでいた。
「……追えってこと?」
言ってから、自分で呆れる。
「誰が。なんのために」
当然、返事はない。
なのに、とおるは雲のある方向へ歩き始めた。理由などない。少なくとも、人へ説明できるような理由は持っていなかった。ただ、あの白い雲を見ていると、ずっと胸の底へしまい込んでいた何かが、遠い場所からこちらへ戻ってくる気がした。
住宅街を抜け、やがて商店街へ入る。昔よく通った本屋はシャッターを開けたまま、人間だけを丸ごと失っていた。店頭には雑誌や漫画が並んでいるものの、試しに表紙へ目を向けても、やはりタイトルだけが読めない。
「徹底してるな……」
何が徹底しているのか自分でも分からないまま呟き、隣へ目を向けたところで、とおるの足が止まった。
小さな駄菓子屋。
古い引き戸。
軒先。
赤いベンチ。
その景色を見た瞬間、記憶が一気に繋がった。
知っている。
夏休みに来た。
二人で。
握りしめた小銭を何度も数えながら、何を買うか真剣に悩んだ。ラムネを買った。相手の女の子は炭酸があまり得意ではないくせに、毎回ラムネを選んだ。
理由は簡単だった。
瓶が綺麗だから。
そして当然のように最後まで飲めず、残りをとおるへ押しつけてきた。
――はい、残りあげる。
――また?
――いいじゃん。とおる好きでしょ。
――炭酸、そんな好きじゃないけど。
――じゃあ私と一緒だね。
――だったら買うなよ。
――瓶が好きなの。
――中身は。
――とおるにあげればいいし。
――最初から俺を処理係にするな。
声が聞こえた。
記憶の中から、あまりにもはっきりと。
黒い髪は肩より少し長く、強い夏の日差しへ透かすと、真っ黒ではなく毛先のほうだけほんのり茶色く見えた。笑うと目元が細くなり、走るのはそれほど速くなかった。自転車だって上手ではなかったくせに、知らない道へ入り込むことだけは誰より好きだった。
「……葵」
名前が落ちた。
あまりにも簡単に。
ずっと開かなかった扉の鍵が、最初から鍵穴へ差さっていたことに今さら気づいたように、その名前はとおるの口からするりと零れた。
水崎葵。
「……そうだ」
家が近所だった。小さい頃から、いつも一緒に遊んでいた。親同士が最初から知り合いだったのか、たまたま家が近かったから仲良くなったのか、そのあたりの順序はもう曖昧だったけれど、物心がついた頃には隣にいるのが当たり前になっていた。
学校へ通うようになってからも同じ道を歩き、夏休みになれば午前中の宿題を適当に終わらせて、どちらからともなく外へ出る。そして、町中を飽きるほど歩き回った。
公園も、川も、神社も、駄菓子屋も、学校も、自転車も、夕立も、蝉も、思い出そうとすれば子どもの頃の夏の景色は、そのほとんどが葵へつながっていた。
「……そうだ」
とおるは駄菓子屋の前に立ったまま、呆然と呟いた。
思い出した。
いや。
思い出してしまった。
あの頃は、本当にいつまでも同じ時間が続くと思っていた。夏休みには本当の意味で終わりなどなくて、朝になれば蝉が鳴き、昼になれば空は眩しく、夕方まで遊び疲れたら家へ帰り、夜になれば眠る。そして翌朝、目を覚ませば昨日の続きが始まる。
葵が迎えに来るか、自分が葵の家へ行く。今日は何をする、どこへ行く、そんな相談をしながら自転車を押して歩く。子どもにとって世界は驚くほど狭く、けれどその狭い世界の中には、自分たちが必要としているものが全部揃っていた。
焼けたアスファルト。道端へ転がった蝉の抜け殻。自転車のタイヤが小石を踏んだ時の、ぱち、と軽い音。夕立のあと、水溜まりへ逆さまに映った夕焼け。湿った土の匂い。家へ帰れば、冷蔵庫で冷えた麦茶。
明日になれば、また会える。
明後日も。
来週も。
来年の夏も。
中学生になっても、高校生になっても、その先、大人になっても。
そんな約束をしたことは、一度もない。葵も言わなかったし、とおるも言わなかった。それでも二人は、世界のほうが勝手にそうしてくれるのだと疑っていなかった。季節は繰り返し、蝉は毎年鳴き、夏休みは次の年にも必ず来る。だったら自分たちも同じように、来年そこにいる。
離れる理由など、考えたことすらなかった。
大切なものが、ある日いきなり失われることがある。
あの頃の二人は、まだそれを知らなかった。
とおるは駄菓子屋から離れ、また歩き始めた。
積乱雲を追う。
けれど、もう今は分かっている。
自分が向かっている場所を。
川だ。
街の外れを流れる、あの川。
子どもの頃から何度も遊びに行き、堤防の上を自転車で走った。春になれば菜の花が咲き、夏には草が背丈近くまで伸びる場所。夕方になれば遠い林からひぐらしが鳴き始め、川面へ橙色の光が長く伸びた。
一歩進むたび、足が少しずつ重くなっていく。記憶が戻れば戻るほど、胸の奥へ沈めていたものまで一緒に形を持ち始めた。
葵。
水崎葵。
会いたかった。
ずっと。
いつかまた会えたらいいな。
そんなことを、何度思っただろう。
そして、その願いがどれほど馬鹿げているかも、自分では分かっていた。
会えるかもしれない。
そういう話ではない。
もう、会えない。
とおるは歩きながら、強く唇を噛んだ。
記憶というものは、どうやらこちらの都合を考えて、優しい順番で戻ってきてくれるほど親切にはできていないらしい。楽しかった夏のすぐ後ろから、白と黒ばかりの景色が、ゆっくり追いついてくる。
葬式。
黒い服。
白い花。
何を話せばいいのか分からないまま、ただ立っていた大人たち。
部屋に染みついていた線香の匂い。
母親に肩を押され、前へ出た。
たくさんの白い花の向こうに、葵がいた。
眠っているように見えた。
本当に、ただ眠っているだけに見えた。
けれど、眠っているだけの人間の周りに、あんなにたくさんの花は置かれない。
大人たちは声を潜めて話していた。
かわいそうに。
まだ若いのに。
どうして川なんかへ。
何を追いかけていたのかしら。
足を滑らせたんでしょう。
雨のあとだったから。
流れが速かったのよ。
誰も本当のことを知らなかった。
葵がどうして川へ入ったのか。何を追いかけていたのか。誰かと一緒だったのか。どこまで行くつもりだったのか。
もう、分からない。
そして、とおるにも分からなかった。
あの日、自分は葵と一緒ではなかった。
その事実だけが、ずっと胸の奥へ小さな棘として残っている。
一緒にいれば助けられた――そんな都合のいいことを、本気で信じているわけではない。自分だって子どもだったし、泳ぎが得意だったわけでもない。むしろ一緒に川へ入っていれば、二人とも流されていた可能性だってある。
そんなことは分かっている。
理屈では。
何度考えたか分からないくらい、分かっている。
それなのに、あの日に限って、自分は葵の隣にいなかった。
その一つの事実だけは、どれだけ理屈を積み重ねても、決して別の形にはなってくれなかった。
葵が死んでから、夏の景色はほんの少し変わった。蝉は同じように鳴き、暑さも同じで、学校もあり、川も流れ、駄菓子屋だって開いていた。自転車も残っていた。
世界は何一つ欠けていないような顔をして、そのまま続いていた。
なのに、一人分だけ足音が消えた。
自分にとって世界の大部分を占めていた何かがなくなったというのに、世界そのものは少しも困らず回り続けた。
あの頃のとおるには、その不公平さをどう扱えばいいのか分からなかった。
時間が経てば楽になる。
大人たちはそう言った。
そして、それは確かにその通りだった。
毎日泣くことはなくなり、葵を思い出さない日が増えた。中学へ進み、高校へ入り、その先にも新しい生活があり、覚えることが増え、どうでもいいことで疲れ、気づけば一日の中で葵の名前を思い浮かべる時間はほとんどなくなっていた。
忘れたわけではない。
忘れられたわけでもない。
ただ、胸の中へ置いた箱を、わざわざ開けなくなった。
それだけだ。
時間とは、傷をきれいに消してくれるものではなく、そこへ触れずに歩く方法を教えるものなのかもしれない。
とおるは気づかないうちに、そんな歩き方ばかり上手くなった。誰かへ深く近づかなければ、失った時にそれほど困らない。一人なら、自分の都合だけ考えていればいい。相手の機嫌を気にせずに済み、別れを想像せずに済み、いつか会えなくなることを最初から怖がらなくても済む。
もちろん、そんな理由をひとつひとつ言葉にして、自分へ説明した記憶などない。
気づけば、一人でいるほうが楽になっていた。
だからといって、それを全部葵のせいにするつもりはない。人間が何を好み、どう生きるようになるのかなんて、一つの出来事だけで説明できるほど単純ではないことくらい、とおるにも分かっている。
ただ、自分が初めて「ずっとあると思っていたものが、何の前触れもなく消えることがある」と知ったのが、あの夏だった。
それだけは、どう考えても間違いなかった。
やがて街並みが低くなり、家々の間隔が広がって、住宅が途切れた。視界が一気に開ける。
川だ。
堤防へ続く階段。白いガードレール。夏の日差しに照らされて伸び放題になった草。
とおるは足を少し緩め、その階段を一段ずつ上っていった。
そして、堤防の上へ出た瞬間。
風が吹いた。
この街へ来てから、初めて感じる風だった。
草の穂がいっせいに揺れ、少し湿った空気が頬を撫でる。たったそれだけのことなのに、ずっと呼吸を止めていた世界が、ようやく息を吐いたように思えた。
川は静かに流れていた。昔と変わらない幅、昔と変わらない色。太陽の光を細かく砕きながら、水面へ無数の輝きを散らしている。
上流へ目を向ければ橋。
下流には遠い町並み。
そして、そのさらに向こうへ、ずっと追いかけてきた積乱雲が白い壁のように立っていた。雲の下だけ空が少し暗く、向こうでは夕立でも降っているのかもしれない。
とおるは土手の上を歩き始めた。伸びた草が膝へ触れ、しばらくすると遠くからひぐらしの声まで聞こえ始める。まだ日は高いはずなのに、カナカナカナ、と林の向こうから届く声には、夏の盛りではなく、その終わりを一足先に知らせるような響きがあった。
「……ここだ」
とおるは足を止めた。
覚えている場所があった。土手の斜面、その一角だけ周囲より草が少し低くなっている。
昔、二人でよく座った。
自転車を上のほうへ倒しておき、並んで川を眺めながら、ずいぶん長い時間を潰した。
何を話していたのかは、もうほとんど覚えていない。学校のこと、宿題、お菓子、テレビ、近所の猫、明日はどこへ行こうか――たぶん、そんなものだった。
子どもの頃の会話は、その瞬間だけなら世界のすべてに思えるのに、大人になって振り返れば、内容のほとんどが驚くほどきれいに消えてしまっている。
それでも、隣に誰かがいた感覚だけは、どういうわけか今も妙なほど鮮明だった。
とおるは草の上へ腰を下ろし、土手の傾斜へ背中を預けた。膝を立て、目の前へ広がる青空と白い雲、川、蝉、ひぐらし、誰もいない街をしばらくぼんやり眺める。
「……ここ、どこなんだろうな」
元の世界、と言い切るには人がいなさすぎる。
夢と呼ぶには、懐かしさがあまりにも具体的だった。
なら、記憶。
その言葉が一番近いのかもしれない。
自分の記憶の中にある街。
けれど、本当にこれは自分だけの記憶なのだろうか。
主根へ触れた瞬間、自分が見たこともないものまで大量に流れ込んできた。土地、人、魔力、記憶、名前もつけられない何か。そして、その流れの中に自分まで混ざり込んだところで意識を失った。
なら、ここもあの巨大な流れのどこかにつながっているのかもしれない。
そこまで考えてから、とおるは首を振った。
「……分からん」
グレンなら、分からんものは分からんまま持っておれ、とでも言うのだろう。
「……あの爺さん、こういう時だけ役に立つな」
本人が聞けば怒るかもしれない。いや、むしろ笑う気もする。
不本意ではあるが、今はあの老人の考え方が一番まともだった。
分からない。
なら、無理に答えを作らない。
夢なのか、記憶なのか、本当に元の世界へ帰ってきたのか。今すぐどれかを決める必要はない。
少なくとも、自分は今ここに座っている。
川の音がする。
草の匂いがする。
ひぐらしが鳴いている。
そして、葵を思い出した。
その事実だけで、胸が少し苦しかった。
「……久しぶりだな」
誰もいない川へ向かって言う。
当然、返事はない。
「忘れてたわけじゃないんだけど……いや、思い出さないようにはしてたのか」
言い訳のつもりだったのか、告白のつもりだったのか、自分でも分からなかった。
目の前では川が絶えず流れている。同じ水が、一秒後も同じ場所にあるわけではない。目に見える形だけが「川」という姿を保っていて、中身はずっと入れ替わり続けている。
昔、葵と並んで眺めた水も、もうここにはない。あの時の水は海まで流れ、蒸発して雲になり、雨となって、今ごろはどこか別の土地へ落ちているのかもしれない。
それでも、人は今もこの場所を同じ名前で呼ぶ。
川だ、と。
形が残っているから。
場所が続いているから。
記憶が途切れていないから。
「……人も、そんな感じなのかな。いや、何言ってんだ俺」
自分でもよく分からなくなった。
葵は死んだ。
その事実を、都合のいい綺麗な言葉でぼかしたくはない。死んだ人間は戻らない。どれだけ鮮明に思い出せても、どれほど声まで蘇っても、記憶の中に存在することと、本人が隣にいることはまったく違う。
そんなことは分かっている。
だからこそ、会いたかったという気持ちをどう扱えばいいのか、ずっと分からなかった。
いつかまた会えたらいい。
そう思う。
もう会えない。
それも知っている。
完全に矛盾した二つの言葉なのに、不思議なことに胸の中では、どちらも追い出されることなく共存していた。
人間というものは案外、矛盾した気持ちを無理に整理しなくても、そのまま抱えて生きていけるようにできているのかもしれない。
「……それが便利なのか面倒なのか、よく分からんけど」
とおるは足元から草を一本抜き、指先でゆっくり回した。茎がわずかにざらついている。
そこで、また記憶がひとつ浮かんだ。
子どもの頃、葵が長い草を結んで罠を作ろうとしたことがある。道の両側から伸びた草同士を結び、誰かがそこへ足を引っかけるのを待つという、今思えば誰より先に止めるべき遊びだった。
しかも、待っているうちに自分でその場所を忘れ、最終的には仕掛けた本人が引っかかった。
転んで、膝を泥だらけにして、泣いた。
そして泣きながら笑っていた。
「……馬鹿だったな。俺もだけど」
とおるは思わず笑った。
声にした瞬間、なぜか涙が出そうになった。
口元は笑っているのに、胸は痛い。
悲しいのか。
懐かしいのか。
嬉しいのか。
自分でもうまく区別できなかった。
たぶん、全部なのだろう。
子どもの頃の記憶というものは、今の自分から見ると驚くほど柔らかい。当時は当時で喧嘩をしたし、葵に本気で腹を立てたこともある。絶対に許さない、と決めた日だってあったはずだ。
それなのに長い年月を越えて残った記憶は、細かな感情の尖った部分だけがいつの間にか丸く削れ、夕方の光でもかけられたように穏やかな色へ変わっている。
それは、記憶が都合よく嘘へ変わったということなのか。
それとも、遠い場所まで持ち運べるよう、人間の心が少しずつ形を変えた結果なのか。
「……分からんなあ」
言った瞬間、自分で吹き出した。
「またグレンみたいなこと言ってる」
それがおかしくて少し笑い、やがて笑いは自然に消えた。
風が吹く。
草が揺れる。
ひぐらしと川の音が重なる。
積乱雲の向こうへ少しずつ傾き始めた陽射しは、昼間の鋭さを失い、世界全体を薄い布で包むような柔らかさへ変わっていた。
この街へ来てからずっと止まっていた時間が、ここへ来てようやく、ゆっくり動き始めたように見える。
とおるは空を見上げた。
青が、ほんの少し薄い。
午後が傾き始めている。
このまま夕方になるのだろうか。夜まで来るのだろうか。それとも、この世界は夕方のどこかで止まり、それ以上先へ進まないのだろうか。
そんなことを考えていた時、草の向こうで音がした。
さく。
「……?」
小さな音。
風ではない。
もう一度、さく、と草を踏む音がする。
誰かがいる。
とおるは、ゆっくり顔を上げた。
土手の向こう、川とは反対側、傾き始めた夏の光の中へ、一人の人影が立っていた。
「……え」
まだ遠く、顔までは見えない。
細い身体。
髪。
白っぽい服。
風が吹くたび、その裾が水面へ落ちた光のように揺れる。
誰かが、こちらへ歩いてくる。
街へ来てから、初めて見る人間だった。
とおるは立ち上がろうとして、動けなかった。
見覚えがある。
そんな気がした。
頭はまだ何も分かっていない。距離も遠く、顔だってはっきり見えていない。
それなのに、胸の奥だけが自分より先に答えへたどり着いている。
その人影は風景の中をこちらへ歩いてくるというより、遠い昔の記憶の端から、一歩ずつ現実の側へ踏み出してきているように見えた。夏の光と熱気の中で輪郭がわずかに揺れ、手を伸ばせば、水面に映った月へ触れた時のように、その姿ごと崩れてしまいそうな危うさがある。
なのに、一歩近づくたび、胸の奥にある確信だけが逆に濃くなっていく。
さく。
草を踏む音。
風。
ひぐらし。
川。
世界から余計な音がひとつずつ遠ざかり、最後には、その足音だけが残った。
とおるは立ち上がった。
声を出そうとする。
名前を呼ぼうとする。
なのに喉が動かない。
さっきまでは誰もいない川へ向かって好き勝手に喋れていたくせに、目の前にいるたった一人へ言葉を届けることが、どうしてもできなかった。
距離が縮まる。
黒い髪。
肩を少し越える長さ。
夏の日差しが触れた部分だけ、柔らかな茶色へ透けている。
そして、顔。
笑った時、目元が少し細くなる。
忘れていたのではない。
忘れられるはずがない。
水崎葵。
葵だ。
胸が大きく鳴った。
違う。
そんなはずはない。
いるはずがない。
葵は死んだ。
あの日。
雨の日。
川。
濁った水。
大人たちの話し声。
葬式。
黒い服。
白い花。
線香。
全部、覚えている。
棺の中で眠る葵も見た。
母親の泣く声も聞いた。
自分は何も言えなかった。
何か声をかけなければと思いながら、最後まで一言も出てこなかった。
死ぬということが何なのか、あの頃の自分にはまだきちんと理解できていなかったのかもしれない。
それでも、もう会えないという意味だけは、嫌になるほど分かった。
もう会えない。
会えないはずなのに。
どうして、心がこんなにも跳ねるのだろう。
どうして、こちらへ歩いてくる人影を見ただけで、嬉しいと思ってしまうのだろう。
胸の奥に置き去りにしてきた子どもの自分が、今にもそこから飛び出し、葵のところまで走っていきそうになる。
会えないかもしれない、ではない。
もう会えない。
そんな分かりきった事実が頭には残っている。
それなのに、手を伸ばせば届く気がした。
名前を呼べば、振り返ってくれる気がした。
一緒に帰ろうと言えば、昔のように自転車を押し、並んで歩けるような気がした。
明日は何をする。
そう聞けば、葵はまた適当なことを言って笑う。
そんな、あり得ない続きを。
ほんの少しだけ。
信じそうになる。
人影が土手を下りてくる。
足元で草が揺れる。
影がある。
ちゃんと地面へ落ちている。
足音も、確かに聞こえる。
近づくほど相手の輪郭は鮮明になっていくのに、それに反比例するように、とおる自身の現実感だけが少しずつ薄くなっていった。
夢だ。
きっと。
主根が見せている、記憶か、幻か、何か。
そう思えばいい。
そう考えれば、まだ説明できる。
けれど、その時ひとつの問いが浮かんだ。
夢なら。
会ってはいけないのか。
答えは出なかった。
葵が、数歩先で立ち止まった。
昔より少しだけ大人びて見える。
けれど、とおるの記憶の中にいる葵から、まったく離れているわけでもない。
子どもの頃に知っている顔と、もしあのまま生きていれば、こんなふうになっていたかもしれない姿が、夏の光の中で曖昧に重なっている。
何歳なのかは分からない。
本当に自分が知っている葵なのか、それすら分からない。
なのに。
葵だ。
そうとしか思えなかった。
とおるは喉を鳴らした。
言葉が出ない。
謝りたいのか。
会いたかったと言いたいのか。
どうして死んだ、と聞きたいのか。
あの日、何を追いかけていたのか知りたいのか。
自分でも分からない。
言葉へしようとすればするほど、どの言葉も何かが足りなくなる。
会いたかった。
寂しかった。
忘れたくなかった。
忘れたかった。
どうしていなくなった。
また会えて嬉しい。
ここにいるはずがない。
全部、同時にある。
そのうち一つだけ選んで声に出してしまえば、残った気持ちが全部嘘になってしまうような気がした。
だから、とおるは何も言えなかった。
葵は、そんなとおるを見ていた。
急かさない。
困った顔もしない。
なぜ黙っているのかと、不思議そうに見ることもない。
ただ、昔からそうだったみたいに、ほんの少しだけいたずらっぽい目をしている。
風が二人の間を抜けていった。
草の穂が揺れる。
ひぐらしの声が遠ざかる。
川面を、柔らかな光が流れていく。
積乱雲の白い縁は、傾き始めた太陽を受けて、ほんの少し金色へ染まっていた。
葵の髪が揺れた。
とおるは目を離せなかった。
何年ぶりなのか。
何十年ぶりなのか。
そんな数え方さえ、今だけは何の意味もないように思えた。
葵は、とおるの顔をしばらく見つめてから、昔と同じ仕草でほんの少し首を傾けた。
そして。
あの頃から何も変わっていない声で、笑った。
「久しぶりだね、とおる」




