第53話 実体と幻影の境目
アスカの〈空蝉〉は幻影であると同時に、限定的な意味では実体でもある。
――もっとも正確を期すなら、そのどちらか一方へ分類しようとした時点でこの能力の本質から少し外れてしまう。そこに立つアスカの姿は本人の肉体を複製したものではなく、直前までその場所に残されていた魔力の痕跡をなぞりながら一つの輪郭や動作として再現したものに過ぎないため、たとえ真正面から腕を掴もうとしても指先は何の抵抗も得られずにすり抜ける。髪の揺れ方から衣服の皺、肌に宿る熱、踏み出した足が鳴らす音、呼吸に伴う胸元の微かな上下に至るまで、本物と見分けることが難しいほど精密な姿を残していながら、その内側には斬るべき肉体も傷つけられる生命も存在していない。ゆえに「そこにアスカ本人がいるのか」という問いだけを基準にするなら、〈空蝉〉は疑いようもなく幻影だった。
ただし幻影であることと、無害であることはまったく別の話になる。
〈空蝉〉によって再現されるのは姿や気配といった視覚的な情報だけではなく、アスカがその地点で世界へ与えた作用まで含まれている。たとえば残されたアスカが地面を蹴れば、そこに実際の脚は存在しないにもかかわらず踏み込みによって生じた荷重だけは当時と同じ方向へ返され、砂や小石を跳ね上げる。〈緋燕〉を振るった記録が再生された場合も同様で、刀を握る腕そのものはとうにその場を離れているのに、刃が通過した軌道とそこへ込められていた力だけは現実の空間へ再び現れるため、射程内へ不用意に身体を入れれば本体のいない斬撃によって傷を負うことになる。さらにその動作へ火霊素が伴っていたなら保存対象には魔力作用まで含まれ、踏み込みに込めた炎が地面を爆ぜさせることもあれば、斬撃へ重ねた熱と刃圧が何もない空間から噴き出すことさえある。
つまり〈空蝉〉が保存しているものは、「過去のアスカ」そのものではない。
より正確に表すなら、保存されているのはアスカがその場所に存在していたという痕跡とその短い時間の中で周囲へ何を及ぼしたのかという結果、それらを結びつける一連の記録である。本人が残した魔力痕跡を土台として姿や気配を再構成し、そのとき行われた踏み込み、斬撃、属性付与といった作用については、必要な部分だけを現実へもう一度出力する。だからこそ姿そのものには触れられないのに、姿が振るったはずの刀には斬られ、存在しない足が踏んだはずの地面は砕けるという、一見すれば矛盾した現象が成立する。
もっとも、〈空蝉〉は過去の出来事を無制限に再現できる能力ではない。保存できるのはあくまでアスカ自身が残した痕跡であり、そこから再生される作用も、記録された時点で実際に行われた動作や込められた力を基準としている。何もしていなかった〈空蝉〉が突然斬撃を放つことはなく、過去に込めた以上の威力が後から都合よく生まれるわけでもない。言い換えれば、〈空蝉〉そのものが新しい攻撃を考えて実行しているのではなく、すでに完了したはずの行為を、アスカが意図した時機にもう一度だけ戦場へ呼び戻しているのである。
この性質があるため、相手にとって厄介なのは現在のアスカと〈空蝉〉を見分けることそのものではない。仮に一目で残像だと看破できたとしても、その残像が「見るだけの偽物」なのか、それとも斬撃や炎といった作用を保存している〈空蝉〉なのかまでは、外見だけで判断できないからだ。偽物だと見切って構わず踏み込めば、数秒前にその場所で振るわれた〈緋燕〉の斬線が時間差で再現され、無防備な首筋を薙ぐかもしれない。反対に、攻撃能力を持つ〈空蝉〉だと警戒して足を止めたものの実際には姿と気配しか保存されていなかったなら、その警戒に費やした一呼吸、一歩、一度の迎撃動作そのものが現在を動いているアスカにとって利用可能な隙へ変わる。
見えているアスカは、本物ではない。
けれど、そのアスカによって引き起こされる現象まで偽物とは限らない。
そこにはもう誰もいないのに、「かつてアスカがそこにいた」という事実だけは消えずに残り、その事実へ結びついていた行為の結果が現在の戦場へ遅れて干渉してくる――過去を幻として映すだけではなく、過去が世界へ触れた痕跡まで現実として引き戻すこと。
それこそが、〈空蝉〉という能力の本質だった。
「オラァッ!」
ヴァルガは力任せにも見える勢いでさらに深く踏み込み、巨体を支えていた重心を地面すれすれまで一息に落とした。それは膝を折って相手の懐へ潜り込むような整った低姿勢ではなく、前方へ倒れようとする自らの重量を踏み出した脚一本で辛うじて受け止め、普通なら体勢を崩したと判断される寸前の傾きを、むしろ攻撃へ転化するため意図的に残したような危うい低さだった。右肩が地面を擦るのではないかというところまで沈む一方、その手に握られていた〈根喰〉にも変化が起こり、長槍を形作っていた黒銀の柄が中ほどから黒い霧へほどけていくと、間合いを取るために必要だった長さだけを惜しげもなく切り捨てるように縮まり、瞬く間に短い鉄棍ほどの姿へ収まる。
そこで変わったのは、単なる武器の長さではない。
長槍の状態では穂先側へ大きく寄っていた〈根喰〉の質量そのものが、形状の収縮に伴ってヴァルガの手元近くまで引き戻される。つい先ほどまで遠心力を利用して外側から叩きつけることに適していた武器が、今度は沈み込んだ身体の中心へ密着するほど小さな旋回半径を持ち、低く落ちた腰の動きへ遅れなく追従できる形へ変わったことで、ヴァルガは構え直すどころか握りを変える必要すらなかった。
腰が左から右へ捻られる。
地面を擦る右足が小さな弧を描き、その回転へ肩が追いつく頃には、〈根喰〉の先端が地表を舐めるほど低い位置を走っていた。狙いは胴でも頭でもなく、アスカの膝裏――跳躍や後退の起点になる脚そのものを、横から刈り取る軌道だった。
アスカは跳ばない。
ここで上へ逃げれば、宙へ浮いた身体に合わせて〈根喰〉が再び長さを変え、回避先そのものを次の間合いへ組み込んでくる。
その判断を言葉として意識するより先に左足だけを半歩引き、膝裏へ迫る黒銀の軌道へ〈緋燕〉の棟を浅く差し込む。刀身と柄が噛み合った途端に腕へ返ってきた衝撃は見た目から想像した以上に重く、真正面から止めれば手首どころか肘までまとめて持っていかれると察したアスカは、あえて握りを固めなかった。押し込まれてくる力へ逆らわず〈緋燕〉を斜めに寝かせながら接触点だけを滑らせ、自分の身体も半身になって外側へ逃がすことで、ヴァルガの一撃を受け止めるのではなく本来とは異なる方向へ流していく。
――流した。
少なくとも、通常の武器を相手にしているなら、それで一度は攻撃が途切れるはずだった。
ところが〈根喰〉には、その常識が当てはまらない。
〈緋燕〉の棟を擦り抜け、狙っていた膝裏から外側へ逸れていく途中で黒銀の棒身が削り取られるように短くなり、失われた部分を構成していた魔素が霧状となってヴァルガの腕を伝う。消えた質量はそのまま失われたわけではなく、反対側――左の掌へ流れ込むと、そこを新しい起点として細身の刃を形成し、受け流された勢いがまだヴァルガの身体を回している最中だというのにアスカの逃げた方向へ斜め下から伸び上がった。
一つの武器を振り切り、それから反対の手へ別の武器を作り直したわけではない。
〈根喰〉を構成する魔素は、戦闘中であっても武器全体のどこへ質量を置くのかを変えられる。長さを削った箇所から余剰となった魔素を別の位置へ送り、必要な場所で新たな柄や刃として再構築できるため、ヴァルガにとって「攻撃を外された」という結果はそのまま次の攻撃点を別方向へ移すための工程になる。相手に軌道を逸らされたなら、無理に元へ戻す必要はない。逸らされた方向へ身体が流れることまで受け入れたうえで、いま最も相手へ届きやすい位置に〈根喰〉の先端を作り直せばいい。
「っ……!」
アスカが反射的に顎を引く。
斜めに伸びた黒い穂先が頬のすぐ脇を掠め、刃にさらわれた数本の髪だけがわずかに遅れて宙へ舞った。
それでも、ヴァルガの動きには区切りが生まれない。
伸ばした穂先をわざわざ引き戻す代わりに、左手側へ形成した刃だけを黒い霧へ戻し、今度は低く沈めていた巨体を起こす力そのものを次の攻撃へ利用する。膝が伸び、腰が浮き、そこへ連動して右肘が跳ね上がる頃には、肘と脇腹のあいだへ短く収まっていた〈根喰〉が再び膨張を始めており、失われた刃の質量を取り込むように短槍ほどの長さまで伸びると、穂先とは反対側――本来なら石突に当たる部分が、立ち上がる巨体の勢いを乗せてアスカの脇腹へ突き上げられた。
下から上へ。そこから横へ流れ、逸らされたなら内側へ潜る。
ヴァルガの武器術には、一撃を完結させてから構えへ戻るという明確な区切りがほとんど存在しない。振り抜きすぎた腕も、受け流された軌道も、踏み込みが深すぎて崩れた重心さえ失敗として切り捨てず、その時点で身体が持っている運動を次の攻撃の初動としてそのまま利用するうえ、〈根喰〉までが彼の姿勢と間合いに応じて長さ、重心、刃を生み出す位置を絶えず組み替えるため、通常の武器なら必ず訪れるはずの「振り切ったあと」が彼の連撃にはほとんど生じない。
長ければ槍として遠間を穿ち、懐へ入られれば余分な柄を捨てて短くなり、受け流されたなら失った長さを別方向の刃へ変えながら振り戻すより身体を回したほうが速い状況では、その回転に適した場所へ新しい攻撃点を作る。
武器に身体を合わせるのではなく、そのとき生まれた身体の動きへ武器のほうを合わせ続ける。
それが、〈根喰〉を手にしたヴァルガの戦い方だった。
アスカは三歩退く。
一歩目で脇腹を狙った石突を外し、二歩目では追いすがるように伸長した穂先を紙一枚ほどの差でかわす。そして三歩目へ体重を移すまでのわずかな間に、足元へひとつの〈空蝉〉を置いた。
記録したのは左足で地面を踏んだ位置と、ほんのわずかに腰を落として右肩を引いた姿勢――それだけだった。
刀は振っていない。炎も込めていない。踏み込みに特別な力を乗せたわけでもなく、そこへ残されたのは連撃を避けながら後退したアスカの一動作に過ぎない。
だから、その痕跡だけを見ても攻撃には見えない。
少なくとも、今はまだ。
けれどヴァルガ・ローディスの〈根喰〉は、その厄介さを正面から踏みにじるように形を変えてくる。
ヴァルガが笑う。
「逃げんのか?」
「まさか」
返した声は軽い。
けれどアスカの視線は、もう〈根喰〉の穂先を追ってはいなかった。
長さを見る。形を見る。握りを見る――そんな読み方を続けている限り、おそらくまた同じところで外されるだろう。普通の武器ならば全長と握りの位置、それに重心の偏りさえ把握できれば、振り始めから終わりまでのおおよその軌道は絞り込めるし、どこで威力が最大になり、振り抜いたあと反対側へ返すまでにどれほどの遊びが生まれるのかも読める。しかし〈根喰〉にはその計算の基準となるはずの中心が、ひとつの場所へ大人しく留まってくれない。振るわれている最中に柄が縮んだかと思えば、握った拳の向こうから新しい魔素が伸び、場合によってはそれまで穂先だった部分さえ不要になった道具を捨てるように霧散させ、その質量を反対側へ移して別の攻撃点へ作り替えてくる。
だからアスカが「ここまで潜れば槍の死角に入る」と見切った場所が、ヴァルガにとっても死角になるとは限らなかった。
その位置へ入り込んだ頃には、槍だったものがすでに槍ではなくなっている。
本来、長柄の武器には明確な偏りがある。穂先が最大の威力を発揮する距離がある一方で柄の内側へ深く潜られれば十分な加速を得られず、長さそのものが取り回しを妨げる弱点へ変わるからこそ、対峙する側には間合いを奪うという攻略法が成立する。ところがヴァルガはその当たり前の偏りを〈根喰〉の変形によってほとんど消していた。遠ければ伸ばす。近ければ畳む。振り抜いた勢いで重心が外へ流れたなら先端を削って質量を手元へ戻し、必要なら反対側から新しい刃を生やす――身体を武器へ合わせるのではなく、その時々で身体が最も力を伝えやすい位置へ武器のほうが形を変えて追従してくる。
一度見切った間合いが、次の一手でも同じ意味を持つとは限らない。
だったら。
見る場所を変えればいい。
アスカの視線が〈根喰〉から離れ、ヴァルガ本人へ移った。
右肩へ力を逃がしたのか。腰の奥へ沈めたのか。踏み込んだ足裏へ残しているのか。肘を畳んだのは防御のためか、それとも次に伸ばす魔素の起点を隠すためか。まだ刃にも柄にもなっていない〈根喰〉の魔素が、左右どちらの掌へ多く寄っているのか。
形になってから追うのでは——遅い。
武器の中心が好き勝手に動くのなら、そもそも武器を中心に考える必要などない。〈根喰〉がどれほど自在に姿を変えようと、それを操っているヴァルガまで液体のように形を変えられるわけではなく、人間の骨格を持ち、関節を曲げ、筋肉を縮め、地面から受け取った力を腰や肩へ通している以上は攻撃が生まれるより先に必ず身体のどこかがその準備を始める。
武器を読むのではなく――武器を変化させる人間まで遡って読む。
ようやく掴んだ糸口に、アスカの口元がほんの少しだけ吊り上がった。
「何笑ってんだよ」
「別に」
「いいねえ。そういう顔のほうが、ずっといい」
ヴァルガは楽しげに歯を見せ、そのまま間合いを踏み潰す。
それでも今度のアスカは〈根喰〉を見なかった。
右足。
足裏が地面を噛む。
腰。
わずかに沈む。
肩は――まだ動かない。
代わりに左肘がほんの少しだけ身体へ寄り、掌の周囲で黒い魔素の密度が増した。
来る。
〈根喰〉が形を得るより早く、アスカの身体が半歩だけ外へずれた。
直後、長槍だった黒銀の穂先が途中から霧へ崩れ、消えた質量がヴァルガの左手側へ移動すると、先ほどまで何もなかった空間から短い刃が飛び出してくる。狙いはアスカの脇腹――けれど、その場所に彼女はもういない。
「へえ」
ヴァルガの目が細くなる。
外した。
だが、止まらない。
左から伸びた刃をそのまま振り抜き、空を切った勢いを腰の回転へ預けると、今度は右肩を前へ押し出す。刃が黒霧へ戻るのとほぼ重なるように〈根喰〉の質量が右手側へ流れ込み、短く太い棒身へ変わったそれが拳の延長めいた軌道でアスカの胸元へ突き込まれた。
アスカは〈緋燕〉を合わせる。
金属同士が噛み合い、低く濁った音が弾けた。
そこで、違和感が走った。
――重い。
先ほどより、明らかに。
受け止めきるという選択を捨て、アスカは〈緋燕〉を滑らせながら衝撃を外へ逃がしたものの、刀身を通じて掌へ伝わった圧力は、最初に〈根喰〉と打ち合ったときより一段深く握り込んだ指の骨までじわりと痺れさせた。
速さも増している。
最初の数合では、〈根喰〉が変形してから攻撃が来ていた。ところが今は身体の動きと魔素の移動と武器の形成がほとんど重なり始めており、ヴァルガ自身もまた、戦いながら〈根喰〉の変化へ馴染んでいるかのように動作の無駄を削っている。
何より厄介なのは、その連撃に「繋ぎ目がない」ように見えることだった。
もちろん、本当に消えているわけではない。
足裏が滑る。腰が返る。背中の筋肉が引き絞られ、肩が遅れて追いつく。肘が畳まれた内側へ黒い魔素が集まり、握り込んだ掌を起点に〈根喰〉が新しい形を取る――人間の身体で戦っている以上、完全な無動作から攻撃が生まれることなどなく、一つひとつ分解してしまえばそこには確かに始まりがあり、終わりがあり、そのあいだを繋ぐ運動も存在している。
ただ、ヴァルガはその「終わり」を休止へ使わない。
普通なら体勢を戻すために費やす動作を次の攻撃の予備動作へ変え、振り抜きすぎた腕はそのまま腰を回すきっかけに、崩れた重心は低い攻撃へ潜るための踏み込みに、受け流されて外へ逃げた力でさえ別方向から〈根喰〉を伸ばすための勢いへ作り替える。そこへ長さも重心も攻撃点さえ自在に移動する可変武器が噛み合うものだから、常人なら関節へ掛かる負荷を嫌って一度は躊躇するような薙ぎ払いも、強引な上下の切り返しも、ヴァルガにとっては途切れではなくただ次の一撃へ身体を運ぶ途中に過ぎなかった。
洗練されている、という言葉とは少し違う。
むしろ荒々しい。獣じみていると言ってもいい。
けれど、雑ではない。
型としての美しさや剣筋の端正さを求める代わりに、「今、この距離、この姿勢、この重心から、どこへ武器を出されるのが相手にとって一番嫌か」という一点だけを、身体がほとんど反射で選び続けている。その野生じみた合理性へ〈根喰〉の変形能力が組み合わさることで、ヴァルガの連撃は“技を順番に繰り出している”というより“一度始まった巨大な攻撃が形だけを変えながら延々と続いている”ようにすら見えた。
しかも。
速くなっている。
重くなっている。
自分がヴァルガを読み始めたのと同じように――向こうもまた、この戦いの中で何かを掴み始めている。
〈緋燕〉越しに伝わる衝撃を逃がしながら、アスカの視線がほんの一度だけ崖下へ落ちた。
そこには、腹部を黒槍で貫かれたグラド・バルムの巨体が横たわっている。すでに生命活動を終えているはずの身体はぴくりとも動かず、硬質な甲殻の隙間から漏れ出す魔力も、普通なら時間とともに空気へ溶けて薄まっていくはずだった――ところが実際には、その残滓を一本ずつ拾い集めるように黒緑の筋が地面を這い、ときには空中へ細い蔓のような軌跡を描きながら、途切れることなくヴァルガの側へ引き寄せられている。
まだ、終わっていない。
あの一撃で奪った魔力を蓄えておき、それを小出しに使っているのではなかった。
今も吸っている。
戦いが始まってから、ずっと。
そこへ気づいたアスカの瞳から、それまで薄く残っていた笑みが消える。
〈蝕根〉によってグラド・バルムへ食い込ませた侵食は、一度魔力を奪えば役目を終える単発の術ではない。対象との接続が維持されている限り、根を張った植物が地中から水を吸い上げるように魔力を少しずつ啜り取り、その流れを途切れさせることなく術者へ送り込み続ける――つまり、ヴァルガが戦闘開始時に手に入れた魔力量を消費しているのではなく、崖下に残された巨体そのものを供給源として、戦っている最中にも燃料を補充し続けているのだ。
しかも、厄介なのは供給量だけではない。
流れ込んだ魔力はヴァルガの内側で一度使われて消えるような単純な消耗品ではなく、その時々で必要な部位へ回され、身体と〈根喰〉の双方を効率よく動かすために使われている。脚へ寄せれば踏み込みの爆発力が増し、腰や背へ通せば旋回に必要な筋力を補助でき、腕へ流せば重量を増した〈根喰〉を振り回す負荷さえ押し下げられる。そして身体強化によって本来なら動作へ割かなければならなかった余力が生まれれば、そのぶんを武器の制御へ回せるため、柄を縮める、穂先を崩す、魔素を反対側へ移す、別の形へ組み直す――それまで段階を踏んでいた一連の変形処理まで、戦闘が続くほど滑らかに繋がっていく。
一つの部分が強くなれば、そこに使っていた余力が浮く。
浮いた余力を別の部分へ回せば、今度はそちらの処理が速くなる。
その積み重ねによって扱える魔力の幅が増えれば、さらに強い身体強化と、さらに複雑な武器変形を同時に成立させられる。
もちろん、ヴァルガ本人の魔力容量が戦闘中に際限なく膨張しているわけではない。外から絶えず流れ込んでくる異質な魔力をその場で噛み砕き、自分の回路へ馴染ませながら使えるところから順番に戦闘能力へ変えているだけだ。
だから、時間が経つほどに速くなる。
打ち合うほどに重くなる。
そして何より面倒なのは、アスカがヴァルガの動きへ慣れ、癖を拾い、攻略するための基準を組み上げているあいだにも、その基準のほうが少しずつ古くなっていくことだった。
十秒前なら、届いた。
五秒前なら、間に合った。
一合前なら、まだ流せた。
戦闘では本来、そうした小さな経験を重ねるほど相手への理解が深まり、最初は危険だった攻撃にも対応できるようになっていく。しかしヴァルガを相手にすると、その経験則へ身体を預けた頃には当の本人が半歩ぶん先へ進んでいる。
「……根こそぎ奪ってるってわけね」
アスカが小さく呟く。
どうやら聞こえていたらしい。ヴァルガは〈根喰〉を肩へ引っ掛けたまま、楽しそうに犬歯を覗かせた。
「今さら気づいたか?」
その言葉を肯定するように、彼の足元を這う黒緑の魔力がひときわ強く脈打った。
淡い光がふくらはぎから太腿へ駆け上がり、腰を巡って背筋をなぞると肩から右腕へ一息に流れ込む。筋肉がわずかに膨らみ、それまで身体の内側へ薄く散っていた力が〈根喰〉を握る掌へ向かって一本の流れにまとまり始めた。
アスカは動かない。
代わりに意識の端だけを先ほど三歩退く途中で残しておいた〈空蝉〉へ触れさせる。
左足を置いた場所。
ほんの少し腰を落とし、右肩を後ろへ引いた姿勢。
それだけ。
斬撃は記録していない。炎も込めていなければ踏み込みに力を乗せたわけでもないため、〈空蝉〉が再生されたところで誰かを傷つける作用は何ひとつ起こらない。
だからこそ、価値がないように見える。
ヴァルガの注意が向いているのは目の前に立つ現在のアスカと、自らの手の中で自在に形を変える〈根喰〉、そして崖下から絶えず供給される魔力の流れだった。彼にしてみればアスカが後退の途中で残した一瞬の姿勢など、攻撃でも防御でもない、とうに終わった身体の形でしかない。
それでいい。
〈空蝉〉が万能ではないことくらい、使っている本人が誰よりよく知っている。
この能力が再現できるのは単純な意味での「過去」ではなく、アスカがその場所に存在し、そこで特定の行動を取ったという“位置と行為が結びついた記録”である。だからその対応関係を現在側から壊されれば、保存された作用は正しい再生先を見失う。地面そのものを崩される。途中へ新しい壁を差し込まれる。結界によって空間の性質を書き換えられる。あるいは座標の繋がりをずらされる――そうやって過去に「ここで踏んだ」「この位置から斬った」と記録された空間と、現在そこに存在する空間が別物になれば、〈空蝉〉は記録どおりの結果を現実へ戻せなくなる可能性がある。
ヴァルガが踏み込んだ。
足元から黒緑の魔力が跳ね上がり、腰を抜けて一気に右腕へ流れ込む。
その力へ応じて〈根喰〉が形を変え始めた。
けれどアスカはもう——武器を見ていなかった。
見ているのはヴァルガの右肩へ流れ込む力、その先で掌へ集まり、まだ刃にも柄にもなっていない魔素が〈根喰〉という形を得るまでに生じるごく短い〈空白〉だけ。
そこで先ほど置いた〈空蝉〉が静かに起き上がった。
数歩横。
過去のアスカが左足を踏む。
実体はない。
斬撃も来ない。
炎すら生まれない。
ただ腰を低く落とし、右肩を後ろへ引く――剣士であればそれを見た途端に「ここから斬る」と理解できる姿勢だけが、何もない場所へ唐突に再現される。
攻撃能力を持たない〈空蝉〉。
そしてそれこそが今のアスカには必要だった。
現在のアスカは正面にいる。
過去のアスカは数歩横で、今にも〈緋燕〉を振り抜きそうな姿勢を取っている。
ヴァルガの目が、わずかに細くなった。
どちらだ。
現在のアスカが来るのか。
それとも、横に現れた〈空蝉〉から保存済みの斬撃が再生されるのか。
その問いがヴァルガの中に生まれた時点で、アスカにとっては十分だった。
現在のアスカは踏み込まない。
〈空蝉〉も斬らない。
過去の姿勢がそこへ置いているのは刃ではなく、「ここから斬撃が来るかもしれない」という可能性だけであり、それまで攻撃作用そのものを警戒していたヴァルガの意識へ存在しない起点を一つ増やしている。
ほんのわずか。
ヴァルガの右肩が強張った。
横から来るかもしれない斬撃へ備え、身体の向きを変えられるよう重心が残る。
掌へ集まりかけていた黒緑の魔力もまた、完成させるはずだった〈根喰〉の形を一瞬だけ迷うように揺らいだ。
――そこ。
ここでようやく、アスカの足が前へ出る。
狙ったのはヴァルガ本人ではなかった。
右腕でもない。
脇腹でも、喉でもない。
〈緋燕〉の切っ先が向かったのは、ヴァルガの掌へ集まりながらまだ〈根喰〉という武器として輪郭を結び切っていない黒緑の魔素――吸い上げられた力が、彼の意思によって武器へ変わろうとしている、その途中だった。
完成してからでは遅い。
槍になれば間合いが変わる。棍になれば重心が変わる。刃になれば攻撃点が変わる。
ならば、何になるのか決まる前に斬ればいい。
緋燕の鋒が、黒緑の揺らぎへ斜めに滑り込む。
返ってきた感触は肉を裂いたときの柔らかさとも、金属を噛んだときの硬質な反発とも違っていた。
粘る。
絡みつく。
まるで水をたっぷり吸った無数の根を束ね、その中心へ刃を押し込んだような重い抵抗が刀身へまとわりつき、断たれることを拒む魔力が不快な震えとなって〈緋燕〉からアスカの掌まで這い上がってくる。
それでも刃は止まらなかった。
黒緑の流れに一本、細い断絶が走る。
そこで初めて。
ヴァルガの笑みが、わずかに歪んだ。
「最高だな、お前」
ヴァルガの声に滲んでいたのは、攻撃を潰されたことへの怒りではなかった。
かといって、純粋な驚きとも少し違う。
自分だけが仕組みを知り、好き勝手に弄んでいた玩具へ横から不意に指を差し込まれ、それまで誰にも触らせなかった仕掛けを勝手に動かされた子どものような――わずかな不愉快さとそれを上回る興味が、妙に楽しげな声音の底で混ざり合っている。
〈緋燕〉を食い込ませた箇所から、黒緑の魔素が乱れた。
それまでヴァルガの掌へ向かって一方向に集束していた流れが刃を境に二つへ割れ、互いの行き先を見失ったように渦を巻く。その影響は形成途中だった〈根喰〉にもすぐ現れ、細長くまとまりかけていた穂先が中ほどからわずかにひしゃげると、黒銀の表面へ水面を乱したような歪みが走った。
アスカは刃を引かない。
むしろ、押し込む。
完成した武器と打ち合えば、ヴァルガはその形を捨てればいい。こちらが槍へ対応したところで棍へ変え、棍を流せば刃を別の場所から作り、重心を読めばその重心そのものを移動させてくる――ならば狙うべきは何にでもなれる自由を持っている時間ではなく、その自由を捨てて「一つの武器」へまとまろうとする途中だ。
〈緋燕〉が、さらに半寸だけ魔素の流れへ沈んだ。
ヴァルガの左足が動く。
踏み替えるつもりだ。
崩れた〈根喰〉へ固執せず、グラド・バルムから奪い続けている魔力を脚へ回し、一度間合いを外してから別の形で組み直す――足裏へ魔力が落ち、ふくらはぎが張るより前、その流れが腰から左脚へ分岐した時点でアスカにはもう意図が見えていた。
今なら、まだ追える。
ヴァルガが一合ごとに速くなるのなら、同じ速さで追いかける必要はない。
追うものを変えればいい。
過去を置き、現在の自分をそこから外す。出来上がった武器ではなく武器になる前の魔素を見る。振るわれた攻撃を追うのではなく、攻撃が生まれるために力の集まる場所を探し、形が完成するより先に刃を差し込む。
相手が戦いながら変わるのなら――こちらも読み方を変え続ければいい。
アスカの唇が楽しむようにほんの少しだけ弧を描いた。
「ねえ」
声は、静かだった。
「それ、私の前でずっと作れると思ってる?」
ヴァルガの犬歯が、また覗く。
「おもしれえ」
黒緑の魔力が足元でさらに太く脈打つ。
崖下のグラド・バルムから伸びる〈蝕根〉の線が、まだ切れていない。
アスカの刃はヴァルガの掌の魔素を裂いている。
それでも根はまだ吸い続けている。
戦いは終わらない。
むしろここから先、ヴァルガはさらに重く速く——形を変えてくる。
アスカはそれを理解したうえで、〈緋燕〉の刃をわずかに傾けた。




