第70話 世界樹に選ばれしもの
グレンの後を追って逆枝の森と呼ばれる領域へ足を踏み入れてからというもの、とおるは自分の中にあった「地下」という言葉がいったい何度壊され、そのたびに別の意味を無理やり詰め込まれてきたのだろうと足元の木目を確かめながら半ば呆れるように考えていた。最初に王樹聖域の地下階段を降りた頃の彼にとって、地下とはまだ人の暮らす地上の下側へひっそり沈んだ、暗く、狭く、湿っていて、土と岩に囲まれた閉ざされた場所というごく素朴でどこか子供の頃に読んだ冒険譚の挿絵めいた感覚を残した言葉だった。
それが逆枝炉へ辿り着く頃には青白い樹液が巨大な血管のように脈打ち、世界樹の根が天井にも床にも壁にもなりながら古い遺構を呑み込み、そのさらに奥へまるで地面そのものに終わりなど存在しないとでも言うように伸び続ける光景を見せられたことで、地面の下にも地上と同じだけ複雑で、同じだけ広大で、そして同じだけ名前を必要とする「場所」が存在するのだという認識へどうにか自分を追いつかせたつもりでいた。けれどいま周囲へ際限なく広がっているものを眺めていると、その理解さえまだ人間側の都合に寄りすぎていたのだと分かってしまい、そもそも地下という呼び名そのものが地上に立つ人間が自分を基準に世界を上下へ切り分けるためだけに作った、かなり一方的な分類に思えてならなかった。
そこには「空」がなかった。
にもかかわらず、天井があるとも言い切れない。
見上げれば、何十本、何百本という逆枝が上方へ伸び、それぞれがどこへ繋がっているのかも分からないまま闇の奥へ沈み、その合間を縫うように青白い光が星座めいて点々と浮かびながら枝の内側をゆっくり移動していた。光は灯具のように同じ場所へ留まっているわけではなく、木目の奥を水のように流れて枝先へ集まったかと思えば、次の瞬間には根の深みへ溶け、視界の隅でふっと消えたものがかなり離れた別の枝の内部へ何事もなかったように灯り直すことさえある。空洞そのものが人間の距離感を狂わせるほど巨大であるせいか、すぐ近くに見えていた細枝が実際には家屋を数軒並べたほど向こうにあったり、遠目には縄ほどにしか見えなかった根一本が、いざ近づけば人間が十人横へ並んでもまだ余る太さを持っていたりするものだから、とおるは何度か自分の目が遠近感の計算を放棄したのではないかと疑った。
足元にしても岩盤ではなく、幾重にも折り重なった世界樹の根が自然に作り出した起伏そのもので、巨大な幹の横腹を渡っているような傾斜もあれば、根と根の谷間へ黒い土が溜まり、そこから半透明の茸や銀色の苔、地上では一度も見た覚えのない針のように細い葉を持つ草が誰に見られるでもなく静かに生えている場所もある。さらに奇妙なのは風まで存在することで、枝と根が複雑に絡み合った暗がりの向こうからひやりと冷たい空気が何の前触れもなく流れてきて頬を撫で、そのたびにとおるの中にかろうじて残っていた「自分は地面の下へ降りてきたのだ」という感覚を少しずつ薄めていった。
それが樹液の流れによって生じる温度差なのか、地中深くへ開いた裂け目から昇ってくる気流なのか、それとも巨大な根の内部で魔力が循環するという現象そのものが空気を押し動かしているのか、彼には判断できない。ただ、足元には確かに大地があり、頭上には空がないはずなのに、ここを単なる洞窟と呼ぶのは何かが決定的に違うのだと理屈より先に身体のほうが理解していた。
地上の夜ほど暗くはなく、けれど昼ほど明るくもない。森に似ているのに森ではなく、洞窟に似ているのに洞窟でもない。まるで世界樹という巨大な生き物の身体そのものの内側に、人間の感覚ではうまく名前を与えられない一つの風景だけが最初から独立した世界として成立しているようだった。
「ここ、まだ逆枝層なんですよね」
声を張れば、どこか遠い枝の一本までこちらを振り向きそうな気がして、とおるが自然と音量を落として尋ねると、前を歩くグレンは振り返りもせずひ杖代わりにしている槌を肩へ担いだまま、「一応な」とだけ答えた。その言い方が妙に引っかかり、とおるが「一応」と繰り返せば、老人は鼻を鳴らしながら足を進めながら「人間が勝手にそう呼んどるだけじゃ。逆枝層、主根域、深層根系、魔脈区画。名をつけ、図面へ線を引き、色まで塗れば、さも分かったような顔はできるがな。根からすれば、どこまで行こうが全部、自分の身体じゃ」と、どこか面倒そうに言い捨ててくる。
その説明を聞いた瞬間、とおるの脳裏には避けたほうがいい比喩が真っ先に浮かび、「じゃあ世界樹から見たら、俺たちって内臓の中を歩いてるようなものですか」と口にしたところで、グレンが間髪入れず「言い方が気色悪い」と返した。
「自分でもちょっと思いました」
「なら口へ出すな」
「口に出してから気づくこともあるんですよ」
と弁明した横で、ミレイユが呆れと疲労と諦めをちょうど三等分したような息を小さく吐き、「お前は、もう少し口に出す前に考えろ」と告げる。
「白華で何回も言われてます」
「なら直せ」
「努力はしてます」
「成果が見えない」
「成長には時間が必要なんです」
「報告書の『すごく』は消せるようになっただろう」
「あれと同じ扱いなんですか」
後ろを歩いていたゾロの肩がわずかに揺れ、声こそ立てなかったものの口元には明らかな笑みが浮かんでいた。誰にも味方してもらえないことを悟ったとおるが、せめて一人くらい庇ってくれてもいいのではないかという視線を向けても、ゾロは面白そうに目を細めるだけで、こういう時の年長者というものは若者の成長を見守るという便利な名目のもとかなり気軽に見世物側へ回るらしい。
やがてグレンが下り始めた斜面の先では、逆枝の本数が目に見えて減っていく代わりに、一本一本の根がそれまでとは比較にならないほど太くなっていた。
壁というより丘、丘というより崖と呼びたくなる巨大な根が内部へ青白い光を抱えたまま幾重にも絡み合い、その隙間を縫うようにどうにか人が落ち着いて歩ける程度の細い通路が続いている。
もっとも、通路と呼んでも人間が石を敷いたわけでも、土を均したわけでもなく、枝打衆が長い年月をかけて同じ場所を往来し続けた結果、世界樹の表面に刻まれた木目がわずかに擦れて平らになっただけらしく、人工物と自然物の境界が曖昧なこの場所ではそれすら道なのか、単に人間が道だと思い込んでいるだけなのか判然としなかった。
「足元を見ろ」
グレンが短くそう告げ、とおるが反射的に視線を落としてから「ここから先、滑るんですか」と尋ねると、「落ちたら面倒じゃ」と返ってきた。
「どのくらい面倒ですか」
「探すのに三日」
「もっと早く言ってください」
――その一言で、とおるの足取りは自分でも笑えるほど露骨に慎重になった。左側は根の盛り上がりが緩やかな壁面となっているため、身体を寄せればまだ安心できるものの右側には何もなく、正確には暗い空洞だけがどこまでも下へ落ち込んでいて底らしきものがまるで見えない。遥か下方では数本の青い光が筋となって流れているため完全な闇ではないが、その淡い明かりがあるせいでかえって距離の尺度が狂い、うっかり覗き込むと自分の平衡感覚だけが靴底から抜け落ちていくような嫌な眩暈が腹の奥へ滑り込んでくる。
「手すりとか、ないんですか」
とおるが壁側へ少し寄りながら尋ねた。
「根に打ち込む気か」
「そう言われると無理ですね」
「落ちるな。それが一番簡単じゃ」
「事故防止を本人の努力だけへ委ねないでください」
「嫌なら四つん這いで来い」
「尊厳と安全の選択を迫らないでください」
「命より高い尊厳か?」
「四つん這いで行きます」
と即答したところで、隣を歩いていたミレイユが思わずこちらを見た。
「本当にやるのか」
「命より高くないって言われたら、仕方ないでしょう」
「いや、普通に歩ける」
「どっちなんですか!」
声を潜めたままそう訴えると、先を行くグレンの喉の奥からこれまでで初めてと言っていいほどはっきりした笑いが漏れた。完全に遊ばれている。それが腹立たしいのか、それともこの老人が笑っていられる程度にはまだ本当に安全なのだと安心していいのかの判断がつかず、結局は尊厳を守る側へ戻って普通に歩くことにした。
実際、道幅は二人がぎりぎり並べる程度にはあり、足を置く場所さえ確かめて進めば問題はない。ただし右側へ視線を向けないという努力だけは必要で、とおるは自分の靴底が木目を擦る小さな音と先頭を行くグレンの槌が時折根を叩く乾いた響き、それから背後にいるゾロたちの足取りがまだ途切れていないことだけを頼りに一歩ずつ先へ進んでいった。
さらに十分ほど歩いた頃、今度は景色ではなく、空気そのものの重みがわずかに変わった。湿気が増したわけでも、呼吸が苦しくなるほど気圧が変化したわけでもないのに、肺へ入ってくる空気が妙に密度を持ったように感じられ、数歩進んだところでそれが魔力なのだと遅れて気づいた。
王都の中には常に魔力が流れており、まして世界樹の近くにいればその存在を意識せずに過ごすほうが難しい。魔導院や騎士団施設でも術式が稼働している部屋へ入れば空気が張り詰めたように感じることはあるし、高位の騎士が能力を使えば周囲の霊素が目に見えない波紋となって肌へ触れてくることもある。
けれどそれらはすべて人間が扱いやすいよう術式へ整理され、回路を与えられ、流れを決められた魔力だったから、注意を向ければどこから入りどこへ抜けているのかをある程度は読み取ることができた。
ここはそのどれとも違っていた。
魔力がこの場所を流れているのではない。むしろ場所そのものが魔力でできていて、その中へ自分たちが異物として入り込んでいるように思える。呼吸をすれば肺へ空気が入り、その一方で露出した頬や指先からは目に見えない何かがゆっくり染み込みながら皮膚のすぐ下を細い電流のように撫でていく感覚があり、それまで医務室で少し落ち着いていたはずの右目の奥でも消えきらない火種へ静かに息を吹きかけられたような熱が、また輪郭を取り戻し始めていた。
とおるは無意識に右目の周囲へ指を添えかけ、触れる直前で手を止めた。痛い、というほどではない。けれどもう「何ともない」と押し切れる状態でもない。その曖昧な熱が眼窩の奥へ居座り続けているせいで、視界そのものに異常はないのに、青白く流れる根の光を見つめるたびにまるで向こう側からこちらの目を見返されているような落ち着かなさが残る。
しかも、ここへ来てから濃くなり続けているのは世界樹由来の魔力であり、自分の〈境界〉が反応しているのか、右目そのものが負荷を訴えているのか、それともこの場所にいるだけで何らかの影響を受けているのかさえ今のとおるには切り分けることができなかった。
それでも、前を行くグレンは歩みを緩めない。むしろ先ほどまでより足取りは迷いがなくなり、複雑に絡み合う根の合間から外から見ただけでは道とも思えない細い傾斜を選んでは、当然のように奥へ入っていく。その背中を見ながら、とおるはこの老人にとっては今いる場所こそが見慣れた道なのだというごく当たり前の事実に今さら気づいた。自分には世界樹の内臓としか思えない場所でも、グレンにとっては曲がり角があり、近道があり、危険な場所と安全な場所があり、おそらく季節や時間によって変わる癖まで知っている。人間が地図へ線を引いて「逆枝層」と名前をつけたところで、この世界を本当に知っている者が見ている景色はずっと別のものなのだろう。
そう考えた瞬間、とおるは先ほどグレンが口にした言葉を少しだけ理解できた気がした。どこまで行っても全部、自分の身体――それが世界樹にとっての事実なのだとすれば、いま自分たちは地下へ降りているのではなく、巨大な一つの生命のさらに深いところへ入り込んでいるだけなのかもしれない。
そう思った途端、先ほど自分で口にした「内臓の中」という比喩がまた頭へ戻ってきたので、とおるは即座に考えるのをやめた。
やはり、あの表現はよくなかった。
「……これ、長くいたらまずいですか」
とおるが淡く発光する根の壁を横目にそう尋ねると、今度はグレンが考える素振りすら見せず、前を向いたまま即答した。
「まずい」
「やっぱり」
「普通の人間なら、この辺りから先には一刻以上おらんほうがいい」
「一刻って、かなり短くないです?」
「十分長い」
「その十分長い時間を超えると、具体的には何が起きるんです」
グレンはそこでわずかに歩調を落とし、足元を這う青白い光の筋を一度だけ確かめてから、ひどく簡単なことを説明するような口調で言った。
「酔う」
「魔力に?」
「そうじゃ。もっと正確に言えば、世界樹の魔脈へ身体側の魔力回路が引かれる。まだ薄いところなら頭痛、耳鳴り、吐き気程度で済むが、流れの濃い場所へ踏み込みすぎれば眠気が強くなり、記憶が曖昧になり、見えんものが見え始めるうえ、自分の魔力と他人の魔力の区別までつかなくなる者がおる」
聞けば聞くほど「酔う」という二文字に押し込んでいい症状ではなく、とおるの頬は露骨に引きつった。
「さらっと言うには怖すぎません?」
「怖がれと言っとる」
「怖がってはいますよ。かなり順調に」
「ならいい」
「怖がったからって安全になるわけじゃないですよね?」
「少なくとも、調子に乗って無茶をせん程度にはなる」
安全対策の第一項が恐怖心の確保らしいととおるが内心で呻いている横で、ミレイユは自分の胸元へそっと手を当て、そこにある〈鳴神〉の位置とその内側に収められた力を確かめるように指先を止めた。
「私は……少し重いです」
「鳴神を鞘から抜くなよ」
グレンの声が一段低くなり、釘を打つような響きが混じる。
「ここで聖装を開けば、枝のほうへ魔力を持っていかれる」
「承知しました」
ミレイユは即座に手を離し、それ以上は触れようともしなかった。ゾロも同様らしく、普段なら彼女の周囲に薄くまとわりついている火の気配が今はほとんど感じられないほど沈められている。
そこでとおるは自分の身体にも意識を向けたが、重さもなければ息苦しさもなく、頭痛や吐き気はもちろん、耳鳴りの兆候すらないどころかむしろ逆に訓練で溜まっていた疲労が身体の奥から少しずつほどけていくようだった。筋肉には確かにだるさが残っているはずなのに、歩けば歩くほど足取りだけが妙に軽くなっている。
「俺はあんまり何も……というか、むしろ楽になってる気がしますけど」
「それがおかしいんじゃ」
グレンが間髪入れずに言う。
「普通なら、この中ではお主が一番先に顔色を変えても不思議ではない。魔力回路がこの世界の者とは違うと聞いとったからな」
「聞いてたんですか」
「火女から最低限だけ」
「紙は読まないのに、口頭情報はちゃんと入ってるんですね」
「紙はうるさい」
「そこ、本当に一貫してますね」
とおるが妙な感心を見せると、後ろを歩くゾロが小さく苦笑した。
「だから連れてきたのよ。通常の魔力測定だと分からない部分が多すぎるから、こういう場所で実際にどう反応するのか見たほうが早いの」
「それで俺を、長くいると記憶が混ざったり幻を見たりする場所へ?」
「そこだけ抜き出すと、ずいぶん人聞きが悪いわね」
「全部つなげても、かなり悪いですよ」
言い合っている間にも一行の歩みはさらに深い場所へ進み続け、やがて空洞の景色には目に見える変化が現れ始めた。これまで木目に沿って青白く流れていた光の一部へいつの間にか細い黒が混ざり込み、墨を一滴ずつ水へ落としていったような暗い筋となって根の奥をゆっくり這っている。
根そのものが腐っているわけではないらしく、表面にはひび割れも崩れもなく、触れれば生きた木らしい硬さと温度が返ってきそうなほど健全に見えるのに、内部を走る光の一部だけが青から黒へ変色しており、その周囲へ近づくほど先ほどまでの穏やかな温もりが嘘だったかのように空気が薄く冷えていった。
「グレンさん。あそこ、色が違いません?」
「見えるか」
「見えるというか、なんか……濁ってる感じがします」
グレンは立ち止まり、肩へ担いでいた槌の柄で遠くの根を示した。
「あれが〈魔力溜まり〉じゃ。名前の通り、魔脈を流れる魔力が滞り、沈み、淀んだ場所じゃな」
とおるはもう一度その灰色の流れへ目を向けた。遠くから眺めるぶんには静かで、むしろ青白い光の中へ薄い影が浮かんでいるだけにも見えるが、意識を向けるほど身体の内側に妙な重さが生まれ、見た目以上に何かがそこへ蓄積しているのだと分かる。
「世界樹の中でも、そういうことが起こるんですか」
「生き物じゃぞ。流れがあれば滞る場所もある。地脈から吸い上げた魔力、生き物が残した魔力残滓、土地に染みた感情、古い術式の欠片、死んだ者の魂位相が擦れた痕、そういう細かなものが全部、一度で都合よく消えるわけではない。流れの速い場所なら薄まり、巡り、別の形へ戻っていくが、流れの悪い場所では沈んでしまう」
「それだけ、って言うには混ざってるものが重すぎません?」
「重いから沈むんじゃ」
「物理の話じゃないですよね」
「細かいのう」
グレンは何か気に入らないものを嗅ぎ取ったように鼻を鳴らすと、魔力溜まりを正面から抜ける道を避け、その外縁を大きく迂回する細い経路へ足を向けた。
そこから先は、もはや人間が歩くことを前提として整えられた通路とは呼びにくかった。
足元に続いているのは石畳でも板張りでもなく、世界樹そのものから伸びた巨大な根の背であり、長い年月をかけて押し重なった木目は凍りついた波のように緩やかな起伏を作り、ときには大人一人がそのまま呑み込まれそうなほど深い裂け目が口を開けている。
不用意に覗き込めば、そのはるか下をさらに別の根が何本も交差しながら走り、根と根の隙間には乳白色や淡い青の光が細い川のように流れているのが見えたため、とおるはしばらく歩くうちに、自分たちは地下へ向かって階段を下っているのではなく、とてつもなく巨大な生命の身体——その表面を伝いながら少しずつ深い場所へ入り込んでいるのだと思うようになっていた。
地上から見上げていた頃、世界樹とは王都の中心にそびえ立つ、とにかく巨大な一本の樹だった。
もちろん根も大きいのはわかっているし、街路を持ち上げながら建物を迂回させ、場所によっては橋そのものの土台になっている姿も見てきた。それだけでも十分に人智を超えた存在だと思っていたのだが、ここまで来てしまうと、そんな理解さえ人間の生活圏から見たごく表面的なものに過ぎなかったのではないかという気がしてくる。
世界樹が王都の中に生えているのではない。
むしろ王都のほうが、この途方もない生命の表面へ、千年以上という時間をかけて少しずつ寄り添い、邪魔にならない場所を探しながら築かれてきたのだ。
「……世界樹って、地上から見てた時と全然違いますね」
「当たり前じゃ」
即答だった。
「いや、それは分かってたつもりなんですけどね」
とおるは足元の隆起をまたぎながら、少し考えて言葉を続ける。
「幹がでかくて、街の中に根が出てて、それだけでも十分すごいと思ってたんですよ。でも、地下へ来たら印象が逆になるっていうか……これだけ下まで広がってるなら、王都って“世界樹のある街”というより、やっぱり“世界樹の上に住ませてもらってる街”なんだなって」
「そこまで殊勝なことを日頃から考えとる王都民は、そう多くないがな」
グレンは歩みを緩めないまま答えた。
「人間は慣れる生き物じゃ。家の横へ根が張り出せば邪魔だと言い、秋に葉が落ちれば掃除が面倒だと愚痴をこぼし、祭日になれば急にありがたそうな顔で祈り始める。それくらいでちょうどええ。毎朝起きるたびに自分の足元に途方もない生命がおると震えておったら、飯もまともに喉を通らんからのう」
「……確かに」
とおるは思わず笑った。
地上で見かけた景色が、ひとつずつ思い出される。
世界樹の根を避けるため不自然に曲がった道路、家の屋根へ降り積もった大きな葉を竹箒で集めながらぶつぶつ文句を言う老人、小さな祠へ手を合わせた直後にその足で向かいのパン屋へ入り、今日の焼き上がりを真剣な顔で選んでいた住民。
神聖なものと日常が、特別な境界もなく同じ場所に並んでいる。
王都とは昔からそういう街だったのだろうが、その意味をとおるは地下深くまで来てようやく実感として理解できたような気がした。
しばらく進んだところで、グレンが不意に足を止めた。
前方を塞いでいるのは一面の樹壁である。
通路らしい切れ目は見当たらず、扉であれば存在するはずの蝶番や継ぎ目もない。何層にも重なった木目が複雑な渦を描きながら絡み合い、その中心付近へ場違いなほど人工的な古びた金属環が一つだけ埋め込まれていた。
近づくほどに周囲に満ちる魔力の密度が変わっていく。
息苦しさはない。
胸が圧迫されるわけでもない。
それでも皮膚の表面を通り越して身体の内側へ、世界樹そのものの気配がゆっくり染み込んでくるような感覚だけが次第に濃くなっていった。
「ここから先は、長居する場所ではない」
「また危険区画ですか」
「ここまで来て、安全な観光地だと思っとったのか?」
「思ってないですけど」
とおるは樹壁を見上げた。
「危険の種類が来るたび増えてる気がするんですよね」
「増えとらん」
グレンが金属環へ手をかける。
「深くなっとるだけじゃ」
「こっちからすると、それを増えてるって感じるんですよ」
グレンは答えず、そのまま三人を振り返った。
「入る前に、もう一度、自分の名前を言え」
「またですか」
「またじゃ」
ゾロが先に口を開く。
「ゾロ・スネイブル」
「ミレイユ・アスター」
続いてミレイユ。
とおるも、わずかに間を置いて答えた。
「壁山とおる」
三人分を聞き終えると、グレンはゆっくり頷いた。
「覚えておけ。自分の名前を口にした時、それが誰か別の名前に聞こえたら即座に戻れ。自分の記憶にない景色を懐かしいと思い始めた時も同じじゃ。目の前にあるものと頭の中に浮かんだものの区別が曖昧になった時点で、それ以上先へ進むな」
とおるの表情が少しだけ固まった。
「……さっきから、俺に該当しそうな注意事項がじわじわ増えてません?」
「だから連れてきた」
「検査対象に対する倫理観がだいぶ薄い」
「嫌なら今からでも帰れ」
言われて、とおるは口を閉じた。
帰ること自体はできる。
グレンも止めないだろう。
ただ、ここまで下りてきてからずっと胸の奥へ引っかかっている、説明のつかない妙な懐かしさと右目の奥に消えず残っている熱が、「帰る」と考えた瞬間だけほんの少し強くなったような気がした。
その感覚のほうが、かえって背中を押した。
「……行きます」
すぐ隣から、ミレイユの視線が向く。
「本当にいいのか」
「怖いですけど」
「そこは否定しないんだな」
「怖くないふりをしたら、たぶん枝に嫌われるんでしょう?」
グレンの髭の奥が、わずかに動いた。
「少しは覚えたな」
「今、褒められました?」
「調子に乗るな」
「短かったなあ」
グレンが金属環を奥へ押し込んだ。
——直後、樹壁の木目が静かに形を変え始める。
硬い扉が左右へ開くのではなかった。
互いへ絡みついていた無数の繊維が巨大な植物そのものの意思で身体を退けるようにゆっくり左右へ流れ、中央へ髪の毛ほど細い亀裂が生まれたかと思うとその奥から淡い金色の光が一筋だけ漏れ出した。
裂け目は徐々に広がる。
光もまた、それにつれて濃くなる。
逆枝炉で見た青白い輝きよりずっと柔らかく、目を刺すような強さはないにもかかわらず、内包している魔力の密度だけはまるで比較にならず、入口が人一人通れるほど開く前からとおるは肌の表面へ重いものが触れてくるのを感じていた。
そして、完全に開いた向こう側を見た瞬間。
とおるは何も言えなくなった。
最初——それを根だとは理解できなかった。
あまりにも“大きすぎた”からだ。
視界の右端から左端まで、延々と樹皮の壁が続いている。
見上げても上端は見えず、逆に下側へ目を向ければ淡い光を含んだ霧の中へ沈み、その先がどこまで落ち込んでいるのか分からない。
表面には山脈を思わせる大きな起伏が連なり、樹皮の一片一片ですら崖のように盛り上がっており、その間を青、白、淡い金、深い緑――色の異なる魔力が大河のような幅を持って流れていた。
いくつもの流れが合流するたび、周囲の空洞全体が呼吸でもするようにゆっくり明るくなる。
その脈動はそこで消えずに巨大な根の表面を伝いながら遥か上方へ走り、見えない先へ吸い込まれていった。
「……これが」
「〈主根〉じゃ」
グレンの声も、自然と小さくなる。
「地上の幹と深層地脈を直接つないでいる根の一つ。王国が現在把握しとる範囲では、この場所が最も接近しやすく、なおかつ最も大きく表面へ露出しておる」
とおるは返事もせず、ただ主根を見上げ続けた。
地上で見る世界樹の幹も、十分すぎるほど巨大だった。
しかし今目の前にあるものは、同じ巨大さをまったく別の方向から突きつけてくる。
樹皮の裂け目一つへ何十人もの人間が並んで入り込めそうで、表面を走る魔力の一筋が大河に見え、さらにその奥では夜の厚い雲の向こうを雷が走る時のような鈍い光がゆっくりと脈打っている。
主根の周囲からは無数の細根が枝分かれし、そこで受け取った魔力を暗闇の彼方へ運んでいた。
ここに見えているだけでも、とてつもない。
それなのに、これですら世界樹全体から見ればごく一部に過ぎないのだ。
「……王都の下に、こんなのがあるんですね」
「“王都の下”という言い方が、もう少し違う」
グレンは主根を見上げたまま答えた。
「王都は、これの上にある」
その一言で、とおるの頭の中にある王都の姿がまたほんの少しだけ形を変えた。
王城。
白華衛宮。
紅椿駆城。
南環市場。
学院区。
無数の道路、水路、家々。
そこを行き交い、眠り、食べ、働き、笑い、喧嘩をしながら暮らしている何十万もの人々。
それらすべてが、この巨大な生命の上へ乗っている。
王都が世界樹を一方的に守っているのではない。
世界樹という途方もない存在へ人間が都市そのものを預け、その恩恵を受け取りながら代わりに守るべきところを守り、互いの生活を千年以上かけて積み重ねてきた。
その関係はとおるがこれまで想像していたよりずっと近く、そしてずっと深かった。
「ここが、俺を連れてきたかった場所ですか?」
「ああ」
「理由は?」
グレンがようやく主根から目を離し、とおるを見る。
「逆枝炉で見た反応が妙だったからじゃ。逆枝は、もとを辿れば主根を流れるものから生まれる。なら枝先で妙な反応が出た者を、より根元へ近い場所へ連れてきた時、何が起きるか確かめれば分かることもある」
「また俺が測定器になってません?」
「人間じゃ」
「その確認、毎回ちょっと嬉しいんですよね」
グレンは軽口を完全に無視し、主根のすぐ近くまで進んだ。
「ただし、触れる前に一つ覚えておけ。ここは逆枝炉よりはるかに魔力が濃い。しかも主根の表面を流れとるのは、単純な魔力だけではない可能性が高い」
「というと?」
「地脈の情報、魂位相の残滓、土地へ刻まれた記録。長い時間の中で世界樹が吸い上げ、抱え込んできた細かなものまで、混ざって流れとると考えられとる」
とおるは眉を寄せた。
「“考えられてる”」
「全部を完全に分けて測れる者などおらん」
「長く触ってると、さっき言ってた記憶の混濁とかが起きる?」
「起こり得る。見たこともない場所を、昔から知っているように感じる。自分が経験していない出来事を、いつの間にか自分の記憶だと思い込むこともある」
その説明を聞いた瞬間、右目の奥がほんの少しだけ熱を持った。
「……それ、かなり危ないですよね」
「危ない」
「でも触る」
「嫌なら帰れ」
「その選択肢を出されるたび、逆に行くしかない気分になるの何なんですかね」
「ワシは一度も強制しとらん。お主が勝手に前へ出とるだけじゃ」
「……それを言われると何も返せない」
隣で聞いていたミレイユが、一歩だけ前へ出た。
「私たちは、どこまで近づいていいのですか?」
「お主と火女はそこまでじゃ。とおるだけ来い」
ミレイユの眉間が険しくなる。
「危険な反応が出た場合は」
「ワシが引き離す」
「それで間に合う保証は」
「ない」
「グレン殿」
「保証を求めるなら、今すぐ全員で地上へ帰れ」
低い声だったが、決して脅しているわけではない。
本当にそれしか言いようがないのだろう。
ミレイユはしばらく黙っていたが、やがて何も言わずに口を閉じた。
とおるはその横顔を見る。
「大丈夫です」
「その言葉は使うな」
即座に返された。
「じゃあ……怖いけど、行ってきます」
今度はミレイユも否定しなかった。
「……何か一つでもおかしいと思ったら、すぐ戻れ」
「はい」
とおるは主根へ向かって歩き始めた。一歩近づくたびに周囲を満たす魔力の圧は明らかに強くなる。普通なら息苦しくなってもおかしくないほど濃いのに、実際には胸が詰まるどころか身体の奥のどこかがその密度へ合わせるように静かに馴染み始め、先ほどまで腹の底に溜まっていた緊張さえ少しずつ解けていく。
それこそが、とおるには何より怖かった。
明らかに警戒すべき場所へ近づいている。
危険だと説明も受けた。
逃げようと思えば、今ならまだ戻れる。
なのに身体だけが、自分の判断を置き去りにして――ここは大丈夫だ、と知っているように振る舞っている。
「触れろ」
「素手で?」
「そうじゃ」
「防護具とかは」
「邪魔になる」
「毎回、保護という概念が弱いなあ……」
「世界樹とお主の間へ、余計なものを挟むな」
その言い方だけが、妙に耳へ残った。
――世界樹と自分の間へ、余計なものを挟むな。
とおるは右手を持ち上げた。
主根まで、あと数十センチ。
手のひらが温かい。
さらに近づける。
指先が、自分の意思とは関係なくわずかに震えた。
十センチ。
右目の奥に、じわりと熱が灯る。
五センチ。
樹皮の奥を流れていた淡い金色の魔力が、ほんのわずかではあるが、自分の手へ向かって曲がったように見えた。
「……俺、本当に何もしてませんよ」
「知っとる」
「なんか、寄ってきてますけど」
「見えとる」
「止めなくていいんですか」
「今はまだ」
「その“まだ”が一番怖いんですよ」
軽口を叩いたものの、喉は少し乾いていた。
とおるはゆっくり息を吐き、それから掌を主根へ当てる。
触れた感触は意外なほど普通だった。
硬い木。
ほんのりとした温かさ。
ざらついた表面。
――ただ、それだけだったのは、最初のほんの一瞬だけ。
次の瞬間、掌の奥へ何かが広がった。
魔力を注ぎ込まれた、という感覚ではない。
むしろ逆だった。
自分の内側を流れる魔力と主根の奥を満たしている巨大な流れとの間には最初からごく細い通路が一本だけ存在していて、今までその上へ載っていた蓋が、触れたことで外れただけ。
そう思えてしまうほど、不自然なくらい自然な接続だった。
「……え」
息だけが漏れる。
主根の魔脈が、明るくなった。
掌の周囲だけではない。
そこから左右へ。
さらに上下へ。
淡い金の筋が青白い流れへ混ざり、別の流れへ触れ、その光がまた遠方へ広がっていく。
やがてとおるの視界へ収まりきらないほど広大な主根の一部が、眠りから目覚めるようにゆっくり脈打ち始めた。
「とおる!」
「動くな!」
「いや、これ……俺、動いてないです!」
返事はできた。
だが、自分の声が少し遠い。
耳から聞こえているというより、水の向こう側から届いてくるようだった。
右目の奥へ、〈白い線〉が浮かぶ。
一本。
二本。
十本。
百本。
増える。
増え続ける。
主根。
細根。
魔脈。
地脈。
地下空洞。
遠く離れた逆枝。
さらにその上。
地上。
王都。
それらは目で見える線として現れているわけではなかった。
むしろもっと厄介で、もっと直接的だった。
何と何がつながっているのか。
どこからどこへ流れているのか。
何が何へ影響を与え、何が何によって支えられているのか。
そんな“関係そのもの”だけが理解するための順序を無視して、一度に頭の中へ押し寄せてくる。
「……多い」
思わず声が漏れる。
情報が、多すぎる。
視界の話ではない。
頭の中へ直接、世界のつながりだけを流し込まれている。
主根と地脈。
地脈と土地。
土地と人。
人と魔力。
魔力と記憶。
記憶と――何か。
そして。
何かと、自分。
そこまで辿った瞬間、胸の奥が大きく鳴った。
どくん。
自分の心臓だ。
もう一度。
どくん。
今度は、主根の奥から響いた。
同じ間隔だった。
偶然だ。
そう思う。
思おうとする。
三度目。
どくん。
重なった。
身体の内側と、世界樹の奥。
まったく違う場所にあるはずの二つが、同じ瞬間、同じ間隔で鳴る。
怖い。
離れたい。
掌を動かそうとする。
けれど動かない。
いや。
違う。
動かなくてもいい、と自分のどこかが思っている。
ここは嫌ではない。
苦しくもない。
むしろ――。
懐かしい。
「……なんで」
知らない場所だ。
初めて来た。
初めて触れた。
こんな景色も、こんな感覚も、自分の記憶にはない。
それなのに身体のもっと深いところだけが、ずっと前からここを知っていたような感覚がある。
もっと深く。
もっと奥へ。
そこに何かがある。
確かめなければならない。
理由も分からないまま、そんな思いだけが胸の内側から湧き上がった。
主根の光が、さらに強くなる。
「とおる君!」
ゾロの声が遠い。
「離れろ!」
今度はグレン。
肩へ伸びてくる手の気配を感じた。
その、ほとんど同じ瞬間。
——何かが、〈見え〉た。
空。
高い建物。
道路。
灰色の街。
黒い箱。
電線。
割れた窓。
知らない。
――いや。
知っている。
知らないはずなのに、知っている。
見たことがないはずなのに、帰ったことがあるような気がする。
どちらが正しいのか。
もう分からない。
「待っ――」
そこまで口にしたところで、足元の感覚が消えた。
身体が倒れたわけではない。
穴へ落ちたわけでもない。
ただ、自分というものを外側から囲っていた輪郭だけが、熱い湯へ落とした薄氷のように静かにほどけていく。
視界の端から色が失われる。
グレンの声も、ミレイユの気配も、ゾロの叫びも遠ざかる。
最後に残った主根の金色さえゆっくり白へ溶けていった。
そして、とおるの意識は途切れた。




