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第66話 王都アルヴェリオン



 王都アルヴェリオンは、遠くから眺めるだけなら、一枚の壮麗な絵画に見える。


 風の大陸のほぼ中央に聳える世界樹は、雲を突き抜けるほどの太い幹を空へ伸ばし、その遥か上で幾千幾万もの葉を重ねた巨大な樹冠を広げていた。降り注ぐ昼の光は、その葉々にいったん受け止められてから淡い金と翠を含んだ柔らかな色へ変わり、王城の尖塔、三重城壁の白石、環状道路の敷石、商業区の硝子窓、遠くを走る水路の水面へ、朝露を砕いて撒いたような細かな輝きを落としている。風が高所を渡れば、世界樹の葉は海鳴りにも似た低く深い音を響かせ、そのざわめきは祈りの鐘や市場の呼び声、工房で振り下ろされる槌の音、石畳を回る馬車の車輪、巡回騎士の靴音さえ包み込みながら、王都そのものが一つの巨大な生き物であるかのような呼吸を形づくっていた。


 人の手で築かれた街でありながら、その中心には、人間の都合などお構いなしに千年を超えて生き続ける巨大な生命が立っている。


 アルヴェリオンとは、そんな世界樹の根元へ人間が少しずつ住みつき、根を避けるため道を曲げ、人口が増えるたび城壁を外へ継ぎ足し、川を越えるため橋を架け、地下へ水を通し、火災や災害で焼けた街区を何度も造り直しながら、千年以上という時間をかけて「それでもここで暮らす」という意思を積み重ねてきた都市だった。


 上空から見れば、王都は完全な円形ではない。世界樹の幹そのものが北西寄りに立っているうえ、地上へ露出した巨大な根が土地を丘のように押し上げ、ある場所では街路を斜めへ押し曲げ、別の場所では街区と街区の間へ天然の壁を作っている。第一城壁の内側には王城と王樹中枢域が置かれ、その中心にある白冠丘には王家の宮殿、謁見殿、宮内記録院、外交使節館、金蘭の詰所、さらに一般市民には存在どころか正式名称さえ知らされていない地下避難区までが、限られた高台へ幾重にも折り重なるよう配置されていた。


 第二城壁の内側へ視線を移せば、雰囲気は少し変わる。行政庁舎、商業区、学術街、医療区、工匠街、騎士団施設が、長い歴史の中で増改築を繰り返しながらも、不思議なほど機能的な秩序を保って並んでいる。さらに第三城壁へ近づけば、そこから先は人々の日常が前面へ出てきた。南環市場では朝早くから野菜、焼きたてのパン、香辛料、布地、鍋、靴、干し肉、乾燥果実、修理済みの中古魔導灯までが所狭しと並び、値切る客と負けまいとする商人の声がひっきりなしに飛び交う。


 城壁を越えたからといって、王都がそこで終わるわけでもない。


 外縁には宿場、飛行魔獣発着場、軍用厩舎、巨大な倉庫群が広がり、さらに離れれば黄棘の獣塞、黒蓮の研究隔離区、廃棄物処理場、共同墓地までが点在している。アルヴェリオンという都市は、城壁の内と外を単純に「安全」と「危険」で分けているのではなく、人の暮らしに必要なものと、近くへ置きすぎると困るものと、万一の際には迅速に使わなければならないものを、実に現実的な距離感で仕分けながら外へ外へと膨らんできたのだった。


 王都の道にも、見た目以上の意味がある。


 世界樹と王城を中心に伸びる放射大道、城壁ごとに街を巡る環状大道、その間を細かく縫う生活街路。その複雑な道路網の中には〈十二華優先路〉と呼ばれる騎士団専用の緊急経路が組み込まれており、普段は道端へ埋め込まれた赤白の石標も、警報が発令されれば淡く光って一般交通へ停止を知らせる。


 いつもなら荷馬車と行商人、買い物帰りの婦人や走り回る子どもが行き交うだけの道でも、魔物災害、火災、要人救出、術式事故などが発生すれば、その瞬間から王都を守る血管へ姿を変える。


 白華は民間人の避難経路へ迅速に入れるよう南環道の近くへ。紅椿は誰より早く現場へ突入するため南東の高速交通区へ。翠桐は水路と土木を担うため西側の工務院へ寄り添い、銀桂は市民生活と犯罪の最前線へ触れやすい中央行政区へ。


 十二華は、ただ王都の中へ十二個の隊舎を置いているわけではない。


 都市そのものが、彼らの存在を前提として設計されていた。


 金蘭は王都の頭を守る。銀桂は目となり、街へ落ちる影を見る。青薔は遠い国境へ伸びる拳となり、蒼菫は人と物資の流れを整える。紫苑は記憶を閉じ込め、黒蓮は未知へ指を差し入れる。黄棘は牙あるものを制し、紅椿は脚となって走り、白華は盾となって民の前へ立つ。翠桐は都市の骨を支え、緋桜は逃げ道を切り開き、灰百合は死者の残した声を静める。


 アルヴェリオンは、美しい都市であると同時に、壊れないための仕組みを幾重にも体内へ抱え込んだ巨大な防衛機構でもあった。


 そんな壮麗で、なおかつ嫌になるほど実務的な王都の第二環区を、壁山とおるは厚い資料束を両腕へ抱えながら歩いていた。


 視線を上げれば、世界樹の葉が遥か頭上でゆっくり揺れている。道の両側には白石造りの建物が並び、花紋を象った街灯の柱が一定の間隔で続き、少し離れた南環市場からは、焼き上がったばかりのパンと甘い香辛料の匂いまで風に乗って漂ってくる。


 旅人なら、この景色を見ただけで胸を打たれたかもしれない。吟遊詩人なら、世界樹の光だの千年王都の息吹だのを題材に、二節か三節くらいは即興で歌えそうである。


 とおるの場合、胸へ最も強く残っているのは――病院帰りの足で合同研修の説明を受け、休憩もろくに挟まず、そのまま取引先への挨拶へ向かっている。


 という、きわめて現代日本の疲れた会社員めいた感覚だった。


 異世界の巨大樹も、三重城壁も、騎士団の紋章が刻まれた優先路も、もちろん素晴らしい。素晴らしいのだが、腕に抱えた資料の一番上へ『報告書基本様式』、そのすぐ下へ『合同任務事前説明』などという紙が重なっているだけで、視界いっぱいに満ちていたはずの幻想的な雰囲気が、急速に役所の待合室へ近づいていく。


 魔法があっても、行政手続きは消えない。


 むしろ魔法が存在するせいで、火属性魔法使用許可、大型魔獣運搬申請、古代遺物持込許可、死霊術使用届といった、前世の役所ではまず見かけなかった種類の物騒な書類が追加されている。


 文明というものは、便利になるほど確認事項が増えるらしい。


 異世界も例外ではなかった。


「顔が完全に、遠足へ行く子どもじゃなくて休日出勤へ向かう大人だな」


 先を歩いていたクラリッサ・ロウが、振り返りもせず言った。


 歩くたび赤茶色の短髪が軽く揺れ、白華隊の外套が木漏れ日を拾って淡く明滅する。第九華隊白華の四席である彼女は、普段なら快活で豪快で細かいことなど笑い飛ばしてしまいそうな印象が強いのに、こうして王都の道を歩いている姿を見ていると実際には周囲をかなり細かく観察していることが分かった。


 馬車の流れ。


 道端に立つ衛兵。


 屋台で使われている火。


 二階窓から身を乗り出している住民。


 親の手を離れて走りそうになった子ども。


 雑談をしながらでも、必要なものだけは視界の端で拾い続けている。


「遠足なら弁当と自由時間がありますからね。今の俺にあるの、医務室の診断結果と、この資料束と、まだ書いてない始末書の予定だけですよ」


「紅椿へ行けば訓練場が見られるぞ」


「自由時間の対義語みたいな場所じゃないですか」


「白華の新人が紅椿の訓練場へ入れる機会なんて、そう多くない。喜べ」


「俺の中の喜び担当、今は右目の熱と報告書に席を譲ってます」


 横を歩いていたミレイユが、前を向いたまま小さく息を吐いた。


 医務室で巻き直された脇腹の包帯は鎧の下へ隠れている。見た目だけなら普段とほとんど変わらないが、注意して見れば歩幅はわずかに狭く、身体を捻る動きも必要最低限に抑えていた。


 本人へ訊けば、きっと「問題ない」と答える。


 とおるはもう、その言葉を額面どおり受け取らないことに決めている。


 強情というか意地っぱりというか、あるいは「自分が動けると判断した以上は他人に心配される余地まで任務の邪魔になる」と本気で考えていそうなところが、いかにもミレイユらしい。


「紅椿との訓練は、白華にとっても重要だ」


 クラリッサが前を見たまま続ける。


「とおる、お前の〈反発壁〉も実戦運用まで考えるなら、紅椿の機動へ合わせる経験は必要になる」


「必要性って言葉で包めば、何でも正当化できると思ってません?」


「必要なものは必要だ」


「その言い切りの強さ、最近ちょっとリディアさんに似てきてません?」


 隣で、ミレイユの耳がほんのわずかに赤くなった。


 先ほどまでの落ち込み自体はだいぶ薄れているものの、リディアの名前を聞くと心の姿勢だけ自動で直立するらしい。


 尊敬が強すぎる。


 たぶん今ここで「リディアさん、最後にしょんぼりするなって言ってましたよね」と一言添えるだけで、耳の赤みは頬まで勢力圏を拡大し、ようやく沈静化してきた自己反省が第二波として押し寄せるに違いない。


 …その未来だけはかなり鮮明に想像できた。これ以上触ると、せっかく止まりかけている反省会が再開されそうなので、とおるは大人しく視線を街並みへ逃がすことにした。



 白華衛宮から紅椿駆城までは、徒歩でおよそ三十五分。


 第二城壁南部の交通結節点を抜け、南環市場の外縁をかすめ、工匠街と高速交通区の境を通って南東へ向かう。午前の市場が最も混み合う時間帯を少し過ぎた頃らしく、野菜籠を抱えた婦人、荷車を曳く馬、香辛料袋を山ほど積んだ商人、制服姿の学院生、巡回中の銀桂騎士までが入り混じり、通り全体が色とりどりの糸を織り合わせた布のように絶えず形を変えていた。


 焼きたての丸パンを売る店の前では、幼い子どもが銅貨を握りしめたまま真剣な顔で品物を選び、魚屋の軒先では水桶へ並べられた銀色の鱗が陽光を跳ね返している。木箱いっぱいの赤い果実。束ねられて天井から吊られた乾燥香草。風を受けて膨らむ染め布。建物の向こうから聞こえる鐘の音。


 あまりにも、生活が多い。


 少し前までなら、それをただ賑やかで綺麗な景色として見ていただろう。


 けれど今は違った。


 騎士の判断一つで街道が封鎖されれば、この中の誰かの荷物が届かなくなる。魔物が出たという噂だけで、商売を畳んで逃げる人間が出ることもある。誰かを守るための命令が、別の誰かにとっては損失になる場合もある。


 そう教えられた直後だからこそ、目の前にある色彩は以前より美しく見えるのに、その分だけ重くも感じられた。


 道の右手では、世界樹の露出根が緩やかな丘のように地面を持ち上げ、その裾へ小さな祠がいくつも寄り添うように並んでいる。根の表面には年月ですり減った古い守護紋が刻まれ、白布を結びつけた細い柱が風に揺れていた。


 通りかかった老人が帽子を取って、短く頭を下げる。


 近くを走っていた子どもが足を止め、それを見よう見まねで真似した。


 世界樹は、観光客が見上げて感動するだけの名所ではない。


 街の中心へ当たり前のように立ちながら、誰もがほんの少し畏れ、困ったときには頼り、ときには落ち葉や根の隆起へ文句まで言いながら暮らしている。


「綺麗ですね」


 気づけば、とおるは口に出していた。


 クラリッサが少しだけ歩調を緩める。


「初めて見る奴は、大体そう言う。何年も住めば、根のせいで道が曲がって面倒だとか、馬車が遠回りになるとか、落ち葉掃除が終わらないとか、そういう愚痴も増えるぞ」


「生活してる感じがすごいですね。世界樹の根元って、もっと神聖で静かな場所なのかと思ってました」


「神聖だし、騒がしい」


 クラリッサは肩越しに笑った。


「人が住んでるからな」


 短い言葉なのに、妙に納得できた。


 神聖なものの隣にも洗濯物は干される。祈りの道の向かいでもパン屋は朝から店を開け、子どもは走り回り、誰かの財布は少しずつ軽くなる。


 異世界へ来てから、とおるは何度も驚かされてきた。


 巨大な世界樹も。


 魔法も。


 聖騎士も。


 魔獣も。


 けれど、こういう生活の積み重なりへ触れるたび、ここもまた本当に人が暮らしている世界なのだと強く実感する。


 物語の背景ではない。


 誰かの家があり、仕事があり、夕飯があり、腹痛があり、納税がある。


 納税。


 最後の一単語だけ、急に現実味が強すぎた。


 せっかくの感動が少し減った。


 南環市場を抜ける頃には、空気の匂いそのものが変わっていた。


 工匠街へ近づくにつれ、焼けた鉄、機械油、革、木屑、濡れた石の匂いが鼻先へ混じり始める。道幅も広くなり、足元には白い敷石に代わって、荷車や重量物の運搬へ耐えられる黒灰色の頑丈な石材が増えていた。


 翠桐が管理する水路が通りの横を走り、一定間隔で大型の水甕と小型消火魔導具が置かれている。鍛冶場の奥では赤々とした炉が口を開け、槌を打つ音が一定の間隔で町並みへ響く。


 そして、その先から建物の表情まで少しずつ変わり始めた。


 白華衛宮周辺の建築は、白石と淡い青の屋根を基調にし、広い中庭や大きな窓を多く取った、清潔で開放的な造りが目立つ。


 対して、南東高速交通区の建物はもっと直線的だった。


 硬く、簡潔で、何より速さを前提にしている。


 窓は必要以上に大きくない。外壁には黒灰色の耐火石と赤褐色の煉瓦が多く使われ、庇は短く、雨水や火の粉を外へ逃がす角度で張り出している。建物そのものには角が多いのに、道路と通路は驚くほど見通しがよく、騎兵や騎獣、装備馬車が互いの進路を妨げず行き交える幅が確保されていた。


 そして、いくつかの建物を越えた先。


 前方へ、赤と黒を基調とした巨大な建築群が姿を現す。


 紅椿駆城。


 第八華隊〈紅椿〉の隊舎は、王城のような華美さを持っているわけではなかった。


 むしろ逆だ。


 戦場へ飛び出すために削り続けた機能が、そのまま重厚な美しさへ変わっている。


 中心となる主棟は縦に長く、黒灰色の耐火石を基調として、梁、門扉、窓枠へ深い赤の金属装飾が走っていた。その赤は人目を引く鮮やかな朱ではなく、何度も手入れされた甲冑の奥に灯る火や、炉の底で消えずに残る熾火を思わせる暗い紅。黒もまた闇を飾るための色ではなく、煤、鋼、焦げ跡といった実用の積み重ねが、そのまま隊舎の印象になったような色だった。


 白華衛宮を「民を迎え入れるための、開かれた盾」と呼ぶなら。


 紅椿駆城は、「閉ざされた扉を内側から蹴り破るための脚」だった。


 中央には大規模な出撃広場が設けられ、そこを起点として南東大門、飛行魔獣発着場、王都外へ通じる主要街道へ三本の導線が一直線に伸びている。石畳には赤い誘導線が埋め込まれ、緊急時になれば、その一本一本を目印に騎士、騎獣、装備馬車、伝令が同時に動き出すのだろう。


 広場の外周には高速装備庫、緊急装備室、騎獣区、伝令塔が並び、そのさらに上では、出撃鐘を吊るした黒い塔が空へ細長く伸びていた。


「……すごいですね」


 気づけば、とおるは足を止めていた。


 圧倒された。


 言葉にするなら、それが一番近い。


 白華衛宮の美しさは、人を安心させるための白だった。


 紅椿駆城の美しさは、火の向こうへ進む者のための赤と黒だ。


 派手だから荘厳なのではない。


 無駄がないからこそ、怖いほど美しく見える。


 建物全体が、「出る」と決まった瞬間には一切迷わない。


 階段も、通路も、広場も、門も。


 速度と衝突と撤収、その三つを最初から前提に組み上げられていることが、建築に詳しくもないとおるの目にさえはっきり分かった。


「うわ……異世界の消防署と特殊部隊基地と高速道路のサービスエリアを全部まとめて、そこから生活感だけ抜いて、ものすごく格好よくしたみたいな……」


「たとえの半分以上が分からない」


 隣でミレイユが呆れたように言った。


「つまり、格好いいってことです」


「それなら最初からそう言え」


「いや、格好いいだけだと、この妙な現場感が伝わらないんですよ。ほら、建物全体から『何か起きたら三十秒で出ます』みたいな圧が出てるじゃないですか。白華の隊舎って、何かあったら人を迎え入れて守る場所という感じでしたけど、ここはもう廊下そのものまで走り出しそうで」


「廊下は走らない」


 先頭を歩いていたクラリッサが、間を置かずに訂正した。


「紅椿でも建物内は走る場所が決められている。出撃時に走っていい廊下と、走ると普通に怒られる廊下がある」


「そこまで制度化されてるんですか」


「全員が好きな方向へ全力で走ったら、出撃する前に廊下で衝突するだろう」


「ものすごく当たり前の話なのに、紅椿で聞くと命に関わる規則に聞こえますね」


 正門では、紅椿の制服をまとった若い騎士が二人、長槍を手に警備へ立っていた。黒を基調にした短めの外套、その肩と裾には深紅の椿紋が入り、胴を守る鎧も白華のものより軽く、代わりに膝から下を覆う脚甲だけはひどく頑丈そうに見える。民を守るため壁になる白華の装備が安定と持久を優先しているのだとすれば、紅椿のそれは、最初から「走る」「飛び込む」「抜ける」という三つの動詞を中心に作られているようだった。


 門番の一人はクラリッサの姿に気づくと、ぱっと表情を明るくして背筋を伸ばした。


「白華隊四席、クラリッサ・ロウ殿。お待ちしておりました。第三席サーシャ殿より、到着次第、南訓練場へ案内するよう申しつかっております」


「ありがとう。今日は随分と忙しそうだな」


「先ほど第三班が緊急装備の整備訓練を終えたところです。現在は新人機動班が南訓練場へ入っています」


「サーシャは?」


「訓練場です。大声が聞こえる方角へ進んでいただければ、たぶんすぐ分かるかと」


「いつも通りで安心した」


 何に安心したのか、とおるにはよく分からなかったが、クラリッサは慣れた様子で正門を抜けていく。とおるとミレイユも後へ続いた。


 隊舎の内側へ足を踏み入れた途端、外とはまた別の空気が肌へまとわりついた。


 石。


 油。


 革。


 金具。


 微かな煤。


 どこかで留め具を締める鋭い音が響き、少し遠くでは号令と足音が重なる。そのさらに奥から、


「止まるな! 燃えてるうちはまだ走れる!」


 という、聞き捨てならない怒声が飛んできた。


「教官! それ装備じゃなくて俺が燃えてます!」


 間髪入れずに別の声が返る。


 とおるは何も聞かなかったことにした。


 紅椿の訓練内容を正面から理解しようとすると、自分の中に辛うじて残っている精神的な安全装置まで取り外されそうな気がした。


 内部の造りは、外から眺めた印象以上に徹底して実用的だった。正面玄関に当たる空間は二階まで吹き抜けになっているものの、客を威圧するための彫像や豪華な装飾はほとんどなく、代わりに壁へ並ぶのは過去の救出任務で実際に使われたらしい古い旗、縁の欠けた盾、焼け焦げて黒く変色した扉の一部といった、どれも美談だけでは終わらない現場の匂いを残した品々だった。


 右手には緊急装備室。耐火外套、難燃布、滑走靴、短槍、携帯結界具、煙避け面、救出用の短縄までが用途別に並べられ、誰が入ってきても迷わず掴めるよう高さまで揃えてある。


 反対側には伝令室があり、赤い紐でまとめられた伝達板や小型の通信魔導具が壁一面へ固定されていた。


 そして床には、赤と黒、さらに細い白の線が何本も走っている。


「ラインからはみ出るなよ」


 クラリッサが何気ない調子で言った。


「はみ出すと何かあるんですか」


「訓練中の紅椿に轢かれる可能性がある」


「騎士団の隊舎の中で、人身事故が普通に想定されているの怖いんですけど」


「だから線が引いてある」


「合理的すぎて反論できない……」


 ミレイユはというと、冗談へ混ざることもなく床の導線を真剣に見ていた。


 赤は出撃。


 黒は搬送。


 白は一般通行。


 おそらく、もう頭の中では「味方の進路を邪魔しない歩き方」まで組み立て始めているのだろう。


 とおるはそんな横顔を見ながら、自分はもっと基本的なところから始めることにした。


 赤い線を踏まない。


 黒い線の上で立ち止まらない。


 曲がり角へ身体を半分だけ出して様子を見たりしない。


 異世界の戦場で死ぬ以前に、まず紅椿の廊下で無事に生き残る必要がある。


 主棟を抜け、屋根付きの長い連絡通路を渡った先で、南訓練場が視界へ開けた。


 とおるが漠然と想像していた「騎士が剣を振るう広場」より、遥かに大きく、遥かに複雑だった。


 楕円形の訓練場は、床そのものが何種類もの区画へ分けられている。中央には赤みを帯びた細かな砂。周囲へ目を向ければ、黒石を敷いた走路、緩やかな傾斜を持つ滑走路、腰ほどの高さの障害壁、崩れた建物を再現した瓦礫区画、簡易な木橋、人工煙を吐き出す魔導筒、防火水路、さらには負傷者搬送用らしい人形を何体も並べた訓練棚まであった。


 訓練場の端には高い観察台が建ち、教官が全体を一度に見渡せるようになっている。


 白華の訓練庭が、「ここから先へ通さない」「この位置で守る」という線と配置を身体へ刻み込む場所なのだとすれば。


 紅椿の訓練場は、混乱の中へ飛び込み、必要なものを掴み、火が回りきるより先に帰ってくる方法を覚えるための場所だった。


 若い騎士たちが走っている。


 ただ速いだけではない。


 曲がり角へ入る直前には身体を深く倒し、速度を落としすぎないまま進路を変える。足裏へ薄く火属性の魔力をまとわせ、障害壁の手前で一度踏み込み、赤い残光を引いて跳び越える者もいる。


 別の区画では、負傷者役の人形を抱える班と、その退路を確保する班、さらに前方をこじ開ける班に分かれ、互いの動きを止めないよう声を掛け合っていた。


 そのうち一人が着地を誤り、派手に砂地を滑った。


 周囲から一瞬、笑いが漏れる。


 次の瞬間、


「笑う前に起こせ! 現場で転んだ味方を見て楽しむ暇があるなら、その味方を担いで走れ!」


 訓練場全体が揺れるほどの声が飛んだ。


 大きい。


 とにかく大きい。


 訓練場の端にいるはずのとおるの内臓まで、ほんの少し位置を変えたような気がした。


 隣のミレイユも、背筋をわずかに硬くする。


 そんな中、クラリッサだけは楽しそうに片手を上げた。


「サーシャ!」


 中央で腕を組んでいた一人の女性が、こちらへ振り向いた。


 背が高い。


 肩も腕も、鎧越しに分かるほど鍛えられている。


 紅椿の黒赤制服を乱れなく着込み、動きを妨げないよう短い外套を腰で留め、その肩には第三席を示す赤椿の徽章が光っていた。髪は鮮やかな赤茶色で、後頭部へ無造作に束ねられている。


 目元は鋭い。


 おそらく笑えば豪快なのだろうと分かる顔立ちなのに、黙って立っているだけで訓練場全体の温度が一段上がったように感じる。


 腰には片刃の訓練剣。


 反対側には短い指揮棒。


 足元の砂には、彼女が何度も踏み込んだらしい深い跡が残っていた。


 第八華隊〈紅椿〉第三席。


 サーシャ・ラインハート。


 見た瞬間、とおるの頭に浮かんだ感想は、非常に失礼ながら、


 突撃。


 指導。


 腕立て。


 喝。


 追加走り込み。


 の五文字だった。


「おう、クラリッサ!」


 サーシャは見た目そのままの声量で笑った。


「久しぶりじゃねえか! 白華の若いの連れてくるって聞いてたけど、ほんとに連れてきやがったな!」


「リディア隊長とアーヴィン隊長の許可は取ってある。逃げられる前に持ってきた」


「荷物みたいに言わないでください!」


 反射的に抗議すると、サーシャの視線がまっすぐとおるへ飛んできた。


 強い。


 目力がかなり強い。


 初対面の上級騎士に真正面から見据えられたとおるの背筋が、意思とは無関係に王都標準規格の直角へ近づいた。


「あんたが壁山とおるか」


「はい」


「噂は聞いてるぞ。隊長を壁に埋めた奴だな!」


「初対面の第一声でそれを出されると、自己紹介する余地が全部埋まるんですが」


「面白いからいいじゃねえか!」


「よくないんですよ。俺の社会的信用がその壁の中に置き去りなんです」


 サーシャは腹の底から笑った。


 笑い方まで紅椿だった。


 周囲で訓練していた新人たちのうち何人かが、興味深そうにこちらを見る。


 どうやら例の壁事件は、白華内部だけでは飽き足らず、紅椿にもきっちり届いているらしい。


 王都の防衛情報網は優秀だった。


 個人の噂を防衛する機能は付いていない。


「それで――そっちがミレイユ・アスターか。リガルドとやり合った白華の白雷だな」


「はい」


 ミレイユは一歩前へ出ると、さっきまで始末書という単語で肩を落としていた人物とは思えないほど綺麗に姿勢を整えた。


「第九華隊所属、ミレイユ・アスターです。本日より期間限定の合同訓練へ参加させていただきます。ご指導、よろしくお願いいたします」


 声も、礼も、非の打ち所がない。


 サーシャは満足そうに頷いたあと、すぐにミレイユの身体へ視線を落とした。


「いい返事だ。怪我してるって聞いたけど、無茶はすんなよ。紅椿の訓練に怪我人が混ざると、周りが妙に燃えるんだ」


「……燃える?」


「『あいつが動けてるなら自分もいける』って錯覚する馬鹿が必ず出る」


「承知しています」


「承知してても無茶する顔だな」


「……」


「ほら。図星の顔してる」


 ほんの一瞬、ミレイユの言葉が止まった。


 とおるは心の中で拍手を送った。


 初対面で見抜いた。


 さすが教官である。


 白華であれ紅椿であれ、どうやら負傷者へ「休め」と言う専門職は必要らしい。


「サーシャは私の同期だ」


 クラリッサが横から補足する。


「聖騎士試験を受けた年は違うが、訓練課程の一時期が重なっていた。昔から面倒見はいい。あと、走らせる時には一切遠慮しない」


「それ、保証なんですか」


「保証だ」


「半分くらい雑な推薦に聞こえますけど」


「半分なら上出来だろ」


 サーシャが誇らしげに胸を張った。


「あたいは面倒見るの好きだぜ。若いのは走らせりゃ、大体伸びる。走らせても伸びねえ奴は食わせる。寝かせる。で、また走らせる」


「育成理論がものすごく単純ですね」


「単純なことほど効くんだよ」


「否定しづらいのがつらい……」


 クラリッサは苦笑しつつ、とおるたちへ向き直る。


「リディア隊長は、紅椿との連携を強める機会として今回の訓練を認めた。アーヴィン隊長にも話は通っている。白華から参加する若手騎士と候補生の一部は、期間限定で紅椿が普段行っている実戦寄りの機動訓練へ入る。特にお前たち二人については、サーシャへ直接見てもらうことになっている」


「直接」


 とおるの声が、分かりやすく小さくなった。


「……はい。今、俺の中の安全管理部門が緊急会議を始めました」


「却下だ」


「まだ議案も出してないんですが」


「逃げる案だろ」


「なぜ分かるんですか」


「顔に書いてある」


 最近、とおるの顔は報告書より先に読まれている気がする。


 個人情報保護という概念を、この世界へ輸入したい。


 ただ、それを本気で制度化しようとすると、たぶん申請書や本人確認書類が増える。


 そう考えた瞬間、少しどうでもよくなった。


 サーシャは腕を組んだまま、今度は二人を頭の先から足元までじっくり眺めた。


 品定めするような視線ではない。


 この二人をどう動かせば、何ができるのか。


 その計算をしている目だった。


 ミレイユの歩幅。


 脇腹を庇ってわずかにずれた重心。


 とおるの右目付近へ残っている疲労。


 丸盾。


 腰の剣。


 腕や肩へ入っている力。


 人物そのものは豪快なのに、見ているところは驚くほど細かい。


「白華じゃ、守る訓練をみっちりやられてるんだろ?」


「はい」


「紅椿で見るのは、守るだけじゃ間に合わねえ現場だ。火が回るより先に入る。建物が崩れる前に人を抜く。敵が陣形を作るより早く穴を開ける。白華の防衛線が生きるかどうかは、こっちが道を作れるかにもかかってるし、逆にあたいらが開けた道を白華が支えられなきゃ、救い出した人間ごと退路が潰れる」


 声は大きい。


 けれど、言葉は決して雑ではなかった。


 体育会系の勢いだけで押し切ってくる人物かと思っていたとおるは、ほんの少し認識を改める。


 サーシャは、ただ火の中へ突っ込めと命じる騎士ではない。


 誰を、どの順番で、どの速さで走らせれば、最後に全員が戻ってこられるか。


 そこまで含めて考える人なのだろう。


「壁山」


「はい」


「あんたの〈壁〉は、使い方によっちゃかなり紅椿向きだ。突入役の踏み込みへもう一段ぶん勢いを足せるし、撤退するときの押し出しにも使えるかもしれねえ。単純に前へ吹き飛ばすだけじゃなく、崩れた姿勢を拾ったり、速度を残したまま向きを変えたりできるなら、紅椿から見てもかなり面白い能力だぞ」


「その『面白い』って言葉、最近いろんな人から言われるんですけど、大体そのあと俺が実験台になるんですよね」


「安心しろ。最初は安全なところからやる。いきなり本気の突入役を全速力で壁へ叩き込んだりはしねえよ」


「……本当に?」


「あたいを何だと思ってる」


「現時点では、声が大きくて若者をよく走らせる人です」


「大体合ってるな!」


「認めた」


 サーシャが腹の底から笑い、その声が赤い砂地の訓練場を気持ちよく横切っていくのを聞きながら、とおるはほんの少しだけ肩の力を抜いた。少なくとも初対面から数分で、全力疾走する紅椿騎士を自分の〈反発壁〉へ真正面から突っ込ませるような人ではないらしい――たぶん。いや、たぶんという副詞は危険だった。ついさっき医務室で「痛くしませんよ、たぶん」と言われた時点で、信用してはいけない言葉として脳内の危険物一覧へ登録したはずである。


「そういえば、リガルドは?」


 ミレイユが訓練場の奥へ目を向けながら尋ねると、何気ない調子の声の奥へ、ほんのわずかな緊張が混じった。聖騎士試験で刃を交えた相手であり、火蝶を操る紅椿推薦の槍術士。ミレイユにとって、あの一戦は自分の〈白雷〉という力を一段深く理解するきっかけになったはずで、とおる自身も、舞う火蝶、炎が蛹へ戻るように凝縮して再び別の場所で羽化する術式、そして戦場そのものを火霊素の通路へ変えていくような異様な美しさをよく覚えていた。見た目だけなら息を呑むほど綺麗だったが、近づけば普通に死ねる。この世界では、美術品と殺傷兵器の距離が妙に近い。


「いるぞ。おーい、リガルド!」


 サーシャの声が訓練場を横断し、赤い砂地の向こうで槍を振っていた細身の人物が振り返った。暗い紅の髪へ陽光が差し込み、黒に近い深い色の奥から細い火の筋だけが浮かび上がって見える。その手には訓練槍が握られ、身体の周囲には数匹の小さな火蝶が羽音一つ立てず、熱の揺らぎだけを残してゆっくり漂っていた。紅椿の黒赤制服は驚くほど彼女の雰囲気へ馴染んでおり、白華の訓練場で見た時よりもずっと自然で、まるで最初からこの赤い砂と鉄と火の匂いの中へ立つために生まれてきた人間のようだった。


「これはこれは。白雷のお嬢さんに、壁山はんやありませんか。ご無沙汰してますえ」


 こちらへ歩いてきたリガルド・フェインは、相変わらず茶屋の奥で湯呑みでも傾けていそうな柔らかな笑みを浮かべていたが、その周囲を火蝶が舞い、手には槍があり、背後では紅椿の騎士たちが火を蹴って走り回っているのだから、見た目と声だけで人間を判断すると危険だという、異世界へ来てから身につけた生活知識がまた一つ補強される。


「リガルド。久しぶりだ。聖騎士試験以来だな」


 ミレイユが自然と背筋を正すと、リガルドは目を細めながら肩を軽く回してみせた。


「ええ。あの時は、えらい雷を落とされましたわ。今でも肩の奥が、たまに思い出したみたいにぴりっとします」


「……すまない」


「謝らんといてくださいな。試験ですもの。あれでうちも、火蝶の継ぎ目を自分で思ってたより甘く扱ってたって分かりましたし、痛かったぶん勉強にはなりましたわ」


 穏やかに笑ったまま、リガルドの視線が今度はとおるへ移る。


「壁山はんも、また妙なこと覚えはったそうで。味方に踏ませて飛ばす壁やとか」


「言い方がものすごく危険なんですよ」


「違いますの?」


「間違ってはいないんですけど、もう少し安全そうな表現があるじゃないですか。味方の踏力を補助する境界、とか」


「長いわあ」


「現場やったら短い方がええですよ」


「紅椿の人、全員そこに厳しいんですか」


 リガルドの周囲を漂っていた火蝶の一匹が、会話へ興味でも持ったようにふわりととおるの肩口へ近づいてきた。ほとんど熱は感じないのに、細かな火霊素が皮膚の上を撫でていく感覚だけは妙にはっきりしており、反射的に半歩下がりかけた瞬間、横からミレイユの視線が刺さって、とおるはどうにかその場へ踏みとどまる。ここは訓練場なのだから、これくらいで腰が引けていると、あとで「敵へ足を預ける以前に心を床へ置くな」などという、それっぽく正しい言葉で追撃されそうな気がした。


「怖がらんでも、今は燃やしませんえ」


「『今は』が余計なんですよ」


「ふふ」


 リガルドが楽しそうに笑う横で、サーシャは腕を組んだまま一連のやり取りを眺めていた。


「リガルドは今回、若手側の参加者だ。聖騎士試験が終わってからも紅椿で正式に訓練を続けてる。ミレイユとは一度やり合ってるから、連携を見るにはちょうどいい」


「連携、ですか」


 その一言で、ミレイユの表情から余計な感情がすっと引き、戦術を考える騎士の顔へ切り替わった。リガルドも柔らかな笑みを残したまま、目だけをわずかに細める。かつて敵として刃を交えた二人が、今度は同じ側に立つ。物語として眺めるなら相当に熱い展開なのだろうが、とおるにとっては、白雷と火蝶が同じ方向へ走った時、そのどこへ透明な壁を置けば誰も妙な角度で吹き飛ばずに済むのかという、きわめて現実的な不安のほうが先に立つ。感動より安全基準が先に出てくるあたり、新人聖騎士という肩書きには夢だけでなく事故防止責任も標準装備らしい。


「白華は守る。紅椿は突破する。言葉だけなら簡単だ」


 サーシャが訓練場の中央へ視線を向けた。


「実際に混ぜると、まあまあ揉める」


 その言葉を証明するために用意されていたかのように、ちょうど若い紅椿騎士が足元へ火属性の加速を乗せて障害壁を飛び越え、着地そのものは綺麗に決めたものの勢いを殺しきれず、赤い砂地を数歩ぶん派手に滑った。本人は何事もなかったように立ち直ろうとしたが、横から現れた教官補らしき騎士に首根っこを掴まれ、そのまま開始地点へ引き戻されていく。


「紅椿は前へ出るのが早い。白華は止める判断が早い。じゃあ、全力で前へ出ようとしてる奴の目の前へ、守る側が善意で壁を置いたらどうなる?」


「味方が壁に刺さります」


 とおるが間を置かず答えると、サーシャは満足そうに頷いた。


「分かってるならいい」


「分かりたくない形で理解してます」


「白華は守るために止める。紅椿は守るために突っ込む。目指してる先は同じでも、身体が先に覚えてる答えはまるで違う。その差を知らないまま現場で会えば、片方は善意で止め、もう片方は善意で突っ込み、その結果として味方同士の殺し合い未遂が成立することだってある」


 サーシャの声には、先ほどまでの笑いがなかった。ミレイユの表情が少し硬くなったのは、旧街道での連携を思い出したからかもしれない。とおるとミレイユの間には壁練や試験を通して積み上げてきた感覚があり、アスカともグラド・バルムを誘導した短い時間の中で何度も動きを合わせ、誰がどこまで踏み込めるのか、どの位置へ術を置けば邪魔にならないのかを互いに身体で覚えていったからこそ、あの危うい連携は成立した。もし、あの場で隣にいたのが癖も術式の間合いも分からない紅椿騎士だったなら、同じ結果に辿り着けていた保証はない。


「今日は、いきなり全力で合わせたりはしねえよ。最初は見学、そのあと低速で導線確認、そこまで問題がなければ短い踏み込みへ壁を一枚だけ合わせる」


「低速」


 とおるは救命具でも見つけたように、その単語だけを拾った。


「低速っていい言葉ですね。ものすごく安心できます」


「紅椿基準の低速だけどな」


「その注釈だけで安心感が死んだんですが」


 サーシャがにやりと笑う。悪い人ではない。間違いなく悪い人ではないのだが、白華の新人を走らせる気だけは少しも隠すつもりがないらしい。とおるは右目の奥へ残る鈍い熱を思い出し、エルネから言い渡された「今日は高負荷の境界運用を避けるように」という言葉を、心の中で丁寧に掲げ直した。医務室発行、正規の免罪符。たぶん効く。いや、またたぶんと言ってしまった。


「サーシャ殿」


 とおるが口を開くより先に、ミレイユが一歩前へ出た。


「とおるは本日、右目と魔力回路に負荷が残っています。医務室から、高出力の境界運用は禁止されています」


 その言葉を聞いた瞬間、とおるは少しだけ感動した。ついさっきまで自分の失敗を細かく分解し、一つずつ精神的に刺し直していた人間が、今は仲間の状態と制限をきちんと覚え、必要な場面で上級騎士へ伝えてくれている。リディアに叱られて落ち込もうと、脇腹へ怪我を抱えていようと、仲間の状態まで見落とさない。こういうところが、ミレイユは白華の騎士なのだろう。


「聞いてる。今日は無理させねえよ。ミレイユも高出力の〈白雷〉は禁止だろ。二人とも怪我明けみたいなもんだし、あたいだって使える新人を初日に壊す趣味はねえ」


「まともだ……」


「何だ、その感動」


「すみません。最近、まともな配慮を受けるとちょっと涙腺に来る体質になってまして」


「白華で何されてんだ、お前」


「訓練と測定と書類です」


「普通だな」


「普通の定義が今日も強い」


 少し後ろでクラリッサが楽しそうに笑っているが、こちらとしてはあまり笑い事でもない。ただ、サーシャの「壊す趣味はない」という言葉には、場を和ませるための軽口ではない確かな線引きがあった。豪快ではあるが、危険を取ることと無駄に壊すことを同じものとして扱わず、必要な負荷と意味のない無茶をきちんと分けている。そういう人なのだろうと分かって、とおるはそこでようやく少し安心した。


「まあ、壊す趣味はねえんだけどな。帰る時間は守る」


「帰る時間?」


 とおるが首を傾げると、クラリッサが思い出したように笑った。


「サーシャは定時に厳しいぞ」


「紅椿なのに?」


 口へ出してから、少し失礼だったかもしれないと思った。紅椿といえば深夜出撃も珍しくなく、火災、魔獣災害、敵陣突破、崩壊現場への突入といった、帰宅時間という概念そのものが現場で燃えそうな任務を担当する隊である。その第三席が定時へ厳しいというのはかなり意外だったが、次の瞬間、サーシャの顔が目に見えて変わった。少し前まで訓練場全体へ届く声で「走れ」「止まれ」「起こせ」と怒鳴っていた豪快な教官の表情がふっとほどけ、目尻が下がり、頬まで緩み、声の高ささえほんの少し上がる。


 “恋する乙女”。


 なぜか、その表現が妙にしっくりきた。


「うちの子たちが待ってるからな」


「うちの子?」


「猫だ」


 クラリッサが平然と補足した。


「十匹以上いる」


「十匹以上」


「今は十三匹だ!」


 サーシャが誇らしげに訂正すると、クラリッサが呆れたように眉を上げる。


「増えてるじゃないか」


「路地で雨に濡れてたんだよ。放っておけるか? 無理だろ? あんな小さい毛玉が、みゃあって鳴きながらこっちを見るんだぞ。世界中の作戦計画を後回しにしてでも拾うだろ」


「作戦計画は後回しにしないでください」


 思わずとおるが突っ込んだが、サーシャは聞いているのかいないのか、制服の胸元から小さな布袋まで取り出した。中には何枚もの薄い木札が入っており、それぞれへ猫の名前らしい文字が刻まれている。


「ミツバは最近、朝飯を半分くらい残すから少し気になってる。帰ったら薬草粉をほんの少し混ぜる予定だ。クロマルは相変わらずあたいの靴を寝床にするし、ヒノコは新入り相手にやたら姉貴面する。かわいい。すげえかわいい。あいつらの晩飯の時間を守るためなら、あたいはどんな会議でも定時で切る」


「紅椿第三席が、猫の食事時間を最重要予定にしてる……」


「命を預かってんだぞ。当然だろ」


 その言葉だけを切り取れば妙に騎士らしいのに、守っている対象が十三匹の猫だと思うと情報の受け止め方に少し困る。ミレイユも似たような顔をしていたが、リガルドだけは慣れているらしく、柔らかな笑みを崩さなかった。


「サーシャはん、猫の話になると訓練より熱ぅなりますからねぇ」


「当たり前だ。訓練は人間相手だろ。猫は違う。猫は世界が守るべき小さな王だ」


「王国騎士として、その発言ぎりぎりじゃありません?」


「王様には内緒にしろ」


「内緒にしたら解決する種類の発言ですか、それ」


 クラリッサが肩をすくめる。


「こういう奴だ。面倒見はいい。人間にも猫にも」


「人間が猫の後に来ませんでした?」


「気のせいだ」


 とおるはひとまず深く頷きながら、頭の中へサーシャ・ラインハートという人物の情報を並べ直した。紅椿第三席、訓練では走らせる、声が大きい、現場判断に厳しい、猫のためなら定時退勤を死守する。初対面の上級騎士としては情報量が多く、ノクスとはまったく別方向で処理が大変だったが、ノクスが「標本として観察したい」という種類の圧を放つ人物だとすれば、サーシャは「走らせて、食わせて、終わったら猫を見せたい」という方向の圧である。少なくとも人間の尊厳が保たれているぶん、かなり健康的なのかもしれない。


「さて。猫の話はここまでだ。続きは訓練が終わってからにする」


「続くんですね」


「聞きたいだろ?」


「……少しだけ」


 うっかり本音が出た。猫は見たい。十三匹の猫は普通に見たい。とおるの中にある平和担当部署が、久しぶりにものすごい勢いで挙手している。


「よし。見込みがあるな、壁山」


「猫への興味で評価が上がるんですか」


「動物に優しい奴は、大体、現場で妙な命の線引きをしねえからな」


 その一言に、とおるは少し黙った。サーシャ自身は何でもないことのように口にしたのかもしれないが、胸の奥には旧街道の光景がよぎる。グラド・バルムの母獣、胎仔、弱く始まった呼吸、薄い〈生存領域〉、そしてアスカが残ったルーデン谷。あの時、自分たちは何を敵として扱い、何を助ける側へ置くのか、その境界線を何度も引き直した。命をどう扱うのか、殺す理由を間違えないこと、そして助ける理由さえ間違えないこと。豪快に笑いながら猫を十三匹抱える紅椿第三席にも、きっと彼女なりの線引きがあるのだろう。


「まあ、線引きが甘すぎると十三匹になるんだけどな!」


「自覚はあるんですね」


「ある。でも猫は増える」


「自然災害みたいに言わないでください」


 少し重くなりかけた空気がそこで軽く戻り、ちょうど訓練場の奥から新しい号令が飛んできた。若い紅椿騎士たちが一列に並び、今度は障害物を使った機動訓練へ移るらしい。サーシャはとおるたちを手招きし、見学用に引かれた赤線の外側へ誘導する。


「赤線から中へ入るなよ。特に壁山」


「名指しされる理由あります?」


「ありそうな顔してる」


「また顔」


 線の外へ立っているだけなのに、足元から熱気と乾いた砂の匂いがじわりと立ち上ってくる。ここは単なる訓練用の広場ではなく、速度も火も失敗も衝突も、何度も受け止めながら次の訓練へ繋げてきた場所なのだと、赤い砂に刻まれた無数の跡を見ているだけで分かった。リガルドが槍を構え、その周囲へ浮かべた火蝶は三匹だけ。隣では別の若い紅椿騎士が赤い滑走路の端へ立ち、合図が落ちると同時に走り出した。


 足裏へ薄い火が灯り、炎が地面を舐めた次の瞬間、反動に押し出されるように身体が一段前へ伸びる。白華で行う走り込みとはまるで違い、筋力だけで無理に速度を稼いでいるわけではない。火が進路を作り、足がそこへ乗り、腰の高さから肩の傾きまで含めた全身が「前へ進む」という一つの命令へ束ねられている。


「紅椿の基礎機動だ。派手に火を出す前に、まず足へ入れる。足が暴れりゃ全部終わりだ。燃える奴は見栄えがするからそっちばかり注目されるが、現場で一番大事なのは止まれることだぜ」


「止まること?」


「ああ。突っ込む奴が止まれなきゃ、救助対象ごと壁へ刺さる。敵陣を抜いたところで、その勢いのまま味方の防衛線までぶち抜いたら意味ねえだろ。速さってのは、制御できて初めて戦力になる」


 とおるは自然と頷いた。ミレイユの〈白雷〉にも通じる話であり、速く動くことだけを追い求めれば、それは機動ではなく暴走へ近づいていく。踏み込み、加速、制動、方向転換、必要なら再加速――そこまで含めて初めて一つの「速さ」が技術として成立するのなら、その途中へ〈反発壁〉を置く自分も、単純に「もっと飛ばしてやればいい」と考えてはいけない。相手がどこで止まるつもりなのか、どの瞬間に身体を曲げるのか、何歩先へ重心を逃がすのか、次はどちらへ向きを変えるのか。そこまで分からなければ、支援という名前を付けただけの事故を自分の手で作ることになる。


「……思ったより、怖いですね」


 思わず漏れた言葉に、サーシャはむしろ満足そうに笑った。


「いい感想だ。怖いって分かってる奴は伸びる」


「最近、それをいろんな人に言われます」


「臆病なのは悪くねえよ。紅椿にもいる。突っ込む前にちゃんと怖がれる奴は帰ってくる。怖がれねえ奴は、どれだけ強くても、そのうち帰り道を見失う」


 その言葉は、不思議なくらい静かに胸へ残った。紅椿は、無謀な隊ではない。危険な場所へ真っ先に踏み込むからこそ、怖さを無視しない。恐怖を消して前へ出るのではなく、それを抱えたまま進み、最後にはきちんと戻ってくるための技術を何度も身体へ叩き込む。それが、この赤と黒の隊なのだろう。


 訓練を見つめていたミレイユの視線が、やがてリガルドへ向いた。槍を振るたび、三匹の火蝶が足元や柄の周囲へ細かく位置を変え、踏み込みと踏み込みの間へ生まれるわずかな隙間を炎の糸で縫うように埋めていく。聖騎士試験の頃より蝶の数は明らかに少ないのに、その代わり一匹ごとの役割は以前よりはっきりしており、彼女もまた、あの戦いを経て自分の術を進めたのだと分かった。ミレイユの瞳へ宿っているのは敵を見る戦意ではなく、他人の成長から自分の次の一歩を掴もうとする騎士の光だった。


「リガルド。以前より火蝶を絞っているな」


「分かります?」


 戻ってきたリガルドが少し嬉しそうに笑った。


「数を出して戦場全体へ広げるんは得意なんですけど、ミレイユはんに継ぎ目を落とされましてなぁ。今は、少ない蝶でどこまで確実に道をつなげられるか練習してます」


「私も、あの戦いで学んだ。〈白雷〉は速さだけでは足りない。足を踏み入れる場所へ、自分の理を持ち込む必要がある」


「ええ言葉ですねぇ。ほな今度は、同じ道へ雷と火を通してみましょか」


「望むところだ」


 とおるは二人の横で、そっと半歩ぶんだけ距離を取った。絵面だけ見ればかなり熱い。元ライバル同士が互いの成長を認め、次は同じ側で戦う。王道。きっと読者なら胸が躍るような展開なのだろうが、その中心へ巻き込まれる自分だけは、「雷と火が同じ道を走るところへ透明な壁を差し込む担当になるかもしれない」という未来を想像して静かに胃を押さえている。王道展開には、どうやら裏方の胃痛まで標準装備されているらしい。


「壁山はん」


「はい」


「うちの火蝶、壁で止まれますやろか?」


「急に怖い質問をしますね」


「止まれるんやったら、火蝶を中継点にして、紅椿の足場と白華の境界をつなげられるかもしれませんえ」


「言いたいことは分かるんですけど、俺の壁がだんだん公共交通機関みたいになってません?」


「便利そうやから」


「便利そうだから使われる側の気持ちも、少しは考えてほしい」


 サーシャが面白そうに指揮棒を肩へ担いだ。


「よし。方向は見えたな。今日の本格訓練は短めにする。壁山は低出力で一枚だけ、ミレイユは踏むな、今日は見て覚えろ。リガルド、お前は火蝶を一匹だけ壁の手前で止めてみろ。それから紅椿の新人機動班から一人、低速で走らせる」


「低速」


 とおるは念のため、もう一度そこだけ確認した。


「低速ですよね?」


「ああ。紅椿基準の低速だ」


「さっき聞いたやつ!」


「安心しろ。転んでも砂地だ」


「砂なら無傷って発想を捨ててください」


「医務担当もすぐ近くにいるぞ」


「事故が起きた後の安心材料を増やさないでください」


 横でミレイユの口元がほんの少しだけ緩んだ。落ち込みも脇腹の痛みも完全になくなったわけではないだろうが、紅椿の訓練場へ立ち、かつての対戦相手と再会し、自分とは違う考え方で戦場へ入る騎士たちを目の前にしたことで、彼女は少しずつ前を向き始めている。とおる自身も、たぶん同じだった。逃げたい気持ちはあるし、できることなら走りたくもない。右目はまだ熱を残し、報告書も始末書も待っている。それでも、赤と黒の駆城で走り続ける若い騎士たちを眺め、王都そのものが十二華の動きを前提として組み上げられているという実感へ触れているうちに、胸の奥では不安とは別の感情も静かに芽を出していた。


 自分の壁は、ここで何ができるのだろう。ミレイユの〈白雷〉と、リガルドの火蝶と、紅椿の走り、その全部をただ邪魔しないだけではなく、本当に一つの道として繋ぐことができるのなら――。


「じゃあ、始めるぞ!」


 サーシャの声が訓練場いっぱいへ響き渡り、せっかく芽生えかけた好奇心を押し退けるように、現実が勢いよく前へ出た。


「壁山! まず一枚!」


「もう!?」


「見学は終わりだ!」


「体感五分もなかったんですけど!」


「紅椿の見学は短い!」


「そういうところですよ!」


 叫びながら、とおるは抱えていた資料束をクラリッサへ預けた。遠い訓練場の端には世界樹の光が斜めに差し込み、その下では赤い砂の上を火蝶が舞い、白雷を扱うミレイユが静かに様子を見つめ、目の前では走る気満々の紅椿騎士が既に開始位置へ立っている。そこへ自分の〈反発壁〉まで加わるのだと思えば、どう考えても穏やかな午後になる要素は一つもない。


 それだけは、訓練を始める前から妙に確信できた。


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