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第67話 世界樹の枝


挿絵(By みてみん)




 白華隊と紅椿の合同訓練が正式に始まってから、とおるの生活から「ほどほど」という言葉は、かなり早い段階で荷物をまとめ、誰にも行き先を告げないまま出ていった。


 最初の日、とおるはまだ、サーシャ・ラインハートが口にした「低速」という言葉をどこかで信じていた。紅椿基準という不穏な注釈こそ付いていたものの、低速は低速である以上、人間同士で使う言葉には最低限の共有認識というものが存在するはずで、まさか「ゆっくり走る」と「普通に目で追えない」の間へ同じ単語が平然と投げ込まれるほど、王国語の治安が悪いとは思っていなかった。ところが、赤い砂地へ立った若い紅椿騎士が足裏へ薄い火を灯し、サーシャの合図と同時に一歩目を踏み出した瞬間、とおるの中にあった「低速」の定義は音もなく崩れ落ちた。走っている。どう見ても普通に走っている。それどころか、足元へ一筋だけ残された赤い火の残光を置き去りにするように身体が前へ伸び、視線で追おうとした時にはすでに数歩先へいるというのに、当の本人も周囲の紅椿騎士も「かなり抑えている」という顔をしている。


「今の、低速ですか」


「ああ。低速だ」


「目が追いつかなかったんですけど」


「そのうち追えるようになる」


「俺の成長に期待しすぎでは?」


「期待されるのはいいことだぞ」


「期待って、だいたい本人の同意なしで背中へ積まれる荷物ですよね」


 サーシャは声を上げて笑った。紅椿の人間は腹の底から笑う者が多いせいか、軽い励ましでさえ遠くから聞けば号令にしか聞こえず、とおるは右目の奥へ残る薄い熱を意識しながら、赤い砂地へ一枚だけ〈反発壁〉を置いた。高負荷は禁止、複雑な境界干渉も禁止、連続使用も極力避けること――エルネには何度も念を押され、医務室を出る時にはミレイユからも「守れ」と視線だけで追認されたため、今日許されているのは、見える位置へ薄く、短く、無理のない角度で作る一枚だけである。本人としては大変真面目に守るつもりだったし、医務室から言い渡された制限などというものは、騎士団生活の中では珍しく公的に認められた「無理をしなくていい理由」なのだから、今後も大切に保管しておきたかった。


「壁山、角度が寝すぎだ。そのまま踏ませたら力が上へ逃げる」


「上へ逃げると、どうなります?」


「跳ぶ」


「跳ぶんですか」


「人間は意外と跳ぶぞ」


「経験則がいちいち物騒なんですよ」


「もう少し前へ返せ。踏ませるって考えるより、走ってきた力へ肩を貸す感じだ」


「肩を貸す壁……」


 意味は分かる。分かるのだが、言葉にした途端かなり妙な概念になる。壁が肩を貸す。壁なのに。もっとも、とおるの〈壁〉は最近、防ぐ、支える、弾く、止血を助ける、切断によって生じる結果だけを届かせないなど、本人の知らないところまで含めて用途が増え続けており、もはや壁というより「困った時に何かと何かの間へ挟むと、だいたいどうにかなる透明な何か」へ近づいていた。そろそろ名称を改めるべきかもしれないが、そんな相談をエルネへ持ち込めば、恐ろしく長い正式名称と分類番号が返ってきそうなので、やはり壁でいい。短い。現場に優しい。何より報告書の文字数を節約できる。


 若い紅椿騎士がサーシャの合図で走り出し、足裏から広がった火が赤い砂の上へ細い線を引く。とおるは無意識に息を詰めながら踏み込み位置へ境界を合わせ、騎士の右足が透明な面へ触れた瞬間、その力を受けた〈反発壁〉が内側へわずかに沈み込み、一拍遅れて進行方向へ柔らかく返した。身体が思っていた以上に素直な軌道で前へ伸びるのを見て、とおるの口から小さく「おお」と声が漏れる。上手くいった。たぶん。少なくとも足はもつれていないし、人体が地面を横滑りしていない以上、初回としては大勝利と呼んでも許されるのではないか――そんな慎ましい達成感が胸へ浮かんだ、まさにその直後だった。加速を受けた若手騎士は障害壁の手前で勢いを殺しきれず、慌てて上半身だけを左へ逃がしたものの、足は正直に前へ残り、その結果として身体全体が斜めへねじれ、かなり綺麗な回転を描きながら赤い砂地へ突っ込んだ。


「止めろおおお!」


 サーシャの怒声が飛んだ次の瞬間には、近くへ待機していた紅椿隊員二人が訓練通りの速さで駆け寄り、一人が倒れた騎士の肩を押さえて不用意に起き上がらないよう制し、もう一人が足首から膝、腰の順に状態を確認する。少し離れたところでは白華側の補助役が小型治癒具を取り出しており、訓練場の誰一人として笑うより先に安全確認へ動いたことに、とおるは改めて紅椿の「勢い」と「雑さ」は別物なのだと気づかされた。もっとも、派手に転がった本人だけは砂まみれの顔で元気よく親指を立てていた。


「無事です!」


「無事なら勝手に立つな! 確認が終わるまで寝てろ!」


「はい!」


 とおるはその光景を見ながら、口元をひきつらせた。


「俺、今のって支援した側ですか。それとも事故の一部ですか」


「両方だな」


 サーシャは迷いなく答えた。


「両方……」


「加速の支援自体は成功した。ただし制動まで含めた計算が足りない。紅椿側も、壁を踏んだ後にどれだけ速度が乗るのか分かってねえ。つまり双方の課題が見えた。いい訓練だ」


「『いい訓練』って便利な言葉ですね。だいたい人が転がった直後に出てくる」


「訓練は転んで覚えるもんだ」


「白華では、できれば転ばない方向も大事にしてるんですけど」


「だから一緒にやってるんだろ」


 そこへ戻られると、もう反論しづらい。白華は止める。紅椿は進む。守るために止まる側と、守るために踏み込む側が互いの「普通」を知らなければ、善意だけで味方を吹き飛ばすことになる。その理屈は十分理解しているし、だからこそ合同訓練をしているのだということも分かっているのだが、実際に人間が赤い砂の上を回転していくたび、理屈と現実の間へもう少し厚めの緩衝材を敷きたくなる。


 訓練場の外縁では、ミレイユが腕を組み、脇腹を庇っていると悟られない程度にわずかに重心をずらした姿勢で立っていた。高出力の〈白雷〉は禁止されているため、今日の役目は観察と助言に限られており、本人は走れないことへ露骨ではないものの確実な不満を抱えているらしかったが、いざ訓練が始まればそんな感情は表から消え、紅椿騎士がどの一歩で姿勢を崩したのか、とおるの〈反発壁〉が踏力をどの方向へ返したのか、さらにリガルドの火蝶が加速前後のどこで火霊素の流れを支えていたのかまで、ひとつずつ正確に拾っていた。


「とおる、今の壁は前へ返しすぎだ。踏んだ者の腰が追いついていない」


「俺としてはかなり安全運転のつもりだったんですけど」


「安全運転なら、相手が止まるための余白まで考えろ」


「壁に交通規則が増えていく……」


「それからリガルド」


「はいな」


「火蝶を壁の手前へ置くなら、蝶そのものを目印にするだけでは足りない。踏む側が火の揺らぎを意識して、壁へ触れる前から足首を固めている。身体が緊張した状態で反発を受ければ、返された力が腰ではなく肩へ逃げる」


「なるほど。ほな、もう少し低ぅ置きましょか。足裏の火と喧嘩せん高さで」


「それがいい」


 リガルドは素直に頷き、三匹だけ出していた火蝶のうち一匹を地面すれすれまで下げた。薄い赤の羽が砂へ触れそうで触れない位置を静かに漂う様子だけを切り取れば、詩人なら一行どころか一節くらい使いたくなる優雅さがあったが、実際には足元の加速補助と術式の中継点を兼ねた火霊素の塊であり、気を抜いて見惚れていれば靴底から人生まで焦がされかねない。美しいものほど危険。この世界へ来てから何度目になるか分からない教訓が、また一つ更新された。


 そして、合同訓練は一日では終わらなかった。むしろそこからの一週間、とおるたちは白華と紅椿の違いというものを、説明書ではなく身体と失敗と反省会、さらにその内容をまとめる書類まで含めた非常に実践的な形で叩き込まれることになった。


 模擬市街救助訓練では、白華側が最初に避難路と建物の安全確保を優先したのに対し、紅椿側は訓練用の煙の奥へ置かれた負傷者人形を確認するなり最短距離で突入しようとして、入口の狭い瓦礫区画へ複数人が集まり見事に詰まった。白華が「待て、先に支柱を補強する」と止めれば、紅椿は「その十二秒で中の要救助者が焼ける」と返し、紅椿が「一人だけ先に抜く」と走ろうとすれば、今度は白華が「退路が落ちたら要救助者が四人増える」と押し返す。どちらも間違っていない。どちらも自分の都合ではなく、人を守ろうとしている。だからこそ、自分の正しさを簡単には引っ込められず、余計に噛み合わない。


「支柱補強に何秒かかる!」


「十二秒!」


「十二秒あれば中の人間を二人抜ける!」


「退路が落ちたら負傷者が四人増える!」


「じゃあ半分だけ補強しろ!」


「建物に半分だけ安心する機能はない!」


 訓練用の煙が漂う瓦礫の中で、白華と紅椿の若手が大真面目に言い合っている横へ、とおるは薄い〈壁〉を瓦礫と瓦礫の隙間へ差し込みながら、建物も人間関係も崩れる時には一気に来るものらしい、と妙な納得を覚えていた。ついでに報告書も溜めると一気に来る。怖いものの仕組みというのは、分野が違っても意外と似ている。


 別の日に行われた防衛線突破訓練では、白華側が仮設避難路を守り、その外側から紅椿が敵性役の防衛線を抜いて要救助対象へ辿り着くという役割分担になったのだが、とおるは敵の進行を止めようとする癖のまま、紅椿の突入ルートへ半ば無意識に防壁を置きかけ、すんでのところでミレイユに襟首を掴まれた。


「そこは味方の進路だ!」


「危なっ!」


「危なかったのはこちらだ!」


「すみません、脳内では敵を止めたつもりでした!」


「紅椿は敵より速く来る場合がある。覚えろ」


「味方の速度が想定敵性存在を超えるって何なんですか」


 さらに別の日には、紅椿が作った火路を白華側が維持する訓練も行われた。赤い火が砂地へ細長い道を焼き、その上を紅椿騎士が次々と駆け抜ける一方で、白華は火路の両側へ結界と盾を展開し、突入経路と退路を同時に守る。とおるの〈壁〉へ与えられた役割は、火そのものを遮らず、横合いから吹き込む人工風と飛来する魔力弾だけを切り分けるというもので、言葉だけ聞けば「必要なものだけ通せばいい」と簡単そうに思えるのに、実際には火の熱、走る足音、敵性役の矢、味方の進路、風向き、リガルドの火蝶、ミレイユの指示、サーシャの怒号まで全部がほぼ同時に飛び込んでくるため、とおるの頭の中は複数の鐘がそれぞれ別の拍子で鳴り響く倉庫のようになった。


「壁山! 火を止めるな、矢を止めろ!」


「選別が難しい!」


「難しいからやってる!」


「その理屈で世の中の大変なこと全部説明できません!?」


「できるぞ!」


「できちゃうんだ……」


 紅椿の訓練は、とにかく騒がしい。白華の訓練も決して静かでも楽でもないのだが、紅椿にはそこへ速度と熱と勢いが加わるため、訓練場全体が常に少し燃えているような気配を帯びていた。その一方、本当に危険な兆候が出た瞬間だけは誰より早く止まる。サーシャが怒鳴り、教官補が走り、医務担当はいつでも担架を出せる位置へ無言で移動し、リガルドは火蝶を散らして危険な導線を視覚化する。さらに観察役のミレイユが「今の壁は遅い」「紅椿側の制動が甘い」「リガルド、蝶の位置を半歩下げろ」と原因を切り分けていくため、失敗そのものは派手でも、それを「運が悪かった」で終わらせる空気だけはどこにもなかった。


 そして、身体を使う訓練が終われば、今度はそれ以上に長い反省会が始まる。


 初日の反省会など、実際の訓練時間の倍近く続いた。とおるは椅子へ腰を下ろした時点で「ようやく終わった」と思ったものの、サーシャが黒板代わりの大きな板へ堂々と『本日の事故未満』と書きつけた瞬間、終わったのは肉体労働だけで、むしろ紅椿にとっての本番はここからなのかもしれないと悟った。


「まず一つ目。紅椿新人三番、壁を踏んだ後に腰が抜けた」


「抜けてません!」


「抜けた。記録官、書け」


「はい」


「二つ目。白華側、壁山の防壁が味方の退路へ半歩寄りすぎた」


「半歩でも記録されるんですね」


「現場の半歩は、人一人が逃げられるかどうかになる」


「急に重い」


「三つ目。リガルド、火蝶の中継高度が高い」


「はいな。次は下げます」


「四つ目。ミレイユ」


「はい」


「観察役なのに身体が動きかけた」


「……申し訳ありません」


「怪我人は自分の足へ命令を出す前に、医務室の指示を思い出せ」


 ミレイユの肩がぴくりと動き、とおるは心の中でサーシャへ静かに拍手を送った。ありがとうございます。非常に助かります。同じ内容を自分が口にすると、まずミレイユの視線でその場へ縫い止められ、その後「分かっている」と言いながら本人がさらに反省を始めるので、上級騎士という権限は実にありがたい。


 紅椿は勢いに任せて突っ込む隊なのだと、最初はとおるもどこかで思っていた。けれど実際の反省会では、足を置く位置ひとつから合図の声量、火路の幅、負傷者人形を抱えた時の腰の高さ、白華の防壁を越える瞬間に視線をどこへ置くべきかまで細かく掘り返し、何が一歩遅かったのか、何が半歩多かったのかを徹底して確認する。三日目を過ぎた頃には、とおるもようやく理解し始めていた。紅椿とは「速く動く隊」なのではなく、速く動くために、速さ以外のことを異様なほど細かく詰める隊なのだ。彼らの速度は勢いの産物ではなく、準備、確認、反復、制動、その全部を積み上げた一番上へ最後に薄く灯る火なのだろう。


 そして、変わっていったのは紅椿への見方だけではなかった。最初は突入速度に面食らい、止めるべきか通すべきかの判断で迷っていた白華の若手たちも、合同訓練を重ねるうちに少しずつ「通すために守る」という動きを覚え始めた。防壁とは、敵の前へ置いて止めるだけのものではない。味方の進路を示し、危険な方向だけを閉じ、避難民の視線を安全な出口へ誘導し、紅椿が命がけで開けた突破口を必要な時間だけ維持する。その発想へ触れてから、とおる自身も〈壁〉を単純に人や攻撃の真正面へ出すのではなく、走る人間がこれから通ろうとしている線へ沿わせることを考えるようになった。敵を止める壁、味方を押し出す壁、帰ってくる道を守る壁。同じ透明な一枚でも、置く理由が変われば意味も働き方もまるで違ってくる。


「……少し、分かってきた気がします」


 一週間目の午後、赤い砂地の端へ腰を下ろして水を飲みながら、とおるがぽつりと漏らすと、隣で布を首元へ当てていたミレイユが横目だけを向けた。高出力の〈白雷〉はまだ禁止されているものの、低出力での立ち位置確認と歩法練習までは許可が下りたため、まったく動けなかった数日前より本人の機嫌は明らかに良い。ただし医務担当からは「低出力という言葉を本人の都合で拡大解釈しないように」とわざわざ釘を刺されており、人間の信用というものは結局、日頃の行いによって積み上がるらしい。


「何がだ」


「白華は留まって、紅椿は踏み込むんですよね。最初は正反対なんだと思ってたんですけど、見てるうちに、どっちもただ止まってるわけじゃないし、どっちもただ突っ込んでるわけじゃないんだなって」


「当たり前だ」


「その当たり前を、身体で理解するまでが長いんですよ」


 とおるは水筒を膝へ置き、訓練場へ視線を向けた。少し離れたところではリガルドが火蝶を一匹だけ足元へ浮かべ、紅椿の若手へ踏み込みの位置を示している。サーシャは腕を組みながら時折大声で修正を飛ばし、クラリッサは白華側の配置を見回りながら、若手の盾へ手を添えてほんの少し角度を直していた。


「白華が留まるのって、後ろに守るものがあるからなんですよね。でも紅椿が前へ出るのも、その向こう側に助けるものがあるからで……進む方向が逆なだけで、結局どっちも命の前へ自分を置こうとしてる」


 ミレイユが、少しだけとおるの方を見る。口調はいつもと変わらず硬かったが、その目には静かな納得があった。


「そこまで分かっているなら、次はそれを壁で示せ」


「言うと思いました」


「考えただけでは戦場で使えない」


「はい」


「それから、今日の報告書へ今の感想をそのまま書くな」


「ちょっといい話っぽかったのに?」


「報告書は随筆ではない。結論と事実から書け」


「リディアさんの赤字が、まだ紙もないのに遠隔で飛んできた……」


 ミレイユの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。以前なら、とおるがこういう軽口を口にした瞬間、間を置かず真面目な訂正が飛んできたものだが、最近はほんのわずかに笑う時間が増えたように思う。


 もちろん、そのあとで普通に叱られる。


 笑顔と指導は両立する。


 それもまた、白華隊へ入ってから学んだ、かなり厳しい現実だった。



 そんな日々を重ねて、合同訓練が正式に実施されてから一週間が経とうとしていた頃である。


 午後の訓練が終わり、紅椿駆城の南訓練場へ夕方の光が斜めに差し込み始めた頃、とおるは装備置き場の脇へ一人で腰を下ろし、今日だけで何度締め直したか分からない丸盾の革紐を指先で整えていた。掌には赤い砂と装備が擦れた細かな傷が増え、脚には走り込みの疲労が鈍い重さとなって溜まり、右目の奥にはもう痛みと呼ぶほどではないものの、熱を持った薄い膜が一枚残っているような感覚が消えずにいる。白華へ入った頃と比べれば体力も多少はついたはずなのに、紅椿と混ざって訓練をすると、その日に自分の中へ用意されていた余裕だけが毎回きれいに使い切られていくのだから不思議だった。訓練をして、反省会で失敗を細かく切り分け、報告書を書き、医務室で状態を確認され、翌日になればまた走る。日々はすっかり輪のようにつながっており、しかもその輪の途中では、たまに人間が物理的に飛ぶ。


「お疲れさま、とおる君」


 背後から聞こえた柔らかな声に、とおるは革紐を握ったまま肩越しへ振り返り、そこに立っていた人物を見て、一瞬だけ目を細めた。


「ゾロさん。お疲れさまです」


 ゾロ・スネイブルが着ているのは、以前まで見慣れていた白華の制服ではなかった。黒と朱を基調にした紅椿の軽装外套が細身の身体へ自然に馴染み、肩には第八華隊を示す赤い椿紋が留められ、髪へ混じる黒と紅の色も、その装いの中では以前よりずっと落ち着いて見える。白華隊第三席だった彼女は、もう紅椿の騎士なのだと頭では理解していたものの、実際にその姿を夕暮れの赤い訓練場で見ると、少しだけ現実感が追いつかないところがあった。


「まあまあ様になってきたわね。初日と比べたら、紅椿の足音が後ろから聞こえても首をすくめなくなったもの」


「俺、そんなにすくめてました?」


「かなり」


「自分では結構、堂々としていたつもりなんですけど」


「堂々と怯えていたわ」


「一番嫌な見抜かれ方ですね、それ」


 ゾロは喉の奥でくすりと笑い、そのまま装備台の端へ軽く腰を預けた。彼女が笑うと、相変わらず穏やかな表情の奥から妙に危険なものが滲む。サーシャの笑顔が、大声で「大丈夫だ」と言いながら肩を抱いて訓練場へ連れていく熱だとすれば、ゾロの笑顔は逃げ道の温度だけを静かに上げ、気づいた時には戻る方向が全部ぬるく燃えている種類の火である。同じ紅椿、それも同じ火属性寄りの人間だというのに、燃やし方へ個性がありすぎた。


「それで、どう? 紅椿は」


「騒がしくて、速くて、熱くて、あと反省会がやたら長いです」


「いい感想ね」


「いいんですか、それで」


「かなり正確よ」


「できれば『楽しいです』って言えるくらいの余裕がほしかったんですけど」


「楽しいでしょう?」


「……少しだけ」


 悔しいことに、それは嘘ではなかった。怖いし、疲れるし、毎日どこかしらが痛いし、できれば反省会は半分くらいの長さになってほしい。それでも、ミレイユの〈白雷〉とリガルドの火蝶が一本の進路へ重なり、その途中へ自分の〈反発壁〉が噛み合って紅椿の若手をさらに一歩先へ送り出し、最後には白華側の防壁が退路をきちんと守りきった時、胸の奥には自分一人で術を成功させた時とは違う、妙に確かな手応えが残る。自分だけでは届かない場所へ誰かの力が伸び、一人では危険な速度を別の誰かが支え、その全体の中に自分の透明な一枚も確かに存在している――そんな瞬間だけは、「できれば帰りたい」という気持ちの隙間から、小さな好奇心が遠慮がちに顔を出すのだった。


「なら、よかった」


 ゾロは少し目を細め、それから何気ない調子のまま、しかしとおるにとっては決して何気なく受け取れない言葉を続けた。


「そろそろ、あなたにも霊装が必要な頃合いね」


「……はい?」


 丸盾の紐を引いていた手が止まった。


「霊装、ですか」


「ええ。固有霊装。一般には〈聖装〉と呼ばれるものね」


「それって、リディアさんの〈白禍月〉とか、ミレイユの〈鳴神〉とか、ああいうやつですよね」


「そう。聖騎士にとって、もう一つの身体とも言える装備よ。世界樹の枝を核にして、持ち主の魂位相、魔力回路、それから本人が何を誓うかに合わせて形と性質を決めていく、普通の武器とは少し違うもの」


「いやいやいや」


 とおるは反射的に両手を振ろうとしたものの、片手に丸盾を持ったままだったせいで妙な動きになり、慌てて膝の上へ戻した。


「俺、まだ新人ですよ。聖騎士として言えば仮免みたいなもので、報告書へ『すごく』って書きそうになる段階なのに、いきなりそんな偉そうな装備の話をされても、心の準備どころか置き場所の準備すらできてません」


「聖装は置き場所から考えるものではないわ」


「じゃあ何から考えるんですか」


「自分が、何のために力を使うのか」


「一番重いところから来た」


 装備の話をしていたはずなのに、いきなり人生の中心を問い始められ、とおるは露骨に顔をしかめた。剣なら長さと重さ、防具ならサイズと可動域、せいぜい予算や手入れの手間くらいから相談を始めてほしいところなのに、王国最高位の特殊装備ともなると、どうやら魂と誓約と生き方から選考が始まるらしい。重い。装備欄へ収まる存在のくせに、入口から話が重すぎる。


「聖装は、支給品ではないのよ。こちらが選ぶというより、枝の側が選ぶ」


「枝が」


「世界樹の地下にある〈逆枝〉。普通の木材とは違うわ。人を覚えるし、近づいた者の魂位相にも反応する。剣士だから剣になるとは限らないし、盾を望んだからといって盾になるとも限らない。格好をつけて、自分はこういう騎士だなんて綺麗なことを並べても、枝にはたぶん通じない。嘘をつけば、下手をすると一番恥ずかしい形で返ってくるわね」


「植物との面接で落ちる可能性があるんですか」


「あるわ」


「きつい」


「正確には落ちるというより、何も反応しないことがある。それか、露骨に嫌がる」


「嫌がられる可能性まであるんですか」


「もちろん」


「人間だけじゃなく植物にも嫌われたら、俺はどこへ相談すればいいんです?」


「枝打衆ね」


「窓口あるんだ……」


 あまりに自然な返答へ、とおるは思わずそちらを見た。


「逆枝を扱える一門がいるの。〈枝打衆〉。削る、鍛える、形を整えるだけじゃなく、枝が誰へどう反応しているかを見極める役目も持ってる。今の中心人物はグレン・カラガネ。通称、枝爺」


「枝爺」


「王都一番の偏屈」


「もう会いたくなくなってきました」


「会う前から人を決めつけるのはよくないわよ」


「通称と評価が両方とも不穏なんですけど」


「腕だけは確かよ。性格は……まあ、枝より曲がってるかもしれないけれど」


「余計に会いたくなくなった」


 そんなやり取りをしていると、少し離れた位置で水を飲んでいたミレイユがこちらへ歩いてきた。どうやら途中から話が聞こえていたらしく、手にしていた布を小さく畳んで腰へ差し込み、そのまま〈鳴神〉の柄へ自然と指を添える。


「とおる。霊装の話か」


「はい。装備の相談かと思ったら、急に人生の査定みたいな話が始まりました」


「査定ではない。枝契りだ」


「名前が変わっても重さが全然減ってません」


「聖装は、聖騎士にとって重要なものだ。私の〈鳴神〉も、ただの剣ではない」


 そう言ったミレイユの声には、いつもの硬さとは少し違う柔らかさが混じっていた。彼女が〈鳴神〉へ触れる時の手つきも、刃の位置や装備状態を確認するものではなく、長く自分の隣を走ってきた相手へ言葉もなく声をかけるような、ほんのわずかな親しみを含んでいる。


「鳴神は、私の〈白雷〉の循環を覚えている。踏み込みの癖も、雷霊素の流れも、私の力が乱れ始める時の兆しもだ。戦っている最中、自分の足を信じきれなくなる場面では、鳴神の重さが答えになることがある」


「剣が、答えるんですか」


「言葉ではない。重さ、熱、細かな震え、鞘からの抜けやすさ……こちらの誓いから外れる動きを取ろうとすれば妙に重くなり、無理を押し通そうとすると柄が冷えることがある。逆に、ここは前へ出るべきだと私自身も鳴神も判断している時は、驚くほど軽く感じる」


「……聖装って、思ってたより性格ありますね」


「ある」


 ミレイユは間を置かずに答えた。


「絶対にある」


 妙に強い断言だった。


 ゾロまで横で頷いている。


「長く持てば分かるわ。聖装は喋らないけれど、こちらのことはよく見ている。特に、持ち主自身が自分へ嘘をついた時ほど、容赦なく態度へ出るものよ」


「じゃあ俺が持ったら、人見知りで、すぐ帰りたがって、持ち主と一緒に部屋の隅へ行きたがる装備になる可能性も……」


「装備まで逃げ腰になってどうする」


 ミレイユの突っ込みは速かった。


「でも、枝が本質を見るなら可能性として否定できなくないですか」


「お前の本質を自室志向だけでまとめるな」


「やさしいのか厳しいのか分からない」


 ゾロが楽しそうに笑った。


「とおる君の場合は、普通の聖装になるかどうかすら分からないわね。あなたの〈壁〉は、もうかなり外部器官に近いでしょう。剣を一本持たせて攻撃力を増やすというより、あなたが何を隔て、何を通し、どこへ境界を置くのかを補助する形になる可能性のほうが高そう」


「補助装置みたいなものですか」


「ええ。あるいは、あなた自身の力を安全に扱うための枠。今のあなたは、自分の感覚だけを頼りに境界を引いているでしょう? 止血も、生存領域も、切断によって生じる結果だけを遮った時も、成功したからこうして話せているけれど、ほんの少し判断を誤れば洒落にならない」


「そこは……本当にそうです」


 とおるは素直に頷いた。ミレイユの傷へ薄い境界を張った時も、グラド・バルムの幼体を包む〈生存領域〉を維持した時も、怖さが消えた瞬間など一度もなかった。硬くしすぎれば圧迫する。閉じすぎれば空気を奪う。逆に開きすぎれば守る意味がなくなる。自分の能力で、自分が作った境界であるにもかかわらず、それが命へ直接触れる場面になると、扱い方を完全には理解していない刃物を素手で握っているような恐ろしさがあった。


「でも、俺に聖装なんて本当に必要なんですかね。白華には正式な聖騎士がたくさんいますし、俺なんてまだ報告書の『すごく』を消せって怒られてる段階ですよ」


「必要かどうかを見るために行くのよ」


「……行く?」


 嫌な流れになってきた。


 とおるは慎重に聞き返した。こういう時に上級騎士が穏やかな口調で使う「行く」という言葉は、大抵の場合、本人の予定を確認するためではない。すでに予定表のどこかへ自分の名前が書かれており、こちらが抵抗しても「歩きながら説明する」と言われる種類の「行く」である。


 ゾロは、とても穏やかに微笑んだ。


「リディア隊長から許可は出ているわ。アーヴィン隊長にも話は通してあるし、グラウ副総監の書類も通過済み。枝爺は……機嫌がいい時なら見る、と言ってる」


「最後だけ急に運要素じゃないですか」


「枝爺はいつもそうよ」


「機嫌が悪かったら?」


「追い返される」


「よかった。帰れる可能性がある」


「その場合は別の日にもう一度行くことになるわね」


「逃げ道が予定表で塞がれた」


 ミレイユが小さく息を吐く。


「諦めろ、とおる。聖装へ関わる機会など、本来は望んだからといって得られるものではない」


「それは分かります。分かるんですけど、俺の人生、最近『本来なら望んでも得られない機会』が多すぎません? 星の塔とか、聖騎士試験とか、合同訓練とか……もう少し身の丈に合った機会をください」


「身の丈に合った機会とは何だ」


「昼寝とか」


「却下だ」


「判断が速い」


 ゾロは装備台から腰を上げ、紅椿の外套に付いた細かな砂を軽く払った。


「行き先は王樹聖域の地下、〈逆枝炉〉。世界樹の枝を扱う場所よ。もちろん、一般の騎士が気軽に入れる場所ではないから、許可も護衛も必要になる。ただ今日は正式な枝契りをするわけではなく、あくまで反応を見るだけ。あなたが聖装を持てるのか、持てるとすれば逆枝がどう反応するのか、まずはそこを確認する」


「反応を見るだけ」


「ええ」


「なんか『痛くしません』みたいな言葉に聞こえるんですけど」


「たぶん」


「言った!」


 とおるは思わず頭を抱えた。どうしてこの世界の専門職は、こちらを安心させるような言葉の最後へ、平然と危険な副詞を付けるのだろう。医務室でも研究室でも訓練場でも、そして今度は鍛冶場らしき場所でも、説明の最後に付く「たぶん」の二文字だけが毎回こちらの精神を削っていく。いっそ王国法で使用制限をかけてほしい。難しければ白華隊の内規でも構わない。


「私は行くのか」


 ミレイユがゾロへ尋ねる。


「もちろん。あなたの〈鳴神〉も一度状態を見てもらう予定よ。最近は〈白雷〉そのものの運用が少し変わり始めているでしょう。持ち主の考え方と戦い方が変化すれば、聖装側にも何か出る可能性がある」


 ミレイユの表情が、それまで以上に引き締まった。


「鳴神に、ですか」


「ええ。あなた、最近“足場”という言葉をよく使うようになったわね」


 ミレイユは答えなかった。ただ、否定もしなかった。


 謎の刻印者との戦いを経て、彼女は〈白雷〉を単に速く動くための力ではなく、自分が踏み込んだ場所へ自分の理を持ち込むためのものとして捉え始めている。その変化を、いつも腰にある〈鳴神〉がすでに覚えているのだとすれば、聖装の側でも何かが変わり始めていて不思議ではない。


「……分かりました。同行します」


「よし」


 ゾロは満足そうに頷き、そのままとおるへ視線を戻した。


「あなたは?」


「拒否権あります?」


「形式上はあるわ」


「形式上」


「リディア隊長からは、あなたが本当に嫌がるなら無理に連れていくなと言われている」


「じゃあ――」


「ただし、その場合は拒否した理由も報告書へ残す必要があるわね」


「行きます」


 即答だった。


 世界樹の枝に会うのが怖いので行きませんでした、と正式な報告書へ書き、その下へ自分の名前を署名し、さらにリディアの確認印を待つ未来を想像しただけで、とおるの足は自主的に出発準備を始めていた。拒否権とは一体何なのだろう。形式上は存在していても、発動後に待っている事務処理のほうが重いなら、それはもう制度というより罠に近い。とおるは丸盾を背へ掛け直し、今日は手元に資料束がないことだけを少しありがたく思った。世界樹の地下へ向かいながら『報告書基本様式』まで抱えていたら、さすがに情緒の行き場所がなくなる。


 紅椿駆城を出る頃には、空はすっかり夕方の色へ傾いていた。赤と黒の隊舎は沈みかけた陽光を受けることで昼間よりも深い色へ沈み、壁面へ差す赤が、巨大な炉の底で消えずに残る熾火のように見える。南訓練場からはまだ号令が飛び、遠くの出撃広場では騎獣の蹄が規則正しく石床を打っていたが、サーシャだけは猫たちの夕食時刻を守るため、今日も予定通り反省会を切り上げたらしく、建物の奥から「今日はここまで! 走り足りない奴は明日走れ!」という、定時退勤へ向かう者とは思えないほど力強い声が響いてきた。


「本当に定時には厳しいんですね」


「猫には勝てないのよ」


 ゾロが笑う。


 三人は紅椿駆城を離れて第二環区へ戻り、そのまま王樹中枢区へ向かう優先路へ入った。王都アルヴェリオンの街並みは、中心へ近づくほど少しずつ表情を変えていき、南環市場の賑わいが背後へ遠ざかるにつれて商人の呼び声や荷車の軋みは減り、その代わり官庁街の整った白石造りと、用途の分からない重厚な建物が増えていく。さらに第一城壁へ近づけば、道幅は広いままなのに人の数だけが目に見えて少なくなり、地表へ大きく張り出した世界樹の根を避けるため、石畳は巨大な生き物の身体に沿うよう緩やかな曲線を描いていた。街灯の装飾も庶民区で見かける花紋から王樹を象った厳かな意匠へ変わっており、王都の中を歩いているはずなのに、少しずつ別の場所へ入り込んでいくような感覚がある。


 第一城壁の門には、金蘭の騎士が立っていた。白と金の外套、磨き抜かれた鎧、立っているだけで周囲の空気まで整って見えるほど隙のない姿勢は、門番というより門そのものが人間の形を取って立っているようだった。ゾロが許可書類を示すと、その騎士は必要最低限の動作で内容を確認し、三人へ一礼して門を通したのだが、とおるは何も悪いことをしていないにもかかわらず、通り抜けるだけで背中へじんわり汗を感じていた。厳かな場所へ来ると、どうして人間は過去にやった小さな失敗まで思い出すのだろう。報告書へ「すごく」と書きかけたことまで見透かされている気がする。


「緊張しているな」


 横を歩くミレイユが言った。


「してますよ。王城方面って、空気まで礼儀正しくないですか」


「空気に失礼なことを言うな」


「褒めてるんですけど」


「そうは聞こえない」


 ゾロはくすりと笑いながら二人をさらに奥へ導き、やがて白冠丘の高台を横目に見ながら王樹聖域の外縁へ入っていった。


 そこから先は、同じ王都の中とは思えないほど空気の質が変わっていた。商人の声も馬車の音もほとんど届かず、代わりに世界樹の葉擦れだけが、実際の距離以上に近い場所から降ってくるように感じる。地面から露出した根は家一軒を横倒しにしたものより太く、その表面には古い守護紋と、現在使われている王国語とは明らかに形の異なる文字が、樹皮へ染み込むように薄く残っていた。巨大な根と根の間には小さな祭壇がいくつも設けられ、白い布、青い石、乾燥させた花、それから何のためのものか分からない小さな木片が静かに供えられている。


 巨大すぎるもののそばへ来ると、人間は自然と声を落とすらしい。


 とおるも、いつの間にか黙っていた。ほんの少し前まで紅椿の訓練場で「低速という言葉の定義がおかしい」と叫んでいた自分が、その日の夕方には世界樹の根元近くを歩いているという落差が、どうにも現実のものと思えない。市場も、騎士団の訓練場も、王城も、この静かな聖域も、全部が同じ王都アルヴェリオンという都市の中へ存在している。そして、そのすべてがこの巨大な樹の根元で、人間たちが千年以上かけて少しずつ積み上げてきたものなのだと思うと、街の大きさではなく、時間そのものの重さが足裏から伝わってくるようだった。


「ここから地下へ降りるわ」


 ゾロが足を止めたのは、世界樹の巨大な根と白石の壁とが半ば一体化した、小さな門の前だった。建築物へ根が入り込んでいるというより、もともと存在した根の隙間へ、人間が後から遠慮するように扉を嵌め込んだと言ったほうが近い。左右には紫苑と金蘭の騎士が一人ずつ立ち、そのさらに内側には王樹管理官らしい長衣の人物が控えている。扉には金属の鍵穴らしきものがなく、代わりに根の木目の奥へ細い光が血管のように流れていた。


「逆枝炉って、この下なんですか」


「ええ。正確には逆枝層の入口に近いところね。普通の鍛冶場を想像しているなら、少し驚くと思うわ」


「最近、普通の基準そのものがかなり壊れてきてるので、たぶん大丈夫です」


「そういうことを言う人ほど、だいたい驚くのよ」


「やめてください。完全に前振りじゃないですか」


 ミレイユは腰の〈鳴神〉へ手を添え、静かに一度息を整えた。とおるもなぜか背負った丸盾の位置を確認してしまう。今日は戦闘ではない。敵がいるわけでもない。ただ世界樹の枝を見るだけだと説明されている。


 たぶん。


 また危険な副詞が浮かびかけ、とおるは頭の中で慌てて消した。


 扉の前へ立つ王樹管理官がゾロから許可札を受け取り、刻印と顔を一つずつ確認してから、根の表面へゆっくり指を当てる。淡い光が木目を伝って扉の輪郭へ集まり、ほどなく内側から低く長い音が響いた。それは鍵が外れるような金属音ではなく、巨大な古木の内側で、長いあいだ眠っていた何かがゆっくりと身じろぎするような、不思議に生々しい音だった。


 その瞬間、とおるの右目の奥へ、かすかな熱が灯った。


 痛みではない。


 普段の疲労とも少し違う。


 熱というより、遠く離れた場所に結ばれていた細い糸を、誰かが指先でほんの少しだけ引いたような感覚だった。星の塔の扉へ触れた時、あの声が自分の内側へ響いた感触を思い出すほど強くはない。それでも、目の前にある扉の向こう、世界樹の根のさらに奥に存在する何かが、こちらを見ているのではないかという妙な気配だけは、無視できるほど弱くなかった。


「とおる?」


 ミレイユがすぐに気づいて声をかける。


「大丈夫です。たぶん」


「その言葉を使うな」


「はい」


 扉が、ゆっくりと開いた。


 内側へ続く階段は白い石で造られたものではなく、世界樹の根そのものを削り出し、人間が歩ける形へ整えたような淡い褐色の段になっていた。壁面には青白い樹液を思わせる光が細い筋となって走り、それが階段と一緒に奥へ奥へと沈んでいく。空気そのものはむしろひんやりしているのに、耳の奥では巨大な炉の底から伝わってくるような低い響きが一定の間隔で鳴り、音なのか振動なのか分からないまま胸骨の奥まで伝わってきた。


 ゾロが先に一段目へ足を置き、振り返る。


「行きましょう。世界樹の枝が、あなたをどう見るのか――まずは、そこからね」


 とおるは階段の入口で一度だけ立ち止まり、天井代わりに幾重にも重なる巨大な根を見上げた。


 聖装。逆枝。枝契り。世界樹の枝が、人を選ぶ。そして、自分の力を何のために使うのか。


 どれも装備を作るための言葉とは思えないほど重く、できることなら、もう少し紅椿の訓練場で赤い砂にまみれているほうが気楽だったかもしれない。いや、転がるのは普通に嫌だ。嫌な選択肢同士を比較すると、どちらがましか判断できなくなるあたり、人間の意思決定というものは案外頼りない。


「……装備の話を聞きに来たはずなのに、どうして階段へ入る前から人生相談の気配がするんですかね」


「枝の前では、格好をつけるな」


 ミレイユが静かに言った。


「格好をつけられるほど余裕ありませんよ」


「なら、そのままで行けばいい」


 その言葉は、不思議と悪くなかった。


 何か立派な答えを用意する必要も、自分が立派な聖騎士であるふりをする必要もないのなら、今の自分のまま行くしかないのだろう。


 とおるは小さく息を吐き、先を行くゾロとミレイユの後を追って、世界樹の根の奥へ続く階段へ足を踏み入れた。背後では扉がゆっくり閉じ始め、王都の喧騒も、紅椿の号令も、馬車の音も、その厚い根の向こうへ吸い込まれるように遠ざかっていく。残ったのは、自分たちの足音と、地下のさらに深い場所から一定の間隔で響いてくる、巨大な何かの鼓動にも似た低い振動だけだった。


 世界樹の枝へ会いに行く。


 さっきまで言葉としてしか理解していなかったその事実が、階段を一段下りるごとに少しずつ現実の重さを持ちはじめ、ようやく本当に、とおるの胸の奥へ沈んでいった。


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