第54話 面倒くさ
前へ落ちる領域。〈緋燕〉の切っ先がそこへ滑り込むまでの入射角。ヴァルガ・ローディスの右肩から掌へ集まりつつある魔力が、武器という明確な輪郭を得るより先に通過しなければならない最短の経路。
アスカの中で組み上がっていたのは、もはや「どこから槍が来るのか」という単純な予測ではなかった。
足裏へ落ちた荷重が腰を押し、腰から背へ渡った力が肩の向きを決め、その肩から腕へ抜けていく魔力が最終的にどの位置で〈根喰〉という形を取るのか――攻撃が完成してから軌道を読むのではなく、完成するまでに必ず通らなければならない身体と魔力の道筋を逆算し、その途中へ〈緋燕〉を差し込むための角度だけを拾っていく。槍になるなら、その前。刃になるなら、さらに前。何になるかさえ決まっていないなら、なおさら都合がいい。完成した武器には用途がある。長さがあり、重さがあり、ヴァルガ自身が選んだ攻撃方向がある。けれど形を得る以前の魔素には、まだどこへ力を逃がすべきかという答えがない。
ならば、その答えが生まれる場所へ先に刃を置けばいい。
ヴァルガはその意図を知ってか知らずか、右腕へ集めていた黒緑の魔力をいったん掌の手前で膨らませた。そこまでの戦いであれば、その収束は間違いなく〈根喰〉を形成する前兆だった。脚から腰へ、背を抜け、肩を通って腕へ流れ込んだ力が最後に手の中へ集まり、そこから槍なり棍なり刃なりへ姿を変える。アスカがようやく見つけた「武器になる前の場所」が、これ以上ないほど明瞭な形で目前へ晒される。
狙えと言っているようにさえ見えた。
アスカは躊躇しない。
相手が罠を張っている可能性まで含めて考え始めれば、せっかく手に入れた先手を自分から手放すことになる。ヴァルガという男は、判断を終えてから動く相手ではない。ならばこちらも、確信を得てから斬る必要はなかった。
右足が岩肌を捉える。
身体を深く沈めるほどの予備動作は作らず、前へ落ちようとする重心だけを利用して半歩ぶん距離を削り、その移動と重なるように〈緋燕〉を下から斜めへ滑らせる。狙いは先ほどと同じく、掌へ集まりつつある魔素の中心。形が決定する直前、最も多くの選択肢を抱えながら、まだどの選択にも力を逃がせない一点。
刃が届く。
黒緑の光が裂ける。
そう見えたところで、アスカの眉がわずかに動いた。
軽い。
先ほど〈緋燕〉へまとわりついてきた、湿った根束を断ち割るような粘りがない。刃先が触れた黒緑の魔力は、抵抗らしい抵抗を返すことなく二つへ割れ、そのまま薄い煙となって左右へほどけていく。
空だった。
魔素そのものが偽物というわけではない。確かにヴァルガの身体を巡り、掌へ集められていた力ではある。ただし、それは〈根喰〉を形成するために集められたものではなかった。
アスカがそこへ刃を差し込むことまで見越したうえで、わざと「武器になる途中」に見える流れを作っただけ。
「――へえ」
声を漏らしたのが、どちらだったのか。
判別するより早く、ヴァルガの左肩が落ちた。右手へ魔力を集めていたはずの男が、右ではなく左側へ身体を倒す。その動きと同時に、アスカが斬り裂いた黒緑の魔素の片割れが消えずに空中へ残り、糸を引くようにヴァルガの左肘へ吸い寄せられた。
――流した?
切られたのではない。
切らせた。
〈緋燕〉によって分断された魔力を失敗として捨てる代わりに、その断面さえ利用して流路を組み替えている。
アスカが右掌へ刃を送ったことで、自らの腕と刀は当然ながら右側へ伸びている。肩も半身ぶん前へ出ており、胸郭の左側にはわずかな空間が生まれていた。
ヴァルガの左肘がそこへ入る。
拳を振るうほどの距離すら必要ない。肘から先をほとんど動かさず、脇を締めるだけの小さな動作とともに黒緑の魔素が前腕へ凝縮されると、肘頭を覆うように短く太い〈根喰〉の刃が形成された。
「読めるようになったと思ったか?」
低い声とともに、黒銀が迫る。
アスカは〈緋燕〉を戻さなかった。戻していては間に合わない。刃を引くのではなく、斬り込んだ姿勢から手首だけを返して鍔元を内側へ捻り、刀身の腹をヴァルガの前腕へ押しつける。斬るためではなく、自分へ向かってくる肘の向きをほんのわずか外へずらすための接触だった。
黒銀の刃が脇腹を掠める。
衣服が裂け、皮膚へ熱い線が走った。深くはない。それでも避け切れなかった。アスカは接触した〈緋燕〉を支点に身体を外へ逃がし、ヴァルガの左腕の内側を滑るようにして横へ抜ける。
二歩。
三歩。
距離を開けながら脇腹へ指先を触れれば、薄く血が滲んでいた。
「……そっか」
痛みではなく、理解を確かめるような声だった。
ヴァルガは楽しそうに肩を揺らす。
「一個だけヒントを与えてやるよ」
アスカが顔を上げる。
男の右手には、まだ武器がない。左肘を覆っていた短い刃もすでに黒霧へ戻り、〈根喰〉を形作っていた魔素は腕や肩の周囲へ薄く散っている。
「俺がどこで武器を作るか読むって考え方は悪くねえ」
ヴァルガはそう言いながら、右の拳を軽く開いた。
「でもよ」
散っていた黒緑の魔素が、掌へ集まらない。
肩にも、肘にも、腰にも集まらない。
代わりに、ヴァルガとアスカのあいだにある何もない空間の一点が、黒く染まった。
アスカの瞳が細くなる。
そこには手がない。身体もない。魔力を送り込むための腕さえ存在しない。にもかかわらず黒緑の粒子は一点へ吸い寄せられ、細い棒状の輪郭を作り始めている。
「誰が――」
ヴァルガの笑みが深くなる。
「〈根喰〉を、俺の手から生やすって言った?」
空中へ生まれた黒い穂先が、アスカの喉元を向いた。
もしも。
もしもヴァルガが自由に〈根喰〉を空間に生成できるのなら。
そんな憶測を確信へ置き換えるより早く、ヴァルガは自らの魔力の奔流をアスカへ向けた。
――二本?
アスカが目を疑ったのは、〈根喰〉が生成される箇所が一箇所ではなかったからだ。
一本は空中。
もう一本は、彼の右手。
攻撃の範囲と幅が、一気に三次元的に広がっていく。
これまでの〈根喰〉には、どれほど形を変えようとも最低限ひとつだけ変わらない前提があった。ヴァルガの身体へ集められた魔力が肩や腕を通り、掌や肘といった肉体上のどこかを起点として武器へ変わること。だからアスカは槍そのものを見ることを捨てても、ヴァルガという人間の身体へ視線を戻すことで次の攻撃が生まれる場所を逆算できた。足裏から腰へ渡る荷重、背筋の収縮、肩の角度、腕へ流れ込む黒緑の魔力。その一連の繋がりの先に武器が現れる以上、どれほど自在に変形しようと「身体を経由する」という一点だけは読みの土台として残るはずだった。
いま、その土台が消えた。
ヴァルガの右手では、指の隙間へ集まった黒緑の魔素が短槍ほどの〈根喰〉へ輪郭を変えつつある。そして同時に、彼の身体から数歩離れた空中では、何にも触れていない魔力だけが一点へ収束し、こちらへ穂先を向けたもう一本の〈根喰〉を形成している。
腕から武器へ。
身体から攻撃へ。
そうやって一本の線として追えていた因果が二つへ枝分かれし、そのうち片方には人間の関節も筋肉も、予備動作として読み取れる身体操作さえ存在しない。
アスカの視線が右へ走る。
空中の穂先はすでに喉へ向いていた。
一方でヴァルガ本人は、右手側の〈根喰〉をまだ完成させていない。ならば先に来るのは空中――そう判断して身体を外へ逃がそうとしたところで、目の端に映った男の肩がほんのわずか沈む。
そちらも来る。
回避方向が一つでは足りない。
空中から一直線に喉元を穿とうとする黒槍と、ヴァルガの右手から伸びながら横薙ぎへ移ろうとする〈根喰〉。前者だけを避けて低く潜れば後者の軌道へ自分から入ることになり、横へ逃げれば空中の穂先が進路を塞ぐ。後退すれば二本の射程が重なるだけで、跳び上がる選択もまた、上方へ新しい武器を作れる可能性がある以上、確実な逃げ道とは呼べなかった。
「ハッ!」
ヴァルガの笑声とともに、二本が動く。
空中に浮いていた〈根喰〉が、何者にも握られていないまま前へ滑り出した。
投擲されたわけではない。穂先を加速させる腕もなければ、柄を押し出す肩も存在しない。黒緑の魔力が後方へ噴き出すように一度だけ膨張し、その反作用を受けたかのように武器全体がまっすぐアスカへ射出される。ほぼ同時に、ヴァルガの右手で完成したもう一本は長さを半分ほどまで縮めながら外側へ振られ、空中の槍によって限定された退路を薙ぎ払うように横から迫ってきた。
挟まれた。
そう認識したところで、アスカは二本の武器を別々に処理することをやめた。
右足を引く。
身体を逃がすためではない。
ほんの数呼吸前、自分が三歩退いた際に残した〈空蝉〉――左足で地面を踏み、腰を落とし、右肩を引いただけの何の攻撃能力も持たない記録、その位置へ現在の自分を重ねるように半身をずらしながら、意識だけで保存していた動作を起動する。
過去のアスカが立ち上がる。
実体を持たない輪郭が現在の身体とわずかに重なり、同じ場所へ二人の姿が一拍だけ並ぶ。
空中の〈根喰〉は止まらない。当然だ。人間の目を欺くための幻ではない以上、そこに二人見えたからといって武器自体が迷う理由はない。ヴァルガがどちらを狙っているのか、それとも生成時点で軌道を固定しているのか、その仕組みすらまだ分からない。
それでも〈空蝉〉を出した意味は別にある。
過去のアスカが左足を踏む。
記録された荷重だけが地面へ返る。
岩肌の表面がほんのわずかに砕け、小さな砂礫が横へ跳ねた。アスカはその動きに合わせ、自分自身の左足を逆方向へ滑らせる。本来なら一人の身体から一方向にしか生まれない踏み込みの兆候が、同じ地点から二つへ割れる。
ヴァルガの瞳が動いた。
その僅かな視線の揺れだけで十分だった。
アスカは、真正面へ飛び込む。
「――そっちかよ」
ヴァルガの声には笑いが混じっている。
退路を潰されたなら逃げる。普通ならそう考える。けれど二本の〈根喰〉によって作られた危険域にも、完全に重なっていない場所はある。空中から飛ぶ槍は喉を狙い、横薙ぎは胴の高さを走る。その二つが交差するより手前、ヴァルガ本人へ近づけば近づくほど、空中の槍は角度を修正しなければならず、横薙ぎの〈根喰〉も十分な旋回幅を確保できなくなる。
つまり安全地帯は外ではない。
内側にある。
アスカは首を傾けるだけで空中の穂先を避けた。刃が耳元を裂くような風を残して背後へ抜ける。横から迫る〈根喰〉には〈緋燕〉を合わせず、腰を限界まで沈めて刃の下へ潜り込む。黒銀が髪を掠め、その圧だけで後ろへ束ねた髪が大きくなびいた。
一歩。
さらに一歩。
そこまで潜られれば、ヴァルガの右手にある〈根喰〉は再び短くなる。
それも分かっている。空中へもう一本作られる可能性もある。それも分かっている。
アスカが見ていたのは、もはや武器の数ではなかった。一本なら読む。二本なら二本を見る。三本なら三本――そんな処理を続ければ、増やされた時点でこちらが負ける。
ならば。
見るべきなのは、どうやって増やしているのか。
空中の〈根喰〉が生成された時、ヴァルガの掌へ魔力は集まっていなかった。肩にも肘にも偏りはなかった。けれど魔力そのものが、何もないところから生まれたわけではない。黒緑の粒子が空中へ収束する直前、ヴァルガの身体を巡っていた〈蝕根〉由来の魔力の一部が周囲へ薄く放出されていた。
身体を起点にしていないように見えただけ。
供給源まで消えたわけではない。
ならば――そこにも、道はある。
掌へ続く道ではない。ヴァルガ本人から空間へ伸びる道。肉体の外側へ魔力を放ち、任意の座標で〈根喰〉という輪郭へ集め直すための、見えない経路。
アスカの目が細くなる。
「なるほどね」
「何がだ?」
「別に」
答えながら、〈緋燕〉を返す。
狙ったのはヴァルガの首ではない。
手でも、腕でもない。
彼の身体と、空中に生成された〈根喰〉のあいだ。
何も存在しないように見える空間へ、アスカは刃を走らせた。
〈緋燕〉が、何もない空間を斬る。
見た目だけなら空振りとしか呼びようのない一閃だった。刃先が肉へ届いたわけでも、黒銀の武器を捉えたわけでもなく、ヴァルガと先ほど空中へ形成された〈根喰〉とのあいだ、その中ほどを横切っただけ。にもかかわらず、刀身が一点を通過したところで、確かな抵抗がアスカの手首へ返ってくる。
細い。
あまりにも細く、意識して探していなければ風圧に紛れて見落としていただろう。
黒緑の糸。
ヴァルガの身体から外へ放出され、空間に作られた〈根喰〉へ魔素を送り込んでいた目に見えないほど希薄な流路が、〈緋燕〉によって一拍だけ輪郭を露わにした。
刃がそこへ食い込む。
糸が張る。
濡れた蔓を無理やり引き裂いたような重い感触を残しながら、一本の魔力路が途切れた。
直後、背後へ抜けたはずの〈根喰〉が空中で形を崩す。
黒銀の穂先から細かな亀裂が広がり、柄まで一息に走った歪みが武器全体を内側からほどくように侵食すると、数拍前まで確かな質量を持って飛んでいた長槍は黒い霧へ戻り、崖上を渡る風に散らされていった。
「……やっぱり」
アスカの口元へ小さな笑みが戻る。
空間そのものから無制限に武器が湧いているわけではない。ヴァルガの身体から魔力を飛ばし、任意の場所まで送り、そこで〈根喰〉へ組み直している。身体上に武器を作る場合と比べれば経路が長いぶん見えづらいだけで、そこにも始点と終点はある。身体を起点とした武器生成そのものが消えたのではなく、起点と終点の距離が離れただけ。目に見える腕や肩の代わりに、肉眼では捉えにくい魔力路がその役割を担っている。
見つけられる。
斬れる。
それなら、まだ戦える。
「そりゃ見えるよな」
ヴァルガが、妙にあっさりと言った。
アスカの目がわずかに細くなる。
男は悔しがっていない。魔力路を見抜かれたことにも、〈根喰〉の生成を一度止められたことにも、驚きらしい驚きを見せていない。
むしろ。
「そこまで見えるなら、ちょうどいい」
ヴァルガの口元が大きく裂ける。
嫌な予感がした。
アスカは〈緋燕〉を構え直すより先に身体を横へ流した。
遅い。
さきほど斬りかけた一本とは別方向。
背後。
右斜め上。
足元。
三箇所で、黒緑の光が灯る。
「――っ」
一本ではない。
それぞれの位置へ伸びる魔力路そのものが、最初から別々に敷かれていた。
アスカの視界に黒い線が増えていく。
ヴァルガの肩から右斜めへ伸びるもの。腰の裏側を回り込んで地面すれすれを這うもの。背中側から大きく弧を描き、アスカの死角へ潜っているもの。そのいずれも太さは同じではなく、流れる魔力量も一定ではない。一本は強く明瞭で、もう一本は今にも消えそうなほど薄く、残るひとつに至っては途中で枝分かれし、どちらが本命なのか判別しにくい形で空間を走っている。
その先で、武器が形を得る。
右斜め上に生まれたのは短い槍。
背後には細身の刃。
地面近くでは刃物と呼ぶには幅の広い、楔にも似た黒銀の塊がアスカの足首へ向いていた。
そしてヴァルガ本人の右手には、まだ〈根喰〉が残っている。
「三本……」
「数えてる暇あんのか?」
ヴァルガが踏み込む。
右手の〈根喰〉は短槍のまま、正面から胸元へ伸びてくる。
同時に、右斜め上の〈根喰〉が斜め下へ落ち、背後の刃が横へ滑り、足元の楔が地表すれすれを這った。
一度に四方向。
それでも、アスカは止まらなかった。
正面の穂先へ〈緋燕〉を当てる。真正面から弾くのではなく、刀身の角度を寝かせながらヴァルガの槍を外へ流し、その接触を利用して身体を半回転させる。右斜め上から落ちてきた刃は肩を引くことでかわし、背後から走る刃については姿勢を低くしたまま髪一本ぶん下へ潜り、足首を狙う楔だけを右足の踵で地面を蹴って跳び越える。
完全には避け切れない。
斜め上から落ちた〈根喰〉の先端が左肩を浅く削る。
血が散る。
アスカは顔色ひとつ変えず、そのままヴァルガの右懐へ入った。
近づけばいい。
少なくとも本人が操っている武器については、距離を潰すことで振り幅を奪える。
その前提はまだ死んでいない。
〈緋燕〉が走る。
ヴァルガの喉ではない。
右肩から外へ伸びる魔力路。
空中の〈根喰〉へ力を送っている一本を断つ。
黒緑の線が弾ける。
右斜め上に残っていた短槍が崩れ落ちた。
続けてもう一本。
背後へ伸びる経路へ刀身を返す。
届く。
そう思ったところで、魔力路のほうが動いた。
「……は?」
アスカの刃先から逃げるように、黒緑の線が蛇行する。
空間へ固定されているわけではない。一本の経路を敷き、一度その道を通せば終わりではなく、ヴァルガは武器へ魔力を供給している最中でさえ、その道筋自体を変えられる。
〈緋燕〉が空を切る。
避けた魔力路は大きく弧を描き、その先で別の経路と重なった。
二本が一本へまとまる。
流れ込む魔力が増える。
背後に浮いていた細身の刃が一度霧へ戻り、代わりにアスカの左側――先ほどまで何も存在していなかった位置へ、太い穂先が形成された。
「道まで……変えるわけ?」
「そりゃそうだろ」
ヴァルガが笑う。
「武器の形が変えられんのに、そこまで持ってく道だけ律儀に固定してどうすんだよ」
言い終えるより早く、黒銀が迫る。
アスカは首を捻る。
穂先が頬を掠め、わずかに遅れて血が一筋落ちた。
その傷を気にする余裕はない。
右手の〈根喰〉。
空中に二本。
足元に一本。
さらに、それらへ繋がる魔力路自体が流動している。
数の問題ではなかった。
四本だから四回避ければいい、五本になったなら五回処理すればいい――そんな単純な足し算ではない。
一本は正面から斬りかかる。
一本は退路を塞ぐ。
一本は低い位置へ残り、跳躍や踏み込みの選択肢を削る。
もう一本はすぐには攻撃せず、そこにあるだけでアスカが身体を向けられる角度を制限する。
攻撃してくる武器。
動きを縛る武器。
逃げ道を消す武器。
次の攻撃を成立させるために待っている武器。
それぞれが異なる役割を持ち始めている。
〈根喰〉は増えているのではない。
戦場の中へ、機能の異なる攻撃点が配置されていく。
「面倒くさ……」
アスカが呟く。
悪態とは裏腹に、目は冷えていた。
空中へ浮かぶすべてを追う必要はない。攻撃意思を持つもの。牽制として残っているもの。魔力の供給が薄く、見せ札に近いもの。それを分ける。いくら本数が増えても、ヴァルガ自身が同時に完全制御できる量には限界があるはずだ。魔力だって無限ではない。〈蝕根〉でグラド・バルムから吸い続けているとはいえ、一度に流せる量、身体の内側で変換できる量、空間へ展開した〈根喰〉を維持するために必要な処理――どこかに上限はある。
アスカの意識が周囲へ広がる。
一。
右手。
二。
左斜め上。
三。
背後。
四。
足元。
そのうち、背後の一本は魔力が薄い。
捨てる。
足元は濃い。
こちらは踏み込みを封じるための本命。
左上は――。
魔力が急に膨らむ。
アスカが半歩下がる。
黒い刃が眼前を落ちた。
同時に足元の〈根喰〉が伸びる。
そこは読んでいる。
〈空蝉〉を起動。
数歩後ろ。
過去のアスカが踏み込む。
地面へ返された荷重が岩肌を砕き、その破片が足元の黒槍へ当たる。威力そのものは足止めにもならない。ただ、砂礫が弾けたことで刃の位置が一拍だけ視認しやすくなる。
アスカはその隙間へ足を入れる。
半歩。
身体を捻る。
〈緋燕〉を逆手気味に返し、足元へ伸びる魔力路を断つ。
一つ消える。
残り三つ。
まだ行ける。
ヴァルガの右手が動く。
正面。
捌く。
左斜め上。
避ける。
背後は薄い。
無視――。
背中に衝撃が走った。
「っ!」
アスカの身体が前へ押し出される。
浅い。
刃ではない。
先ほどまで魔力の薄かった背後の〈根喰〉が、攻撃の直前だけ一気に質量を増やし、刃ではなく鈍器めいた幅広い形へ変わって背中を打ったのだ。
肺から空気が押し出される。
前へ倒れそうになる。
そこへヴァルガがいる。
〈根喰〉の石突が腹へ向かう。
アスカは咄嗟に〈緋燕〉の鍔元を差し込み、真正面から受ける代わりに身体を横へ滑らせた。
衝撃。
手首が痺れる。
足元が浮く。
一歩。
二歩。
強引に距離を取り、片膝を地面へ着く寸前で踏みとどまった。
「……濃さも、変えるんだ」
「見えてんじゃん」
ヴァルガは嬉しそうに答える。
空中へ浮かぶ〈根喰〉の数は変わっていない。それでも、先ほどより明らかに厄介になっている。魔力の薄い一本が囮とは限らない。濃い一本が本命とも限らない。攻撃する直前まで力をほとんど流さず、アスカの判断から外れた時点で一気に魔力を送り込むこともできる。
つまり、魔力の流れを読むという攻略法にさえ、ヴァルガはもう対応を始めている。
アスカの呼吸が、少しだけ深くなった。
疲れている。
まだ剣を振れる。
足も動く。
反応も鈍ってはいない。
それでも戦い始めた頃より、明らかに身体へ負担が積み重なっていた。
一方のヴァルガは速く、重く、まだ増えている。
黒緑の線が地面を這う。
崖下。
死んだグラド・バルム。
そこから吸い上げられる魔力が止まらない。
ヴァルガの背後へ二本。
頭上へ一本。
足元へさらに一本。
空中に黒い輪郭が現れる。
「……増やしすぎじゃない?」
「増やす?」
ヴァルガが首を傾げた。
その言い方が気に入らなかったらしい。
「違う違う」
男は〈根喰〉を肩へ軽く担ぐ。
「お前、まだ武器の本数で見てんのか?」
ヴァルガの言葉に、アスカの瞳がわずかに細くなった。
男は答えを急かすでもなく、肩へ担いでいた〈根喰〉から片手を離すと、人差し指だけを軽く動かした。その合図に呼応するように頭上の黒銀が伸びたものの、穂先はアスカへ向かわずに真上を越えて背後の岩壁へ深く突き刺さる。続いて左側に浮いていた一本が地面へ落ち、土と岩の継ぎ目を割りながら斜めに食い込み、さらに右、少し離れた後方へも新しい〈根喰〉が配置されていく。いずれも攻撃のための軌道ではなく、わざと彼女の身体を外している。
――何をしてる。
疑問が形になったところで、アスカはすぐに考えを修正した。
槍そのものを見るから分からない。
重要なのは、あれがどこにあるかだ。
岩壁へ刺さった一本。左の地面に食い込んだ一本。右側に浮いた一本。少し遠くへ置かれた一本。それぞれの位置から、どちらへ伸ばせるか、どの方向へ質量を移せるか、どの魔力路と接続すれば別の攻撃点へ変えられるか。一本を目立つように脈動させて囮に使い、その陰で別の一本へ本命の魔力を送り込むこともできる。必要なら二本の経路を途中で重ね、一本へまとめた流れを別の場所でまた分岐させることだってすでに見せられている。
ヴァルガは武器を増やしているのではない。
戦場の中へ、自分が攻撃を始められる場所を増やしている。
「俺の〈根喰〉はよ」
ヴァルガがゆっくり笑った。
「一本で戦う武器じゃねえんだわ」
その言葉を合図にしたように、周囲へ散っていた黒緑の魔力が一斉に膨らむ。
岩壁。地面。頭上。右手。背後。
離れた位置へ置かれた〈根喰〉どうしを繋ぐように細い魔力路が走り、途中で交差し、枝分かれし、二本だったものが一度ひとつへ重なったかと思えば、その先でまた別方向へ割れていく。空間の表面へ線が浮いているというより、見えない地中へ根が張り巡らされ、その一部だけが黒緑の光となって露出しているようだった。どこが始点で、どこが終点なのか。どの経路に本当に力が流れていて、どこまでが見せかけなのか。一本ずつ追っていたはずの情報量は、ほんの数呼吸のあいだにアスカが一目で処理できる数を越えていく。
右側の一本へ魔力が集まる。
アスカがそちらへ視線を寄せる。
直前で流れが消える。
代わりに左。
〈緋燕〉の切っ先を向ける。
そこも違う。
今度は頭上。
さらに背後。
なのに、攻撃そのものはまだ来ない。
ヴァルガがやっているのは、殴ることでも刺すことでもなかった。
逃げ道を、先に消している。
前へ出れば右側の〈根喰〉が届く。後ろへ下がれば岩壁へ刺さった一本が伸び、左へ逃げれば地面へ伏せた黒銀が軌道を持ち、上へ跳べば頭上に浮く槍が落ちてくる。それらを避けるため身体の向きを変えれば、今度はヴァルガ本人の正面へ胸か脇腹のどちらかを晒すことになる。
――まずい。
ここへ来て初めて、その二文字がアスカの中で曖昧な警戒ではなく、はっきりした意味を持った。
危険なのは本数ではない。
一撃ごとの威力でもない。
選択肢そのものを奪われている。
ヴァルガは、アスカが動いてからそれに合わせて武器を出しているわけではなかった。先に複数の攻撃起点を戦場へ配置し、どこへ動いても必ず別の〈根喰〉へ接続できる状態を作り上げたうえで、最後に選ばれた方向へ必要なだけ魔力を流す。相手の行動へ反応して攻撃するのではなく、相手が選べる行動をあらかじめ狭め、その選択そのものを攻撃条件へ変えている。
読むべき対象が増えたのではない。
読むという行為の中へ、もっともらしい偽の答えを大量に混ぜ込まれている。
アスカは踏み込んだ。
ここに留まれば、囲いはさらに狭くなる。
なら、まだ完全に閉じ切る前に突っ切るしかない。
正面。
ヴァルガ。
〈緋燕〉を低く寝かせ、右足で岩肌を蹴る。深く沈み込むほどの予備動作は作らず、前へ倒れようとする重心そのものを加速へ変え、一気に間合いを削った。
進路へ一本。
左から二本目。
頭上から三本目。
アスカは最初の穂先へ〈緋燕〉を浅く当て、刃の腹を滑らせることで軌道だけを外へ流す。二本目は腰を捻って紙一枚ぶん身体を外し、上から落ちてくる三本目には、自分で斬り返す代わりに数呼吸前へ置いた〈空蝉〉を起動した。
何もない空間に、過去の〈緋燕〉の斬線が戻る。
実体のないアスカがかつて振るった結果だけが現実へ再生され、頭上から落ちてきた〈根喰〉とぶつかった。黒銀が横へ弾かれ、空中で大きく軌道を乱す。
進める。
あと三歩。
二歩。
そこで、足元の岩が内側から割れた。
〈根喰〉の姿は見えていなかった。
地表にも、空中にも。
にもかかわらず先ほど左側へ突き立てられた一本から地下を這うように魔力路が伸び、その終点だけがアスカの足元へ潜り込んでいた。地面を起点とした攻撃点を「そこに刺さっている槍」としてしか見ていなかったせいで、その下を通る経路まで読みから外れていた。
黒銀の穂先が真下から突き上がる。
「――っ!」
アスカは腰を捻った。
完全には外せない。
刃が太腿の外側を裂き、遅れて熱が走る。深傷ではない。けれど脚を支える筋肉へ一瞬だけ力の抜ける感覚が広がり、踏み込みの速度がわずかに落ちた。
それでも止まらない。
痛みを確認するより先に残った脚で踏み切り、そのままヴァルガの懐へ入る。
〈緋燕〉が走った。
狙いは首。
距離は足りている。
届く。
ところがヴァルガは避けなかった。
笑った。
肩口で黒緑の魔力が膨らむ。
アスカの視線が反射的にそちらへ寄る。
――違う。
肩は囮。
本命は背後。
分かったときにはもう振り返れない。
アスカは迷わず〈空蝉〉へ意識を伸ばした。
起動したのは攻撃も炎も保存していない、ごく短い足運びの記録だった。
横へ走る過去のアスカ。
地面へ返る足音。
衣服が揺れる気配。
ほんの一拍だけでもヴァルガの視線をそちらへ引ければ、それでいい。
意味が薄いことは分かっている。
だからこそ、何でもいいから挟む。
判断を一度だけ遅らせるために。
過去のアスカが横へ走る。
ヴァルガの目は、動かなかった。
視線も。
肩も。
〈根喰〉へ流れる魔力も。
もう――引っかからない。
「同じの二回は効かねえよ」
言葉が届くのとほとんど重なるように、背後から鈍い衝撃が叩き込まれた。
重い。
刃で斬られた感触ではなく、幅を持たせた〈根喰〉を鈍器のように変形させ、その質量ごと背中へぶつけてきたのだと理解した頃にはアスカの身体はすでに地面から浮いていた。肺の奥に残っていた空気が喉から押し出され、前へ投げ出された視界の中で岩肌が急速に近づいてくる――そこへヴァルガの左手が伸びた。
〈根喰〉はない。
素手だった。
大きな掌がアスカの肩口を掴むものの、そのまま腕力任せに地面へ叩きつけてくる気配はなく、ヴァルガは飛ばされてきた勢いへ逆らわず身体の向きだけを半回転させると、前方へ向かっていた運動を横へ逃がすように腕を振り抜いた。
投げられる。
アスカは空中で膝を畳み、回転に逆らうのではなく自分から肩を入れて身体の軸を合わせると、地面へ触れた片手を支点に衝撃を逃がした。掌が岩肌を擦り、遅れて両足が着く。勢いを完全には殺せず靴底が横へ滑ったところで、先ほど裂かれた太腿へ焼けるような痛みが走り、ほんのわずか膝が沈んだ。
その一瞬を待つ必要すら、いまの〈根喰〉にはない。
顔を上げた時点で、三方向から黒銀の穂先がこちらを向いていた。
一本。
二本。
三――いや、違う。
右斜め後ろにもう一本。
頭上にも黒緑の魔素が集まり始めている。
五本。
そこまで数え、アスカは奥歯を噛んだ。
――数えるだけ無駄だ。
〈緋燕〉を横へ振る。
正面から来た一本を刃の腹で弾き、返す動作の途中で左から伸びた二本目へ棟を当て、その軌道を肩の外へ滑らせる。三本目は腰を沈めて避けたものの、死角から角度を変えた四本目までは完全に外し切れず、黒銀の切っ先が左肩を浅く裂いた。残る一本は攻撃してこない。数歩後方へ浮いたまま、こちらへ穂先を向けている。
退路を塞ぐためだ。
そう理解したときには、ヴァルガ本人が正面から踏み込んでいた。
右手の〈根喰〉が黒霧を引きながら太くなり、短槍というより鉄塊に近い形で振り下ろされる。アスカは〈緋燕〉を斜めに立てて受けたものの、刀身を通じて伝わった衝撃は腕の骨まで響くほど重く、まともに止めることを諦めて足を滑らせながら外へ流す。それでも痺れは指先まで残った。
押し返す。
同時に〈空蝉〉を起こす。
数秒前、別の場所で振るった〈緋燕〉の斬線がヴァルガの右後方へ再現される。男が半歩だけ身体を外した、その逃げ先へ現在のアスカが滑り込み、返した刀を脇腹へ走らせた。
届く――その手前で、何もなかった空間へ黒銀が生まれた。
〈緋燕〉が弾かれる。
右から別の〈根喰〉。
首を反らす。
避け切れず、頬へ細い熱が走る。
それでも足を止めない。
崩れた重心を左足で拾い、踏ん張る。
簡単には、一歩も渡さない。
アスカが積み重ねてきた剣技も、〈空蝉〉によって戦場へ残してきた十二の過去も、ヴァルガの攻撃を完全に封じられなくなったからといって、突然価値を失ったわけではなかった。保存していた斬撃を呼び戻せば一本の〈根喰〉を退かせられる。足音と姿しか持たない記録でも、置く場所と起動する時機を選べば視界の端へ余計な情報を増やせる。過去の踏み込みから荷重だけを再生して岩肌を砕き、跳ねた砂礫で見えにくい穂先の位置を拾うこともできる。そうして生まれた一拍にも満たない空白へ現在の自分を滑り込ませ、十二という限られた保存枠を古いものから捨てては新しい動作へ入れ替えながら、閉じかける戦場の中へ何度も自分が立てる場所を作り直していく。
それでも――足りない。
アスカが一本の〈根喰〉を潰すあいだに、ヴァルガは別の二箇所を攻撃へ転じられる位置へ移している。ひとつの魔力路を断てば、流れは枝分かれした別経路へ逃げ、囮を見抜けば、今度は「魔力が薄いから捨て札だ」と判断したこと自体を利用して、その一本へ攻撃直前だけ大量の力を流し込む。〈空蝉〉で存在しない斬撃を匂わせても、それを見破る必要さえないほど多くの攻撃点を先に置いてしまえば、ヴァルガは可能性ごと押し潰せる。
アスカが読みを更新する。
ヴァルガは、その新しい読みまで含めて戦場の形を変える。
「ほら」
黒銀の穂先越しに、ヴァルガが笑った。
「まだ終わってねえぞ」
黒緑の光が、一段遠くまで広がった。
これまでヴァルガを中心とした数歩の範囲へ複雑に絡み合っていた魔力路が、押し広げられるように一気に外側へ伸びていく。崖の岩壁を這う線。地表の割れ目へ潜り込む線。何の足場もない空中へ弧を描く線。アスカの背後へ回り込み、ヴァルガ本人の頭上を越え、さらに死角へ潜っていく細い流れ。その先端で黒緑の粒子が収束するたび、黒銀の輪郭がひとつ、またひとつと戦場へ生まれていった。
だが、それらは一斉に襲いかかってこない。
一本は静止したまま穂先だけをこちらへ向け、別の一本はゆっくり角度を変える。地面へ深く突き刺さったものもあれば、意味もなく見える軌道で宙を横切るものもあり、その中でたった一本だけが、明確な殺意を持ってアスカへ伸びてくる。
その一本を避けたところで、止まっていた残りが意味を持つ。
アスカが右へ動けば、頭上で待っていた槍が落ちる。
左へ切り返せば、地面へ伏せていた〈根喰〉が足元から伸びる。
前へ抜けようとすればヴァルガ本人がいる。
後ろへ距離を取れば、岩壁に刺さった黒銀が退路へ穂先を向ける。
どれも最初からアスカを狙っていたわけではない。
アスカがそこへ動いたことで、攻撃になる。
そこへ逃げたから。
その足を置いたから。
身体をその角度へ傾けたから。
待っていた〈根喰〉へ用途が生まれ、直前までただ存在していただけの黒銀が、選択を終えたアスカへ向けて初めて牙を剥く。
避けているのに。
回避へ成功するたび、次の危険へ自分から近づいていく。
アスカの呼吸が、わずかに乱れた。
「……ほんっと、性格悪いね」
「褒めんなよ」
ヴァルガの笑みが深くなる。
その背後から黒緑の筋が伸び、崖上の岩肌を這って枝分かれしていく様子を見たところで、アスカの中に散らばっていた理解が、ようやくひとつの形へまとまった。
――根喰。
これまで、その名は黒銀の槍そのものを指しているのだと思っていた。
違う。
根は一本ではない。
地上から見えている一本の茎だけが植物ではないように、土の下では太い根から細い根が分かれ、さらにその先で無数の末端へ枝分かれしながら、見えないところですべてが同じ系へ繋がっている。
〈根喰〉も、それと同じだ。
ヴァルガは槍を一本、二本、三本と個別に増やしているのではない。〈蝕根〉によって奪った魔力を供給源として、自分を中心にひとつの巨大な魔力構造を戦場へ張り巡らせ、その網の中から必要になった場所だけを黒銀の刃として表へ出している。
そう考えれば、今まで不可解だった変化がすべて一本に繋がる。
長さを変えたのも。
重心を移したのも。
振り切った槍の反対側へ刃を生やしたのも。
身体から離れた空中へ武器を形成したのも。
そこへ続く魔力路を蛇行させ、途中で分岐させ、複数の〈根喰〉を別々の場所へ置いたのも。
別々の技ではなかった。
最初から、一つのものだったのだ。
巨大な根系が戦場の内側へ広がり、その先端が必要に応じて槍になり、刃になり、壁になり、あるいは何もせずそこへ留まることで、アスカが動ける場所そのものを少しずつ食い潰している。
「……これが、本気?」
荒くなりかけた呼吸を整えながらアスカが訊くと、ヴァルガは意外そうに片眉を上げ、それから少しだけ首を傾けた。
「いや?」
あまりにも軽い返事だった。
アスカの眉が動く。
ヴァルガが右手を開いた。
その掌からは、何も生まれない。
代わりに。
遠くで。
近くで。
頭上で。
足元で。
背後で。
視界の外で。
崖上へ張り巡らされた黒緑の魔力が、まるで同じ心臓へ繋がっているかのように一斉に脈打った。
「ここからが俺の間合いだよ」
一本の黒槍が伸びる。
アスカが半身になって外す。
その回避を待っていたかのように、別方向で静止していた〈根喰〉が穂先の角度を変えた。
さらにその先――まだ武器として輪郭すら持っていなかった黒緑の魔力が、アスカの逃げようとした場所へ先回りするように収束し、細い刃へ変わる。
〈緋燕〉を振るう。
弾く。
身体を沈める。
頭上を黒銀が通る。
前へ踏み込む。
その足を置こうとした地面から、新しい穂先が生えた。
アスカの瞳が見開かれる。
――間に合わない。
判断は冷静だったが、すでに前へ落ちた重心までは止められない。
ならば、止まらない。
アスカは〈緋燕〉を地面へ突き立てた。
切っ先が岩の継ぎ目へ噛み込むより早く柄へ体重を預け、その一点を即席の支点として腕と肩で身体を持ち上げる。踏み込むはずだった脚を強引に横へ逃がし、真下から伸びた穂先の中心だけは外したものの、黒銀の刃が太腿の外側を浅く裂いた。
熱い。
足が着く。
膝が崩れかける。
それでも地面へは落とさない。
〈緋燕〉を引き抜き、痛む脚へもう一度だけ力を通して身体を起こす。
前を見る。
ヴァルガはまだ笑っていた。
だからアスカも、乱れた呼吸の合間から口元だけを持ち上げる。
「……上等」
その声を聞き届けたように、崖上を覆い始めた黒緑の根が、低く、深く――ひとつの巨大な生き物のように脈打った。




