第63話 始末書の向こう側で何かが開いているんですけど
「それで、結局、連れて帰れなかったのか」
王都アルヴェリオンへ戻ってから最初に浴びたリディア・アルヴェインの声は、剣でも魔法でもないのに、とおるの背骨の真ん中あたりへ大変正確に突き刺さった。白華隊本部の執務室はいつも通り整っている。磨かれた床、白い花紋の入った壁掛け、机上に積まれた書類、窓から差し込む世界樹の淡い光、そのすべてが「ここは文明的な組織の中です」と主張しているのに、そこで行われているのは崖下で災害級魔獣の幼体を取り上げ、村へ預け、問題児を現地へ置き去りにした新人聖騎士と若手騎士の事情聴取である。文明的というより、文明が頭を抱える現場だった。
「あの、連れて帰れなかったというより、連れて帰るほうがたぶん行政的にも生態的にも胃腸的にも危険でして……」
「胃腸的?」
「主に俺のです」
「そこは報告から削れ」
「はい」
とおるは即座に頷いた。反論する意志はあった。王都へ戻る道中では、一応それなりに考えていたのだ。魔獣であっても命は命です、とか、幼体はまだ危険性がありません、とか、村の協力も得られました、とか、アスカさんが残ったのには必要性がありました、とか、そういういかにも筋の通っていそうな言葉を胸の中に何枚も並べておいた。ところが、いざリディアが眉間へ深い皺を刻み、白銀の鎧よりなお硬い声音で問い詰めてくると、それらの主張は突然湿気を吸った安物の紙みたいにへにゃりと曲がり、手元で使い物にならなくなっていく。圧が違う。隊長の圧である。しかも、善悪の話ではなく任務と責任の話をされる時の圧は、精神的な耐圧試験としてかなり高度だった。
隣のミレイユも、いつものような歯切れの良さを失っていた。普段ならとおるの言葉の不足を容赦なく補正し、礼儀、規則、戦術、体幹の使い方に至るまできっぱりと指摘してくる彼女が、今は背筋だけは真っ直ぐなのに、視線が妙に定まらない。理由は分かる。リディアの前である。白華隊内でもかなり熱心なリディア崇拝者に分類されるミレイユにとって、隊長の前で失敗を晒すことは、普通の叱責以上に精神へ来るのだろう。要するに、尊敬する相手の前で格好悪いところを見せたくない。とても分かりやすい。分かりやすいぶん、横から見ると少し面白い。
「ミレイユ。お前からも説明しろ」
「は、はい。つまり、その、現地状況は当初の想定と大きく異なっておりまして、アスカ・カグラードの任務不履行というよりは、任務対象である城甲獣グラド・バルムの生態的、いえ、妊娠状態に起因する作戦目的の再定義が必要となり、そこで壁山とおるの境界、及び私の白雷、アスカの空蝉を用いた非殺傷誘導を実施し、その後、敵性刻印者の攻撃により母体が致命傷を負い、さらに胎仔の救出という予期せぬ処置へ移行した結果、現場維持の必要性が発生しまして――」
「落ち着け」
「はい」
ミレイユが沈黙した。早かった。ものすごく早かった。とおるは横目で彼女を見る。彼女は唇を結び、こちらへ肘を小さく当ててきた。お前が言え、という大変分かりやすい合図だった。なるほど、尊敬する隊長の前で支離滅裂になるくらいなら、隣の異世界人を前面へ押し出す作戦らしい。戦術としては冷静だ。友情としてはやや危険である。
「あの、つまりですね。まずアスカさんを回収する任務として見ると、ええと、その……結果的に回収は、未達成です」
「分かっている」
「ですよね」
「私は、その未達成に至った判断を聞いている」
「はい」
とおるは一度だけ深く息を吸った。ここで「幼体が可愛かったので」などと言えば、たぶん白華隊員としての初日から終わる。正確にはもう初日ではないかもしれないが、気分としてはまだ新人研修期間中なので、即日で人事評価に傷をつけるのは避けたい。
「アスカさんが残った理由は、グラド・バルムの幼体がまだ安定していなかったからです。ルーデン谷の村は協力してくれましたし、石灰倉も環境としては合っていると思います。ただ、幼体は呼吸へ移行したばかりで、体温も自力では保てず、未発達な杭脚を暴れさせれば自分を傷つける可能性もあります。専門家が着くまで、魔獣に対処できる騎士が一人いたほうが安全だと判断しました」
「その騎士が、そもそも王都へ連れ戻す対象であったとしてもか」
「……はい」
「その場に留まる許可を、お前たちは誰から得た」
「現地判断で……」
「便利な言葉だな」
「はい、今、自分でもかなり便利に使った自覚があります」
とおるは素直に白状した。リディアの瞳が少しだけ細くなる。叱責が深くなる前兆だ。ミレイユがさらに小さくなった気がした。白華隊の騎士が実際に縮むわけではないのに、雰囲気だけなら身長が三センチくらい減って見える。
リディアは机の上へ置かれた報告書の下書きを指先で押さえ、ゆっくりと口を開いた。
「アスカ・カグラードへ与えられていた任務は、旧街道を塞いだ城甲獣の討伐、及び通行障害の排除だ。状況確認の結果、妊娠個体であり、殺傷以外の手段で排除可能と判断したことは理解できる。そこまではいい。お前たちが協力し、非殺傷誘導を行ったことも、結果だけを見れば評価できる部分はある」
意外な言葉に、とおるは少しだけ顔を上げた。ミレイユも同じく反応しかけ、すぐに表情を引き締める。リディアは当然、そこでは終わらない。
「ただし、その後だ。敵性勢力との交戦、母体の死亡、幼体の救出、村への搬送。いずれも緊急性があり、現場で判断すべき要素があったことは認める。けれど、任務の目的はそこで変わった。旧街道の障害をどう扱うかではなく、敵性組織の出現、未知の刻印、災害級飛行魔獣三体、〈Ⅳ-1〉と見られる人物、王国領内へ侵入した正体不明の集団。これらの情報を王都へ持ち帰ることが最優先になった」
「はい……」
「その時点で、アスカを現場に残すべきではなかった。少なくとも本来の指揮系統から見れば、そう判断される」
リディアの声音は冷たいというより、正確だった。感情を混ぜていないからこそ逃げ道が少ない。とおるは「命がかかっていたんです」と言いたくなる。言いたくなるし、実際に間違ってはいないと思っている。けれどリディアが見ているのは、そこだけではない。
「聖騎士は魔獣愛護のための私的な慈善団体ではない」
言葉が、机の上へ静かに置かれた。
「王国を守護する立場の者が胸に期すべきは、まず国の安全と秩序を守ることだ。民衆の生活、交通、治安、情報の連絡、危険の封鎖、それらを維持するために我々は剣を取る。目の前の命を軽んじろと言っているのではない。守れるものを守るためには、何を最優先にし、どこまでを自分の権限で判断し、どこから先を上位へ返すべきかを誤るなと言っている」
とおるは言葉を失った。
魔獣であっても命は命だ、と言うつもりだった。それは本心だ。実際、あの幼体の小さな胸が持ち上がった時、自分は間違っていなかったと思った。ところがリディアは、その命を否定していない。否定していない上で、騎士の責任を突きつけてくる。これはずるい。いや、ずるくはない。正しい。正しいぶん、反論がしにくい。真正面から来る正論は、盾で受けても腕が痺れる。
「仮に、あの幼体が夜半に暴れ、村人へ被害を出したら誰が責任を持つ」
「……俺たちです」
「違う」
即答だった。
「最終的には王国だ。白華、紅椿、軍務府、魔獣管理局、村の行政責任者、すべてが関わる。お前たち個人が反省して終わる話ではない。幼体が成長した後の扱いも同じだ。保護するのか、管理下に置くのか、野へ返すのか、危険個体として処分対象にするのか。その判断は一騎士の情だけで決められない」
「……はい」
「アスカが残ったことで、村人が安心する部分はあるだろう。そこも否定しない。だが、彼女は紅椿の騎士であり、今回の件の重要な証言者でもある。本来なら、お前たちと共に王都へ戻り、直接報告すべきだった」
ミレイユが、とうとう深く頭を下げた。
「申し訳ありません。私が指揮判断を誤りました」
「お前だけの責任ではない」
「しかし、現場で白華側の上位判断を担っていたのは私です。とおるは実質的に処置を維持しており、アスカは幼体対応に意識を割いていました。私が、より強く帰還を命じるべきでした」
言い切ったミレイユの声は真面目だった。真面目すぎて、ほんの少し震えていた。リディアの前で失敗を認めることは、彼女にとって相当つらいのだろう。とおるは思わず口を挟みそうになる。そこでリディアの視線がこちらへ向き、挟みかけた口が自然と閉じた。人間、視線だけで「今は黙れ」と言われると、本当に黙れるものらしい。
そこへ、横で椅子の背にもたれていたゾロ・スネイブルが、柔らかい笑みを浮かべながら手をひらひらと振った。
「まあまあ、リディア。二人とも無事に帰ってきたし、幼体も生きている。アスカが残ったのも、いつもの“面倒事を放り投げて遊びに行った”類とは違うでしょう? 気持ちくらいは分かってあげてもいいんじゃない?」
「気持ちは分かる」
リディアは即座に言った。
「分かった上で、叱っている」
「真面目ねえ」
「お前が真面目でなさすぎるだけだ」
「ひどい」
「ひどくない」
ゾロは肩をすくめた。紅椿の元白華第三席であり、アスカの気質もよく知っている彼女は、完全に二人を庇うつもりでいるらしい。とはいえリディアの表情は少しも緩まない。とおるから見ると、ゾロは火災現場に花柄の扇子を持って現れ、「まあまあ煙も風情よね」と言っている人に近かった。ありがたいのか危ないのか判断に困る。
「とおる、ミレイユ」
リディアの声が二人へ戻る。
「お前たちは、何のために派遣された」
とおるは口を開きかけ、閉じた。ミレイユも黙っている。
「アスカの安否確認と任務状況の確認。必要であれば任務の継続、変更、打ち切りを判断し、王都へ報告するためだ。現場の出来事に飲まれ、目的を見失うな。守るべき命を見つけたことは、お前たちの失敗ではない。そこへ手を伸ばしたことも否定はしない。けれど、騎士は手を伸ばした後の責任まで見なければならない」
リディアの声は低く静かで、鋼を布で包んだような響きを持っていた。大声で怒鳴られているわけではない。机を叩かれているわけでもない。「貴様ら、何をしている!」と雷のように叱責されているわけでもない。それなのにとおるの背筋は王都騎士団の訓練場で冬の朝に水を浴びせられたかのように、勝手にぴんと伸びていた。
その言葉は確かに叱責だった。けれど不思議なことに、完全に逃げ場を塞ぐための叱責ではなかった。むしろ行き当たりばったりで崖の端まで走ってしまった二人に対して、「そこは足場ではない、こちらへ戻れ」と冷静に道を示してくれるような厳しさの中に最低限の退路を残した言葉でもあった。
自分たちがしたことのうちでどこが許され、どこが危険だったのか。
どこに騎士としての判断があり、どこに未熟さがあったのか。
誰かを守りたいという感情は間違いではないが、その感情だけで組織の任務を押し流せば、結果として別の誰かを危険に晒すことになる。リディアはそれを感情論でも精神論でもなく、刃物で紙を切り分けるように淡々と、しかし容赦なく仕分けていた。
とおるは、これが隊長という立場に立つ人間の威厳なのだと思った。正直に言えばかなり怖い。前世で言うなら面談評価の席で上司から「君の努力は認めるが、判断手順に重大な問題がある」と穏やかに言われるタイプの怖さであり、怒鳴られていないぶん、こちらの逃げ道が「感情的に反発する」という方向へも伸びておらず、心拍数だけが健康診断の基準値を軽やかに飛び越えていくような怖さだった。
けれどただ怒られているだけではない。
そこが、逆に逃げられないほど重かった。
「部屋を出たら、まず治療を受けろ。ミレイユ、お前は傷を悪化させるな。とおる、お前は魔力疲労と右目の症状をエルネに確認させる」
「エルネさんに?」
「そうだ」
「痛くしません、たぶん、って言われそうで怖いんですけど」
「言われても受けろ」
「はい……」
「その後、二人で報告書を書く。事実、時系列、判断理由、能力使用の詳細、アスカ残留に至った経緯。主観と比喩を減らせ」
「俺への指示が具体的すぎません?」
「自覚があるなら直せ」
「はい……」
リディアは最後に、ミレイユを見る。
「ミレイユ」
「はい」
「しょんぼりするな」
「していません」
「している」
「……はい」
面白いくらい、ミレイユの肩が落ちた。とおるは横で「リディアさん、そこまで見えてるんだ」と変な感心をする。尊敬する相手から失敗を指摘され、なおかつ感情まで見抜かれるのは、かなりきついはずだ。自分ならもう床の木目になりたい。
「叱責は以上だ。行け」
「はい」
二人は揃って頭を下げ、執務室を出た。廊下へ出た途端、ミレイユが壁へ片手をついた。
「……私は終わった」
「終わってませんよ。始末書が始まります」
「やめろ」
「すみません」
「リディア様の前で、あれほど醜態を……」
「俺なんて胃腸的とか言いましたよ」
「比較するな。お前は元からそういう枠だ」
「そういう枠って何ですか」
ミレイユは答えず、脇腹を押さえながら廊下を歩き出した。その背中は、いつもより少しだけ小さい。とおるはため息をつきながら後を追う。新人聖騎士としての初仕事が、敵性組織との遭遇、災害級魔獣幼体の緊急保護、上官からの説教、医務確認、報告書、始末書のフルセットである。配属後のオリエンテーションとしては、あまりにも盛り込みすぎだった。会社なら初日にこれをやった人事部は、翌日から新人採用ページを閉じるべきだと思う。
二人の足音が廊下の向こうへ消えると、執務室には静けさが戻った。
ゾロは椅子へ深く腰を預け、先ほどまでの柔らかい笑みを少しだけ薄める。リディアも机の上に置かれた報告書の下書きを閉じ、別の資料束へ手を伸ばした。新人二人へ説教を浴びせていた時の熱はもうない。そこにいるのは、白華の隊長と紅椿の古参騎士だった。
「ずいぶん厳しかったわね」
「甘くできる話ではない」
「分かっているわ。けれど、あなたに叱られたミレイユの落ち込み方、ちょっと記録に残したいくらいだった」
「セレナに言うな」
「言わないわよ。たぶん」
「言うな」
「はいはい」
ゾロは軽く笑い、すぐに机上の資料へ視線を落とした。
「それで、本題はこっちね」
「ああ」
リディアは赤い紐でまとめられた機密資料を開いた。星の塔地下で確認された黒フード個体。南部旧街道で出現した〈Ⅳ-2〉リエナ・エルゼヴァル、〈Ⅳ-4〉ヴァルガ・ローディス、〈Ⅳ-7〉ノエ・バルカント。そして新たに確認された、桜色の髪を持つ〈Ⅳ-1〉の男。資料の端には、ノクス・ヴァルドレインによる暫定照合報告の写しも置かれている。
「星の塔の一件もそうだが、センターブルーではない」
リディアは言った。
「少なくとも、既知の軍用魔導兵、改造体、諜報術式とは異なる。センターブルーが隠し札を持っていないとは言わない。けれど今回の刻印者たちは、思想も術式体系も、もっと古いものに見える」
「犯罪組織と呼ぶには規模が大きい。国家と呼ぶには形が見えない。宗教結社と呼ぶには、信仰より実験の匂いが強い」
ゾロは資料を一枚めくる。そこには、各地から上がってきた断片的な報告が並んでいた。
北西部の廃鉱で確認された、見たことのない古代刻印を持つ集団。
東方交易路の監視所が記録した、通常の魔力転移とは明らかに異なる黒い断層現象。
南部丘陵で発生した複数の星骸獣と、その周辺に残されていた人為的な術式痕。
海峡方面では、センターブルーの工作員を追跡していた王国諜報部が「第三国にも所属記録のない人間数名が、戦闘を一切行わず、壁面そのものへ溶けるように消失した」と報告している。
最初の頃、それぞれは別件として扱われていた。地方の魔獣被害や遺跡荒らし。密輸路の転移術式やセンターブルー関連の偽装工作。そのくらいなら、王国では珍しい話ではない。広い国土を持つ国家に怪しい事件など山ほどある。
ところが数が積み上がるにつれ、それらを別件として扱うことのほうが不自然になり始めた。
服装は違うし、人数も違う。使用術式も統一されていない。火を扱う者、水を扱う者、巨大な魔獣を従える者、純粋な術者として活動する者。表面だけ見れば“一つの組織”として結びつけるほうが強引に思える。
にもかかわらず、どこかに同じ種類の痕跡が残る。
王国文字ではない古代文字。数字とも階級章とも取れる刻印。星の塔地下で確認された黒フード個体と共通する、金属を擦り合わせたような異質な魔力波。そして、彼らが出入りした場所の一部で観測される黒い断層。
「王樹中枢院内部では、すでに〈連続異相案件〉として監視項目へまとめ始めている」
「表向きには?」
「まだ公表していない」
「当然ね」
ゾロは椅子へ深く腰を預け、脚を組み直した。
「正体不明の集団が、各地の古代遺構や魔獣生息域を調べて回っています。ついでに異空間の裂け目まで出入りしています、なんて発表したら、王都の新聞屋が三週間は寝なくなるもの」
「新聞屋で済めばいい」
「商会は輸送路を変えるでしょうし、地方領主は私兵を増やすでしょうね。センターブルーは王国側の内乱の兆候として利用するかもしれない」
ゾロは肩をすくめる。机の上に置かれた資料は整理されているようでいて、その実どれも断片的だった。東部第七監視所の証言書。地方魔導官による断層発生時の魔力波形。採取された黒色結晶片の分析結果。目撃者による人相書き。刻印の写し。古代文字研究局から戻ってきた「現行王国語体系との直接対応なし」という簡潔すぎる回答。さらにその下には、星の塔関連の機密資料まで重なっている。
個別に見れば意味を持たない情報。
並べれば、薄い輪郭が見える。
そしてその輪郭は、誰かが何かを探しているようにも見えた。
「それで――」
リディアは星の塔関連資料の下に重なっていた別の綴じ束へ指を掛け、赤い紐をほどきながらページを机の中央へ滑らせた。
「こちらも無視できなくなってきた」
表紙へ記されていたのは、王国生体災害監理局、王宮魔導院、複数の地方行政区から上げられた合同報告書だった。
表題は簡潔である。
〈星骸獣異常出没事案・第四次集計〉。
ゾロの表情から、わずかに笑みが薄れた。
——星骸獣。
その名は、王都の市民が日々の暮らしの中で耳にするほど一般的なものではなかった。
魔物を生業として扱うハンターでさえ、地方によっては一度も実物を見ないまま引退する者のほうが多く、まして商人や農民にとっては、遠い土地でたまに起こる不可解な魔獣被害へ学者たちが難しい名前をつけた、という程度の認識しかない。王国が正式な分類名として〈星骸獣〉を採用したのも比較的新しく、古い地方記録を探せば〈灰喰らい〉〈亡者獣〉〈星落ち〉〈虚ろ歩き〉といった、それぞれまったく別の怪異として記録されていた例がいくつも見つかる。
そもそも、この世界で〈魔物〉と呼ばれる生命の大半には、それなりに説明のできる生物としての連続性が存在する。
火霊素の濃い火山帯へ適応した獣は体内へ高熱を蓄える魔核を発達させ、水辺へ棲む魔物は水霊素を利用して呼吸や体温を調節し、地脈に近い洞窟で世代を重ねた生物は環境魔力を取り込むための特殊器官を獲得する。人間から見れば角が三本あろうが炎を吐こうが、学者が解剖してみれば骨があり、血管があり、臓器があり、親から子へ形質を受け継ぐ仕組みも存在する。奇怪ではあっても、生物なのである。
星骸獣には、その「生物として当然あるはずの順序」が通用しない。
最初に研究者たちを困惑させたのは、死体だった。
討伐された星骸獣の中には、外見だけを見れば獣類と大差ないものもいる。四肢があり、牙があり、呼吸らしき動きをし、傷つけば液体を流す。ところが解体すると、本来あるべき場所に心臓がなかったり、消化器官が途中で途切れていたり、左右でまったく異なる骨格構造を持っていたりする。さらに奇妙な例になると、死後数時間以内に肉体そのものが灰白色の粉末へ崩れたり、黒く透き通った結晶片へ変質し、通常の生体組織をほとんど残さないことさえあった。
そして何より異質なのが、魔力のあり方である。
通常の生命はまず肉体が存在し、その肉体へ沿うように魔力回路が形成される。血管や神経が身体という器の中に走るのと同じように、魔力もまた生物の構造へ従って流れるものだと長く考えられてきた。
星骸獣の場合、その関係が逆転しているように見える。
身体の中心には魔核ですらない、極端に濃密な〈魂位相反応〉が先に存在し、骨、筋肉、皮膚、魔力回路といった肉体構造が、その反応を包み込むため後から貼りつけられたような配置を取る。
生き物の中に魂が宿っているのではない。
魂めいた何かの周囲へ、生き物の形が作られている。
王宮魔導院の研究者が残したこの表現は、星骸獣という存在の異常性を説明する言葉として、今では専門家の間で半ば定説のように使われていた。
もちろん、ここで言う〈魂〉が本当に宗教上語られる人間の魂と同一なのかは確定していない。
魔導学における魂位相とは、人格、記憶、生命活動、魔力回路の根幹に関係すると考えられている特殊な波形の総称であり、それ自体を手に取って確かめることはできない。人間が死亡した際にも短時間だけ似た波形が観測されることから便宜上そう呼ばれているにすぎず、神殿庁の教義と魔導院の定義を同じ机へ並べれば、三日三晩では済まない論争が始まるだろう。
それでも無視できない事実が一つあった。
星骸獣の一部から、明らかに人間のものとしか思えない反応が検出されるのである。
討伐直前、意味のない唸り声の中へ人名を混ぜた個体。
誰も教えていない古い童謡の一節を繰り返した個体。
近づいた騎士を見て突然「母さん」と呼んだ個体。
百年以上前に廃絶した地方語で「帰りたい」と呟いたという記録まで残っている。
それらを単なる偶然、あるいは魔物特有の擬態行動として処理する研究者もいる一方、黒蓮や王宮魔導院の一部では、より踏み込んだ仮説が密かに検討されていた。
星骸獣は、かつて人間あるいは何らかの知的生命であった“情報”を、その身体の一部へ含んでいるのではないか。
ただし、元人間がそのまま魔物へ変化したと断定するには証拠が足りない。
一体の星骸獣から複数人分と思われる異なる魂位相が検出された事例もあり、男性の声を発した直後に幼い少女の記憶反応を示した個体さえ存在する。仮に人間由来の何かが含まれているとしても、それは一つの人格がそのまま獣へ変化したような単純な現象ではなく、複数の記憶、生命情報、魔力反応が混ざり合った末、何らかの理由で一個の生命体として固定されたものではないか――現在の研究は、そこまでしか辿り着いていない。
星骸獣が危険視される理由も、その戦闘能力だけではなかった。
個体そのものの強さには極端な差がある。熟練ハンター数名で討伐可能なものもいれば、十二華の出動を検討しなければならない災害級の個体も存在する。その意味では普通の魔物と大きく変わらない。
問題は、星骸獣が長期間滞在した地域に発生する〈周辺異常〉だった。
最初は植物から始まることが多い。
葉の色が抜ける。
樹皮へ黒い筋が浮かぶ。
季節とは関係なく花が枯れる。
土壌そのものに異常がないにもかかわらず、一定範囲だけ作物の成長が鈍る。
続いて動物へ影響が出る。
家畜が食事を拒む。
夜中に同じ方向を見ながら鳴き続ける。
本来なら縄張り争いを避ける魔物同士が異常に攻撃的になる。
渡り鳥が決まった区域だけを不自然に迂回する。
そして一定以上の濃度へ達すると、人間にも症状が現れる。
眠りが浅くなる。知らない場所の夢を見る。自分が生まれるより前の風景を、なぜか懐かしいと感じる。会ったことのない人物の名前を無意識に口にし、死んだ家族の声を聞いたと訴える。
ひどい例では、自分が誰なのかを一時的に認識できなくなり、存在しない故郷へ「帰らなければならない」と歩き出した事例まで報告されていた。
王国生体災害監理局は、これら一連の現象を暫定的に〈星骸汚染〉と呼んでいる。
名称だけを聞けば毒物や伝染病のようだが、実際には血液検査で何かが見つかるわけでも、患者同士で感染が広がるわけでもない。一定範囲を離れれば短期間で症状が消える者も多く、治療術が効く場合と効かない場合まで存在する。魔力中毒、精神汚染、魂位相干渉、そのどれか一つへ分類しようとするほど説明できない部分が増えるため、今のところは「星骸獣周辺で発生する複合異常」という非常に広い括りへ押し込めるしかなかった。
そしてもう一つ。
星骸獣には、繁殖している形跡がほとんど見つからない。
巣はあるし、寝床も作る。
食事をする個体もいる。
縄張りらしき行動まで確認される。
にもかかわらず卵や幼体が確認された事例は極端に少なく、同種個体が群れを形成して子を残している証拠もない。昨日まで何もいなかった森の中へ、ある朝突然成体が現れている。山岳監視所から毎日見渡せる谷へ、数時間のうちに巨大個体が出現している。足跡を追跡しても、ある地点を境に痕跡そのものが消える。
だから研究者たちは長く疑問を抱いていた。
星骸獣は、いったいどこから来るのか。
地下に巨大な繁殖域でも存在するのか。
人間の知らない閉鎖生態圏から移動してくるのか。
古代遺跡の内部で生成されているのか。
あるいは、通常の生物とはまったく異なる仕組みによって、ある日突然「そこへ存在する」ようになるのか。
答えは出ていない。
少なくとも、これまでは。
かつて星骸獣の確認地域には一定の偏りがあった。
人里離れた山岳。
魔素濃度の不安定な荒野。
深い森林。
封鎖された古代遺跡。
大規模な地脈異常が記録されている地域。
つまり普通の人間が積極的に立ち入りたがらない場所である。
年間の確認例も王国全域を通して数件程度。危険ではあるものの、適切な封鎖と討伐さえ行えば局地的な災害として処理できる、というのが数年前までの認識だった。
その前提が、最近になって崩れ始めている。
星骸獣そのものの数が増えた。
それだけなら、生態調査の精度向上によって従来見逃されていた個体が発見されるようになった、という説明も可能だった。
より不気味なのは、彼らが現れる〈場所〉そのものが変わり始めたことである。
古代遺跡から遠く離れた農村。
人通りの多い交易路。
河川沿いの開拓地。
王都の影響圏に近い丘陵。
以前であれば「星骸獣が出現する可能性は低い」と判断されていた生活圏へ、少しずつ黒い点が入り込むようになっている。
そしてその変化と時期を同じくして記録され始めたのが、空間へ現れる正体不明の黒い断層だった。
当初、この二つを結びつける者はほとんどいなかった。
星骸獣は生体災害。
断層は魔導災害。
担当部署も研究分野も異なる。
ところが報告書を一枚ずつ重ね、発生地域を地図へ落とし込み、時間まで含めて照合した時、無視するには少しばかり出来すぎた一致が姿を現し始めたのである。
その事実を示す最新の集計結果が、いまリディアとゾロの間に置かれていた。
「……また増えたの?」
「ああ。しかも単純な目撃件数だけではない」
リディアは報告書を開く。五年前まで、星骸獣の確認例は王国全域を通して年間数件程度だった。その多くは辺境、古代遺構周辺、地脈の乱れが激しい特殊地域に限られ、討伐や封鎖が必要になるほど危険な個体となればさらに少ない。二年前から目撃報告が増え、昨年は前年のほぼ二倍。今年に入ってからは、半期を過ぎたばかりにもかかわらずすでに昨年の年間総数へ迫っている。
「調査体制が整ったことで発見率が上がった、という説明も成り立つ」
リディアは地図を広げた。
「問題は発生地点だ」
ゾロが身を乗り出し、地図上の黒い印を追った。
「古代遺跡の周辺だけじゃない。交易路、農村、河川敷……こっちは王都から近いわね」
「以前は発生しなかった地域だ」
「地脈汚染?」
「黒蓮は否定している。少なくとも、一般的な地脈異常では説明できない」
地図には風の大陸各地へ散らばるように黒点が打たれていた。北の鉱山地帯、東部交易圏、南部丘陵、海峡沿岸、王都外縁。一見すれば規則性はない。けれどその黒点の横には別の記号が添えられている。細い黒線。亀裂を簡略化したような印。ゾロはその一つへ爪先ほどの細い指を置いた。
「この線、さっきの断層報告と一致してる」
「一致率は七割を超えた」
「七割……」
「確定には早い。ただ、偶然で片づけるには高すぎる」
近年確認される星骸獣の出現地点では、その前後数日から数週間以内に奇妙な空間異常が記録される例が増えていた。黒い亀裂に、空間の歪み。突然消失する魔力と、周囲の音が極端に遠のく現象。方位魔導具の誤作動や、生体魔力の位相乱れ。
さらにごく一部の報告には、“地面の亀裂の奥に黒い水が流れているように見えた”という記述まである。もちろんそれは水ではない。採取はできず、触れた物体が濡れた形跡もなく、温度変化さえ確認されていない。それでも目撃者は同じ言葉を使った。流れていた。液体ではない。煙でもない。闇と呼ぶには動きがありすぎる。空間そのものが、どこか別の方向へ流れているように見えた、——と。
「現場では仮称として〈ブラック・ストリーム〉と呼び始めているらしい」
「また物騒な名前を付けたわね」
「正式名称ではない。東部監視所の術式官が報告書にそう書いたのが始まりだ」
「正式名称になるまで、大体そういう経緯よ」
ゾロは軽口を返したものの、視線は資料から離れなかった。
【黒い断層。星骸獣。異常魔力。古代文字。正体不明の集団。】
一件ずつなら関係が薄く見える。並べれば、少なくとも無関係と言い切るほうが難しくなる。
「星骸獣は……“出てくる”のよね?」
「何が言いたい」
「従来の報告だと、気づけばそこにいる例が多かった。森から移動してきた、繁殖地から縄張りを広げた、そういう普通の魔獣みたいな移動経路が曖昧な個体が昔から多いでしょう」
「ああ」
「今回の断層と本当に繋がっているなら、話が変わる」
ゾロは指で地図を軽く叩く。
「どこかに棲息している魔獣がこちらへ移動してきているんじゃない。最初から、こちら側にいなかった可能性が出てくる」
執務室が静かになった。窓の外から、遠く訓練場で鳴る木剣の音だけが届く。リディアは即答しなかった。その仮説はすでに黒蓮や王宮魔導院の一部でも囁かれていたことだが、まだ確証できるような段階ではない。確証がないからこそ公にはできない。公にできないからこそ、現場が後手に回ってしまう。
「東部第三地区で、断層の開口を監視していた術式官がいる」
リディアは資料の後半を開いた。
「開口から約四分後、断層内部から大型星骸獣一体が出現したと証言している」
「見間違いでは?」
「術式記録が残っている」
「映像は?」
「不鮮明だ。魔力波の時系列は一致している。断層発生、空間位相の乱れ、未知のエーテル反応、星骸獣の魂位相反応が地上側へ出現」
「……エーテル」
今度こそ、ゾロから笑みが消えた。
エーテル。王国魔導学にも、その言葉は存在する。ただし日常的な魔力研究で扱う概念ではない。火霊素、水霊素、雷霊素といった属性素子よりさらに深い階層。魔素子そのものが成立する以前の基礎媒体として理論上仮定されている存在であり、現代技術では安定的に採取も保存もできない。古代文明研究者、高位術式研究官、世界樹地脈を専門とする一部学者。そうした限られた領域で扱われる言葉だった。
「測定したのは誰?」
「王宮魔導院東方分院のベレス教授」
「……あの偏屈爺?」
「知っているのか」
「講演を三時間延長して聴衆を半分逃がした人」
「研究能力と講演時間に相関はない」
「少なくとも人間性との相関はありそうね」
軽い言葉を挟んだものの、ゾロはすぐ資料へ視線を戻した。ベレスほどの研究者がエーテルと記したなら、現場の若い術者が未知の魔力を大袈裟に表現したのとは意味が違う。
「世界樹との関連は?」
「まだ不明だ」
「本当に?」
リディアがわずかに目を細める。
「何が言いたい」
「魔素子の基礎媒体としてエーテルを仮定するなら、世界樹を避けて考えるほうが難しいでしょう」
世界樹は宗教的象徴であると同時に、巨大な地脈安定装置としても認識されている。その根は風の大陸地下へ広範囲に伸び、周囲の魔素濃度、土地の生命力、術式安定性へ明確な影響を与えている。王都が大陸最大級の人口を抱えながら巨大結界を維持できるのも、世界樹周辺に存在する安定した地脈があってこそ。
世界樹が魔力を作っているのか。
魔力を集めているのか。
地中に存在する何かを変換しているのか。
その仕組みは、現在でも完全には解明されていない。
「星骸獣の発生地点を世界樹の根系図へ重ねてみた研究班がある」
リディアが別紙を取り出した、半透明の薄紙。風の大陸全土を描いた地図の上へ世界樹から延びる推定根域が銀色の線として記されている。そこへ星骸獣発生地点を重ねると、ゾロは数秒だけ無言になった。
「……根と根の間が多い?」
「正確には主要根域の境界部だ」
世界樹の根が最も密集する場所ではない。
複数の根域が交差する周辺。根の影響圏と影響圏の境界。地脈が複雑に枝分かれし、魔素子の流れが入れ替わる地域。
星骸獣と黒い断層の報告は、そうした場所へ偏る傾向を示していた。
「世界樹そのものが原因とは限らない」
リディアは釘を刺す。
「当然」
「根が何かを押さえている可能性もある」
「あるいは、何かを通している」
「……」
「怒らないで。ただの仮説よ」
「怒っていない」
「眉間」
「元からだ」
「便利な言い訳ね」
ゾロは微笑みつつも、内心では別の可能性を考えていた。世界樹が地中の魔素を安定させている。それは常識。ならばそのさらに下にあるものは何なのか。世界樹が安定させる前。魔素子へ変換される前。形や属性を与えられる前。もしそこに別の層が存在するなら、黒い断層は単なる異世界への入口ではなく、普段は地上から切り離されている星の深層構造が一時的に露出した現象なのかもしれない。
そして星骸獣が、そこから現れる。
「……嫌な話ね」
「何がだ」
「星骸獣が外から来る怪物なら、まだ分かりやすいのよ。でも、もしあれがこの星の内側から出てきているなら、討伐するだけでは終わらないわ」
出口を塞いでも別の場所が開く。一体を倒しても、また別の個体が出る。根本原因が世界規模の循環異常であれば、騎士団が剣を振るうだけではどうにもならない。
「現時点では仮説だ」
「その仮説を証明してくれそうな連中が、黒い断層へ自由に出入りしている」
ゾロは東部地区の報告書を持ち上げた。〈Ⅸ〉の刻印を持つ複数名。追跡班の眼前で黒い断層へ入り、消失。その後、断層は約十三秒で閉鎖。周辺に転移術式の残滓なし。空間転送に必要な座標固定痕なし。既存魔法体系では説明不能。
「彼らはあれが何なのか知っている」
ゾロの声から、普段の艶やかな軽さが消えていた。
「少なくとも、私たちよりは」
「ああ」
「通れる場所だと知っている。出口があることも。おそらく、中で生きられることも」
「だからこそ問題だ」
リディアは椅子へ深く腰を預けることなく、背筋を伸ばしたまま資料を閉じた。
「敵対組織が王国領内に秘密の移動経路を持っているだけでも重大事案だ。ましてその経路から星骸獣まで現れる可能性があるなら、話は軍事だけでは済まない」
災害。生命汚染。国家安全保障。古代文明。世界樹。どの部署の管轄へ入れるべきかさえ定まらない。だから〈連続異相案件〉という意味だけは広く、何も説明していない仮称が使われているのだろう。
「王樹中枢院は?」
「近日中に十二華隊長を含めた対策会議を開く」
「全隊?」
「少なくとも関連隊は招集される。黒蓮、灰百合、蒼菫、金蘭。それに我々白華もだ」
「黄棘は?」
「星骸獣の出没件数次第では」
「……随分大きくなったわね」
「最初から大きかったのかもしれん」
リディアは淡々と答えた。
「我々が、気づいていなかっただけで」
窓の外で風が鳴った。
——王都アルヴェリオン。
世界樹の根元に築かれたこの巨大都市は、今日も何事もなかったように動いている。
市場には人が集まり、工房では槌が鳴り、巡回騎士が通りを歩き、子供たちは世界樹の影の下を走っている。
その遥か地下に何があるのか。
黒い断層の向こうに何が流れているのか。
星骸獣はどこから来るのか。
まだ、誰も知らない。
少なくとも、地上で暮らす大多数の人間は。
「ところで」
ゾロは椅子へ背を預け直した。
「とおる君には?」
「何がだ」
「この話」
「まだ伝えない」
「でしょうね」
「不確定情報が多すぎる。それに、あいつは妙なことへ首を突っ込むからな」
「本人はむしろ逃げたい人でしょう?」
「逃げようとしているのに、事件のほうから寄ってくるんだ」
「それは否定できないわね」
ゾロはくすりと笑った。リディアはつられて笑うようなこともなく、机の端に置かれた一枚の報告へその鋭い視線が向いていた。
先ほどとおるが説明した旧街道での出来事——
桜色の髪、右手の甲へ刻まれた〈Ⅳ-1〉。わずかな言葉だけで三人の身体を完全停止させた、未知の術式。
彼は最後に、王樹十二華騎士団を見て言ったという。
『知っているとも言えるし、知らないとも言える。』
その言葉が、リディアの中へ小さな棘のように残っていた。敵は十二華を知っている。いや、十二華そのものではなく、十二華になるより前に存在した何かを知っている。
世界樹。
星の塔。
黒い断層。
星骸獣。
古代刻印。
数字。
そして、十二。
まだ、どれも一つにはならない。それでも世界のあちこちへ散らばっていた異常が、ゆっくりと同じ方向へ流れ始めている。その流れの先に何があるのか。リディアにはまだ分からない。ただ一つ、騎士として確信できることがある。
これ以上、知らないままではいられない。
そして彼女たちがそう考え始めた頃にはすでに、王国の別の地域で、新たな黒い断層が静かに開き始めていた。




