第65話 合同任務とは
結論から言えば、医務室での診察は、とおるが扉の前で覚悟していたほど恐ろしいものではなかった。
――少なくとも、肉体的には。
エルネが銀縁眼鏡の奥で瞳をきらきらと輝かせながら、「大丈夫です、痛くしません。たぶん」と、医療従事者が患者へ向ける言葉としては最後の二文字が致命的に余計な宣言をした時点で、とおるの精神的な防御壁は一枚目から三枚目まで仲良く全損したものの、実際に行われたのは右目周辺の魔力波測定、魔力回路に残った過負荷の確認、境界を長時間使用したことによる残留反応の採取といった比較的まともな検査だった。
問題があったとすれば、その途中でエルネの研究者としての好奇心が医療従事者としての自制心を追い抜いたことくらいだろう。
「それで、止血に使った境界なんですけど」
測定器から顔を上げたエルネが、妙に弾んだ声で尋ねてきた。
「皮膚表面へ沿わせる形で形成したんですか? それとも創部へ少し食い込ませて? 内部圧はどのくらいに設定しました? 血流そのものは遮断せず、出血だけ止めたんですよね? 接続角度は? 厚みは? あ、できれば再現できます? 今ここで少しだけ。本当に少しだけでいいので」
「エルネ」
クラリッサが肩を掴んだ。
「はい?」
「患者から半歩離れろ」
「でも、今のうちに測定すれば再現時の――」
「半歩」
「……はい」
しゅん、とエルネが半歩下がる。
ところが十秒ほどすると、本人も気づかないうちにまた半歩近づいてきたので、クラリッサが無言で肩を掴んで元の位置へ戻す。
その攻防が三回ほど繰り返されたあたりで、とおるは自分の診察よりこちらのほうが医務室における日常業務なのではないかと思い始めた。
ともあれ、診察そのものは無事に終わった。
右目には魔力使用による強い負荷が残っているものの、現時点で視神経や周辺の魔力回路に重大な損傷は確認されず、今日は境界の高負荷運用を避けるようにとエルネから念を押された。
もっとも、その直後に「でも軽い出力なら測定できますよね?」と本人が言い出してクラリッサから後頭部を小突かれていたので、どこまで本気で休ませるつもりなのかは怪しい。
一方、ミレイユの脇腹については、神官術師による治癒補助を受けたあとに傷口を保護するよう厚めの包帯が巻かれていた。
「この程度なら問題ない」
処置が終わるなり本人はそう断言したのだが、担当していた神官術師は慣れた様子で微笑み、
「『問題ない』と言う負傷者ほど、こちらとしては問題があるんですよ」
と穏やかに切り返した。
結果、数日間は身体を大きく捻る動作を避け、白雷についても高出力での使用は禁止。
それを聞いたとおるは、これでさすがのミレイユも少しは休むだろうと胸を撫で下ろしたのだが、
「では、低出力に抑えれば基礎鍛錬は可能か?」
と本人が真顔で確認し始めたため、安心できた時間はおよそ三秒だった。
白華隊員はもう少し、「休養」という概念そのものへ敬意を払うべきだと思う。
辞書に載っているだけの言葉ではない。
…たぶん。
そうして治療と検査を終えた二人は、待っていたクラリッサに回収され、そのまま白華隊本部二階の奥にある小会議室へ連れていかれた。白華隊のミーティングルームは「王都聖騎士団の作戦会議室」と聞いてとおるが最初に想像していたような、重厚な円卓を歴戦の騎士たちに囲まれた燭台の炎が揺れる中で国家の命運を左右する相談をする場所――などではない。
もっと現実的で、もっと仕事場らしい。
白い花紋が彫り込まれた扉を開けば、部屋の中央には十人ほどで囲める長方形の机が置かれ、その周囲へ背もたれの簡素な椅子が並んでいる。壁一面を占める王都周辺の地図には避難経路を示す赤と青の紐が何本も張られ、魔獣災害発生時の住民誘導図や王都外郭区の区画札、過去に被害のあった地域を示す小さな印まで必要な情報が一目で分かるよう整理されていた。
机の端には予備の羽ペンとインク瓶。時間を計るための砂時計。書類を束ねる紐。封蝋箱。
さらに壁の目立つ位置には、
『報告書は事実から書くこと』
という一文が、妙に力強い筆跡で掲げられている。
「…………」
とおるは思わず背筋を伸ばした。
誰が書いたのかは知らないはずなのに、なぜか文字の向こうからリディアの気配を感じるのは気のせいだろうか。もはや隊長ともなると本人がその場にいなくても、筆圧だけで部下の姿勢を矯正できるらしい。現代日本なら、総務部の掲示板に貼られた「経費精算は月末まで」と同じ種類の支配力である。
「よし、揃ったな」
クラリッサが片手を上げた途端、それまで好き勝手に交わされていた雑談が波を引くように収まった。すでに席についていた若い騎士たちの顔がぱらぱらとこちらへ向く。もちろん、とおるにとって初対面の相手ではない。
そこにいる面々は、白華へ入ってからというもの、壁練では同じように地面を転がって汗をかいてきた仲間であり、朝の走り込みが終われば誰からともなく水場へ集まりながら、白華式基礎剣術の翌日には全身の筋肉痛を共有してきた者たちだ。まだ数ヶ月の期間しか経っていないが、彼らとは報告書講習で睡魔に襲われた時など、教官の目を盗んで互いの顔を見ただけで「分かる」と通じ合えたほどである。巡回補助や食堂でも何度となく顔を合わせている以上、もう同期と呼んで差し支えない程度には馴染んでいた。
ところが一つの部屋へまとめて押し込められた彼らを改めて眺めてみると、とおるは別の意味で感心してしまう。
――濃いな。
白華という名前から受ける印象だけなら、清廉、堅実、規律、守護――そのあたりの言葉が似合いそうなものだ。実際に今年の新人を並べてみれば、そんな統一感はどこかへ消える。白い盾というより、真っ白な大皿の上へ料理人が「せっかくだから全部載せてみました」と癖の強い料理を盛り合わせた新人定食に近い。
彩りだけなら申し分ない。
栄養も、おそらく豊富だろう。
胃に優しいかどうかについては、きっと責任を持てないが。
「お、壁山。目ぇ死んでんな」
真っ先に声を飛ばしてきたのは、群青色の髪を後ろで短く束ねた青年だった。
「医務室で脳みそまで測られたか?」
ユリオ・アストラン。
長身というだけでも目立つのに、本人には人の視線を引き寄せる妙な華があるから困ったものだ。椅子へ腰掛けている今でさえ鋭い目元と斜めに上がった口角のせいなのか、もう次の瞬間には立ち上がって先頭を走っていそうに見えた。
腰に佩いているのは、彼の体格に比べれば細身の片刃剣。本人も自分が目立つ人間であることは十分に理解しているらしく、そのうえで遠慮する気がない。とおるの分類では、学校に一人はいる「体育祭のリレーでアンカーを任されることを誰も疑わず、本人も「まあ俺だろ」と当然の顔でバトンを受け取る」タイプである。しかもただの目立ちたがりではなく、きっちり努力して結果を出すので余計に扱いづらいときた。
「脳みそはまだ無事ですよ。たぶん」
「たぶんって何だよ」
ユリオの眉が露骨に寄った。
「自分の頭くらい、自分で保証しろ」
「無茶言わないでくださいよ。こっちへ来てから、自分の身体の仕様書がまったく信用できないんですから」
「仕様書?」
「右目が突然熱くなるでしょう。壁で血が止まるでしょう。最近なんて、切られた結果まで遮るようになってきたでしょう」
とおるは自分の指を一本ずつ見ながら数え、途中で嫌になって手を下ろした。
「もう知らない機能が多すぎるんですよ。買った覚えのない魔導具を説明書なしで使わされてる気分です」
「自分の身体を魔導具扱いするな」
隣から、すぱん、と言葉が飛んできた。
ミレイユだった。
「故障した時に困るぞ」
「そこなんですよ」
「納得するな。例えを撤回しろ」
ユリオは二人のやり取りを面白そうに眺めたあと、ミレイユへ視線を移した。
「そっちは?傷は大丈夫なのか?」
「問題ない。軽傷だ」
「本当に?」
「医務担当から、高出力の白雷は当面控えるよう言われた程度だ」
「待て」
ユリオの顔から笑みが消えた。
「それ、軽傷って言わなくねえか?」
「軽傷だ」
「二回言えば軽傷になる制度でもあんの?」
「よく見ろ。こうして動けているだろう」
「動けるかどうかで決めるなよ」
「分かるー。聖騎士の軽傷判定って、たまに怖いよね」
ころころとした声が割って入った。
薄桃色の髪を頭の高い位置で二つに結んだ少女が、手にしていた羽ペンを小さく振っている。
リーナベル・パルティ。
小柄な身体に大きな瞳。笑顔には人懐っこさがあって、菓子店の制服でも着せればその日の売り上げを一割くらい伸ばしてくれそうな愛嬌まで備えている子である。初対面の人間ならおそらく彼女を「癒やし枠」だと思うだろう。
とおるも最初はそう思った。その認識が死んだのは、初めて一緒に訓練場へ入った日のことである。訓練中にリーナベルの指先から“蛍ほどの小さな光”が飛び出した。それは訓練用の木人へ触れると花の種でも植えつけるように表面へ沈み込む代物だったのだが、彼女がそのあとに笑顔で告げた言葉をとおるは今でも覚えている。
『じゃあ、小さめに咲かせるね』
と彼女がつぶやいたその次の瞬間に、光の花が咲いた。そして木人三体の上半身が一瞬で消し飛んだのだ。爆風の向こうで甘い花の香りだけがふわりと漂ってきたのは、今となってはいい思い出の一つである
あの日以来、とおるは「小さめ」という言葉の定義について王国法か騎士団規則のどこかに明文化してほしいと本気で願っていた。
彼女のスキル〈灯花爆種〉は、指先から放った光の種を任意の場所へ植えつけ、好きな瞬間に炸裂させる攻撃術式である。
対象は壁でも床でも構わない。武器や敵の足元はもちろん、条件さえ整えば空中へ漂う魔力粒子すら花壇になる仕様で、炸裂する瞬間だけ見れば美しい。花火を思わせるその光が幾重にも開き、その余韻には甘い香りまで残る。
問題は、その中心にいると景色を鑑賞している場合ではないことだった。
「とおるくん、医務室どうだった?」
リーナベルが机へ頬杖をつく。
「エルネさん、また目を光らせてた?」
「光ってましたね」
「やっぱり?」
「研究者って、興味のあるものを見つけると本当に瞳孔が開くんだなって勉強になりました」
「あー、分かる」
リーナベルが楽しそうに手を叩いた。
「私も前に、爆種の残留香を採りたいって言われたよ」
「残留香?」
「うん。瓶を五本持ってきてね、『爆発直後から時間ごとに匂いを分けて保存したいです』って」
「五本」
「五本」
「……好奇心を瓶で測れる段階、とっくに超えてません?」
「私もそう思った」
二人が揃って頷く。
「本人の前では言うなよ」
クラリッサがぼそりと釘を刺した。
「瓶が十本に増えるぞ」
「どういう報復なんですか、それ」
「研究だ」
「なお悪い」
その会話を聞いていたのかいないのか、リーナベルの向かいでは一人の少女が黙々と紙を折っていた。
翡翠色の髪は肩口で真っ直ぐ切り揃えられ、顔にはこれといった感情が浮かんでいない。
マキナ・リフレット。
声も小さく、身振りも控えめ。黙って座っているだけなら新人組で最もおとなしい人物に見える。ただし彼女の周囲では、いつも数枚の紙が重力を忘れたように漂っていた。
白紙。色紙。報告書の下書き。
そして、ごく稀に食堂の献立札。
最後のものについては本人に悪意がないらしいのだが、夕食の献立を確認しようとした補給担当が壁にあったはずの札を紙兎へ変えられて追いかけ回した事件以来、食堂では密かに警戒対象になっている。
マキナのスキルは〈折紙兵装〉。
魔力を染み込ませた紙へ折り目を与えることで、その形に応じた性質を引き出す。
紙鶴なら飛ぶ。
矢なら射抜く。
獣を折れば走り出す。
本人の気分と発想次第では、どうして紙からその形へ辿り着いたのか問い詰めたくなる奇妙な兵器まで生まれる。とおるが「でも紙ですよね」と油断していた時期はずいぶんと短かった。マキナの折った紙鶴が訓練用の革鎧を正面から貫いた瞬間に終わったのだ。その時、彼女は無表情のままこう言った。
『折り目が正しければ、紙は思想より鋭いです』
いまだに意味はよく分からない。
分からないが、一つだけ確かなことは思想を切れる紙には絶対に近づきたくないということである。
「壁山さん」
マキナが手元から目を上げた。
「医務室で、止血境界の構造について聞かれましたか?」
「聞かれましたけど」
「後で私にも説明してください」
「何に使うんです?」
「〈折紙兵装〉の折り目へ応用できるかもしれません」
「人体の止血技術から紙の武器へ発想が飛ぶの、ちょっと怖くないですか?」
「怖さは用途によって変わります」
「その返答がもう怖いんですよ」
「そうですか」
「そこで本気で不思議そうな顔をしないでください」
マキナは一度瞬きをすると、また紙へ視線を戻した。…どうやら説得は失敗したらしい。
その少し離れた場所では、ぎし、ぎし、と椅子が一定の間隔で悲鳴を上げていた。原因は一目で分かる。柿色の髪を短く刈り込んだ大柄な青年が、部屋の隅で足を組んでいたからだ。
バルト・クラウゼン。
太い腕に広い肩。そして妙に頑丈そうな首。
同じ大柄でもバスティアンが岩壁なら、バルトは荷物を満載した荷馬車に近い見た目をしていた。正面からぶつかった場合はこちらが悪くなくても謝りたくなる重量感があるのだが、彼がいるかいないかで部屋の広さが変わってしまうと思えるほどには外見的な存在感がたっぷりある人物だった。口調は大雑把で、物事の考え方もおおむね大雑把。そして何より、いつ見ても腹が減っている。
訓練中には魔物を睨みつけるような顔をしているくせに、食堂で焼いた肉が運ばれてきた瞬間だけは捨て犬を拾った人間のような優しい目になる。彼の〈喰牙輪〉も、その性格をほとんど隠そうとしていない。発動すれば、獣の顎を思わせる魔力の輪が身体の周囲へ現れる。
飛んできた魔力弾。敵の武器。甲殻。鎖。
邪魔だと判断したものへ喰らいつき、そのまま噛み砕く。一応は攻撃を防いでいるため、防御術式と呼べなくもないが、本人の発想は「受け止める」ではなく「邪魔だから食わせる」なので、白華らしい守護の精神からは少しだけ野犬の匂いがした。
以前、なぜ白華を志望したのか尋ねられたバルトは、真顔でこう答えている。
『守りたいもんの前に立つんだろ? だったら、そこへ来る邪魔なもん全部噛み砕けばよくねえか』
その場にいたクラリッサは、しばらく黙ったあと、
『……方向性はともかく、勢いはある』
と評した。
白華の懐は広いなあと、とおるはつくづく実感したものだ。
「なあ」
そのバルトが手を上げた。
「合同任務って飯出るのか?」
「最初に確認することがそれなのか?」
ミレイユが呆れた目を向ける。
しかしバルトは真剣だった。
「大事だろ。腹が減ったら判断が鈍る」
「まあ、それはそうだが」
「判断が鈍ったら民を守れねえ。つまり飯は防衛の基礎だ」
「……言っていることだけ聞けば、妙に正しいですね」
とおるは思わず感心した。
バルトが得意げに鼻を鳴らす。
「だろ?」
「壁山」
ユリオがすぐ横から口を挟んだ。
「こいつを褒めるな。すぐ調子に乗るんだ」
「別に褒めたつもりはないですよ」
「聞いたか、バルト。褒められてねえってよ」
「胃に入らねえ褒め言葉は最初から数えてねえ」
「価値基準を全部食えるかどうかで決めるな」
「じゃあ食えねえ褒め言葉で腹いっぱいになるのか?」
「そういう話じゃねえよ」
ユリオが頭を抱えている。珍しく彼が押されているのを見ると、なんだか新鮮というか少し面白い。
最後の一人は、その騒ぎへ混ざることなく窓際に座っていた。
藤紫色の髪をした青年が、手元の資料から静かに顔を上げる。
セイラム・ヴィオラ。
細められた目には穏やかな光があり、話し方にも角がない。新人組の中だけで比べるなら、おそらく最も物腰の柔らかい人物だろう。なのに、とおるは彼を少しだけ苦手としていた。何を考えているのか分からないから――ではない。
むしろ逆だ。
こちらの話をよく聞くし、質問すればちゃんと答えてくれる。笑うところでは笑う常識人の模範とも言うべき社交的な人間なのに、どこまで奥へ行っても底へ届いた感じがしない。柔らかい布だと思って触れたら、その向こう側にまだ何枚も幕が垂れているような、不思議な距離感があるのだ。
彼のスキル〈色喰いの劇場〉にも、どことなく本人と似たところがあった。
周囲の景色から、一時的に「色」を借りる。
赤を抜けば、そこから生まれるのは熱を帯びた薄刃。
青ならば、冷気を孕んだ幕。
緑は蔦めいた鞭へ姿を変える。
色を奪われた景色だけが一時的に白っぽく褪せ、術式が終われば何事もなかったように元へ戻る。
初めて見れば、誰もが綺麗だと思うだろう。とおるも当時はそう思った。訓練場でセイラムが、
『少し景色を借りますね』
と穏やかに告げた直後、床一面から色が抜けてその色彩が頭上で無数の刃へ変わるまでは。
あの日以来、とおるの中では「芸術的」という言葉にほんの少しだけ警戒の意味が加わっている。
「他隊と組むのなら」
セイラムが資料を閉じた。
「白華の色だけでは、足りないということでしょうか」
「セイラム」
クラリッサが苦笑する。
「お前はまた、そういう詩みたいな言い方をするな」
「詩ではありません。色の話です」
「それがもう詩なんだよ」
「なるほど」
セイラムは素直に頷いた。
「次から気をつけます」
「気をつける気がある人間の顔じゃないな」
「顔に出ていましたか?」
「出てないから言ってるんだ」
とおるは空いている椅子へ腰を下ろしながら、改めて室内を見回した。
ユリオ。
リーナベル。
マキナ。
バルト。
セイラム。
そこへミレイユと自分を加えれば、今年の白華隊の聖騎士の新人組は完成する。
こうして能力まで思い返してみると、一つ疑問が浮かんだ。
――白華って、防御の隊じゃなかったっけ。
爆発する。
紙で貫く。
噛み砕く。
景色から刃を作る。
高速で斬り込む。
雷を纏って突っ込む。
守護を重んじる騎士団の新人一覧として、どこかがおかしい。
純粋な防御能力と呼べそうなのは、自分の〈壁〉くらいではないだろうか。
……いや。
最近の〈壁〉は血を止めるわ切断という結果を遮るわ、味方を反発させて加速装置にもなるわで、そろそろ防御系を名乗ったら本職の防御術式から「一緒にしないでもらえます?」と苦情が来るかもしれないけれど。
もし王都のどこかにスキル分類専門の窓口が存在するなら、自分の申請書を受け取った担当者はきっと一度眼鏡を外すことだろう。そして一度眉間を揉んで、最後に「……その他でいいか」と呟くに違いない。
「さて」
ぱん、とクラリッサが手を叩いた。
「雑談はそこまでだ」
新人たちの視線が前へ集まる。
クラリッサは机の前まで歩くと、壁へ掛けられていた地図の横に一枚の大きな紙を広げた。
中央に描かれているのは王都アルヴェリオン。そこから十二華それぞれの隊舎へ線が伸び、訓練場や外郭区、南部街道までが簡略化された形で記されている。白華隊舎から紅椿隊舎へ向かう経路だけは太く強調されていた。そしてその両端には、白い花盾紋と赤い椿紋——二つの印章が、向かい合うように押されている。
「今日、お前たちに話すことは三つ」
クラリッサが指を一本立てた。
「まず、来月行われる合同任務について」
二本目。
「次に、なぜ白華と紅椿が事前に合同訓練をやるのか」
三本目が立つ。
「最後。聖騎士になったばかりのお前たちが、これから社会の中でどう見られるのか。そして、その立場で何を考えて動くべきか」
そこで彼女の目が、新人たちをゆっくり横切った。
「眠そうな顔をした奴は、その場で名前を呼ぶからな」
バルトが何気なく背筋を伸ばす。
「ついでに腹が鳴った奴も呼ぶことにする」
「待て」
バルトが即座に抗議した。
「腹は自然現象だろ」
「バルト」
「まだ鳴ってねえ!」
「最初に呼ばれたいか?」
「静かにします」
諦めが早かった。
クラリッサが満足そうに笑う。
「素直でよろしい」
「理不尽だ……」
「聞こえてるぞ」
「静かにします」
二回目はさらに早かった。
「じゃあ本題だ」
クラリッサが地図へ向き直る。
「来月行われる合同任務は、王樹十二華騎士団全体で実施する新人聖騎士の実地評価だ。正式名称は――」
そこで一度息を吸った。
「――『新任聖騎士隊間連携確認及び実地運用適性評価任務』」
クラリッサがそこまで淀みなく読み上げた瞬間、会議室の中へ妙な静けさが落ちた。
別に、彼女の説明があまりに重要だったから全員が背筋を伸ばし、ひと言も聞き漏らすまいと緊張したわけではない。
いや、もちろん最初から真面目には聞いていた。
聞いていたからこそ、その正式名称が一字一句ほぼそのまま耳の中へ入り込み、途中で折り返すこともなく脳の奥まで届いた結果、全員が同じ感想へ辿り着いてしまったのである。
――長い。
「……今、途中で一回くらい名称変わりませんでした?」
とおるが恐る恐る尋ねると、クラリッサは即座に首を横へ振った。
「変わっていない」
「本当に?」
「たぶん」
「もう自信なくなってるじゃないですか」
「仕方ないだろう。私だって正式名称で呼ぶ機会などほとんどない」
「じゃあ普段は?」
「合同任務」
「短っ」
「現場では全員そう呼んでいる」
「長い正式名称ほど、現場に出た瞬間三文字か四文字まで圧縮される法則ありますよね」
「壁練と同じだな」
「そう考えると正式名称が急にかわいそうになってきた……」
「心配するな」
クラリッサは何でもないことのように資料をめくった。
「正式名称なら、書類の中で今日も元気に生きている」
「生息地が公文書なんだ……」
とおるは、ほんの少しだけ遠い目になった。
前世にも確か、誰一人として正式名称では呼んでいない制度や団体があった。
普段は略称でしか認識されず、人々の記憶から元の姿をほぼ失っているくせに、申請書や規約の冒頭を開いた瞬間だけやたら堂々とした長大な本名を取り戻して現れる。
剣と魔法の異世界へ来れば、さすがにそんな文明的な面倒事からは解放されると思っていたのだが、どうやら長い正式名称と現場の略称による果てなき戦争だけは世界を越えても終結していないらしい。
「で、その合同任務だが」
クラリッサの指が机上に広げられた地図へ降りる。
「各隊の新人を、複数の混成班へ振り分ける。班ごとの任務内容は当日まで分からない場合もある。災害対応、街道護衛、魔物出現時の討伐または封鎖、術式事故に伴う住民避難――その時々の状況に合わせて内容が変わる」
「なるほど」
「場合によっては、先輩騎士が敵性役として襲ってくる」
「最後だけ妙に生き生きしてません?」
「先輩側は楽しいからな」
「でしょうね」
「まだ終わりではないぞ」
「嫌な予感しかしない」
「全部片づいたら報告書だ」
「一番嫌なのが最後に待ってた」
「安心しろ」
クラリッサは爽やかな声で続けた。
「途中で何かやらかせば、始末書も追加される」
「一度『安心』の意味を辞書で確認してきてもらえません?」
向かい側で、リーナベルが堪えきれず肩を揺らしていた。
クラリッサはそちらへ一瞥だけ送り、何事もなかったように説明を続ける。
「基本的には、訓練用に管理された魔物や、王宮魔導院が用意する模擬術式を使う。ただし、その年の情勢や開催地域によっては、実在の地方任務へ一部組み込まれることもある。もちろん、新人に任せる以上は危険度も調整される」
そこで、わざわざ言葉が途切れた。
嫌な間だった。
こういう時の沈黙は、大抵こちらが聞きたくない続きの前触れである。
「ただし」
「ほら来た」
「医務室送りが出ないとは言っていない」
「そこだけは言い切ってほしかったです」
「現実を見ろ、とおる」
「現実のほうが毎回こっちを探し当ててくるんですよ」
「去年は何人くらい運ばれたんですか?」
なぜか少し楽しそうな声で、リーナベルが尋ねた。
クラリッサは記憶をたどる素振りもなく答える。
「白華は三人」
「へえ」
「紅椿は八人」
「多っ」
今度はユリオまで眉をひそめた。
「紅椿、何やったらそんな人数になるんだよ」
「彼らは怪我をするまでが速い」
「それ褒めてます?」
「事実を述べているだけだ」
「嫌な隊風だな……」
そこまで言ったところで、クラリッサの口元から笑みが薄れた。
地図上に描かれた赤い椿の紋へ、指先が静かに触れる。
「紅椿は強襲を担う隊だ」
先ほどまで冗談めいていた声に、少しだけ芯が入った。
「危険な場所へ誰より早く飛び込む。そうする必要がある現場では、怪我をしないよう慎重に進むことより、一秒でも早く取り残された人間へ辿り着くほうが重要になる」
新人たちも、それを察したのか口を閉じる。
「白華とは、そもそもの考え方が違う。だからこそ、一緒に訓練する意味があるんだ」
クラリッサの指が、今度は白い花盾の紋章へ移った。
「私たち白華は、人の前に立つ。避難路が崩れそうなら支える。敵が押し寄せてくるなら防衛線を作る。呪染が広がっているなら、これ以上先へ通さない。恐慌状態の民間人がいれば、その足をまず止め、安全な場所まで導く」
続いて、指先が再び赤椿へ戻る。
「紅椿は、道を開く。敵が塞いでいるなら突破する。火の海なら、その向こう側へ進むための路を作る。取り残された人間がいると分かれば、危険地帯だろうと最短距離で飛び込む」
二つの紋章の間を、クラリッサの指がゆっくりとなぞった。
「現場では、その二つが噛み合わなければ意味がない」
いつの間にか、誰の顔からも笑いは消えていた。
「紅椿が突破口を開いたとして、その道を誰が維持する?」
誰も答えない。
「白華が避難民を守っていても、逃がす先が塞がっていたらどうする?」
クラリッサも、答えを求めている様子はなかった。
「敵を押し返したあと、現場へ残された負傷者を誰が拾う。こちらの防衛線を紅椿が越えるなら、どこを通せば味方の術式を邪魔しない。逆に紅椿が作った火路へ白華が防壁を置けば、その火はどう流れる?」
その言葉を聞きながら、とおるの脳裏には、つい数日前までいた旧街道の景色が、土煙の匂いや足元を揺らした振動まで伴って蘇ってきた。左右から迫るように切り立った崖、その狭い道いっぱいに巨体を横たえ、背中へ小さな砦でも載せているかのような甲殻を震わせていたグラド・バルム。白雷をまとって土煙の向こうへ飛び込んでいったミレイユと、一度きりだったはずの斬撃を過去の足跡ごと戦場へ残しながら敵を翻弄したアスカ。そして、その二人と巨大な魔獣の間を右往左往しながら、怖い、無理、帰りたい、と心の中ではずっと喚いていたくせに、結局最後まで透明な〈壁〉を置き続けていた自分。
三人の能力は、見事なくらい何ひとつ似ていなかった。
とおるには、ミレイユのように全身へ雷を走らせて一気に間合いを詰めることなどできないし、アスカのように過去の動きを戦場へ焼きつけ、今と過去の斬撃を重ねる芸当も無理である。反対に、あの二人が好きな場所へ透明な足場を浮かべたり、敵と味方の間へ半ば強引に境界を差し込んだりすることもできない。できることだけを並べれば、三人はほとんど別々の競技をしているようなものなのに、互いの能力がどこまで届き、何が苦手で、どの瞬間なら相手の力を借りられるのかを少し理解しただけで、戦い方は驚くほど変わった。
とおるが〈反発壁〉を足場として置けば、ミレイユはそこを踏んで、本来なら届かなかったもう一段先まで加速できる。アスカが敵の視線を引きつければ、その一瞬だけ別の二人の動ける場所が広がる。グラド・バルムを殺さず旧街道から移動させられたのも、ヴァルガたちとの乱戦をどうにか生き延びられたのも、誰か一人が圧倒的に強かったからではなく、三人それぞれの力が、別の誰かでは届かない場所へほんの短い橋を架け、その細い橋を落ちないよう必死に渡り続けた結果なのだと、今になって思う。
もちろん噛み合うということは、噛み合わなかったときの危険も同じだけ大きいということだ。
壁を一枚置く位置を誤れば、敵の突撃を止めるつもりが味方の退路まで綺麗に塞いでしまう。アスカの斬撃線へ不用意に踏み込めば、援護へ入った人間から順番に切り分けられかねないし、ミレイユの加速先を読み違えれば、助けるつもりで置いた壁が進路妨害へ早変わりする。ましてこれから組む相手は紅椿だ。防衛を得意とする白華と突破と強襲に重きを置く紅椿では、戦いの思想そのものが違う。役割の違う二つの隊が同じ戦場で同時に本気を出すのなら――連携が噛み合った時の強さより先に、噛み合わなかった時の恐ろしさを想像してしまう程度にはとおるもこの世界の戦闘へ慣れてきていた。
実戦の真っ最中に、――すみません、初めまして。あなたが全力で走ってくるとは知らず、突撃ルートへ壁を置きました。今後ともよろしくお願いします。
では済まないのだ。
相手が全速力のまま境界へ突っ込んだ場合、自己紹介の続きはおそらく医務室の寝台を挟んで行われることになる。できることなら、名刺交換より先に包帯交換が始まるような関係性は避けたかった。
「とおる」
「はいっ」
完全に考えへ沈んでいたところへ名前を呼ばれ、とおるの肩が目に見えて跳ねた。
「お前の〈反発壁〉は、紅椿と相性がいい可能性がある」
「……俺の壁が、ですか?」
「ミレイユを二段加速させたそうだな」
「ああ、あれですか」
「同じ原理を紅椿の突入役へ使えれば、初速をさらに上乗せできるかもしれない」
「なるほど」
「逆に置く位置を間違えれば、全力疾走してきた紅椿を派手に転ばせる」
「嫌な可能性を後から足さないでもらえます?」
「だから訓練するんだ」
「高速で転んだ人間って、途中からもう負傷者じゃなくて投擲物ですよ」
「そこはちゃんと受け止めろ。白華だろう」
「その事故の原因作ったのも俺なんですけど?」
「なら、なおさら最後まで責任を持て」
「急に逃げ道が全部なくなった……」
隣へ視線を向けると、ミレイユはもうとおるが高速で飛んでくる人間の受け止め方について悩み始めたことなど気にも留めず、話を次の問題へ進めていた。
「クラリッサ殿」
「何だ?」
「紅椿の火路へ、とおるの境界を重ねた場合、魔力干渉はどうなりますか?」
「そこも今回調べる」
「既存記録は?」
「似た術式同士の例なら残っている。ただ、とおるの〈壁〉は既存の障壁術と比べても挙動が特殊すぎる。過去資料だけを根拠に、安全だと決めつけるほうが危険だ」
「では、実測を?」
「ああ」
クラリッサは迷いなく頷いた。
「紅椿の〈覇火道〉は、足元へ火属性の推進力を与えて速度を引き上げる歩法だ。その上へ反発壁を重ねた場合、壁が火勢そのものを遮るのか、推進力までまとめて跳ね返すのか、あるいは余剰の力だけ別方向へ逃がすのか――そのあたりは実際に試したほうが早い」
嫌な単語が二つあった。
実際に。
試す。
とおるは、授業中に当てられたくない生徒のような慎ましさで恐る恐る手を上げた。
「ちなみに」
「何だ」
「それ、誰が踏むんです?」
「紅椿の若手だ」
クラリッサは実に爽やかに笑った。
「安心しろ。頑丈だから」
「頑丈なら実験台にしていい、って発想そのものが怖いんですよ」
「紅椿では普通だ」
「隊ごとに『普通』の定義が違いすぎません?」
「だから合同訓練をするんだろう」
「そこへ着地するんだ……」
「隊ごとの普通を合わせる」
ふいに、別の声が差し込んだ。
「その意味も、最近は以前より大きいのでしょうね」
セイラムだった。
彼は手元の資料から顔を上げないまま、紙の端を指先でゆっくりなぞっている。
「近頃の情勢まで含めて考えれば、隊同士が平時から互いの動きを理解しておく必要は、かなり増しているはずです」
その一言を境に、それまでどこか訓練説明らしい軽さを残していたクラリッサの表情が、ごくわずかに引き締まった。
「ああ」
地図の端へ重ねて置かれていた別の資料へ手を伸ばし、それまで新人たちの視線から外れていた数枚を机の中央へ滑らせる。
センターブルーとの国境情勢。
南部旧街道で確認された、正体不明の刻印者。
黒い断層に関する調査報告。
星骸獣の異常出没。
どれも肝心な部分ほど黒く伏せられ、固有名詞や具体的な数字は省略されている。それでも新人向けの事前説明として渡すには、紙面から漂ってくる空気があまりにも物々しいということくらいとおるにもすぐ分かった。
「細かいところまでは話せない」
クラリッサはそう前置きしてから、一人ずつ新人たちの顔を見回した。
「しかしお前たちも最近、妙なことが増えているのは感じているだろう」
今度は、誰も茶化さなかった。
「青の大陸――センターブルーは、ここ最近になって国境付近での調査活動を増やしている。古代遺構に関係すると見られる密輸品も、以前より目立つようになった。地方から上がってくる報告の中には、星骸獣との関連を疑われる事例も混じり始めている」
クラリッサの指が、一枚の紙面へ止まる。
「商会は輸送路の安全情報を求めている。地方領主から十二華への巡回要請も増えた。神殿庁は呪染や魂位相異常について、各地の記録を集めている。つまり何か一つ大きな事件が起きているというより、小さな異常が別々の場所で同時に増え始めている状態だ」
そこで一度言葉を切り、改めて新人たちへ目を向ける。
「お前たちは、もう聖騎士だ」
声量は、それまでと何も変わらなかった。
なのにその一言だけが妙に重く、机の上へ置かれた資料よりもはっきりととおるの中へ落ちてきた。
「剣が強ければいい。魔物を倒せればいい――もう、そういう立場ではない。街道を一本封鎖すれば、翌日の市場へ荷が届かない。魔物が出たという情報だけで、村から人が逃げ始めることもある。騎士が不用意な一言を漏らせば、それが商人へ渡り、旅人へ伝わり、三日後には事実と似ても似つかない噂として隣の領地を走っているかもしれない」
とおるは、無意識に眉を寄せていた。
魔物を倒す。
人を助ける。
そこまでなら、まだ話は分かりやすい。
目の前に危険があって、それを止めればいい。
けれど聖騎士という肩書そのものが、人の移動や商売や噂の流れにまで影響を与えるのだと言われると、急に自分たちが立っている場所の広さが変わったような気がした。
「……もっとこう」
考えているうちに、口から零れる。
「聖騎士って、魔物倒して帰ってきたら、みんなに拍手される仕事だと思ってました」
一瞬の沈黙。
ユリオが鼻で笑った。
「お前、聖騎士試験で何を見てきたんだよ」
「見ましたよ」
とおるは真顔で答える。
「いっぱい見ました。その結果、できれば見なくてよかった現実まで見えるようになったんです」
「成長したじゃねえか」
「嬉しくない方向にね」
「安心しろ」
クラリッサが口元だけで笑った。
「まだ入口だ」
「……何の?」
「聖騎士の現実の」
「帰っていいですか?」
「駄目だ」
「返事が速い」
「それとな」
クラリッサは資料束を指先で軽く叩いた。
「聖騎士は、人と関わる仕事だ。村へ入れば村の責任者と話さなければならないし、街道で商隊を止めれば商人から損害や補償について聞かれることもあるだろう。魔物を討伐した後だって、死骸の処理や素材の所有権、汚染区域の封鎖、子どもが近づかないための見張りに畑へ戻っていい時期の説明まで残っている」
さらに、人差し指を一本立てる。
「貴族領で動くなら、領主の面子を必要以上に潰さず、それでも王命は通さなければならない。神殿が関わる現場なら、信仰上の禁忌と術式上の必要性、その両方へ気を配ることになる。民間人を守るというのは、剣の届く範囲だけ守って終わる話じゃない」
ミレイユが、ほんのわずかに頷いた。
リディアから受けた叱責は、まだ完全には抜けていないのだろう。
それでもクラリッサの話を聞く横顔には、先ほどまで自分の失敗ばかりを細かく切り分けていた時とは違う色が浮かび始めていた。
旧街道でアスカを残した判断。
グラド・バルムの幼体を救うと決めたこと。
ルーデン谷の村人たちへ事情を説明し、預け先を考えたこと。
振り返ってみれば、どれも剣を振るえば片づく問題ではなかった。
「だから合同任務では、他隊との連携だけじゃない。社会の中で、聖騎士としてどう振る舞うかも見られる」
クラリッサは新人たちへ向き直った。
「避難民に怒鳴られても剣を抜くな。商人から補償を求められても、その場で勝手な約束をするな。泣いている子どもへ、安心させたいからと都合のいい嘘をつくな。村長へ説明する時は結論から話せ。それから報告書に『たぶん』『なんとなく』『すごく』を入れるな」
とおるは反射的に胸を押さえた。
「最後だけ俺を狙ってません?」
「心当たりがあるなら直せ」
「最近その言葉、聞く頻度が高すぎません?」
「成長の機会が多くて良かったな」
「前向きな言葉で圧をかけてくる……」
少し離れた席から、リーナベルが手を上げた。
「合同任務の班分けって、もう決まってるんですか?」
「まだ暫定だ。白華からはお前たちのうち何人かが別々の班へ散る。紅椿、蒼菫、黄棘、翠桐、緋桜あたりの新人と組む可能性が高い。金蘭や銀桂も一部参加する予定だ」
そこでクラリッサは、わずかに間を置いた。
「黒蓮は……来る可能性がある」
「来る可能性って何ですか」
とおるの声が、ほんの少し裏返った。
黒蓮。
その名を聞いただけで、脳裏へ真っ先に浮かんだのはノクスの片眼鏡だった。
あの男が合同任務を、素直に「若者たちの健全な交流」として眺める姿など、どう頑張っても想像できない。
おそらく本人の中では、
――複数華隊新人における能力差、および極限状況下での魔力回路応答比較観察。
などと、頼んでもいないのに研究題目へ変換されているに違いない。
しかも楽しそうな顔で。
「黒蓮は毎年、直前になるまで参加形態が読めない」
クラリッサも、少しだけ遠い目をしている。
「試料採取班として来るか、観察者として来るか」
一拍。
「問題そのものを持ち込むか」
「最後が嫌すぎます」
「同感だ」
即答だった。
その瞬間だけ、会議室の空気が妙な一体感に包まれる。
黒蓮への警戒心については華隊の垣根を越えた連携訓練など行わなくても、白華内部ですでにかなり高い水準へ達しているらしい。
「それと、合同任務にはお披露目の意味もある」
クラリッサは一枚、資料をめくった。
「お前たちはもう、白華の内側だけで評価される新人ではない。他隊の上級騎士、総務局、王宮魔導院、場合によっては地方行政官も見る」
新人たちへ視線を向ける。
「そこで何を見せるかは大事だ。派手な技を出した奴だけが評価されるわけじゃない。誰と組めるか。誰の指示を聞けるか。不測の事態で勝手に突っ走らないか。逆に、必要な場面で黙ったままにならないか。そういうところまで全部見られる」
「勝手に突っ走らない……」
ミレイユが、ごく小さく呟いた。
とおるは、そっと横目で彼女を見る。
……まずい。
視線が少し下がった。
これはまた、自分へ向けて矢印を引き始めている顔だ。
「ミレイユ」
「何だ」
「今の、一般論ですよ」
「分かっている」
「本当に?」
「分かっている」
分かっている人間がする顔ではなかった。
とおるは心の中で、ミレイユの自己反省回路へ一時停止ボタンを設置できないものかと本気で考えた。
自分の〈壁〉がいつか、空間だけではなく意思と行動の間にまで境界を差し込めるようになったなら、「反省」と「自責」の間へ薄い一枚を置いて、これ以上先へ進まないよう止めることもできるのではないだろうか。
たぶん本人から猛烈に怒られるな……
よって実験対象にするのはやめておこう。
人間関係にも、きっと倫理審査というのは必要だし。
説明はその後も続き、隊間通信、避難路の確保、敵性個体の識別、民間人への説明、補給地点の確認、負傷者搬送、魔物死骸の処理、現場記録、指揮官不在時の暫定判断、そして当然のように最後には報告書提出まで並んだ。聞けば聞くほど、聖騎士という職業は戦闘職と行政職と災害対応職と接客業を一つの鎧へ無理やり詰め込み、本人の都合など聞かずに「はい、これ全部あなたの担当です」と渡してくる仕事に思えてくる。
以前のとおるにとって、聖騎士とはきらきらした鎧を身につけて魔物を倒し、街へ帰れば子どもたちから歓声を浴びる人だった。
ところが今は違う。
魔物を倒したあと周辺住民へ事情を説明し、危険区域を封鎖して、死骸の処理手順と素材権の所在を確認し、関係部署へ報告書を提出した翌朝、全身筋肉痛のまま訓練場へ立っている人である。
現実への解像度が上がるほど夢が削れていく現象は、どうやら前世でも異世界でも共通らしい。
「質問は?」
一通り説明を終えたところで、クラリッサが尋ねる。
最初に手を上げたのはユリオだった。
「他隊の新人と組んだ場合、指揮順位はどうなります?」
「任務ごとに指定される。基本は班長役が一人決まるが、そいつが行動不能になった場合、隊内席次、実戦経験、任務適性を見て引き継ぐ」
クラリッサは机へ片手を置いたまま続ける。
「民間人保護を白華が担当している局面なら、白華側の判断が優先されることもある。逆に、敵陣へ突破路を開く場面なら紅椿が主導する場合もある。大事なのは、自分の所属隊の理念だけで現場全体を塗りつぶさないことだ」
「了解です」
ユリオは素直に頷いた。
その視線が一瞬だけ、とおるへ向く。
挑発というほど露骨ではないにせよ、そこには確かな競争心があった。
ユリオは白華の騎士として自分が前へ出る力を信じている。真正面から敵を受けて押し返し、自分の身体ごと戦線を支える。壁を置いて誰かの動きを助けたり、攻撃を逸らして味方のために余白を作ったりするとおるとは、同じ防御寄りでも方向がかなり違う。何度も訓練では組んでいるものの、ユリオは未だにとおるを「変な奴だが放っておけない競争相手」くらいには見ている節があった。
とおるとしては、その契約を一度返品したい。
競争心というものは、申し込んだ覚えが一度もないのになぜか毎月料金だけ請求される定額サービスに少し似ている。
「壁山」
「はい?」
「紅椿との訓練で反発壁が使えるなら、俺にも踏ませろ」
「嫌です」
「即答かよ」
「だってユリオさん、絶対一回踏んだあとで『もう少し角度を上げろ』とか『次は斜め後ろから返せ』とか追加注文してくるじゃないですか」
「言うかもな」
「ほら。俺を人間発射台にしないでください」
「使えるものは使うのが筋だろ?」
「言い方」
クラリッサが笑いを噛み殺し、ミレイユは隠そうともせず呆れた顔をした。
「ユリオ。とおるの壁は訓練器具ではない」
「分かってる」
ユリオは真顔で答えた。
「だから実戦で使う前に慣れておきたいんだ」
「もっと悪いと思うのは俺だけですか?」
とおるは、紅椿へ行く前からすでに疲れてきた。
これから火力の高い人間ばかり集まっている隊舎へ顔を出すというのに、白華内部だけですでにこの濃度である。紅椿の新人たちはいったいどこまで濃いのだろう。
濃縮還元異世界騎士団。
……うん。栄養価は高そうだが、胃にはかなり重そうだった。
「よし」
ひと区切りつけるように、クラリッサが、ぱん、と手を打つ。
「今日の白華側説明はここまでだ。各自、配った資料は持っておけ。報告書の基本様式も一緒に入っている。失くした奴はマルク副官に怒られるからな」
それぞれが資料を束ね、椅子を引き始める中で最後の指示を飛ばした。
「とおるとミレイユはこのあと私と紅椿へ行くぞ。他の者は通常訓練へ戻れ」
そして彼女の視線だけが一人、あさっての方向へ向きかけていた男へ刺さる。
「バルト」
「何だよ」
「食堂ではない」
「まだ何も言ってねえだろ」
「顔に書いてある」
「顔にも報告書みたいに赤字入るのかよ」
会議室に笑いが広がった。
とおるもつられて笑いながら資料束を抱え、椅子から立ち上がる。
右目の奥にはまだ薄い熱が残っていた。ミレイユの脇腹だって、治療を受けたからといって完全に元通りになったわけではない。
それでも予定というものは負傷者の都合などいちいち聞いてくれない。
医務室を出て、そのまま新人説明へ参加して、次は紅椿へ挨拶。
現代日本に置き換えるなら、病院帰りの足で社内研修へ連行され、その終了時刻に合わせて取引先訪問まで予定表へ押し込まれているようなものだった。
労働基準法はどこへ行った。
少なくとも、世界を越える転移対象には選ばれなかったらしい。




