第48話 見れば壁だってわかるでしょう
〈鳴神〉の切っ先がリエナの袖を斜めに裂き、その下に隠れていた白い肌へ鋭い熱を刻み込んだとき、彼女の頭に真っ先に浮かんだのは痛みでも、回避が間に合わなかったことへの焦りでもなかった。
――到達点が、変わった。
ただその一点だけが薄い硝子片を差し込まれたような冷たさを伴って、思考の中央へ落ちてくる。
ミレイユ・アスターという騎士の魔力性質は、すでに大枠で把握していた。火属性に由来する瞬間的な爆発力。雷属性へ寄った反応速度。さらに四肢と体幹、呼吸、視線の動きまでも一つの戦闘回路として連結するような、きわめて実戦的な身体強化の運用。体内を流れる魔素子の偏りを読み、踏み切る直前に脚部へ集まる魔力圧を観測すれば、彼女がどの方向へどれほどの出力で加速するかはかなり高い精度で予測できるはずだった。
事実、リエナの周囲へ張り巡らせた〈水鏡脈〉は、ミレイユの最初の踏み込みを見逃していない。彼女特有の魔素子によって構築された“それ”は極薄の水霊素を空間へ広げ、触れた魔力、熱、振動、空気圧、地面へ伝わる荷重までも反響として拾い上げる、水属性の感知領域だった。その網に掛かった白雷の軌跡は腹立たしいほど美しく、そしてあまりにもまっすぐだった。
問題は、そこから先にあった。
本来なら失速へ入るはずだった地点。ミレイユが一度実体の輪郭を取り戻し、次の動作へ移るために足を置くはずだった場所。そこで、彼女の軌道には別系統の推進力が継ぎ足されていた。
新しい術式を起動した形跡はない。ミレイユ自身の魔力出力が跳ね上がった兆候もない。炎や雷の属性変換でもなければ、隠していた補助術式でもなかった。にもかかわらず彼女の到達距離だけが、一歩ぶんだけ伸びている。
まるでそこで終わるはずだった軌道そのものへ、誰かが横合いから「もう一度踏み込んだ」という結果だけを貼り足したように。
原因はミレイユではない。
リエナの藍色の瞳が、ほんのわずかに動いた。
白雷が一度ほどけた場所。そこに、薄く歪んだ透明の〈壁〉が残っている。
あれはただの〈召喚物〉ではない。ミレイユの足場として差し出された単純な付与術式とも違う。踏み込まれた力を一度内部へ沈ませ、散らばる前に向きを前方へ揃え直し、完成していたはずの軌道へ外部から加速だけを返す即席の機構――そう表現する以外、リエナの中にはまだ適切な分類名が見つからなかった。
装置。
壁を、装置として扱った。
その認識が輪郭を持った時、〈鳴神〉の刃がリエナの前腕を浅く裂いた。
「……っ」
白い袖の裂け目から、血が細い糸のように滲み出した。
深手ではないことは感覚だけで判断できた。刃は皮膚を浅く裂いたにすぎず、筋には届いていない。手首を返しても痛みは鋭く跳ねず、指先の感覚にも濁りはない以上、短杖を握る力に致命的な損失はない。戦闘継続に支障はないと結論づける材料は十分に揃っていたが、それでも、先手を取られたという事実だけは損傷の程度をどれほど冷静に分類しても消えてくれなかった。
リエナは相手の重心の沈み込み、足運びの角度、刃が空気を押し分けるわずかな気配まで観測し、その軌道がどこへ収束するかを読んだうえで最も効率よく受け止められる位置へ防壁を置いたはずだった。判断に遅れはなく、制御にも乱れはない。にもかかわらず相手は防壁の縁をなぞるように到達点を一歩ぶんだけずらし、リエナの予測が作り出した安全圏の外側から白い袖とその下の皮膚を正確に裂いてみせた。
その誤差は観測者であるリエナにとって、傷そのものよりはるかに不快だった。
“状況を立て直す”
胸の内で短くそう決め、リエナは短杖を胸元へ引き寄せると、ためらいなく魔力を流し込んだ。上腕に刻まれた術式回路が裂けた袖の奥で群青色の光を帯びる。肩口から肘近くまで枝分かれしながら走る幾何学線は、魔導墨で皮膚の表面に書き足しただけの簡易術符でもなければ、戦闘前に貼り付けておく消耗式の魔導札でもない。皮膚そのものへ術式を刻み込み、肉体に備わった魔力回路と人工の術路を直接つなげることで、本来なら詠唱と言葉、さらにいくつもの制御工程を必要とする魔法の発動手順を途中から省略する――それは、身体刻印型の術式回路だった。
「……刻印式」
ミレイユの目がすっと鋭く細まった。
確信を含んだ低い声が、ほとんど独り言のように唇から漏れる。
白華に所属して以来、剣術だけでなく魔術師を相手取るための知識まで嫌というほど叩き込まれてきたミレイユには、リエナの上腕に浮かび上がった群青色の幾何学線が何を意味するのか分かっていた。身体へ直接、術式回路を刻み込む技術――言葉にしてしまえば単純だが、そこらの魔術師が便利そうだからと見よう見まねで扱えるような代物ではない。人間の魔力回路は血管や神経と同じく個体差が激しく、流路の位置も太さも魔力が滞留しやすい箇所も、生来どの属性へ偏っているかも人によってまるで異なるため、完成済みの術式を図面どおり皮膚へ彫り込めば動く、などという都合のいい技術ではなかった。
まず施術対象の魔脈を細部まで解析し、肉体がもともと備えている回路を傷つけない位置へ、人工術路を通したうえで両者をどこで接続するか決める必要がある。そこから先も流れ込む魔力量に合わせて抵抗値を調整し、逆流を防ぎ、連続使用によって発生する熱を逃がす経路まで確保しなければならない。しかもそれらを紙や金属板の上ではなく、生きて呼吸し、血を巡らせ、日々わずかに状態を変えていく人間の肉体へ定着させるのだ。
当然、失敗の代償も軽くはない。
刻む位置をほんの一節ずらしただけなら、まだ術式が発動しない程度で済むかもしれない。接続先を誤れば人工回路へ流した魔力が行き場を失い、自分自身の魔脈へ逆流することがある。そこへ高出力の術式が重なれば皮膚が焼ける程度では終わらず、神経を内側から灼いて指先の感覚を失うこともあれば、最悪の場合その腕は二度とまともに動かなくなることさえある。
だからこそ、いくつかの厳密な条件と環境が必要になることは容易に想像できた。
精密な処置を行える専用設備。術式工学と人体魔脈、その両方へ通じた施術者。術式を肉体へ定着させ、反射に近い速度で扱えるところまで馴染ませる長期訓練。そして何より、自分の身体へ後戻りのできない加工を施す覚悟。
そのどれか一つでも欠ければ成立しない。
――なら。
ミレイユの中で、目の前にいる三人への認識が静かに組み替わっていく。
街道を荒らして旅人の財布を奪う野盗ではない。金になる依頼を求めて各地の討伐を渡り歩く一般的なハンターでもなければ、偶然強力な魔導具を手に入れた傭兵の類でもない。武器だけが上等なのではなく、術式だけが特殊なのでもない。装備、肉体、魔法、戦闘技術――それぞれがばらばらに強いのではなく、最初から互いを補完する前提で一つの体系として組み上げられている。
そこでミレイユの警戒は、もう一段深いところへ沈んだ。
単純に強いだけなら、まだ話は分かる。
王国の外へ出れば、高位魔獣を単独で仕留めるハンターもいる。十二華の席官を相手に正面から渡り合える傭兵だって、数こそ少ないが実在することが知られている。生まれ持った魔力資質と異常なほどの鍛錬、その二つを積み重ねた末に個人の力だけで常識の枠からはみ出してしまう者は確かにいるし、ミレイユ自身もそういう人間を何人も知っていた。
けれど、リエナから感じる直感的な異質さはそこではなかった。
彼女の強さには、本人ひとりでは完結しない痕跡がある。
誰かが魔脈を解析した。
誰かが術式を設計した。
誰かがその身体へ刻印を施し、実戦投入できる段階まで調整した。
そしておそらく――誰かが、同じ技術を運用するための体系を作っている。
リエナ・エルゼヴァルという一人の魔術師の背後に、目には見えない技術者たちの手がある。
――組織がいる。
そこへ考えが至ったところで、リエナの上腕に刻まれた群青色の幾何学線が、一節、また一節と脈打つように輝きを増した。
短杖の周囲に浮いていた水が呼応し、細い帯となって持ち上がる。一本だった流れは途中で枝分かれし、それぞれが異なる軌道を描きながら幾重にも折り重なり、やがてリエナの身体を包む厚い水層へ姿を変えていった。先ほど〈鳴神〉の切っ先を最後の一点だけ逸らした薄い水面とは明らかに用途が違う。あれが最小限の力で攻撃の軌道を狂わせるための防御だったのなら、こちらは自分の周囲そのものを流動する壁へ変え、ミレイユとの距離を取り戻すためのもの――そのあいだに観測を立て直し、崩された予測を組み直し、追撃までの時間を一拍でも多く奪うつもりなのだろう。
透明な水が、リエナを中心にゆっくりと渦を巻く。
見た目だけなら、不思議なほど穏やかだった。
光を透かすほど澄んでいて、激流らしい轟音もない。指先を差し入れれば、そのまま柔らかく割れてしまいそうにさえ見える。
しかし、ミレイユの目には違って映っていた。
一枚の水壁ではない。
流れが、重なっている。
右へ流れる層の内側を別の水流が斜め下へ走り、さらにその奥では逆向きの流れが刃を待ち受けるように巡っている。あれへ何も考えず剣を突っ込めば、最初の層を破ったところで側面から圧を受け、二層目で刃筋を傾けられ、最後には剣そのものを狙った場所から外される。
――だったら、厚くなる前に斬るだけだ。
結論は単純だった。
ミレイユは止まらない。
全身を包んでいた白雷を腰より低い位置へ絞り込み、前腕を裂いたばかりの〈鳴神〉を大きく振りかぶることなく、その斬撃の返しを利用して手首の内側へ滑らせる。リエナが防御を完成させてから正面突破する必要などない。水流が幾層にも噛み合い、ひとつの防壁として完成するより早く、まだ薄い場所へ刃を差し込めばいい――術式の構造を完全に理解できずとも、どこを斬れば嫌がるかくらいは直感で分かる。
踏み込んだ足元で白雷が低く弾け、リエナとの距離が削られていく。
対するリエナは短杖を振ろうとすらしなかった。
指先も動かさない。唇には詠唱の形さえ浮かばない。
代わりに上腕へ刻まれた術式回路の一部が強く明滅した途端、それまでリエナの周囲を巡っていた水流だけが意思を持った生き物のように軌道を変え、迫り来る〈鳴神〉の刃筋へ向かって幾重もの流れを差し込んできた。
――速い。
そこでミレイユは理解した。
詠唱を省いた、という程度ではない。
本来なら術者が頭の中で組み立て、言葉へ変換し、短杖を介して術式へ命令しなければならない工程――その大半を身体へ刻まれた回路そのものが肩代わりしている。
つまりリエナは、魔法を一から発動しているのではない。
すでに身体の中で待機している術式へ、必要な命令だけを叩き込んでいる。
剣士が考えるより先に剣を返すように。
彼女もまた、魔法を反射の領域まで引きずり下ろしているのだ。
「――澄め、静水。揺らぎを抱き、遠き波紋を我が眼へ」
囁きに近い淡い声が戦場のざわめきへ落ち、リエナの足元に残っていた水滴がひとつ、またひとつと微かな波紋を描いた。
先ほどミレイユの斬撃を受けたことで大きく乱され、ところどころ途切れていた水霊素の感知網が傷ついた術式を縫い直すようにリエナを中心として広がっていく。草の葉を濡らす露へ紛れ、踏み荒らされた地面のわずかな窪みを満たしながら空気中を漂う湿気にまで薄く溶け込んでいくその領域は、目で追おうとすればすぐ景色の中へ消えてしまうほど希薄でありながら、ひとたび彼女の支配下へ収まれば、足音や呼吸、魔力の揺らぎはもちろん、空気を押し退けて動く肉体の圧力さえ波紋として拾い上げていく。
それだけではない。
〈鳴神〉を阻むため身体の周囲へ巡らせた防御水流も、いまだ厚みを失ってはいなかった。外側では幾重もの水が異なる方向へ流れて刃を絡め取る準備を整え、そのさらに向こうでは〈水鏡脈〉が地表を静かに這いながら戦場そのものを感覚器へ作り替えていく――性質も用途も異なる二つの術式を同時に維持しながら、リエナの表情には焦りと呼べるほどの乱れが浮かんでいなかった。
厄介だ。
接近を許した状態から術式を立て直し、防御と観測を並行して再構築できるだけの技量がある。ここで距離を返してしまえば、二度目に崩すのはおそらく今より難しくなる。
――だったら、なおさら今ここで止める。
ミレイユにとっては、それだけ分かれば十分だった。
そしてとおるはというと、そんな二人の高度な攻防を横目に見ながら、こちらはこちらで非常に切実な問題へ対処しようとしていた。
ミレイユがリエナを抑えてくれているのなら、自分は右側にいた小柄な青年――ノエ・バルカントをどうにかしなければならない。
どうにかする。
我ながら驚くほど中身のない作戦である。
捕縛するのか、足止めに徹するのか、ミレイユたちから引き離すのか、あるいはせめて攻撃の手を鈍らせるために牽制するのか。本来ならそのあたりをもう少し具体的な言葉へ落とし込み、作戦らしい形に整えるべきなのだろうが、残念ながら現在の状況はとおるの貧弱な戦闘語彙が立派な作戦名へ成長するまで悠長に待ってくれそうになかった。
なにしろ相手は、あの黒い杭で空間そのものを縫い留めてくる。
こちらの術式を警戒し、危険だと判断して破壊してくるのならまだ理解できる。ところがノエの場合、警戒心よりも先に「それ、どうなってるの?」という純粋極まりない好奇心で他人の術式へ手を伸ばしてくるうえ、先ほどは実際に〈反発壁〉の生成経路へ杭を打ち込まれたせいで、とおるの右目の奥には今なお脈拍と歩調を合わせるような鈍い痛みが残っていた。
正直に言えば、戦いたくない。
できることなら適切な距離を確保したうえで、「今後ともあなたとは業務上必要な範囲でのみお付き合いさせていただきます」と丁寧に頭を下げ、そのまま永久に部署の違う同僚くらいの関係性で生きていきたい。
そんな戦場では一銭の価値もない願望を胸の片隅へ抱いたまま、とおるがミレイユたちから視線を戻す。
ノエが、すぐ横にいた。
「うわ近っ」
口から飛び出したのは、命のやり取りが続く戦場にはあまりにも似つかわしくない、ほとんど満員電車で距離感のおかしい乗客に遭遇した人間の声だった。
いつ回り込まれた。
反射的に半歩身を引きながら記憶を巻き戻してみても、ノエが派手に加速した気配は思い当たらない。おそらく身体能力そのものが化け物じみているというより、とおるの意識がリエナとミレイユの攻防へ向いたほんのわずかな空白だけを選び取り、こちらの認識から滑り落ちるように位置をずらしていたのだろう。
近くで見るとなおさら嫌な相手だった。
深い赤紫の前髪が風を受けて頬へかかり、その隙間から覗く片目だけが面白い玩具を見つけた子供のように楽しげに細められている。
殺意というか、攻撃的な様子があまり無さそう…
そこが何より嫌だった。
これから刺すぞ、と全身から殺気を撒き散らしてくれる相手ならまだしも、好奇心というかほんの遊び心で刺してくる人間を相手にした場合、いったい心の準備をどの棚から取り出せばいいのかがとおるにはさっぱり分からない。
考えがまとまるより早く両手が動き、半ば反射で〈壁〉を生成する。
透明な面が空間を押し広げるように展開され、とおるの身体を頭から足元まで余裕をもって覆う大きさへ達したところで止まる――はずだった。だが、不安に任せて魔力を流し込んだ結果、高さも幅も必要寸法をきっちり上回り、いつもの防御壁より明らかに一回り大きい。
いや、分かっている。
理屈では本当によく分かっている。
“恐怖をそのまま魔力量へ変換するな”——ということは。
必要な面積だけを守って余計な魔力消費を抑え、相手に利用される面を減らす。
防御術者としてはそれが一番正しいと頭の中ではわかっているとはいえ、目と鼻の先に何を考えているのか分からない杭使いが立っている状況で、「必要最低限の大きさでいこう」などと冷静に壁を出せる人間がいるのなら、それはきっと前世で接客業を極め、あらゆる理不尽を笑顔で受け流せる境地へ至った聖人か、あるいは恐怖心という大事な部品をどこかへ置き忘れて生まれてきた豪傑のどちらかだろう。
――ヴゥン……。
透明な防御面が、午後の光をふっと遮った。
薄い影が、地面へ落ちる。
とおる自身の影と、大きく広げた〈壁〉の影。その二つは足元で重なり合い、白く乾いた地面の上を這うように長く伸びて、本人の立つ位置からさらに数歩ぶん外側まで、細い暗がりを作り出していた。
ノエが狙ったのは、とおるの身体ではなかった。
足でもない。
服でもない。
透明な〈壁〉そのものですらない。
黒い杭の切っ先が地面を穿った場所は、防御面のさらに外側――そこへ落ちていた、とおるの影の末端だった。
「そこなら、壁の外だよね」
遊びの答え合わせでもするような軽い声が横合いから届き、とおるがその意味を飲み込むより早く、杭の表面を赤紫色の細い術式線がすっと走った。
一本。
さらに、もう一本。
いつ打ち込まれたのか、とおるにはまったく見えていなかった二本目の黒杭が、背後およそ六メートルの位置で崩れた石畳の継ぎ目から斜めに突き出している。
二点を結ぶ術式線そのものは肉眼では見えない。
ただ、その効果だけは、嫌になるほど明確だった。
「――ぐっ!?」
踏み出そうとした右足が、途中で止まった。
筋肉が硬直したわけではない。足首を何かに掴まれた感触もない。靴底が地面へ接着されたわけでもない。それなのに膝を前へ運ぼうとした途端、腰から下だけではなく、肩、背中、首筋に至るまで全身が一斉に後方へ引かれ、自分という存在の位置そのものを巨大な針で地面へ縫いつけられたような抵抗が返ってくる。
「な……」
とおるは反射的に足元を見た。
鎖はない。
魔法陣もない。
あるのは地面へ落ちている自分の影と、その先端を貫く一本の黒杭だけ。
そこでひどく嫌な理解が、じわりと胸の奥へ浮かび上がった。
「影……?」
「正解だよ」
ノエは、嬉しそうに笑った。
「本人を刺す必要なんてないよ。そこにいるって分かるものなら、けっこう色々使えるから」
言葉の軽さとは裏腹に、術式の構造は悪質なほど合理的だった。
影は物体ではない。掴むこともできなければ、普通なら攻撃対象として扱うことさえ難しい。けれど影には必ずそれを生み出している存在との位置関係がある。光源があり、それを遮る肉体があり、その結果として地面へ“一つの像”が落ちる。
ノエの〈縫界杭〉が固定しているのは影そのものではない。
影と本体とのあいだに成立している、「ここに影がある以上、その持ち主はこの位置関係にいる」という、空間的な対応関係だった。
とおるが身体を動かせば、影も動く。ところが杭によって影の位置が地面へ固定されている以上、影を動かす結果へ繋がる本体側の移動まで術式は容赦なく引き戻してくる。力比べではない。縄を引き千切れば終わるような拘束とも違う。自分と影の関係そのものを、都合よく掴まれている。
「いや、それ……ずるくないですか」
「壁を空中にいっぱい出す人に言われたくないなあ」
「俺のは見れば壁だって分かるでしょう」
「透明じゃん」
「そこは今、関係ないです」
言い返しながら、とおるは右足へ力を込めた。
ほんの数センチなら進む。
しかしそれ以上踏み出そうとしたところで抵抗が急激に重くなり、身体全体がずるりと元の位置へ押し戻された。
ならば壁を押し出し、その反力で無理やり移動する。
そう考えて正面へ新しい〈壁〉を出そうとしたところで、とおるはぴたりと動きを止めた。
さらに嫌な予感がした。
視線だけを、地面へ落とす。
現在展開している巨大な〈壁〉の影。
自分自身の影。
二つの黒い形は足元で重なり合いながらも長く伸び、地面の上でひと続きの暗い領域を作っている。
「……もしかして」
「気づいた?」
ノエの声が、楽しげに弾んだ。
固定されているのは、位置関係だけではなかった。
とおるが新しい〈壁〉を生み出そうとして魔力を外側へ押し出した途端に胸の奥から伸びた力が皮膚を越える寸前で妙な抵抗へぶつかり、行き場を失った流れが体内へ押し戻されていく。
術式そのものを封じられたわけではない。
〈壁〉を作ることはできるし、すでに展開している防御面も消えていない。
けれど生成位置を自分から遠ざけようとするほど魔力の流れは鈍り、壁面を広げようとすればその拡張に合わせて地面へ落ちる影まで引き延ばされようとするせいか、杭から返ってくる拘束が一段ずつ強くなっていく。
「……これ、俺だけを縫ってるわけじゃない」
とおるは、そこでようやく理解した。
ノエの杭が捕まえているのは壁山とおるという肉体そのものではない。身体があり、そこから影が伸び、その身体を起点として魔力が外側へ広がろうとする――それらをまとめて「壁山とおるから派生しているもの」と見なし、基準となる位置から離れようとするあらゆる変化へ見えない抵抗を掛けているのだ。
壁を大きくしたことが、完全に裏目に出ていた。
自分を守るために広げた壁が午後の光を遮ったことで影を伸ばし、その影をノエに使われている。
安全を確保したつもりで、敵が掴むための突起を自分から丁寧に増設していた。前世風に言えば、自分で設定したパスワードをメモ用紙に書いてそれをわざわざ机のど真ん中へ貼りつけたうえ、赤ペンで太く囲んで「重要・絶対忘れるな」と注釈まで入れておいたようなものだ。しかもその机は、鍵のかかっていない共有スペースに置いてある。
セキュリティ意識が泣いている……いや、泣くどころではない。机を蹴り倒して退職届を叩きつけ、二度と戻らない勢いで会社を出ていってもおかしくなかった。
「影も、魔力も、壁も、君から伸びてるよね」
ノエは黒杭を指先でくるりと回し、まるで新しい玩具の使い道を思いついた子供みたいに目を細めた。
「じゃあ、そこをまとめて縫えば、どれが動いても引っかかるかなって」
「思いつきでやる内容じゃないんですよ、それ」
「思いつきって便利だよ」
「便利で済む話ではないです」
ノエはにこにこと笑ったまま、三本目の杭を宙に浮かべた。
その先端が向いているのは、とおるの影ではない。
現在展開している、透明な〈壁〉の縁だった。
「次は壁そのものを縫ってみてもいい?」
「よくないです」
「えー」
「えーじゃない。人の持ち物を勝手に縫わないでください」
「持ち物なの?」
「少なくとも俺の能力です」
「じゃあ、やっぱり君から伸びてるね」
会話だけを切り取れば、妙に軽い。
けれどとおるの背筋には冷たいものが這っていた。
ノエはふざけているように見えて、試す順番が恐ろしく正確だった。本人。影。魔力。壁。とおるを形作るもの、とおるから発生するもの、とおるの能力によって生まれたものを一つずつ触りながらどこまでなら同じ関係として縫い込めるのか、楽しげに——しかし確実に確かめている。
リエナのように戦場全体を水の感覚器へ変えるほど精密な観測能力を持っているわけではないのだろう。
それでもノエは杭を打ち込んだ領域線上へ入り込んだものに「触れる」ことで、構造を手探りしながら理解し、次の拘束へ着実に応用してくる。
そして今、とおるはその領域の中にいる。
ノエが、三本目の杭を構えた。
——焦るな。
力で破ろうとするな。
影は引き千切れない。
杭そのものを壊すのも一つの手だが、杭までの距離が遠い。今の姿勢から届く攻撃手段はほとんどないし、壁で押し潰すか壁を広げれば、そのぶん影も伸びてしまう。
新しい壁を出すことも考えはした。しかし生成経路にはすでに抵抗が掛かっている。
じゃあ、どうする。
相手は何を縫っている。
身体と影。
影と地面。
自分から伸びる魔力。
それらを結ぶ、位置関係。
なら――。
右目の奥が、ずきりと痛んだ。
さっき〈反発壁〉を通すために覗いた線の感覚が、まだ完全には閉じ切っていない。もう一度開けば頭蓋の内側へ針を差し込まれるような痛みが戻り、ユリシス戦の時のように無数の白い線へ意識を持っていかれるかもしれない。
それでも。
「……やってみるしかないか」
とおるは、小さく呟いた。
「何?」
「いや、ただの独り言です。あとできればこれ以上縫わないでください。服ならともかく、人生とか能力とか影とかを縫われるのは、俺の趣味に合わないので」
「人生も縫えるかな」
「絶対に試さないでください」
ノエが笑った。
黒い杭が、宙でくるりと向きを変える。
とおるは歯を食いしばった。
怖い、動けない、相手は楽しそう。
最悪の三点セットである。
それでも今ここで諦めるわけにはいかなかった。
ミレイユはリエナを止めている。アスカはヴァルガを斬ろうとしている。ならば自分がここでノエを中央へ戻してしまえば、三人の連携がまた成立するだけの“場”を作る可能性が高められる。
縫う者を、ここへ縫い付ける。
そんな役割を望んだ覚えはなかった。人事異動の通知も来ていなければ、危険手当の説明も受けていない。そもそも業務内容としては完全に範囲外であり、できれば担当部署ごと存在しないことにしてほしい。
けれど、役割はもう目の前まで来てしまった。
とおるは影の先を貫く黒杭を見た。
その向こうで、ノエ・バルカントが楽しそうに待っている。
とおるは浅く息を吸い、自分と影とのあいだに張られた見えない縫い目へ震える意識をそっと近づけた。




