第64話 落ち込まないでください
「私はもう終わりだ……リディア様から見れば、命令一つ満足に遂行できず、現地判断という便利な言葉に逃げた挙げ句、連れ戻すはずのアスカまで置いて帰ってきた役立たずだ……」
白華隊本部の執務室を出てから、ミレイユ・アスターはおおむねこの調子だった。普段なら背筋を伸ばし、薄い菫色の瞳に強い意志を宿しながら騎士とはかくあるべきだと全身で主張している彼女が、今は廊下の壁に片手をついて世界樹の根元に埋められた古代の後悔でも背負っているかのように項垂れている。白基調の軽装鎧も、いつもなら凛々しく見えるはずの銀灰色の髪も、本人の落ち込み具合に引っ張られてなぜか全体的にしんなりして見えた。騎士団詰所の廊下で、若き白華の有望株がここまで目に見えてしおれる姿は、たぶん記録官セレナが見たら羽ペンを構えたと思う。もちろん今この場にセレナがいないことは、ミレイユの名誉にとって不幸中の幸いだった。
「いや、そこまで落ち込まなくても大丈夫ですよ。少なくともリディアさん、最後に『しょんぼりするな』って言ってたじゃないですか。あれたぶん、嫌われた人に掛ける言葉じゃないですし」
とおるはできるだけ柔らかい声で言った。もちろん彼なりに気を遣った慰めである。人間関係の壁を厚めに建造してきた前世を持つ彼にしては、かなり踏み込んだ対人支援だと言えるだろう。以前の彼なら落ち込んでいる相手へ声を掛ける前にまず脳内で三十通りの失敗パターンを再生し、そのまま「今はそっとしておくのが優しさ」という名の敵前逃亡を選んでいたはずである。それに比べればかなり成長した。たぶん。おそらく。人類史レベルでは誤差でも、壁山とおる史では大きな一歩だったのである。
「それは私がしょんぼりしていることまで見抜かれていたという意味だ!」
「あ、じゃあ今のなしで」
「遅い!」
慰めのつもりで差し出した言葉は、残念ながら傷口を塞ぐ薬にはならず、むしろ塩として非常に優秀な働きをしてしまったらしい。とおるは隣を歩くミレイユの横顔をちらりと窺いながら、励ますという行為の難易度について心の中で静かに頭を抱えた。
慰めとは、適当に投げれば必ず相手の胸元へ収まってくれる便利な道具ではない。相手の性格、その日の気分、落ち込んでいる理由、声をかけるタイミング、こちらの言い方――そうした諸条件を一つでも読み違えれば、善意たっぷりで投げたはずの言葉が妙な角度で跳ね返り、なぜか味方の後頭部へ直撃することさえある。
要するに、取り扱い注意の鈍器だった。
白華隊の訓練課程にも、いっそ「落ち込んだ同僚への声かけ反復制御訓練」くらい追加してくれないだろうか。
略して、慰め練。
――いや、弱いな。
名称からして何を鍛える訓練なのか、まるで伝わってこない。
たぶんクラリッサなら三秒ほど考えた末に「なぐさめ会でよくない?」と全部を雑に丸め、セレナがそれを妙に気に入って正式な訓練記録へ記載しようとし、最後はリディアが額へ指を当てながら「頼むから公文書に残すな」と止めるところまで、とおるにはかなり鮮明に想像できた。
そんな益体もないことを考えながら歩く廊下は、昼下がりの白華隊本部らしい穏やかさに包まれている。磨き込まれた床へ世界樹の淡い光が窓越しに落ち、乳白色の長い筋を作っており、開け放たれた中庭側の窓からは草木の匂いを含んだ風が時折入り込んでくる。
さらに遠くの訓練場から、木剣と木剣が打ち合わされる乾いた音が、ひと呼吸ほどの間隔を置きながら規則正しく響いていた。本来なら任務から帰還した者が張り詰めていた神経をようやく緩め、「ああ、帰ってきた」と実感できる場所なのだろう。ただし現在のとおるについては、その効能がほとんど発揮されていない。右目の奥にはまだ鈍い熱が居座り、魔力を使いすぎた身体は芯のあたりから重いうえ、今後待ち受けている報告書と始末書の存在がまだ一文字たりとも書いていない段階ですでに肩へ重量を加えている。そこへアスカの現地残留、救出したグラド・バルムの幼体、突然現れた第四眷属、リディアから飛んできた反論の余地が一分もない正論まで順番に積み重なっているのだから、目には見えなくとも背中には旅商人の荷車一台ぶんくらい何かを背負っている気分だった。
しかも隣では、ミレイユが誰にも頼まれていないのに自分自身への追撃を延々と続けている。おかげで廊下そのものは十分な幅があるのに、とおるの精神的な通路だけが刻一刻と狭くなっていた。
「もっと早い段階で、敵性刻印者の危険度を引き上げて判断するべきだった」
ミレイユが、また始めた。
「得体の知れない連中が現れた以上、アスカを現地へ残す判断も危険だったと言わざるを得ない。それにそもそもあの女との交戦中、脇腹を取られた時点ですでに集中が乱れていた可能性がある。帰還後の報告でも途中で言葉に詰まった。よりにもよってリディア様の前で……あんな、あんな失態を……」
「ちょっと待ってください」
とおるは思わず横から口を挟んだ。
「反省会って、普通は一案件につき一回くらいで終わりません?」
ミレイユが本気で意味を理解できないという顔を向けてくる。
「何を言っている。反省すべき点が複数あるなら、それぞれ検討するのが当然だろう」
「そこじゃなくてですね。もう敵との戦闘は終わってるんですから、自分で追加ダメージ入れ続けるのやめません?」
「終わっていない」
「え?」
「敵は残っている」
ミレイユは妙に真剣な顔で、まっすぐ前を見た。
「私の未熟さだ」
「とうとう概念と戦い始めた……」
「何か問題があるか?」
「問題しかない気がするんですけど」
とおるは鼻から長く息を吐いた。
ミレイユの落ち込み方は、単純に気持ちが沈んで黙り込む類のものではないらしい。例えるなら、崖から落ちたあと途中の岩棚へ身体をぶつけ、それでも底へ着いたところで終わらず「まだ反省が足りない」と自分で地面を掘り始めるタイプだ。しかもその穴の掘り方だけは妙に几帳面なのである。
「リエナの攻撃を受けた直前、私は右側への警戒を薄くしていた。原因はおそらく――」
「まだ掘るんですか?」
「何を?」
「いえ、こっちの話です」
真面目な人間の自己反省というものは、場合によってはかなり怖い。
とおるの知る限り、多少怠惰な人間なら大きな失敗をやらかしたとしても「まあ、次から気をつけよう」と反省したところで、最終的には飯を食うなり風呂へ入るなり眠るなりして、いったん今日という日から逃げる方向へ進める。
ところがミレイユのような種類の人間は、「次から気をつける」という結論だけでは到底満足せず、なぜ失敗したのか、どの判断が遅れたのか、本人の技能不足はどこにあったのか、同じ状況が再現された場合に何を変えるべきなのか――そこまで分解したうえで、改善案を複数用意し、必要なら訓練計画へ落とし込むところまでやらなければ、反省という仕事を終えた気にならない。
前世の会社員に置き換えるなら、ちょっとした入力ミス一つをきっかけに、誰からも頼まれていないのに原因分析から再発防止策、運用フローの見直しまで盛り込んだ三十枚ものパワーポイントを自主制作し、翌朝には「昨日の件についてまとめました」と上司の机へ置いている社員である。
上司からすれば、きっと非常に頼もしい。けれど同じ部署で隣の席に座らされる側としては、たまったものではない。なにしろこちらが同じ日に同じ程度の失敗をして、「次は気をつけます」で済ませようものなら、何ひとつ責められていないのに猛烈な罪悪感だけが発生する。
とおるは半歩先を歩くミレイユの横顔を見ながら、少し考えた末に口を開いた。
「ミレイユさん」
「何だ」
「反省するなとは言いませんけど、医務室に着くまでくらい休みません?」
「歩いているだけだ。休んでいる」
「あなたの場合、身体が歩いてる間に頭が全力疾走してるんですよ」
「……意味が分からん」
「俺には分かります」
「なら説明しろ」
「説明すると、また新しい反省材料にされそうなので嫌です」
「何なんだ、お前は」
ほんのわずかだったが、ミレイユの眉間から険しさが抜けた。
どうやら励まそうとすると失敗するが、少し呆れさせるくらいなら何とかなるらしい。
――なるほど。
慰め練、一項目追加。
真正面から救おうとするな。
場合によっては、横からくだらないことを言え。
訓練教範として正式採用される日は、おそらく永遠に来ないだろうが、とおる個人の中ではかなり重要な発見だった。
「そもそも私は白華の騎士として――」
「でも俺なんて隊長への正式報告中に『胃腸的に危険です』って言いましたからね。騎士としての威厳で言えば、たぶん今のところ俺が最下位です」
とおるは、ここで自分を比較対象として差し出す荒療治に出た。慰め方というものを大雑把に分類すれば、相手の長所を見つけて上へ持ち上げる方法と、「ほら、下には俺がいますよ」と自分から地面へ寝転がり、相対的に相手の立ち位置を高く見せる方法の二種類がある――少なくとも今はそういうことにした。
前者には相手の心情を正確に読み取り、押しつけがましくならない言葉を選び、それを適切な声色とタイミングで届けるという高度な人間力が要求されるため、つい先ほど善意を塩へ錬成したばかりの自分には少々荷が重い。
というわけで、今回は後者を採用する。
自らの尊厳を踏み台として差し出し、地下深くまで潜りかけているミレイユの心をせめて地表付近まで押し戻す。
我ながら献身的ではないだろうか。
壁役とは敵の攻撃だけでなく、時には仲間の精神まで受け止めなければならないらしい。
――精神的足場、壁山とおる。
なんとも頼もしい響きである。
できれば一生、履歴書の特技欄には書きたくない。
そんな覚悟を決めたとおるの言葉を受け、ミレイユは一瞬だけ反省を止めると、何かを確かめるような真顔でこちらを見た。
「……まあ、確かに」
「はい?」
「お前よりは、まだ私のほうが騎士らしいな」
「思ったより普通に踏みましたね?」
「何がだ」
「慰めるために自分から下へ降りたんですけど、まさか一切ためらわず足場にされるとは思わなかったんですよ」
「自分で差し出したのだろう」
「差し出しましたけど、普通ちょっと遠慮しません? こう……『いや、お前にもいいところはある』とか」
ミレイユは数秒考えた。
「あるのか?」
「そこから確認するんですか?」
「冗談だ」
「今の顔で!?」
ほんの少しだけ、ミレイユの口元が動いた。
「踏み台になりたいのかなりたくないのか、どっちなんだ」
「なる覚悟はしましたけど、土足で来るとは聞いてません」
「踏まれ方に注文をつけるな」
「人間には最後まで守りたい尊厳があるんですよ」
「なら最初から差し出すな」
「ごもっともで」
言葉だけ拾えば、相変わらず刃物の切れ味だった。
けれどその声には先ほどまでなかった張りがほんの少し戻っており、歩くたび床へ近づいていた肩も、世界樹の根元へそのまま吸い込まれそうな角度からどうにか白華隊所属の若手騎士として社会復帰できそうな位置まで持ち直している。
とおるはそれを横目で確かめ、胸の内でひっそり息をついた。
尊厳を犠牲にした甲斐は、どうやらあったらしい。
費用対効果については一旦考えないことにする。
心の健康に悪いので。
「とはいえ……」
せっかく浮上しかけたミレイユの眉間へ、また薄く皺が寄る。
「始末書がある」
「そこは俺も一緒ですよ」
とおるは遠い目をした。
「仲良く地獄へ行きましょう」
「地獄へ遠足にでも行くような言い方をするな。始末書は場合によっては戦闘より厄介だぞ」
「それは分かります。敵なら倒せば動かなくなりますけど、書類は一度倒したと思っても赤字をまとって帰ってきますからね」
「しかもリディア様の赤字は的確だ。言い訳できる余地がない」
「そこなんですよ。正論の追撃性能が高すぎるんです」
「誤字まで見逃さない」
「命中精度も高い」
「事実関係に曖昧な記述があれば差し戻される」
「防御無視までついてる……」
いつの間にか二人の会話は、失敗に対する反省から、いかにして報告書という名の強敵を攻略するかという、かなり具体的な作戦会議へ移っていた。
人間というものは、どうにもならないことを考え続けて心が沈みすぎるとかえって目の前の細かな作業へ意識を逃がしたくなる時がある。
もっとも、とおるの場合は現実的な作業そのものから可能な限り逃げたい人間なので事情が少し異なるのだが、残念ながら始末書だけは逃げれば逃げるほど追いかけてくる。
おそらくこれは王国法などという生ぬるい括りではなく、重力や季節の巡りと同じ世界法則の一種なのだろう。
「とりあえず時系列から固めます?」
「ああ。そのほうがいい」
とおるは頭の中で記憶を並べながら、指を一本ずつ折っていく。
「旧街道へ到着。グラド・バルムを確認。腹部の状態から妊娠……というか出産直前と推定して、討伐から非殺傷誘導へ方針変更。その後、謎の集団が出現して交戦、途中で〈Ⅳ-1〉が介入して――」
「そこは分けろ」
「分ける?」
「アイツらとの交戦と、あの男の介入は別項目にしたほうがいい。後者は確認できた能力についても記載する必要がある」
「ああ、なるほど。じゃあ、謎の集団の出現、交戦、〈Ⅳ-1〉介入、撤退。その後に母体の状態を確認して、胎仔の生体反応を発見、救出処置、ルーデン谷への搬送、アスカさんの現地残留を決定、俺たちは王都へ帰還……こんなところですかね」
「おおむねそれでいい。ただし、余計な感想は入れるなよ」
「余計な感想」
とおるは少し考えた。
「『グラド・バルムがものすごく大きかった』とか?」
「完全に主観だな」
「でも大きかったですよ」
「知っている。私も見た」
「じゃあ、どう書けば」
「数値にしろ」
「ああ。『全長推定何メートル、背部甲殻高およそ何メートル』」
「それなら記録として意味がある。可能なら杭脚の本数と、確認できた腹部損傷の位置も添えておけ」
「了解です」
とおるは頭の中の文章を修正する。
「じゃあ、『黒銀の槍が最悪の角度で刺さった』は?」
「感情しか入っていない」
「事実でもありますよ?」
「報告書における『最悪』とは具体的に何だ」
「……『腹部育殻嚢付近を貫通』」
「それでいい」
「急に賢そうな文章になった」
「最初からそう書け」
「じゃあ次。『〈Ⅳ-1〉の能力が、だいぶやばい』」
「論外だ」
「早いなあ」
「何を期待していたんだ」
「『発動条件不明の行動停止能力を確認。効果範囲および持続時間は現時点で特定できず』」
「……よし。それなら通る」
「報告書って、言いたいことを難しい言葉に変換する競技なんですか?」
「違う。誰が読んでも同じ事実を把握できる形に整えるんだ」
「今ちょっとだけ報告書の存在意義に納得しかけました」
「今まで何だと思っていた」
「偉い人が部下を机に縛りつけるための儀式かと」
「お前は一度、本気で書類仕事について教育を受けたほうがいいな」
「嫌な方向へ話が進んだ」
気づけば、廊下の真ん中でずいぶん真剣な報告書対策会議が成立していた。
先ほどまで失敗を一つ思い出すたび自分で自分へ刃を突き立てていたミレイユも、今ではとおるの曖昧な表現を見つけるたび即座に訂正を入れ、情報の順序を組み替えながら必要な記録と不要な感想を切り分けている。
伏せがちだった視線は前へ戻り、声にも芯が戻っていた。
その変化を隣で見ながら、とおるはやっぱりこの人は根っこのところまで騎士なのだと思う。
尊敬する隊長に叱られれば、人並みに落ち込む。
自分の失敗を思い出せば、誰より容赦なく自分自身を責める。
真面目すぎるがゆえに一度沈み始めると底へ着いてもなお掘り進みかねない危うさはあるものの、やるべきことが目の前へ置かれればそこで立ち止まったままにはならない。
事実を整理して次に必要なことを考え、自分が果たすべき役割へ戻っていく。
そういう人だからこそ、たぶん任務中には背中を預けられるのだろう。
真面目すぎて、隣にいるとたまに胃が痛くなるけれど。
「――ずいぶん呑気なものだな」
不意に、背後から冷ややかな声が落ちてきた。
「……」
「……」
とおるとミレイユの足が、ほとんど同時に止まる。
今の声には聞き覚えがあった。
しかも、できれば「報告書って偉い人が部下を机に縛りつけるための儀式なんですか」のあたりから聞かれていないことを祈りたい種類の相手だった。
とおるが恐る恐る振り返る。
少し離れた廊下の壁へ肩を預け、腕を組んだままこちらを眺めていたのは、赤茶色の短髪を持つ女性騎士――第九華隊四席、クラリッサ・ロウだった。
訓練場では腹の底から豪快に笑い、白華隊独特の流儀を「まあ、やってりゃ分かる」とだいぶ雑に説明しながらいざ審判役へ回れば親しい相手だろうと容赦なく勝敗を叩きつける。
普段の彼女なら腕を組んで壁へ寄りかかるその姿にも、どこか気安い姉貴分らしさがある。
けれど今は違った。
口元にいつもの笑みはなく、細められた目だけがとおるとミレイユ、その二人が立ち止まっている廊下の真ん中——さらにその先にある医務室の方向へと順番に向けられる。
何も言われていないのに、だいたい言いたいことは分かった。
――お前たち。
――負傷して帰ってきた直後に。
――廊下の真ん中で、何を楽しそうに報告書会議してるんだ。
大体そういう目だった。
「いや、俺たちなりにかなり深刻な話をしてたんですけど」
「始末書で『ものすごく大きかった』が通るか相談している人間のどこが深刻なんだ」
「通らないことを確認してました」
「確認するまでもない」
先ほどまで多少は持ち直していたミレイユが、ほんの少し気まずそうにクラリッサから視線を逸らした。
とおるも可能なら便乗して、「自分はたまたま隣を歩いていただけの無関係な通行人です」という顔で窓の外でも眺めたかったのだが、クラリッサの視線はこちらをきっちり捉えたまま、逃げる方向へ先回りするようについてくる。
どうやら白華隊の騎士というものは、盾で敵の攻撃を受け止める技術だけでなく、人間の逃げ道を塞ぐ技術についても相当な訓練を積んでいるらしい。
物理的にも。
そして、こういう時に限って精神的にも。
「いや、その……クラリッサさん」
このまま黙っていると何かもっと怖いことが始まりそうなので、とおるはひとまず事情を説明することにした。
「俺たち、別に廊下で遊んでたわけじゃなくて、医務室へ行く途中なんですよ。ミレイユの傷も診てもらわないといけませんし、俺もリディアさんから、エルネさんに右目を診てもらえって言われてて」
「知っている」
クラリッサはあっさり答えた。
「だから、ここで待っていた」
「…………」
とおるは一拍置いた。
「その『待っていた』、意味が分かると急に怖くなる言葉なんですけど」
「怖がるな。私も鬼じゃない」
「本当ですか?」
「少なくとも今のところ、治療より先に訓練場へ連れていって腕立てをさせるつもりはない」
「今のところって言いましたよね?」
「細かいことを気にするな」
「治療前の腕立てが候補に存在している時点で、かなり大きなことだと思います」
クラリッサは答える代わりに、にやりと笑った。
その笑顔を見て、とおるは反射的に半歩ほど後ろへ下がりたくなったが、どうにか堪える。
危険度だけで言えば、ゾロが見せる笑顔ほどではない。
あちらの笑顔が「とりあえず炉の温度を一段上げてから考えよう」と退路ごと焼き払う種類のものだとすれば、クラリッサの笑顔は「大丈夫だ、死にはしない」と肩を組み、そのまま本人の同意を確認することなく訓練場へ引きずっていく種類である。
方向性こそ違うものの、最終的に逃げられないという一点だけは見事に共通していた。
「まあ、本当に待っていたのは説教のためじゃない」
「本当に?」
「そんなに疑うなら、先に説教してやろうか?」
「全面的に信頼します。続きをどうぞ」
「切り替えが早いな、お前」
クラリッサは呆れ半分に笑うと、壁から背を離した。
「リディア隊長から命令を預かっている。まず二人とも医務室へ行って診察を受けろ。そっちが終わったら、他の新人連中も集めて一時間ほど説明をする」
「説明?」
「ああ。それが終わったら、まとめて紅椿の隊舎へ連れていく」
「……紅椿の隊舎へ?」
それまで多少なりとも落ち込んだ空気を引きずっていたミレイユが、すぐさまクラリッサへ顔を向けた。
眉がわずかに上がり、伏せがちだった視線にも鋭さが戻る。
とおるはその変化を横で見ながら、さっきまで「敵は私の未熟さだ」と概念相手に一騎討ちを始めていた人間とは思えない切り替えの速さだ、と少し感心した。
「何かあったんですか?」
「今すぐ何かあったわけじゃない」
クラリッサは腕を組み直す。
「来月、新人聖騎士を対象にした合同任務がある。毎年やっている恒例行事でな、実戦経験の浅い新人を複数の隊から集めて、実地での動きや連携を見る。まあ、お披露目と実地評価をまとめてやるようなものだ」
「白華だけではないんですね」
「ああ。各隊から若手が出るから、参加人数もそれなりに多い。普段ほとんど顔を合わせない連中と組まされることもあるぞ」
そこでクラリッサは、とおるへちらりと目を向けた。
「特に今年は紅椿との合同訓練も絡む。任務当日に『初めまして、ところで背中を預けてください』では困るからな。事前に一度顔を合わせて、最低限の人間関係くらい作っておけという話になった」
「なるほど」
「その橋渡し役の一人が私だ。お前たちを連れていって、向こうの新人連中と顔を合わせさせる」
「合同任務……」
ミレイユが小さく繰り返す。
クラリッサはその反応を見て、少しだけ口元を緩めた。
「先に言っておくが、正式な任務だからな」
「正式な?」
「ああ。うっかり『新人研修』などと呼ぶと、総務局の連中が嫌な顔をする」
とおるは首を傾げた。
「でも今の説明を聞く限り、それって……合同任務って名前の新人研修なのでは?」
「まあ、そうとも言う」
「言っちゃった」
「私が言うぶんにはいい」
「そういう問題なんですか?」
「そういう問題にしておけ。世の中には、名前を変えるだけで偉い人たちが安心するものが山ほどある」
「急に世知辛い話になったな……」
異世界でも組織というものは、どうやら名称と建前を大切にするらしい。
妙なところだけ文明の普遍性を感じた。
もっとも、とおるとしては合同任務の名称より、今後の自分に何が待っているのかという問題のほうが切実だった。
「ちなみに……」
嫌な予感を覚えながら、とおるはおそるおそる尋ねる。
「今日はもう診察だけ受けて、続きは明日にするとか」
「診察はちゃんと今日受けろ」
「そこは分かってます。その後の話です」
「その後に新人全員でミーティング。一時間ほどだ」
「一時間」
「それから紅椿へ移動して、向こうへの挨拶と合同訓練の概要説明」
「……はい」
「報告書と始末書については、今日中に書けるところまで進めろ。遅くとも明朝までに下書きを提出」
「…………」
「何だ、その顔は」
「いえ」
とおるは返事をしながら、頭の中へ今後の予定を並べてみた。
まず医務室。
そこでミレイユは傷の処置。
自分は魔力疲労と右目の診察。
おそらくエルネがいるので、右目については診察だけで済まず、何らかの能力検査へ発展する可能性が非常に高い。
そこから新人を集めて一時間のミーティング。
終わったら紅椿の隊舎へ移動。
挨拶。
合同訓練についての説明。
そして帰ってきたところで、報告書。
さらに始末書。
今日中に終わらなければ、明日の朝まで。
予定が、一つ。
また一つ。
さらに一つ。
とおるの目の前へ、見えない積み木のように積み上がっていく。
いや、積み木ならまだいい。
積み木は嫌になれば崩せる。
これはどちらかというと、前世でたまに見かけた、役所や税務関係から届く妙に厚みのある封筒に近かった。
一枚めくれば次の手続きが現れ、その説明を読めば別の書類が必要だと判明し、ようやく最後まで辿り着いたと思ったところで「なお、以下の場合は別途申請が必要です」という一文が待っている、あの逃げ道を丁寧に塞いでくる種類のやつだ。
とおるの脳内で、どこからともなく真っ白な予定表が開かれた。
そこへ見えない役人の手が現れ、
医務室。
ぺたん。
能力検査。
ぺたん。
新人ミーティング。
ぺたん。
紅椿訪問。
ぺたん。
合同任務説明。
ぺたん。
報告書。
ぺたん。
そして最後に、ひときわ力強く。
始末書。
どん。
「……クラリッサさん」
「何だ?」
「異世界って、もっと自由だと思ってました」
クラリッサの眉が寄った。
「何の話だ」
「こっちの話です……」
剣と魔法がある。
空には巨大な世界樹がそびえ、魔獣が大地を歩き、人間には前世では想像もしなかった力が宿っている。
それなのに結局、予定表と提出期限からは逃げられない。
前世では会社勤めをしていたわけでもないというのに、どういうわけか社会の歯車というものだけは世界を越えて先回りし、「ようこそ」と言わんばかりに、とおるの入る隙間をきちんと空けて待っていた。
「クラリッサさん、俺、昨日まで災害級魔獣の幼体を抱えて、めちゃくちゃやばいやつらに遭遇して、やっとの思いで王都まで戻って、最終的に隊長に叱られたんですが」
「だから診察を受けるんだろう?」
「休養という選択肢は」
「診察後に椅子へ座れるじゃないか」
「それは休養じゃなくて着席です」
「似たようなものだ」
「相変わらず労働環境の定義がだいぶ強めですね」
クラリッサは軽く笑い、ミレイユへ視線を向けた。
「ミレイユ、お前も顔がだいぶ暗いぞ。隊長に叱られたくらいで人生が終わったような顔をするな」
「くらいではありません。リディア様に、私は……」
「失敗をした時にこそ前を向かないでどうする。報告書を書けと言われたらそれで終わりだ。そもそも隊長は、期待していない人間をわざわざ叱ったりなんかしない」
ミレイユがまた少しだけ固まった。とおるはさっき自分が踏み抜いた地雷をクラリッサが普通に道として渡っていくのを見て、経験値の差を痛感する。同じ言葉でも言う人によって刃になったり包帯になったりするのだろうが、自分のはたぶん…刃の形をしたただの絆創膏だった。
「……はい」
ミレイユは小さく頷いた。完全に立ち直ったわけではないけれど、先ほどまでの「私はもう終わりだ」という空気は少しだけ薄れているみたいだった。代わりに彼女の顔へ新しい緊張が差してきたが。
「来月の合同任務……今度こそ失態は許されない……」
「新しい落ち込み先を見つけないでください」
「落ち込んでなどいない。ちゃんと備えているんだ」
「その顔で言われても説得力が弱いです」
クラリッサは二人を見比べ、楽しそうに肩をすくめた。
「まあ、二人とも新人らしくていいじゃないか。失敗して叱られて書類を書いて、また任務へ出る。聖騎士なんてそんなものだ」
「夢がない」
「夢だけで民は守れないからな」
「正論が多い日だ……」
とおるはもう何かを言い返す気力さえなくなって、しばらく天井を見上げた。
白華隊本部の廊下は今日も腹立たしいほど清潔で、磨き込まれた天井にも壁にも埃らしい埃は見当たらず、窓の向こうでは世界樹から零れる淡い光が風に揺れる枝葉を透かして穏やかに明滅している。
初めて王都へやって来た頃なら、こんな景色を目にするだけで足を止めていた。
空を覆うほど巨大な世界樹、その恩恵を受けて築かれた王都、歴史ある聖騎士団の本部――何もかもが前世の常識から遠く、建物の中を歩いているだけなのに、自分が途方もない物語の世界へ迷い込んだような感覚があった。
それが今ではどうだろう。
世界樹の神秘的な光景へ、医務室、能力検査、新人ミーティング、合同任務、紅椿への挨拶、報告書、始末書という、夢も浪漫もかなり薄めの現実が一枚ずつ丁寧に重ね塗りされ、異世界生活という壮大な絵画を、予定表という名の事務用品が着実に侵食しつつある。
「……俺、何しに異世界へ来たんだろ」
「急にどうした?」
「ちょっと人生について考えてました」
クラリッサが怪訝そうに振り返ったが、とおるは「お気になさらず」と片手を上げて話を終わらせた。
勇者の壁。
村の子供にそう呼ばれた時は、もっとこう――敵の大軍を一人で食い止めるとか、仲間の前へ立ちはだかって絶体絶命の一撃を受け止めるとか、そういう勇壮な役割を想像していた。
現実に目の前へ立ちはだかっているのは、予定表の壁である。
しかも分厚い。
いつもの三枚制限ではとても受け止めきれそうにない。
「ほら、行くぞ」
立ち止まりかけたとおるを促すように、クラリッサが顎で廊下の先を示した。
「まずは医務室だ。エルネが待っている」
「……やっぱり待ってるんですか」
「ああ」
「ちなみに、どういう感じで?」
「測定器を磨いていた」
「怖い情報を、天気の話みたいに出さないでもらえます?」
「安心しろ。痛くしないようには頼んである」
「今の発言、『たぶん』が抜けてません?」
クラリッサは少し考えてから答えた。
「エルネ本人は付けていたな」
「でしょうね!」
「『たぶん痛くないと思います』と言っていた」
「全文にしたら余計に怖くなったんですけど!?」
「何事も正確に伝えたほうがいいだろう?」
「そういうところだけ報告書の精神を持ち込まないでくださいよ!」
クラリッサが声を上げて笑った。
その横で、不意に小さく息が漏れる。
「……ふっ」
とおるが振り向くと、ミレイユが口元へ手を添えながら視線を逸らしていた。
「今、笑いました?」
「笑っていない」
「いや、絶対笑いましたよね?」
「気のせいだ」
「俺、右目は怪しいですけど耳はまだ正常ですよ」
「なら医務室で一緒に診てもらえ」
「そこまでして認めないんですか」
返事はなかった。
けれど、ほんのわずかに緩んだ口元までは隠しきれていない。
とおるはそれ以上追及せずに前へ向き直った。
まだ完全に立ち直ったわけではないのだろう。
ミレイユの中には任務中の失敗が残っているだろうし、リディアから指摘されたことも、これから書かなければならない始末書も、簡単に頭から追い出せるものではない。
おまけに来月には合同任務が控えていると知ったばかりで、彼女の性格を考えれば今頃すでに頭のどこかで「それまでに改善すべき課題一覧」の一項目めを書き始めている可能性すらあった。
それでも。
こうして人のくだらない会話へ反応してほんの少しでも笑えるのなら、たぶん今はそれでいい。
少なくともこのまま廊下の隅へ沈み込み、床板の木目と同化する予定はなさそうだった。
「ミレイユ」
「何だ」
「医務室までちゃんと歩けそうです?」
「誰に言っている」
返ってきた声には、先ほどよりわずかに力がある。
「お前こそ、診察前に倒れるなよ」
「大丈夫です。俺にはまだ、エルネさんの測定器から逃げるという大事な仕事が残ってますから」
「逃げるな」
「さっきまで落ち込んでた人が急に正論側へ戻ってきた……」
「私は最初からこちら側だ」
「じゃあ俺は何側なんですか」
「診察される側だ」
「逃げ場がない」
「最初からそう言っているだろう」
そうして二人は、本来なら傷の手当てを受けるだけだったはずの医務室へ向かってクラリッサの後ろを歩き始めた。
任務は終わった。
敵との戦闘も終わった。
グラド・バルムの幼体はひとまず命を繋ぎ、アスカもルーデン谷へ残っている。
ならば王都へ帰還した自分たちに待っているのは休息――などという都合のいい話にはならず、むしろ戦場では見えなかった予定表という名の壁が帰還と同時に姿を現し、正面から堂々と道を塞いでいる。
医務室。
検査。
会議。
紅椿。
報告書。
始末書。
数えてみれば、三枚どころではない。
――壁役なのに、壁に追い詰められてるな、俺。
我ながらどうなのだろうと思いつつ、とおるは胸の奥でせめて最初の関門くらい穏便に終わりますようにとひっそり祈った。
どうか今日のエルネが、研究者としてではなく医療従事者として自分を見てくれますように。
どうか磨いているという測定器が、見た目ほど怖い用途ではありませんように。
できることなら、「ちょっと珍しい反応が出たので追加で測りましょう」などという、患者にとって一つも嬉しくない研究者特有の台詞を聞かずに済みますように。
もちろん、神殿庁で教えられるような正式な祈りではない。
前世の日本で病院の待合室に座り、手の中の番号札を何度も確認しながら「頼むから大したことありませんように」と願っていた時とまったく同じ、信仰心より不安を原料として発生するひどく小市民的で切実な祈りだった。
やがて廊下の先に、医務室の扉が見えてくる。
クラリッサは迷うことなくそこへ向かう。
ミレイユも歩みを止めない。
とおるだけが、扉まで残り数歩というところでほんの少し歩幅を狭めた。
「……クラリッサさん」
「何だ」
「最後に一つだけ確認していいです?」
「内容による」
「エルネさん、その測定器……何台くらい磨いてました?」
「三台だ」
「…………」




