第43話 ぶっ殺すよ?
――〈蝕根〉。
それは、傷口や武器を媒介として対象の魔力回路へ根状の術式を侵入させ、相手が本来なら自分の肉体や術式へ巡らせるはずだった魔力を途中から奪い取り、一時的に術者自身の燃料へ転用する侵食系能力である。ただし、その構造を単なる「魔力吸収」と呼んでしまえば本質を見誤る。仮に細い管を血管へ差し込むようにして魔力を抜き取るだけの仕組みなら、接続箇所を焼き潰す、傷口ごと切除する、あるいは対象側が魔力を強制的に逆流させて侵入経路を押し返すなど、危険ではあっても対処法そのものは想定しやすい。〈蝕根〉が真に厄介なのは、外部から一本の管を差し込むのではなく、対象の魔力回路が枝分かれする箇所へ自らの術式を絡ませ、傷の奥から循環系そのものへ食い込み、本来存在しなかった「奪取専用の別系統」を強引に増設してしまう点にあった。
そのため、刺された側が被る被害は単純な魔力消耗では終わらない。魔力を失うより先に循環そのものが乱され、肉体強化へ回るはずだった流れは途中で削ぎ落とされ、術式を起動しようにも必要な場所へ必要な量が届かず、やがて四肢の末端には血が通わなくなったような痺れが広がり、局所的な魔力欠乏が筋繊維や神経系にまで影響を及ぼして動作の精度も反応速度も目に見えて鈍っていく。グラド・バルムが腹部を貫かれた直後、それまで大地へ杭のように突き立っていた脚へ力を送れなくなり、あれほど巨大な身体を支えきれず崩れ落ちたのも、単に出血や痛みで膝を折ったからではない。腹部から侵入した〈蝕根〉が土属性の魔力を全身へ巡らせる太い幹へ噛みつき、母体と地面を結びつけていた強化経路そのものを内側から食い荒らした結果だった。
そして、奪われた魔力は消えるわけではない。術者側へ流れ込んだそれは短時間ながら戦闘能力を押し上げる追加燃料として利用でき、たとえば土属性を吸収すれば脚部や体幹の強化、防御術式の補助へ回しやすくなり、火属性なら武器の加速や瞬間的な破壊力へ、雷属性であれば神経伝達や反応速度の底上げへ転用することも可能になる。とはいえ、〈蝕根〉が盗めるのはあくまで魔力という「燃料」だけであって、その人物が積み上げた技術や固有術式まで奪えるわけではない。ミレイユから雷属性の魔力を吸い上げたところで〈白雷〉そのものを再現できるわけではなく、とおるから大量の魔力を奪ったからといって〈壁〉を生成できるようになるわけでもない。奪えるのは力を動かすための熱量までであり、その力によって「どのように世界へ触れるか」という方法論までは持ち帰れない。
もちろん、万能でもない。第一に、対象へ傷を作らなければ根は侵入できず、接続が浅ければ術式は表層の魔力しか拾えないため、吸収量そのものも限定される。さらに相手の魔力回路が強靭であったり、内部抵抗が高かったりする場合には、根を深部まで広げて主循環へ噛みつくまで相応の時間を必要とするうえ、吸収できる量には術者自身の回路容量という明確な上限がある。限界を超えて異質な魔力を取り込めば今度は術者側の回路が耐えられず、〈根腐れ〉と呼ばれる拒絶反応を起こして腕や胸郭の内側へ焼け爛れたような魔力損傷を残す。高純度の聖属性、極端に濃度の高い呪属性、あるいは既存分類へ収まらない未知の魔力などは強力な燃料である以前に術者自身を侵す毒へ転じる可能性すらあり、吸収した魔力も恒久的に保持できるわけではなく、数分から長くても十数分程度で回路外へ排出されていく。接続そのものが断たれればその時点で当然、吸収も停止する。
だが、それらの制約を並べたところで〈蝕根〉が弱いという結論にはならない。
むしろこの能力が最も悪辣なのは、相手と正面から殴り合う必要すらないところにある。先に遠距離攻撃や別の手段で深い傷を作り、対象が動けなくなったあとから安全圏で根を侵入させ、そのまま魔力を吸い続ければいい。そうして戦闘不能となった獲物から属性魔力を抜き取り、自分の次の戦闘へ転用する運用を徹底すれば〈蝕根〉は単なる戦闘技能ではなくなる。
倒した相手を、その場で資源へ変える。
生きていようが瀕死であろうが、まだ回路に魔力が残っている限り次の獲物を狩るための燃料として利用できる。
それは捕食に近い。
ただ喰らうのではなく、相手の内側へ根を張り、まだ温度の残る力だけを選んで啜り取る、ひどく効率的でひどく悪趣味な回収機構。
そしてその〈蝕根〉を持つ者こそ――アスカ・カグラードの眼前に立つ長身の男、ヴァルガ・ローディスだった。
「ねえ、なんであんなことしたの?」
アスカの声は、不思議なくらい静かだった。刃を抜いた直後の人間が発する言葉にしては熱が乏しく、怒号と呼ぶには澄みすぎており、かといって威嚇のための低い声音とも違う――むしろ相手に返答の機会だけは与えながら、その答え次第で何かが変わる可能性など最初からほとんど残していない冷えた確認の言葉だった。崖下から吹き上がる風が黒と朱の強襲外装の裾を大きく翻し、抜き放たれた片刃刀〈緋燕〉の刀身には午後の陽光と朱色の火霊素が細い筋となって滑っている。その切っ先の向こう、アスカの正面に立つヴァルガは、右肩から胸元まで裂けた外套の内側で黒緑色に濡れた古代文字の刻印を脈打たせながら、まるで斬撃ではなく挨拶代わりの握手でも差し出されたかのような気安さで口元を緩めていた。
崖下では、とおるとミレイユが切り立った岩肌へ取りついている。
「壁山、そこへ足場を出せ。もう少し右だ」
「はい、右、右ですね。ちなみにこの高さ、落ちた場合って労災扱いになります?」
「任務中の負傷記録には残る」
「慰めの方向が事務処理なんですよ」
「喋る余裕があるなら、次を出せ」
「喋ってないと怖さで心が剥がれるんですって!」
岩肌からわずかに離れた空中へ透明な小型〈壁〉が現れ、とおるは恐る恐るそこへ片足を乗せた。体重を預けても微動だにしないことを確かめてから次の一枚を少し高い位置へ出し、登ったところで下の壁を消し、再び前方へ作り直す――それを延々繰り返しながら崖を上がっていく自分の姿を客観的に想像した瞬間、とおるの脳内に常駐している職能分類担当者は、とうとう無言で書類一式を机へ置いて職務放棄した。防御、誘導、足場形成、移動補助、魔獣の避難誘導、そして今度は崖登り。〈壁〉という単語ひとつに押し込められた業務範囲は、もはや王都の部署再編より節操がない。
それでも、とおるの意識は一度たりとも完全には崖上から離れていなかった。
ヴァルガの右腕から、今なお黒緑の細い線が伸びている。
それは眼下に倒れ伏したグラド・バルムの腹部へ突き刺さった黒銀槍〈根喰〉と、崖上に立つ男の身体とを繋ぐ太い根というより血管にも似た魔力の脈だった。もっとも、とおるの目にその全貌が明瞭に映っているわけではない。かつてユリシスとの戦いで見た白い因果の線ほど輪郭は鮮烈ではなく、濃霧の向こう側で黒い蔓だけが時折揺れて見えるような、視覚というより感覚の縁へ不快に引っかかる程度の認識にすぎなかったが、それでも線の内側を流れている何かが倒れた魔獣の体内にまだ残っている力であることだけは、理屈より先に分かってしまった。
嫌な見え方だった。
生きているものと、死にかけているものと、その力を奪っているもの。
三者を一本に結びつけた、あまりにも都合よく、あまりにも悪趣味な接続。
できることなら、二度と見たくない種類の線だった。
――なんであんなことしたの?
アスカの問いだけを切り取れば、ひどく素朴だった。
しかし彼女はヴァルガという人間に興味を持ったわけではない。どんな思想を抱き、どんな過去を背負い、なぜそんな生き方を選んだのか――そうした背景を知りたいわけでもなければ、まして会話を重ねることで理解し合おうとしているわけでもない。その問いはもっと反射的で、もっと単純で、それゆえに冷たかった。斬る前にただ一つだけ確かめておかなければならないことが残っていたから、口にした。それだけだった。
アスカの瞳は、すでに深海を思わせるほど深く澄んでいた。
そこに激情はない。
目の前で命を奪われたグラド・バルムへの同情を声高に叫ぶ正義感も、腹に子を抱えた獣を殺されたことへの怒りに任せて今すぐ斬りかかろうとする衝動も、表面にはほとんど浮かんでいなかった。むしろ感情という濁りがすべて沈殿し切ったあとに残った、透明すぎる静けさだけがある。その奥底へ研ぎ上げられた刃物のような殺意が一本、音もなく沈んでいた。
彼女が知りたいのは、ひとつだけ。
なぜ、あの槍を投げたのか。
なぜ、戦う必要すらなくなっていた相手へなお攻撃を加え、腹の中に新しい命を抱えた獣をまるで足元の石でもどけるような無造作さで殺したのか。
怒っているから、理由を求めているのではない。
理由を聞いたうえで、目の前の男をどのように斬るべきかを決めようとしている。
そのためだけの問いだった。
血に濡れた地面には、つい先ほどまで暴威そのものだった巨体が横倒しになっていた。地面を穿ち、岩盤さえ押さえ込んでいた杭脚からはすでに力が抜け、神経の残響めいた微かな痙攣だけが時折末端を震わせており、破裂した土壁の向こうではグラド・バルムが最後の瞬間まで庇おうとしていた腹部が自重に耐えかねるように湿った地面へ沈み込んでいる。抉り開かれた傷口から溢れる血は魔力循環を破壊されたことで濁った土属性の残滓と混ざり合い、周囲の土を泥よりも暗い色へ染めながらわずかな傾斜に沿って細い筋を作っていた。
そこから少し離れた崖上に、アスカは立っている。
刀はすでにニ度、鞘を離れていた。
切っ先を低く落とした構えには、今すぐ斬りかかろうとする者にありがちな肩の強張りも柄を握り潰さんばかりの力みもない。むしろ指先から肩、背筋、腰、足裏へ至るまで不自然なほど余分な力が削ぎ落とされ、いつ踏み込み、どの角度から刃を通し、どこで止めるのか、そのすべてが彼女の内側ですでに決まっているような静けさだけがあった。もし数歩以内に立って呼吸している者がいたなら、アスカから殺気を浴びたと感じるより先に、自分の喉の奥へ冷たい刃先を差し込まれ、息を吸うたび薄皮一枚ずつ裂かれていくような錯覚を覚えただろう。
けれどヴァルガは、その空気を恐れるどころか目の前に提示された問いの意味がよく分からないとでもいうように、ほんの少しだけ首を傾けた。
「なんでって?」
黒槍〈根喰〉を無造作に肩へ預け、困ったな、とでも言いたげに片方の眉を寄せる。その仕草だけを切り取れば、道端になっていた果実を勝手にもいで食べたところを咎められ、「どうしてそんなことをしたの」と尋ねられた少年と大差がない。そこには罪を隠そうとする焦りも、自分の行為を正当化しようとする理屈も、相手を挑発して楽しむ露悪的な芝居さえなく、本当に質問の意図を測りかねている者だけが見せるごく自然な戸惑いが浮かんでいた。
その顔を見た瞬間、アスカの目がさらに澄んだ。
「あの子」
声の温度は変わらない。
「殺したでしょ」
「ああ」
ヴァルガは記憶を探る間さえ置かなかった。
「あれのことか」
――あれ。
たった二文字。
名前ではなく彼女でもなく、あの子ですらない。地面へ転がった壊れた道具か役目を終えた荷物でも指すように口から落とされたその一語を聞いても、アスカの中で何かが派手に切れたわけではなかった。怒りが爆発して視界を赤く染めたわけでも、握った柄が軋むほど力を込めたわけでもない。
むしろ、逆だった。
胸の奥で膨らみかけていた怒りも、悲しみも、目の前の男に対する嫌悪も、一瞬にして行き場を失ったかのように沈黙し、冷たい水を満たした深い井戸の底へ石が落ちていくように、音も立てず、光も届かない場所まで沈んでいった。感情が消えたのではない。ただ、表へ噴き出す必要がなくなった。怒鳴る必要も問い詰める必要も、相手に自分の怒りを理解させる必要さえない――そんな奇妙なほど澄み切った認識だけが残り、代わりに刀を握る右手の感覚が先ほどまでより鮮明になっていく。
「理由を聞いてるの」
「理由ねえ」
ヴァルガはそこで初めて視線を外し、崖下に倒れ伏すグラド・バルムへ目を向けた。腹部には〈根喰〉によって穿たれた深い痕跡が残り、その周囲では〈蝕根〉の名残である黒緑色の術式残滓が、獲物の内部からまだ何かを探しているかのように、弱々しく明滅を繰り返している。ヴァルガはそれをしばらく眺め、何か特別な理由でも思い出そうとしているように顎をわずかに上げたものの、やがて該当するものが見つからなかったらしく、口元へ薄い笑みを浮かべた。
「ただの暇つぶしだよ」
その瞬間、風が一度だけ止まったように感じられた。
もちろん、本当に風が止んだわけではない。
崖際の草は変わらず細かな波を作り、岩肌を舐めて谷へ落ちていく気流は砕けた石粉をさらい、地面へ広がったグラド・バルムの血の匂いも湿った土と獣臭を伴いながら谷底へ細長く流れている。遠くでは砕け落ちた小石が斜面を跳ね、その乾いた音さえ確かに耳へ届いていた。
アスカはゆっくりと息を吸い込み、胸の奥に溜まっていた熱まで押し出すように肩から深く吐いた。
傍目には力を抜いたようにも見えただろう。あるいは目の前の男と争うことを諦め、張り詰めていた戦意をいくらか薄めたように受け取れたかもしれない。だが、伏せられることなく正面を見据えた彼女の瞳だけは陽光の届かない清流の底に沈んだ石のように澄み切ったまま冷え、その右手に握られた〈緋燕〉もまた、今すぐ斬りかかる構えとは正反対に鋒を力なく地面へ向けている。にもかかわらず涼やかですらあるその立ち姿を見れば見るほど、抜き身の刃へ目には見えない殺意が一滴、また一滴と静かに注ぎ込まれ、やがて器から溢れ出す瞬間だけを待っているようなひどく危うい気配が濃くなっていった。
怒りに任せて刀を振り回す者の荒々しさなど、どこにもない。
だからこそ――奇妙なほどに“清んで”いた。
「……暇つぶし?」
「ああ、そうだ」
問い返したアスカの声に含まれていたものを気に留めた様子もなく、ヴァルガは肩へ担いでいた〈根喰〉をわずかに持ち上げ、まるで重さを確かめ直すように柄を掌の中で転がした。
「ただ見てるのも退屈だったしな。ああいうデカいのって、見たら試したくなるだろ?」
あまりにも軽い。
殺した理由として口にされたとは、とても思えないほどに。
ヴァルガは〈根喰〉の石突を地面へ軽く落とすと、黒い穂先へべったりとこびりついた血へ一瞥をくれ、珍しい果実でも齧って味を確かめたあとに「まあ、こんなものか」と感想を述べるような気安さで肩を竦めた。槍身の内部にはグラド・バルムから奪い取った土属性の魔力がまだ残留しており、黒金属の表面へ細く刻まれた術式紋が持ち主とは別の生き物の脈拍を宿したかのように暗緑色の光を明滅させるたび、石突の周囲では砂粒が微かに跳ねながら地面の奥から伝わる低い震えが足裏へ滲んでくる。
「どれくらい吸えるのか、前から興味あったんだよ。あの甲殻も見た感じじゃ相当硬そうだったから、〈根喰〉がどこまで通るのか試すにはちょうどいいと思ってな。まあ――刺してみたら、思ったより柔らかかったが」
アスカは答えなかった。
視線も逸らさない。
ただ、〈緋燕〉を握る指がほんのわずかに締まった。
それを拒絶とも警告とも受け取らなかったらしいヴァルガは、むしろ黙って聞いているのなら話を続けても構わないのだろうとでも考えたのか、横倒しになったグラド・バルムの巨体へ視線を移し、先ほど自分が解体した獲物の構造を思い返すような口調で続けた。
「腹ん中が特に濃かったんだよな。脚にも背中にも土の魔力は回ってたが、あそこだけ流れの太さが全然違った。二本、いや、途中から何本かに枝分かれしてたから、最初は何かと思ったんだが――」
そこでヴァルガは〈根喰〉の柄へ指を添えた。
とん。
指先が黒い柄を叩く。
「たぶん、腹の子に送ってたんだろ」
とん。
もう一度。
「だったら、そこを刺せば一番手っ取り早く抜けると思ってな」
乾いた、ごく小さな音だった。
戦場で鳴る剣戟とは比べるべくもなく、魔獣の咆哮より遥かに弱く、風が少し強く吹けば簡単に掻き消されてしまう程度の音。それなのにアスカの耳には、一度目も、二度目も、妙に輪郭を持って届いた。
「……知ってたんだ」
「あ?」
ヴァルガが顔を戻す。
「何が?」
アスカはすぐには答えなかった。
息を一つ。
それから、確かめる必要など本当はないはずのことをあえて言葉にした。
「お腹に――子どもがいたこと」
「ああ」
ヴァルガは思い出すための間すら置かなかった。
視線を泳がせることもなければ、今になって言葉の意味へ気づいた様子もない。最初から知っていた事実を問われ、そのまま肯定しただけだった。
「それがどうかしたのか?」
その一言のあと、不思議なほど何も続かなかった。
言い訳も。
嘲笑も。
挑発も。
悪びれた素振りさえ、ない。
ヴァルガにとっては、本当に分からないのだ。
なぜ、それを聞かれたのか。
なぜ、腹の中にもう一つの命があったという事実が、目の前の女にとってこれほど重大なのか。
谷を抜ける風が二人の間を通り過ぎ、地面へ落ちた血の生臭さと、土埃と、魔獣の体温が失われていくとき特有の湿った臭いをまとめて攫っていく。その向こうでは横倒しになったグラド・バルムの巨体が完全な静寂へ近づきつつあり、先ほどまで呼吸のたび重々しく持ち上がっていた厚い腹部甲殻も、今では目を凝らさなければ分からないほど僅かに震えるだけだった。
いや。
もう、震えてすらいないのかもしれない。
腹部には〈根喰〉によって穿たれた穴が黒々と残り、その周囲から流れ出した血が甲殻の溝を伝って地面へ落ち、乾いた土をゆっくりと濃い色へ変えている。
その内側にいた、もう一つの命。
どうなったのかを確かめる必要などなかった。
母体を守る甲殻を破り、最も太い魔力流を狙い澄まし、そのさらに奥まで〈根喰〉は達していたのだから。
アスカの視線はヴァルガから外れない。
「知ってて、刺したの?」
「だからそう言ってんだろ」
苛立ちさえない。説明がうまく伝わっていないことを不思議がる程度の声音だった。
そこまで聞いて、アスカはようやく小さく息を吐いた。
「……そっか」
「ん?」
「ううん。分かった」
肩が、ほんの少し下がる。
力が抜けたようにも見えた。怒りを呑み込んだようにも、諦めたようにも、会話そのものへの興味を失ったようにも見えるほどごく自然な変化だった。
ヴァルガはそれを見て、口元を緩める。
「何だよ。怒ってんのか?」
「怒ってるよ」
「見えねえな」
「そう?」
「大体“あれ”はお前のペットでもなんでもねーだろ? 仲間が殺されたわけでもあるめえし」
「仲間じゃないよ」
アスカは静かに言った。
「今日、初めて会った子」
「じゃあ、なおさら関係ねーだろ?」
その答えに、アスカは数秒ほど黙った。
言葉を探していたわけではない。むしろ何かを言葉にする必要が本当にあるのか、それを確かめているような沈黙だった。
「関係ないなら、殺していいの?」
「いいとか悪いとか知らねえよ」
ヴァルガは笑った。楽しそうでもなく挑発するでもなく、自分にとって当たり前の話をしている者特有の気安さを含んだ笑いだった。
「食われるか狩られるか、それだけの話だ」
「それだけなんだ」
「それ以外に何があるんだよ?」
アスカは目を伏せなかった。
ヴァルガの笑顔も肩へ担がれた黒槍も、その穂先に残っている血も、胸元から右肩へ伸びる〈Ⅳ-4〉の副刻印も、一つずつ確かめるように見ていた。
今の自分は、驚くほど冷えている。
ヴァルガの喉までの距離。〈根喰〉の穂先がこちらへ返ってくるまでに必要な腕の角度。右足へ乗っている体重。吸収した土属性魔力によって普段より強化されているであろう踏ん張り。長い槍の内側へ潜り込むために必要な歩数。抜刀から頸動脈までの軌道。そんなものばかりが透き通った水の底へ沈めた石のように、ひどく鮮明に見えていた。
ああ。
アスカは、ようやく理解する。
自分はこの男の事情を知りたかったわけではない。悲しい過去があるのかもしれないとか、何か事情があったのかもしれないとか、殺さなければならない理由が存在したのかもしれないとか、そんなものを期待して問いかけたわけでもなかった。
ただ、一つだけ確認したかった。
知らずにやったのか。
知っていてやったのか。
答えは出た。
なら、もう聞くことはない。
アスカの親指が、〈緋燕〉の鍔へ触れた。
ち、と小さな金属音が鳴り、鞘の中で眠っていた刃が指一本分だけ外気へ晒される。磨き抜かれた鋼へ谷間から差し込む光が細く走り、その白い輝きとは裏腹に、アスカの声には怒鳴り声も威嚇も、相手を怯ませようとする力みさえ含まれていなかった。むしろ友人へ「そこ、ちょっと退いて」と頼む時に近い。穏やかで自然で――だからこそ、その言葉が何を意味するのか理解した頃には、もう遅いのだと本能に悟らせるような底冷えする静けさがあった。
「ぶっ殺すよ?」




