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第40話 最初に教えられたのは



 アスカ・カグラードは、物心がついた頃から、気がつけば刀を握っていた。


 それは天から与えられた選ばれし才能というより、もっと土臭く、もっと生活に近い環境の問題だった。カグラード家の暮らしていた集落では、子どもへ玩具を与える前に刃物の向きと持ち方を教える。山と森と古い戦場跡に挟まれたその土地では野犬より大きな魔獣が家畜小屋へ鼻先を突っ込むこともあれば、冬を越せなかった獣が人里の灯りへ吸い寄せられることもあり、夜中に鐘が鳴った時、それが火事なのか魔獣なのか、人間の賊なのかを確かめてから起きるようではたいてい間に合わない。だからベルガント集落の子は早くから走り方を覚える習慣にあった。転ばない足の置き方を覚える。刃を抜く音を小さくする方法を覚える。血を見ても吐かない訓練を受ける。泣いている暇があるなら止血しろと叱られ、怖いなら目を逸らすなと背中を叩かれ、殺すなら一呼吸で済ませろと教えられる。そこには残酷さがあった。優しさもあった。生きる場所が刃物のすぐ横にあっただけで、誰もそれを特別だとは思っていなかった。


 アスカが最初に教えられたのは、「殺すな」ではない。


 「殺す理由を間違えるな」だった。


 腹を空かせた獣が村の子どもへ飛びかかるなら斬れ。病に侵され、群れへ戻せばさらに苦しむだけの魔獣なら、苦しみを長引かせるな。人を襲った賊が武器を捨てず、さらに誰かを刺すなら止めろ。その線を越えたものへ迷うな。迷いは刃を鈍らせ、鈍った刃は相手も自分も余計に傷つける。けれど、ただ通り道が重なっただけの獣を殺すな。怖いから殺すな。面倒だから殺すな。試したいから殺すな。遊びで命を切る者は、いつか自分の刃が何を守るためにあるのか分からなくなる。幼いアスカはその言葉を、集落の火番小屋で、膝の上に短い木刀を置いたまま聞いた。語ったのは父だったか、母だったか、あるいは何人もの大人たちの声が、長い年月の中でひとつに混ざってしまったのかもしれない。覚えているのは、煤の匂いと、乾いた手の重さと、灯火に照らされた刃の縁が赤く見えたことだけ。


 だから彼女にとって、殺意は怒りの別名ではなかった。


 殺意とは、結論である。


 目の前にいる相手が何をしたのか。これから何をするのか。放置すれば誰が死ぬのか。止めるにはどこを斬ればいいのか。生かして捕らえる余地はあるのか。足を止めるだけで済むのか。腕を落とす必要があるのか。首まで届かせるしかないのか。そうした判断が一枚ずつ重なり、最後に刃の向きが定まる。それがアスカの中でいう殺意だった。胸の奥で火が燃え上がることではない。叫び声で世界を赤く染めることでもない。余計なものが消え、道だけが残る。進むべき線。斬るべき線。殺してはいけないものと、殺さなければならないものを隔てる、ひどく細い線。


 今、その線は――崖の上へ伸びていた。


 グラド・バルムの腹を貫き、黒銀の穂先を赤黒く濡らしている槍を目にした瞬間、アスカの胸の奥でそれまでとは種類の違う何かが火を持った。それは派手に噴き上がって視界まで赤く染める炎ではなく、喉を裂く怒号を伴う激情ですらない。炉の最奥で灰を被った炭が外見をほとんど変えぬまま、触れれば骨まで焼き切るほどの熱だけをひそやかに蓄えていくような、低く、重く、逃げ場のない熱だった。腹に宿した子を守るため、あの母獣は地面へ縫いつくようにして動かなかった。だからこそ殺す必要などなかったし、実際、自分たちは殺さずに済む方法を選び、少なくとも命まで奪わずにこの場を収めようとしていた。その選択の果てへ、姿すら見せず遠方から槍を投げ込み、急所を正確に射抜いたうえで身重の巨体を苦痛ごと地面へ叩き伏せた者がいる。追い詰められた末の行為ではない。身を守るためでもなければ、誰かを救うためでもなく、まして討伐を強いられる状況でもなかった――殺さなくていい命を、殺せるというだけの理由で殺した。その一点が、アスカには何より許し難かった。


 緋燕の柄へ添えた指先に、ごくわずかに力を込め、アスカは肺の底に残っていた息を細く吐き出す。


 それだけで、頭の中を占領していた余計なものがひとつずつ剥がれ落ちていった。


 服務規定。帰還後の説教。始末書じみた報告書。内容を聞いた途端に深くなるであろうミレイユの眉間の皺。壁の人が浮かべる、呆れているのか感心しているのか最後まで判別できない妙な顔。ほぼ確定している残業。机の引き出しに残してきた飴の数。


 ――どうでもいい。


 それらすべてが意識の外へ押し流された途端、世界から音が減った。


 正確には、消えたわけではない。無秩序だった音と景色が一斉に意味を与えられ、必要なものと不要なものへ刃物で切り分けるように分類されていく。頬を撫でる風は正面から。左下の谷間では気流が渦を巻き、崖肌にぶつかった一部が上昇している。稜線を越える風は岩角に削られ、縁へ達したところでわずかに上へ跳ねる。その流れを受け、崖上に立つ黒灰色の外套が一定ではない間隔で膨らんだ。三人。中央は長身、投擲直後にもかかわらず重心の崩れが少なく、肩から腕にかけて薄い魔力の残滓が尾を引いている――槍を投げたのはあれだ。右の小柄な影は一度しゃがむように腰を落とした際に、足元へ何かを置いた。罠、術具、あるいは座標指定用の標。左に立つ女だけは動かず、こちらの人数ではなく配置を見ている。視線の運び方からして観測役。アスカの中で、それらはもう怒りを煽る景色ではなかった。点になり、線になり、やがて斬るべき場所へ至るための経路へ変わっていく。


 距離。高低差。足場の硬さ。遮蔽物の位置。敵影は三。射手一、観測役一、残る一名は拘束ないし設置型術式を扱う可能性が高い。


 崖上までの最短は、正面に広がる草地を一直線に抜け、途中の低い岩棚を足場にして身体を持ち上げ、二段目の斜面を蹴った勢いのまま縁へ飛び込む経路――速いが、その経路はあまりにも素直だ。向こうがこちらを観測している以上、最短経路は最初に潰されると考えるべきである。左へ振れば距離そのものは大きく変わらないものの、谷から吹き上げる風が足運びの音を崖上へ運び、斜面も脆い。ならば右。多少遠回りになる代わりに途中にある二つの岩陰で視線を切れる。最初の岩まで速度を見せ、そこで一度消える。相手の予測より二歩ぶん先へ進むが、三歩目では仕掛けない――待つ。四歩目にだけ火を混ぜ、加速の起点をずらす。崖下へ入る寸前に一つ目の〈空蝉〉を囮として残し、上から射撃が来るならそちらへ食わせる。本体は囮より半歩遅く踏み込み、射線が固定された瞬間に別角度から斜面を取る。


 そこまで組み上げるのに、長い時間は必要なかった。


 怒りは消えていない。むしろ先ほどより深い場所で燃えている。


 けれど――“敵”と定めた相手を殺すための計算だけは、恐ろしいほど静かだった。


「アスカ、待て!」


 背後から飛んできたミレイユの声が、草原を渡る風を裂いてアスカの背へ追いつく。


 届いている。聞こえてもいる。そしてその声が誰のもので、何を命じているのかまで正確に理解したうえで――アスカは返事をしなかった。


 次の瞬間、足が地面を離れた。


 黒と朱の外套が、弾けるように翻る。


 最初の一歩には、ほとんど音がなかった。踏み込まれた草の穂先が遅れてわずかに伏せ、靴底から零れた朱色の火霊素だけが、細い燐光となって地表を舐める。二歩目で腰が沈み、上体が獣じみた低さまで落ちたかと思えば、三歩目には溜め込まれていた力が一息に解放され、加速そのものが一段階跳ね上がった。それは人間が助走を始めたというより、限界まで引き絞られた弦から、狙いを定め終えた矢がようやく解き放たれた瞬間に近い。紅椿式強襲外装、その腰部から八枚に分かれて垂れる装甲布が疾走する脚へまとわりつくことなく一斉に外側へ開き、黒い残像の奥では、刻まれた赤い椿紋が呼吸するように明滅する。緑一色だった草原の上へ朱の火花が点々と穿たれ、その一つひとつが消えるより先に、アスカの姿は次の地点へ移っていた。


「速っ……!」


 とおるの声が、背後で見事にひっくり返った。


 無理もない。


 アスカの厄介さは、単純な脚力や瞬間的な加速だけでは説明できない。何より面倒なのは、見えている動きと、実際に選んでいる進路が一致しないことだった。


 正面の崖へ一直線に向かった――そう見えた次の瞬間には、踏み跡だけがいつの間にか右へ流れている。ならば右側から迂回するのかと視線を振れば、黒と朱の身体はすでに低い岩棚の陰へ滑り込み、その輪郭を完全に消していた。ところが、姿が消えたはずの岩陰から一拍遅れて足音だけが飛び出し、本人より先へ行くように斜面へ向かって駆けていく。とおるが慌てて目で追えば、肉眼で捉えているアスカと、耳が認識しているアスカと、魔力感知に引っかかるアスカの位置が、まるで最初から別人だったかのように少しずつ食い違い始めた。


 非常に迷惑なことに、本人確認書類を三種類まとめて突きつけられた挙げ句、顔写真は全部同じなのに住所だけが微妙に違っている――だいたい、そんな状況だった。


 ――〈空蝉〉。


 自身が過去に行った動作、その痕跡だけを短時間、空間へ置き去りにするスキル。


 アスカは速度を緩めるどころか、走るという一連の動作そのものを利用して、自分が「そこにいた」という事実を戦場の各所へ切り離していく。最初の岩陰に一つ。背の低い灌木を掠めた場所に、もう一つ。そして崖下へ続く斜面、その入口へ三つ目。残された場所には本人の肉体など欠片も存在しないにもかかわらず、踏み込んだ靴底の音があり、駆け抜けた身体の熱があり、つい先ほどまで人間が確かにそこにいたと錯覚させるだけの気配と魔力の残響がある。敵の索敵術式がそれらを一つでも拾えば、その瞬間、術式の中でアスカという存在は二人になり、三人になり、やがてどれが現在なのかを判別できない数にまで増殖していく。


 しかも、残像を見せているだけではない。


 肉眼が追い続ける「現在」のアスカ。魔力探知が捕捉する「数秒前」のアスカ。足音だけを引き連れ、あたかも今から踏み込むかのように錯覚させる「次の一歩」のアスカ。それぞれが同じ場所へ重ならないように彼女は走りながら意図的に時間と位置をずらし、ひとつの戦場へ複数の自分をばら撒いていた。


 追えば、遅れる。


 読めば、外れる。


 捕らえたと思った瞬間には――そこにいるのは、もう過去のアスカだ。



 崖の上で、それまで風景の一部のように佇んでいた三つの影が動いた。


 最初に身じろぎしたのは、中央の男だった。


 グラド・バルムを射抜いたばかりの右手を持ち上げ、指先に残った雫でも払うように二度——軽く振る。その仕草のどこを探してもあれほどの槍を投げ放った直後とは思えないほど疲労の色がなく、大型魔獣を一撃で仕留めた者にありがちな昂揚も、獲物の死を確かめようとする緊張すら見当たらない。退屈に任せて拾った小石を遠くへ放り、偶然にも道端の瓶を割ってしまった人間が「ああ、当たったのか」と口元だけで笑う――せいぜい、その程度の反応。ひとつの命を終わらせたという事実が、男の中には重さとして微塵も残っていなかった。


 けれどその一投が残したものは、まだ終わっていない。


 地に伏したグラド・バルムの腹、その奥深くまで食い込んだ黒銀の槍から何かが伸びていた。


 肉眼ではほとんど見えない。陽光を反す糸でもなければ術式にありがちな燐光でもなく、風に揺らぐ煙の類でもない。にもかかわらず、とおるの感覚だけはそれを見過ごすことを許してくれなかった。


 槍の根元から滲み出した黒緑色の魔力が、細い根のように空間を這っている。


 草原を渡る風など初めから存在しないかのようにその一本だけは不自然なほど真っ直ぐ崖上へ伸び、やがて中央の男の右腕へと繋がっていた。


「……なんだ、あれ」


 声にしたつもりだったが、喉から漏れたのは掠れた息に近かった。


 黒緑の線が一度だけ脈打つ。


 どくん、と。


 その瞬間にとおるには分かってしまった。


 倒れた母獣の巨体、そのまだ温かい肉の奥から土と岩盤の匂いを思わせる濃密な魔力がごっそりと引き剥がされる。グラド・バルムが長い年月をかけて体内へ蓄えたものなのか、あるいは生命そのものに結びついた何かなのかまでは判別できない。ただ、それが本来あるべき場所から無理やり抜き取られ、槍を根として黒緑の脈を通り、遠く離れた男の身体へ流れ込んでいく光景だけは嫌になるほど鮮明だった。


 ――違う。


 あの男は魔獣を殺しただけではない。


 殺したあとも、その命に口をつけている。


 とおるの喉が、ひゅ、と細く鳴った。


 理解したくなかった。あれほど巨大な魔獣を視認すら困難な距離から一撃で仕留める――その時点で、十分すぎるほど常識の外側にいる。それなのにあの槍は相手を殺したところで役目を終えず、死にゆく肉体の内側へ根を張ったまま残された力を持ち主のもとへ吸い上げ続けている。


 武器、という言葉がひどく似合わなかった。


 むしろあれは遠く離れた獲物へ突き刺すためだけに異様な長さへ伸ばされた、悪趣味な臓器の一部だった。


 そのとき草原を駆けていたアスカの足音が、ふっと消えた。


 一拍。


 まるで空白を挟むような静寂のあと、まったく別の場所から足音が響く。


 崖上の中央に立つ男が、そちらへ顔を向けた。


 そして――笑った。


 とおるの背筋を走った寒気は、黒銀の槍を見たときよりもむしろその笑みに触れた瞬間のほうが強かった。


 敵意ではない。


 自分へ迫る相手を脅威と認めた顔でもなければ、手強い敵を見つけた武人が歓喜しているわけでもない。ましてや命を奪った興奮に酔い痴れる狂人の笑みですらなかった。そこに浮かんでいたのは、道端で見つけた虫が予想外に面白い飛び方をしたからもう少し近くへ寄って観察してみよう――そんな無邪気と呼ぶにはあまりにも冷たく、残酷と呼ぶにはあまりにも軽い興味だけだった。


 命を奪った直後だというのに。


 次のターゲットが、自分を殺すつもりで向かってきているというのに。


 男にとってそのどちらにも大した違いはないらしい。


 走りながら、アスカの指が緋燕の柄を深く握り込んだ。


 かちり。


 鞘の内側で、刃がほんのわずかに鳴る。


 その硬質な音に引かれるように、記憶の底でとうに遠ざかったはずの火番小屋の灯りが揺れた。煤けた壁。薪の爆ぜる乾いた音。鉄瓶から立つ白い湯気。そして、炎の向こう側から何度も聞かされた飾り気のない声。


 ――殺す理由を間違えるな。


 昔は、その意味をすべて理解できていたわけではない。


 斬らなければ守れないものがある。殺さなければ止まらない相手もいる。けれど力を持っていることと、それを振るっていいことは同じではない。だから刃を抜く前に考えろ。何のために抜くのか。誰のために振るうのか。そして、その命を奪う以外に本当に道が残っていないのか。


 遠い昔の声は、今でもアスカの奥に残っている。


 だからこそ、分かった。


 あの男は――理由を間違えたのではない。


 最初から理由など持っていない。


 必要だから殺したのではなく、殺してはいけない理由がなかったから殺した。


 その違いは、アスカにとって決定的だった。


 ならば止める。


 止まらないのなら、斬る。


 そのために自分の刃を抜くことに、もう一片の迷いもなかった。


 崖の右端に立っていた小柄な影が、手の中から一本の黒い杭を落とした。


 だが、杭は地面まで落ちなかった。


 重力に引かれて半ばまで沈んだところで、不意にぴたりと止まる。岩にも土にも触れていない。にもかかわらずその鋭い先端は確かな手応えを得たかのように虚空へ食い込み、見えない巨大な布地へ針を通すような動きで空間そのものへ深々と突き刺さった。


 一本。


 少し離れて、二本目。


 さらにアスカの進行方向を塞ぐ位置へ、三本目。


 黒い点が崖下へ向かって斜めに並び、その配置を見た瞬間、とおるには意図が分かった。無造作に撒いているのではない。アスカが現在いる場所ではなく、この速度を維持したまま数秒後に到達する場所を割り出しながら逃げ道を狭めるように杭を置いている。


 そして杭と杭との間には、肉眼では捉えられない何かが張られていた。


 糸ではない。


 壁でもない。


 空間の一点と一点を強引に縫い留め、そこを通過しようとするものだけを捕らえる“見えない固定線”。


 触れれば、身体が引っかかる。


 一瞬でも足が止まれば、加速が死ぬ。


 速度を奪われた紅椿など、敵からすれば黒と朱で派手に塗り分けられた撃ってくださいと言わんばかりの的でしかない。


 それでも、アスカは止まらなかった。


 避けるために減速することも、罠の位置を確かめるために足を緩めることもしない。


 代わりに――自分の過去を、そのまま前へ走らせた。


 ぱちん、と。


 疾走の最中、アスカの指が一度だけ鳴る。


 直後、それまで崖下へ向かって一直線に駆けていたはずの足音が、本体から切り離された。


 ざっ、ざっ、ざっ――。


 誰もいない場所で草が踏み倒される。人影などないにもかかわらず地表を熱が駆け抜け、靴底が土を蹴る音だけが、まるで見えないアスカを乗せたまま黒い杭の列へ突っ込んでいく。


 固定線が、それを捕らえた。


 びん、と空気が震える。


 小柄な影の指先が、ほんのわずかに動いた。


 術式が「何かを拘束した」と判断したのだろう。


 たった一拍。


 罠が偽物へ噛みつき、自らの誤りを認識するまでのごく短い空白。


 アスカにはそれで十分だった。


 本物の身体が、半歩だけ軌道をずらす。


 わずか半歩。向かい合って会話をする距離なら、近づいたとも離れたとも呼べない程度の差でしかない。けれど刃と術式と殺意が交差する戦場では、その数十センチが生存圏と死地を分ける境界になる。


 偽のアスカを捕らえ損ねた固定線が遅れて収縮し、本物の肩口を狙うように虚空を薙いだ。


 届かない。


 ただし、完全には抜け切れなかった。


 ぴしっ、と乾いた音が走る。


 固定線の端が紅椿式強襲外装の垂布を掠め、その一枚を鋭く引き裂いた。


 黒い布片が風に攫われて宙へ舞う。


 アスカは振り返らない。


 視線どころか首すら動かさず、走り続けたまま裂けて離れていく垂布へ火霊素だけを送り込む。


 次の瞬間、宙を舞っていた黒が朱に染まった。


 ぼっ、と小さな炎が咲く。


 威力などない。人を焼くには弱すぎる。目眩ましと呼ぶにも光量が足りず、せいぜい一瞬、視界の端へ赤を差し込む程度――しかし人間の目は動くものと光るものを無意識に追う。


 一人から一瞬だけ視線を奪えればいい。


 それで充分だった。


 中央の男は、燃える布片を見て口元の笑みをわずかに深くした。


 右の小柄な影は、自らの杭が何を捕らえ損ねたのか確かめるように指を動かす。


 そして左側――青と白の入り混じった髪を持つ細身の影だけが、初めてそれまでとは違う角度へ顔を傾けた。


 その目を見た瞬間にアスカは理解する。


 こいつは、他の二人とは違う。


 喜んでいない。


 遊んでもいない。


 ただ――読んでいる。


 アスカの速度。歩幅。踏み込みの深さ。地面へ残された熱量。草が倒れた方向。風に対する外套の遅れ。〈空蝉〉が置き去りにした偽の足音と、本物の肉体が地面へ伝える荷重との差異。おそらく呼吸の間隔さえ拾えるものなら拾っている。崖上に立つ三人のうち、その青白い髪の影だけが戦場を戦場として眺めていなかった。


 あれにとって、ここで起きているすべては資料だ。


 人が傷つこうが魔獣が死のうが、それ自体には意味を置かない。悲鳴は感情ではなく反応として記録され、血は損傷の程度を測る指標となり、死さえも結果を示す一項目へ変換される。必要な情報なら拾い上げ、価値がないと判断すれば捨てる――そんな冷え切った視線が今、アスカの動きを一つずつ分解し始めていた。


 ――遅い。


 走りながら、アスカは胸の内だけで呟く。


 “自分のほうが速い”という意味ではない。


 理解を始めるのが遅いと、そう判断していた。


 こちらを命令も聞かずに感情的に飛び出してきた女だと思ったのなら、その認識を持った時点ですでに一手遅れている。


 紅椿の問題児が規則を破るのは、命令を聞いていないからではない。


 むしろ逆だ。


 誰より人の話を聞いている。


 命令が何を守るために存在し、何を避けるために定められ、その先で最終的に何を成し遂げようとしているのか――そこまで見えてしまうから、必要と判断した瞬間には命令という形だけを置き去りにして先へ行く。


 昔から、そうだった。


 子供の頃からアスカが見ていたのは、目の前で起きている出来事よりほんの少しだけ先にある場所だった。


 獣が牙を剥いた瞬間ではなく、その身体が次に飛びかかってくる場所。


 刃が振り上げられた位置ではなく、それが落ちて肉を断つ場所。


 火の粉が舞っている家ではなく、数十秒後に炎が回って逃げ道を塞ぐ場所。


 逃げ惑う人々そのものではなく、その中の誰かが判断を誤りながら立ち止まり、あと一歩遅ければ死ぬことになる場所。


 誰かが死んでしまった空間ではない。


 誰かが死ぬ――ほんの少し前の空間。


 だからアスカは現在だけを見ない。


 相手が今どこに立っているかより、その身体が次にどこを選ばざるを得ないかを見る。


 中央の男が二本目の槍を生み出すなら、投擲より先に肩が開く。


 左の青白い影が〈空蝉〉の仕組みをさらに解析するつもりなら、次に視線が落ちるのは残された足跡。


 右の小柄な影が固定線の穴を塞ごうと杭を追加するなら、杭が現れるより前に指が開く。


 結果には、必ず予兆がある。


 動作には、必ず始点がある。


 そしてまだ何も起きていない場所にも――何かが起きると決まった時点ですでに意味が生まれている。


 ならば。


 そこへ相手より先に行けばいい。


 アスカの右脚に刻み込まれた術式回路が、灼けるような熱を帯びた。


 黒い防護脚衣のさらに下、皮膚へ沿うように巡る術式へ朱色の火霊素が一気に流れ込み、細い光の筋となって足首から脛、膝、そして大腿へ駆け上がる。それは筋力を単純に強化するための術ではない。今まさに踏み込んでいる地点と、次に踏み込むと決めた地点――本来なら一歩という運動で埋めなければならない二つの座標を、ほんの一瞬だけ術式によって近づける。


 低い岩棚が迫る。


 アスカはそこへ右足を置いた。


 いや。


 “置いた”という表現さえ正確ではなかった。


 足が届くより一瞬早く、そこにはすでに彼女の足音が待っていた。


 その音へ自分の身体を追いつかせるように、靴底が岩を捉える。


 膝が深く沈む。


 腰が回る。


 蓄えられた力に引かれ、黒と朱の外套が一拍遅れて背後から追いついた。


 そして。


 かちり、と。


 緋燕の鯉口が、もう一度鳴った。


 崖まで、あと十歩。


 ただし、それは平地を歩く十歩ではない。


 正面には垂直に近い岩壁がそびえ、途中に足を置けそうな出っ張りはあるものの、どれも人間一人の体重をまともに受け止めるには心許なく、角度は登る者の膝と足首へ悪意を持って負荷をかけてくる。風は谷から吹き上がり、上には素性も能力も知れない三つの影が立っている。こちらは下で、相手は上。視線と射線、落下の危険や足場の自由度――戦いに必要な条件のほとんどが崖上の三人へ味方していた。


 とおるの常識で考えるなら、ここはいったん止まるべき場面だった。


 防御壁を作りながらミレイユと状況を確認し、できれば王都へ連絡を入れつつ増援が来るまで時間を稼ぐべき場面。深呼吸したあとに胃薬を二錠ほど飲み、ついでに帰宅願望と改めて真剣に向き合ってからそれでも必要なら登る――本来なら、それくらい慎重になってちょうどいい。


 アスカは、跳んだ。


 崖下の岩棚へ置き去りにしていた一つ目の〈空蝉〉が、彼女の動きに合わせて起動する。


 過去のアスカが踏み込んだ。


 実体を持たないはずの足音が岩肌を蹴り、そこへ現在のアスカの靴底が寸分違わず重なる。踏み込みが二重になった瞬間、ただの跳躍では届かない高さへ彼女の身体が一段押し上げられた。さらに斜面の途中へ仕込んでいた二つ目の〈空蝉〉が遅れて目を覚まし、数秒前に残された跳躍の痕跡が、今の彼女を下から突き上げるように支える。


 本人の脚力。


 右脚の術式回路を駆け巡る火霊素の推進。


 そして、過去に自分が踏み込んだという事実そのもの。


 三つの力が重なった刹那、黒と朱の影は重力に逆らうというより“重力が追いつく前に”崖の壁面を斜めへ駆け上がった。


 岩肌を走る、という表現は正しくない。


 あれは人間が走れる角度ではなかった。


 アスカは岩を足場にしているのではない。岩肌へ残しておいた一瞬前の自分の行動、その踏み込みの記憶を足場として使っている。自分がそこを通ったという事実をもう一度〈踏み〉直す。過ぎ去ったはずの時間を現在の靴底の下へ無理やり引き戻す。


 それこそが、〈空蝉〉の真価だった。


 右の小柄な影が慌てたように次の杭を刺す。


 黒い杭が虚空へ食い込み、崖上と崖下のあいだにある空中の位置関係を無理やり縫い留めようとする。


 中央の男の左手が動いた。


 グラド・バルムから吸い上げた黒緑の魔力が腕の周囲で根のように絡まり合い、次の瞬間には投擲に足る長さと鋭さを備えた新たな槍の輪郭へ変わり始める。


 左の青白い髪の影だけは、アスカ本人を見ていなかった。


 その視線は彼女の足元へ落ちている。


 いや、足元ではない。


 崖肌に残った熱。宙に置き去りにされた足音。ほんのわずかに遅れて揺れる外套の影。〈空蝉〉がどこへ置かれ、どの順番で起動し、どれが実体と重なるのか――その青白い瞳はアスカの肉体ではなく、彼女が戦場へ刻み込んだ時間の跡を読もうとしていた。


 よく見ている。


 だからこそ、まだ足りない。


 アスカは笑わなかった。


 怒りを露わにもしなかった。


 ただ、次の一歩へ必要なぶんだけ薄く息を吸う。


 崖上まで、三歩。


 一歩目は、過去。


 二歩目は、現在。


 三歩目は――まだ誰にも見えていない。


 空中で、アスカの姿がわずかにぶれた。


 残像ではなく幻影でもない。数秒前に置かれた踏み込み、今まさに崖を駆け上がる身体、そしてほんの少し先に予約された斬撃の始点。その三つが同じ視界の中で重なり、ずれ、再び重なり、どれが囮で、どれが本体で、どれが次に現れるはずのアスカなのか、崖上の三つの影の認識が答えを出すよりも早く黒と朱の外套が風を裂いて崖の縁へ届いた。


 中央の男の目の前。


 黒緑の槍が形を取り切るより早く。


 小柄な影の杭が、次の固定線を結び終えるより早く。


 青白い髪の影が、三歩目の意味に気づくより早く。


 ほんの一太刀。


 それだけで届く間合いに、アスカは立っていた。


 そこで初めて、彼女は口を開く。


「ねえ」


 声は、ひどく穏やかだった。


 燃え上がる怒りの熱も、勝利を確信した昂ぶりもない。昔、火番小屋の薄暗い灯りの下で聞いた、砥石の上を刃が滑る音よりもなお静かで、だからこそ抜かれる前の刃と同じくらい冷たかった。


「遊びは、終わりでいいよね」


 かちり、と。


 最後の留め金が外れる。


 緋燕が、鞘から抜けた。


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