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第41話 相手してやるよ



「あんたが、やったの?」


 アスカの声は、驚くほど静かだった。


 刃を抜いた直後の人間が発する言葉にしては熱が薄く、怒号というには澄みすぎていて、威嚇というには相手へ考える余地を与えない。草原から吹き上がる風は崖の縁を撫でながら黒と朱の強襲外装の裾を大きく揺らし、抜き放たれた片刃刀〈緋燕〉の刀身には午後の陽光と朱色の火霊素が細い線となって流れている。アスカの目の前に立つ長身の男はほんの一歩分の間合いでその刃を見下ろし、右肩から胸へかけて裂かれた外套の奥で黒緑に濡れる古代文字の刻印を明滅させながら、まるで挨拶代わりに差し出された手を眺めるような気安さで笑っていた。


 アスカは先手を取るつもりでいた。


 それは狙っての行動というより、本能に近かった。すでに彼女の目には相手がただの殺戮対象にしか映っておらず、その足運びは行動を遂行するための純粋な息遣いの下へ組み込まれ、頭の中で「踏み込む」「抜く」「斬る」と順番を並べるより早く右足が岩肌を捉えている。深く腰が沈み、鞘へ添えた親指が〈緋燕〉の鍔をわずかに押し上げていた。怒りに任せて突っ込んでいるように見えて、その実、足を置く位置も相手との距離も、刀を抜き切る角度も、さらに数秒後に〈空蝉〉として再利用するための軌道まで無意識のうちに整えられているあたりが、本人の性格はさておき戦闘技術だけなら席官級と評される所以なのだろう。


 その意図に呼応するかのように、〈緋燕〉の鞘がかすかに震えた。音というより刃の内側に眠っていた熱が鞘木を通して骨へ触れてくるような反応であり、アスカの右手はそれを合図として受け取るより早く、すでに抜刀の軌道を完成させつつあった。


 崖上に立つ三つの影は、まだ名前を名乗っていない。


 目的も、どこから来たのかも、何を探しているのかも分からない。王国騎士ではない。地方兵でもない。やはりセンターブルーの軍装とも違う。黒灰色と濃紺を基調にした実働装束には王国の意匠とは明らかに異なる古い文字が刻まれており、肩や首筋に浮かぶ副刻印は術式というより肉体へ縫い込まれた呪いの番号に見えた。けれどアスカにとって、相手がどこの誰であるかはこの一太刀を止める理由にはならなかった。


 殺す理由は、もう定まっている。


 名乗りを待つための間など、アスカの刃にはすでに用意されていなかった。


 群青色に灯った古代文字が何を示すのか、赤紫と白に瞬く刻印がどんな術式へ繋がっているのか、黒緑の髪を揺らす長身の男がなぜ殺したあとまでグラド・バルムの命を吸い上げているのか、それらを言葉として整理するより早く、アスカの右足は岩の縁を踏み砕く寸前まで沈んでいる。腰は刀を抜くための高さへ落ち、左手の親指は〈緋燕〉の鍔を押し上げたまま喉笛へ届く一線だけを選んでいた。


 鋒が走る。


 黒と朱の外套が遅れて翻り、朱の火霊素が抜刀の線をなぞるように弾けた。


 初撃が防がれたと認識したのは、〈緋燕〉の鋒が相手に届かなかったからではない。むしろ刃は届いていた。少なくともアスカの感覚では、踏み込みの深さや腰の沈みはもちろん、鞘走りの角度も少しも滞っていなかった。肩から肘、肘から手首へ流した力の抜け方もすべてが喉笛を裂くために足りており、刃は空を斬ったのではなく相手の首へ向かう最短の線を確かに走っていた。


 それなのに——


 意図した方向に斬れなかった理由は単純で、相手がその線の上から首を逃がしたからではない。


 中央に立つ長身の男は、アスカの抜刀が始まるより遅れて動いたように見えたにもかかわらず、実際には右足の踵を岩の縁へ半寸だけ沈め、膝をほんのわずかに緩めながら胸を開くのではなく肋骨一枚ぶんだけ斜めへ畳んでいた。首を引く代わりに肩を前へ滑らせることで、刃が到達すべき一点そのものを人間の身体が持つ厚みと関節の遊びだけでずらしていたのである。


 速い相手への対処ではない。


 斬撃の「行き先」を知っている者の動きだった。


「おいおい、速いな。挨拶もなしかよ?」


 長身の男が楽しげに口角を上げた。黒緑の髪が風に流れ、琥珀に近い黄緑の瞳が迫るアスカを獲物としてではなく採集前の珍しい標本でも眺めるように細められる。右肩から胸へかけて、外套の隙間から古代文字の刻印が浮かび上がった。


 Ⅳ-4。


 その数字は赤でも金でもなく、腐葉土の底から滲む湿った魔力のような黒緑に光り、グラド・バルムへ突き刺さった黒槍から伸びる魔力の脈と同じ色で男の腕へ絡みついていた。そこから伝わる魔力は生々しい。大地の奥へ伸びる根のようであり、傷口へ潜り込んで宿主の内側を食む虫のようでもあり、武器と術者の区別を曖昧にする気色の悪さがある。


 崖下で、とおるはその光を見て息を呑んだ。


「……あれ、まだ繋がってる」


 倒れたグラド・バルムの腹部に刺さった黒銀の槍から黒緑の脈が伸びている。魔獣の体内に残された魔力が少しずつ引き剥がされ、崖上の男へ送られている。とおるの目にはそれが傷口から生えた根のようにも見えた。いや、根という表現も優しすぎる。生命の最後の温度へ管を刺し、まだ“使える部分を吸い上げる何か”。道具ではないことは確かで、生き物の死へ寄生する術式に違いなかった。


「ミレイユさん、恐らくこの槍はグラド・バルムから魔力を吸ってます」


「見えているのか」


「はっきり全部じゃないですが。でも、槍から黒緑の線が……男の腕まで」


 ミレイユの表情が引き締まる。彼女も視認はできずとも魔力の流れに異常があることは感じ取っているらしい。剣の柄へ添えた手に力がこもり、低く抑えた〈白雷〉が足元へ細い光を散らした。


「アスカを追うぞ」


「崖を登るんですか?」


「当たり前だろう」


「徒歩で?」


「他に何がある」


「エレベーターとか」


「何だそれは」


「俺の世界にあった文明の優しさです」


「今はない。そうだ壁を出せ」


「すっかり便利な小道具ですね!」


 崖上では、戦闘がすでに次の段階へ入っていた。


 右端の小柄な影が笑い声とも息ともつかない音を漏らしながら、指のあいだから黒い杭を一本滑らせる。杭は落下せず、岩にも地面にも触れないまま空間へ食い込みながら見えない布を縫い留める針のように宙で止まった。首筋から鎖骨へ走る副刻印が、白と赤紫を交互に明滅させている。


 Ⅳ-7。


 赤紫の髪の一部に混じる白い房が風に揺れ、片目を覆う長い前髪の奥で黒に近い紫の瞳が子どものような無邪気さを帯びて輝いている。


 その視線を受けながら、アスカは不意に前へ出るのをやめた。


 直前まで喉元へ食らいつくように詰めていた間合いを、自ら手放す。


 右足を半歩だけ引き、続いて左足を滑らせる。


 跳び退いたわけではない。相手から逃げる者のように上体を浮かせることもなく、刀を前へ残したまま後退するような慎重ささえ見せない。ただ、足裏で岩肌を撫でるように重心を後方へ運び、長身の男とのあいだへ刀一本と、さらに半歩ぶんの空白を作った。


 男の黄緑の瞳が、わずかに細くなる。


 アスカは構わなかった。


 むしろ、その反応を待っていた。


 抜き身の〈緋燕〉を右手首だけで返す。


 朱色の火を帯びていた刀身が陽光を細く弾き、切っ先が一度だけ地面へ向いた。


 そして。


 左手が鞘を迎える。


 ちん、と。


 あまりにも小さな音を立てて、緋燕が鞘へ収まった。


 その場にいた三人の視線が、一瞬だけ刀へ集まる。


 戦闘の最中、それも今しがた殺すつもりで刃を振るっていた相手を前に、自分から得物を納めた。


 常識だけで考えれば不可解だった。


 仕切り直すため。


 降参するため。


 あるいは、距離を取って別の術式へ切り替えるため。


 そう解釈する余地はいくらでもある。


 しかしアスカにとって納刀は攻撃の終わりではない。


 始まりのための“初動”だった。


 抜かれた刀はすでに一つの答えを晒している。


 刃の長さや鋒が届く距離。


 手首を返したときの角度や腰の回転幅。


 肩が開いてから斬撃へ至るまでの時間。


 ほんの数合であっても、見ている者が優秀ならそれだけの情報から次の刃筋を予測できる。


 ならば一度、全部を隠せばいい。


 刃を鞘へ戻す。


 鋒を消す。


 どこから斬撃が始まり、どこへ向かい、どの瞬間に殺意が形を得るのか――相手が観測できる情報を鞘という細い暗闇の中へ押し込めてしまう。


 抜刀という行為は、その暗闇から答えが現れる一瞬だ。


 その一瞬まで、相手には正解が見えない。


 アスカの左手が鞘の位置を腰骨へ沿わせる。


 握り込んではいない。


 親指も鍔へ掛けない。


 右手に至っては柄から完全に離れ、指先をだらりと下げている。


 一見すればひどく無防備だった。


 だからこそ小柄な影の口元が楽しげに緩む。


 長身の男もまた、面白そうにアスカを眺めていた。


 しかし左側に立つ群青の女だけは違った。


 藍色の瞳が、アスカの手ではなく足元へ落ちる。


 右爪先。


 踵の浮き方。


 膝の向き。


 腰と鞘の距離。


 納刀した直後だというのに、アスカの身体から戦闘が終わった痕跡が一つも消えていないことをその女だけは拾い始めていた。


 右足は退いたために置かれているのではない。


 蹴るため。


 左足は身体を支えるためではなく、最初の加速で軸を入れ替えるため。


 鞘もまた腰へ固定されてはいない。左手首がほんのわずかに内側へ捻られ、刀を抜く瞬間、鞘のほうを後ろへ引ける角度に置かれている。


 剣を抜くのではない。


 刀身と鞘を、互いに逆方向へ走らせる。


 それだけで抜刀に必要な時間は、さらに削れる。


 そして何より。


 アスカ自身が、止まっていなかった。


 肉体は静止している。


 外套も風に揺れているだけ。


 呼吸すら穏やかに見える。


 けれど彼女の内側では、次の一太刀へ至るための位置が絶えず更新され続けている。


 男の右肩があと半寸上がれば、首。


 左脚へ重心が移れば、脇腹。


 黒緑の魔力が掌へ集まれば、腕ごと斬る。


 小柄な影が杭を投げるなら、その瞬間に男の死角へ入る。


 群青の女が解析のため視線を落とせば、その瞬間だけ三人の認識から自分の上半身が外れる。


 今ではない。


 まだ。


 ——あと少し。


 アスカは刀を抜こうとはしなかった。


 抜けるからこそ、抜かない。


 相手が何かを選ぶまで待つ。


 動けば斬る、という構えではない。


 動こうとした瞬間にはもう斬り終えている――その地点へ、自分の身体を静かに沈めていく。


「ねえ、縫っていい?」


 弾むような声が、横合いから飛んできた。


 あまりにも明るい。


 これから敵の四肢を封じようとする者の声音ではなかったし、命の奪い合いをしているという緊張もその一言には欠片ほども滲んでいない。珍しい玩具を見つけた子どもが目を輝かせ、仕組みを確かめたい一心で「これ、壊していい?」と尋ねる――そんな無邪気さだけを切り取ったような声だった。


 ――ズッ。


 耳障りな摩擦音とともに、黒い杭が横合いの虚空を穿った。


 小柄な影が、遊びの続きを始めるように人差し指を弾く。


 ぱちん。


 それを合図に、先ほどまで周囲の空間へ点々と突き刺さっていた杭が一斉に震え、互いを結ぶ何かが張り詰めた。そこに光はなく、魔力の軌跡すら注意して探さなければ見落とすほど希薄。それでもアスカの感覚には、何もないはずの空間へ無数の境界が引かれたことが皮膚を撫でる微細な圧力の変化として伝わってくる。


 〈杭〉は、ただ正面を塞いだのではない。


 肩の高さを斜めに断つ一本。そこを避けて上体を沈めれば、肘の軌道へ噛みつく二本目。さらに低い位置では膝を絡め取る線が待ち、身体を捻ってその隙間を抜こうとすれば今度は緋燕の鯉口へ引っかかる角度から別の線が走る。退けば踏み込みを失い、進めば身体のどこかを縫い留められ、刀を抜こうとすれば抜刀そのものを阻害される――ひとつひとつを避けることは難しくなくとも、回避した先に次の拘束が待つよう計算された粘つくほど執拗な配置だった。


 狙われているのは、肉体そのものではない。


 動作だ。


 肩、肘、膝、刀、足運び――人体が戦うために必要とする複数の可動点へ選択肢を被せ、どれか一つでも固定線に触れた瞬間にそこを起点として全身の運動を殺す。


 ――拘束型。


 アスカはそう判断した瞬間、自らの魔力を刃と身体のあいだに通す一本の芯へ凝縮した。


 彼女の剣術に、名前のついた〈型〉はない。踏み込みの位置や腰の角度、肩の開き、鯉口を切る拍子――そのどれもが、道場で反復されるような美しい順序に従っているわけではなかった。ただしそれは“無秩序”という意味ではない。重心がどちらへ倒れれば相手の視線が流れるのか。どの筋肉を先に緩めれば、斬撃より一瞬早く身体だけを相手の死角へ滑り込ませられるのか。呼吸と殺気をどの拍子で切り離せば、相手が感じ取った攻撃の始点と、実際に刃が走り出す瞬間を食い違わせられるのか。アスカが積み重ねてきたのは決められた動作の反復ではなく、そうした身体と認識のわずかな“ずれ”だった。


 ゆえに彼女にとって、剣を振るうとは腕で刃を走らせることではない。


 全身に生じる力の順序を組み替え、相手が「斬撃」と認識するより前にその結末だけを刃の届く場所へ運んでおくこと。


 足裏が地を押す力。膝が沈む力。股関節が重心を送り出す力。腰の捻りが背骨を駆け上がり、肩から肘が手首を経て鋒へ抜けていく力。本来なら一つの連鎖として繋がるはずのそれらを、アスカはあえて同じ拍子には重ねない。ある箇所だけを先行させ、別の箇所を遅らせながらときには途中で流れを折り返す。そうすることで目に映る身体の動きと気配から予測される刃筋——実際に斬撃が到達する場所とのあいだへごく小さな誤差を作り出す。


 ほんの指一本ぶん。


 ほんの半呼吸ぶん。


 けれど生死を分ける間合いでは、そのわずかな食い違いが相手の読みを致命的に狂わせる。


 アスカは剣を速くするのではない。


 相手が感じ取る“速さの基準”そのものを、身体の内側からずらすのだ。


 そして――その“ずれ”が、ひとつの臨界を越えた。


 かち。


 親指が鍔を押す。


 鯉口が、ほんのわずかに開いた。


 次の瞬間。


 ――シャッ。


 乾いた音が、空気を薄く切った。


 右手が柄へ触れたのと、刀身が鞘走りを始めたのと、アスカの身体が前へ出たのとでは、どれが先だったのか判別できない。朱色の火霊素が鞘の口から細く噴き、銀朱の刃が暗い鞘内から一気に陽光の下へ滑り出す。その軌跡は弧を描いたというよりもそこだけが風景から一枚の線を切り抜いたように鋭く、“見てから追う”にはあまりにも短かった。


 ――ヒュンッ。


 遅れて風が裂ける。


 刃が走ったあとに音がついてきた。


 抜いたのではない。


 鞘の中に押し込めていた殺意だけが、出口を見つけた瞬間に外へ飛び出した。


 左手は鞘を後ろへ引き、右手は刀身を前へ送る。その二つが互いに逆方向へ弾けたことで、緋燕は人間が腕で引き抜く速度ではなく鞘そのものから射出されたような鋭さで解き放たれる。


 朱の閃光が、一線。


 その直後。


 ――キィン。


 高く細い残響だけが、遅れて崖上へ残った。


 そこにはもう「抜刀」という途中経過はない。


 回転軸を足首に置けば刃は遅れ、膝へ移せば身体だけが先へ入り、腰を通さず背骨の奥で力を折り返せば抜刀の気配と斬撃の到達点を薄皮一枚ぶんずらせる。鞘から抜けるはずの刃はまだ完全には抜けきらなかった。にもかかわらず右膝の沈みや左肩の微細な送り、呼吸を止めるより短い間に生じた腰の捻転だけが先に喉笛へ向かって流れ、その流れを追うはずの〈緋燕〉の鋒はあえて半呼吸ぶん外側を滑っていた。


 それは、傍から見ればひどく歪な抜刀だった。


 斬るための身体が、斬撃へ向かって一斉に動いていない。


 足は踏み込もうとしているのに腰は残り、腰が回り始めた時には肩が逆方向へわずかに逃げ、肩から先へ伝わるはずだった力は肘へ届く直前で一度途切れている。にもかかわらず完全に死んだはずの運動は別の場所から拾い直され、背骨の捻りと手首の返しを経て、最後には一本の刃筋として収束していく。


 普通なら、力が逃げる。


 斬撃として成立しないはずの線。


 けれどアスカにとっては違う。


 力が逃げたのではない。


 逃がしたのだ。


 本来なら肩から肘へ、肘から手首へ、腰から膝へと途切れることなく伝わるはずだった運動を、自ら細かく分解し、固定線へ触れる直前で別の部位へ受け渡している。


 肩が止められるなら、肩を斬撃の起点にしない。


 肘の軌道を読まれているなら、肘が走るより先に手首へ仕事を渡す。


 膝を沈める位置が塞がれているなら、そこへ重心が落ちる前に足首の回転で身体を半寸だけ流す。


 一つの動作として完成させない。


 完成する寸前で崩し、崩した運動を別の場所で拾いながらまた次へ渡す。


 斬撃を一本の流れとして見れば、それは何度も途切れていた。


 しかし、途切れるたびに別の場所から始まっている。


 川を堰き止められたなら、その場で水量を増して押し破るのではなく堰へ届く前に細い支流へ分け、別の場所で再び合流させる。アスカの身体が行っていることはそれに近かった。


 だから固定できない。


 罠が捉えようとしているのは、剣士が斬撃へ至るために必ず通過する“正しい連鎖”だ。


 肩が開けば、その先に肘が来る。


 膝が沈めば、その次に腰が出る。


 鯉口が切られれば、そこから刃が走る。


 そうした人体の構造上避けがたい順序を読み、その途中へ固定線を置くことで動作そのものを縫い留める。


 ならば――。


 アスカの指が、緋燕の柄へ触れる。


 剣を抜けば捕まるのではない。


 正しく剣を抜こうとするから、捕まる。


 肩を動かせば肩を取られる。肘を走らせれば肘を縫われ、膝を沈めれば膝を止められる。


 だったらそのすべてを本物の自分がやる必要など、どこにもない。


 罠が欲しがっているのは、抜刀へ至る一連の動作だ。


 ならば、くれてやればいい。


 肩を開く自分も。


 肘を走らせる自分も。


 膝を沈め、鯉口を切り、踏み込む自分も。


 狙われた動作だけを過去の自分にやらせて――そこへ置いてくればいい。


 アスカの左肩が、ほんのわずかに前へ出た。


 それを待ち構えていたかのように、黒い杭と杭との間に張り巡らされた不可視の固定線が一斉に収束する。


 ぎちり、と。


 獲物の骨へ牙を食い込ませた獣が顎を噛み締めるような、耳ではなく皮膚に伝わる軋みが空間を走った。術式は確かに対象を捉えたと判断し、前へ送り出された左肩を起点として、腕、胸郭、腰へ拘束を波及させようとする。一度そこまで絡みつけば、あとは全身の運動を奪いながら速度を殺し、黒と朱の身体を宙へ縫いつけるだけだった。


 ただし――術式が噛み締めたものは、肉でも骨でもなかった。


 半拍前。


 アスカが左肩を送り出した、その動作だけがそこに残っている。


 〈空蝉〉。


 過ぎ去った姿勢を空間へ置き去りにされた実体なきアスカの左肩へ固定線が食いつき、存在しない肉体を拘束したまま術式が閉じる。捕縛が成立したという結果だけは間違いなく返っている。だからこそ、杭は自分たちが騙されたことに気づけない。


 そのわずかな空白を縫い、本物のアスカは肋骨一枚ぶんだけ身体を薄く畳んだ。


 大仰に身を捻ったわけではない。


 肩を引けば刃筋が鈍る。腰だけを逃がせば踏み込みが死ぬ。ゆえに彼女は抜刀へ繋がる運動そのものを捨てることなく、身体の内側にある回転軸だけを移した。右足首から脛へ通っていた力を膝の内側へ逃がし、そこから骨盤の奥へ滑らせ、通常なら腰から肩へ抜けるはずの捻転を背骨のさらに深いところへ潜り込ませる。


 ほんの数センチ。


 だがその数センチだけ、今のアスカと固定線が捕らえたアスカは別人になった。


 不可視の牙は、もう終わった動作へ食らいついたまま――現在の彼女を見失う。


「あれ、捕まえたのに」


 右側の小柄な影が、ぱちりと目を丸くした。


 赤紫色の前髪に片目を隠した顔には、失敗した者が浮かべる苛立ちも、眼前まで迫った刃への恐怖もない。それどころか、仕留め損なったという焦燥さえ希薄だった。初めて触れた玩具を弄ってみたら、予想していたものとはまるで違う音が鳴った――その意外さを純粋に面白がっているような声の弾み方が、かえって人間らしい危機感の欠落を際立たせる。


 対して左側に立つ細身の女には、そうした反応すらなかった。


 中央に立つ黒緑の髪の長身の男のように笑わない。


 小柄な影のように、面白がりもしない。


 深い群青へ雪を溶かし込んだような長い髪を首の後ろで低く束ね、澄み切った藍色の瞳だけを静かに動かしている。その視線が追っているのは迫ってくるアスカの顔でも、抜かれた〈緋燕〉の刃先でもない。


 足跡。


 地表に残った熱。


 疾走によって押し退けられ、いまだ戻り切っていない空気の流れ。


 踏み潰された草が倒れている方向。


 そして、〈空蝉〉の発動地点ごとに微妙な差を見せる火霊素の濃淡。


 人間なら無意識にひとつの動きとして認識するはずの痕跡を、その女だけは一度ばらばらの情報へ解体し、拾い上げた断片同士を頭の中で組み直している。


 衣の隙間から覗く左肩、その鎖骨へ連なる白い肌の上で、古代文字が静かに灯った。


 ――Ⅳ-2。


 青白い光だった。


 水底深くへ沈められ、陽の温度だけを失った硝子片にも似た冷たい輝きが細い文字列の輪郭をなぞっている。その印を見ていると、戦場で起こる出来事のすべてを感情から切り離し、悲鳴も、流血も、死さえも等しく標本へ変え、番号を振って棚へ収めるための刻印であるかのような錯覚を覚えた。


「……残響が多い」


 そこで初めて、細身の女が口を開いた。


 低い声だった。


 耳触りだけを拾えば、むしろ柔らかい。


 しかし、そこには聞き手へ寄り添うための温度が欠けている。傷口へそっと当てられた布に似ていながら、その目的は痛みを和らげることではなく、染み出した血の量から傷の深さを正確に測ることだけ――そんな用途だけが存在する柔らかさだった。


「シッ――」


 アスカが、歯の隙間から短く鋭い息を吐いた。


 同時に右足の爪先が崖縁へ食い込み、風雨に削られて脆くなった岩肌を容赦なく抉る。


 白い石粉が薄霧のように舞い上がった。


 その奥で朱色の火霊素が弾け、散った一粒一粒が石粉を内側から照らし出す。踏み込みによって沈んだ膝が身体を支え、捻られた腰が力を溜め、背骨の奥へ逃がしていた回転がここでようやく右腕へ戻ってくる。


 すでに〈緋燕〉は鞘を離れていた。


 その抜刀に「最初から一つだけの斬撃目標」があったわけではない。


 むしろ逆だった。


 一太刀の中に、相手が選び得る防御をいくつも仕込んでいる。


 最初に鋒が走ったのは、中央に立つ長身の男の喉笛。


 速い。


 しかも、露骨だった。


 避けなければ頸動脈ごと首を断たれる――そう理解させるには十分すぎるほど明瞭な殺意を乗せ、銀朱の刃が頸部へ向かって一直線に迫る。


 だからこそ、それは本命ではない。


 首を引く。


 顎を落とす。


 腕を上げる。


 後ろへ退く。


 どれでもいい。


 人間である以上、喉元へ刃が迫れば身体は生存のために何らかの選択をする。


 アスカが斬ろうとしているのは、その選択の先だった。


 男の意識が喉へ吸い寄せられた瞬間、〈緋燕〉の鋒がわずかに沈む。


 ほんの数度。


 斬撃を別物へ変えたと呼ぶには小さすぎる角度だったが、それだけで刃の行き先は頸部から左鎖骨へ移り、骨の表面を削ぎながら肩の可動域を奪う斬路へ切り替わる。そこへ防御が下りてくれば、今度は手首の返しひとつで刃をさらに落とす。


 鎖骨。


 胸筋。


 胸骨の縁。


 そのさらに下――肋骨と肋骨との間。


 人体の構造に沿って、一本の細い道が続いている。


 首を守れば、肩が開く。


 肩を守れば、胸が空く。


 胸を閉じれば、腕のどこかが遅れる。


 何を選んでも、その次に斬れる場所が残るように。


 〈緋燕〉は最初から、ひとつの軌道を走ってはいなかった。


 相手がまだ選んですらいない防御のその先にある肉まで見越して――銀朱の刃は最も狭く、最も深い斬路へ滑り込んでいった。


 それでも、黒緑の髪を風に揺らす長身の男は笑みを崩さなかった。


 むしろ興味深いものでも差し出されたかのように右手を開く。


 遥か眼下、グラド・バルムの腹へ深々と突き立った黒銀の槍から伸びていた黒緑の脈が、その仕草へ応じるように大きく脈動した。


 一本だったはずの魔力の流れが途中で幾筋にも枝分かれし、根の束とも、引きずり出された血管の塊ともつかない異様な形を取りながら崖上まで這い上がってくる。それらは男の前腕へ生き物のように絡みつき、黒灰色の外套の隙間から覗いた皮膚の上では、刻み込まれた〈Ⅳ-4〉の紋様が、夜露に濡れた苔を暗がりの底で見たときのような湿り気を帯びた鈍い緑光を灯し始めた。


 瀕死の魔獣から汲み上げた力が、掌の中で形を変えていく。


 槍ではない。


 盾でもない。


 防ぐための面を作るわけでも、斬撃を押し返すための硬質な武器へ変わるわけでもなかった。


 緋燕の鋒が男の胸元へ届く――その、まさに寸前。


 開かれた指のあいだから伸びていた黒緑の根が、不意に左右へ裂けた。


 中心部に、ぽっかりと暗い空洞が生まれる。


 整然と組み上げられた術式というより、獲物が近づくのを待ち構え、いま初めて咽をひらいた肉食獣の口腔に近い。底は見えず、光を吸うほどの奥行きがある。輪郭だけが濡れたような魔力の脈に囲まれている。


 そして男はその暗い空洞を差し出すように、迫り来る斬撃へ右手を伸ばした。


 まるで宙を舞ってきた火の粉を、火傷することなど最初から考えていない指先で摘み取ろうとするような軽さで。


「へえ」


 楽しげな声が落ちた。


 次の瞬間、男は腕で刃を受けなかった。


 大きく後方へ退くこともしない。岩の縁へ置いた片足を支点として残したまま、肩でも首でもなく、腹の奥へ沈めた重心だけをわずかにずらす。厚い上体はほとんど動いていないように見えるのに、斬撃が通るべき芯だけが刃筋から外れていく。


 避ける、という言葉では少し違う。


 岩にぶつかった木の根が、無理に押し退けることも折れることもなく、その輪郭へ沿って勝手に伸びる方向を変えていく――そんな動きだった。


 遅い。


 少なくとも見た目だけなら、そう感じる。


 アスカの踏み込みと比較すれば、緩慢ですらある。


 にもかかわらず、緋燕が触れるはずだった場所には刃が到達する寸前になって空白だけが残った。


 ――なら、次。


 初太刀で首が落ちなかったのなら、二太刀目をそこへ置けばいい。


 アスカは振り抜いた緋燕を戻さない。


 戻す時間すら惜しいというように、一太刀目が終わった位置へ〈空蝉〉をひとつ残し、現在の肉体だけを斬撃の延長線上から切り離した。


 半拍遅れて、過去の刃が走る。


 先ほどとまったく同じ斬線が、誰も握っていないはずの緋燕の気配を伴ってもう一度空間を裂いた。


 男の笑みが深くなる。


「それ、面白いな」


 横合いから黒い杭が二本、ほとんど間を置かず飛来した。


 投げたのは右側にいた小柄な影だった。


 今度の挙動には先ほどまで漂っていた遊びめいた余裕がない。逃げかけた獲物へ反射的に爪を立てる獣さながら、細い指が鋭く開いたかと思えば一方の杭はアスカの背後へ、もう一方は崖縁すれすれへ突き立てている。しかも狙いは単純な挟撃ではなかった。刀を振り抜いた直後にアスカの身体が通過するはずの空間と、次の踏み込みで必ず必要になる足元とを斜めに結び、後退のための余地と前進のための幅を一度に潰す配置――つまりどちらへ動いても捕まるように、戦場そのものへ逃げ道のない角度を縫い込んでいる。


 ほぼ同時に、左側の細身の女も短杖を持ち上げる。


 群青に灯った〈Ⅳ-2〉の刻印から光がほどけた。


 それらを最初から一つの像として見るのではない。音は音、熱は熱、魔力は魔力として切り分け、別々の資料として解析し、相互に照合しながら偽物を一つずつ切り捨てながら最後に本物だけを抽出する――そんな性質の波だった。


 群青の解析が、静かに押し寄せてくる。


 それでもアスカは二人へ視線を向けなかった。


 警戒していないからではない。


 むしろ、その逆だった。


 今ここで一度でも目を切れば、そのわずかな時間が致命的になると分かっているからこそ“見るという行為”そのものを捨てた。


 代わりに使ったのは、つい先ほど自分が残したものだった。


 振り抜かれた緋燕、その刃が空間へ刻み込んだ軌跡へごく少量の火霊素を流し込む。


 瞬間。


 一拍前に鋼が通過した場所だけが、遅れて朱色に灯った。


 刃そのものはすでに先へ進んでいる。にもかかわらず斬撃が存在していた軌道だけが細い炎の弧となって宙へ浮かび、まるで斬るという行為の亡霊だけがその場へ取り残されたように揺らめいた。


 そこへ、小柄な影の固定線が触れる。


 本来なら現在のアスカの肉体を縫い留めるはずだった見えない線が、彼女自身ではなく「そこに斬撃が存在した」という過去の痕跡へ噛みついた。


 朱色の炎が、一瞬だけ膨らむ。


 固定線が参照していた基準点が焼き曇り、きぃん、と耳障りな震えを残して捕縛座標を見失う。


 さらに左から押し寄せていた群青の解析波も、同じ瞬間に発生した熱量の跳ね上がりと残留魔力の乱れを拾い、それまで整然と積み上げていた情報の輪郭をごくわずかに濁らせた。


 欺き切ったわけではない。


 完全に無効化したわけでもない。


 通用するのは、せいぜい一瞬。


 足止めと呼ぶには短すぎ、術式を破ったと胸を張るには心許ないごく薄い空白。


 だが、その程度でよかった。


 二人の術式が長身の男とアスカのあいだへ割り込むより早く、その一瞬はすでに距離として使い切られている。


 間髪など、最初から存在していなかった。


 一太刀目の終わりが二太刀目の起こりへ食い込み、二太刀目を支えた足は着地を終えるより先に三太刀目の軸へ変わり、三太刀目を選ぶために捻られた腰は、そのまま四太刀目がどこから現れるかを隠すための影になる。


 斬る。


 潜り込む。


 押し崩す。


 位置を奪う。


 そのどれもが独立した技ではなかった。一つの動作が終わり切る前から次の選択へ侵食し、攻撃と移動、防御と牽制、その境目そのものがアスカの足元で溶けていく。


 長身の男の懐へ、アスカは深く飛び込んだ。


 さらに半歩。


 相手の呼吸が膨らむ余地へ、自分の身体そのものを押し込むように踏み込んでいく。


 本来なら、危険すぎる距離だった。


 確かに槍使いの内側へ入れば穂先は扱いづらくなる。しかしそれだけで安全になるほど長柄武器の使い手は甘くない。柄頭、肘、膝、肩、頭突き、足払い、そして体格差そのもの――長物を扱う者ほど、懐へ潜られたとき何を武器へ変えるべきか知っていなければ生き残れない。


 それでもアスカは離れなかった。


 距離を取れば、左右の二人が術式を差し込んでくる。


 ならば、狭くすればいい。


 他人の手が入る余地すらなくなるほどに。


 殺気も、体重も、緋燕の刃も、自分という存在のすべてを目の前の一人へ押し込み、外側から何かを差し入れるための空間そのものを最初から消してしまえばいい。


 アスカの左肘が跳ね上がった。


 狙いは、まだ完全な形を得ていない黒槍の柄元。


 同時に右膝を前へ滑らせ、長身の男が重心を逃がすための空間を先に塞ぐ。そのまま姿勢を低く沈め、伏せていた緋燕を地面から掬い上げるような軌道で斬り上げた。


 男は、笑ったままだった。


 その表情を崩さぬまま、ほんのわずかに半身を引く。


 黒緑の魔力が腕へ集まった。


 皮膚の外側へまとわりつくのではない。もう一本の骨格を体内へ無理やり生やすように絡みつき、筋肉を覆うより先にその奥へ濡れた根を食い込ませながら支えていく。


 あまりにも軽く、あまりにも無造作で。


 だからこそ危うい。


 刃を受け止めたようには見えなかった。


 ただ、緋燕の側面へ指を置いただけ。


 それだけだった。


 なのに、軌道が外れる。


 ほんのわずかに。


 けれど、確実に。


 甲高い金属音は鳴らない。


 火花も散らない。


 代わりに男の皮膚と鋼との間へ滑り込んだ黒緑の魔力が、濡れた根のように刃へ絡みつき、緋燕が持っていた勢いの一部を吸い上げる。


 奪われた力はそこで止まらない。


 刃筋へ沿ってぬるりと滑り、斬撃の向きそのものを横へ押し流していく。


 弾いたのではない。


 受け止めたのでもない。


 斬撃をいったん呑み込み、その中から都合の悪い方向だけを選り分け、別の場所へ吐き捨てている。


 そんな感触だった。


 アスカの眉間が、ほんのわずかに寄る。


 気持ちが悪い。


 技巧としてではなく、生理的に。


 それを〈防御〉と呼ぶには、あまりにも不潔だった。


「いいねえ。ずいぶん積極的な女だ」


 長身の男が笑う。


 その横から、小柄な影が再び杭を構えた。


「ねえ、縫っていい?」


「邪魔」


 声と同時に、アスカが足元へ置き去りにしていた〈空蝉〉が朱に燃えた。


 火そのものが走ったわけではない。


 そこに残されていた“過去の踏み込み”だけが、突然真横へ跳ねた。


 靴底が土を蹴る乾いた音。人ひとりが駆け抜けたと錯覚するだけの熱。疾走する身体が押し退けたはずの空気の揺らぎ――肉体だけを欠いたアスカの残響が、小柄な影の眼前へ一息で飛び出す。


「うわっ」


 反射は、思考より速い。


 黒杭の先端が偽物へ引かれ、狙いがわずかに外側へ流れた。


 その一瞬を、左側にいた群青の女は逃さない。短杖を傾け、今度こそアスカの動線へ援護術式を差し込める角度を探し始める。視線が肩口から足元へ滑り、踏み跡へ落ちながら〈空蝉〉の残響と本体の重心を見分けようと細く絞られた。


 けれど、読み切るより先に。


 長身の男が、その射線へ入った。


 群青の女の視界が、男の背中で塞がれる。


 アスカが腕力で押し込んだわけではない。


 斬るために生じさせた圧力。


 逃げ道を一本ずつ潰していく足運び。


 緋燕の間合いから外れるために要求される、最小限の回避。


 そのすべてへ男が応じ続けた結果、自分でもっとも身体を動かしやすく、もっとも攻撃へ転じやすく、そして何より――本人が一番楽しめる場所へ自然と足を運んでいた。


 結果だけ見れば、偶然に近い。


 けれどアスカにとっては違う。


 二人のあいだには外から術式を差し込もうとしても、その余白を見つけることすら難しいほど細く狭い戦場が出来上がっていた。


 右の小柄な影を外へ追いやる。


 左の解析役には射線を与えない。


 そして中央の男だけを、緋燕が確実に届く距離へ閉じ込める。


 ここまで踏んだすべての足。


 置いた〈空蝉〉。


 わざと見せた隙。


 半歩ずつ削ってきた逃げ道。


 その全部が、この形を作るために選んだものだった。


 なのに。


 目の前の男は、追い込まれた人間の顔をしていない。


 むしろ自分から望んでここへ入り込んだとでも言いたげに、子供のような喜色を浮かべていた。


「いいぜ」


 声が弾む。


 男の片手へ黒緑の魔力が渦を巻きながら集まり、散らばった粒子が骨格を持つように伸び、やがて一本の槍として輪郭を結び始める。


「相手してやるよ!」


 外套の奥。


 胸元に刻まれた〈Ⅳ-4〉が、どくん、と脈打った。


 グラド・バルムの腹へ突き刺さったままの黒銀の槍から伸びる黒緑の根が、その鼓動へ呼応するように一度、大きく震える。


 吸い上げる。


 こちらへ流す。


 使う。


 足りなければ、また奪う。


 それは術式というより、すでに男自身の循環器官へ組み込まれた機能に近かった。肺が空気を取り込み、心臓が血液を送り出すのと同じ自然さであの男は他者の命から力を抜き取り、それを自分の戦闘へ変換している。


「手ぇ出すなよ」


 完成した黒槍を片手でくるりと回し、男は背後の二人へ肩越しに告げた。


「こいつはもう、俺の獲物だ」


 その単語を聞いた瞬間、アスカの目がわずかに細くなる。


 ――獲物。


 一対一の形へ持ち込んだのは、自分だ。


 邪魔になる二人を外へ弾き、援護術式の角度を潰し、誰にも割り込ませず、この男の命へ緋燕を届かせるための空間を作ったのもすべてアスカ自身の判断だった。


 それなのに。


 男はまるで同じ場所へ自分の意思だけで辿り着いたかのように笑っている。


 追い詰められた結果、仕方なく一対一になったのではない。


 面白そうだから、自分から一対一を選んだ。


 そう言わんばかりの声音だった。


 そこには、グラド・バルムを射抜いたときと何ひとつ変わらない軽さがある。


 命を奪うことも。


 奪った命から力を啜ることも。


 自分の喉元へ刃が届くかもしれないことさえこの男にとっては同じなのだ。


 退屈を散らすための刺激。


 少し珍しい遊び。


 それ以上でもそれ以下でもない。


 その軽さが。


 腹の底で抑え込まれていたアスカの怒りを、今度は燃え上がらせるのではなく、さらに深く、さらに冷たい場所へ沈めていった。


 緋燕の刃を、朱色の火が這う。


 細い炎だった。


 音もない。


 揺らぎも少ない。


 それでもその熱だけは――先ほどまでとは明らかに違っていた。


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