第47話 白雷の終点
とおるが右手へ魔力を集め、ミレイユの二段目を押し出す〈反発壁〉を展開しようとした――その瞬間だった。
何かが、引っかかった。
「……っ?」
指先ではない。
腕でもない。
もっと内側――右手へ集めた魔力を体外へ押し出し、空間へ壁として定着させるその直前の経路にだけふいに“異物”が挟まった。
細い糸へ指先を引っかけた程度の軽い抵抗ではなかった。痛みこそないのに妙に生々しく、皮膚の下を通っているはずの細い管を外側から冷えた指先でそっと摘まれ、そのまま「ここは通すな」と押さえられたような感触。魔力そのものを奪われたわけでも、術式を破壊されたわけでもない。右腕にはまだ力が巡り、〈壁〉を生み出すだけの魔力量も確かに残っている――にもかかわらずそれを外へ出そうとした途端、出口へ至るはずの流れだけが不自然に細まり、見えない縫い目へ引っかかって先へ進めなくなる。
――何だ、これ。
とおるは反射的に右を見た。
視線の先。
風に揺れる長い前髪、その隙間から覗いた深い紫色の瞳がこちらの反応を確かめるようにわずかに細められていた。
先ほどからヴァルガの右側に立っていた、小柄な青年。
――ノエ・バルカント。
年齢だけを見れば、とおるとそう大きく離れているようには思えない。三人の中では頭ひとつ近く小さく、細身の身体も相まって、遠目には戦闘員というより誰かの後ろへついてきた少年のようにすら見える。片目を覆うほど長く伸びた赤紫色の髪は整えているのかいないのか判然とせず、風が吹くたび細い毛束が頬を撫で、その奥に隠されていない側の瞳だけが夜の底へ紫水晶を沈めたような深い色を帯びていた。
そして首筋。
左耳の下から首の側面を斜めに降り、鎖骨へ届く手前まで〈Ⅳ-7〉の副刻印が細い縫合痕のように刻まれている。
それはヴァルガの〈Ⅳ-4〉とも、リエナの〈Ⅳ-2〉とも印象が違った。
太い線が力強く走っているわけではない。
むしろ細い。
黒紫の線が短い間隔で途切れながら皮膚へ連なり、その断片同士をさらに細かな横線が結んでいるため、遠目には傷口を何針も縫い合わせた痕跡のように見える。本人が指を動かすたびにその一節一節が順番に淡く明滅し、まるで皮膚の下を見えない針が走っているかのようだった。
けれど、何より奇妙なのは――その表情だった。
やはり楽しそうなのだ。
敵を追い詰めた者の嗜虐的な笑みではなく、勝利を確信した者の余裕とも違う。殺意と呼べるものすらとおるにはほとんど感じ取れない。目の前へ初めて見る仕掛け玩具を置かれ、「どこを押せばどう動くんだろう」と内部構造を確かめたくて仕方がない子供のような、無邪気ささえ残る笑い方。
だからこそ、不気味だった。
悪意があるなら理解できる。
憎まれているなら警戒できる。
ノエの目には相変わらず、とおるを傷つけようという意思より――とおるという知らない仕組みを触って確かめたいという好奇心のほうが色濃く浮かんでいる。
そしてその細い両手の傍らには。
黒い杭が、二本。
いつ生まれたのかさえ分からないほど音もなく、宙へ浮いていた。
金属ではない。
石でもない。
光を吸い込むような黒紫色の魔力が細長い杭の形へ圧縮され、表面には文字とも傷ともつかない細かな刻みが無数に走っている。先端だけが異様に鋭く、物質を貫くためというより、そもそも「ここ」と定めた一点を空間ごと穿つために尖らせたような形状だった。
二本。
一本目は、とおるの右手側。
正確には手そのものではなく、掌から〈壁〉を展開する際に魔力が体外へ抜ける、その起点のすぐ脇へ斜めに刺さっている。
もう一本は、さらに先。
とおるがミレイユの足元へ〈反発壁〉を作ろうとしていた場所との中間――魔力が術式として伸びていくはずだった経路を先回りするように、何も存在しない空間へ深々と沈んでいた。
地面には刺さっていない。
盾にも触れていない。
服どころか、とおるの身体へ一本たりとも接触していない。
なのに。
――縫われてる。
理屈より先に、とおるの感覚がそう告げた。
二本の杭を結ぶ間には、肉眼で捉えられる糸も鎖も存在しない。それでも右手から外へ伸びようとした魔力だけがその境界へ触れた途端に引き絞られ、まるで布地の裏側から糸を通されて出口を縫い閉じられたように動きを止めている。
ノエ・バルカントが扱うスキル――〈縫界杭〉。
魔力によって形成した黒杭を複数の地点へ打ち込み、その杭同士を基準点として〈間〉に存在する「位置関係」を一時的に固定する特殊な操作・領域系能力。
二本なら、線。
三本なら、面。
四本以上なら――空間そのものを囲う、簡易的な立体領域。
杭を打ち込める対象も、単なる地面や壁だけではない。
岩へ。
武器へ。
影へ。
そして条件さえ整えば、何もない空間へすら。
いったん複数の杭が成立すれば、その間にある対象の移動を鈍らせ、振るわれた武器の軌道を途中で縫い止め、踏み込もうとする足場へ拘束を掛けながら逃走経路そのものを細く削っていく。
しかし〈縫界杭〉の本当に厄介なところは――物質だけを縫う能力ではないことだった。
位置。
起点。
終点。
その二つを結ぶ、途中の関係。
ノエが認識できる範囲であれば、そこへ杭を打ち込める。
だから今、とおるは身体を縫われていない。
右腕も自由に動く。
指だって曲がる。
走ろうと思えば走れる。
それなのに〈壁〉だけが出せない。
ノエが縫ったのは、とおるの肉体ではなく――右手から放出された魔力が指定された空間へ到達して〈壁〉として成立するまでの「道」だからだ。
術式を壊す必要などない。
魔力を奪う必要もない。
魔法を使う人間と、その魔法が現れる場所。
その間を縫ってしまえばいい。
――そんなの、ありかよ。
とおるの背筋へ遅れて冷たいものが走った。
その反応まで面白かったのだろう。
ノエが、にこりと笑う。
「ねえ」
声音まで妙に柔らかい。
敵へ呼びかけるというより、隣の席の相手へ話しかけるような気安さだった。
「それ、何出そうとしてるの?」
「個人情報です」
とおるは即答した。
自分でも意味が分からなかった。
考えるより先に口が動いたのだから、たぶん恐怖である。追い詰められた人間がときどき誰にも求められていない冗談を口走る、あの防衛反応に近い。就職面接で緊張しすぎた結果、「あなたの長所を教えてください」と聞かれただけなのに家族構成から話し始めてしまう類の事故である。
ノエは気にした様子もなく、少しだけ首を傾けた。
長い赤紫の前髪がさらりと滑り、その奥からもう片方の目が一瞬だけ覗く。
「壁?」
「…………」
「壁だよね。さっきから君、壁の感じがする」
何だ、壁の感じって。
人生で一度も言われたことがないし、今後もできれば言われたくない。
だがノエは至って真面目だった。
宙へ浮かべた黒杭の一本を指先で軽く弾きながら、とおるの右手とその先に何も現れない空間とを交互に眺める。
「でも、さっきまでのと違うね。塞ぐやつじゃない」
紫の瞳が細くなる。
「薄いし……硬くする場所も変。受け止めたいんじゃないのかな。踏ませる?」
とおるの頬が引きつった。
ノエの笑みが、少し深くなる。
「それとも――弾くやつ?」
――まずい。
こいつ。
見ているだけじゃない。
触った瞬間から、能力や魔力の性質そのものを調べている。
「へえ」
ノエは本当に感心したように、黒杭をくるりと回した。
「壁って、そんなこともできるんだ」
「できるかどうかは現在審査中です」
「じゃあ」
ノエの指先が、二本の杭の間を縫うように動いた。
「止めたら、どうなるかな」
「できれば止めないでいただけると大変助かります」
「やだ」
「でしょうね!」
ほとんど間髪を入れず返された拒否に、とおるの声が崖上へ響く。
その声を聞いて、ノエはますます楽しそうに笑った。
悪意ではない。
敵意ですら、薄い。
ただ知りたいのだ。
とおるが何を出そうとしていたのか。
それを途中で止めたら、何が起こるのか。
別の場所を縫えば、次はどう工夫するのか。
まるで初めて見つけた玩具を、壊れるところまで分解して構造を確かめようとする子供のように。
そして――そういう人間が戦場ではいちばん話の通じない種類なのだと、とおるは薄々知り始めていた。
ノエの人差し指が、弾む。
同時に〈Ⅳ-7〉の副刻印が、首筋から鎖骨へ向かって一節ずつ黒紫の光を灯した。
二本の〈縫界杭〉が震える。
びん、と。
見えない糸が張り詰めたような音が――今度はとおるの身体の内側から聞こえた。
――まずい。
とおるの背筋を走った焦りとはお構いなしに、ミレイユの〈白雷〉はもう発動までの時間を削り始めていた。彼女はこちらの術式が整うまで律儀に待ってくれるような人ではないし、そもそも今は待たせてはいけない――ここで補助が半拍でも遅れれば、ミレイユは予定していた二段加速をあっさり捨て、自分の脚力と雷霊素だけでリエナの懐へ飛び込むだろう。それでも彼女なら強引に形を作るかもしれないが、問題はその先にいるあの女だ。
とおるは反射的に右腕へ魔力を押し込み――その寸前でぐっと止めた。
――力で破るな。
白華隊の訓練場でもう耳にたこどころか別の耳が生えそうなくらい聞かされた言葉が、こんな時に限って妙にはっきり蘇る。
怖いから、壁を厚くする。
厚くするから、出すのが遅れる。
遅れるから間に合わずに叩かれる。
叩かれれば次はもっと怖くなって、さらに厚い壁を出そうとする。
壁練を始めたばかりの頃、とおるは本当にそれを何度も繰り返した。防げないのは強度が足りないせいだと思い込み、魔力を増やして、厚みまで増やして、結果として一番大切だった「必要な場所へ必要な瞬間に出す」という条件を自分から捨てていたのだ。
――今も、同じじゃないか。
ノエの〈縫界杭〉が邪魔だから、もっと強い魔力で押し通す。
それじゃ駄目だ。
真正面から力をぶつければ、二本の黒杭が作っている固定線へ自分から首を突っ込んで噛みつきにいくようなものになる。突破できる保証なんてどこにもないし、仮に無理やり押し切れたとしても、生成が遅れれば意味がない。まして内部の魔素子配列まで崩れたら、ミレイユの踏み込みを前へ返すという〈反発壁〉本来の役目まで台無しになる。
なら。
無理に押し切ろうとせず、
――間を、変える。
杭。
自分の魔力経路。
ノエが二つの点として捉え、その関係を縫い止めようとしている場所。
その「あいだ」へ、こっちからもう一枚別の境界を挟めばいい。
とおるは右手へ集めていた意識を身体の奥へほんの少しだけ沈めた。
ユリシスとの戦いで一度だけ覗いてしまった――あの、白い線ばかりの世界。
全部を開いちゃいけない。
あれを真正面から見ようとしたら、たぶん今の自分の頭じゃまともに耐えられない。
物と物の距離、接点、力の向き、境目、流れ。普段なら頭が勝手に無視してくれている情報まで一斉に輪郭を持ち始めて、たった数秒見ただけでも頭蓋の内側へ熱した針を何十本も突き込まれたみたいな痛みが残った。
全部なんて見なくていい。
欲しいのは一本だけ。
ノエの杭が作った固定線。
それから、自分の魔力が〈壁〉へ変わろうとしているその流れ。
その二つが触れている場所――そこだけでいい。
次の瞬間、視界からほんのわずかに色が抜けた。
――あった。
いや。
見えたと言い切るには、少し曖昧だったかもしれない。
それでもとおるには分かった。
二本の黒杭のあいだに、紫をほんの少しだけ溶かし込んだような細い線がぴんと張っている。そしてその線は右腕から外へ伸びようとしていた自分の魔力経路へ、斜めに、静かに、けれど確かに食い込んでいた。
線が魔力をせき止めているわけじゃない。
もっと妙だった。
触れたところへ、「ここから先へは進まない」という関係そのものを押しつけている。
本来なら流れていくはずの魔力を。
ここで止まっているものとして――固定しようとしている。
だったら。
――その関係に付き合わなきゃいい。
右手から目的地へ。
一本の道として魔力を通そうとするから、途中を縫われる。
なら「右手から壁を出す」という発想そのものを捨てる。
出すな。
伸ばすな。
届けようとするな。
ミレイユの足が触れる、あの一点。
そこへ最初から境界がある。
その結果だけを作ればいい。
とおるは自分の右手と数歩先にあるミレイユの二段目の踏み込み地点――それまで一本の術式として繋いでいた生成命令を、半呼吸にも満たない時間だけ無理やり二つへ切り離した。
右手から魔力を出す。
それを壁へ変える。
その順番じゃない。
先に、座標を決める。
そこへ「境界がある」という結果を置く。
そのあとから、形を保つための魔力を流し込む。
順番を――ひっくり返す。
「――っ、ぐ……」
額に浮いた汗が一筋、眉間を伝った。
頭の奥がずきりと脈打ち、右目の裏側へ鈍い痛みが走る。
慣れていない。
そもそもきちんと理屈を組んで作った術式ですらない。
壁練で何百回も繰り返して身体へ染みついた感覚と、ユリシスとの戦いで偶然触れた妙な知覚をその場で無理やり噛み合わせているだけだ。
それでも。
「とおる!」
鋭い声が飛んだ。
それは状況に応じた“細かい確認”ではない。
急かしているわけでもない。
――行くぞ。
それだけだった。
「今です!」
とおるは叫び返した。
次の瞬間。
何もなかったはずの空間へ――薄い境界が生まれた。
透明で、ほとんど色もない。
これまでの〈壁〉ならまず輪郭が立ち、そのあと面が広がっていく。けれど今回だけは、その途中がすっぽり抜け落ちたようにミレイユの進路から一歩だけ内側、彼女の右足が次に触れるはずの場所へ斜めに傾いた薄膜が「最初からそこにあった」みたいに現れた。
もちろん、綺麗ではない。
右端は白く曇っている。
表面にも水へ油を落としたような歪みが走り、無理に生成手順を分けたせいで厚みは均一じゃない。角度だって、とおるが狙った位置より数度浅い。
ノエの固定線から完全に抜けたわけでもなかった。
それでも。
内部を走る魔素子。
その向きだけは。
――前。
踏み込まれた力を止めない。
一度だけ受けて。
沈めて。
進行方向へ返す。
そこだけは間違えていない。
ミレイユが地面を蹴った。
白雷が、走る。
轟音を響かせるような雷撃ではなかった。
空から眩しい稲妻が落ちたわけでもない。
彼女の輪郭を縁取っていた白い雷霊素が一瞬だけ身体の内側へ引き絞られ、足首、膝、腰、背骨、肩、腕、その先に握る〈鳴神〉までを一本の流れへ繋いだかと思えば――次の瞬間には、そこにいたはずの人の形そのものが細い白線へ置き換わっていた。
ノエの紫の瞳が、ぱっと楽しそうに見開かれる。
リエナの短杖が、ごくわずかに傾く。
ヴァルガだけはアスカから目を離さず、口元へ薄い笑みを戻した。
そして――ミレイユが消えた。
残ったのは最初の一歩で岩肌が削れた跡と、その上をほんの一瞬だけ舐めた白い残光だけ。
けれど。
リエナは見失っていなかった。
藍色の瞳が追っているのは、人ではない。
軌道だ。
地面を離れる直前、右脚へ集まった雷霊素。
踵から爪先へ移った荷重。
踏み切りに使われた角度。
骨盤が前へ送り出された位置。
上体を置き去りにしないため、腰から肩へ連動した微細な捻転。
そして、肉体を白雷の速度域へ押し上げるため一息に収束した魔力が、どの方向へ、どれほどの出力で放たれたのか。
――それら一つひとつを個別に見るのではなく、最終的にどこへ収束するのかという一本の線へ組み直し、リエナはミレイユ本人よりも先にその剣が辿り着くはずの場所を見ようとしている。
速い者ほど、余計なものを捨てる。
強者であればなおさらだ。
踏み込みに遊びを残さず、重心の揺れを削り、剣を最短で敵へ運び、必要な筋肉だけを働かせる――鍛錬によって磨かれた動作は、未熟者のそれに比べれば驚くほど枝分かれが少なく、ひとたび攻撃へ入れば始点から終点までが細い一本の線として繋がる。
それは戦士としての完成度だった。
同時に。
リエナにとっては――読みやすさでもある。
無駄のない動きは美しい。
美しい動きには、余計な答えがない。
ならば、その一本だけを読めばいい。
掲げられた短杖の先で、群青色の文字列が音もなく集まり始めた。
一文字。
二文字。
水滴より小さな術式文字が空中へ連なり、互いの末尾と先頭を噛み合わせながら薄い円弧を形成していく。その内側には周囲の水霊素が凝縮され、まだ膜と呼べるほどの厚みすら持たない透明な境界が、ミレイユの進路を待ち受けるように立ち上がった。
アスカの緋燕を逸らしたものと同じ、水膜。
リエナは白雷そのものを捕まえようとはしない。
そもそも人間の知覚から外れる速度で駆ける相手を真正面から捕捉し、術式をぶつける必要などなかった。
どれほど速くても。
どれほど鋭くても。
攻撃である以上、最後には敵へ届かなければ意味がない。
そして刃が届くということは、無数に存在していた可能性が最後には必ず一つの座標へ収束するということ。
ならば――そこだけを奪えばいい。
アスカの緋燕を心臓から紙一枚ぶん逸らしたときと同じように、完成された斬撃を力ずくで止める必要はなく、到達する刃の角度へ薄い水膜を一枚差し込み、結果だけを数ミリずらす。
それだけで必殺は、必殺ではなくなる。
リエナの瞳が細まった。
残光の角度。
雷霊素の減衰。
踏み切りから経過した時間。
ミレイユの身長、剣の長さ、腕の可動域。
それらが頭の中で重なり――白雷の終点が定まる。
そこ。
短杖が、わずかに傾いた。
群青の文字列が収束する。
――そのはずだった。
リエナが導き出した「終点」には、ミレイユとは別のものが待っていた。
一枚の、透明な〈壁〉。
とおるが置いたそれは敵を遮る位置になく、リエナから見れば、白雷が失速する地点のわずか内側へ斜めに浮かんでいるだけの不自然に薄い板でしかなかった。
何のために。
その疑問がリエナの思考へ生じるより早く、最初の加速を使い切った白雷が一度だけ人の輪郭へ戻る。
雷光がほどける。
白華の外套が現れる。
踏み切りによって前傾していた上体、その下で右膝がわずかに畳まれ――。
ミレイユの右足が、〈壁〉を踏み抜く勢いで叩き込まれた。
透明な面が、大きく沈んだ。
割れない。
押し返さない。
まして、止めもしない。
本来の〈壁〉なら面全体へ散らして殺すはずの踏力を、今だけは一滴たりとも横へ逃がさず、足裏から流れ込んだ衝撃だけを内部へ深く呑み込んでいく。
薄い境界面の内側で、魔素子が撓んだ。
均等に組まれていない配列が圧力を受けて歪み、一度は壁の奥へ沈んだ力を細い流れへ束ね直すと、それまで複数の方向を向いていた微細な魔力の筋がたった一つの方向へ雪崩を打って揃っていく。
前へ。
ミレイユが進もうとしている、その先へ。
溜める時間など存在しない。
受けた力を蓄積してから放つのでは遅すぎる。
足が触れた時点で沈ませ、沈み切る前に方向を変え、ミレイユ自身の踏力が失われるより先に――前方へ返す。
ぱん、と。
薄氷が砕けたような乾いた音を残して、〈反発壁〉が弾けた。
リエナの藍色の瞳が、そこで初めて揺らいだ。
白雷が――終わらない。
彼女が読み違えたのは速度ではなかった。
〈白雷〉の出力そのものは変化していない。ミレイユが隠していた追加術式を発動したわけでも、途中から雷霊素の供給量を引き上げたわけでもない。
リエナの計算は、正しかった。
だからこそ――外れた。
彼女が読んだのは、ミレイユ一人で完結する軌道だった。
最初の踏み切りから始まり、〈白雷〉によって加速し、蓄えた運動量を使い切った地点で肉体へ戻り、そのまま剣の間合いへ入る――始点から終点まで何ひとつ無駄のない、一本の美しい線。
その完成された線へ。
途中から、他人の力が入り込んだ。
すでに終点まで決まっていたはずの軌道、その末端をとおるの〈壁〉が踏み台として掴み、ミレイユの一歩を終わらせるどころか、そこで生じた踏力を丸ごと次の加速へ変換することで――本来なら存在しないはずの「もう一歩」を計算の外側から継ぎ足した。
白い残光が、リエナの予測線を食い破る。
「――」
藍色の瞳が、初めて明確に見開かれた。
水膜はすでに生まれかけている。
位置も、角度も、展開速度も間違っていない。
ただ一つ。
守る場所だけが――もう、そこではない。
群青色の文字列が集まった透明な膜を、ミレイユの残光が横切った。
いや。
横切ったのではない。
水膜が完成した場所には、最初から何も来なかった。
リエナが「ここへ刃が届く」と断定した地点を、白雷は一歩ぶん先へ突き抜けている。
そしてそこからはもう――術式ではなく、剣士の距離だった。
ミレイユの姿がリエナの懐で再び人間の輪郭を得る。
近い。
短杖を大きく振るには近すぎる。
新しい水膜を正面へ組み直すには、なおさら。
右足が岩盤へ触れ、反発壁から渡された余剰の加速を膝と腰で殺すことなく、そのまま斬撃へ繋げる。着地の衝撃が腰を押し込み、腰の回転が肩へ伝わり、肩よりわずかに遅れて右腕が走る――個々に分ければ複数の工程であるはずなのに、長年の鍛錬によって継ぎ目を削り落とされたそれらは、一つの運動として〈鳴神〉へ流れ込んだ。
剣身を這う白雷が、細く鳴いた。
リエナが短杖を返すが——遅い。
群青色の術式文字が新たに三つ浮かび、その間へ水霊素が集まりかける。
まだ〈膜〉にならない。
ミレイユの〈鳴神〉はすでに、その内側にいる。
狙いは首ではなかった。
胸でもない。
観測と術式、その両方を成立させるためにリエナが握り続けている――短杖側の腕。
ミレイユは剣を大きく振り被らず、右肩を前へ送る勢いに手首の返しだけを重ね、下方から斜め上へ刃を走らせた。白銀の剣閃がリエナの腰脇から胸元へ向かって跳ね上がり、慌てて引かれた短杖の下を潜り抜けながらそのまま右前腕の外側へ吸い込まれていく。
リエナが腕を引く。
しかし予測を外された一拍はもう取り戻せない。
〈鳴神〉の切っ先が袖へ触れた。
白い布地に一本の線が雷鳴の如く走り抜ける。
その下にある皮膚へ、白刃が届いた。




