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第45話 …聞かなきゃよかった


挿絵(By みてみん)




 心臓へ届くはずだった緋燕の鋒を、わずか紙一枚ぶんだけ死線から逸らした透明な水膜――その向こう側に、ひとりの女が立っていた。


 リエナ・エルゼヴァル。


 ヴァルガより一歩半ほど後方、崖を渡る風さえ彼女の周囲だけ避けているかのような静けさの中で、細身の短杖を胸元よりわずかに高く掲げている。背へ流した髪は夜明け前の海を思わせる深い群青を基調としながら、その一部だけが生まれつき色を失ったかのような雪白に染まり、二色の境界は整然と分かれることなく白い絵具を水へ一滴落としたときのように不規則な筋となって混じり合っていた。風に煽られた毛先が頬を掠めても払おうとはせず、衣服の襟元から覗く左肩、そのまま鎖骨へ向かって細く伸びた〈Ⅳ-2〉の副刻印だけが、凍てついた硝子の内部へ青白い燐光を閉じ込めたような冷たい輝きを帯びている。


 けれどアスカの注意を最も強く引いたのは、その髪でも刻印でもなかった。


 目だ。


 ヴァルガの胸を貫く寸前まで迫った緋燕を見ても、そこには焦りがない。


 間一髪で仲間を救ったという安堵もない。


 まして自分の術がアスカの刃を逸らしたことへの得意げな色など、欠片ほども浮かんではいなかった。


 リエナは――観ていた。


 ただ、それだけだった。


 水膜へ触れた瞬間の緋燕の入射角。防壁内部を通過した際に生じた刃筋の偏差。アスカの手首が返った角度。足元や背後にいまだ薄く残っている〈空蝉〉の残響。ヴァルガが後退を封じられた位置。そして、たった今自分が介入したことで“そのすべてがどのように変化”したのか。


 まるで戦場そのものを巨大な標本台と見なし、その上で起きた現象へ新しい線を一本ずつ書き加えていくような、冷静という言葉だけでは足りないほど無機質な視線。


 その瞳の中では味方が死にかけたことさえ――ひとつの観測結果に過ぎないのかもしれない。


 リエナは短杖を掲げたまま、わずかにも声を荒らげずに言った。


「遊びすぎよ、ヴァルガ」


 低くも高くもない、澄んだ声だった。


 叱責にしては怒気がなく、忠告と呼ぶには心配がない。危うく胸を貫かれかけた仲間へ向けた言葉だというのに、その響きは実験器具を雑に扱った同僚へ注意する程度に淡々としている。


 ヴァルガが肩越しにリエナを見た。


「手ェ出すなって言っただろ?」


 つい先ほどまで自分の心臓へ刃が迫っていたというのに、その声音には不満こそあれ恐怖の残滓がない。


 リエナもまた、ヴァルガを見ることすらしなかった。


「必要なら出すわ」


 その言葉には説明も、謝罪もない。


 一拍の沈黙を挟んで、ヴァルガの喉の奥から、くつ、と低い笑いが漏れた。


 アスカは二人のやり取りを聞きながら、緋燕を手元へ引き戻す。


 透明な防壁にはまだ刃が触れた名残のような細い波紋が広がっていた。群青色の文字列が水面の奥をゆっくり巡り、やがて役目を終えた部分からほどけるように消えていく。


 その消え方まで見届けたところで、アスカの中にひとつの結論が落ちた。


 ――ただの盾じゃない。


 リエナは緋燕を止めていない。


 もし真正面から斬撃を受け止める術式だったなら、アスカの手には相応の衝撃が返っていたはずだ。しかし実際には手首へほとんど抵抗を感じず、速度も殺されていない。変えられたのはただ一つ――刃が進む方向。


 胸骨の脇から肋間を抜け、心臓へ到達するはずだった線をほんの数ミリ横へずらしただけ。


 たった、それだけの介入。


 だからこそ厄介だった。


 防壁を分厚くする必要もない。


 緋燕より速く動く必要さえない。


 アスカが何を狙い、どの軌道を使い、最後に刃がどこへ到達するのか――そのすべてを最初から読み切る必要すらおそらく彼女にはない。


 最後だけ見ればいい。


 無数に枝分かれした攻防が収束し、「ここへ刃が届く」という一点が確定した瞬間、その座標へ必要最小限の術式を差し込み、結果だけを数ミリずらす。


 それだけで致命傷は浅手になり、必殺は失敗へ変わる。


 ――厄介。


 アスカは咄嗟にそう判断した。


 そして、もう一つ。


 ――あれは、先に潰したほうがいい。


 ヴァルガには隙が多く、まだ手の内の全てを晒していない“今”であれば刀の刃が届く手応えがある。


 彼の反応は速く、その身のこなしを見る限り強いことは疑いようが無い。槍の扱いにも隙が少なく、おまけに他者の生命へ根を突き刺して力を吸い上げるという生理的に近寄りたくない類の能力まで持っている。性格も気に入らないし、グラド・バルムへやったことを考えれば今すぐにでも首へ緋燕を通してやりたい。


 焦らなければ――斬れる。


 少なくとも“一対一”なら刃を届かせる道筋は作れる。


 問題はヴァルガ一人ではないことだった。


 右手側に控える小柄な男は、黒い杭によって動作と空間を縫い留める不可解な能力を持っている。逃げ道を塞ぎながら踏み込みを殺し、こちらが速度を上げれば上げるほどその進行先へ先回りして自由を奪ってくるような厄介な能力だ。


 そしてリエナは、——全体の動きを細かく読んでいる。


 こちらが残した熱、魔力、足跡、斬撃、〈空蝉〉の残響――戦闘が続けば続くほど蓄積していく情報を拾い集め、次の攻撃を予測する材料へ変えていく。おそらく今の一度だけでも、〈空蝉〉が単なる残像ではなく過去の行動そのものを現在へ再生する技だというところまでは、かなり近くまで辿り着いている。


 その中央で、ヴァルガは外部からエネルギーを吸っている。


 傷つけた相手へ〈根喰〉を突き立て、奪った魔力を自分へ還元しながら戦闘が長引くほど手札と出力を増やしていく。


 小柄な男が行き先を狭める。


 リエナが行動を読む。


 そこへヴァルガが槍を通す。


 仕留めきれなければ吸われ、時間をかければ観測されながら逃げようとすれば縫い止められる。


 三人が同時に機能した瞬間、こちらに残された自由だけが戦闘時間に反比例して削られていく。


 アスカは緋燕を下段へ落としながら、改めて三人を見る。


 なるほど。


 いい組み合わせだ。


 ――めんどくさいが、そう認めざるを得ない。



 崖の縁へ最初に姿を現したのはミレイユだった。


 岩肌を蹴った靴底から白雷の火花が鋭く散り、その残光が消えるより早く身体は崖上へ躍り出ており、着地とほとんど同時に腰の剣が鞘を離れる――無駄な力も予備動作もなく、抜刀音すら置き去りにした一連の動きはいかにも歴戦の聖騎士らしい鮮やかさだったのだが、その数秒後に同じ場所から「ぬおお……っ」という勇壮さとは少々縁遠い声とともにとおるの手がぬっと生えてきたことで、せっかく整った登場場面の格調は急速に失われた。


「ちょ、ちょっと待っ……これ最後どこ掴めば……!」


 岩の縁へ両手を引っかけ、肘を震わせながら靴底を何度も崖へ擦りつけた末、とおるはようやく顔だけを地上へ出した。そこからさらに一苦労、腹を岩角へ押しつけながら芋虫じみた動きで這い上がり、最後は片膝をついたまま肩で盛大に息をする羽目になったのだから登場としてはたいへん格好悪い。本人にもその自覚は十分あったらしく、崖ひとつ登っただけで体力ゲージを危険域まで削られ、これから敵と戦おうという場面で既に「少々お待ちください」の顔をしている聖騎士など、後世の英雄譚に挿絵がついた際に画家がいちばん困る種類の主人公だろう。


「ぜぇ……はぁ……崖、廃止しませんか……。こういう地形、今後ぜんぶ……」


「黙って立て」


「はい……」


 改革案は一秒で棄却された。


 とおるが人類の地形行政に敗北している間にもミレイユは既にアスカの隣へ並んでおり、剣を下段へ構えたまま、視線だけで前方の敵三人と周囲の地形を素早くなぞる。敵との距離、配置、足場、こちらへ向けられている武器――ひと通りを頭へ叩き込むまでに要した時間は、ほんの数呼吸だった。


「状況は」


「三人いる。槍が1人と、たぶん付与系の術師が2人」


 アスカから返ってきた説明は、相変わらず知らない人間が聞けば暗号か何かと勘違いしそうなほど短かったが、ミレイユにはそれで十分だった。視線が中央のヴァルガ、その脇を固める小柄な青年、さらに後方のリエナへと移り、敵三人の役割を頭の中で即座に組み直していく。


「あの二人がとにかく邪魔」


「なるほどな」


 言葉とともにミレイユの指が柄を締めると、剣身を這った白雷が刃先へ集まり、薄闇の中で淡い光を灯した。ヴァルガそのものを倒せないわけではない――問題は攻撃を吸い込む槍と、こちらの動きを地面へ縫い止める黒杭、さらに戦況を読みながら防壁を差し込んでくるリエナが互いの隙を補っていることであり、ならば正面から三人まとめて崩そうとするよりその連携を一枚ずつ引き剥がしたほうが早い。


「はぁ……はぁ……なるほど。二人を剥がして、一対一に持ち込むんですね」


 ようやく立ち上がったとおるが丸盾を構え、理解したように頷く。


「そうだ」


「ちなみに、その二人を剥がす役は」


 ミレイユとアスカが、ほぼ同時にとおるを見た。


「…………聞かなきゃよかった」


 世の中には確認することで安心できる事柄と、確認した瞬間に逃げ道が消える事柄がある。今回の質問は明らかに後者だった。


 とはいえ嘆いている暇もなく、とおるは息を整えながら盾越しに敵陣を観察し、まず地面へ深々と食い込んだ黒杭、その向こうで半透明の膜となって揺らめくリエナの防壁へ目を走らせる。あの二つがヴァルガを守るための厄介な仕掛けであることは、戦闘経験の浅い彼にも嫌というほど理解できた。


 そして――視線が、右側で止まった。


 黒杭のそばに立つ小柄な青年が、こちらを見ていた。


 片目を覆う赤紫色の髪が風に揺れ、その隙間から覗くもう片方の目には敵を前にした緊張も警戒もほとんど浮かんでおらず、口元にあるのはむしろ新しい玩具を目の前へ置かれた子供のような無邪気な笑みだった。


 それが、とおるには妙に嫌だった。


 殺気を剥き出しにされるほうがまだ分かりやすい。睨まれれば警戒できるし、怒鳴られれば「あ、この人は敵なんだな」と心の準備もできる。


 しかし目の前の青年はまるで違う。


 友達でも見つけたような顔で、にこにこと笑っている。


 その足元には、人間ひとりくらいなら簡単に地面へ縫いつけられそうな黒杭が何本も突き刺さっているというのに。


「……あの人、なんであんな楽しそうなんです?」


 とおるが小声で尋ねると、アスカは青年から目を離さないまま答えた。


「たぶん、楽しんでるんだと思う」


「いちばん嫌な答えだった」


 ミレイユは崖上へ身を躍らせたその瞬間から、すでに戦うための計算を始めていた。


 もっとも、彼女は戦場で長々と思考を巡らせることを好む性質ではない。考えないのではなく、考えなければならないことの大半を、平時の訓練で身体の奥まで叩き込んでしまう。足場が悪いときの踏み方、長物を相手にしたときの間合い、剣を振るうために必要な肩の開き、呼吸が乱れた相手に生じる重心の偏り、魔力が一箇所へ集まる直前に起きる微細な兆候――そうした無数の情報を、実戦のたびに頭の中で一から組み立て直すのでは遅い。獣であろうと人であろうと敵を見た瞬間に身体が答えへ近づき、そのあとから意識が追いつくくらいでちょうどいい。それがミレイユの戦い方だった。


 彼女にとって戦闘中の分析とは、机へ向かって式を並べる作業ではない。


 すでに身体へ刻まれている無数の答えの中から、その場に最も近い一つを引き抜く行為に近い。


 だからこそ、判断は速い。


 速くなければ意味がない。


 迷いが生まれるより先に一歩を踏み、相手が次の選択へ移る前にこちらの答えを押しつける――それで大抵の戦場は処理できる。


 けれど。


 今回に限っては、答えを急ぐこと自体が危険だった。


 未知数なことが多すぎる。


 中央には黒槍〈根喰〉を操り、傷つけた相手から魔力を吸い上げるヴァルガ。


 右には空間そのものを黒杭で縫い留め、行動の起点と終点を拘束する小柄な男。


 左には味方の危機にすら感情を揺らさず、戦場全体を観測対象のように読みながら、必要な一点へ最小限の術式を差し込むリエナ。


 能力の性質だけを切り出して見れば、それぞれ厄介という言葉で済ませられる。


 問題は、三人が一緒にいることだった。


 三対三で正面から噛み合わせるべきか。


 それとも、無理にでも戦場を分割し、一対一に近い形へ崩すべきか。


 ミレイユは剣先をわずかに下げたまま、ほんの数呼吸で眼前の戦場を何度も組み替えていく。


 味方同士の理解と連携が十分に積み上がっているなら、集団戦は強い。白華隊なら盾役を前へ置き、その背後に防御線と回復を重ね、牽制と攻撃を時間差で差し込むことで相手の選択肢そのものを削っていく。紅椿であれば逆に火力と機動力を前面へ押し出し、敵の隊列が一瞬でも乱れた場所へ複数人が連続して飛び込み、崩れが戻る前に突破口を傷口へ変える。


 だが、ここにいる味方は白華隊でも紅椿隊でもない。


 とおると、アスカ。


 とおるとは訓練を重ねてきた。


 彼の〈壁〉がどの距離なら最も早く立ち上がるか、どの角度から攻撃を受けると反応が一拍遅れるか、味方を庇う際に無意識のうちへどちらの足を前へ出すか――さらには、本人が平静を装っているつもりでも、眉尻がわずかに下がったときはすでに内心で「できれば帰りたい」と思っていることまで最近ではかなり読めるようになってきた。


 そこは問題ではない。


 問題は、アスカだった。


 実力は疑いようがない。


 判断も速い。


 機動力に至っては、下手な術式よりよほど理不尽だ。


 そして何より、相手が何をしようとしているかではなく何を選べば身体のどこへ兆候が出るのか、そのさらに一歩先まで見て斬撃を置く――先ほどヴァルガを追い詰めた一連の攻防だけでも、その異常な戦闘感覚は十分すぎるほど証明されている。


 ただし。


 ミレイユは、アスカと実戦でまともに組んだ経験がほとんどない。


 どこまで前へ出るのか。


 どの瞬間に退くのか。


 味方の防御を待つのか、それとも防御が届く前に自分で突破してしまうのか。


 そもそも「待て」と命じられたとき、本当にその場で足を止めて待つ種類の人間なのか。


 ――待たない。


 そこだけは、実戦でまともに組んだ経験が乏しいミレイユにもすでに嫌というほど分かっていた。


 もっとも、アスカは命令を聞いていないわけではない。服務規定を知らないわけでも、上官の指示を理解できないわけでもなく、むしろ耳へ入った言葉の意味も、その命令が出された理由も、おそらく人並み以上に正確に把握している――そのうえで自分の目に映った状況と照らし合わせ、守るべき目的へ辿り着く最短の道が規則の外側にあると判断した瞬間、命令そのものではなく「命令という形」を置き去りにして先へ行くのだ。


 報告書。


 服務規定。


 帰還後に待っている説教。


 下手をすれば始末書まで。


 そうした後々の面倒を、まるごと崖下へ蹴り落とすようにして。


 たぶん本人の中では、それすら優先順位の問題なのだろう。


 今ここで守れる命と、あとで怒られる自分。


 秤へ載せるまでもない。


 そういう騎士だ。


 だから厄介であり――同時に、強い。


 つまり、アスカは味方であっても次の動きを完全には読めない。


 そして敵の三人もまた、能力の底が見えない。


 そんな「読めないもの」同士を左右を崖と不安定な岩場に挟まれた狭い戦場へ六人まとめて放り込み、真正面から三対三の乱戦を始めればどうなるか。


 考えるまでもなかった。


 ヴァルガの〈根喰〉をかわした先へ黒杭が打ち込まれ、その拘束から逃れようと踏み込んだ瞬間にはリエナの防壁が割り込み、さらに数秒前へ置き去りにされていたアスカの〈空蝉〉が別方向から過去の踏み込みや斬撃を再生する。そこへ、とおるが誰かを守ろうとして〈壁〉を立てれば、敵の攻撃を防いだはずの防壁が次の瞬間には味方の退路を塞ぎ、逆に敵を追い詰めようとして放った一撃がアスカの仕込んだ動線を潰す可能性さえある。


 一人ひとりが、その瞬間には正しい判断をする。


 なのに、その正解が次の誰かにとっての不正解へ変わる。


 それは連携ではない。


 簡潔に言えば事故だ。


 しかも六人全員が武器と術式を持ち、そのうち何人かは地形そのものへ干渉できるという、誰が最初の被害者になるのかさえ予測できない種類の事故。


 ならば――混ぜるのではなく、あえて分ける。


 そこでミレイユの思考は、それまで枝分かれしていた複数の戦術案を切り捨てて一つの答えへ収束した。


 アスカは、ヴァルガを斬れる。


 希望的観測ではない。


 先ほど目の前で起きた攻防が、そのまま証明になっている。


 ヴァルガは「個」の能力としても間違いなく強い。〈根喰〉ほどの長物を至近距離でも持て余さず、握る位置と支点を瞬時に変えて攻防を切り替える技量だけでも並の槍使いとは比較にならず、そこへ〈蝕根〉による吸収まで加われば、刃を受けさせることさえ危険になる。傷つけた生命へ根を食い込ませ、奪った魔力を自分の力へ変える――その在り方には数多くの異能を目にしてきたミレイユでさえ、理屈より先に嫌悪を覚えた。


 それでも、アスカの刃は届いた。


 一度ではない。


 現在の踏み込みで防御を誘い、過去の動作で反射を狂わせ、逃げ道そのものを数秒前の斬撃で塞いだうえで、最後にはヴァルガ自身が選んだ回避行動を次の斬撃へ繋げた。


 あれは力押しではない。


 速さだけでもない。


 相手の選択肢を奪っているように見えて、その実、アスカは最後までヴァルガ自身に選ばせていた。


 守るのか。


 退くのか。


 槍を取るのか。


 腕を取るのか。


 どれを選んでもその答えが次の刃へ繋がるよう、戦場へ先回りして道を作っていた。


 そして最後。


 ヴァルガの胸へ向かった緋燕は――止められていない。


 届かなかったのではない。


 リエナに、逸らされた。


 ほんの紙一枚。


 あの透明な防壁が介入しなければ緋燕の鋒は胸骨の脇を抜け、そのまま致命の深さへ達していた可能性が高い。


 ならば、答えは単純だった。


 アスカへ加勢する必要はない。


 むしろ、してはいけない。


 間合いも速度も、読み合いも、すでにあの二人の間で成立している。そこへミレイユが横から剣を差し込めば、ヴァルガへ圧力を増やせる代わりにアスカが戦場へ積み重ねた〈空蝉〉の起点を一つ踏み潰すかもしれず、彼女が誘導しようとしていた回避方向を自分の斬撃で塞いでしまえば、それまで積み上げた数手ぶんの布石が一瞬で無駄になる。


 助けるのではなく、邪魔を取り除く。


 アスカがヴァルガを斬るために必要なのはもう一振りの剣ではなく――誰にも介入されない、ほんの数秒の戦場だ。


 ミレイユの視線が、まず右へ流れた。


 黒杭の傍らに立つ、小柄な青年。


 あれはアスカの進路を読んでいるのではない。進路になり得る空間そのものを先に縫い、速度を発揮できる場所を減らしている。放置すれば、〈空蝉〉によって過去と現在を行き来するアスカの動線はいずれ狭まり、どれほど速くとも「踏める場所がない」という状況へ追い込まれる。


 次いで、左。


 短杖を掲げるリエナ・エルゼヴァル。


 こちらはさらに厄介だった。


 攻撃を真正面から受け止める必要すらなく、戦場で積み上がった情報を観測し、無数に枝分かれする可能性が最後の一点へ収束した瞬間だけ術式を差し込む。先ほど緋燕を逸らした防壁がまさにそうだったように、十の攻防すべてへ対応するのではなく、十手の果てに生まれた「致命」という結果だけを数ミリ動かして無効にする。


 一人は、行き先を奪う。


 一人は、辿り着いた結果を変える。


 そして中央でヴァルガが、その二人によって作られた猶予を利用しながら〈根喰〉を振るい、長引いた時間そのものを〈蝕根〉の餌へ変えていく。


 ——よくできている。


 “ならば、その形を壊せばいい。”


 ミレイユの思考はこの時点でアスカと同じ領域に足を踏み入れていた。


 ——そう、その考えは至ってシンプルだ。


 黒杭使いをヴァルガから引き剥がす。


 リエナにも、アスカを観測している余裕を与えない。


 二人をそれぞれ別の脅威へ縫い付け、視線も術式も判断も、中央へ戻せない状況を作る。


 三人を倒す必要はない。


 あの三人を三人一組として機能させない。


 行き先を縫う者と結果を読む者をそれぞれ別の相手へ縫い付け、ヴァルガへと届く支援の手を奪う。


 それができれば。


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