第69話 お主は一体何者じゃ?
「グレン」
ゾロが静かに呼びかけた。先ほどまで浮かべていた軽い笑みを少しだけ引っ込め、逆枝炉のあちこちで起きている微細な反応を取りこぼすまいとするように、吊るされた枝、床を這う根、青白く脈打つ樹液の流れへ順に視線を走らせながら「これは、よくあるの?」と問いかける。グレンは年輪眼を動かしたまま、「あると思うか」と短く返した。
「思わないから聞いているのよ」
「なら聞くな」
「本当に偏屈ね」
「知っとる」
吐き捨てるように言い切ると、老人はそれ以上ゾロへ構わず今度はとおるの足元へ視線を落とした。
何を見ているのだろうと、とおるもつられて自分の靴の周囲を見下ろす。最初は何も起きていないように思えた。床を形作っているのは世界樹の地下へ食い込んだ巨大な根で、その表面へ年輪とも血管ともつかない無数の木目が走っているだけ――少なくとも、そう見えていた。けれど目が炉の薄暗さへ慣れるにつれ、その木目のさらに奥から青白い光が一本、また一本と細く浮かび上がり、別々の場所から伸びてきた筋がいつの間にか自分の周囲へ寄ってきていることに気づく。
とおるは一瞬、それが自分の立っている場所を避けるための動きなのだと思った。世界の外から来た異物を囲い込み、根や逆枝へ直接触れさせないために境界でも描いているのだとすればまだ理解しやすい。ところが、よく見ればまるで逆だった。青白い筋は靴を避けて円を描くのではなく、何本も折り重なるように靴底の真下へ集まり、床の木目そのものがとおるの立っている一点へ流れを細く束ねようとしている。
「……これ、大丈夫なやつです?」
「知らん」
「知らないんですか」
「初めて見るものへ、何を根拠に“大丈夫じゃ”と言えというんじゃ」
「正論が怖い」
「お主も分からんものへ平気で壁を張るそうじゃな」
「必要に迫られて!」
「ならワシも必要に迫られて見とる。黙れ」
「はい」
本日二度目の即時降伏だった。何かしら反論の余地は残っている気がするのに、声の圧と、妙に雑なのに完全には崩せない正論を一緒に投げられるとこちらの言い分だけが急に余計な荷物へ変わってしまう。
ミレイユは険しい表情のまま、とおるの足元へ集まる青白い筋を見つめていた。
「枝が、とおるへ集まっているように見える」
「集まっているというより……」
グレンは顎髭を指先でつまみ、珍しく言葉を急がなかった。年輪眼の輪を細かく動かしながら、床の木目ととおるの身体と、吊るされた逆枝の反応を何度か見比べた末に低く呟く。
「戻っとるようにも見えるな」
ほんの一言だった。
けれど、その言葉だけが妙に胸の奥へ残った。
「戻る?」
とおるが聞き返すと、グレンはすぐに首を振る。
「言葉の綾じゃ。忘れろ」
「いや、今のは完全に気になる言い方だったでしょう」
「ワシにも分からんものを、お主に分かるよう説明できると思うな」
「せめて考察くらいは」
「考察で枝は打てん」
「研究者が聞いたら泣きそう」
「泣かせておけ。黒蓮なら喜んで泣く」
「たぶんあの人たち、泣きながら測定器を並べ始めますよ」
ゾロが思わず小さく笑ったものの、目だけはまるで緩んでいなかった。炉の奥や床を這う根、吊られた逆枝、その順に細かな反応を追いながら「少なくとも、嫌われてはいないみたいね」と呟く声にも、安心より観察者としての慎重さのほうがずっと濃い。
「嫌われてないどころか、ちょっと距離が近すぎません?」
とおるは周囲を見回した。
「俺、初対面の相手にはもう少し時間をかけて近づいてほしいタイプなんですけど」
「枝に人見知りを要求するな」
ミレイユが淡々と返す。
「いや、人間相手にだって心の準備は必要でしょう。植物ならなおさらですよ。言葉で『少し離れてください』って相談できないぶん、距離感の調整が難しいですし」
「逆枝を普通の植物として扱うな」
「その特殊植物から、今かなり好意的っぽい反応を受けてるんですけど、俺はどういう顔をすればいいんです?」
「普通にしていろ」
「普通の顔が分からなくなってきた」
とおるが本気で困り始めている横で、グレンだけは別の意味で完全に黙り込んでいた。年輪眼は忙しなく動き、片方でとおるを捉えながらもう片方は炉の流れへ向いている。床を這う根の木目から吊るされた逆枝へ移り、またとおるの身体へ戻ってくるその視線の往復には、単に珍しい現象を眺めて面白がっているのではなく長い年月の中で蓄えてきた知識や経験のどこかに当てはまるものがないか、古い引き出しを一つずつ開けては中身を確かめて違うと判断するたびに、静かに閉じているような慎重さがあった。
やがて、グレンの眉間へ深い皺が刻まれた。
「変じゃな」
「俺がですか」
「お主以外に誰がおる」
「もう少し配慮のある言い方をお願いできます?」
「珍妙」
「悪化した」
「奇怪」
「さらに悪化した」
「珍品」
「とうとう人間から物品へ落ちました」
「うるさいのう」
鬱陶しそうに片手を振ったグレンは、そのまま太い指先をとおるの胸元へ突きつけた。
「お主、今までワシが見てきた人間のどれにも当てはまらん」
その声からはさっきまでの悪態混じりの軽さが消えていた。
「魔力回路の組み方が違う程度なら、別に珍しくもない。魂位相が妙な奴もおる。呪い、混血、古代術式の後遺症、魔獣因子、死霊憑き――人間は好き勝手なことをするから、長く生きておれば嫌でも妙なものを見る」
「最後の言い方、ちょっと人類全体に失礼じゃないです?」
「事実じゃ」
「否定しづらい」
「だが、お主はそういう“変わった人間”とも違う」
そこでグレンは言葉を止めた。年輪眼の二重円がとおるの肉体そのものではなく、そのさらに奥か、あるいは向こう側へ焦点を合わせようとするようにごく小さく位置を変える。
「枝が、お主を外から来た異物として警戒せん」
ゾロの表情が、ほんのわずかに変わった。
「それは……どういうこと?」
「知らんと言っとる」
「グレン」
「分からんものを、分かったふりして言葉で包むほど耄碌しとらん」
老人の声が少しだけ鋭くなり、逆枝炉の低い振動へ重なった。
「普通、この炉は人を選別する。逆枝は人間へ近づく前に、そいつがどこへ根を持っているかを見るんじゃ。この地で生まれた者にはこの地脈の癖が残る。遠い国から来た者なら、遠い土地の流れを身体へ連れてくる。生まれた場所、育った場所、飲んだ水、吸った魔素、触れ続けた地脈――人間は自分では何も持ち歩いておらんつもりでも、生きた時間が長ければ長いほどその痕は深く身体へ刻まれていく」
グレンの指先が、とおるの胸元から床へ下がる。足元では青白い木目が細く重なり、まるで根の奥から何かを確かめるようにとおるのいる一点へ静かに集まり続けていた。
「お主には、この国の地脈で育った痕がない」
「それは……まあ」
とおるは曖昧に言葉を濁した。異邦人であること自体はゾロもミレイユも知っているし、以前にも何度か説明した。けれどそれが世界樹や逆枝にとってどういう意味を持つのか、自分自身にもよく分からない。
「ところが」
グレンは床を走る青白い筋を踏まないよう、ほんの半歩だけ位置をずらした。
「枝どもは、お主を“外”とは見ておらん」
空洞の奥で、逆枝の一本が小さく鳴った。
こつん。
偶然にしては妙に間がよく、まるでグレンの言葉へ返事をしたような音だった。
とおるはそちらへ顔を向け、しばらく何も言えなかった。
「……えっと」
やっと出たのは、それだけだった。
「つまり、この世界で生まれてないのに、世界樹側からは部外者扱いされてないってことですか?」
「簡単にまとめるな。気持ち悪い」
「まとめないと俺の脳が処理できないんですよ」
「処理できんまま持っておれ。人間はすぐ、分からんものへ名前を付けて安心したがる」
「名前がないと報告書に書けません」
「報告書の心配をするな」
「俺にとっては結構大事なんです」
ミレイユが小さく額へ手を当てる。
「今は報告書を忘れろ」
「忘れると後で困るんですよ」
「後で思い出せ」
「そんな便利な脳を持ってないんですって」
そのやり取りを半ば聞き流しながら、グレンは逆枝炉の奥へ視線を向けた。
そして、ほんのわずかに迷った。
それが、とおるには分かった。
初対面から相手の言葉をろくに聞かず、国王すら平然と待たせ、分からないものは分からないと遠慮なく言い切る老人が今だけは答えを急がず、何かを即断することもなく年輪眼の奥で同じ情報を何度も組み直している。その事実だけで、とおるの胸の奥へさっきまでとは少し種類の違う不安がじわりと生まれてきた。
グレンは自信がある。経験があり偏屈で、しかも知らないことを知ったふりして埋めようとしない。だからこそその人間が判断を止めるという行為には、それなりの意味があると思った。
こういう時は大抵、見ている側がおかしいのではない。
目の前で起きていることのほうが、普通から外れている。偏屈な人が即断しない時というのは、大抵、普通ではないことが起きている時なのだ。
「……ゾロ」
「何?」
「話は後じゃ」
「まだ用件をほとんど説明していないけれど」
「後で聞く」
ゾロは一瞬だけ目を丸くし、それから本気なのか確かめるようにグレンの横顔を見たあと、ゆっくり口元を緩めた。
「珍しいわね。あなたが人の話を“後で聞く”と約束するなんて」
「うるさい」
老人はそれ以上取り合わず、肩へ担いでいた槌を近くの作業台へ置いた。動作だけ見ればぞんざいなのに、人の頭ほどもある重い槌は台の中央へ吸いつくようにぴたりと収まり、太い柄さえわずかにも揺れない。そのまま腰へ手を回して一本の紐を引っ張り出すと、金属製の鍵、削った木片にしか見えないもの、白い骨のようなもの、薄い硝子板めいたもの、そもそも鍵なのか札なのか判然としない小片まで、用途も材質も形もまるで揃っていない道具が一束になって現れ、グレンが歩き出すたび、かちゃ、こつ、と小さな音を立てた。
「小僧」
「はい」
「来い」
「どこへ」
「黙って来い」
「せめて行き先くらい教えてくださいよ」
「説明しても分からん」
「それは俺の理解力への挑戦ですか」
「事実じゃ」
「もう少し信じてほしい」
「信じる理由がない」
「初対面だから当然ではある……って、いや、そうじゃなくて」
一度うっかり納得しかけたとおるは、慌てて首を振った。
「俺だけです?」
「火女と雷娘も来い」
「雷娘……」
ミレイユの眉がごくわずかに動く。
「嫌なら留守番しろ」
「同行します」
「返事が速い」
とおるが思わず漏らせば、彼女は当然のようにこちらを見た。
「お前を一人で行かせられるか」
「心配されてる」
「監視役が必要だろう」
「わざわざ言い直さなくてもよかったのに」
ゾロも外套の裾を整えながら、どこか楽しげにグレンの背中を眺めていた。
「それで、どこへ連れていくつもり?」
「下じゃ」
「下? 逆枝炉より下があるの?」
「ある」
グレンはそれだけで済ませようとしたものの、三人から向けられる視線が鬱陶しかったのか、少し歩いてから面倒そうに付け加えた。
「枝打衆でも滅多に使わん場所じゃ。お主らが普段来る炉など、逆枝層の入口に過ぎん」
その言葉に、とおるは思わず天井を見上げた。すでに王都の相当深いところまで降りてきているはずで、地上の喧騒などとうに消え、壁も床も天井も人の手で積まれた石から世界樹の巨大な根へ変わり、青白い樹液が水路のように静かに流れている。それでもなお、ここが“入口”だという。
「世界樹って、どこまで地下にあるんですか」
「知らん」
「また知らない」
「誰が根の全部を掘って数えたというんじゃ。世界樹は、人間が帳簿へ書いた寸法どおりに生えとらん」
「急に正しいことを言う」
「ずっと正しいわ」
「態度が正しさを邪魔してるんですよ」
完全に無視された。
グレンの後について炉の奥へ進むにつれ、逆枝炉という場所が中央の樹液炉だけで完結しているのではなく、その周囲へいくつもの作業区画を枝のように伸ばしていることが分かってきた。一本の根を縦へくり抜いたような細長い場所には、加工途中らしい聖装がいくつも吊られており、細い板、輪、棒、枝分かれした骨格のようなものまでまだ武器とも道具とも呼び切れない不定形な姿をしているにもかかわらず、近くを通るだけで皮膚の内側へ静かに押し返してくるような魔力の圧が伝わってくる。
別の作業場では、一人の枝打ちが眠り枝へ直接耳を当てていた。
本当に、耳を。
とおるは通り過ぎかけてから二度見し、「何してるんです、あれ」と小声で尋ねた。
「聞いとる」
「枝の声を?」
「そうじゃ」
「聞こえるんですか」
「人による」
「俺にも聞こえたりします?」
「そんなもんは知らん」
「便利ですね、その返答」
「便利じゃぞ」
まったく悪びれないまま歩いていたグレンのもとへ、さらに奥で若い枝打ちが慌ただしく駆け寄ってくる。
「師匠、第三炉の眠り枝がまた黒くなって――」
「放っとけ」
「でも」
「持ち主候補が嘘をついとる。枝のせいではない。本人を呼んで、もう一度最初から喋らせろ」
「本人は、『王国のためなら命も惜しくない』と」
「だから黒くなっとるんじゃろうが!」
怒声が通路へ深く響き、若い枝打ちの肩が目に見えて跳ねた。
「死ぬのが怖いなら、怖いと言わせろ! 格好つけたまま枝へ触れる阿呆へ、聖装を持たせるな!」
「は、はい!」
若者は勢いよく頭を下げると、来た道をほとんど走るように戻っていった。
とおるはしばらくその背中を見送り、「……面接より怖い」と呟いた。
「枝契りは面接ではない」
「分かってますけど、落ちる理由が“格好つけたから”なの、かなり厳しくないです?」
「枝は綺麗な答えを求めとらん。本当の答えを求めとる」
グレンは歩調を緩めず、まるで当たり前のことを話すように続ける。
「死にたくない。怖い。逃げたい。嫌いな奴がおる。褒められたい。金が欲しい。そういう泥を抱えたまま、それでも何をするかを見るんじゃ。人間から泥を抜いたら、それは人間ではなくなる」
その言葉には妙な重みがあり、とおるはすぐに冗談を返せなかった。グレンは口が悪く、態度も悪く、初対面の人間を薄味だの珍妙だの珍品だのと平気で呼ぶが、どうやらこの老人が人へ求めているのは立派さではないらしい。むしろ、自分の中にある立派ではない部分へ蓋をし、それを初めから存在しなかったように飾ることのほうを嫌っている。その考え方だけは、とおるにとって意外なほど呼吸がしやすかった。
「じゃあ俺、かなり有利かもしれません」
「何がじゃ」
「格好つける材料があんまりないので」
「胸を張って言うことではない」
すぐ横からミレイユの冷静な突っ込みが飛んでくる。
「でも俺、死にたくないし、怖いし、逃げたいって普段から結構言ってますよ」
「言いすぎだ」
「枝から見たら正直者」
「騎士から見たら、もう少し我慢を覚えろ」
「評価機関によって採点基準が違う……」
ゾロが肩を揺らして笑った。
「相変わらずね、二人とも」
「俺たち一週間前まで死にかけてたんですけど、なんで日常会話だけ通常運転なんでしょうね」
「そういうものだろう」
「ミレイユ、そこ納得するんだ」
やがてグレンは、一枚の“扉”の前で足を止めた。ただそれを扉と呼んでよいのか、とおるには判断がつかなかった。巨大な根の断面へ楕円形の溝が深く刻まれているものの、中心に板らしいものはなく、何重もの木目が絡み合いながら植物が傷口を自分自身で塞いだように完全に閉じている。王国文字の注意書きも、紫苑の封印札も、鍵穴らしい穴も見当たらず、中央へ小さな窪みが一つあるだけだった。
グレンは腰の束から木製の鍵らしきものを外す。鍵と呼ぶには歯がなく、先端が二股へ分かれた、枯れ枝を削っただけの棒にも見えた。それを窪みへ差し込むも、何も起こらない。すると老人は露骨に舌打ちした。
「またか」
「開かないんですか」
「年寄りへ毎回同じ手間を取らせおって」
鍵を差したまま掌を扉へ押し当て、「ワシじゃ。開けろ」と言う。とおるは瞬きをした。
「声認証?」
「黙っとれ」
次の瞬間、木目が動いた。絡まり合っていた筋が生きた植物が自分の身体をゆっくり解いていくように左右へほどけ、その隙間から逆枝炉を満たしていた樹液よりも濃い青が漏れ出してくる。青白いというより夜明け前の空だけを液体へ溶かしたような深い色で、その向こうには階段ではなく一本の巨大な根の内側そのものを道へしたような通路が、緩やかな傾斜を描きながらさらに地下へ続いていた。人工の灯りなどどこにもないのに、壁の内側を流れる青い光が脈拍のような一定の間隔で強まり、弱まり、そのたび足元だけが静かに浮かび上がる。
その光を見た瞬間、とおるの右目へ熱が集まった。先ほどより明らかに強く、反射的に目元へ手を添えると、ミレイユがすぐ隣へ寄る。
「痛むのか?」
「痛くはないです」
「なら何だ」
「……呼ばれてる、みたいな」
口にした瞬間、自分で言った言葉へ自分で眉を寄せた。声が聞こえたわけではない。名前を呼ばれたわけでも、何かが頭の中へ直接語りかけてきたわけでもない。それでもいま身体の奥で起きている感覚を無理に言葉へ変えるなら、それが一番近かった。
通路の奥から、あるいはもっと深い場所から知らないはずの何かがこちらの存在へ気づいていて、それなのに“初めて出会う”という感覚だけが妙に薄い。行ったことなど一度もないはずなのに、忘れていた帰り道を不意に見つけた時のような、説明しようとするほど輪郭の遠ざかっていく感覚だった。
グレンの年輪眼が鋭く回る。
「やはりか」
「何がです?」
「黙って来い」
「その言い方、答えを持ってる人の逃げ方ですよ」
「持っとらん。だから確かめに行くんじゃ」
今度のグレンは、曖昧に誤魔化さなかった。
「お主を連れていけば、反応するかもしれんものがある」
「もの?」
「見てから考えろ」
「危険では?」
「危険かもしれん」
「帰っていいですか」
「いいから来い」
「聞くだけ聞いて却下された……」
肩を落としながらも、とおるの足は不思議と止まらなかった。いや、止めたくても止めきれない、と言ったほうが近いのかもしれない。正直言ってかなり怖い。知らない地下へよく分からない老人に連れられ、正体不明の“何か”へ会いに行くという条件だけ並べれば、前世なら危険人物への注意喚起にでも載せられそうな要素が綺麗に揃っている。それなのに胸の奥では、恐怖とは別の何かが静かに動いていた。
好奇心と呼ぶには少し重く、期待と呼ぶには根拠がなく、自分でも触れた記憶のない空白へ、遠くから形の合いそうな欠片がゆっくり近づいてくるような、そんな奇妙な予感だった。
「とおる」
ミレイユに呼ばれて振り返る。彼女は鳴神の柄へ手を添えたまま、まっすぐこちらを見ていた。
「嫌なら、行かなくてもいい」
その言葉が少し意外で、とおるは目を瞬かせる。
「グレン殿が何を見せようとしているのかは分からない。お前の右目も反応している。なら、無理に進む必要はない」
「……ミレイユが止める側になるの、珍しいですね」
「私はいつも、必要なら止めている」
「自分自身以外は」
「余計な一言を足すな」
ほんの少し、いつもの調子が戻った。とおるは笑いそうになり、それから改めて扉の向こうを見る。深い青の光に脈打つ根、——聞こえない呼び声。
何が待っているのかは分からない。
「行きます」
自分でも驚くほど簡単に言葉が出た。ミレイユが目を細める。
「いいのか?」
「はい。怖いですけど」
「怖いのか」
「ものすごく」
「なら、なぜ」
少し考えてから、とおるは答えた。
「……分からないまま帰るほうが、たぶん今は気持ち悪いので」
立派な理由ではなかった。勇気と呼ぶには格好がつかず、使命感と呼えるほど大きなものでもない。ただ、知らないものを知らないまま置いて戻るほうが、いまは少しだけ怖かった。グレンが鼻を鳴らす。
「それでよい」
「何がです?」
「分からんなら、分からんまま歩け。答えを用意してからしか進めん奴は、いつまで経っても自分の知っている場所から出られん」
「急に師匠っぽいことを言う」
「ワシは師匠じゃ」
「俺のではないですよね」
「当たり前じゃ。弟子にした覚えはない」
「安心しました」
「そこは少し傷つけ」
「要求が面倒くさい」
ゾロが笑いながらグレンの後へ続き、「行きましょう。枝爺がここまで興味を示すなら、私も見てみたいわ」と言う。
「俺、だんだん観察対象みたいになってません?」
「最初から多少は」
「正直」
「嫌なら人間として扱うけれど」
「最初からそうしてください」
四人は扉の奥へ入り、先頭をグレン、その後ろをゾロ、とおる、最後尾をミレイユという順で根の通路を下っていった。地下へ行くほど道は狭くなるものだと勝手に思っていたが、実際には逆で、数十歩も進まないうちに内部はゆっくり広がり、やがて一つの街路ほどの幅を持つ空洞へ変わっていく。
天井は高く、ここが巨大な根の内側なのかそれとも根が天然の洞窟へ食い込んでできた場所なのかすら判別しにくい。壁の一部は半透明で、その向こうを深い青の光が川のように流れ、少し遠くには黒い岩のような塊が根へ半ば飲み込まれていた。
「何です、あれ」
「昔の石積みじゃ」
「昔って、どれくらい」
「分からん」
「今日それ多いですね」
「地下へ来ればわからんことは増える。地上は人間が年月へ名前を付けたがるが、地下では誰も札を立ててくれんからな」
近づいてみれば、それは確かに建造物の残骸だった。黒い石の角は長い時間に削られて丸みを帯び、表面にはとおるの知らない文字がもはや読ませる気もないほど薄く刻まれている。世界樹の根は石壁の割れ目へ入り込み、押し広げ、砕き、そのまま建物ごと自分の身体へ抱え込んでいた。
王国より古いのか。世界樹の根がここへ伸びるより前なのか、それとも後なのか。誰が作り、何のためにここへ置き、どんな暮らしがこの暗い地下へ存在したのか。
そのどれも分からない。それでも地上の王都が千年という歴史を積み重ね、その古さを誇りとして抱えている一方で、その足元にはさらに古い誰かの時間が名前さえ失ったまま静かに沈んでいるという事実だけが、とおるの胸へ妙に深く入り込んできた。人間は都市を作り、その下には別の時代の誰かが残したものが眠り、さらにその隙間へ世界樹の根が入り込み、古いものを壊しながら同時に抱え込んでいく。そして今、その根の中を後から生まれた人間たちが道として歩いている。
世界というものは横に広いだけではないらしい。
地図へ描かれる距離の向こう側だけでなく、時間の上下にも途方もなく広く、自分が知っている場所の下には知らない場所があり、自分が生きている時代の下には、名前すら残らなかった誰かの時間が何層にも折り重なっている。とおるはいつの間にか歩調を緩めていた。
「……地上だけ見てたら、分からないですね」
「何がだ」
ミレイユが振り返る。
「王都って、すごく大きいと思ってました。でも、ここまで下へ来ると、その王都も世界樹の根の上にちょっと乗ってるだけなんだなって」
「ちょっと、という規模ではない」
「分かってます。でも、感覚として」
白華衛宮も、市場も、王城も、紅椿駆城も、毎日のように提出を迫ってくる報告書も、地上ではそれぞれが大きく重要で、やたらと忙しい。けれどここまで降りて遠ざかってみると、それらは小さく見えるというより、むしろこの途方もなく巨大な世界の上へ人間が必死になって積み重ねて置いている、大切なもののようにも思えてくる。
「妙な顔をするのう」
と前を歩くグレンが言う。
「どういう顔です」
「少しだけ考えることを覚えた草食獣じゃ」
「成長してるのかしてないのか分からない」
「褒めとらん」
「やっぱり」
さらに進み、通路の傾斜が緩やかになり始めたころに空気が変わった。温度が下がったわけでも、匂いが濃くなったわけでもない。それでも何かが近いということだけは分かる。とおるの右目の熱が今度ははっきり強まり、痛みはないのに目を開けている時より閉じたほうが位置を感じ取れるような気さえした。
前方。少し下。大きな何か。
こちらを引っ張っているのではなく、近づいてくるのをただ静かに待っている。
「グレンさん」
「何じゃ」
「もう近いですよね」
老人の足が止まり、ゾロとミレイユも振り返った。
「分かるのか」
「なんとなく」
「どちらじゃ」
とおるはほとんど迷わず、まだ曲がり角しか見えない通路の左奥を指した。
「……あっち」
グレンの年輪眼が細くなる。
「ほう」
「当たりです?」
「腹が立つくらいにはな」
「なんで正解すると怒られるんですか」
「ワシはそこへ初めて来た時、三日迷った」
「急に個人的な感情!」
「枝打衆の若造どもは平気で一週間以上迷う」
「案内表示を設置したらどうです?」
「雰囲気が壊れるじゃろが」
「そこは気にするんだ!?」
偏屈爺の美意識というものは、本気で分からない。
グレンは再び歩き出し、曲がり角を一つ抜けてさらに短い坂を下った。その先に扉はなかった。ただ、空間だけが突然大きく開けている。
「入れ」
そう言われ、とおるが一歩前へ出た瞬間、目の前へ広がった景色に言葉を失った。
そこは巨大な“空洞”だった。
逆枝炉よりも、さらに大きい。天井がどこにあるのか分からず、壁さえ遠すぎて見えない。それでも完全な暗闇ではなく、深い青の光が空間のあちこちへ浮かび、無数の根がその中を宙へ伸びている。いや、それを根と呼んでよいのか、枝と呼ぶべきなのかすら分からなかった。地中深くにいるはずなのに、太い根の一本一本は下ではなく上へ向かって伸び、その先でさらに細かく分かれ、暗い空間の奥へ溶けている。青白い樹液が木目の内側を流れ、遥か遠くでは小さな光が星のように明滅していた。
地下なのに、森だった。
空のない場所へ広がる、逆さまの森だった。
とおるは息を呑んだ。
「……これが」
「逆枝層の一部じゃ」
グレンの声が、珍しく小さい。
「人の手で採れる場所より、さらに奥。まだ眠っとるところじゃ」
その言葉とほとんど同時に、とおるの右目へ再び熱が集まり、空洞の中で一本の枝がゆっくり光った。しかしそれだけでは終わらない。少し離れた場所でも、さらに奥でも、淡い光が一つ、また一つと木目へ灯り、暗い森の中で夜空の星が順番に目を覚ましていくように深い逆枝層のあちこちへ青白い輝きが広がっていく。ミレイユが小さく息を呑み、ゾロも今度は何も言わなかった。グレンの年輪眼だけが静かに回っている。
とおる自身は何もしていなかった。ただ入口へ立っているだけなのに、遠くの枝から近くの枝へという単純な順番でもなく、太いものも細いものも眠ったままのものも、暗闇へ半ば埋もれているものもそれぞれが自分の奥に残っていた光を思い出すようにひとつずつ静かに灯り始めている。選ばれているという感覚ではなかった。どれか一本だけが強く呼びかけてくるわけでもない。もっと広くもっと曖昧で、それゆえに妙だった。森のどこか一部ではなく、この巨大な層そのものがとおるという存在を見つけ、長い時間の底から何かを確かめるために少しずつ目を開いているように見える。
「……お主」
グレンが呟いた。さっきまでの乱暴な響きはそこにはなかった。
「本当に、何なんじゃ」
答えられるはずがない。それはとおる自身が一番知りたかった言葉だ。
——異世界から来た人間。
これまでは、それで十分だと思っていた。ところが世界樹の根の深奥で自分を見つけた逆枝たちは、外から来た異物へ向けるような反応を見せていない。警戒でも拒絶でもなく、だからといって歓迎と呼ぶには意味が分からなさすぎる。もっと近く、もっと古く、説明のつかない反応だった。
「俺に聞かれても困りますよ」
ようやく出たその声は、自分でも驚くほど情けない。
「自分の取扱説明書、持ってないので」
グレンは少し黙ったあと、低く笑った。
「……面白い」
その笑いは、先ほどまでの悪態混じりのものとは違っていた。未知の素材を見つけた職人の喜びだけでも、人間を標本として眺める研究者の興味だけでもない。何十年、あるいはそれ以上の年月を世界樹の根元で過ごし、数えきれないほどの人間と逆枝を見てきた老人が、それでもなお自分の知らない何かへ出会えたことそのものを心の底から面白がっているような笑いだった。
「よし」
グレンは槌を肩へ担ぎ直した。
「予定変更じゃ」
「何がです?」
「火女の話を聞く前に、もう一つ確かめる」
「まだあるんですか」
「ある」
「今日の予定、増えてません?」
「知るか」
「俺の予定なんですけど」
「今から増えた」
「勝手!」
「世界樹の都合へ合わせろ」
「規模が大きすぎて文句を言いづらい!」
ゾロがついに吹き出した。
「諦めなさい、とおる君。枝爺がここまで乗り気になったら、途中では止まらないわ」
「経験者の諦めが早い」
「私も昔、六時間付き合わされたもの」
「六時間!?」
「途中で食事は出たわ」
「そこだけ聞くと少し安心する」
「乾いたパン一個」
「安心が消えた」
ミレイユだけは真面目な顔を崩さず、グレンへ尋ねる。
「何を確かめるのですか」
老人は答えず、逆枝層のさらに奥、青い光がゆっくり増え始めている方向へ目を向けた。
「来れば分かる」
「またそれですか」
肩を落としたとおるへ、グレンは鼻を鳴らす。
「答えが先に分かる道ほど、つまらんものはない」
「俺はつまらなくていいから、安全な道が好きなんですけど」
「知っとる」
「知ってて無視してる」
「さあ来い、小僧」
グレンは逆枝層へ足を踏み入れ、深い青の光を足元で静かに揺らしながら振り返らずに続けた。
「お主が何者か、ワシにはまだ分からん。じゃが、一つだけ分かった」
とおるはその背中を見つめる。
「何です?」
「世界樹は、お主を知らん顔では見とらん」
それだけを残し、グレンは奥へ進んでいった。
とおるはすぐには動けなかった。胸の内側へ、その言葉だけが妙な形で残っている。
世界樹は自分を知らない顔では見ていない。意味など分からない。どうしてそうなるのかも、何を知っているというのかも何一つ説明できないままなのに、その言葉だけは不思議なほど胸のどこかへ馴染んだ。初めて来た場所なのに懐かしく、見たことのない青い光なのに恐怖だけではなく、知らないはずの世界樹の根の奥で遠い枝がひとつずつ灯り始めている。その理由は誰にも分からない。
「……行きますか」
とおるが小さく呟くと、ミレイユが隣へ並んだ。
「ああ」
「怖いですけど」
「知っている」
「帰りたいですけど」
「それも知っている」
「最近、俺の性格説明が短く済むようになってきましたね」
「いいから歩け」
「はい」
後ろでゾロがくすりと笑う気配がした。
三人はそのまま、王都一の偏屈な枝打ちの背中を追い、光り始めた逆枝の森へ足を踏み入れていく。なぜ枝が光ったのか。なぜ世界樹の根がとおるを拒まないのか。なぜ本人だけが、初めて来たはずの場所へ、ほんのわずかな懐かしさを覚えるのか。
今はまだ、誰にも分からない。答えを与えるには早すぎて、無理に名を付ければきっと大切な何かを取り違えてしまうだろう。
だから、分からないまま歩く。
知らない場所へ、自分の足で進んでいく。
壁山とおるにとってそれはたぶん、剣を振るうことよりもほんの少しだけ難しいことだった。




